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今日も引き続きマーラーの話です。
いろいろ崇拝してるとも言える程度まで彼の音楽の素晴らしさを昨日語りました(笑)
実際に一つ一つの曲を見ても一人の人間が創り上げるには凄すぎる、そんな音楽をたくさんたくさん(クオリティのむらもあんまりなく?)書いてきた人ですが・・・
だからといってマーラーを天才、というのはなんだか違う気がします。
なんだかその・・・言葉に違和感があるというか。
確かに類い希なる感性と思考、表現力をもってはいます。
ただ彼を天才とするにはマーラーは人間臭すぎて、闇の世界にどっぷりつかっていて、音楽が壮大すぎて・・・なんでしょう、天才という言葉が軽々しくうつってしますのです。
マーラーは迷信深い人でした。
不吉な予兆・感じを信じる人で、俗に言う「交響曲第9番の呪い」という、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナーなどが9つの交響曲を書いて死んでいるということから生まれたジンクスを信じている節があったと言われています。
なんというか性格的にもわりとmorbidなテイストの人だったらしく、闇や死を身近に感じながら生きていたような感があります。
一つ有名なエピソードですが、彼がアルマ・シントラー(後にマーラーについて伝記を書いたり死た人です。まあ多少の脚色はあるようですが)と結婚して子供をもうけたあとも、幼い子供と遊ぶ傍らで「亡き子をしのぶ歌」の作曲作業を進めたりしてアルマをぞっとさせたらしいです。
ただ私の解釈ですが、マーラーにとって生と死は紙の裏表のように一体のようなものだったと思います。こういうマーラーだったからこそ、全てを包括した一つの世界のような音楽が書けた、と。
実際弟を自殺で亡くしたり、子供を亡くしたり(プラス自身心臓病を患ったり)と彼は「死」を身近に見てきた経験が多いようです。
マーラーが実際鬱を患っていたという記述やエピソードは実は直接的なものは見つかってないんですが・・・
なんらかの精神疾患に関連したパーソナリティ特性を持ってたのかな、と解釈しています。
(あと彼は偏頭痛持ちだったのですが、いつだか偏頭痛と鬱は遺伝的な要因によって併発しやすい傾向がある、ということを論文で読んだので。)
その根拠は彼について書かれた文章以上に彼の音楽に強く表れている、とも思います。
マーラーの交響曲や歌曲に現れる深く暗い闇は心に何かそういう疾患や傾向、状態がなければ感じることも表現することも無理なんじゃないか!?と思われるスケールの、そして性質の闇があります。
なかなか説明するのが難しいんですが、音楽から感じる闇とか、その表現の仕方とか。
で、闇が深いからこそ彼の音楽にある光は強く、眩し過ぎるほどに眩しく、それから恋しい、というか・・・強いあこがれと切望、それ以上のものがあります。
なんというか、鬱を何年も患っているせいか「光」を眩しすぎるという感じがあるんですが、まさにそれ。ただやっぱり上記光への切望をマーラーの音楽には感じてしまう。
大学時代色んな友達と離した経験からの話なのですが、マーラーの音楽に思い入れが深い人ほど彼の音楽の闇の部分に思い入れが深い傾向があるような気がします。
そしてこれもなんとなくなのですが、鬱だったりそういう傾向・状態を経験した人の方がマーラーの音楽に共感しやすいようなことがあります。
私がマーラー5番を弾いたのも実は鬱のかなりひどい時期で、マーラーの音楽にはまった、ロックオンしたのは偉大さももちろんありますがその闇と共感したのも大きいのではないかと。
さらに演奏が終わった後何年かはこの曲を聴くと当時の辛い気持ちが蘇るからといって聴かなかった(心の中で再生は一部セーフ)経験もあります。
マーラーの交響曲は若い人のオケにどんどん弾いて欲しい音楽でもあります。
まず長いですし、楽器ごとのパートも難しいですし、指揮者の力量や音楽性もかなり問われる、さらにまとめるのも難しいですが、本当に弾きごたえがあって、モチベーションも上がるような難しさですし、なんといっても本当にクオリティが高い音楽を、オケの一体感とそれぞれのパートの大切さをかみしめながら弾ける曲なので。
(といってもユースオケでは5番と1番しか弾いてないんですよね~私も。あとのは一段と難しいのですがもっと弾きたかった!)
聴く面においてもマーラーはもっと若い人にどんどん聴いて欲しい音楽でもあります。
思春期に感じる、自分のキャパシティを超えるほどの感情の殺到をがっつり共感してその壮大なスケールと包容力で受け止めてくれる、巨大に感じる感情を形作ってくれる、というので・・・
そしてマーラーの音楽にあるエネルギー、生命力、そして闇や光、内なるパワー、自然の壮大さを音楽のエネルギーとして感じるあのパワフルさに聴き手も(ある程度精神力を消費しながらも)でっかいエネルギーをもらえるような気がします。
若い・年をとったにかかわらずマーラーの音楽が素晴らしいもので、彼の音楽を聴くということが本当にユニークで素晴らしい経験だと言うことは本当に念を押しても押しきれない気持ちです。
一番良いのは交響曲。そしてオケ伴奏の歌曲。長いのは承知ですが、できるだけ完全な形で(=全楽章)聴いてもらいたいなーと思います。
特定のオススメについてはおいおい今日の一曲でご紹介したいです!
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第6番 第2楽章
出してしまいました、マーラー6番。
マーラーを初めて聞く、と言う方にはオススメとは言えないのですが、共感してはまりつつあるのに拍車をかける目的、それからなんというか、がっつり向き合ってチャレンジが欲しい方には物凄くオススメです。
この曲を最初に聴いたとき第1楽章と第2楽章の冒頭がものすごく似ててびっくりしました。
確かに似てるのですが、第1楽章は4拍子、第2楽章は3拍子で曲の性格もだんだん違ってくるのでとりあえずびっくりだけ(笑)
以前スケルツォについてこのブログで話した覚えがありますが、マーラーのスケルツォは全体的にlight-heartedなユーモアとは離れたところにあります。結構重めで、皮肉がかってて。ブラックユーモア的な。ショスタコーヴィチのスケルツォにも似たところが。
この第6番第2楽章もそんなマーラーらしいスケルツォの一つ・・・というかかなり!ヘビーなキャラクターです。
なんというか、マーラーのスケルツォって生と死だったり正気と狂気の間の綱渡りを楽しんでる、その間を自由に行き来しながら、死に神と戯れたり、光や闇を翻し、気まぐれに身を投じたり。
ハーモニーに光と闇が同時に現れたりして、その強さ、それよりも危うさが独特のテイストで、病みつきになります。
(そういえば4番のスケルツォには実際に死神が登場しますね。)
この楽章で耳を傾け・・・いえ、いやでも耳に入ってくるのはホルン軍団。全部で9人、その威力は恐ろしいです。
ホルンと言えば普段は高貴で丸い、明るい音が特徴ですがこの曲では暗く、激しく、奏でるパッセージはわりと下品(?)な方向に行ってます。なかなかこういうテイストをここまでもってくるのは珍しいです。
わけがわからなくなってしまいましたが、この曲のホルン軍団のパートがめちゃくちゃ好きなんですよ!
