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方々にご迷惑をおかけしていますが、少しずつ調子は上向きになっているようです。
それにしても今日は寒い・・・本当に2月!?という感じで。
2月と言ったら学校も始まって、たまに気温が30度台後半になって体育の授業がなくなったり学校が休みになったりするのもたまにあるんですが。おかしいなあ。
以前から書きたかった精神関係の話・・・を今日はしようと思って。
といっても自分自身が体験した病気ではないので、なかなか難しいのですが・・・
書きたかったのは摂食障害のことです。摂食障害にもいろいろあって、拒食症(正式には神経性無食欲症)や神経性過食症などあるのですが、また一つ一つの疾患について深く勉強したわけではないので摂食障害全般、特に拒食症中心にたまに疾患特有の話も交えていければと思います。
私が摂食障害のことを初めて聞いたのは8年生のLife Skillsの授業(保健だったり道徳だったり、例えば麻薬のこと、友達関係のこと、いろいろならう授業で、面白いときと面白くない時の差が激しい授業でした)である舞台を見たときでした。
その舞台は女性一人の舞台で、題材が摂食障害で。一人の女性が摂食障害に陥るまでを主人公の主観的な観点で描いた作品でした。
摂食障害を抱えるとどう感じるのか、周りがどうみえるのか、どういう行動をとってしまうのか・・・ということがビビッドに、そして(今振り返ってみると)正直に表現されていました。
題材が、というよりもその主観的な観点だからこそのいろいろが衝撃的で、でも今思うとなかなか患者さんの外に出ないような思いをストレートにはき出してくれるお芝居で。心に残っています。
そしてそれから1年しないくらいで私は最初の入院。
ティーンエイジャーセクションには鬱の子が多かったですが、おそらく次に多かったのが摂食障害を持っている子達だと思います。主に女の子ですが、男の子でもいます。
ティーンエイジャーセクションは一日のほとんどを患者さんみんなで過ごすので、そんな摂食障害を抱えた患者さん達と友達、そして患者同士として接する機会が多く・・・いろいろ見ました。
あの入院の頃のことを話すとき毎回言っているようですが、本当にみんな良い子で。
その体験がいつのまにか自分の心に根付いてこの病気に不確かながら特別な思いを抱くようになったのです。
(臨床なら若い人相手がいい、と思うのも摂食障害のことが心にひっかかっているから、というのが大きいようです)
摂食障害というと拒食症の場合は「食べない」「やせたい」、過食症の場合は「食欲がコントロールできない」「食べたものを戻す」などの症状が目立って知られていますが、実際はかなり!複雑な病気なのです。
発症期は主に思春期(でもそうでない人もいます)、先ほども書きましたが女性に起こる事が多い疾患です。
拒食症・過食症共に太ることを強く恐れ、やせたいという願望を抱き食事制限や過度の運動で体重を減らそうとします。カロリーを細かに計算したり、人に過度に食事を勧めたり、体形を気にして(太っていると思って)体の形がわからないような服を着ます(舞台でもこの3点は覚えています)。
過食症の場合はそのプロセスの中で衝動的に大食いし、そのことに自己嫌悪を抱き後に吐いたり、下剤で下そうとしたりするプロセスが繰り返されます。
摂食障害は(おそらく他の精神疾患と比べて直接的に)身体にも影響を及ぼします。
例えば消化器や腎臓に障害が出たり、脱水状態になったり、生理がとまったり。
吐き戻しを伴う過食症の場合胃酸で歯がぼろぼろになる、という話も聞いています。
精神病院に入院する際こういった身体への影響が大きいとICUでまず治療を行うことが必要になる場合もあるそうで。
摂食障害の身体の影響の話で一番有名なのがカーペンターズでヴォーカル担当だったカレン・カーペンター。彼女の死因は急性心不全ですが、長い間の摂食障害(拒食症+過食症)との闘病が大きく関わっていたと言われています。
症状自体は分かりやすい・・・というか周りの人にはっきりみえる摂食障害。ですがそのメカニズムには様々な要因が関わっています。
一番のキーは発症期が思春期であることでしょうか。
思春期になって、自立心が目覚めてくると自分のアイデンティティの認識があやふやになり、他の人の目や言うことを気にするようになります。例えば何気なく「太ってる」というようなことを言われて後に拒食症につながったり・・・
「歪んだ自己イメージ」は様々な精神疾患において重要な原因・症状となっていますが、摂食障害においては「自分の体が太って見える」という歪んだ認識につながります(しかも病院で拾ってきた手持ちのパンフレットには「やせればやせるほど自分が太って見える」と書いてあります)。
「太ってないよ、やせすぎだよ」と周りに言われてもお世辞か気をつかっていると感じてしまうのもこの歪んだ認知のなせる技で。ネガティブスパイラルにはまっていってしまうわけです。
そしてこの「歪んだ認知」に関わっていると最近声高に叫ばれているのがメディアの影響。
すらっとしたモデルさんやシンガー、女優さんがもてはやされテレビ、雑誌などにた頻繁に多く現れその肉体美を披露する中、さきほどのアイデンティティ・自己イメージがあやふやになって何か「理想」を見つけようとしている若い人がそんな半ば「非現実的な女性像」を理想とし、すがってしまうことが大きく関わっているそうで。
摂食障害と思春期という時代の特徴はまだあります。
思春期は第二次性徴に伴う急激な体の成長、心の成長、そして性や激情という本能の溢れ出により「感情にふりまわされる」「自分の感情をどうコントロールしたらいいか分からない」と感じる人が多くいます。(私にとってうつの始まりに関係するエレメントでもあります)
そんなときに「体重をコントロールする」「食欲をコントロールする」という目的を若干すり替えた代替行動で自分自信をコントロールしている気持ちになりたい、という思いと行動の結果摂食障害になってしまうこともあるそうです(カロリーの計算や体重の数値の増減などにこだわるのはこの現れと言われます。完璧主義で真面目、とか結果重視する性格だとこの傾向が顕著になったり)。
そしてさらに、思春期になり、急速に大人になってしまうような感覚に戸惑うのも珍しくありません。
まだ子供でいたい、小さくなりたいと思う無意識な願望が体重の減少(にともない「守ってもらえる」ようになること)、そして体重を減らすことで生理を止めること(聞こえほどトンデモではないそうです)で「子供でいよう」とする・・・という意味もあるそうです。
この場合親子の関係が(誤解を招きたくないのであまり間違ったことは言えないのでぼんやりと言わせてもらいますが)子の自立を助けるような性質の関係でない場合、そのねじれが摂食障害として現れることがたびたびあるようです。
摂食障害の闘病は常に自分との戦いです。食べなくちゃいけないことは自分の一部では分かってるけど、歪んだ認知がそれを妨げ、さらに食べた場合でも後で罪悪感を作り出したり。
ティーンエイジャーセクションではご飯を食べるときはみんな一緒なのですが、一般的な集団行動というよりも摂食障害の患者さんになんとか食べてもらえるための工夫もあると思います。
だいたい摂食障害の患者さんは普通のセミバイキングと違うものを食べてました。ちょっとつらそうだったりすることもあるけれど、「豆腐はヘルシーでいいよね」(ちなみに今ほどは豆腐がポピュラーじゃなかった時代)とか話したりもしました。あと栄養補給ドリンクで栄養を補ったりもしてました(その時に患者さんたちつらそうorまずそうに飲んでいた記憶があるので件のドリンクは未だに飲む気になれません)
もちろんうつの人と同じように、カウンセリングも治療の大切なエレメント。
どうやら摂食障害専門の精神医がいたみたいで、プラス栄養士さんとのセッションもあったようです。
そしてうつの患者さんもあるのですが家族療法で親御さん達と一緒にカウンセリングを受けたり。
そして同じく他の患者さんにもあるのですが学校に病院から通ってリハビリみたいのをしたり。
鬱や不安症が合併症としてあることも多いのでその治療もして。
思春期という時期がキーであっても、思春期が終わったら治るようなものではないらしいですし、命に関わる身体の合併症が起こったりするので本当に辛いのですが根気よく治療を続けるみたいです。
自分の思い出とか諸々とっぱらってみると、冷たく聞こえるかも知れませんが摂食障害は本当に興味深い疾患だと思います。精神疾患に関する本当にいろいろなエリア(対人関係、自己イメージ、身体、行動、発達、コントロール、などなど)が複雑に関連していて、人の心がどんなに複雑で、どんな要素が絡み合って機能し、問題が起きるんだろうというのが凝縮されていると思います。
