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最近トゥーランガリラ交響曲が身にどんどん付いてきて、その言わんとしているところが感覚と脳ではわかっているのにそれを言葉で表す術がなくぐるぐるしています。
音楽とは通じ合えるんで無理に言葉で表すこともない、とも言えますが。
このところなんとなく思い出していたのが12年生の歴史の勉強がどれだけ楽しかったかということ。
なんとなくこんなトピックで試験の小論文書きたかったなあーでも今は実際に文を書けるほど詳細を覚えてないなあ~と。
オーストラリアは大変歴史が短い、というか新しい国ですのでカリキュラムにおいては世界史の比重が大分大きいです。7年生で古代文明について習い始め、そこからどうなったか詳細はよくおぼえていないのですが歴史が必須科目である最後の年、10年生に第2次世界大戦がカバーされるよう組まれています。
で、11年生から12年生までのVCEにおいての歴史の科目はユニット1/2をやる人がほとんどいなく(私もやってないので内容は覚えてません)、みんな1/2を飛ばして11年生に(または科目の都合が付かない場合12年生まで待って)ユニット3/4を勉強する傾向にあります。
VCE歴史ユニット3/4(ユニット1/2もそうですが)は学校によって幾つかの選択肢の中かから内容が選ばれます。うちの学校はユニット3/4「Revolutions」を選択、そのなかでも米・仏・中・露の革命の中からロシア革命、そして中国の辛亥革命を選択していました。
(ちなみにユニット3/4では「イタリア・ルネッサンス」なんてのもあるそうです。それも楽しそうですね~あと大学での友達に「Revolutions」でフランス革命を習った、という人がいたのですが、その人曰く「最初はホント面白いけれど途中から泥沼で勉強するにはだれる」そうです・・・)
私はもう中学時代からこの科目がやりたくて。
8年生になるすぐ前のユースオケサマーキャンプでショスタコの交響曲第11番「1905年」に出会い、ショスタコとソヴィエト史の絡みを知り、音楽とそこの歴史にはまり愛すようになり。
さらに8年生の英語(国語)の授業でジョージ・オーウェルの「動物農場」を習い、そこでまたロシア革命とのパラレルに関して学び。
11年生では歴史をとる余裕が科目選択になかったので12年生でやっと!たどりついたわけです。
結構歴史に限らずピンポイントで深く知りたがる性質にはこのシステムは(はまれば)本当に有り難い♪
(大学の科目もこうやって絞られてるのでそのための準備、とも言えますね)
ちなみにロシア革命、辛亥革命といってもカリキュラム的にはちゃんとこの出来事からこの出来事、とカバーする範囲を決めなくちゃいけません。
今調べたらロシア革命=1905年「血の日曜日」事件~1924年レーニンの死、辛亥革命=1898年戊戌の変法~1976年毛沢東の死、と決められているようですが・・・
いろんなことを語ったり参照する範囲だったらもっと広くなります。
ロシア革命だと1861年の農奴解放にまで言及することは珍しくないですし、レーニンの死後の5ヶ年計画、スターリンの死くらいまで授業で話に出ます。
中国だと一番最近で天安門事件がちらっと話にでるけど試験では言及しない、くらいかな。
とにかくどこの革命でもフォーカスするポイントは以下の3つ。
1)革命前の「古い」社会
2)社会を変える動き、イデオロギー、人物
3)革命後の「新しい」社会
で、最終試験の小論文では1)と3)を比較評価する内容になります、自然と。
科目においての評価はテスト形式の課題、そして最終試験により行われます。
どちらも(確か)Short-answer question、そして小論文により構成されています。
ただ歴史においてのshort-answerって1文とかじゃ全然だめなんですよね。「次の語句について説明しなさい」的な、わりとがっつりこのブログの段落2つ分くらい?書く必要があります。というか書く羽目になります。
例えばロシア革命だったら「ボルシェビキ」について説明しなくちゃいけなかったり(誰がいたか、どんなイデオロギーか、どういう経緯で起こったか、どういう運動を起こしたか、「赤」と呼ばれること、などなど)。
辛亥革命だったら「大躍進」について説明したり(誰がいつどういう経緯で起こした出来事か、運動の詳細、そしてどんな影響を後に与えたか、など)。
結局(小論文もちょっとそうなのですが)関連してることみんな放り込みたくなって結果長くなってしまうshort-answer。全然ショートだった覚えないです(笑)
小論文は(授業や課題とは別の宿題でも練習したりするのですが)基本構成は英語の授業と変わりは全くないです。
序文→メインポイント1・2・3(もしかしたら4)→結論、というので。
問題の出し方も英語の小節に関する小論文と同じく「~である・~でない」という問題文に対して賛成・反対のポジションを取って多面的に分析、表現。(100%反対とか賛成はダメなのです。全体的な見方に対して一応「こういう反対の面もあるよ」ということは示さなくちゃいけない)
歴史の小論文は先ほども書きましたが革命前・後を振り返って比べる感じのが多いです。
実際にやった問題はさすがに覚えてないのですがロシア革命に関する問題、こないだ良いの思いつきました。
「ロシア革命は2月革命の後の臨時政府の脆弱により失敗した。」
つまりは「あそこであの臨時政府がしっかりしてたら王政から民主主義の橋渡しがうまくいったんじゃないか」というのがベースになってます。
私がこの問題で小論文を書くなら「全体的に反対」の立場を取って、反対意見として1)王政と戦争による経済、さらには平民・農民の疲弊(農奴解放、ロマノフ朝の退廃、進歩の後れ、日露戦争、WWIなど。2つに分けた方がいいかな)、2)革命後=共産党内の問題(イデオロギー、政策、運動、権力闘争)を挙げ。
で、「でも確かに臨時政府は弱かった」という、戦争や経済、共産党群の台頭などについて話して・・・
これでも足りないかな。
中国のほうだと「辛亥革命は失敗に終わった」くらいざっくりしたトピックじゃないと今は書けないかな・・・
全体的なメッセージだと「結局良くなってない」みたいな方向で、主に政府の機能、人々の暮らしを中心に革命前と革命後で比べて。
ただ革命前と比べて良くなってるのは民族意識、みたいなことも交えて(これでアヘン戦争の話とか革命前の外国の介入とかについての知識、さらにはfoot-bindingに象徴される女性の立場の変化などが組み込めます)。
暗記科目、ではあるんですよね。
それぞれの出来事や人物、時代についての知識(年号も合わせて)がないといくら文が書けても内容が皆無ですからね。
ただし暗記はあくまでも「文を書くための材料」というポジショニング。
Short-answerにしても小論文にしても問題を見て自分の見解を論理的に構成して述べる、その見解のバックアップとしての知識なので。
なので暗記スキルだけでなく、構成された文を書くスキルもそうですが、知識をどう取捨選択してどう自分の言い分に組み込むかというスキルも必要(大学でもそうですね!)
英語のほうでもそうなのですが、小論文は暗記を一通りしてどんな問題にも楽にアプローチできるようにするか、それともある程度ヤマを張って全部は覚えず、いざとなったら問題文を曲解するようにするか2つの道があります。
というか全部覚えてても「問題が自分の話したいことにフォーカスさせてくれない」という場合は話したいところに焦点を当てられるよう問題文を「解釈」します。こういうことするには何よりも序文・結論がしっかりしてないとできませんが。曲解は楽しいですよ(笑)よっぽど見当外れじゃなければ見解自体の性質で評価が下がることはないですしね。
いろいろ大変ですがいざ試験とかやると「書きたい!」という思いで結局一番難しいのは何を抜かすか、ということになります。
そして授業がなんといっても楽しかった!
一番楽しかったのは一番最後の授業にやった復習トリビアクイズでしたが(成績が一番良かった生徒には毛沢東の小さな赤い本(英語版)をプレゼント、という)、他にもアナスタシア王女生存説、林彪暗殺説などの未だ真相が分かってない説についても話し合ったり、あとはラスプーチンとか毛沢東とか、「人物の面白さ」についていろいろ楽しんだ記憶もあり。時代も登場人物もとにかく面白いんですよ。
あと教室が主にこの授業に使われるため壁に(あともらうプリントとかにも)各革命においてのプロパガンダポスターなんかも貼ってあって、中国語・ロシア語共に解読してみるのが楽しみでした。
(といっても授業で退屈することはあんまりないのですが)
やはり選択科目ですし、成績とか必要条件とかよりはやりたくてやってる、楽しみに来てる人が多い科目でもありましたし・・・そして先生も2クラスどちらも良い先生で。
もしも万が一(笑)高校に戻ることがあったら絶対も一回やりたいですね(あと化学も)。
今なら知識こそ衰えてますが(どっかにあるはずなんだけどなあ、試験の準備としてクラスみんなで手分けして作ったノート・・・)文を書く能力はあの頃と比べて伸びてるはずなので。
この調子なら(=一度一通り抜けて学習の仕方、まとめかた等分かったところで)フランス革命あたりもいけるかも?と思いますし。
ピンポイントで学べる歴史、というのをシリーズ的にいろいろかいつまんでできたらなーと本当に願っています(音楽史とかでも。)ちょっと興味あるエリア一覧としてまとめてみたいですね。
今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 「馬あぶ」組曲より「ロマンス」
ソヴィエト史といえばやはりショスタコが欠かせない!
そんな彼の作品の中で映画「馬あぶ」の映画音楽の中から抜粋した組曲、そのなかで単体でも演奏されることのある「ロマンス」を選んでみました。
交響曲や室内楽曲が有名なショスタコーヴィチですが、劇やバレエだけでなく映画音楽も多数手がけています。
ソヴィエトは情報統制国家でしたからね、映画を制作するのにも政府が噛んでたりしたでしょうし・・・ショスタコーヴィチはいわば政府お抱えの作曲家でしたし。
でもショスタコーヴィチと映画音楽は結構縁が深いんですよ。
革命前、まだショスタコーヴィチが大学生の頃は彼はサイレント映画(この時代!)にピアノ伴奏を即興で付けるというアルバイトをしていたらしいですしね。
で、先ほど政府が噛んでるかも、と言いましたがこの作品でのショスタコーヴィチのスタイルは明らかに「公」のもので。
スターリン好みのストレートに伝わる音楽、といったら意地悪かしら(汗)
でもショスタコの素直な美しい曲ってそれはそれでとっても好きです。
以前紹介した歌曲「愛する人よ」もそうですし、そもそもどこまでが「素直」といっていいのか分かりませんが探すと結構ありそうですね。
この曲は私は2バージョン持ってます。
一つはショスタコーヴィチのオリジナル、オーケストラ版。
そしてもう一つはBlack Dyke Mills Bandのブラスバンド版。
前者は甘美なバイオリンソロと暖かなオーケストラの色彩が本当に美しく。
そして後者はあまーいコルネット、トランペット、そしてトロンボーンの活躍だけでなく、アクセントとして入ってる鉄琴がいい仕事してます♪
全体の流れ方の心地よさだとオケバージョン、一体になって盛り上がるところの満足感だとブラスバージョンに軍配が上がると私は思いますね。
聴いてるとなんだかハチャトゥリアンの「スパルタクス」のアダージョと同じ感じの甘さがあるんですよね。
なんかこう、他の国は勿論、チャイコフスキーとかラフマニノフとかの「ロシア」の音楽にもない不思議な大人の甘さが。
それをどう言葉で表現したらいいか分からないんですが本当に独特な味です。
(ハチャトゥリアンと似た、ということはもしかしたらソヴィエトとして統合した際の西アジア諸国の影響があるのかな?)