この曲のmacabreな、死の匂いを帯びたテイストがたどり着く先は最後のクライマックス。
大学の友達で私よりもずっとずっと博識な人の話なのですが、このクライマックスの甲高い音は、子供(しかもマーラーの娘)の叫び声だ、という説があるらしいです。
聞いたらきっとすぐ分かります。背筋をぞっと凍らせるような、恐ろしい音なので・・・
(余談ですが人間は黒板をひっかく音を先祖の猿のころから遺伝的に・本能的に嫌うようにプログラミングされてるらしい、という話を聞いたことがあります。奇しくもこれも「子供の叫び声」に由来するそうで、きっとこの曲のこの和音、音色も本能的に神経を逆撫でされるような音なのではないか、と思います。)
いくら死と友達になり、光や闇、生や死と戯れているつもりでも最後に笑うのは死。
その刃は予期せず私たちを襲い、その手から逃れられる者はいない。
そんな死だったり闇の圧倒的な力を本当に身近に感じ、共感できる曲です。
(テンシュテットの録音をリンクしましたが、この曲の録音の中では鬼気迫るキャラクター、パワーなどにおいt桁外れにすごいとの評判です。ぜひ彼の指揮で聴いてみてくださいね♪)
いろいろ崇拝してるとも言える程度まで彼の音楽の素晴らしさを昨日語りました(笑)
実際に一つ一つの曲を見ても一人の人間が創り上げるには凄すぎる、そんな音楽をたくさんたくさん(クオリティのむらもあんまりなく?)書いてきた人ですが・・・
だからといってマーラーを天才、というのはなんだか違う気がします。
なんだかその・・・言葉に違和感があるというか。
確かに類い希なる感性と思考、表現力をもってはいます。
ただ彼を天才とするにはマーラーは人間臭すぎて、闇の世界にどっぷりつかっていて、音楽が壮大すぎて・・・なんでしょう、天才という言葉が軽々しくうつってしますのです。
マーラーは迷信深い人でした。
不吉な予兆・感じを信じる人で、俗に言う「交響曲第9番の呪い」という、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナーなどが9つの交響曲を書いて死んでいるということから生まれたジンクスを信じている節があったと言われています。
なんというか性格的にもわりとmorbidなテイストの人だったらしく、闇や死を身近に感じながら生きていたような感があります。
一つ有名なエピソードですが、彼がアルマ・シントラー(後にマーラーについて伝記を書いたり死た人です。まあ多少の脚色はあるようですが)と結婚して子供をもうけたあとも、幼い子供と遊ぶ傍らで「亡き子をしのぶ歌」の作曲作業を進めたりしてアルマをぞっとさせたらしいです。
ただ私の解釈ですが、マーラーにとって生と死は紙の裏表のように一体のようなものだったと思います。こういうマーラーだったからこそ、全てを包括した一つの世界のような音楽が書けた、と。
実際弟を自殺で亡くしたり、子供を亡くしたり(プラス自身心臓病を患ったり)と彼は「死」を身近に見てきた経験が多いようです。
マーラーが実際鬱を患っていたという記述やエピソードは実は直接的なものは見つかってないんですが・・・
なんらかの精神疾患に関連したパーソナリティ特性を持ってたのかな、と解釈しています。
(あと彼は偏頭痛持ちだったのですが、いつだか偏頭痛と鬱は遺伝的な要因によって併発しやすい傾向がある、ということを論文で読んだので。)
その根拠は彼について書かれた文章以上に彼の音楽に強く表れている、とも思います。
マーラーの交響曲や歌曲に現れる深く暗い闇は心に何かそういう疾患や傾向、状態がなければ感じることも表現することも無理なんじゃないか!?と思われるスケールの、そして性質の闇があります。
なかなか説明するのが難しいんですが、音楽から感じる闇とか、その表現の仕方とか。
で、闇が深いからこそ彼の音楽にある光は強く、眩し過ぎるほどに眩しく、それから恋しい、というか・・・強いあこがれと切望、それ以上のものがあります。
なんというか、鬱を何年も患っているせいか「光」を眩しすぎるという感じがあるんですが、まさにそれ。ただやっぱり上記光への切望をマーラーの音楽には感じてしまう。
大学時代色んな友達と離した経験からの話なのですが、マーラーの音楽に思い入れが深い人ほど彼の音楽の闇の部分に思い入れが深い傾向があるような気がします。
そしてこれもなんとなくなのですが、鬱だったりそういう傾向・状態を経験した人の方がマーラーの音楽に共感しやすいようなことがあります。
私がマーラー5番を弾いたのも実は鬱のかなりひどい時期で、マーラーの音楽にはまった、ロックオンしたのは偉大さももちろんありますがその闇と共感したのも大きいのではないかと。
さらに演奏が終わった後何年かはこの曲を聴くと当時の辛い気持ちが蘇るからといって聴かなかった(心の中で再生は一部セーフ)経験もあります。
マーラーの交響曲は若い人のオケにどんどん弾いて欲しい音楽でもあります。
まず長いですし、楽器ごとのパートも難しいですし、指揮者の力量や音楽性もかなり問われる、さらにまとめるのも難しいですが、本当に弾きごたえがあって、モチベーションも上がるような難しさですし、なんといっても本当にクオリティが高い音楽を、オケの一体感とそれぞれのパートの大切さをかみしめながら弾ける曲なので。
(といってもユースオケでは5番と1番しか弾いてないんですよね~私も。あとのは一段と難しいのですがもっと弾きたかった!)
聴く面においてもマーラーはもっと若い人にどんどん聴いて欲しい音楽でもあります。
思春期に感じる、自分のキャパシティを超えるほどの感情の殺到をがっつり共感してその壮大なスケールと包容力で受け止めてくれる、巨大に感じる感情を形作ってくれる、というので・・・
そしてマーラーの音楽にあるエネルギー、生命力、そして闇や光、内なるパワー、自然の壮大さを音楽のエネルギーとして感じるあのパワフルさに聴き手も(ある程度精神力を消費しながらも)でっかいエネルギーをもらえるような気がします。
若い・年をとったにかかわらずマーラーの音楽が素晴らしいもので、彼の音楽を聴くということが本当にユニークで素晴らしい経験だと言うことは本当に念を押しても押しきれない気持ちです。
一番良いのは交響曲。そしてオケ伴奏の歌曲。長いのは承知ですが、できるだけ完全な形で(=全楽章)聴いてもらいたいなーと思います。
特定のオススメについてはおいおい今日の一曲でご紹介したいです!
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第6番 第2楽章
出してしまいました、マーラー6番。
マーラーを初めて聞く、と言う方にはオススメとは言えないのですが、共感してはまりつつあるのに拍車をかける目的、それからなんというか、がっつり向き合ってチャレンジが欲しい方には物凄くオススメです。
この曲を最初に聴いたとき第1楽章と第2楽章の冒頭がものすごく似ててびっくりしました。
確かに似てるのですが、第1楽章は4拍子、第2楽章は3拍子で曲の性格もだんだん違ってくるのでとりあえずびっくりだけ(笑)
以前スケルツォについてこのブログで話した覚えがありますが、マーラーのスケルツォは全体的にlight-heartedなユーモアとは離れたところにあります。結構重めで、皮肉がかってて。ブラックユーモア的な。ショスタコーヴィチのスケルツォにも似たところが。
この第6番第2楽章もそんなマーラーらしいスケルツォの一つ・・・というかかなり!ヘビーなキャラクターです。
なんというか、マーラーのスケルツォって生と死だったり正気と狂気の間の綱渡りを楽しんでる、その間を自由に行き来しながら、死に神と戯れたり、光や闇を翻し、気まぐれに身を投じたり。
ハーモニーに光と闇が同時に現れたりして、その強さ、それよりも危うさが独特のテイストで、病みつきになります。
(そういえば4番のスケルツォには実際に死神が登場しますね。)
この楽章で耳を傾け・・・いえ、いやでも耳に入ってくるのはホルン軍団。全部で9人、その威力は恐ろしいです。
ホルンと言えば普段は高貴で丸い、明るい音が特徴ですがこの曲では暗く、激しく、奏でるパッセージはわりと下品(?)な方向に行ってます。なかなかこういうテイストをここまでもってくるのは珍しいです。
わけがわからなくなってしまいましたが、この曲のホルン軍団のパートがめちゃくちゃ好きなんですよ!
この曲のmacabreな、死の匂いを帯びたテイストがたどり着く先は最後のクライマックス。
大学の友達で私よりもずっとずっと博識な人の話なのですが、このクライマックスの甲高い音は、子供(しかもマーラーの娘)の叫び声だ、という説があるらしいです。
聞いたらきっとすぐ分かります。背筋をぞっと凍らせるような、恐ろしい音なので・・・
(余談ですが人間は黒板をひっかく音を先祖の猿のころから遺伝的に・本能的に嫌うようにプログラミングされてるらしい、という話を聞いたことがあります。奇しくもこれも「子供の叫び声」に由来するそうで、きっとこの曲のこの和音、音色も本能的に神経を逆撫でされるような音なのではないか、と思います。)
いくら死と友達になり、光や闇、生や死と戯れているつもりでも最後に笑うのは死。
その刃は予期せず私たちを襲い、その手から逃れられる者はいない。
そんな死だったり闇の圧倒的な力を本当に身近に感じ、共感できる曲です。
(テンシュテットの録音をリンクしましたが、この曲の録音の中では鬼気迫るキャラクター、パワーなどにおいt桁外れにすごいとの評判です。ぜひ彼の指揮で聴いてみてくださいね♪)
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今日はなんだか気道の調子が悪いです・・・
前回こう気道が過敏に息苦しくなったのは一時ネットをお休みしていたとき。ストレスが身体に現れることがはっきりわかったんですが、今回はそんなにストレスらしいストレスは自覚していません。
一応昼の部はピアノも仕事もお休みしましたし、この案件を金曜に終わらせて週末はゆっくりしたいです。
明日を含めて運転レッスンももう2回。テストに向けてあんまり疲れを蓄積しないようにしなきゃ。
ブログ、そして特にTwitterではクラムやメシアンの音楽についてはよく話しますが、ショスタコーヴィチやマーラーの音楽については比較的話をしない傾向があるようで・・・
結構スケールが大きいからなのが一つの理由としてあると思いますが・・・なにはともあれ今日はマーラーのことについて。
オーケストラ楽器を弾いている人でマーラーの音楽が好きでない人に出会ったことがまずありません。
ピアノについては彼はほとんど曲を書いてないのであまり知られていませんが、他の楽器を弾く若い音楽家達に圧倒的な支持を得ている作曲家です。
彼の作品の中でも最高峰とされているのが交響曲。そのどれもが偉大で、本当に・・・偉大で。(汗)
もう、彼の音楽を言葉で表すことは不可能です!