ただやっぱりそう割り切れるわけもなく、自分の入院中の楽しい思い出、辛い思い出が原点となって今も自分を動かしながらかすかに甘酸っぱい感じを心の中に感じています。
でもやっぱり難しいことがたくさんあるので、摂食障害に関してはかなり勉強不足。最初に見た舞台みたいに素晴らしく表現された摂食障害についての作品もなかなかないかも、と思って探してませんし・・・
思い出が関わると浸っていたくなるのか行動が鈍り気味。今年はそれを改善しようと、なにか勉強して得たいと思います。
今日の一曲: セルゲイ・プロコフィエフ ピアノソナタ第2番 第2楽章
こないだ初見で弾いた曲です。このソナタは4楽章あって、そのうちで一番短いはずなのですが、初見だと一番難しく感じた曲です。
なにがそんなに難しいかというとプロコフィエフお得意の「あんまり意味があるように思えない手の交差」。
リストもやってたりするんですけど(彼はステージで魅せるのがお仕事なので視覚ファクターも取り入れてました)、プロコフィエフもなんか出くわします。
このソナタは以前書きましたプロコフィエフの自殺した親友シュミットホフのために捧げられています(ただその前に書かれています)が、同じくシュミットホフに捧げられたピアノ協奏曲第2番の第3楽章でも同じようなややこしいこと極まりない手の交差があります。
(プロコフィエフ自身難しいっていってる時点で地味に腹が立つ・・・?(笑))
いろいろ小難しいことはあるのですが、初見の時も「でもこれがプロコフィエフなんだよな~」というかむしろその難しさが快感、みたいに感じてしまって。ドMですよ(爆)
でもMっ気をそそられる何かがやっぱりこの曲にはあって。
聞くにも譜面を見るにもものすごくシンプルな曲ではあるのですが、弾いてみるとその最小限の、そして最適な量の資源の中にパーフェクトな構成があって「あ、この曲はこうでなきゃいけないな」と不思議と納得してしまい・・・
で、そのささやかな「完璧さ」がものすごく快感で、弾きながら(弾けてないのに)その納得と快感を同時に感じて、そこからよくわからないけれど「難しくても許しちゃう、むしろ難しくて良い」という気持ちに繋がるのです。
同時にこのどこをとってもプロコフィエフのステレオタイプみたいな感じ。
斬新じゃないけれど、陳腐でもない、「ああ、プロコフィエフだ」と落ち着く・・・みたいな。
そしてさっきのM的な気持ちになってるところにプロコフィエフの毒がたまらない(笑)
・・・となんだか若干ぶっとんだ紹介になってしまいましたが・・・
(そもそもこれは弾き手としての感覚であって、しかもこの曲を習得するごとに持続する感覚かもわかりませんし)
とるにたらないような楽章ですが、ちょっとだけひねっています。
この楽章がとるにたらなかったらぜひ第4楽章をどうぞ。そちらはもちょっとだけ仕掛けが混んでます。いつか紹介したいです。
それにしても今日は寒い・・・本当に2月!?という感じで。
2月と言ったら学校も始まって、たまに気温が30度台後半になって体育の授業がなくなったり学校が休みになったりするのもたまにあるんですが。おかしいなあ。
以前から書きたかった精神関係の話・・・を今日はしようと思って。
といっても自分自身が体験した病気ではないので、なかなか難しいのですが・・・
書きたかったのは摂食障害のことです。摂食障害にもいろいろあって、拒食症(正式には神経性無食欲症)や神経性過食症などあるのですが、また一つ一つの疾患について深く勉強したわけではないので摂食障害全般、特に拒食症中心にたまに疾患特有の話も交えていければと思います。
私が摂食障害のことを初めて聞いたのは8年生のLife Skillsの授業(保健だったり道徳だったり、例えば麻薬のこと、友達関係のこと、いろいろならう授業で、面白いときと面白くない時の差が激しい授業でした)である舞台を見たときでした。
その舞台は女性一人の舞台で、題材が摂食障害で。一人の女性が摂食障害に陥るまでを主人公の主観的な観点で描いた作品でした。
摂食障害を抱えるとどう感じるのか、周りがどうみえるのか、どういう行動をとってしまうのか・・・ということがビビッドに、そして(今振り返ってみると)正直に表現されていました。
題材が、というよりもその主観的な観点だからこそのいろいろが衝撃的で、でも今思うとなかなか患者さんの外に出ないような思いをストレートにはき出してくれるお芝居で。心に残っています。
そしてそれから1年しないくらいで私は最初の入院。
ティーンエイジャーセクションには鬱の子が多かったですが、おそらく次に多かったのが摂食障害を持っている子達だと思います。主に女の子ですが、男の子でもいます。
ティーンエイジャーセクションは一日のほとんどを患者さんみんなで過ごすので、そんな摂食障害を抱えた患者さん達と友達、そして患者同士として接する機会が多く・・・いろいろ見ました。
あの入院の頃のことを話すとき毎回言っているようですが、本当にみんな良い子で。
その体験がいつのまにか自分の心に根付いてこの病気に不確かながら特別な思いを抱くようになったのです。
(臨床なら若い人相手がいい、と思うのも摂食障害のことが心にひっかかっているから、というのが大きいようです)
摂食障害というと拒食症の場合は「食べない」「やせたい」、過食症の場合は「食欲がコントロールできない」「食べたものを戻す」などの症状が目立って知られていますが、実際はかなり!複雑な病気なのです。
発症期は主に思春期(でもそうでない人もいます)、先ほども書きましたが女性に起こる事が多い疾患です。
拒食症・過食症共に太ることを強く恐れ、やせたいという願望を抱き食事制限や過度の運動で体重を減らそうとします。カロリーを細かに計算したり、人に過度に食事を勧めたり、体形を気にして(太っていると思って)体の形がわからないような服を着ます(舞台でもこの3点は覚えています)。
過食症の場合はそのプロセスの中で衝動的に大食いし、そのことに自己嫌悪を抱き後に吐いたり、下剤で下そうとしたりするプロセスが繰り返されます。
摂食障害は(おそらく他の精神疾患と比べて直接的に)身体にも影響を及ぼします。
例えば消化器や腎臓に障害が出たり、脱水状態になったり、生理がとまったり。
吐き戻しを伴う過食症の場合胃酸で歯がぼろぼろになる、という話も聞いています。
精神病院に入院する際こういった身体への影響が大きいとICUでまず治療を行うことが必要になる場合もあるそうで。
摂食障害の身体の影響の話で一番有名なのがカーペンターズでヴォーカル担当だったカレン・カーペンター。彼女の死因は急性心不全ですが、長い間の摂食障害(拒食症+過食症)との闘病が大きく関わっていたと言われています。
症状自体は分かりやすい・・・というか周りの人にはっきりみえる摂食障害。ですがそのメカニズムには様々な要因が関わっています。
一番のキーは発症期が思春期であることでしょうか。
思春期になって、自立心が目覚めてくると自分のアイデンティティの認識があやふやになり、他の人の目や言うことを気にするようになります。例えば何気なく「太ってる」というようなことを言われて後に拒食症につながったり・・・
「歪んだ自己イメージ」は様々な精神疾患において重要な原因・症状となっていますが、摂食障害においては「自分の体が太って見える」という歪んだ認識につながります(しかも病院で拾ってきた手持ちのパンフレットには「やせればやせるほど自分が太って見える」と書いてあります)。
「太ってないよ、やせすぎだよ」と周りに言われてもお世辞か気をつかっていると感じてしまうのもこの歪んだ認知のなせる技で。ネガティブスパイラルにはまっていってしまうわけです。
そしてこの「歪んだ認知」に関わっていると最近声高に叫ばれているのがメディアの影響。
すらっとしたモデルさんやシンガー、女優さんがもてはやされテレビ、雑誌などにた頻繁に多く現れその肉体美を披露する中、さきほどのアイデンティティ・自己イメージがあやふやになって何か「理想」を見つけようとしている若い人がそんな半ば「非現実的な女性像」を理想とし、すがってしまうことが大きく関わっているそうで。
摂食障害と思春期という時代の特徴はまだあります。
思春期は第二次性徴に伴う急激な体の成長、心の成長、そして性や激情という本能の溢れ出により「感情にふりまわされる」「自分の感情をどうコントロールしたらいいか分からない」と感じる人が多くいます。(私にとってうつの始まりに関係するエレメントでもあります)
そんなときに「体重をコントロールする」「食欲をコントロールする」という目的を若干すり替えた代替行動で自分自信をコントロールしている気持ちになりたい、という思いと行動の結果摂食障害になってしまうこともあるそうです(カロリーの計算や体重の数値の増減などにこだわるのはこの現れと言われます。完璧主義で真面目、とか結果重視する性格だとこの傾向が顕著になったり)。