組曲の他の曲も一応いくつか持ってて面白いものももちろんありますのでまた紹介しますね~
音楽とは通じ合えるんで無理に言葉で表すこともない、とも言えますが。
このところなんとなく思い出していたのが12年生の歴史の勉強がどれだけ楽しかったかということ。
なんとなくこんなトピックで試験の小論文書きたかったなあーでも今は実際に文を書けるほど詳細を覚えてないなあ~と。
オーストラリアは大変歴史が短い、というか新しい国ですのでカリキュラムにおいては世界史の比重が大分大きいです。7年生で古代文明について習い始め、そこからどうなったか詳細はよくおぼえていないのですが歴史が必須科目である最後の年、10年生に第2次世界大戦がカバーされるよう組まれています。
で、11年生から12年生までのVCEにおいての歴史の科目はユニット1/2をやる人がほとんどいなく(私もやってないので内容は覚えてません)、みんな1/2を飛ばして11年生に(または科目の都合が付かない場合12年生まで待って)ユニット3/4を勉強する傾向にあります。
VCE歴史ユニット3/4(ユニット1/2もそうですが)は学校によって幾つかの選択肢の中かから内容が選ばれます。うちの学校はユニット3/4「Revolutions」を選択、そのなかでも米・仏・中・露の革命の中からロシア革命、そして中国の辛亥革命を選択していました。
(ちなみにユニット3/4では「イタリア・ルネッサンス」なんてのもあるそうです。それも楽しそうですね~あと大学での友達に「Revolutions」でフランス革命を習った、という人がいたのですが、その人曰く「最初はホント面白いけれど途中から泥沼で勉強するにはだれる」そうです・・・)
私はもう中学時代からこの科目がやりたくて。
8年生になるすぐ前のユースオケサマーキャンプでショスタコの交響曲第11番「1905年」に出会い、ショスタコとソヴィエト史の絡みを知り、音楽とそこの歴史にはまり愛すようになり。
さらに8年生の英語(国語)の授業でジョージ・オーウェルの「動物農場」を習い、そこでまたロシア革命とのパラレルに関して学び。
11年生では歴史をとる余裕が科目選択になかったので12年生でやっと!たどりついたわけです。
結構歴史に限らずピンポイントで深く知りたがる性質にはこのシステムは(はまれば)本当に有り難い♪
(大学の科目もこうやって絞られてるのでそのための準備、とも言えますね)
ちなみにロシア革命、辛亥革命といってもカリキュラム的にはちゃんとこの出来事からこの出来事、とカバーする範囲を決めなくちゃいけません。
今調べたらロシア革命=1905年「血の日曜日」事件~1924年レーニンの死、辛亥革命=1898年戊戌の変法~1976年毛沢東の死、と決められているようですが・・・
いろんなことを語ったり参照する範囲だったらもっと広くなります。
ロシア革命だと1861年の農奴解放にまで言及することは珍しくないですし、レーニンの死後の5ヶ年計画、スターリンの死くらいまで授業で話に出ます。
中国だと一番最近で天安門事件がちらっと話にでるけど試験では言及しない、くらいかな。
とにかくどこの革命でもフォーカスするポイントは以下の3つ。
1)革命前の「古い」社会
2)社会を変える動き、イデオロギー、人物
3)革命後の「新しい」社会
で、最終試験の小論文では1)と3)を比較評価する内容になります、自然と。
科目においての評価はテスト形式の課題、そして最終試験により行われます。
どちらも(確か)Short-answer question、そして小論文により構成されています。
ただ歴史においてのshort-answerって1文とかじゃ全然だめなんですよね。「次の語句について説明しなさい」的な、わりとがっつりこのブログの段落2つ分くらい?書く必要があります。というか書く羽目になります。
例えばロシア革命だったら「ボルシェビキ」について説明しなくちゃいけなかったり(誰がいたか、どんなイデオロギーか、どういう経緯で起こったか、どういう運動を起こしたか、「赤」と呼ばれること、などなど)。
辛亥革命だったら「大躍進」について説明したり(誰がいつどういう経緯で起こした出来事か、運動の詳細、そしてどんな影響を後に与えたか、など)。
結局(小論文もちょっとそうなのですが)関連してることみんな放り込みたくなって結果長くなってしまうshort-answer。全然ショートだった覚えないです(笑)
小論文は(授業や課題とは別の宿題でも練習したりするのですが)基本構成は英語の授業と変わりは全くないです。
序文→メインポイント1・2・3(もしかしたら4)→結論、というので。
問題の出し方も英語の小節に関する小論文と同じく「~である・~でない」という問題文に対して賛成・反対のポジションを取って多面的に分析、表現。(100%反対とか賛成はダメなのです。全体的な見方に対して一応「こういう反対の面もあるよ」ということは示さなくちゃいけない)
歴史の小論文は先ほども書きましたが革命前・後を振り返って比べる感じのが多いです。
実際にやった問題はさすがに覚えてないのですがロシア革命に関する問題、こないだ良いの思いつきました。
「ロシア革命は2月革命の後の臨時政府の脆弱により失敗した。」
つまりは「あそこであの臨時政府がしっかりしてたら王政から民主主義の橋渡しがうまくいったんじゃないか」というのがベースになってます。
私がこの問題で小論文を書くなら「全体的に反対」の立場を取って、反対意見として1)王政と戦争による経済、さらには平民・農民の疲弊(農奴解放、ロマノフ朝の退廃、進歩の後れ、日露戦争、WWIなど。2つに分けた方がいいかな)、2)革命後=共産党内の問題(イデオロギー、政策、運動、権力闘争)を挙げ。
で、「でも確かに臨時政府は弱かった」という、戦争や経済、共産党群の台頭などについて話して・・・
これでも足りないかな。
中国のほうだと「辛亥革命は失敗に終わった」くらいざっくりしたトピックじゃないと今は書けないかな・・・
全体的なメッセージだと「結局良くなってない」みたいな方向で、主に政府の機能、人々の暮らしを中心に革命前と革命後で比べて。
ただ革命前と比べて良くなってるのは民族意識、みたいなことも交えて(これでアヘン戦争の話とか革命前の外国の介入とかについての知識、さらにはfoot-bindingに象徴される女性の立場の変化などが組み込めます)。
暗記科目、ではあるんですよね。
それぞれの出来事や人物、時代についての知識(年号も合わせて)がないといくら文が書けても内容が皆無ですからね。
ただし暗記はあくまでも「文を書くための材料」というポジショニング。
Short-answerにしても小論文にしても問題を見て自分の見解を論理的に構成して述べる、その見解のバックアップとしての知識なので。
なので暗記スキルだけでなく、構成された文を書くスキルもそうですが、知識をどう取捨選択してどう自分の言い分に組み込むかというスキルも必要(大学でもそうですね!)
英語のほうでもそうなのですが、小論文は暗記を一通りしてどんな問題にも楽にアプローチできるようにするか、それともある程度ヤマを張って全部は覚えず、いざとなったら問題文を曲解するようにするか2つの道があります。
というか全部覚えてても「問題が自分の話したいことにフォーカスさせてくれない」という場合は話したいところに焦点を当てられるよう問題文を「解釈」します。こういうことするには何よりも序文・結論がしっかりしてないとできませんが。曲解は楽しいですよ(笑)よっぽど見当外れじゃなければ見解自体の性質で評価が下がることはないですしね。
いろいろ大変ですがいざ試験とかやると「書きたい!」という思いで結局一番難しいのは何を抜かすか、ということになります。
そして授業がなんといっても楽しかった!
一番楽しかったのは一番最後の授業にやった復習トリビアクイズでしたが(成績が一番良かった生徒には毛沢東の小さな赤い本(英語版)をプレゼント、という)、他にもアナスタシア王女生存説、林彪暗殺説などの未だ真相が分かってない説についても話し合ったり、あとはラスプーチンとか毛沢東とか、「人物の面白さ」についていろいろ楽しんだ記憶もあり。時代も登場人物もとにかく面白いんですよ。
あと教室が主にこの授業に使われるため壁に(あともらうプリントとかにも)各革命においてのプロパガンダポスターなんかも貼ってあって、中国語・ロシア語共に解読してみるのが楽しみでした。
(といっても授業で退屈することはあんまりないのですが)
やはり選択科目ですし、成績とか必要条件とかよりはやりたくてやってる、楽しみに来てる人が多い科目でもありましたし・・・そして先生も2クラスどちらも良い先生で。
もしも万が一(笑)高校に戻ることがあったら絶対も一回やりたいですね(あと化学も)。
今なら知識こそ衰えてますが(どっかにあるはずなんだけどなあ、試験の準備としてクラスみんなで手分けして作ったノート・・・)文を書く能力はあの頃と比べて伸びてるはずなので。
この調子なら(=一度一通り抜けて学習の仕方、まとめかた等分かったところで)フランス革命あたりもいけるかも?と思いますし。
ピンポイントで学べる歴史、というのをシリーズ的にいろいろかいつまんでできたらなーと本当に願っています(音楽史とかでも。)ちょっと興味あるエリア一覧としてまとめてみたいですね。
今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 「馬あぶ」組曲より「ロマンス」
ソヴィエト史といえばやはりショスタコが欠かせない!
そんな彼の作品の中で映画「馬あぶ」の映画音楽の中から抜粋した組曲、そのなかで単体でも演奏されることのある「ロマンス」を選んでみました。
交響曲や室内楽曲が有名なショスタコーヴィチですが、劇やバレエだけでなく映画音楽も多数手がけています。
ソヴィエトは情報統制国家でしたからね、映画を制作するのにも政府が噛んでたりしたでしょうし・・・ショスタコーヴィチはいわば政府お抱えの作曲家でしたし。
でもショスタコーヴィチと映画音楽は結構縁が深いんですよ。
革命前、まだショスタコーヴィチが大学生の頃は彼はサイレント映画(この時代!)にピアノ伴奏を即興で付けるというアルバイトをしていたらしいですしね。
で、先ほど政府が噛んでるかも、と言いましたがこの作品でのショスタコーヴィチのスタイルは明らかに「公」のもので。
スターリン好みのストレートに伝わる音楽、といったら意地悪かしら(汗)
でもショスタコの素直な美しい曲ってそれはそれでとっても好きです。
以前紹介した歌曲「愛する人よ」もそうですし、そもそもどこまでが「素直」といっていいのか分かりませんが探すと結構ありそうですね。
この曲は私は2バージョン持ってます。
一つはショスタコーヴィチのオリジナル、オーケストラ版。
そしてもう一つはBlack Dyke Mills Bandのブラスバンド版。
前者は甘美なバイオリンソロと暖かなオーケストラの色彩が本当に美しく。
そして後者はあまーいコルネット、トランペット、そしてトロンボーンの活躍だけでなく、アクセントとして入ってる鉄琴がいい仕事してます♪
全体の流れ方の心地よさだとオケバージョン、一体になって盛り上がるところの満足感だとブラスバージョンに軍配が上がると私は思いますね。
聴いてるとなんだかハチャトゥリアンの「スパルタクス」のアダージョと同じ感じの甘さがあるんですよね。
なんかこう、他の国は勿論、チャイコフスキーとかラフマニノフとかの「ロシア」の音楽にもない不思議な大人の甘さが。
それをどう言葉で表現したらいいか分からないんですが本当に独特な味です。
(ハチャトゥリアンと似た、ということはもしかしたらソヴィエトとして統合した際の西アジア諸国の影響があるのかな?)