マーラーは同じく交響曲の名作曲家として知られるようになったシベリウスに「交響曲は世界のように全てを包括していなくてはいけない」と語ったそうで、まさにその言葉に違わない曲たちで。
人間らしく、でも大自然やとても大きな力、そして私たちが積み重ねの上に成り立ってる見えない小さな力の働きまで、命という命に満ちた、巨大なスケールと綿密なディテールを兼ね備えながら、しっかりした構造、間違いない楽器使い、豊かな音楽性と感情、大きな空間と長い時間を全て包括していると思います。
マーラーの曲の中で、交響曲第1番はもう生涯ずっと親しんできましたが、私がマーラーの音楽に目覚めたのは15歳の時、交響曲第5番をユースオケで弾いた時。
私にとって初めてのマーラー演奏経験でしたが、同時にフルで交響曲を弾くのも初めてでした(断片的にならそれ以前にショスタコの11番を弾いています)。
その感覚を表現することはものすごく難しいですが、衝撃でした。誇張でなく、自分の人生が変わってます。
まずはその音楽の巨大さ、包容力、それから闇の深さ、愛の深さ・・・そしてリハーサルを重ねるにつれてこの曲がどんなに綿密に、どんなに細かいところまで気を配って完璧に書き詰めてるかを体感しました。
今でもマーラーの曲をマクロ単位(感情・パワーなど)で感じても、ミクロ単位(楽器使い、和音など)単位で感じてもよくぞくぞくっとします。
その楽器使いというか音楽の書き方、といいますか・・・マーラーに敵う者はいないと思います。
どの楽器を弾いても弾きごたえのあるパートで、音楽全体から考えて無駄のない、まるで世界の一員のようにしっかり貢献しています。たまにスコアを見ると(マーラーを聴くのにスコアがあると一段と違います!)これ細かすぎるんじゃないか!?というようなところが多々あるけれど、きっと人間の脳が意識的にプロセスできないところで、無意識にはちゃんと取り込まれて、人間の心に影響を与えているのでは?と信じています。
マーラーの交響曲および歌曲はそれぞれのジャンルの標準的な曲の長さよりも随分と長いです。
長い・深い・濃いと三拍子そろったと言いましょうか。交響曲第8番「千人の交響曲」ではオケ・合唱など合わせて本当に1000人で演奏しろといったり、第9番の最終楽章の永遠に続くような感じだったり・・・CDにするには難しそうですが(汗)とにかくでっかいです。交響曲の中の楽章一つ一つもがっつり一食。
これだけ壮大で隙もない音楽に全身全霊を注いで、よく交響曲9つ(+α)分生きたな!と思います。どっかで生命力使い果たしちゃいそうな気もしますよ。
なかなか個々の曲について離すのは難しいのですが、今日はここら辺で一旦切って明日マーラーの人物についてちょっとと、マーラーの音楽の内面に迫ってみたいと思います。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第5番 第4楽章 (「アダージェット」)
でました!一番定番のやつ!でもマーラーは定番でも他の曲に遜色ないですよ。
でも5番だったら第1楽章や第2楽章の方が好きで・・・ただまだ好きすぎて文章にできないです。
この曲が名曲として名を馳せたのは2つの主な理由があります。
一つは映画「ベニスに死す」で使われたこと。映画の内容もかなりインパクトがあるようですが(なんでまだ観てないんだ、私)、この曲の使われ方、そしてこの曲の性質、そして曲に込められた感情が映画の内容と結びついての効果が相乗したのかかなり有名になったらしいです。
もう一つの理由ですが・・・
どんな曲も有名になるには曲自体のクオリティも大切ですが、曲にまつわるエピソードも大切なエレメントだったりします。
この「アダージェット」に関しては曲もエピソードもインパクト大です。
あくまで言い伝え(リハーサルの時に聞いた)ですが、この曲を書いた当時マーラーはアルマと結婚したばかりで、彼女への愛を表現した曲、と言われています。
その言い伝えに違わず本当にロマンティックな曲で、息の長い弦のメロディーとハープの落ち着いた丸い音で創られるintimateな世界は暖かく、官能的で口説かれてるみたいで(笑)
(ちなみに弦とハープのみ弾く楽章です)
マーラーは合唱や声楽を交響曲に用いますが、この5番は楽器のみの編成・・・なのですが、どことなくやっぱり歌っぽい性格がありますね。
ただ歌だとしたらどんだけゆっくり歌ってどんだけ息が長く続くんだという。
これで口説かれたら少なくともムードに押されて折れますよ(笑)いや本当に。
洒落にならないくらいロマンチックで、大人の恋愛事の匂いがぷんぷんします。心に響くのはもちろん、本能に働きかけてきます(マーラーはなにかと生物学・心理学が絡んできますね、印象的に。フロイトと繋がりがあったらしいですし)。
先ほど言及しました「もっと思い入れの深い楽章」もありますので、ぜひこの交響曲のCDを借りて・買って、その時にはこの楽章でなく全部の楽章を聴いて欲しいです。
どの楽章も一つ一つ素晴らしいものですが、交響曲全体として聞いてもまたさらに完全な世界を感じられます。
ちなみに私マーラーと誕生日1日違い!(何にも関係ない!)
前回こう気道が過敏に息苦しくなったのは一時ネットをお休みしていたとき。ストレスが身体に現れることがはっきりわかったんですが、今回はそんなにストレスらしいストレスは自覚していません。
一応昼の部はピアノも仕事もお休みしましたし、この案件を金曜に終わらせて週末はゆっくりしたいです。
明日を含めて運転レッスンももう2回。テストに向けてあんまり疲れを蓄積しないようにしなきゃ。
ブログ、そして特にTwitterではクラムやメシアンの音楽についてはよく話しますが、ショスタコーヴィチやマーラーの音楽については比較的話をしない傾向があるようで・・・
結構スケールが大きいからなのが一つの理由としてあると思いますが・・・なにはともあれ今日はマーラーのことについて。
オーケストラ楽器を弾いている人でマーラーの音楽が好きでない人に出会ったことがまずありません。
ピアノについては彼はほとんど曲を書いてないのであまり知られていませんが、他の楽器を弾く若い音楽家達に圧倒的な支持を得ている作曲家です。
彼の作品の中でも最高峰とされているのが交響曲。そのどれもが偉大で、本当に・・・偉大で。(汗)
もう、彼の音楽を言葉で表すことは不可能です!
マーラーは同じく交響曲の名作曲家として知られるようになったシベリウスに「交響曲は世界のように全てを包括していなくてはいけない」と語ったそうで、まさにその言葉に違わない曲たちで。
人間らしく、でも大自然やとても大きな力、そして私たちが積み重ねの上に成り立ってる見えない小さな力の働きまで、命という命に満ちた、巨大なスケールと綿密なディテールを兼ね備えながら、しっかりした構造、間違いない楽器使い、豊かな音楽性と感情、大きな空間と長い時間を全て包括していると思います。
マーラーの曲の中で、交響曲第1番はもう生涯ずっと親しんできましたが、私がマーラーの音楽に目覚めたのは15歳の時、交響曲第5番をユースオケで弾いた時。
私にとって初めてのマーラー演奏経験でしたが、同時にフルで交響曲を弾くのも初めてでした(断片的にならそれ以前にショスタコの11番を弾いています)。
その感覚を表現することはものすごく難しいですが、衝撃でした。誇張でなく、自分の人生が変わってます。
まずはその音楽の巨大さ、包容力、それから闇の深さ、愛の深さ・・・そしてリハーサルを重ねるにつれてこの曲がどんなに綿密に、どんなに細かいところまで気を配って完璧に書き詰めてるかを体感しました。
今でもマーラーの曲をマクロ単位(感情・パワーなど)で感じても、ミクロ単位(楽器使い、和音など)単位で感じてもよくぞくぞくっとします。
その楽器使いというか音楽の書き方、といいますか・・・マーラーに敵う者はいないと思います。
どの楽器を弾いても弾きごたえのあるパートで、音楽全体から考えて無駄のない、まるで世界の一員のようにしっかり貢献しています。たまにスコアを見ると(マーラーを聴くのにスコアがあると一段と違います!)これ細かすぎるんじゃないか!?というようなところが多々あるけれど、きっと人間の脳が意識的にプロセスできないところで、無意識にはちゃんと取り込まれて、人間の心に影響を与えているのでは?と信じています。
マーラーの交響曲および歌曲はそれぞれのジャンルの標準的な曲の長さよりも随分と長いです。
長い・深い・濃いと三拍子そろったと言いましょうか。交響曲第8番「千人の交響曲」ではオケ・合唱など合わせて本当に1000人で演奏しろといったり、第9番の最終楽章の永遠に続くような感じだったり・・・CDにするには難しそうですが(汗)とにかくでっかいです。交響曲の中の楽章一つ一つもがっつり一食。
これだけ壮大で隙もない音楽に全身全霊を注いで、よく交響曲9つ(+α)分生きたな!と思います。どっかで生命力使い果たしちゃいそうな気もしますよ。
なかなか個々の曲について離すのは難しいのですが、今日はここら辺で一旦切って明日マーラーの人物についてちょっとと、マーラーの音楽の内面に迫ってみたいと思います。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第5番 第4楽章 (「アダージェット」)
でました!一番定番のやつ!でもマーラーは定番でも他の曲に遜色ないですよ。
でも5番だったら第1楽章や第2楽章の方が好きで・・・ただまだ好きすぎて文章にできないです。
この曲が名曲として名を馳せたのは2つの主な理由があります。
一つは映画「ベニスに死す」で使われたこと。映画の内容もかなりインパクトがあるようですが(なんでまだ観てないんだ、私)、この曲の使われ方、そしてこの曲の性質、そして曲に込められた感情が映画の内容と結びついての効果が相乗したのかかなり有名になったらしいです。
もう一つの理由ですが・・・
どんな曲も有名になるには曲自体のクオリティも大切ですが、曲にまつわるエピソードも大切なエレメントだったりします。
この「アダージェット」に関しては曲もエピソードもインパクト大です。
あくまで言い伝え(リハーサルの時に聞いた)ですが、この曲を書いた当時マーラーはアルマと結婚したばかりで、彼女への愛を表現した曲、と言われています。
その言い伝えに違わず本当にロマンティックな曲で、息の長い弦のメロディーとハープの落ち着いた丸い音で創られるintimateな世界は暖かく、官能的で口説かれてるみたいで(笑)
(ちなみに弦とハープのみ弾く楽章です)
マーラーは合唱や声楽を交響曲に用いますが、この5番は楽器のみの編成・・・なのですが、どことなくやっぱり歌っぽい性格がありますね。
ただ歌だとしたらどんだけゆっくり歌ってどんだけ息が長く続くんだという。
これで口説かれたら少なくともムードに押されて折れますよ(笑)いや本当に。
洒落にならないくらいロマンチックで、大人の恋愛事の匂いがぷんぷんします。心に響くのはもちろん、本能に働きかけてきます(マーラーはなにかと生物学・心理学が絡んできますね、印象的に。フロイトと繋がりがあったらしいですし)。
先ほど言及しました「もっと思い入れの深い楽章」もありますので、ぜひこの交響曲のCDを借りて・買って、その時にはこの楽章でなく全部の楽章を聴いて欲しいです。
どの楽章も一つ一つ素晴らしいものですが、交響曲全体として聞いてもまたさらに完全な世界を感じられます。
ちなみに私マーラーと誕生日1日違い!(何にも関係ない!)