そしてさらに、思春期になり、急速に大人になってしまうような感覚に戸惑うのも珍しくありません。
まだ子供でいたい、小さくなりたいと思う無意識な願望が体重の減少(にともない「守ってもらえる」ようになること)、そして体重を減らすことで生理を止めること(聞こえほどトンデモではないそうです)で「子供でいよう」とする・・・という意味もあるそうです。
この場合親子の関係が(誤解を招きたくないのであまり間違ったことは言えないのでぼんやりと言わせてもらいますが)子の自立を助けるような性質の関係でない場合、そのねじれが摂食障害として現れることがたびたびあるようです。
摂食障害の闘病は常に自分との戦いです。食べなくちゃいけないことは自分の一部では分かってるけど、歪んだ認知がそれを妨げ、さらに食べた場合でも後で罪悪感を作り出したり。
ティーンエイジャーセクションではご飯を食べるときはみんな一緒なのですが、一般的な集団行動というよりも摂食障害の患者さんになんとか食べてもらえるための工夫もあると思います。
だいたい摂食障害の患者さんは普通のセミバイキングと違うものを食べてました。ちょっとつらそうだったりすることもあるけれど、「豆腐はヘルシーでいいよね」(ちなみに今ほどは豆腐がポピュラーじゃなかった時代)とか話したりもしました。あと栄養補給ドリンクで栄養を補ったりもしてました(その時に患者さんたちつらそうorまずそうに飲んでいた記憶があるので件のドリンクは未だに飲む気になれません)
もちろんうつの人と同じように、カウンセリングも治療の大切なエレメント。
どうやら摂食障害専門の精神医がいたみたいで、プラス栄養士さんとのセッションもあったようです。
そしてうつの患者さんもあるのですが家族療法で親御さん達と一緒にカウンセリングを受けたり。
そして同じく他の患者さんにもあるのですが学校に病院から通ってリハビリみたいのをしたり。
鬱や不安症が合併症としてあることも多いのでその治療もして。
思春期という時期がキーであっても、思春期が終わったら治るようなものではないらしいですし、命に関わる身体の合併症が起こったりするので本当に辛いのですが根気よく治療を続けるみたいです。
自分の思い出とか諸々とっぱらってみると、冷たく聞こえるかも知れませんが摂食障害は本当に興味深い疾患だと思います。精神疾患に関する本当にいろいろなエリア(対人関係、自己イメージ、身体、行動、発達、コントロール、などなど)が複雑に関連していて、人の心がどんなに複雑で、どんな要素が絡み合って機能し、問題が起きるんだろうというのが凝縮されていると思います。
ただやっぱりそう割り切れるわけもなく、自分の入院中の楽しい思い出、辛い思い出が原点となって今も自分を動かしながらかすかに甘酸っぱい感じを心の中に感じています。
でもやっぱり難しいことがたくさんあるので、摂食障害に関してはかなり勉強不足。最初に見た舞台みたいに素晴らしく表現された摂食障害についての作品もなかなかないかも、と思って探してませんし・・・
思い出が関わると浸っていたくなるのか行動が鈍り気味。今年はそれを改善しようと、なにか勉強して得たいと思います。
今日の一曲: セルゲイ・プロコフィエフ ピアノソナタ第2番 第2楽章
こないだ初見で弾いた曲です。このソナタは4楽章あって、そのうちで一番短いはずなのですが、初見だと一番難しく感じた曲です。
なにがそんなに難しいかというとプロコフィエフお得意の「あんまり意味があるように思えない手の交差」。
リストもやってたりするんですけど(彼はステージで魅せるのがお仕事なので視覚ファクターも取り入れてました)、プロコフィエフもなんか出くわします。
このソナタは以前書きましたプロコフィエフの自殺した親友シュミットホフのために捧げられています(ただその前に書かれています)が、同じくシュミットホフに捧げられたピアノ協奏曲第2番の第3楽章でも同じようなややこしいこと極まりない手の交差があります。
(プロコフィエフ自身難しいっていってる時点で地味に腹が立つ・・・?(笑))
いろいろ小難しいことはあるのですが、初見の時も「でもこれがプロコフィエフなんだよな~」というかむしろその難しさが快感、みたいに感じてしまって。ドMですよ(爆)
でもMっ気をそそられる何かがやっぱりこの曲にはあって。
聞くにも譜面を見るにもものすごくシンプルな曲ではあるのですが、弾いてみるとその最小限の、そして最適な量の資源の中にパーフェクトな構成があって「あ、この曲はこうでなきゃいけないな」と不思議と納得してしまい・・・
で、そのささやかな「完璧さ」がものすごく快感で、弾きながら(弾けてないのに)その納得と快感を同時に感じて、そこからよくわからないけれど「難しくても許しちゃう、むしろ難しくて良い」という気持ちに繋がるのです。
同時にこのどこをとってもプロコフィエフのステレオタイプみたいな感じ。
斬新じゃないけれど、陳腐でもない、「ああ、プロコフィエフだ」と落ち着く・・・みたいな。
そしてさっきのM的な気持ちになってるところにプロコフィエフの毒がたまらない(笑)
・・・となんだか若干ぶっとんだ紹介になってしまいましたが・・・
(そもそもこれは弾き手としての感覚であって、しかもこの曲を習得するごとに持続する感覚かもわかりませんし)
とるにたらないような楽章ですが、ちょっとだけひねっています。
この楽章がとるにたらなかったらぜひ第4楽章をどうぞ。そちらはもちょっとだけ仕掛けが混んでます。いつか紹介したいです。
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今日チェックしたら脱皮中のヤドカリさんがすっかりひからびて固くなっていました。
だめだったみたいです。
私たちが見る初めての脱皮、正しいことができず、助けることができませんでした。
遺影代わりに3匹一緒(?)の写真を一枚。
下に居る子です。
こうやっていつも「見てる」子でした。
ああすれば良かった、こうすれば良かったとついつい思ってしまうのは亡くなったこの子のためだけでなく、これから脱皮する他の2匹のためでもあり。
同じ事を繰り返さないよう、心に銘じています。
本当はブログに書きたいことが列を成してるんですが、今日は無理せず休むこととします。
気候・体のサイクルもあり(=きっと一時的なものですが)弱っていたので休もうとしたのですがどうも休めた気があんまりしなくて・・・明日から仕事ですが、あんまり無理はしないようにしたいと思います。
今日の一曲はおやすみです。
だめだったみたいです。
私たちが見る初めての脱皮、正しいことができず、助けることができませんでした。
遺影代わりに3匹一緒(?)の写真を一枚。
こうやっていつも「見てる」子でした。
ああすれば良かった、こうすれば良かったとついつい思ってしまうのは亡くなったこの子のためだけでなく、これから脱皮する他の2匹のためでもあり。
同じ事を繰り返さないよう、心に銘じています。
本当はブログに書きたいことが列を成してるんですが、今日は無理せず休むこととします。
気候・体のサイクルもあり(=きっと一時的なものですが)弱っていたので休もうとしたのですがどうも休めた気があんまりしなくて・・・明日から仕事ですが、あんまり無理はしないようにしたいと思います。
今日の一曲はおやすみです。
メルボルンは昨日から今日にかけて大雨。
地域によっては浸水したり、電車が止まったりなどもあったようです。
私もちょっと弱り気味。
もちろん気候だけが原因でなく・・・
そもそもまず「ECTは記憶を消す恐ろしい治療法」とかいう恐怖をあおる情報が流されてるのを見て怒って。
(このエントリーでも書いてますが、私の受けた最新のUltrabrief式の治療(どこでも受けられるわけではないそう)は、治療期間、治療のちょっと前の記憶がなくなる場合もありますが基本的に副作用は大分抑えられています。さらに、記憶障害はうつの症状の一つでもあるのでもしかしたらそっちのセンかも?という事も考慮しなければなりません。余談ですがリチウム服用は記憶関係の副作用が増えるといわれているのでECTの間は中止しましょう、と言われました。)
で、そこにまた心に辛いことがあっても自分や自分の心を変えればいい、というようなことを聞いてまた怒って。
うつ(またはその他心の問題)を「気の持ちよう」で済ませることがどうも許せない性質で。
「気の持ちよう」とか英語でいうと「Get over it」(おそらく心の問題に対しての英語での禁句ナンバー1ですね)とかいうのは苦しんでる人の苦しみを過小評価して、かつ自分が見えない状態に「自分が悪いのかな?」と思わせさらなる負担をかけるような考え方だと思うので・・・