組曲の他の曲も一応いくつか持ってて面白いものももちろんありますのでまた紹介しますね~
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今日は写真など交えて。
今日はユースオケ、トゥーランガリラ交響曲初リハーサル!のはずだったのですが「もしかしたらチェレスタがVCA(リハーサル場所となってる大学)に使われてるかも」というマネージャーさんの懸念が的中、今日も聞きリハーサルのみでした。
ピアニストも来てたので(年は同じくらいかな、今までにも何回か会ってます。おっとりのんびり静かな男性ですよ)余計に一緒に弾きたかったな~・・・ピアノはソリスト位置なので実際弾く時はお互い見える・聞こえるかちょっと心配。彼とはトゥーランガリラあるあるで盛り上がったりしています(そのうちまとめたい)。あと以前ラフマニノフの練習曲についてもそうだったのですがわりと好みが似ているみたい。
ちなみに私のパートと類似しているもう一つの楽器、鉄琴も知ってる人が弾いてます。
CDで聞くのとリハーサルとして聞くのは違いますね。音のバランスが大分違って欲しい音が聞こえやすく、そして取り出しやすく(CDでよりも様々な方向から聞こえてくるため)なって。そして指揮者の振りがあるのは落ち着きます。
そしてリハーサル場では耳栓が居るかも。今回は前回と違ってホルンの後ろ、ピッコロの右方にはいなかったのですが、それでもホルン(頼りにしてますよ、ホルン軍団!)の音を最初の何反射かで受けたり、あと打楽器が多いため広がってきた鐘や鉄琴の音も危険要素です。
でも前回のエントリーで「メシアン、クラムを弾いてから耳が何回か変わったように感じた」と言いましたが今回もまた耳がちょっと変わったような気がします。先ほど書きましたがいろんな方向から音が聞こえること、そしてリハーサルでスコアを見たり、セクション毎、楽器ごと、似たようなパートの楽器ごとにリハーサルをするため音楽をばらしやすくなるんですよね。かみ砕いてくれる感覚です。
さて、話はちょっと遡りますがレクチャーの日関連で。
レクチャーの帰りにサウスバンク、Southgateのアイリッシュ・パブ「P.J. O'Brien's」で一人夕飯してきました。
パブの中に食事用のテーブルや半分個室のようになってるスペースがあるんです(あとで他のお客さんがきて相部屋?になったりして。「いいですよどんどん入って来ちゃって」ってしたとき自分がオージーになったなと思いました)
以前妹と来たときはオイスター(ナチュラル、そしてこちらではスタンダードで最高に美味しいキルパトリック)を食べに来て、ついでにアイルランドのピザみたいなFlatbreadも食べたのですが、今回は寒いメルボルンの晩秋ということでアイリッシュシチューを初めてオーダー。ついでに初めてのギネスビールも。
ギネスは最初の一口の後味がまろやかでよかったですが、ビールがもともと苦手なのは変わらなかったです。
ただしアイリッシュシチューの美味しさには本当にびっくり!こんなに美味しい食べ物に出会えるとは!
具はにんじん、ジャガイモ、タマネギ、セロリ、そしてラム(もともとはマトンだそうです。羊が嫌いな人には保証できません)。スプーンとバターナイフしかこないのですが、フォークが要らないほど肉も野菜も煮込まれてます~味付けはクリームシチューに似てなくもないですがクリームではないです。ちょっとしょっぱいかな。そして写真にも写ってますローズマリー(生枝+シチュー内)の香りが凄いですね!やはりラムとローズマリーはベストコンビ。そして再度のパンを浸して食べるのもまた最高♪
お腹がいっぱいになっても残すのがもったいなくて、胃が悲鳴をあげても食べ続けてしまう(汗)
もうリピート決定です♪
デザートのスペシャルメニューにルバーブタルトがあったのですがさすがにだめでした・・・代わりにいつものTutto Beneのジェラートを(そこはもうすぐ冬だしお腹十分目だから食べない、というわけではないんです。ゲン担ぎ程度の胃もたれ予防、というか。寒いんでBaby scoopにはしています(笑))
さて、前回のレクチャーで話した方がBirrarung MarrにあるFederation Bellsの設計者の一人、という話を前エントリーで書きました。
Birrarung MarrはPrinces Bridgeとヤラ川を挟んでサウスバンクとはす向かい、Federation Squareから東に(MCGの見える方向に)歩いて行くとある公園のようなスペース。
子どものためのプレイグラウンド、Public art、その他アート関係の施設、ヤラ川の景色を楽しむベンチ、さらにはかつてこのエリアにすんでいた原住民の文化を取り入れたアートやディスプレイなどもそなえています。
左はもともとNational Gallery of Victoria(そうそう、このウィークエンドであの美術館は150周年祭やってるみたいです)の前に住んでたDeborah HalpernのThe Angelという彫刻です。
その中にあるのがFederation BellsというPublic Artです。
この大小39個の柱に空に向かって付いた鐘。形も見るといわゆる西洋の釣り鐘型だったり、東洋の釣り鐘に近い曲線のもの、花瓶のような形のもの・・・形、大きさ、配置など全て計算の元に設計されています。
2001年のオーストラリア建国(連邦成立)100周年の記念に向けて計画が始められ、Federation Squareの一帯の完成とともに2002年にこの鐘も完成。屋根もない空間に立ってるためたまに音色などの関係で修復などが行われているそうです。
なんとBBC、Lonely Planetの世界のパブリックアート10選(2ページ目に掲載)にも選ばれているとのこと!すごいなあ!
この39個のベル、電子制御で毎日3回(午前8~9時、午後12時30分~1時30分、午後5時~6時)に音楽が流れます。オーストラリアの作曲家だったり、RMITという大学の生徒の作品だったり、あと一般公募も公式ウェブサイトから行っているそうです。割と感覚的に操作できるというサイトのツール(要flash)で作曲し、そこで(midiファイルとして?)投稿して選考を待つ、というとのこと。
これを読んで作曲に心惹かれたので今日リハーサル前に(そして巨大なフレンチトーストをDeGraves Streetのあるカフェで食べたので腹ごなしの散歩に)見に行って、そして聴いてきました。すごい面白いです。思わずにやにや。
音楽が流れている間鐘の柱の間を縫うように歩いてみたり、あとずっと遠ざかった聞こえ方を試してみたり。
真剣に作曲投稿、考えてみたいと思います。
そしてレクチャーで話があったのですが一昨日のレクチャーを主催しているAustralian Music Psychology Societyはメルボルン大学に最近できたCenter of Music, Mind and Wellbeing(CMMW)という音楽と科学、心理学などを扱う研究施設と協力関係にあるのですが、そのCMMWが7月からMelbourne Recital Centerでレクチャーシリーズを始めるという話がありまして。
で、ウェブで調べてみたらCMMWのサイトが立派になって、なんとレクチャーシリーズだけでなく将来には独自の大学のコースなども(音楽科、心理学科とも独立して?)手がける計画があるという話が出ていて。
オーストラリア、しかもメルボルンでもしかしたら将来自分の進みたい分野の勉強、ができるかもしれないというのはとてつもない希望ですね。
心理学で大学に戻るか、それとも音楽科学(仮)で大学に戻るか、本当に楽しみなのでネタやメモなどどんどんまとめたり勉強したりしていきたいです!意欲が湧きます♪
自分も、そしてCMMWを中心としたメルボルンの音楽研究シーンもこれから成長していくことができますように。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン トゥーランガリラ交響曲 第3楽章「トゥーランガリラ I」
リハーサルで色んな事が周りで起こると色んな事が見えてきますね。
なにげに鉄琴とコントラバス(だけ)一緒のパートを弾いてたり、たまに意外なところにバスクラのソロが出てきたり、パートの絡み合い、そして全く違う動き、全てがとても神秘的。
シリーズになっていない楽章に比べて「愛の歌」シリーズ、そしてそれよりもさらに「トゥーランガリラ」シリーズの楽章は比較的とっつきにくくなってる印象がありますが、その「トゥーランガリラ」シリーズにおいてのこの絡み合い&全く違う動きが創り出す「世界」の独特さって素晴らしいと思います。(もちろん交響曲全体のコンセプトを代表しているタイトルですしすね!)
オケの楽器一つ一つでは(時にはソリスト扱いのピアノでも)とてもパートが断片的な感じで。
なんだろう、この音の連なりは、意味があるのか、どこで入ってくるのかわからない、みたいな感じなのですがオケで集まってくるとそれが意味を成してきたり。
メシアンの音楽でとてもアクティブだけど瞑想的な(静かじゃない瞑想!)性質があるのですがこれは同じパッセージがサイクルのように繰り返されてることから派生しています。
しかも、楽器によってその繰り返されているパッセージ(そしてそれを形作る独特のリズム!)、さらには繰り返しのサイクルもまた違ったりでそれがぐるぐると不思議な、万華鏡のような世界を繰り広げています。
音の中に居ると本当に百もの色彩の渦に巻き込まれているような感覚です。
前回のレクチャーについてのエントリーの話にも繋がるのですが、耳が慣れていない複雑な音楽は聴くと音の渦のように、圧倒する感じに聞こえてしまうのです。
でもその渦の中でサイクルを見つけたり、特定の楽器の音を捕まえたり、それでなくともその渦に心身預けてみたり。いろいろ楽しみ方はあります。
この楽章で前オーケストラが弾いている箇所って本当に複雑で、本当に色彩は圧倒的で。でもものすごいうねりがあって・・・トゥーランガリラという言葉の意味合いにも繋がるような宇宙を動かす力、大いなる時の流れ、そして生命のエネルギーを感じます。(「トゥーランガリラ」シリーズの楽章は他のよりも「理(ことわり)」、メカニズムを感じるのに愛着を覚えます)
実はこの楽章でちょっとチェレスタはピアノとのデュエットがあります。
静かな中で起伏の激しい、不思議な弧を描くソロ楽器やバイオリンのグリッサンドなどとサイクルを奏でます♪
そして好きなところはもう一つ。この楽章のエンディングがまるでこの音楽をほどいていくような、だんだん音楽を断片的にして消えていくような感覚で。
あとよーくよく聴いてみると要所要所でコントラバスが下降するパッセージのサイクルでオケを支えています。これもなんとなく粋ですね。
ユースオケはチェロとコントラバスが随分元気が良いのでそこも本当に楽しみです♪
今日はユースオケ、トゥーランガリラ交響曲初リハーサル!のはずだったのですが「もしかしたらチェレスタがVCA(リハーサル場所となってる大学)に使われてるかも」というマネージャーさんの懸念が的中、今日も聞きリハーサルのみでした。
ピアニストも来てたので(年は同じくらいかな、今までにも何回か会ってます。おっとりのんびり静かな男性ですよ)余計に一緒に弾きたかったな~・・・ピアノはソリスト位置なので実際弾く時はお互い見える・聞こえるかちょっと心配。彼とはトゥーランガリラあるあるで盛り上がったりしています(そのうちまとめたい)。あと以前ラフマニノフの練習曲についてもそうだったのですがわりと好みが似ているみたい。
ちなみに私のパートと類似しているもう一つの楽器、鉄琴も知ってる人が弾いてます。
CDで聞くのとリハーサルとして聞くのは違いますね。音のバランスが大分違って欲しい音が聞こえやすく、そして取り出しやすく(CDでよりも様々な方向から聞こえてくるため)なって。そして指揮者の振りがあるのは落ち着きます。
そしてリハーサル場では耳栓が居るかも。今回は前回と違ってホルンの後ろ、ピッコロの右方にはいなかったのですが、それでもホルン(頼りにしてますよ、ホルン軍団!)の音を最初の何反射かで受けたり、あと打楽器が多いため広がってきた鐘や鉄琴の音も危険要素です。
でも前回のエントリーで「メシアン、クラムを弾いてから耳が何回か変わったように感じた」と言いましたが今回もまた耳がちょっと変わったような気がします。先ほど書きましたがいろんな方向から音が聞こえること、そしてリハーサルでスコアを見たり、セクション毎、楽器ごと、似たようなパートの楽器ごとにリハーサルをするため音楽をばらしやすくなるんですよね。かみ砕いてくれる感覚です。
さて、話はちょっと遡りますがレクチャーの日関連で。
レクチャーの帰りにサウスバンク、Southgateのアイリッシュ・パブ「P.J. O'Brien's」で一人夕飯してきました。
パブの中に食事用のテーブルや半分個室のようになってるスペースがあるんです(あとで他のお客さんがきて相部屋?になったりして。「いいですよどんどん入って来ちゃって」ってしたとき自分がオージーになったなと思いました)
以前妹と来たときはオイスター(ナチュラル、そしてこちらではスタンダードで最高に美味しいキルパトリック)を食べに来て、ついでにアイルランドのピザみたいなFlatbreadも食べたのですが、今回は寒いメルボルンの晩秋ということでアイリッシュシチューを初めてオーダー。ついでに初めてのギネスビールも。
ギネスは最初の一口の後味がまろやかでよかったですが、ビールがもともと苦手なのは変わらなかったです。
具はにんじん、ジャガイモ、タマネギ、セロリ、そしてラム(もともとはマトンだそうです。羊が嫌いな人には保証できません)。スプーンとバターナイフしかこないのですが、フォークが要らないほど肉も野菜も煮込まれてます~味付けはクリームシチューに似てなくもないですがクリームではないです。ちょっとしょっぱいかな。そして写真にも写ってますローズマリー(生枝+シチュー内)の香りが凄いですね!やはりラムとローズマリーはベストコンビ。そして再度のパンを浸して食べるのもまた最高♪
お腹がいっぱいになっても残すのがもったいなくて、胃が悲鳴をあげても食べ続けてしまう(汗)
もうリピート決定です♪
デザートのスペシャルメニューにルバーブタルトがあったのですがさすがにだめでした・・・代わりにいつものTutto Beneのジェラートを(そこはもうすぐ冬だしお腹十分目だから食べない、というわけではないんです。ゲン担ぎ程度の胃もたれ予防、というか。寒いんでBaby scoopにはしています(笑))
Birrarung MarrはPrinces Bridgeとヤラ川を挟んでサウスバンクとはす向かい、Federation Squareから東に(MCGの見える方向に)歩いて行くとある公園のようなスペース。
子どものためのプレイグラウンド、Public art、その他アート関係の施設、ヤラ川の景色を楽しむベンチ、さらにはかつてこのエリアにすんでいた原住民の文化を取り入れたアートやディスプレイなどもそなえています。
左はもともとNational Gallery of Victoria(そうそう、このウィークエンドであの美術館は150周年祭やってるみたいです)の前に住んでたDeborah HalpernのThe Angelという彫刻です。
その中にあるのがFederation BellsというPublic Artです。
この大小39個の柱に空に向かって付いた鐘。形も見るといわゆる西洋の釣り鐘型だったり、東洋の釣り鐘に近い曲線のもの、花瓶のような形のもの・・・形、大きさ、配置など全て計算の元に設計されています。
2001年のオーストラリア建国(連邦成立)100周年の記念に向けて計画が始められ、Federation Squareの一帯の完成とともに2002年にこの鐘も完成。屋根もない空間に立ってるためたまに音色などの関係で修復などが行われているそうです。
なんとBBC、Lonely Planetの世界のパブリックアート10選(2ページ目に掲載)にも選ばれているとのこと!すごいなあ!