家で働いているせいか外に出る頻度が少なく、外に出るとまとめて(自分基準ですが)お金を使う傾向にある気がします。
だいたい必需!という感じのものではなくてあるといいなあ、欲しいなあというものばかりで。
チェロの修理代の返済があるので押さえてはいるんですが・・・(汗)
それはおいといて本題に。
鎮魂曲、レクイエムというジャンルはクラシック音楽のなかでわりと存在感が大きい音楽ではないかと思います。
しかも交響曲、協奏曲ほど形式がはっきり決まってるわけでもなく(ただこの2つのジャンルもそんなにがっちり形式にはまってるわけでもないですが)、色んな作曲家が色んな形で「レクイエム」を表現しているのが面白いです。
レクイエムには大きくわけて2つの目的があると思います。
一つは死者の魂が安らかであることを祈るもの。(キリスト教の一部の宗派では一時的に煉獄にいなくちゃいけない魂は、生きているものが死者のために祈りを捧げることでその期間を縮めることができる、という話もあります)
そしてこの目的よりもおそらく大きな目的として、遺された者が目の前の死と向き合って折り合いをつけていくための儀式、というものがあると思います。
あ、それから生と死を前にして、それを通じて宗教的な信仰を植え付ける、強める、という意味合いもあると思います。
もともとがカトリックのミサにおける儀式&音楽なため、伝統的なレクイエムの歌詞はラテン語で書かれていて、カトリックの雰囲気がものすごく強いですね(Dies Irae=怒りの日での最後の審判の描写など)。
20世紀より前のレクイエムが「合唱付き」という編成なのもやはり賛美歌などが信仰の儀式の一部として組み込まれているキリスト教(特にカトリック)らしい、といいますか。
以前「呼吸を同じくすることで共感する度合いを上げる」という話をちょろっとしたかと思いますが(私のチェロの先生の受け売りです)、ある人の死に際して集まり、共に嘆く人々が共に歌うということでその悲しみを共有する、という働きがあるのではないかと思います。
さらに、レクイエムの音楽はたいてい多くの楽章から成り立っていますがその全部が必ずしも慰め、癒すものではないということも大切だと思います。
レクイエムという音楽の一連の体験において、遺された人が近しい人の死を現実のものとして受け止め、それに関する悲しみだったり絶望だったり怒りだったり、行き場がない感情を抑えてないものとするのではなくがっつり感じて・・・
これから先、その事実を受け止めて生きていけるようにその何かとタブー感があって押さえてしまう感情を引き出して、「ちゃんと」嘆くことができるようにこのレクイエムの暗く激しい楽章は存在しているんではないかと思います。
レクイエムはまさにその生と死を同時に見つめることのできる、特別なopportunityのための特別な音楽ということもあり、さらに作曲家それぞれに強い思いがあることが多く、独特な存在感を放つ名曲であることが多いと思います。
ここからは私が特に思い入れの強い個々のレクイエムの話になりますが・・・
モーツァルトのレクイエムは自身が当時若くして死の淵にあったこともあって死の恐ろしさがリアルですね。
実際「自分で自分の鎮魂曲を書いている」と自覚していたとまで言われますし、Kyrie Eleison、Rex TremendaeやDies Iraeを聞くとその説がものすごく真実味を帯びてくるのですよね~
私が好きなのはKyrie Eleison、Agnus Dei、それからTuba Mirumです。あれだけ恐恐としている、本当に切羽詰まって死がそこにある息苦しさのなかでよくこのトロンボーンソロが出たな!と素直に思うのです。でもトロンボーンの一番いいところ、透明でおおらかでピュアなサウンドなんですよね。
なんだかこう・・・30代なのにあまりにも突っ走ったからか、病のせいか「晩年」的な雰囲気がある曲なんですよね。もしもこの人長生きしてたらどうなってたんだろう、と余談。
ロマン派あたりの時代においてもレクイエムはカトリック系統、ということが定番だったのですが、それを覆したのがブラームス。宗教改革はもうバッハ以前の時代に起こったのに、ドイツ人の価値観に合うレクイエムが作られていない、という事態を懸念したらしくブラームスは自らドイツ語の聖書から歌詞を選んで、ドイツ語でドイツ人のためのドイツ・レクイエムを書いたのです。よく主張している事なのですが、やっぱり音楽を書いた作曲家の国籍と、歌詞の言語が一致するとより音楽が一体化するのです。
好きなのは第2楽章、第5楽章、第6楽章、第7楽章。第2楽章のティンパニのかっこよさだったり、前半のしたたかな悲しみ・苦しみから青空のように解き放たれた後半(エンディングがまた美しい!)が最初聞いた(=弾いた)ときから好きで。
第5楽章のソプラノソロの楽章はブラームスの母に捧げられていて、その強い思いとブラームスの得意な女性的な、母性的な音楽の美しさがたまらないです。
第6楽章は「不思議なトランペット」を含む、このレクイエムにおけるDies Irae。その嵐のような激しさと「打ち勝つ」ような力強さがカトリックのDies Iraeとひと味違うものがあって。
そして第7楽章、最終楽章の様々な調を経て足が地に着くあの落ち着いた感じ、天国的ながら本当に身近な天国の美しさ・・・
私がこのブラームスのドイツ・レクイエムと絶対的な双璧だと思ってるレクイエムはベルリオーズでも、ヴェルディでもなくもちろん!ブリテンの「戦争レクイエム」です。
この曲については語っても語り尽くせない(先ほどのブラームスも実はそうなんですが)、思い入れが深すぎて自分でも困っています(笑)
この曲は上記レクイエムの目的とはいささか違う面があって・・・以前もいろいろ語っているのですが、戦争の恐ろしさ、その中で失われている命などについて真剣に、ときどき皮肉も交えながら表現している作品です。
過去のこのブログでの「戦争レクイエム」についての話はメル響のコンサートの感想、音楽と歌詞として使われている詩の話などにあります。いつかなんとかまとめてみたい。
他にも同じくブリテンによる「Sinfonia da Requiem」(なんとなくずっと聞いてきて、この曲と向き合って解釈をしたことがないことにこないだ気づいたので書くことがない・・・)だったり、あと一回聴いたきりですがオーストラリアのPeter Sculthorpeのレクイエムの存在も心にどっしり残っています。他にもヒンデミットの「葬送音楽」などレクイエムと名のついていないレクイエム的音楽も。
でもWikipediaで探して見るとめちゃくちゃたくさんの作曲家がレクイエム(または類似曲)を書いてるんですよね!(日本語版よりも英語版のリストの方が断然長い!びっくり!)私の好きな作曲家でレクイエムを書いてたことを知らない、レクイエムを知らない作曲家も(主に20世紀以降)いるので、もっとレパートリーを広げないと、と思います。
最後に、先ほど書きそびれたんですが(という風にブログで書くのも変ですが)、20世紀以降合唱を伴わないレクイエム、ラテン語の歌詞を使わないレクイエムが多くなってきたのはやはりキリスト教が価値観の中心でなくなってきている、個人の信条が違うことが当たり前になってきた風潮もあるかと思います。(もちろん例えばバッハの時代と比べて作曲・音楽が宗教から離れてきていることもあり)
レクイエムについては以前ちょっと言及しました「悲嘆の5段階」などにみる死との向き合いかた、そして宗教離れしていく世の中で個人がどう死と向き合っていくのか、死と向き合う上で音楽ができることって何なのか、もっと考えていきたいこといっぱいです。
今日の一曲: ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト 「レクイエム」より「Tuba Mirum」
えーっと、長くなったのでてっとり早く、との魂胆で(汗)
でもものすごく好きなんですよ、この曲。
トロンボーンが底抜けに明るくてうるさいものだと思っている人にはうってつけ!
Tuba mirum = 不思議なトランペット、と訳されます。新約聖書のヨハネの黙示録にある、この世の終わりを告げるトランペットです。
Tubaですがトランペット。でもトロンボーンが弾いてます(ちなみにブラームスのレクイエムではPosaunen=ドイツ語でトロンボーンという言葉が使われ、実際に弾いています。ブリテンの戦争レクイエムでは金管楽器総動員ですが)。
この曲をたった一人で始めるトロンボーンの音色の美しさ!
トロンボーンってぶわーっと吹くだけじゃなくて本当は物凄く甘くて黄金で繊細な音も出るんですよ。バルブ・ピストンでなくてスライド式、つまりは大きい筋肉で動かすのですがそれでもどんなになめらかで自由な音が奏でられることか!
で、その音色がまたバリトン歌手といいデュエットを奏でるんですよね。
トロンボーンはこの頃まだオペラあたりでしかオケの一員じゃなかった、と聞いたことがあるんですよね(交響曲に登場したのは確かベートーヴェンの5番?が最初だったとか?)。トロンボーンは昔も今も集団合奏が基本の中、こういう使い方はもしかしたら斬新ではないのか?と思ってますがどうなんでしょう。
最初の本当に悲しく苦しい、切羽詰まった音楽からは信じられないような、スペースが広い音楽。トロンボーンの音って他の金管楽器と比べてもその「広い」「解き放たれた」感じが強い気がします。
宗教観とかいろいろ語りたいことはありますが、なんせ勉強不足なのとすでに長いもので・・・
モツレク(モーツァルトのレクイエム)ではDies iraeあたりがメジャー所ですがこちらにも耳を傾けていただきたいです。そしてトロンボーンの音(とそのギャップ)に恋に落ちていただきたいです!ぜひ!