もちろん生物学的な要因(脳内の化学物質のアンバランス)でうつになったり、そういう状態になりやすい人だっていますし、必ずしもその人の落ち度や怠慢ではないし、心の問題のみを解決するだけでどうにかなるものではない、と・・・(もちろんその人の努力も必要ですが、限度があるので外からは目に見えない場合が多いので外から言うことはない。)
特に長期の鬱状態などでネガティブスパイラルに入ってると原因にかかわらず心の状態と化学物質のアンバランスが相互影響を起こす場合があるので心理的な要素・生物学的な要素どっちも治療することが大切です。
そうやって精神疾患の徴候の発見が遅れたり、適切な・必要な治療が行われない例がたくさん存在することもいろんな場所で問題になってますしね。
自分が言われていやなことですし、私が病院や周りで見てきた苦しんでる人には絶対そういうこと思えない、思わないようにしてるのでどうしても気持ちが、その、ね。
怒りっぽいタイプではないんですが、怒りのツボがかなりピンポイントなわりに結構ネットでなど遭遇するツボなのでしょっちゅう怒ってるような気がします。一応怒りを抑えようとするんですが今回既にちょっと心がぐらついてたのとそれからも夢見が悪かったりちょっとずつ滅入ること続きでついつい1日その気持ちを引きずってしまいました。
実際こういう状態になるとあんまりできることってないんですよね。
あんまり自分の心持ちを変えて、無理に頑張ろうとするとかえって疲れて逆効果になりますし、まあ気候が関連してるならちょっとおとなしく休んでやりすごすしかない、という感があります。
なんかあったら精神医に連絡すれば早めにアポとれますし・・・といってもこういう場合はそれで解決するのも少ないような気がしますが、そのオプションがあることにまず安心。
私にとって精神医はピアノの先生と同じような立ち位置にあると思います。
いつだったかレッスンを不定期に先生に受け始めた頃先生が「誰だっていつでも自分の「耳」になってくれる人が必要だから」と言ってたのですが・・・
つまり、ピアノを自分で弾いてるとなかなか自分の演奏を(弾くのに忙しくて、主観の影響で)客観的に、外から聞くのは難しい。だからこそ先生が演奏を聴いて客観的な観点と専門的な知識(そして優れた感性、それから自分より多い人生経験も?)を持ってアドバイスをしてくれ、演奏をよりよくするために助けてくれる。
精神医もまた鬱やその症状などの影響で自分が見えなくなっているところに客観的な観点と専門的な知識をもってアドバイスをしてくれ、心をとりまく問題を話し合って解決していくなり、認知と行動を変えていくなり、薬を変えていくなり自分の状態をよりよくするために助けてくれる。
必ずしも誰もができることじゃないですもんね、精神医の仕事は。
もちろん他人の苦しみに共感しながら客観的で冷静で、その人の状態を良くするため考えをめぐらせられなければなりませんし、精神疾患の影響下にある人は思考やものの捉え方が歪んでいたり、「健常者」とは違った思考・感情・行動の範囲をとることが多いのでそういった症状の原因や表れ方、対処の仕方といった専門知識をもっている必要があります。
私の周りの人達も私自身も最初の時期は本当に私と私の病気の接し方に戸惑いました。でも「どこから専門家に任せるか」というのは患者さんと周りの人の戸惑いを軽減して関係のストレスを減らすうえで大切だと思います。
で、今思ったんですが「気の持ちようだ」と考えることのもう一つのリスクはその心の問題を「病気・または病気に繋がるポテンシャルがある問題」ととらえない事によって、もしもそういうことが周りの大切な人に起こったら自分が専門家になってしまおうとする、または自分の役割を超えてしまうリスクがあるんじゃないか、と思います。
ちょっとだけ話は変わりますが、いまこうやって↑のような思考を巡らせることができる程度の、あまり「ひどく」ない不調を感じていると逆にちょっとだけほっとします。
あんまり調子良い状態が続くと逆に現実味がない、ちょっと不安、そんな感じがするので。
精神疾患を長く患った人だけでなく、他のケースでもよくある現象だそうですが。
完全にコントロールを諦めているわけではないですが、こういう不調はある程度これからも起こるんだ、そう思ってます。悲観でもなんでもなくて、誰の心にだってたまにの不調はありますし、どうあがいても左右されてしまうことがある、そういう性質だと自覚しているだけです。
でもなんだかんだでピアノはやりました。
プロコフィエフのピアノソナタ第2番、借りてきておきながら「夏だし弾くのかな~」と思ってましたが今日はぴったり。自分の感情とシンクするところが少なからずあるので、冬になったらぜひ弾きたいと思います。きっと私の心の支えになるでしょう。
そしてクラムのマクロコスモス第2巻、今まで弾いた8つの楽章をアップライトピアノで弾ける分おさらい。
そっちも割とよかったです。タッチとかの勘もなかなか衰えていないですし、これからの分析・解釈が楽しみになりましたし。
第7楽章「Tora! Tora! Tora!」での最後のシャウトを初めて入れてみて(感情が不安定なのでむしろ抵抗が少なかったか?)一つの壁を越えたような気もしました。
そして最初の入院、ティーンセクションでみんなでつくったマガジンや退院の時に患者さん仲間にもらった手紙を引っ張り出してみたり、次の2回の入院の間プログラムでもらった資料やワークシートに目を通してみたり。
怒りに関してはこれが一番落ち着きます。私がメンタルヘルスの道を歩みたいと思ったのは最初の入院の思い出。本当に「心持ち」だけですまない苦しみがあることを思い出しますし、自分が本当に願っていることを思い出しますし、本当に私にとってのいろいろな原点で。
そして同時にうつや精神疾患についての正しい知識をみて自分がぐらつかないようにするのもありますし、自分の治療の過程を思い出して様々な治療と周りの人、専門家、同じ患者さんの支えがあったからこそ自分はここにいるんだ、ということを心に刻みます。
明日はもちょっとゆっくり休みます。(今日はちょっとだけ仕事もしたので)
でもピアノはやります(笑)
母が昨日MSNの映像通話で「あんまり無理しすぎないようにね」と言ってましたが、これもしも普通に国際電話だったら「あ、心配かけてるかも」と不要に気に病んだかもしれないです。どうしてかわからないですが映像があることで気に病まなかったような・・・
とにかく文明の利器にあらためて感謝。
きっと明日は大丈夫。あしたは前々から書こうとおもってた精神関係エントリーを書く予定です。
今日の一曲: ジョージ・クラム マクロコスモス第2巻 第7楽章「Tora! Tora! Tora! (Cadenza Apocalittica)」
声出し万歳!・・・でなくて。
タイトルから分かるように「真珠湾攻撃」が題材の一つ(唯一ではなく!)となっている曲です。
クラムはアメリカ人ですし日本人としては「あ、あの戦争の話を持ち出して」と思う方もいると思いますがクラムってなかなかそういう人ではないと思います。
副題の「Cadenza Apocalittica」のApocalittica = Apocalypse、つまり新約聖書「ヨハネの黙示録」に現れるこの世の終わりのことです。
政治とかそういうの抜きに、単にこの黙示録にある世界の終わりの火と恐れと力に満ちたイメージを真珠湾攻撃の空襲になぞらえている、と私は解釈しています。
実際次の楽章と合わせてみると作曲者のいいたいことは「Tora! Tora! Tora!」の方ではなく「Cadenza Apocalittica」の方がメインだということは明確。
で、弁明したところで。
本当に、色んな意味で爆発的な曲で。
カデンツァ・・・といったら確かにカデンツァ的ではあります。いろんなテクニックを駆使して、小節線に捕らわれず、怒濤のvirtuosoな世界を繰り広げます。
以前紹介した「Songs of the Riders」(Songs, Drones and Refrains of Death)と共通しているパッセージはきっと黙示録に出てくる騎士達、飛行機の旋回するような音、爆撃のような音・・・
ペダルは踏みっぱなしなので音量はさらに増幅!(笑)
で、最後に「トラ・トラ・トラ!」をピアニストが(弾きながら)叫ぶところがあって。
ちょっと恥ずかしいんですよね、集合住宅ですし(笑)あとこんだけピアノの音がんがんならしてて声聞こえる?という疑問もあり。
でもなんというか・・・クラムが使うと呪文的ですよね。むしろ彼が使う「何語でもない音節の繋がり」の性質に近いです。
この「呪文的」な言葉がまた彼が真珠湾攻撃を題材に使った理由の一つじゃないかな、と思います。だって好きそうですもん。
弾く方としてはいよいよ曲集のクライマックス直前、技巧も音量もセーブなしでがんがん突っ込める(奇襲!)のでエネルギーを大量に消費しながらもものすごく気持ちいい!