これを読んで作曲に心惹かれたので今日リハーサル前に(そして巨大なフレンチトーストをDeGraves Streetのあるカフェで食べたので腹ごなしの散歩に)見に行って、そして聴いてきました。すごい面白いです。思わずにやにや。
音楽が流れている間鐘の柱の間を縫うように歩いてみたり、あとずっと遠ざかった聞こえ方を試してみたり。
真剣に作曲投稿、考えてみたいと思います。
そしてレクチャーで話があったのですが一昨日のレクチャーを主催しているAustralian Music Psychology Societyはメルボルン大学に最近できたCenter of Music, Mind and Wellbeing(CMMW)という音楽と科学、心理学などを扱う研究施設と協力関係にあるのですが、そのCMMWが7月からMelbourne Recital Centerでレクチャーシリーズを始めるという話がありまして。
で、ウェブで調べてみたらCMMWのサイトが立派になって、なんとレクチャーシリーズだけでなく将来には独自の大学のコースなども(音楽科、心理学科とも独立して?)手がける計画があるという話が出ていて。
オーストラリア、しかもメルボルンでもしかしたら将来自分の進みたい分野の勉強、ができるかもしれないというのはとてつもない希望ですね。
心理学で大学に戻るか、それとも音楽科学(仮)で大学に戻るか、本当に楽しみなのでネタやメモなどどんどんまとめたり勉強したりしていきたいです!意欲が湧きます♪
自分も、そしてCMMWを中心としたメルボルンの音楽研究シーンもこれから成長していくことができますように。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン トゥーランガリラ交響曲 第3楽章「トゥーランガリラ I」
リハーサルで色んな事が周りで起こると色んな事が見えてきますね。
なにげに鉄琴とコントラバス(だけ)一緒のパートを弾いてたり、たまに意外なところにバスクラのソロが出てきたり、パートの絡み合い、そして全く違う動き、全てがとても神秘的。
シリーズになっていない楽章に比べて「愛の歌」シリーズ、そしてそれよりもさらに「トゥーランガリラ」シリーズの楽章は比較的とっつきにくくなってる印象がありますが、その「トゥーランガリラ」シリーズにおいてのこの絡み合い&全く違う動きが創り出す「世界」の独特さって素晴らしいと思います。(もちろん交響曲全体のコンセプトを代表しているタイトルですしすね!)
オケの楽器一つ一つでは(時にはソリスト扱いのピアノでも)とてもパートが断片的な感じで。
なんだろう、この音の連なりは、意味があるのか、どこで入ってくるのかわからない、みたいな感じなのですがオケで集まってくるとそれが意味を成してきたり。
メシアンの音楽でとてもアクティブだけど瞑想的な(静かじゃない瞑想!)性質があるのですがこれは同じパッセージがサイクルのように繰り返されてることから派生しています。
しかも、楽器によってその繰り返されているパッセージ(そしてそれを形作る独特のリズム!)、さらには繰り返しのサイクルもまた違ったりでそれがぐるぐると不思議な、万華鏡のような世界を繰り広げています。
音の中に居ると本当に百もの色彩の渦に巻き込まれているような感覚です。
前回のレクチャーについてのエントリーの話にも繋がるのですが、耳が慣れていない複雑な音楽は聴くと音の渦のように、圧倒する感じに聞こえてしまうのです。
でもその渦の中でサイクルを見つけたり、特定の楽器の音を捕まえたり、それでなくともその渦に心身預けてみたり。いろいろ楽しみ方はあります。
この楽章で前オーケストラが弾いている箇所って本当に複雑で、本当に色彩は圧倒的で。でもものすごいうねりがあって・・・トゥーランガリラという言葉の意味合いにも繋がるような宇宙を動かす力、大いなる時の流れ、そして生命のエネルギーを感じます。(「トゥーランガリラ」シリーズの楽章は他のよりも「理(ことわり)」、メカニズムを感じるのに愛着を覚えます)
実はこの楽章でちょっとチェレスタはピアノとのデュエットがあります。
静かな中で起伏の激しい、不思議な弧を描くソロ楽器やバイオリンのグリッサンドなどとサイクルを奏でます♪
そして好きなところはもう一つ。この楽章のエンディングがまるでこの音楽をほどいていくような、だんだん音楽を断片的にして消えていくような感覚で。
あとよーくよく聴いてみると要所要所でコントラバスが下降するパッセージのサイクルでオケを支えています。これもなんとなく粋ですね。
ユースオケはチェロとコントラバスが随分元気が良いのでそこも本当に楽しみです♪
前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
今日は少し調子が上向きというか、慣れてきたというか。少しエネルギーが使える感じです。
仕事が今ちょっと静かなのが心配ですがやはりフリーランスだとこういうこともある、ということで・・・
何はともあれ明日はユースオケでトゥーランガリラ交響曲の初リハーサル。今日もじっくりCDに合わせてパート練習しました。仕事がないので(汗)朝ちょっと早めに出てシティでブランチするかな・・・
さて、昨日はレクチャーに行ってきました。いろいろ書きたいことはあるのですが、今回はレクチャーの内容について、に限ります。それ以外のことは別エントリーで。
こないだまとめられなかった前回のレクチャーとトピックが似てるな、と思ったら前回のレクチャーの人のPhDのSupervisorとして同席してた方で、実際にプレゼンされた研究が今回のレクチャーで使われてたり。
今回のレクチャーを行ったそのAssociate Professor Neil McLachlanという方、なんとBirrarung MarrにあるFederation Bellを設計した人でもあるそうです(何の事やらでごめんなさい、これがその別エントリーの内容の一つなのでまた後日・・・)
レクチャーのイントロの部分で以前ここで紹介した音楽と脳、可塑性についての2冊の本「Musicophilia」、そして「Brain that Changes Itself」について言及がありました。まだまだ研究のエリアとして発展途上だからスタンダードな本というとやっぱり限られてくるんでしょうかね。
(言及がなかった「This is your brain on music」、今度読みたいです)
音楽に関して神経可塑性のコンセプトは個人の音楽修得、そして音楽文化の発達においてもとても重要なものだ、という話もあり。
まずは音楽理論の歴史について話がありました。
私もあんまり得意なエリアじゃなくて(一応音楽科卒業で音楽やる人ですが(汗))、始めると長くなるので手短に・・・(説明も下手なので詳しくは別のところで読んでください(汗))
西洋音楽における音程の歴史はやはりピタゴラスまで遡るようで。(レクチャーで言及がありましたが、その前に中国でもピタゴラスと同じようなやり方で「音を決める」ことは行われてました。歴史の古さから需要も早かったということですね)
ピタゴラスの音程、その音の基準を決めるプロセスは幾何学的で。その当時は音楽は宗教、数学、幾何学と深い結びつきがあり。さらにそのギリシャ音楽は単旋律だったためハーモニーを考慮しない音程の決め方だったそうです。
同時に複数の音を奏でることを考慮した音の決め方は8世紀のアラビアで開発され、ヨーロッパの宗教声楽で応用され。Roughness Theoryといって複数の音を弾いた時に聞こえることのある「beating」を最小限にとどめること、そして完全五度の音程をベースにして音程を決めるシステムでした。
そして鍵盤楽器という複雑な旋律、ハーモニーなどを扱う、容易に音程を調節できない楽器が台頭したことで(Roughness theoryを元にしたシステムは弾くキーによって音程を微妙に調節しないとbeatingが生じるので)1オクターブを12等分した(12という数字は先ほど省きましたがもともとピタゴラスの理論に基づいてます)平均律のシステムを開発し、用い、標準化して今に至る・・・ということです。
ここで、前回のレクチャーでもあった「協和音」のコンセプトの歴史の話に。
耳に心地良いのが協和音、そうでないのが不協和音という簡単な話でもなく・・・
先ほどのRoughness theoryに基づいた、周波数が近い音に生じる「beating」の有無で協和音・不協和音を分ける説、そうではなく複数の音に共通する周波数すうの共鳴により分ける説、などありますが・・・
今回注目されていたのは「協和音・不協和音は聞く人がその和音を聞くことに慣れてるかそうでないか、ということで決まる」という説。
(あと協和音・不協和音はその和音がおかれる環境に左右される、という説も面白いですね)
つまりは音の認識は音の物理的特徴でなく脳の働きに頼るところが多い、ということで。
音を脳が認識する際、聴覚を司る神経の場所で認識しているのか(ただしそれにしては認識に必要とされる情報が複雑すぎる)音の周波数などを経時的に分析しているのか(ただし本能的な「戦うか逃げるか」の判断をするには必ずしも速くはない)、という説がある中で、今有力とされているのは「脳の長期記憶のなかに音の種類の情報がテンプレートとして保存してあり、それと照合することで音を認識する」という説です。
このレクチャーを行った方はそれをさらに展開して既に聞いたことのある音はテンプレート照合、聞いたことが無いと判断した場合は周波数などを分析して認識(そして保存)する、という脳内プロセスのモデルを提唱していました。
これらの協和音、そして音の認識についての説で分かることは音楽、そして音の認識は人間の音と音楽に関する経験の積み重ねにより蓄積、発展していくものだということが分かります。
そしてこのテンプレートはとても特異的、正確なものなので特定のテンプレートがよく使われるとそれに対する感度というか認識の正確さがアップしますが、使われないテンプレートは発達しない、または衰えてしまいます。
なので西洋音楽を聴いている私たちは他の文化の音楽テンプレート、例えばガムラン音楽での音程の聞きわけに関しては弱い、ということが起こり。
特定の音楽テンプレートに対して親しみが高いほど音程の認識も正確になり、和音を「不協和音」だと感じるの度合いも低くなる。
つまり耳慣れない音楽ほど不快だと感じる度合いが高い、ということになります。