だいたい必需!という感じのものではなくてあるといいなあ、欲しいなあというものばかりで。
チェロの修理代の返済があるので押さえてはいるんですが・・・(汗)
それはおいといて本題に。
鎮魂曲、レクイエムというジャンルはクラシック音楽のなかでわりと存在感が大きい音楽ではないかと思います。
しかも交響曲、協奏曲ほど形式がはっきり決まってるわけでもなく(ただこの2つのジャンルもそんなにがっちり形式にはまってるわけでもないですが)、色んな作曲家が色んな形で「レクイエム」を表現しているのが面白いです。
レクイエムには大きくわけて2つの目的があると思います。
一つは死者の魂が安らかであることを祈るもの。(キリスト教の一部の宗派では一時的に煉獄にいなくちゃいけない魂は、生きているものが死者のために祈りを捧げることでその期間を縮めることができる、という話もあります)
そしてこの目的よりもおそらく大きな目的として、遺された者が目の前の死と向き合って折り合いをつけていくための儀式、というものがあると思います。
あ、それから生と死を前にして、それを通じて宗教的な信仰を植え付ける、強める、という意味合いもあると思います。
もともとがカトリックのミサにおける儀式&音楽なため、伝統的なレクイエムの歌詞はラテン語で書かれていて、カトリックの雰囲気がものすごく強いですね(Dies Irae=怒りの日での最後の審判の描写など)。
20世紀より前のレクイエムが「合唱付き」という編成なのもやはり賛美歌などが信仰の儀式の一部として組み込まれているキリスト教(特にカトリック)らしい、といいますか。
以前「呼吸を同じくすることで共感する度合いを上げる」という話をちょろっとしたかと思いますが(私のチェロの先生の受け売りです)、ある人の死に際して集まり、共に嘆く人々が共に歌うということでその悲しみを共有する、という働きがあるのではないかと思います。
さらに、レクイエムの音楽はたいてい多くの楽章から成り立っていますがその全部が必ずしも慰め、癒すものではないということも大切だと思います。
レクイエムという音楽の一連の体験において、遺された人が近しい人の死を現実のものとして受け止め、それに関する悲しみだったり絶望だったり怒りだったり、行き場がない感情を抑えてないものとするのではなくがっつり感じて・・・
これから先、その事実を受け止めて生きていけるようにその何かとタブー感があって押さえてしまう感情を引き出して、「ちゃんと」嘆くことができるようにこのレクイエムの暗く激しい楽章は存在しているんではないかと思います。
レクイエムはまさにその生と死を同時に見つめることのできる、特別なopportunityのための特別な音楽ということもあり、さらに作曲家それぞれに強い思いがあることが多く、独特な存在感を放つ名曲であることが多いと思います。
ここからは私が特に思い入れの強い個々のレクイエムの話になりますが・・・
モーツァルトのレクイエムは自身が当時若くして死の淵にあったこともあって死の恐ろしさがリアルですね。
実際「自分で自分の鎮魂曲を書いている」と自覚していたとまで言われますし、Kyrie Eleison、Rex TremendaeやDies Iraeを聞くとその説がものすごく真実味を帯びてくるのですよね~
私が好きなのはKyrie Eleison、Agnus Dei、それからTuba Mirumです。あれだけ恐恐としている、本当に切羽詰まって死がそこにある息苦しさのなかでよくこのトロンボーンソロが出たな!と素直に思うのです。でもトロンボーンの一番いいところ、透明でおおらかでピュアなサウンドなんですよね。
なんだかこう・・・30代なのにあまりにも突っ走ったからか、病のせいか「晩年」的な雰囲気がある曲なんですよね。もしもこの人長生きしてたらどうなってたんだろう、と余談。
ロマン派あたりの時代においてもレクイエムはカトリック系統、ということが定番だったのですが、それを覆したのがブラームス。宗教改革はもうバッハ以前の時代に起こったのに、ドイツ人の価値観に合うレクイエムが作られていない、という事態を懸念したらしくブラームスは自らドイツ語の聖書から歌詞を選んで、ドイツ語でドイツ人のためのドイツ・レクイエムを書いたのです。よく主張している事なのですが、やっぱり音楽を書いた作曲家の国籍と、歌詞の言語が一致するとより音楽が一体化するのです。
好きなのは第2楽章、第5楽章、第6楽章、第7楽章。第2楽章のティンパニのかっこよさだったり、前半のしたたかな悲しみ・苦しみから青空のように解き放たれた後半(エンディングがまた美しい!)が最初聞いた(=弾いた)ときから好きで。
第5楽章のソプラノソロの楽章はブラームスの母に捧げられていて、その強い思いとブラームスの得意な女性的な、母性的な音楽の美しさがたまらないです。
第6楽章は「不思議なトランペット」を含む、このレクイエムにおけるDies Irae。その嵐のような激しさと「打ち勝つ」ような力強さがカトリックのDies Iraeとひと味違うものがあって。
そして第7楽章、最終楽章の様々な調を経て足が地に着くあの落ち着いた感じ、天国的ながら本当に身近な天国の美しさ・・・
私がこのブラームスのドイツ・レクイエムと絶対的な双璧だと思ってるレクイエムはベルリオーズでも、ヴェルディでもなくもちろん!ブリテンの「戦争レクイエム」です。
この曲については語っても語り尽くせない(先ほどのブラームスも実はそうなんですが)、思い入れが深すぎて自分でも困っています(笑)
この曲は上記レクイエムの目的とはいささか違う面があって・・・以前もいろいろ語っているのですが、戦争の恐ろしさ、その中で失われている命などについて真剣に、ときどき皮肉も交えながら表現している作品です。
過去のこのブログでの「戦争レクイエム」についての話はメル響のコンサートの感想、音楽と歌詞として使われている詩の話などにあります。いつかなんとかまとめてみたい。
他にも同じくブリテンによる「Sinfonia da Requiem」(なんとなくずっと聞いてきて、この曲と向き合って解釈をしたことがないことにこないだ気づいたので書くことがない・・・)だったり、あと一回聴いたきりですがオーストラリアのPeter Sculthorpeのレクイエムの存在も心にどっしり残っています。他にもヒンデミットの「葬送音楽」などレクイエムと名のついていないレクイエム的音楽も。
でもWikipediaで探して見るとめちゃくちゃたくさんの作曲家がレクイエム(または類似曲)を書いてるんですよね!(日本語版よりも英語版のリストの方が断然長い!びっくり!)私の好きな作曲家でレクイエムを書いてたことを知らない、レクイエムを知らない作曲家も(主に20世紀以降)いるので、もっとレパートリーを広げないと、と思います。
最後に、先ほど書きそびれたんですが(という風にブログで書くのも変ですが)、20世紀以降合唱を伴わないレクイエム、ラテン語の歌詞を使わないレクイエムが多くなってきたのはやはりキリスト教が価値観の中心でなくなってきている、個人の信条が違うことが当たり前になってきた風潮もあるかと思います。(もちろん例えばバッハの時代と比べて作曲・音楽が宗教から離れてきていることもあり)
レクイエムについては以前ちょっと言及しました「悲嘆の5段階」などにみる死との向き合いかた、そして宗教離れしていく世の中で個人がどう死と向き合っていくのか、死と向き合う上で音楽ができることって何なのか、もっと考えていきたいこといっぱいです。
今日の一曲: ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト 「レクイエム」より「Tuba Mirum」
えーっと、長くなったのでてっとり早く、との魂胆で(汗)
でもものすごく好きなんですよ、この曲。
トロンボーンが底抜けに明るくてうるさいものだと思っている人にはうってつけ!
Tuba mirum = 不思議なトランペット、と訳されます。新約聖書のヨハネの黙示録にある、この世の終わりを告げるトランペットです。
Tubaですがトランペット。でもトロンボーンが弾いてます(ちなみにブラームスのレクイエムではPosaunen=ドイツ語でトロンボーンという言葉が使われ、実際に弾いています。ブリテンの戦争レクイエムでは金管楽器総動員ですが)。
この曲をたった一人で始めるトロンボーンの音色の美しさ!
トロンボーンってぶわーっと吹くだけじゃなくて本当は物凄く甘くて黄金で繊細な音も出るんですよ。バルブ・ピストンでなくてスライド式、つまりは大きい筋肉で動かすのですがそれでもどんなになめらかで自由な音が奏でられることか!
で、その音色がまたバリトン歌手といいデュエットを奏でるんですよね。
トロンボーンはこの頃まだオペラあたりでしかオケの一員じゃなかった、と聞いたことがあるんですよね(交響曲に登場したのは確かベートーヴェンの5番?が最初だったとか?)。トロンボーンは昔も今も集団合奏が基本の中、こういう使い方はもしかしたら斬新ではないのか?と思ってますがどうなんでしょう。
最初の本当に悲しく苦しい、切羽詰まった音楽からは信じられないような、スペースが広い音楽。トロンボーンの音って他の金管楽器と比べてもその「広い」「解き放たれた」感じが強い気がします。
宗教観とかいろいろ語りたいことはありますが、なんせ勉強不足なのとすでに長いもので・・・
モツレク(モーツァルトのレクイエム)ではDies iraeあたりがメジャー所ですがこちらにも耳を傾けていただきたいです。そしてトロンボーンの音(とそのギャップ)に恋に落ちていただきたいです!ぜひ!