ただ弾く方としてはびっくりしてください(笑)!
できればこの楽章だけではなく、曲集全部・・・とはいかなくてもパート2、つまり5~8楽章をセットで聞いていただけるとこの曲の立ち位置が分かる、というか納得すると思います。
地域によっては浸水したり、電車が止まったりなどもあったようです。
私もちょっと弱り気味。
もちろん気候だけが原因でなく・・・
そもそもまず「ECTは記憶を消す恐ろしい治療法」とかいう恐怖をあおる情報が流されてるのを見て怒って。
(このエントリーでも書いてますが、私の受けた最新のUltrabrief式の治療(どこでも受けられるわけではないそう)は、治療期間、治療のちょっと前の記憶がなくなる場合もありますが基本的に副作用は大分抑えられています。さらに、記憶障害はうつの症状の一つでもあるのでもしかしたらそっちのセンかも?という事も考慮しなければなりません。余談ですがリチウム服用は記憶関係の副作用が増えるといわれているのでECTの間は中止しましょう、と言われました。)
で、そこにまた心に辛いことがあっても自分や自分の心を変えればいい、というようなことを聞いてまた怒って。
うつ(またはその他心の問題)を「気の持ちよう」で済ませることがどうも許せない性質で。
「気の持ちよう」とか英語でいうと「Get over it」(おそらく心の問題に対しての英語での禁句ナンバー1ですね)とかいうのは苦しんでる人の苦しみを過小評価して、かつ自分が見えない状態に「自分が悪いのかな?」と思わせさらなる負担をかけるような考え方だと思うので・・・
もちろん生物学的な要因(脳内の化学物質のアンバランス)でうつになったり、そういう状態になりやすい人だっていますし、必ずしもその人の落ち度や怠慢ではないし、心の問題のみを解決するだけでどうにかなるものではない、と・・・(もちろんその人の努力も必要ですが、限度があるので外からは目に見えない場合が多いので外から言うことはない。)
特に長期の鬱状態などでネガティブスパイラルに入ってると原因にかかわらず心の状態と化学物質のアンバランスが相互影響を起こす場合があるので心理的な要素・生物学的な要素どっちも治療することが大切です。
そうやって精神疾患の徴候の発見が遅れたり、適切な・必要な治療が行われない例がたくさん存在することもいろんな場所で問題になってますしね。
自分が言われていやなことですし、私が病院や周りで見てきた苦しんでる人には絶対そういうこと思えない、思わないようにしてるのでどうしても気持ちが、その、ね。
怒りっぽいタイプではないんですが、怒りのツボがかなりピンポイントなわりに結構ネットでなど遭遇するツボなのでしょっちゅう怒ってるような気がします。一応怒りを抑えようとするんですが今回既にちょっと心がぐらついてたのとそれからも夢見が悪かったりちょっとずつ滅入ること続きでついつい1日その気持ちを引きずってしまいました。
実際こういう状態になるとあんまりできることってないんですよね。
あんまり自分の心持ちを変えて、無理に頑張ろうとするとかえって疲れて逆効果になりますし、まあ気候が関連してるならちょっとおとなしく休んでやりすごすしかない、という感があります。
なんかあったら精神医に連絡すれば早めにアポとれますし・・・といってもこういう場合はそれで解決するのも少ないような気がしますが、そのオプションがあることにまず安心。
私にとって精神医はピアノの先生と同じような立ち位置にあると思います。
いつだったかレッスンを不定期に先生に受け始めた頃先生が「誰だっていつでも自分の「耳」になってくれる人が必要だから」と言ってたのですが・・・
つまり、ピアノを自分で弾いてるとなかなか自分の演奏を(弾くのに忙しくて、主観の影響で)客観的に、外から聞くのは難しい。だからこそ先生が演奏を聴いて客観的な観点と専門的な知識(そして優れた感性、それから自分より多い人生経験も?)を持ってアドバイスをしてくれ、演奏をよりよくするために助けてくれる。
精神医もまた鬱やその症状などの影響で自分が見えなくなっているところに客観的な観点と専門的な知識をもってアドバイスをしてくれ、心をとりまく問題を話し合って解決していくなり、認知と行動を変えていくなり、薬を変えていくなり自分の状態をよりよくするために助けてくれる。
必ずしも誰もができることじゃないですもんね、精神医の仕事は。
もちろん他人の苦しみに共感しながら客観的で冷静で、その人の状態を良くするため考えをめぐらせられなければなりませんし、精神疾患の影響下にある人は思考やものの捉え方が歪んでいたり、「健常者」とは違った思考・感情・行動の範囲をとることが多いのでそういった症状の原因や表れ方、対処の仕方といった専門知識をもっている必要があります。
私の周りの人達も私自身も最初の時期は本当に私と私の病気の接し方に戸惑いました。でも「どこから専門家に任せるか」というのは患者さんと周りの人の戸惑いを軽減して関係のストレスを減らすうえで大切だと思います。
で、今思ったんですが「気の持ちようだ」と考えることのもう一つのリスクはその心の問題を「病気・または病気に繋がるポテンシャルがある問題」ととらえない事によって、もしもそういうことが周りの大切な人に起こったら自分が専門家になってしまおうとする、または自分の役割を超えてしまうリスクがあるんじゃないか、と思います。
ちょっとだけ話は変わりますが、いまこうやって↑のような思考を巡らせることができる程度の、あまり「ひどく」ない不調を感じていると逆にちょっとだけほっとします。
あんまり調子良い状態が続くと逆に現実味がない、ちょっと不安、そんな感じがするので。
精神疾患を長く患った人だけでなく、他のケースでもよくある現象だそうですが。
完全にコントロールを諦めているわけではないですが、こういう不調はある程度これからも起こるんだ、そう思ってます。悲観でもなんでもなくて、誰の心にだってたまにの不調はありますし、どうあがいても左右されてしまうことがある、そういう性質だと自覚しているだけです。
でもなんだかんだでピアノはやりました。
プロコフィエフのピアノソナタ第2番、借りてきておきながら「夏だし弾くのかな~」と思ってましたが今日はぴったり。自分の感情とシンクするところが少なからずあるので、冬になったらぜひ弾きたいと思います。きっと私の心の支えになるでしょう。