音楽理論、音楽の認識に関する研究はこれまで西洋音楽を中心に回っていたのですがこのテンプレートの説により西洋音楽と他の音楽が対等に扱われるようになった、といってもいいと思います。
西洋音楽においての音楽理論でのフォーカス分野は幾何学→数学→神経心理学→神経科学と移り変わってきましたが、例えば別の文化の民族音楽を数学的に分析することは(西洋音楽と違って必ずしも数学をルーツとしていないため)非合理的ということになり。心理学、神経科学という「音側」でなく「人間側」の要素を取り込んだことで多文化に対応するようなシステムになってきてるんですね。
そしてここでもうひとつ大事なこと。
音と音楽の認識は経験の積み重ねによるもの、ということは「音楽の脳」は先天的なものでなく訓練によって身につくもの、ということになります。
特定の文化において積極的に音楽に参加することにより脳は音楽に対して発達する。(そして参加しないことは退化に繋がる)親しみが高まれば音楽に対する感度も良くなる。
そして音楽はその複雑な性質から聴覚をフルに使い、さらにその認識をサポートするために長期記憶内のテンプレートも動員し。つまり聴覚に挑戦する活動であるわけです。
音楽のテンプレートを広げ、様々な音楽を楽しめるようにするためには様々なテンプレート(西洋音楽に限らず!)に触れて、最初は不快に感じても脳が慣れるようにすることが大切、ということで。
(あとテンプレートを広げることは音程の認識の正確さを高めることにもなる、という話も出ました。手作りの、音色、音程がいろいろあるガムランを弾く奏者は西洋音楽の音楽家よりも音程認識のスコアが高かったそうです)
(あとも一つ。そんな複雑な刺激である音楽に対するexposureが多いとそれに飽きたらずさらに新しい刺激を求め、新しいテンプレートを探すようになるとか。耳が肥える、というやつでしょうか。それで複雑な現代音楽が生まれた、とも言われています)
親しみと音楽の聞こえ方に感しての話は「現代音楽を親しみが低い人に勧める」ことに関する考えに本当にhelpfulだと思いました。
そして持論の「子どもには(そして年齢問わず)ジャンル構わず色んな音楽を聴かせるべき」というのの裏付けがまた一つ増えて。
どんな音楽でも本当に「慣れ」なのでとっつきづらくとも、音の洪水に圧倒されるようでも(これが複雑な.特にオケ音楽が敬遠されやすい理由だとか)一回であきらめないで相手を知ってみることが大切だと改めて思います。
私も最初はメシアン嫌いでしたし。
メシアンを弾き始めて2回ほど、そしてクラムの音楽と向き合い始めてまた2回ほど自分の「聞こえ方」が変わった、そう感じた時期がありました。
それでテンプレートが広がったのか、いつのまにかいろんな現代音楽、民族音楽などに心を許しやすくなって、とっつきやすくなって。
かならずしもすぐできるものではないですが、その変化が起こると本当に世界が変わります。
メシアンの色彩が見えるようになった時、クラムの宇宙が感じられるようになったとき・・・その感覚は言葉ではとても言い表すことができません。
だから私はこれからも「聴いて下さい」と言い続けます。老若男女、いろんな人に向けていろんな音楽を(主に自分の守備範囲になりますが・・・)、お勧めスキルを磨き勉強しながらお勧めしていきたいとおもいます。
なんだか所々わかりにくい説明ですみません。結局大事なのは最後の1/4くらいでしたね・・・(汗)
長くなってしまったので今日の一曲は今回お休みです。
今日は少し調子が上向きというか、慣れてきたというか。少しエネルギーが使える感じです。
仕事が今ちょっと静かなのが心配ですがやはりフリーランスだとこういうこともある、ということで・・・
何はともあれ明日はユースオケでトゥーランガリラ交響曲の初リハーサル。今日もじっくりCDに合わせてパート練習しました。仕事がないので(汗)朝ちょっと早めに出てシティでブランチするかな・・・
さて、昨日はレクチャーに行ってきました。いろいろ書きたいことはあるのですが、今回はレクチャーの内容について、に限ります。それ以外のことは別エントリーで。
こないだまとめられなかった前回のレクチャーとトピックが似てるな、と思ったら前回のレクチャーの人のPhDのSupervisorとして同席してた方で、実際にプレゼンされた研究が今回のレクチャーで使われてたり。
今回のレクチャーを行ったそのAssociate Professor Neil McLachlanという方、なんとBirrarung MarrにあるFederation Bellを設計した人でもあるそうです(何の事やらでごめんなさい、これがその別エントリーの内容の一つなのでまた後日・・・)
レクチャーのイントロの部分で以前ここで紹介した音楽と脳、可塑性についての2冊の本「Musicophilia」、そして「Brain that Changes Itself」について言及がありました。まだまだ研究のエリアとして発展途上だからスタンダードな本というとやっぱり限られてくるんでしょうかね。
(言及がなかった「This is your brain on music」、今度読みたいです)
音楽に関して神経可塑性のコンセプトは個人の音楽修得、そして音楽文化の発達においてもとても重要なものだ、という話もあり。
まずは音楽理論の歴史について話がありました。
私もあんまり得意なエリアじゃなくて(一応音楽科卒業で音楽やる人ですが(汗))、始めると長くなるので手短に・・・(説明も下手なので詳しくは別のところで読んでください(汗))
西洋音楽における音程の歴史はやはりピタゴラスまで遡るようで。(レクチャーで言及がありましたが、その前に中国でもピタゴラスと同じようなやり方で「音を決める」ことは行われてました。歴史の古さから需要も早かったということですね)
ピタゴラスの音程、その音の基準を決めるプロセスは幾何学的で。その当時は音楽は宗教、数学、幾何学と深い結びつきがあり。さらにそのギリシャ音楽は単旋律だったためハーモニーを考慮しない音程の決め方だったそうです。
同時に複数の音を奏でることを考慮した音の決め方は8世紀のアラビアで開発され、ヨーロッパの宗教声楽で応用され。Roughness Theoryといって複数の音を弾いた時に聞こえることのある「beating」を最小限にとどめること、そして完全五度の音程をベースにして音程を決めるシステムでした。
そして鍵盤楽器という複雑な旋律、ハーモニーなどを扱う、容易に音程を調節できない楽器が台頭したことで(Roughness theoryを元にしたシステムは弾くキーによって音程を微妙に調節しないとbeatingが生じるので)1オクターブを12等分した(12という数字は先ほど省きましたがもともとピタゴラスの理論に基づいてます)平均律のシステムを開発し、用い、標準化して今に至る・・・ということです。
ここで、前回のレクチャーでもあった「協和音」のコンセプトの歴史の話に。
耳に心地良いのが協和音、そうでないのが不協和音という簡単な話でもなく・・・
先ほどのRoughness theoryに基づいた、周波数が近い音に生じる「beating」の有無で協和音・不協和音を分ける説、そうではなく複数の音に共通する周波数すうの共鳴により分ける説、などありますが・・・
今回注目されていたのは「協和音・不協和音は聞く人がその和音を聞くことに慣れてるかそうでないか、ということで決まる」という説。
(あと協和音・不協和音はその和音がおかれる環境に左右される、という説も面白いですね)
つまりは音の認識は音の物理的特徴でなく脳の働きに頼るところが多い、ということで。
音を脳が認識する際、聴覚を司る神経の場所で認識しているのか(ただしそれにしては認識に必要とされる情報が複雑すぎる)音の周波数などを経時的に分析しているのか(ただし本能的な「戦うか逃げるか」の判断をするには必ずしも速くはない)、という説がある中で、今有力とされているのは「脳の長期記憶のなかに音の種類の情報がテンプレートとして保存してあり、それと照合することで音を認識する」という説です。
このレクチャーを行った方はそれをさらに展開して既に聞いたことのある音はテンプレート照合、聞いたことが無いと判断した場合は周波数などを分析して認識(そして保存)する、という脳内プロセスのモデルを提唱していました。
これらの協和音、そして音の認識についての説で分かることは音楽、そして音の認識は人間の音と音楽に関する経験の積み重ねにより蓄積、発展していくものだということが分かります。
そしてこのテンプレートはとても特異的、正確なものなので特定のテンプレートがよく使われるとそれに対する感度というか認識の正確さがアップしますが、使われないテンプレートは発達しない、または衰えてしまいます。
なので西洋音楽を聴いている私たちは他の文化の音楽テンプレート、例えばガムラン音楽での音程の聞きわけに関しては弱い、ということが起こり。
特定の音楽テンプレートに対して親しみが高いほど音程の認識も正確になり、和音を「不協和音」だと感じるの度合いも低くなる。
つまり耳慣れない音楽ほど不快だと感じる度合いが高い、ということになります。
音楽理論、音楽の認識に関する研究はこれまで西洋音楽を中心に回っていたのですがこのテンプレートの説により西洋音楽と他の音楽が対等に扱われるようになった、といってもいいと思います。
西洋音楽においての音楽理論でのフォーカス分野は幾何学→数学→神経心理学→神経科学と移り変わってきましたが、例えば別の文化の民族音楽を数学的に分析することは(西洋音楽と違って必ずしも数学をルーツとしていないため)非合理的ということになり。心理学、神経科学という「音側」でなく「人間側」の要素を取り込んだことで多文化に対応するようなシステムになってきてるんですね。
そしてここでもうひとつ大事なこと。
音と音楽の認識は経験の積み重ねによるもの、ということは「音楽の脳」は先天的なものでなく訓練によって身につくもの、ということになります。
特定の文化において積極的に音楽に参加することにより脳は音楽に対して発達する。(そして参加しないことは退化に繋がる)親しみが高まれば音楽に対する感度も良くなる。
そして音楽はその複雑な性質から聴覚をフルに使い、さらにその認識をサポートするために長期記憶内のテンプレートも動員し。つまり聴覚に挑戦する活動であるわけです。
音楽のテンプレートを広げ、様々な音楽を楽しめるようにするためには様々なテンプレート(西洋音楽に限らず!)に触れて、最初は不快に感じても脳が慣れるようにすることが大切、ということで。