メルボルンのじめじめした天気、そろそろ終わりでしょうか。
ピアノ練習(毎日するようになりました)にはエアコンの除湿モードが欠かせません。なんといっても暑いし、ピアノの響きとかタッチがやっぱり変わってきます。気持ち悪いです。(ただでさえ頼りないピアノなんですが)
そして湿気は私のもう一つの楽器にも敵。
ちょうどこないだ私の前のチェロが戻ってきて、めでたく家には人の数以上に楽器があることに。
そんなに頻繁に弾くというわけでもないのですが、とにかくこの子が帰ってきて嬉しいです。
そもそも私がチェロを始めたのは小6のころ。
オーストラリアに来て1年、ようやく「学校で楽器が習える」というシステムが存在することに気づき。
既にピアノは学校の外で習ってますし、授業でオーボエを習っていたのですが、日本で小学校にいたとき担任の先生がチェロを弾いてたのを聴いて以来音が物凄く好きだったチェロが習いたい、という話になり。
最初はハーフサイズのチェロで始めたんですよ(笑)(といってももちろん半分のサイズ、というわけではないです)。で、小学校のオケにもリクルートされて、そのまま中学校、高校と学校のオケだったり弦楽四重奏などのアンサンブルで弾いたり・・・それからメルボルンのユースオケにもオーディションで入り。
大学でもちょっとだけオケで弾きました。チェロも。
結局レッスン続けてたのは大学2年くらいまでかな?全部で4人の先生に習いました。
うちの学校は女子校で、徒歩5分のところにある兄弟校の男子校とよく合同コンサートしてたんですが、その時に向こうの生徒から「Little cellist」と呼ばれていました。
小さなチェリスト、確かにそれはそうなんですけど、やっぱりあのサイズの楽器をこのサイズ(150cm前後)の私が弾いてる視覚的なインパクトで色々なところで覚えてもらった感があります。
(チェロを弾く男子は背高い人が圧倒的に多いですが、女子だとでも小さめの体型は珍しくないですね)
弾いてる、もそうですが運んでる、もまた目を引く光景らしく。
結構送り迎えも多かったですが、電車移動もたくさんしましたし、徒歩で運んだこともたくさん。
引っさげて歩くこともあれば、ケースについてる車輪で転がしたり。(一番最初のチェロはソフトケースには背負えるようストラップもついていました。ハードケースでもついてるやつありますね)
なんだかでも転がすと振動がちょっと心配なので結局手で引っさげるんですよね。ケースに入ってると10kgしちゃうんですが。
そのおかげかなんだか10年生での握力測定では右36kg左48kgとかいう数値が出ています(ただ機械の正確さは分かりませんが)。
今回チェロを取り戻してきた時、何年もそんな重いもの運んでないので駅から家まで大変な思いをしました。
チェロを飛行機に乗せたこともあります。
ユースオケのタスマニア演奏旅行、学校のオケのイギリス演奏旅行、それから1回だけ日本への一時帰国で。
いろいろ詰め物したり大変です。さすがに席をとるわけにもいかないのでOversize luggage扱いで。
でもひやひやものなので、毎回。
今家に2つチェロがありまして。一つは私がチェロ活動の最後に使っていた7/8サイズのチェロ。そしてもう一つはこないだ取り返したフルサイズのチェロ(写真参照)。
7/8サイズの方はハンドメイドの中国製(需要が低いサイズなので必然的にハンドメイド)で、割と新しい楽器。フルサイズの方はドイツ製の1863年生まれ。もちろんこっちの方が音が良いです。
でもフルサイズだと若干私の手には大きい、ということで買い替えたんです。ただやっぱり一緒に老いるならフルサイズの方だなーと思ったので売り手がつかないうちに取り戻してきたんです。諸々修理してもらって。
修理してもらったらもともと豊かで渋い(ドイツらしい!)この楽器の音がより開いた、というか特に低音がものすごく響くようになりました。
チェロを弾いている間、本当にいろいろな人に出会って、お世話になって。
いろいろ楽しい思い出もあります。チェロでバリケード作ったり、チェロばっかり集まって12の違う調で同時に「メリーさんの羊」を弾いたり。
チェロのコミュニティって必ずしも結束力が強いわけではないですけど(例えばホルンやトロンボーンのように)、お互いへの尊敬などが強いような気がします。
チェロをアクティブに弾くことを止めてからもチェロを弾いてる友達とは本当に仲良くしてもらって、強いコネでいてもらって・・・
私よりもずっとレベルが上のチェロ弾き友達にチェロ弾きだった経験を買われて伴奏を頼まれたり、ちょっと演奏を聴いて意見を欲しいと言われたり、そういうときが本当に嬉しかったです。
仕事にピアノにその他に忙しいですが、たまにはチェロも弾いてあげたいです。
(それにしてもチェロが2つ部屋に置いてあって若干狭くなりました・・・)
今日の一曲: エルネスト・ブロッホ 「シェロモ」
チェリストならばだれもが目指す曲といったらドヴォルザークの協奏曲かと思いますが、私がチェロで一番弾きたかった「協奏曲的な」曲は間違いなくこの曲でした。そして今も変わりません。
「シェロモ」とはヘブライ語でソロモンのこと。旧約聖書にもよくでてくるソロモン王のこと。
そこから分かるようにヘブライ風の曲です。めちゃくちゃヘブライです。
(ブロッホはチェロやビオラのためにヘブライ関係の音楽をいっぱい書いてて嬉しいです♪)
この曲のそのユダヤ風なところも好きですし、中間部の5連符のリズムも好きですし、オーケストラと一体になってる感、でも同時にチェロが自由に羽ばたけるところも好きですし。
技巧的にはほとんど(全部?)単音なのも好きです(笑)double stopping苦手なので。
そしてブロッホが良くユダヤ系のメロディーで使うquarter-toneも好きです。
で、ストーリーでこの曲を使う際にこの曲のスコアを見たのですが、よくよく見ると楽器使いもすごい!
ハープやチェレスタの使い方だったり、コントラバスからコントラファゴットからバスクラから銅鑼から低音の楽器ばっかり重ねて使う部分だったり。
すごいぞブロッホ!と思います(笑)
チェロを弾く人は大抵その音に惚れて始める・続ける人が多いように思えるのですが、その音の美しさはこの曲にあますことなく現れていて。技巧の華やかさでこそドヴォルザークの協奏曲にはかないませんがたまらない魅力があります。
チェロでユダヤ音楽、やっぱり憧れますね-。いつかクレズマーとか弾きたいです。
(ちなみにリンクしたCDにこの曲、ドヴォルザークの協奏曲と共に収録されているブルッフの「コル・ニドレイ」もユダヤ題材の曲です。また後日に。)
ピアノ練習(毎日するようになりました)にはエアコンの除湿モードが欠かせません。なんといっても暑いし、ピアノの響きとかタッチがやっぱり変わってきます。気持ち悪いです。(ただでさえ頼りないピアノなんですが)
そして湿気は私のもう一つの楽器にも敵。
ちょうどこないだ私の前のチェロが戻ってきて、めでたく家には人の数以上に楽器があることに。
そんなに頻繁に弾くというわけでもないのですが、とにかくこの子が帰ってきて嬉しいです。
そもそも私がチェロを始めたのは小6のころ。
オーストラリアに来て1年、ようやく「学校で楽器が習える」というシステムが存在することに気づき。
既にピアノは学校の外で習ってますし、授業でオーボエを習っていたのですが、日本で小学校にいたとき担任の先生がチェロを弾いてたのを聴いて以来音が物凄く好きだったチェロが習いたい、という話になり。
最初はハーフサイズのチェロで始めたんですよ(笑)(といってももちろん半分のサイズ、というわけではないです)。で、小学校のオケにもリクルートされて、そのまま中学校、高校と学校のオケだったり弦楽四重奏などのアンサンブルで弾いたり・・・それからメルボルンのユースオケにもオーディションで入り。
大学でもちょっとだけオケで弾きました。チェロも。
結局レッスン続けてたのは大学2年くらいまでかな?全部で4人の先生に習いました。
うちの学校は女子校で、徒歩5分のところにある兄弟校の男子校とよく合同コンサートしてたんですが、その時に向こうの生徒から「Little cellist」と呼ばれていました。
小さなチェリスト、確かにそれはそうなんですけど、やっぱりあのサイズの楽器をこのサイズ(150cm前後)の私が弾いてる視覚的なインパクトで色々なところで覚えてもらった感があります。
(チェロを弾く男子は背高い人が圧倒的に多いですが、女子だとでも小さめの体型は珍しくないですね)
弾いてる、もそうですが運んでる、もまた目を引く光景らしく。
結構送り迎えも多かったですが、電車移動もたくさんしましたし、徒歩で運んだこともたくさん。
引っさげて歩くこともあれば、ケースについてる車輪で転がしたり。(一番最初のチェロはソフトケースには背負えるようストラップもついていました。ハードケースでもついてるやつありますね)
なんだかでも転がすと振動がちょっと心配なので結局手で引っさげるんですよね。ケースに入ってると10kgしちゃうんですが。
そのおかげかなんだか10年生での握力測定では右36kg左48kgとかいう数値が出ています(ただ機械の正確さは分かりませんが)。
今回チェロを取り戻してきた時、何年もそんな重いもの運んでないので駅から家まで大変な思いをしました。
チェロを飛行機に乗せたこともあります。
ユースオケのタスマニア演奏旅行、学校のオケのイギリス演奏旅行、それから1回だけ日本への一時帰国で。
いろいろ詰め物したり大変です。さすがに席をとるわけにもいかないのでOversize luggage扱いで。
でもひやひやものなので、毎回。
7/8サイズの方はハンドメイドの中国製(需要が低いサイズなので必然的にハンドメイド)で、割と新しい楽器。フルサイズの方はドイツ製の1863年生まれ。もちろんこっちの方が音が良いです。
でもフルサイズだと若干私の手には大きい、ということで買い替えたんです。ただやっぱり一緒に老いるならフルサイズの方だなーと思ったので売り手がつかないうちに取り戻してきたんです。諸々修理してもらって。
修理してもらったらもともと豊かで渋い(ドイツらしい!)この楽器の音がより開いた、というか特に低音がものすごく響くようになりました。
チェロを弾いている間、本当にいろいろな人に出会って、お世話になって。
いろいろ楽しい思い出もあります。チェロでバリケード作ったり、チェロばっかり集まって12の違う調で同時に「メリーさんの羊」を弾いたり。
チェロのコミュニティって必ずしも結束力が強いわけではないですけど(例えばホルンやトロンボーンのように)、お互いへの尊敬などが強いような気がします。
チェロをアクティブに弾くことを止めてからもチェロを弾いてる友達とは本当に仲良くしてもらって、強いコネでいてもらって・・・
私よりもずっとレベルが上のチェロ弾き友達にチェロ弾きだった経験を買われて伴奏を頼まれたり、ちょっと演奏を聴いて意見を欲しいと言われたり、そういうときが本当に嬉しかったです。
仕事にピアノにその他に忙しいですが、たまにはチェロも弾いてあげたいです。
(それにしてもチェロが2つ部屋に置いてあって若干狭くなりました・・・)
今日の一曲: エルネスト・ブロッホ 「シェロモ」
チェリストならばだれもが目指す曲といったらドヴォルザークの協奏曲かと思いますが、私がチェロで一番弾きたかった「協奏曲的な」曲は間違いなくこの曲でした。そして今も変わりません。
「シェロモ」とはヘブライ語でソロモンのこと。旧約聖書にもよくでてくるソロモン王のこと。
そこから分かるようにヘブライ風の曲です。めちゃくちゃヘブライです。
(ブロッホはチェロやビオラのためにヘブライ関係の音楽をいっぱい書いてて嬉しいです♪)
この曲のそのユダヤ風なところも好きですし、中間部の5連符のリズムも好きですし、オーケストラと一体になってる感、でも同時にチェロが自由に羽ばたけるところも好きですし。
技巧的にはほとんど(全部?)単音なのも好きです(笑)double stopping苦手なので。
そしてブロッホが良くユダヤ系のメロディーで使うquarter-toneも好きです。
で、ストーリーでこの曲を使う際にこの曲のスコアを見たのですが、よくよく見ると楽器使いもすごい!