そしてクラムのマクロコスモス第2巻、今まで弾いた8つの楽章をアップライトピアノで弾ける分おさらい。
そっちも割とよかったです。タッチとかの勘もなかなか衰えていないですし、これからの分析・解釈が楽しみになりましたし。
第7楽章「Tora! Tora! Tora!」での最後のシャウトを初めて入れてみて(感情が不安定なのでむしろ抵抗が少なかったか?)一つの壁を越えたような気もしました。
そして最初の入院、ティーンセクションでみんなでつくったマガジンや退院の時に患者さん仲間にもらった手紙を引っ張り出してみたり、次の2回の入院の間プログラムでもらった資料やワークシートに目を通してみたり。
怒りに関してはこれが一番落ち着きます。私がメンタルヘルスの道を歩みたいと思ったのは最初の入院の思い出。本当に「心持ち」だけですまない苦しみがあることを思い出しますし、自分が本当に願っていることを思い出しますし、本当に私にとってのいろいろな原点で。
そして同時にうつや精神疾患についての正しい知識をみて自分がぐらつかないようにするのもありますし、自分の治療の過程を思い出して様々な治療と周りの人、専門家、同じ患者さんの支えがあったからこそ自分はここにいるんだ、ということを心に刻みます。
明日はもちょっとゆっくり休みます。(今日はちょっとだけ仕事もしたので)
でもピアノはやります(笑)
母が昨日MSNの映像通話で「あんまり無理しすぎないようにね」と言ってましたが、これもしも普通に国際電話だったら「あ、心配かけてるかも」と不要に気に病んだかもしれないです。どうしてかわからないですが映像があることで気に病まなかったような・・・
とにかく文明の利器にあらためて感謝。
きっと明日は大丈夫。あしたは前々から書こうとおもってた精神関係エントリーを書く予定です。
今日の一曲: ジョージ・クラム マクロコスモス第2巻 第7楽章「Tora! Tora! Tora! (Cadenza Apocalittica)」
声出し万歳!・・・でなくて。
タイトルから分かるように「真珠湾攻撃」が題材の一つ(唯一ではなく!)となっている曲です。
クラムはアメリカ人ですし日本人としては「あ、あの戦争の話を持ち出して」と思う方もいると思いますがクラムってなかなかそういう人ではないと思います。
副題の「Cadenza Apocalittica」のApocalittica = Apocalypse、つまり新約聖書「ヨハネの黙示録」に現れるこの世の終わりのことです。
政治とかそういうの抜きに、単にこの黙示録にある世界の終わりの火と恐れと力に満ちたイメージを真珠湾攻撃の空襲になぞらえている、と私は解釈しています。
実際次の楽章と合わせてみると作曲者のいいたいことは「Tora! Tora! Tora!」の方ではなく「Cadenza Apocalittica」の方がメインだということは明確。
で、弁明したところで。
本当に、色んな意味で爆発的な曲で。
カデンツァ・・・といったら確かにカデンツァ的ではあります。いろんなテクニックを駆使して、小節線に捕らわれず、怒濤のvirtuosoな世界を繰り広げます。
以前紹介した「Songs of the Riders」(Songs, Drones and Refrains of Death)と共通しているパッセージはきっと黙示録に出てくる騎士達、飛行機の旋回するような音、爆撃のような音・・・
ペダルは踏みっぱなしなので音量はさらに増幅!(笑)
で、最後に「トラ・トラ・トラ!」をピアニストが(弾きながら)叫ぶところがあって。
ちょっと恥ずかしいんですよね、集合住宅ですし(笑)あとこんだけピアノの音がんがんならしてて声聞こえる?という疑問もあり。
でもなんというか・・・クラムが使うと呪文的ですよね。むしろ彼が使う「何語でもない音節の繋がり」の性質に近いです。
この「呪文的」な言葉がまた彼が真珠湾攻撃を題材に使った理由の一つじゃないかな、と思います。だって好きそうですもん。
弾く方としてはいよいよ曲集のクライマックス直前、技巧も音量もセーブなしでがんがん突っ込める(奇襲!)のでエネルギーを大量に消費しながらもものすごく気持ちいい!
ただ弾く方としてはびっくりしてください(笑)!
できればこの楽章だけではなく、曲集全部・・・とはいかなくてもパート2、つまり5~8楽章をセットで聞いていただけるとこの曲の立ち位置が分かる、というか納得すると思います。
本題に入る前にちょっとopen-ended questionを。
今日の一曲: アレクサンドル・スクリャービン ピアノソナタ第9番「黒ミサ」
今日もちょっとご無沙汰の曲。そのうち弾くかも、と思うからそれまでにしよう、という流れでご無沙汰に・・・?
「黒ミサ」。名前ほどおどろおどろしくないですし、実は噂されているほど難しくなかった覚えがあります(初見でしたが)。
スクリャービンが神秘主義に傾倒していたことは有名ですが、何にしても厳密に調べて原理などに従う人ではなくて、なんとなーく雰囲気と自分の曲解で、主に自分の言いたいことを表現する人なのであんまり中世の黒ミサをイメージしない方が良いと思われます。
スクリャービンは変な人で。
最初はショパンっぽい曲を書いて、だんだんどっか道を外れて自分の不可解な世界に入っていっちゃった人。
共感覚があったとも言われていますが、そうではないと言われたり。でも弾くとスクリーンに色が映るピアノを発明したり、嗅覚もいれてみよう、とか言い出したり。
格言関係で彼の言葉をしらべてみると「自分は神だ!」とか延々と言ってるのが引っかかったり、いろんなところがぶっとんだ人です。
音楽史的にも影響され・影響しの系図で位置が難しい人。
だから割とスクリャービンの中~後期の作品はなじみにくい感じがします。独特すぎて。スクリャービン専門、というピアニストも極めて少ないです(ホロヴィッツしかぱっと浮かびません)。
でも好きな曲もたくさんあります。この黒ミサもその一つで。
わりとおとなしめ・・・というかロマン派の流れも引いている、ピアノ曲だなあ、という感じも強いですし。
多少ミステリアスで神秘的で、ちょっと背徳的な雰囲気はあります。不思議な暗さと、不思議な熱情と。
必ずしも最初から一目惚れ、とは行かないですがある意味魅力的な曲ですよ。
音楽を演奏しているとき、音楽を聴いているとき・・・あなたが感じている感情は誰のものでしょうかねえ?