(あとテンプレートを広げることは音程の認識の正確さを高めることにもなる、という話も出ました。手作りの、音色、音程がいろいろあるガムランを弾く奏者は西洋音楽の音楽家よりも音程認識のスコアが高かったそうです)
(あとも一つ。そんな複雑な刺激である音楽に対するexposureが多いとそれに飽きたらずさらに新しい刺激を求め、新しいテンプレートを探すようになるとか。耳が肥える、というやつでしょうか。それで複雑な現代音楽が生まれた、とも言われています)
親しみと音楽の聞こえ方に感しての話は「現代音楽を親しみが低い人に勧める」ことに関する考えに本当にhelpfulだと思いました。
そして持論の「子どもには(そして年齢問わず)ジャンル構わず色んな音楽を聴かせるべき」というのの裏付けがまた一つ増えて。
どんな音楽でも本当に「慣れ」なのでとっつきづらくとも、音の洪水に圧倒されるようでも(これが複雑な.特にオケ音楽が敬遠されやすい理由だとか)一回であきらめないで相手を知ってみることが大切だと改めて思います。
私も最初はメシアン嫌いでしたし。
メシアンを弾き始めて2回ほど、そしてクラムの音楽と向き合い始めてまた2回ほど自分の「聞こえ方」が変わった、そう感じた時期がありました。
それでテンプレートが広がったのか、いつのまにかいろんな現代音楽、民族音楽などに心を許しやすくなって、とっつきやすくなって。
かならずしもすぐできるものではないですが、その変化が起こると本当に世界が変わります。
メシアンの色彩が見えるようになった時、クラムの宇宙が感じられるようになったとき・・・その感覚は言葉ではとても言い表すことができません。
だから私はこれからも「聴いて下さい」と言い続けます。老若男女、いろんな人に向けていろんな音楽を(主に自分の守備範囲になりますが・・・)、お勧めスキルを磨き勉強しながらお勧めしていきたいとおもいます。
なんだか所々わかりにくい説明ですみません。結局大事なのは最後の1/4くらいでしたね・・・(汗)
長くなってしまったので今日の一曲は今回お休みです。
今日レクチャーハンティング(?)をしていたら明日音楽心理学関連のレクチャーがあることが判明。
トピックとしては前回行った(でも感想をまとめなかった)レクチャーで扱われてた音の認識に関する話があるので、今度こそは勉強してまとめられるよう!と思ってます。
さて、昨日は国立アカデミーのピアノ関連ミニシリーズ(コンサートだけでなくセミナーなどもあるようです)の一部としてマイケルがコンサートで弾きました。
プログラム的にちょっと悩んでたのですがマイケルがこないだ話せなかったからコンサートで会おう、とチケットを取ってくれたので二つ返事で行ってきました。
今回はマイケルのリサイタル、ということでなく打楽器のEugene Ughettiとの共演曲もありました。
プログラムはこんな感じ:
Humphrey Searle ピアノソナタ
ベートーヴェン ピアノソナタ第29番「Hammerklavier」
Michael Kieran Harvey & Eugene Ughetti 「Homage to Liszt」
全曲切れ目なく演奏されました。ここはやっぱ奏者のこだわりですかね。
なんというか、ピアノをフィーチャーする週間だけにピアノの演奏、その楽器の壮大さだったりピアノが織りなす世界だったり、そういうものに焦点を当てているプログラムですね。
プログラムの説明などは今回マイケル自身が書いていて、ちょっと読んだだけでマイケルのぶっ飛んだ考えがいろいろ出てきたのでちょっと今の状態だと気圧されるため未だにちゃんとは読んでません(汗)
そのことを交えてまた後ほど。
ちなみにSearleはセリー音楽のイギリス人作曲家だったそうですが、彼がもっとも有名なのはリストに関する研究、そしてなによりもリストの音楽のカタログの作成だそうで。
なんとなくこう、リストのスピリットがあるような(マイケルの演奏かもしれませんが)。ピアノらしさというか、楽器に密着した感じがありました。
もともとベートーヴェンのハンマークラヴィーアはあんまり愛着がないというか、外向的でピアノっぽいというかVirtuosicというか、弾く側重視みたいなところがどうも苦手意識を感じてしまうのか・・・
あとマイケルとこの曲の相性ってどうなのかなあ、と思うところもあったりで。
今回の演奏、正直(本人も認めちゃっていますが)疑問に思う事、ちょっとこれはどうなんだろう、軽すぎやしないか、と不満に感じることありましたが、プログラムにありました彼の21世紀的なこの曲の解釈だったり、彼の世界が垣間見えたり、という意味では好きでした。あと技巧をひけらかすところでなく静まりかえった部分の繊細さはやっぱり光るんですよ。
そして最後の奏者2人により共同で(オンラインでのコミュニケーションにより!)作曲されたリストへのオマージュ。面白かったですね。
ピアノパートは所々にリストの曲からと思われるパッセージがでてきたり、そして打楽器とのかけあい。
ドラムキットを中心としたパーカッション、どうしてリストと?という印象がある方も多いと思いますがリストの爆発的な生命エネルギーを表現するには割と意外ながらも向いてるのではないかとこの曲を聴いて思いましたよ。
マイケルは以前にAddictというピアノとシンセサイザーを使った曲を書いているのですが、今回のピアノとパーカッションの組み合わせはそれに似たようなところがありました。
この曲の演奏を聴いてマイケルはやっぱり自分の作曲で特別輝いたな、という印象を持ちましたが、それよりもマイケルはなんらかの形でリストの精神(というか血的なもの)を身体と心に先天的にそなえてるんじゃないか、という印象が強かったですね。実際本場ハンガリーのリスト・アカデミーにいたこともあるのですが、それ以上に。
マイケルは本当に先ほどの言葉そのままになりますが爆発的な生命エネルギーを秘めていて。で、ピアノにおける技巧と表現力、頭の回転と知識、独特の感覚、全部合わせてああいう奇怪な解釈とバイタリティに溢れた、かなりめまぐるしい演奏をするんですよね。
頭の回転に表現する技量が追いついてるからああいう速い演奏になるのかな(笑)彼独特の世界があるんですよね。同じ感覚、知識を持ってない私みたいな凡人にはなかなか共感しづらいところもあるのですが、でも好きなんですよ。好き嫌いは分かれるのですが。
私の先生スティーブンも来てたのですがお友達(?)と一緒にいたのであんまり話せず。(残念極まりないなあ)
そしてコンサート後はマイケルたちとちょっと近くの静まりかえった小さなバーでちょっとだけ飲み物をご一緒しました。というかマイケルが奢ってくれました。
国立音楽アカデミーの最寄り、徒歩2分(笑)にあるButterfly Club。ちょっとアヤシイ感じのライティングとまるで民家のような部屋の連なり、そして所狭しと飾られてる飾り物・・・
でも平日とあって人がいなくて静かでいい感じでした。暖炉の前に椅子持ち寄って。私だと一人とか同い年の友達とだとあんまり入りづらい雰囲気なのですが、こういう体験もできて良かったです。これはこれで味わい深い♪
(ちなみにキャバレーのショーをやるときとか週末はけっこう入るみたいですね。週末のコンサートのときに賑わってたのを見たことがあります。)
コンサートが終わっても話はちょこちょこ音楽周り。
メルボルンの音楽重鎮の人間関係ちょいゴシップだったり、あと今こちらでやってる某オペラプロダクションに着いて。なんだかものすごく悪い、という話だったのですが。
見てみないとそりゃあ評価はできませんが、要するに話としてはそのオペラに限らず「ポピュラー(=陳腐)なものを低クオリティで提供することの悪」についての懸念の話になり。
演奏・プロダクションのクオリティはもちろんですが、クラシックに限らずポピュラーで当たり障りないような曲ばっかり並べても人々に音楽を好きになってもらうことはできない、という話だったり。プログラムは多少知られていないものでも本当にいい音楽を本当にいい演奏で届けることの大切さについて熱く語ってましたね、年配陣プロ軍団(笑)
でも全体としてはそういうとこメルボルンの音楽シーンはちゃんとしてると思いますよ。室内楽でもオケでもリサイタルでも、レパートリー的に大抵新しい発見は聴く度にありますし、ポピュラー系統はライトミュージック音楽専門のコンサートに限ってますし、いつもプログラムを見る度に好き嫌い別として凝ってるなあ、良い曲揃いだな、と思いますし。
リサイタルを組むときも、マイケルのリサイタルだったり(今回もね!)とくにPiano Landmarksではそれ全体、そしてその中の各コンサート、各奏者のプログラムの選曲全てにコンセプトだったり意味があったりで。私も本当にそういうプログラム組みに憧れるんですよね。
聴衆に音楽を好きになってもらうにはどうするか、そして聴衆の「音楽の体験」について本当に考えさせられる話でした。(そして同時にメルボルンの音楽家の捉え方というか真剣に考えてるってことが分かってやっぱり安心します。)
ゆっくりマイケルと話す時間はなかったですし、次いつメルボルンに来るかわからないって言ってましたが全体的に本当に楽しかったです。やっぱり彼の演奏はいつ聴いてもにやりとします。
明日は先ほども書きましたがレクチャーです。感想まとめられますように・・・
今日の一曲: ベンジャミン・ブリテン 無伴奏チェロ組曲第1番 「Bordone」
今回のコンサートとほぼ繋がりはない今日の曲のチョイス。
実はクラムの音楽のことを考えているときにDrone(ドローン、単音・重音の(伝統的には持続的で動かない)ベースライン)について考えてて。
それで民族音楽においてのドローン、分かりやすいところだとこちらでもよく生で聞けるバグパイプやDidjeridooもそうですし、あとそこから調べてインドのタンブーラ、そして日本の薩摩琵琶もそうだと知って。
で、薩摩琵琶が下の2本の弦を開放弦のドローン(非連続音)として使う、という話を聞いて、そして実際に音を聞いてこれはブリテンの無伴奏チェロのあれじゃないか!とひらめいて調べてみたらこの楽章の名前Bordoneがラテン語圏(?)でドローンのことを指すこと、そしてロルカの詩でも同じBourdonという言葉が使われてることを知り。
でも実際そう思って聴いてみるとブリテン日本の影響受けてるんじゃないか?という感は本当に強いですね!