ハープやチェレスタの使い方だったり、コントラバスからコントラファゴットからバスクラから銅鑼から低音の楽器ばっかり重ねて使う部分だったり。
すごいぞブロッホ!と思います(笑)
チェロを弾く人は大抵その音に惚れて始める・続ける人が多いように思えるのですが、その音の美しさはこの曲にあますことなく現れていて。技巧の華やかさでこそドヴォルザークの協奏曲にはかないませんがたまらない魅力があります。
チェロでユダヤ音楽、やっぱり憧れますね-。いつかクレズマーとか弾きたいです。
(ちなみにリンクしたCDにこの曲、ドヴォルザークの協奏曲と共に収録されているブルッフの「コル・ニドレイ」もユダヤ題材の曲です。また後日に。)
プロコフィエフとシュミットホフのエントリーに拍手ありがとうございます!
ずいぶん前になりますねーあのエントリーも(時期的に、というよりはその後に自殺関係でこのブログでカバーしてきたことを思うと)。
QLD州、特にブリスベンは洪水でひどい被害に遭っているそうです(水は引き始めているらしいですがこれから課題はいっぱい)。ブリスベンは昔家族で行ったこともありますし、私の創作でのとあるキャラクターの出身地でもあります。自然も、産業などかなり大規模なダメージらしいので、何よりも被災地の皆さんができるだけ安全にこれから過ごして、できるだけ早く(できるならば!)普通の生活に戻れることを願っています。
メルボルンは・・・夏といったら乾いて暑いのが通常なのですが、ここのところどうも高湿・雨続き。
冬の雨ほどこたえないもの若干影響を感じます。
だからということではないですがちょっとぼやきまじりのエントリーを今日は一つ。
ここ数日で親友の卒論を読みました。おおまかにいえば統合失調的な傾向とノイズの中に意味ある図形を見いだしてしまう現象・・・についてです。
親友は大学で心理学を専攻して、それと在学中からの障害者と関わるようなボランティアや仕事の延長線上にもあるといえる、精神医学関連の看護のコースを今は受けているそうです。
数年前思ったよりも自分の目指しているところと親友の目指しているところが重なってて、嬉しいやら信じられないやら。
(実は今やってる医薬関係のお仕事も父の仕事や妹の目指してるところにちょっとかすってたりするんですよね。これもびっくり。)
親友は私の病気の様々に(特に初期は)かなり深く関わっていた人物で。
私が自分が鬱にならなければメンタルヘルスの道を目指そうと思いもしなかっただろう、というの同様、親友も私のメンタルヘルスのいろいろと深く関わらなければその道を目指していたかどうかわからないという気がします。(ただあの子の場合どっちにしてもケアだったり障害者と触れあう仕事だったり、広い範囲でそっちのエリアを目指してたと思いますが)
私は彼女にほんとうに感謝しています。きっと私の家族と同じくらい、またはそれ以上に苦しんだことでしょうから。そして彼女が私との経験を受けてそれでも(またはだからこそ)その道に進んでいることを嬉しく思って、応援して、私の一歩先にいることを羨ましく思います。
で、そうやって考えてたところからちょっと道は逸れて・・・
オーストラリアにいて日本を見るとどうも「感動」という言葉を過度に聞く様な気がします。
私自身はあんまりその使われ方が好きじゃなかったりしますし、自分の気持ちをなるべくはっきり表そうと心がけてるのでなるべくその言葉はこのブログでもどこでも避けるようにしています。
まあなんというかステレオタイプとしての日本人を考えると「らしい」気はします。一つは自分個人の気持ちを認識・表現することに長けていない民族性、それからもう一つは個人の気持ちを表現するよりも他人と同じ言葉を使って他の人と同じものを感じている気分になる、という傾向。
で、この「感動」ってやつが私のブログのメインのトピックである精神関係、音楽それぞれで別々の問題をかもしだして、別々の理由でもやもやしているわけです。
今日は精神関係にフォーカス。そして以下はあくまでも私のわりとひねくれた見方です。
障害から立ち直ったり、乗り越えたりしたなどの「いい話」を読んだり聞いたりして「感動した」という場合のもやもやはまずその話が過去のことで直接知らない他人の話ということがキーかも。
つまり時間的・空間的に自分とその人の間に距離を置いて、他人事というか自分には関わりないこととして見ているような気がして。
英語でのsympathyとempathyの違い、という話にも繋がる気がします。Sympathyは他人の事としての「同情」、Empathyは人の気持ちを自分のもののように感じる「共感」にニュアンスが近いでしょうか。
使い分けることはもちろん大切ですが、他人事として「感動」する、容易なほうに傾いていて本当に人の苦しみと喜びを共感できていないんじゃないか、と思います。
(ちなみに自分自身のことで感動ということばはなかなか使いませんね)
もう一つがその「感動」が評価していることがその人の苦しみ・道のりよりも「乗り越えた」ことに重きを置いているような気がして。よかったね、乗り越えたよ、だからもう普通なんだ、正常なんだと・・・その時点で過去を置き去りにして、糧になる、そして再度来るかも知れない苦しみを切り捨てる。
まるで乗り越えて、感動してそれで終わりのように。その人の旅はまだまだ続いているのに、その未来までも切り捨てかねないその言葉。
ちなみにうつやその他の精神疾患でこの手の「いい話」が作りにくいのは理由があります。
まずどこまでが病気でどこまで回復すると「回復」となるかが曖昧。それから再発の危険が高く、そうでなくとも調子がアップダウンしながら回復らしい回復を見せずずっと続いていくケースが多いこと。
「いい話」も認識を広めるには有用なんですよね。そういう話が作れないからか、うつを初めとする精神疾患での症状や再発、人間関係などの苦しみについての実体験の話が広く知られないのかも?
心の病の苦しみはずっと続く道。終わりの見えないようなトンネルのように現れる場合もあれば、天国でも地獄でもないゆるやかな闇のなかをそれなりにずっと生きて行く場合もありますし、回復したかな?とおもっても再発のリスクが否めなかったり。
感動のラストなんてものとは(全くとはいえないのですが)なかなか無縁です。
だからこの道を目指す・進む人たちは(少なくとも自分の周りには)人を「救う」ことが目的じゃない人が多く見られます。「救う」こと、その感動のラストまで連れて行くことはきっとできないし、しようとすることがある意味おこがましいと思われる面もあるので・・・
少なくとも私、親友、それから私の精神医を突き動かすものに共通するものはどこか好奇心に近いものがあると思います。目の前の人の苦しみを理解して、共感したい。その苦しみを引き起こすものを知り、病気を知り、その人が苦しみがあってもなるべく普通に生きていけるために自分にできることをして、必要な治療を受けられるようにして。その人の苦しみを自分のものとして、その人の身になって一緒に地獄を歩いてその道を通るための助けの手をさしのべたい。
最後だんだん自分自身の思いになってきましたが(汗)
いまブログを書いてるときに親友に電話したんですが、なんと1時間もほとんどメンタルヘルスの話で盛り上がってしまいました(!)。彼女が私と一緒に苦しんでくれたから私はここにいて(苦しんでいる方にとっては他人事のsympathyほど冷たいものはなかなかないです)、私も彼女もその共感した苦しみを糧にして進んでいて。苦しみが分かる、感じるからこそ勉強したり、手をさしのべたくなる。
親友だけじゃなくて、私がうつだと公表したときに「自分も辛かった時期があって・・・」と言ってくれた人が周りにはたくさんいて。
英語では人の身になって、他人の立場からものをみることを「put yourself in one's shes」という風に表すのですが・・・決して簡単じゃないことですがもっと広がるといいな、と思っています、Empathy。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「Songs, drones and rerains of death」よりRefrain Three~Cancion de Jinete
こないだスコアを借りてきたので読みながら聴いたらまあ驚き!