(作曲家or演奏家or聞いている場合聴き手、もちろん混合しているのが前提ですが・・・)
2月2日の夕方にメルボルン大学で開かれた公開レクチャーに行ってきました。
Australian Music Psychology Society、そして去年メルボルン大学の音楽科と心理学科の提携研究施設として設立されたCentre of Music, Mind and Wellbeingによるレクチャーで、音楽と心についてのレクチャーシリーズの第1弾だったそうです。
Centre of Music, Mind~に関してはいろいろあるのですがまた別の機会に。
ゲストスピーカーはオーストリアのグラーツ大学で音楽以外の分野にまたがる音楽の研究をしているRichard Parncuttさん。音楽だけでなく、物理学の人でもあって、そこからまた心理学に足を伸ばして研究をしているそうで。
(ちなみにグラーツ大学はメルボルン大学の音楽科と交換留学プログラムを組んでいるので学費は余計に払わず留学できる・・・ということで私の友達も何人か向こうに行ったことがあります)
(ちなみにグラーツ大学はメルボルン大学の音楽科と交換留学プログラムを組んでいるので学費は余計に払わず留学できる・・・ということで私の友達も何人か向こうに行ったことがあります)
今回のレクチャーのトピックは「音楽の起源についての説」で、生物学だったり進化、発達学など広い範囲にわたる話でした。
まずは音楽と言語に共通するエレメント、相違するエレメントを検討することで「音楽」といったものはどういったものか定義して、音楽の起源についてちょっと一般的な基本情報を出して・・・
それからどんな説が「良い説」なのか、という前置きをちょっとした上で今唱えられている「音楽の起源」についての諸説を評価、比較していくという構成でした。
まず前半の「音楽と言語」についての感想。
音楽と言語の共通点としてどちらも「意識的に意図して行う行動」ということが挙げられていたのですが、その中で音楽は人の感情を操作することができるけれどわざわざお金を払ってまで自分の感情を操作されに行くってのも考えてみるとコミカルな行動だね、という話があったのがなんとなくツボでした。たしかに冷静に考えてみるとおかしい(笑)
そして言葉は主に日常的な題材や感情を表現する方法で、音楽は非日常を表現する方法、という話が面白いです。
いつもこのブログで曲の良さを表現するのが難しいのが自分の力不足じゃなくてちょっと安心したのももちろんありますが(!)、以前のチェロの先生が言ってました(そして私が座右の銘に近い感じで大事にしている)「音楽家としての一番の仕事は聴き手が今日行ったことがないところに連れて行くところだ」という言葉と繋がることがあってあらためて音楽による表現に対する思いが強まりました。
後半の音楽の源の話は主に今はダーウィンによる「異性を惹きつける目的の行動」が有力な説となっているけれど、スピーカーとしては「Motherese(赤ちゃん言葉)」に一つの源があるのではないか、という説をプッシュしていました。
他のたくさんの説と同じく(トピックの性質からして仕方がないことなのですが)結構曖昧なところはあるのですが・・・
まず人間の脳の発達と共に早く生まれる必要があり、子供の保護のためより繊細な母子コミュニケーションが必要になった結果生まれたのが赤ちゃん言葉、という話から始まって赤ちゃん言葉と音楽の共通点(メロディー的なエレメント、感情の凝縮、言葉でなく声のトーンや込められた感情などでのコミュニケーション)だったり、ちょっと詳しくは聴けなかったのですが音楽の儀式的な性質とも繋がりがあるそうで。
そしてその一連の流れの中で「乳児はどれくらい音楽のエレメントを脳で処理できるのか」という話がありまして。メロディーの形、相対的なリズム・音程、調性やリズムの変化なども生まれつき分かるそうで。
(乳児はちなみに親の話す言語と同じレベルで他の言語も脳内処理できるそうなので、本当にすごいんですよ)
だったら本当に民族音楽なりバロックなりロマン派なり現代音楽なり色々な種類の音楽を聴かせて育てた方がいいんじゃないか、と自分の持論をぼんやり。
あ、そしてモーツァルト効果の話がちょろっと出ました。「効果は実証されていない」とのニュースを初めて読んだときオーストリアの大学での研究により・・・と読んだのですが、同じくオーストリアの大学からの今回のスピーカーも「効果はどの試験でも実証されていない」と言ってました。やっぱりこう、赤ちゃんと音楽の話が出ると話にのぼるトピックですね。
先ほど言いましたようにトピックの曖昧さもあってちょっとすっきりしない部分もありましたが、赤ちゃん言葉と音楽の繋がりについてはまだ認められていない説だからこそこれからの研究によって何が分かるか楽しみです。
そして言葉は主に日常的な題材や感情を表現する方法で、音楽は非日常を表現する方法、という話が面白いです。
いつもこのブログで曲の良さを表現するのが難しいのが自分の力不足じゃなくてちょっと安心したのももちろんありますが(!)、以前のチェロの先生が言ってました(そして私が座右の銘に近い感じで大事にしている)「音楽家としての一番の仕事は聴き手が今日行ったことがないところに連れて行くところだ」という言葉と繋がることがあってあらためて音楽による表現に対する思いが強まりました。
後半の音楽の源の話は主に今はダーウィンによる「異性を惹きつける目的の行動」が有力な説となっているけれど、スピーカーとしては「Motherese(赤ちゃん言葉)」に一つの源があるのではないか、という説をプッシュしていました。
他のたくさんの説と同じく(トピックの性質からして仕方がないことなのですが)結構曖昧なところはあるのですが・・・
まず人間の脳の発達と共に早く生まれる必要があり、子供の保護のためより繊細な母子コミュニケーションが必要になった結果生まれたのが赤ちゃん言葉、という話から始まって赤ちゃん言葉と音楽の共通点(メロディー的なエレメント、感情の凝縮、言葉でなく声のトーンや込められた感情などでのコミュニケーション)だったり、ちょっと詳しくは聴けなかったのですが音楽の儀式的な性質とも繋がりがあるそうで。
そしてその一連の流れの中で「乳児はどれくらい音楽のエレメントを脳で処理できるのか」という話がありまして。メロディーの形、相対的なリズム・音程、調性やリズムの変化なども生まれつき分かるそうで。
(乳児はちなみに親の話す言語と同じレベルで他の言語も脳内処理できるそうなので、本当にすごいんですよ)
だったら本当に民族音楽なりバロックなりロマン派なり現代音楽なり色々な種類の音楽を聴かせて育てた方がいいんじゃないか、と自分の持論をぼんやり。
あ、そしてモーツァルト効果の話がちょろっと出ました。「効果は実証されていない」とのニュースを初めて読んだときオーストリアの大学での研究により・・・と読んだのですが、同じくオーストリアの大学からの今回のスピーカーも「効果はどの試験でも実証されていない」と言ってました。やっぱりこう、赤ちゃんと音楽の話が出ると話にのぼるトピックですね。
先ほど言いましたようにトピックの曖昧さもあってちょっとすっきりしない部分もありましたが、赤ちゃん言葉と音楽の繋がりについてはまだ認められていない説だからこそこれからの研究によって何が分かるか楽しみです。
今日の一曲: アレクサンドル・スクリャービン ピアノソナタ第9番「黒ミサ」
今日もちょっとご無沙汰の曲。そのうち弾くかも、と思うからそれまでにしよう、という流れでご無沙汰に・・・?
「黒ミサ」。名前ほどおどろおどろしくないですし、実は噂されているほど難しくなかった覚えがあります(初見でしたが)。
スクリャービンが神秘主義に傾倒していたことは有名ですが、何にしても厳密に調べて原理などに従う人ではなくて、なんとなーく雰囲気と自分の曲解で、主に自分の言いたいことを表現する人なのであんまり中世の黒ミサをイメージしない方が良いと思われます。
スクリャービンは変な人で。
最初はショパンっぽい曲を書いて、だんだんどっか道を外れて自分の不可解な世界に入っていっちゃった人。
共感覚があったとも言われていますが、そうではないと言われたり。でも弾くとスクリーンに色が映るピアノを発明したり、嗅覚もいれてみよう、とか言い出したり。
格言関係で彼の言葉をしらべてみると「自分は神だ!」とか延々と言ってるのが引っかかったり、いろんなところがぶっとんだ人です。
音楽史的にも影響され・影響しの系図で位置が難しい人。
だから割とスクリャービンの中~後期の作品はなじみにくい感じがします。独特すぎて。スクリャービン専門、というピアニストも極めて少ないです(ホロヴィッツしかぱっと浮かびません)。
でも好きな曲もたくさんあります。この黒ミサもその一つで。
わりとおとなしめ・・・というかロマン派の流れも引いている、ピアノ曲だなあ、という感じも強いですし。
多少ミステリアスで神秘的で、ちょっと背徳的な雰囲気はあります。不思議な暗さと、不思議な熱情と。
必ずしも最初から一目惚れ、とは行かないですがある意味魅力的な曲ですよ。
仕事の案件が難しいです!ただ明日金曜日があることを忘れてたので(もう明日から週末だと思ってた)なんとかいけそうです。あんまり焦らないでよかった~週末はピアノができそうです。
さて、結構時間をかけてしまいましたが、親友から借りていたNorman Doige著「The Brain that Changes itself」を読み終わりました!