薩摩琵琶の雰囲気だったり、インドのタンブーラにも似ていて。
持続的ではなく、たまにピチカートとして現れ、響くドローン。持続的ではないから広がる響き・空間があるんですよね。
無伴奏のチェロ組曲といえばもちろんバッハのものが有名です(このブログでも以前紹介しましたね、またいつかやりたいです)。が、もちろんチェロのための無伴奏のレパートリーはそれに限りません。
コダーイの無伴奏ソナタ(これも以前紹介した覚えが)もかっこいいですし、このブリテンの無伴奏組曲も独特の世界を確立しています。
バッハの無伴奏組曲は音で空間を満たすような、Richnessというか満足さ、暖かさ、fullnessがあるのですが、ブリテンの無伴奏組曲は全く逆とも言える効果があります。
一人でちゃんと音楽は完全に成り立っている、そこに完璧さはあるけれど同時に独りであることの孤独、そしてその「1人」の周りの無限大の空間のからっぽさみたいなものも同時にあって。
そしてやっぱりブリテンの「闇」の性質はいいです。ドライだけど深い。
そういうところもひっくるめてこの曲は盲目の琵琶法師の語りみたいだな、と思います。
独りの語りですよね。独特の世界と観点と表現で。語りの間聴き手がしんと静まることで目の見えない語り手の周りに果てしなく広がる闇も。
やっぱブリテン東洋に影響受けてるのかなー。(再び)
(そしてブリテンのこの3つの組曲、まだまだ勉強&聴き不足。もっと親しんで身につけたいです)
トピックとしては前回行った(でも感想をまとめなかった)レクチャーで扱われてた音の認識に関する話があるので、今度こそは勉強してまとめられるよう!と思ってます。
さて、昨日は国立アカデミーのピアノ関連ミニシリーズ(コンサートだけでなくセミナーなどもあるようです)の一部としてマイケルがコンサートで弾きました。
プログラム的にちょっと悩んでたのですがマイケルがこないだ話せなかったからコンサートで会おう、とチケットを取ってくれたので二つ返事で行ってきました。
今回はマイケルのリサイタル、ということでなく打楽器のEugene Ughettiとの共演曲もありました。
プログラムはこんな感じ:
Humphrey Searle ピアノソナタ
ベートーヴェン ピアノソナタ第29番「Hammerklavier」
Michael Kieran Harvey & Eugene Ughetti 「Homage to Liszt」
全曲切れ目なく演奏されました。ここはやっぱ奏者のこだわりですかね。
なんというか、ピアノをフィーチャーする週間だけにピアノの演奏、その楽器の壮大さだったりピアノが織りなす世界だったり、そういうものに焦点を当てているプログラムですね。
プログラムの説明などは今回マイケル自身が書いていて、ちょっと読んだだけでマイケルのぶっ飛んだ考えがいろいろ出てきたのでちょっと今の状態だと気圧されるため未だにちゃんとは読んでません(汗)
そのことを交えてまた後ほど。
ちなみにSearleはセリー音楽のイギリス人作曲家だったそうですが、彼がもっとも有名なのはリストに関する研究、そしてなによりもリストの音楽のカタログの作成だそうで。
なんとなくこう、リストのスピリットがあるような(マイケルの演奏かもしれませんが)。ピアノらしさというか、楽器に密着した感じがありました。
もともとベートーヴェンのハンマークラヴィーアはあんまり愛着がないというか、外向的でピアノっぽいというかVirtuosicというか、弾く側重視みたいなところがどうも苦手意識を感じてしまうのか・・・
あとマイケルとこの曲の相性ってどうなのかなあ、と思うところもあったりで。
今回の演奏、正直(本人も認めちゃっていますが)疑問に思う事、ちょっとこれはどうなんだろう、軽すぎやしないか、と不満に感じることありましたが、プログラムにありました彼の21世紀的なこの曲の解釈だったり、彼の世界が垣間見えたり、という意味では好きでした。あと技巧をひけらかすところでなく静まりかえった部分の繊細さはやっぱり光るんですよ。
そして最後の奏者2人により共同で(オンラインでのコミュニケーションにより!)作曲されたリストへのオマージュ。面白かったですね。
ピアノパートは所々にリストの曲からと思われるパッセージがでてきたり、そして打楽器とのかけあい。
ドラムキットを中心としたパーカッション、どうしてリストと?という印象がある方も多いと思いますがリストの爆発的な生命エネルギーを表現するには割と意外ながらも向いてるのではないかとこの曲を聴いて思いましたよ。
マイケルは以前にAddictというピアノとシンセサイザーを使った曲を書いているのですが、今回のピアノとパーカッションの組み合わせはそれに似たようなところがありました。
この曲の演奏を聴いてマイケルはやっぱり自分の作曲で特別輝いたな、という印象を持ちましたが、それよりもマイケルはなんらかの形でリストの精神(というか血的なもの)を身体と心に先天的にそなえてるんじゃないか、という印象が強かったですね。実際本場ハンガリーのリスト・アカデミーにいたこともあるのですが、それ以上に。
マイケルは本当に先ほどの言葉そのままになりますが爆発的な生命エネルギーを秘めていて。で、ピアノにおける技巧と表現力、頭の回転と知識、独特の感覚、全部合わせてああいう奇怪な解釈とバイタリティに溢れた、かなりめまぐるしい演奏をするんですよね。
頭の回転に表現する技量が追いついてるからああいう速い演奏になるのかな(笑)彼独特の世界があるんですよね。同じ感覚、知識を持ってない私みたいな凡人にはなかなか共感しづらいところもあるのですが、でも好きなんですよ。好き嫌いは分かれるのですが。
私の先生スティーブンも来てたのですがお友達(?)と一緒にいたのであんまり話せず。(残念極まりないなあ)
そしてコンサート後はマイケルたちとちょっと近くの静まりかえった小さなバーでちょっとだけ飲み物をご一緒しました。というかマイケルが奢ってくれました。
国立音楽アカデミーの最寄り、徒歩2分(笑)にあるButterfly Club。ちょっとアヤシイ感じのライティングとまるで民家のような部屋の連なり、そして所狭しと飾られてる飾り物・・・
でも平日とあって人がいなくて静かでいい感じでした。暖炉の前に椅子持ち寄って。私だと一人とか同い年の友達とだとあんまり入りづらい雰囲気なのですが、こういう体験もできて良かったです。これはこれで味わい深い♪
(ちなみにキャバレーのショーをやるときとか週末はけっこう入るみたいですね。週末のコンサートのときに賑わってたのを見たことがあります。)
コンサートが終わっても話はちょこちょこ音楽周り。
メルボルンの音楽重鎮の人間関係ちょいゴシップだったり、あと今こちらでやってる某オペラプロダクションに着いて。なんだかものすごく悪い、という話だったのですが。
見てみないとそりゃあ評価はできませんが、要するに話としてはそのオペラに限らず「ポピュラー(=陳腐)なものを低クオリティで提供することの悪」についての懸念の話になり。
演奏・プロダクションのクオリティはもちろんですが、クラシックに限らずポピュラーで当たり障りないような曲ばっかり並べても人々に音楽を好きになってもらうことはできない、という話だったり。プログラムは多少知られていないものでも本当にいい音楽を本当にいい演奏で届けることの大切さについて熱く語ってましたね、年配陣プロ軍団(笑)
でも全体としてはそういうとこメルボルンの音楽シーンはちゃんとしてると思いますよ。室内楽でもオケでもリサイタルでも、レパートリー的に大抵新しい発見は聴く度にありますし、ポピュラー系統はライトミュージック音楽専門のコンサートに限ってますし、いつもプログラムを見る度に好き嫌い別として凝ってるなあ、良い曲揃いだな、と思いますし。
リサイタルを組むときも、マイケルのリサイタルだったり(今回もね!)とくにPiano Landmarksではそれ全体、そしてその中の各コンサート、各奏者のプログラムの選曲全てにコンセプトだったり意味があったりで。私も本当にそういうプログラム組みに憧れるんですよね。
聴衆に音楽を好きになってもらうにはどうするか、そして聴衆の「音楽の体験」について本当に考えさせられる話でした。(そして同時にメルボルンの音楽家の捉え方というか真剣に考えてるってことが分かってやっぱり安心します。)
ゆっくりマイケルと話す時間はなかったですし、次いつメルボルンに来るかわからないって言ってましたが全体的に本当に楽しかったです。やっぱり彼の演奏はいつ聴いてもにやりとします。
明日は先ほども書きましたがレクチャーです。感想まとめられますように・・・
今日の一曲: ベンジャミン・ブリテン 無伴奏チェロ組曲第1番 「Bordone」
今回のコンサートとほぼ繋がりはない今日の曲のチョイス。
実はクラムの音楽のことを考えているときにDrone(ドローン、単音・重音の(伝統的には持続的で動かない)ベースライン)について考えてて。
それで民族音楽においてのドローン、分かりやすいところだとこちらでもよく生で聞けるバグパイプやDidjeridooもそうですし、あとそこから調べてインドのタンブーラ、そして日本の薩摩琵琶もそうだと知って。
で、薩摩琵琶が下の2本の弦を開放弦のドローン(非連続音)として使う、という話を聞いて、そして実際に音を聞いてこれはブリテンの無伴奏チェロのあれじゃないか!とひらめいて調べてみたらこの楽章の名前Bordoneがラテン語圏(?)でドローンのことを指すこと、そしてロルカの詩でも同じBourdonという言葉が使われてることを知り。
でも実際そう思って聴いてみるとブリテン日本の影響受けてるんじゃないか?という感は本当に強いですね!
薩摩琵琶の雰囲気だったり、インドのタンブーラにも似ていて。
持続的ではなく、たまにピチカートとして現れ、響くドローン。持続的ではないから広がる響き・空間があるんですよね。
無伴奏のチェロ組曲といえばもちろんバッハのものが有名です(このブログでも以前紹介しましたね、またいつかやりたいです)。が、もちろんチェロのための無伴奏のレパートリーはそれに限りません。
コダーイの無伴奏ソナタ(これも以前紹介した覚えが)もかっこいいですし、このブリテンの無伴奏組曲も独特の世界を確立しています。
バッハの無伴奏組曲は音で空間を満たすような、Richnessというか満足さ、暖かさ、fullnessがあるのですが、ブリテンの無伴奏組曲は全く逆とも言える効果があります。
一人でちゃんと音楽は完全に成り立っている、そこに完璧さはあるけれど同時に独りであることの孤独、そしてその「1人」の周りの無限大の空間のからっぽさみたいなものも同時にあって。
そしてやっぱりブリテンの「闇」の性質はいいです。ドライだけど深い。
そういうところもひっくるめてこの曲は盲目の琵琶法師の語りみたいだな、と思います。
独りの語りですよね。独特の世界と観点と表現で。語りの間聴き手がしんと静まることで目の見えない語り手の周りに果てしなく広がる闇も。
やっぱブリテン東洋に影響受けてるのかなー。(再び)
(そしてブリテンのこの3つの組曲、まだまだ勉強&聴き不足。もっと親しんで身につけたいです)
レクチャー・セミナーハンティング(笑)にいくつかメンタルヘルスに関連する団体のニュースレターをメール購読してるのですが、そのうちの一つにオーストラリア政府・VIC州政府の予算案に関する話が掲載されていました。
州政府はこれからの3~4年の取り組みとして5850万ドル(約50億円)をメンタルヘルス関連の研究、精神疾患の患者さんのためのリハビリ等の施設、コミュニティベースのメンタルヘルス施設・サービス、そして若い人のメンタルヘルスの用途に使うと好評。
国の政府は重症の精神疾患を患う人のためのケアの拡大、ケア提供・アクセスの改善、メンタルヘルスのプライマリケア、そして若い人や子どもの精神疾患予防・早期介入プログラムなどに15億ドル(約1290億円)を投入するとのこと。
お金が出たところで問題が解決するわけではないですが、これでメルボルン、そしてオーストラリアのメンタルヘルスケアがより良い物になるよう願っています。
(ちょっと気になるのは都市部から離れた地域、さらに原住民のメンタルヘルスケアについてこのニュースレターに書いてなかったこと。まあ予算案に含まれてないってことはまずあり得ないので書かれてないだけだと思いますが)
最近鬱状態になってipodのランダム再生で曲をくるくる飛ばしたり変えたりすることが多くなりました。
心地が落ち着きにくい、というかこれじゃないなあ、とかこれは聞きたくないかも、とか・・・不快までとはいきませんがちょっとでも「心地悪い」と感じる閾値が下がったように感じます。
もちろんちゃんとそれには理由もあり。
鬱状態になると身体・心にいろんな変化が起きますが、音楽を聴くという行為に影響があるものをいくつか挙げるとこんな感じになります。(あくまでも私個人の例です)
1) 気分の落ち込み(とそれに伴う「明るい」ものに対する過敏)
2) 脳の処理能力の低下(前頭葉の機能低下の一つ。人との会話を追うのはもちろん、本を読むのもままならない)
3) 自分の感情を適切に認識、処理、発散する能力の低下(これも前頭葉の機能低下の一つ)
4) エネルギーの低下(にともなう活動の低下)
5) 落ち着きがなくなる(↑のようになにもできない状態だけれど、なにもせずにいることもできない。集中力、さらに我慢できるレベルが低下する)
鬱状態で1)、3)、4)が重なるとわりと自分が「中途半端な状態」にいるような感じになるんですよね。