久しぶりにこんなに音楽でびっくりしました!
この曲を通じてバリトンの歌う歌詞にはロルカの詩が使われていますが、その他の「意味のない音節」がとってもパーカッション的で印象強いです。TとかKの音が多いので鋭い息の音が。
編成は実はバリトン歌手、そしてアンプ付きのエレキギター、コントラバス、ピアノ,ハープシコード、それから打楽器。これがみんな良い味出してるんですよね。そして案外どの楽器も浮かない。
Death Drone IIのコントラバスの長く続く音の不思議な音程とか、Cancion de Jineteで力強く原始的でひたすら前に進む手打ちドラムとか、そしてなんといっても超自然的な(?)エレキギターの響き、さらにはアンプで増幅されたハープシコードの音のこの世ではないような音に衝撃を受けました。Death Drone IIの不思議な4度のドローン、聴いたことがあるようでない突然のアルペジオ、そして電気ノイズみたいなクラスター和音。
斬新すぎて戸惑います(ただこの曲自体わりととっつきにくいほうではあると思います)。
でも慣れるとその奇怪さも不気味さもめちゃくちゃ快感に(笑)
ロルカの詩そのものもそうですが、クラムのこの音楽もなんだか乾いた砂と熱い風の匂いがして。
・・・ああ、メルボルンも普段の夏にならないかしら。
もっとクラムの夏を体感したいよ!
ずいぶん前になりますねーあのエントリーも(時期的に、というよりはその後に自殺関係でこのブログでカバーしてきたことを思うと)。
QLD州、特にブリスベンは洪水でひどい被害に遭っているそうです(水は引き始めているらしいですがこれから課題はいっぱい)。ブリスベンは昔家族で行ったこともありますし、私の創作でのとあるキャラクターの出身地でもあります。自然も、産業などかなり大規模なダメージらしいので、何よりも被災地の皆さんができるだけ安全にこれから過ごして、できるだけ早く(できるならば!)普通の生活に戻れることを願っています。
メルボルンは・・・夏といったら乾いて暑いのが通常なのですが、ここのところどうも高湿・雨続き。
冬の雨ほどこたえないもの若干影響を感じます。
だからということではないですがちょっとぼやきまじりのエントリーを今日は一つ。
ここ数日で親友の卒論を読みました。おおまかにいえば統合失調的な傾向とノイズの中に意味ある図形を見いだしてしまう現象・・・についてです。
親友は大学で心理学を専攻して、それと在学中からの障害者と関わるようなボランティアや仕事の延長線上にもあるといえる、精神医学関連の看護のコースを今は受けているそうです。
数年前思ったよりも自分の目指しているところと親友の目指しているところが重なってて、嬉しいやら信じられないやら。
(実は今やってる医薬関係のお仕事も父の仕事や妹の目指してるところにちょっとかすってたりするんですよね。これもびっくり。)
親友は私の病気の様々に(特に初期は)かなり深く関わっていた人物で。
私が自分が鬱にならなければメンタルヘルスの道を目指そうと思いもしなかっただろう、というの同様、親友も私のメンタルヘルスのいろいろと深く関わらなければその道を目指していたかどうかわからないという気がします。(ただあの子の場合どっちにしてもケアだったり障害者と触れあう仕事だったり、広い範囲でそっちのエリアを目指してたと思いますが)
私は彼女にほんとうに感謝しています。きっと私の家族と同じくらい、またはそれ以上に苦しんだことでしょうから。そして彼女が私との経験を受けてそれでも(またはだからこそ)その道に進んでいることを嬉しく思って、応援して、私の一歩先にいることを羨ましく思います。
で、そうやって考えてたところからちょっと道は逸れて・・・
オーストラリアにいて日本を見るとどうも「感動」という言葉を過度に聞く様な気がします。
私自身はあんまりその使われ方が好きじゃなかったりしますし、自分の気持ちをなるべくはっきり表そうと心がけてるのでなるべくその言葉はこのブログでもどこでも避けるようにしています。
まあなんというかステレオタイプとしての日本人を考えると「らしい」気はします。一つは自分個人の気持ちを認識・表現することに長けていない民族性、それからもう一つは個人の気持ちを表現するよりも他人と同じ言葉を使って他の人と同じものを感じている気分になる、という傾向。
で、この「感動」ってやつが私のブログのメインのトピックである精神関係、音楽それぞれで別々の問題をかもしだして、別々の理由でもやもやしているわけです。
今日は精神関係にフォーカス。そして以下はあくまでも私のわりとひねくれた見方です。
障害から立ち直ったり、乗り越えたりしたなどの「いい話」を読んだり聞いたりして「感動した」という場合のもやもやはまずその話が過去のことで直接知らない他人の話ということがキーかも。
つまり時間的・空間的に自分とその人の間に距離を置いて、他人事というか自分には関わりないこととして見ているような気がして。
英語でのsympathyとempathyの違い、という話にも繋がる気がします。Sympathyは他人の事としての「同情」、Empathyは人の気持ちを自分のもののように感じる「共感」にニュアンスが近いでしょうか。
使い分けることはもちろん大切ですが、他人事として「感動」する、容易なほうに傾いていて本当に人の苦しみと喜びを共感できていないんじゃないか、と思います。
(ちなみに自分自身のことで感動ということばはなかなか使いませんね)
もう一つがその「感動」が評価していることがその人の苦しみ・道のりよりも「乗り越えた」ことに重きを置いているような気がして。よかったね、乗り越えたよ、だからもう普通なんだ、正常なんだと・・・その時点で過去を置き去りにして、糧になる、そして再度来るかも知れない苦しみを切り捨てる。
まるで乗り越えて、感動してそれで終わりのように。その人の旅はまだまだ続いているのに、その未来までも切り捨てかねないその言葉。
ちなみにうつやその他の精神疾患でこの手の「いい話」が作りにくいのは理由があります。
まずどこまでが病気でどこまで回復すると「回復」となるかが曖昧。それから再発の危険が高く、そうでなくとも調子がアップダウンしながら回復らしい回復を見せずずっと続いていくケースが多いこと。
「いい話」も認識を広めるには有用なんですよね。そういう話が作れないからか、うつを初めとする精神疾患での症状や再発、人間関係などの苦しみについての実体験の話が広く知られないのかも?
心の病の苦しみはずっと続く道。終わりの見えないようなトンネルのように現れる場合もあれば、天国でも地獄でもないゆるやかな闇のなかをそれなりにずっと生きて行く場合もありますし、回復したかな?とおもっても再発のリスクが否めなかったり。
感動のラストなんてものとは(全くとはいえないのですが)なかなか無縁です。
だからこの道を目指す・進む人たちは(少なくとも自分の周りには)人を「救う」ことが目的じゃない人が多く見られます。「救う」こと、その感動のラストまで連れて行くことはきっとできないし、しようとすることがある意味おこがましいと思われる面もあるので・・・
少なくとも私、親友、それから私の精神医を突き動かすものに共通するものはどこか好奇心に近いものがあると思います。目の前の人の苦しみを理解して、共感したい。その苦しみを引き起こすものを知り、病気を知り、その人が苦しみがあってもなるべく普通に生きていけるために自分にできることをして、必要な治療を受けられるようにして。その人の苦しみを自分のものとして、その人の身になって一緒に地獄を歩いてその道を通るための助けの手をさしのべたい。
最後だんだん自分自身の思いになってきましたが(汗)
いまブログを書いてるときに親友に電話したんですが、なんと1時間もほとんどメンタルヘルスの話で盛り上がってしまいました(!)。彼女が私と一緒に苦しんでくれたから私はここにいて(苦しんでいる方にとっては他人事のsympathyほど冷たいものはなかなかないです)、私も彼女もその共感した苦しみを糧にして進んでいて。苦しみが分かる、感じるからこそ勉強したり、手をさしのべたくなる。
親友だけじゃなくて、私がうつだと公表したときに「自分も辛かった時期があって・・・」と言ってくれた人が周りにはたくさんいて。
英語では人の身になって、他人の立場からものをみることを「put yourself in one's shes」という風に表すのですが・・・決して簡単じゃないことですがもっと広がるといいな、と思っています、Empathy。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「Songs, drones and rerains of death」よりRefrain Three~Cancion de Jinete
こないだスコアを借りてきたので読みながら聴いたらまあ驚き!
久しぶりにこんなに音楽でびっくりしました!
この曲を通じてバリトンの歌う歌詞にはロルカの詩が使われていますが、その他の「意味のない音節」がとってもパーカッション的で印象強いです。TとかKの音が多いので鋭い息の音が。
編成は実はバリトン歌手、そしてアンプ付きのエレキギター、コントラバス、ピアノ,ハープシコード、それから打楽器。これがみんな良い味出してるんですよね。そして案外どの楽器も浮かない。
Death Drone IIのコントラバスの長く続く音の不思議な音程とか、Cancion de Jineteで力強く原始的でひたすら前に進む手打ちドラムとか、そしてなんといっても超自然的な(?)エレキギターの響き、さらにはアンプで増幅されたハープシコードの音のこの世ではないような音に衝撃を受けました。Death Drone IIの不思議な4度のドローン、聴いたことがあるようでない突然のアルペジオ、そして電気ノイズみたいなクラスター和音。
斬新すぎて戸惑います(ただこの曲自体わりととっつきにくいほうではあると思います)。
でも慣れるとその奇怪さも不気味さもめちゃくちゃ快感に(笑)
ロルカの詩そのものもそうですが、クラムのこの音楽もなんだか乾いた砂と熱い風の匂いがして。
・・・ああ、メルボルンも普段の夏にならないかしら。
もっとクラムの夏を体感したいよ!