日本語版は茂木健一郎さんが解説書いてるんですね~(amazon参照)
実はこの本Bordersの心理学セクションにいっぱい並んでて、推薦文を「Musicophilia」(感想はこちら)の著者Oliver Sacksが書いている、そして似たようなフォーマットで書かれている、ということで手に取った本。その当時は「ちょっと待ってみよう」と思って買わなかったのですが、親友が持ってたので借りて読みました。
「Musicophilia」と同じフォーマットといいますが、それぞれの章でケーススタディを中心に脳の特性のトピック話を広げていく、というのが大まかなフォーマット。
「Musicophilia」は音楽と脳についての話でしたが、この「The Brain that Changes Itself」は脳の可塑性についての話で・・・
脳の可塑性、神経可塑性(neuroplasticity)というのは生き物の脳が外的刺激を受けてその構造を変えていく現象。私たちが普通に暮らしている間もそれは起こっていますが、この本で取り上げられているのは神経可塑性の表れ方でもとっても極端な、これは奇跡だろうと思うような劇的な脳の変化です。
例を挙げると脳の左半分が生まれつき無い女性だったり、脳梗塞により体・言葉の自由がきかなくなった人などの話もあり、そして神経可塑性と痛覚、心理療法、性的嗜好の関係性などについてもいろいろ書かれています。
私が面白いと思ったのは「想像すること」が脳に与える影響、さきほどの痛覚や心理療法の話、そしてなんといっても捕捉の章にあった人間の文化と神経可塑性の話ですかね。
そしてこの本を通じて昔は「脳は決まった部分に決まった機能を司っている」という考えが主流だったこと、神経可塑性の考えが抵抗を受けながらも今広まってきていることの経緯も大きく扱っています。
さらに、それぞれの章でフィーチャーされる神経可塑性の研究者の人柄だったり、その研究に至った経緯や思いなどにも記述があったり。
(うちの精神医に通うようになってからの経験なんですけど、様々なお医者さんが仕事をする部屋にどういう者を置いているか、空間作りってものすごく興味深いです。特に精神医に関しては患者さんが安心しなければいけない空間ですし。)
この本を貸してくれた親友がこの本と出会ったブックサークルではこの本の「文体があんまり気に入らない」という意見が多かったそうです。
それについては私も分かる気がします。徐々に慣れましたが、ちょっと粋なこと言おうとしている感みたいのもありますし(ただ確かに的を射たシンプルで刺さるフレーズが実際でるんですからあんまり悪いことはいえませんが)、ちょっとカジュアルすぎるかな?という感もありますし。
あと個人的にですが一箇所ちょっと刺激が強かった内容もありました。(性的嗜好の章で)
一応ありますよ、ということで。
全体的にはやっぱり「Musicophilia」の方が好きでした。文体の堅さだとか、フォーカスの仕方とか、内容とか・・・はもちろんそちらは音楽関連なので当たり前なのですが。
実はもう1冊類似の本を購入してまして、そちらも近いうちに手が回ると良いな、と思っています。
Musicophiliaもオススメなのでリンク。いつの間にか日本語版が出て、レビューもついているので・・・
(ただ英語版の方が表紙は可愛いです♪)
今日の一曲: カミーユ・サン=サーンス 交響曲第3番「オルガン付き」 第2楽章
かなり有名な交響曲ですね!最終楽章のメロディーは映画「Babe」を始めテレビなど多くの場所で使われています。
そして「オルガンが入ってる交響曲(またはオケの曲)」としても有名です。
あの最終楽章での巨大なオルガンのエントリーがとっても印象的!
・・・でも実はあれがこの交響曲におけるオルガンの最初のエントリーではないんですよ。
「動」の第4楽章のまえに「静」の第2楽章でその魅力を大いに発揮しているんです。
第2楽章の始めに暖かい音でコラールにも似たパートを奏でながらなんとも心が落ち着く雰囲気を作り出してくれるオルガン。バロックの頃から続く弦楽器とオルガンの相性のよさ!
サン=サーンスの曲の中でもトップの音楽だと思います。本当に、本当に美しい。
なかなか評価されない楽章ですが、この楽章を、そしてこの交響曲全体としてもっと知って欲しいと思っています。
(交響曲は全楽章合わせて一つの世界!この交響曲もそうですが、複数の楽章(特に最初と最後)で共通するモチーフなどがあって作曲家が意図的につなぎ合わせているので・・・)
完全に余談ですが、この交響曲にはオルガンだけでなくピアノ(それも連弾!)も参戦しています。
第3楽章、そして第4楽章の最初の方で聞こえますのでぜひそちらにも耳を傾けて見てください♪
さて、結構時間をかけてしまいましたが、親友から借りていたNorman Doige著「The Brain that Changes itself」を読み終わりました!
日本語版は茂木健一郎さんが解説書いてるんですね~(amazon参照)
実はこの本Bordersの心理学セクションにいっぱい並んでて、推薦文を「Musicophilia」(感想はこちら)の著者Oliver Sacksが書いている、そして似たようなフォーマットで書かれている、ということで手に取った本。その当時は「ちょっと待ってみよう」と思って買わなかったのですが、親友が持ってたので借りて読みました。
「Musicophilia」と同じフォーマットといいますが、それぞれの章でケーススタディを中心に脳の特性のトピック話を広げていく、というのが大まかなフォーマット。
「Musicophilia」は音楽と脳についての話でしたが、この「The Brain that Changes Itself」は脳の可塑性についての話で・・・
脳の可塑性、神経可塑性(neuroplasticity)というのは生き物の脳が外的刺激を受けてその構造を変えていく現象。私たちが普通に暮らしている間もそれは起こっていますが、この本で取り上げられているのは神経可塑性の表れ方でもとっても極端な、これは奇跡だろうと思うような劇的な脳の変化です。
例を挙げると脳の左半分が生まれつき無い女性だったり、脳梗塞により体・言葉の自由がきかなくなった人などの話もあり、そして神経可塑性と痛覚、心理療法、性的嗜好の関係性などについてもいろいろ書かれています。
私が面白いと思ったのは「想像すること」が脳に与える影響、さきほどの痛覚や心理療法の話、そしてなんといっても捕捉の章にあった人間の文化と神経可塑性の話ですかね。
そしてこの本を通じて昔は「脳は決まった部分に決まった機能を司っている」という考えが主流だったこと、神経可塑性の考えが抵抗を受けながらも今広まってきていることの経緯も大きく扱っています。
さらに、それぞれの章でフィーチャーされる神経可塑性の研究者の人柄だったり、その研究に至った経緯や思いなどにも記述があったり。
(うちの精神医に通うようになってからの経験なんですけど、様々なお医者さんが仕事をする部屋にどういう者を置いているか、空間作りってものすごく興味深いです。特に精神医に関しては患者さんが安心しなければいけない空間ですし。)
この本を貸してくれた親友がこの本と出会ったブックサークルではこの本の「文体があんまり気に入らない」という意見が多かったそうです。
それについては私も分かる気がします。徐々に慣れましたが、ちょっと粋なこと言おうとしている感みたいのもありますし(ただ確かに的を射たシンプルで刺さるフレーズが実際でるんですからあんまり悪いことはいえませんが)、ちょっとカジュアルすぎるかな?という感もありますし。
あと個人的にですが一箇所ちょっと刺激が強かった内容もありました。(性的嗜好の章で)
一応ありますよ、ということで。
全体的にはやっぱり「Musicophilia」の方が好きでした。文体の堅さだとか、フォーカスの仕方とか、内容とか・・・はもちろんそちらは音楽関連なので当たり前なのですが。
実はもう1冊類似の本を購入してまして、そちらも近いうちに手が回ると良いな、と思っています。
Musicophiliaもオススメなのでリンク。いつの間にか日本語版が出て、レビューもついているので・・・
(ただ英語版の方が表紙は可愛いです♪)
今日の一曲: カミーユ・サン=サーンス 交響曲第3番「オルガン付き」 第2楽章
かなり有名な交響曲ですね!最終楽章のメロディーは映画「Babe」を始めテレビなど多くの場所で使われています。
そして「オルガンが入ってる交響曲(またはオケの曲)」としても有名です。
あの最終楽章での巨大なオルガンのエントリーがとっても印象的!
・・・でも実はあれがこの交響曲におけるオルガンの最初のエントリーではないんですよ。
「動」の第4楽章のまえに「静」の第2楽章でその魅力を大いに発揮しているんです。
第2楽章の始めに暖かい音でコラールにも似たパートを奏でながらなんとも心が落ち着く雰囲気を作り出してくれるオルガン。バロックの頃から続く弦楽器とオルガンの相性のよさ!
サン=サーンスの曲の中でもトップの音楽だと思います。本当に、本当に美しい。
なかなか評価されない楽章ですが、この楽章を、そしてこの交響曲全体としてもっと知って欲しいと思っています。
(交響曲は全楽章合わせて一つの世界!この交響曲もそうですが、複数の楽章(特に最初と最後)で共通するモチーフなどがあって作曲家が意図的につなぎ合わせているので・・・)
完全に余談ですが、この交響曲にはオルガンだけでなくピアノ(それも連弾!)も参戦しています。
第3楽章、そして第4楽章の最初の方で聞こえますのでぜひそちらにも耳を傾けて見てください♪