落ちるところまで落ちていない、という感覚もありますし、感情が発散されずに自分の手のちょっと届かないところでゆっくりと渦巻いている感じで。
下手な例えになりますが、庭の土の中に蛇が冬眠している、という感じでしょうか。掘り起こすにはちょっと深い。でもそこに確かに居ることは変わらない。
だから自分で望んでいる対処法としてはその感情から逃げたいとか、その感情がないといいなあ、ということではなくその感情にアクセスして、がっつり感じてから自分の手で発散したい、という欲求の方がずっと強いです。
ただ感情にアクセス、そして分析できる処理能力もなく、表現・発散できるエネルギーや集中力もない。
だからなるべくここの問題に対して音楽を使いたいですね・・・ただもっともそういう表現、発散を促す曲を自然に選んでしまうような気がします。自分がその時聴きたい曲っていうのは自分の状態、そして自分の欲求を本当に明確に反映していると思います。
こういう状態の時避けたい、というか避けてしまうのはこんな曲。
1) 明るい、派手、外向的な曲(気圧される、といいますか、光過敏症みたいなものです)
2) ポピュラーな曲(斜に構えてしまうので(汗))
3) 長い曲(集中力が続かない、飽きる)
4) 複雑な曲、特に感情contentが少ない曲(心というより頭に負担が大きい)
そして逆にこういうとき自然と惹かれる、選ぶ曲はこんな特徴が。
1) 暗い派手さを持っているパワフルな曲(自分で感情の細々したところが認識できないので自分の感情と音楽の感情が必ずしも完全一致しなくてもいいようです。とにかく発散!というか)
2) リズムが強い、パンチがある曲(リズムは前頭葉よりも脳の「原始的な部分」に働きかける、といろいろなところで聴いていますが、それが理由でしょうか。)
3) 感情が割とぎっしり詰まった曲(自分の中にあるけれどアクセスできない感情に手が届くようになるための刺激、ということかな。外と内が繋がって発散になるような気がします)
4) 重厚というか低音が強い曲(不快に感じる閾値が低くなるため、きんきんしていると普段は思わなくてもこういう状態の時は耳につきやすいようです)
耳から入ってくる言語を処理する能力が弱まっているため器楽・声楽は関係ないようです。
そして一般的に感度はリズム>ハーモニー>音色>メロディー>歌詞の順で良い・・・とあくまでも印象ですが。
やっぱりこういうときにショスタコーヴィチの音楽はぴったりですね。先ほどの特徴にもよく当てはまります。
あとはバルトークなどハンガリー勢も良いですし、ブラームスもフィットが良いです。
やはりどれもがっつり系。
鬱状態になって好みが若干変わったりもしますが、基本好きな曲は好き、という傾向はおおまかにみれば変わりないですしね。
実際にどの曲、とかはまだ根気と集中力と観察が不足していて全然まとまってないのですが。
なのでこれからゆるーく観察を続けてみようと思います。
5月24日捕捉: このエントリーで書いたのはちょっと騒がしい系統ばっかりに見られてしまいそうですが、もちろん心を穏やかにする、自分の中の不安、落ち着きない気持ちを穏やかにして望まない静寂をfillする静かめの音楽も聴きますし、有用だと思います。こちらもまたそのうち考えてまとめてみたいですね。
明日はマイケルのコンサートが国立アカデミーであるのでブログ更新はお休みです。
今日テレビでゴチ見ててサンドライトマトとかモッツァレラチーズとか美味しそうだったので5時半くらいに着くように行ってサウスメルボルンでピッツァを食べたいです!(7時開演だとこんなに早く食べなきゃ!でも病院ではこれくらいの時間でした(笑))
ということで次回は感想レポで・・・hopefully。
今日の一曲: ジョージ・クラム Madrigals 第1巻 第1楽章「Verte Desnuda Es Recordar La Tierra」
先ほど書きましたが今日のこのトピックにあった特定の曲、というのはまだ固まってないのでちょっとIcebreakerが長いこと欲しかったエリアから。
クラムの音楽はちょこちょこ紹介してて全体的に出し惜しみたいのですが、でもMadrigalsは4巻×3曲=12曲あるのにまだ完全なるノータッチ!ということで今回紹介します。
Madrigalsはソプラノ歌手と少人数の楽器アンサンブルで演奏される曲。
使われている楽器は4巻全て違います。フルートが入ったり、打楽器が入ったり、コントラバス、ハープなども。
第1巻はソプラノ歌手、ビブラフォーン、そしてコントラバス。
Madrigalsの歌詞はどれもロルカの詩からとられています。
この楽章の題の訳は「あなたを裸で見ることは大地を思い出すこと」となります。
即座に連想するのは「母なる大地」というコンセプト。
ロルカの詩の一部だけでなく「意味のない音節」も多く使われているこの音楽ですが、ソプラノ歌手が歌うこれらがあたかも大地、自然の言葉のようで。
そして「大地」の言葉にコントラバスって良いですね!ビブラフォーンの不思議な響きもいいですがやっぱりコントラバスのあのかすれた深い音色を聴くとどこか落ち着くものがありますよ。
クラムのコントラバスの使い方、私はとっても好きです。
今回Madrigals初紹介ということで第1巻第1楽章から始めてみましたが、今自分にとって発展途上のこの曲集で愛着を着実に育てつつあるのでまた日を改めて、もっと自分の中に根付かせてから他の楽章も取り扱いたいです♪
ちなみにリンクしたCD、曲の取り合わせも奏者の顔ぶれもピカイチですね。買っちゃおうかしら、今度。
(Jan DeGaetaniの歌、Zizi Muellerのフルートのコンビ聴きたい!)
州政府はこれからの3~4年の取り組みとして5850万ドル(約50億円)をメンタルヘルス関連の研究、精神疾患の患者さんのためのリハビリ等の施設、コミュニティベースのメンタルヘルス施設・サービス、そして若い人のメンタルヘルスの用途に使うと好評。
国の政府は重症の精神疾患を患う人のためのケアの拡大、ケア提供・アクセスの改善、メンタルヘルスのプライマリケア、そして若い人や子どもの精神疾患予防・早期介入プログラムなどに15億ドル(約1290億円)を投入するとのこと。
お金が出たところで問題が解決するわけではないですが、これでメルボルン、そしてオーストラリアのメンタルヘルスケアがより良い物になるよう願っています。
(ちょっと気になるのは都市部から離れた地域、さらに原住民のメンタルヘルスケアについてこのニュースレターに書いてなかったこと。まあ予算案に含まれてないってことはまずあり得ないので書かれてないだけだと思いますが)
最近鬱状態になってipodのランダム再生で曲をくるくる飛ばしたり変えたりすることが多くなりました。
心地が落ち着きにくい、というかこれじゃないなあ、とかこれは聞きたくないかも、とか・・・不快までとはいきませんがちょっとでも「心地悪い」と感じる閾値が下がったように感じます。
もちろんちゃんとそれには理由もあり。
鬱状態になると身体・心にいろんな変化が起きますが、音楽を聴くという行為に影響があるものをいくつか挙げるとこんな感じになります。(あくまでも私個人の例です)
1) 気分の落ち込み(とそれに伴う「明るい」ものに対する過敏)
2) 脳の処理能力の低下(前頭葉の機能低下の一つ。人との会話を追うのはもちろん、本を読むのもままならない)
3) 自分の感情を適切に認識、処理、発散する能力の低下(これも前頭葉の機能低下の一つ)
4) エネルギーの低下(にともなう活動の低下)
5) 落ち着きがなくなる(↑のようになにもできない状態だけれど、なにもせずにいることもできない。集中力、さらに我慢できるレベルが低下する)
鬱状態で1)、3)、4)が重なるとわりと自分が「中途半端な状態」にいるような感じになるんですよね。
落ちるところまで落ちていない、という感覚もありますし、感情が発散されずに自分の手のちょっと届かないところでゆっくりと渦巻いている感じで。
下手な例えになりますが、庭の土の中に蛇が冬眠している、という感じでしょうか。掘り起こすにはちょっと深い。でもそこに確かに居ることは変わらない。
だから自分で望んでいる対処法としてはその感情から逃げたいとか、その感情がないといいなあ、ということではなくその感情にアクセスして、がっつり感じてから自分の手で発散したい、という欲求の方がずっと強いです。
ただ感情にアクセス、そして分析できる処理能力もなく、表現・発散できるエネルギーや集中力もない。
だからなるべくここの問題に対して音楽を使いたいですね・・・ただもっともそういう表現、発散を促す曲を自然に選んでしまうような気がします。自分がその時聴きたい曲っていうのは自分の状態、そして自分の欲求を本当に明確に反映していると思います。
こういう状態の時避けたい、というか避けてしまうのはこんな曲。
1) 明るい、派手、外向的な曲(気圧される、といいますか、光過敏症みたいなものです)
2) ポピュラーな曲(斜に構えてしまうので(汗))
3) 長い曲(集中力が続かない、飽きる)
4) 複雑な曲、特に感情contentが少ない曲(心というより頭に負担が大きい)
そして逆にこういうとき自然と惹かれる、選ぶ曲はこんな特徴が。
1) 暗い派手さを持っているパワフルな曲(自分で感情の細々したところが認識できないので自分の感情と音楽の感情が必ずしも完全一致しなくてもいいようです。とにかく発散!というか)
2) リズムが強い、パンチがある曲(リズムは前頭葉よりも脳の「原始的な部分」に働きかける、といろいろなところで聴いていますが、それが理由でしょうか。)
3) 感情が割とぎっしり詰まった曲(自分の中にあるけれどアクセスできない感情に手が届くようになるための刺激、ということかな。外と内が繋がって発散になるような気がします)
4) 重厚というか低音が強い曲(不快に感じる閾値が低くなるため、きんきんしていると普段は思わなくてもこういう状態の時は耳につきやすいようです)
耳から入ってくる言語を処理する能力が弱まっているため器楽・声楽は関係ないようです。
そして一般的に感度はリズム>ハーモニー>音色>メロディー>歌詞の順で良い・・・とあくまでも印象ですが。
やっぱりこういうときにショスタコーヴィチの音楽はぴったりですね。先ほどの特徴にもよく当てはまります。
あとはバルトークなどハンガリー勢も良いですし、ブラームスもフィットが良いです。
やはりどれもがっつり系。
鬱状態になって好みが若干変わったりもしますが、基本好きな曲は好き、という傾向はおおまかにみれば変わりないですしね。
実際にどの曲、とかはまだ根気と集中力と観察が不足していて全然まとまってないのですが。
なのでこれからゆるーく観察を続けてみようと思います。
5月24日捕捉: このエントリーで書いたのはちょっと騒がしい系統ばっかりに見られてしまいそうですが、もちろん心を穏やかにする、自分の中の不安、落ち着きない気持ちを穏やかにして望まない静寂をfillする静かめの音楽も聴きますし、有用だと思います。こちらもまたそのうち考えてまとめてみたいですね。
明日はマイケルのコンサートが国立アカデミーであるのでブログ更新はお休みです。
今日テレビでゴチ見ててサンドライトマトとかモッツァレラチーズとか美味しそうだったので5時半くらいに着くように行ってサウスメルボルンでピッツァを食べたいです!(7時開演だとこんなに早く食べなきゃ!でも病院ではこれくらいの時間でした(笑))
ということで次回は感想レポで・・・hopefully。
今日の一曲: ジョージ・クラム Madrigals 第1巻 第1楽章「Verte Desnuda Es Recordar La Tierra」
先ほど書きましたが今日のこのトピックにあった特定の曲、というのはまだ固まってないのでちょっとIcebreakerが長いこと欲しかったエリアから。
クラムの音楽はちょこちょこ紹介してて全体的に出し惜しみたいのですが、でもMadrigalsは4巻×3曲=12曲あるのにまだ完全なるノータッチ!ということで今回紹介します。
Madrigalsはソプラノ歌手と少人数の楽器アンサンブルで演奏される曲。
使われている楽器は4巻全て違います。フルートが入ったり、打楽器が入ったり、コントラバス、ハープなども。
第1巻はソプラノ歌手、ビブラフォーン、そしてコントラバス。
Madrigalsの歌詞はどれもロルカの詩からとられています。
この楽章の題の訳は「あなたを裸で見ることは大地を思い出すこと」となります。
即座に連想するのは「母なる大地」というコンセプト。
ロルカの詩の一部だけでなく「意味のない音節」も多く使われているこの音楽ですが、ソプラノ歌手が歌うこれらがあたかも大地、自然の言葉のようで。
そして「大地」の言葉にコントラバスって良いですね!ビブラフォーンの不思議な響きもいいですがやっぱりコントラバスのあのかすれた深い音色を聴くとどこか落ち着くものがありますよ。
クラムのコントラバスの使い方、私はとっても好きです。
今回Madrigals初紹介ということで第1巻第1楽章から始めてみましたが、今自分にとって発展途上のこの曲集で愛着を着実に育てつつあるのでまた日を改めて、もっと自分の中に根付かせてから他の楽章も取り扱いたいです♪
ちなみにリンクしたCD、曲の取り合わせも奏者の顔ぶれもピカイチですね。買っちゃおうかしら、今度。
(Jan DeGaetaniの歌、Zizi Muellerのフルートのコンビ聴きたい!)
