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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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Sur ma tombe sans croix...(自殺について その2)
昨日の続きです。
今日はなんだか朝からメンタルヘルス関連で(きっかけはほとんどないのですが)いろんな憤りを感じていたりするのでなるべく抑えめに・・・(あんまり怒るとあとで気分が沈むんですよ、それでも怒っていつもあとで後悔するんです、まったくもう)

前回のエントリーでは自殺は(もちろん全部全部そうとは言えませんが)病気の思考・行動症状の影響下にいて判断・論理力が弱まり歪んだ患者さんの、本人の意志とは別の思考回路から生じた行動ではないかという見解を書きました。
なので自殺した人が無責任だとか自分勝手だというのは違うんじゃないかということ、ついでに病気になったらそうならない保証は誰にもないのだからそんな批判は誰にもできないんじゃないか、ということも書きました。

自殺についてスティグマの壁、もとい鉄槌を感じたことは多くあります。(主に日本で)
先ほどの「無責任」「自分勝手」という最もストレートな言葉も堪えますが、直接的な非難でない無理解の言葉もまた辛く・・・
「自殺をしてはいけない」だったり「自殺をしても無駄」「死んでもなんにもならない」的なアプローチがその良い例です。まずそういった問題ではない、ということが1つですし、自分がひねくれてるからかも知れませんが気持ちの持ちようだみたいな精神論的なことに自殺に至る過程だったり病気の辛さに対する無理解を感じてしまいます。
実際そういったアプローチで自殺を止めようとしても正常な思考回路を有していない、そして自分の周りのことが見えない患者さんには意味を成しませんし、通じません。
効かないことには詳しいですよ、(詳しいことはここでは言いませんが)経験者ですし、入院の際にそういった経験をした人ともたくさん出会いましたし。

自殺は無責任、自分勝手という見方は遺された人をも辛くするものだと思います。
「遺された」感がより一層強まりますし、亡くなった人を責めても辛いだけ。
そして病気と戦ってきた末のそういった転帰なら先ほどのような見方は患者さん自身、お医者さん、そして周りの人ががんばって戦ってきたことを否定するようにもとれて。

そして自殺した人の思いにも無責任・自分勝手でない痕跡があります。
うつなどの疾患を抱えて亡くなった人たちは自分が逃げたい思いよりも別の理由でその道を選ぶケースが数々あるそうで。
それは自分がこうやって病気でいること、迷惑をかけていること、重荷になっていることがたまらなく苦しくて、自分がいなくなることで周りの人を解放したいという気持ち。
論理的に間違っているところはもちろんあるのですが、それでもねじれどんどん内向きになって周りが見えなくなる思考との中でねじれたなりに周りの人を気遣っているというケースが確かにあり得るのです。

前回も言いましたように自殺は正しい、間違っているの次元で論議しても不毛だと思います。
が、それでも親しい人に死んだり、死にたくなるほど苦しんだりして欲しくないと誰もが思うことで。
どうして自殺してはいけないのか、というのは難しい問題です。
さきほどの「自殺をしてはいけない」だったり「自殺をしても無駄」「死んでもなんにもならない」といったアプローチはそこまで苦しんでいる人(全員が全員がそうとは限りませんが)に対してはどうでもいいことで。
自分には価値があるんだから、といってもその価値が見えませんし。
あと先のことが見えないことが難しいですね。ちゃんと治療を続ければ良くなるよ、というのがそういった状態ではなかなか実感できないものですから。
効くのはやっぱりその人に生きていて欲しい、という気持ちを心から伝えるのが一番いいのかなあ、とぼんやりは思いますが・・・

自殺防止も難しいですが、万が一起こってしまったあとの遺された人のケアもまた難しいですよね。
専門家による(独特の)ケアが必要なケースも多いですし。
ただやっぱり一般の人の自殺に対しての認識が遺された人を辛くするという部分もあるみたいですし(前のConferenceの前のトークで少し聴きましたが)・・・

認識、防止、ケアなども含めて本当に難しいトピック。かなりブログに書くには慎重で重くて大きな話ですが・・・
本当に大事なことで、本当になんとかしなきゃという思いがあって、無謀にも家にある本を再読しないうちにまとめてしまいました。
ある程度我慢しなきゃ、とは一応思ったんですが・・・
でもこうやって書いてみると、例えば自殺に向かい歩んでいる人の思考だったり思いだったり心理だったりをまとめてみたりしたいなあ、とか思います。
自分の思いや経験を心に刻んだままもっと勉強して正しい知識と適切な表現を学んでいきたいです。(例の本も再読しないと!)
長々とありがとうございました。


今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第14番 第4楽章「自殺」



これもまた今日のエントリーのタイトルにしました。
大好きなこの交響曲のなかで一番詩も音楽も好きな楽章です。
そもそもこれに惚れたのが始まりだったといっても過言ではないです。

この曲の詩の魅力を語るとブログの使用規定的にちょっと抵触する恐れがあるので音楽的な方に主に今回は言及します。詩は昨日と同じくギヨーム・アポリネール作の「自殺」という詩です。
ただ言えるのは元の詩はフランス語で、冒頭が「3本の百合、3本の百合」=「Trois grand lys, Trois grand lys」となっているのですが、曲にはロシア語に訳された版が使われていて、「Tri Lilii, Tri Lilii」という言葉の響きがたまらない!こっちの方が歌にするには(特にこの子守歌のようなメロディーには)美しく感じます。訳のほうが原語よりもすごい良い例ですね。

この楽章ではなんといってもチェロのソロが一番活躍します。(そしてチェレスタも居るよ♪)
ショスタコーヴィチはなんといってもチェロを本当に愛してくれてましたから(と、チェリストからの視点での憶測)。そして孤高とか孤独が割と似合う楽器なので。
ソプラノのソロと同じくらいの音域で、負けず劣らずの存在感。

寂しさと、恐ろしさと、禍々しさと・・・
安らぎのような、そうでない不思議な感じ。
ショスタコーヴィチの最晩期の音楽って本当に死の香りがぷんぷんしていて、でもそれを冷静に両目で見ているような音楽ですが、この音楽もまたそんな感じです。
なんだか許されないないような禁断の魅力があるのもまた最晩期ショスタコの特徴ですが、この曲は一段とそれが強いですね。はまっちゃうと(私がまずそうですが)救いがないぐらいどっぷりはまります。

最後に詩の方に戻りますが、タイトルに使ったフレーズは「十字架のない私の墓の上に」と訳されます。
自殺者の墓には十字架が立てられなかったのはいつの時代のことなのか(下手すりゃ今でも、なんていう地域があってもおかしくなさそう)分かりませんが、自分が読んだ全ての物もの中で自殺に対するスティグマを分かりやすく、ビビッドに表した表現だと思います。

私はもう虜になって10年、色んなレベルでこの曲は自分の心にすっかり寄生していますが・・・
本当は紹介したくなかったくらい好きな曲です。でも今日はこれじゃなくちゃいけなかったので・・・
この交響曲全般についてはまたの機会に!

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Elle se penche alors et tombe... (自殺について その1)
唐突なようですが、実はずっとまとめたく思って悩みあぐねていたトピック。
なんとか内容と気持ちがまとまったので是非お目を通していただければと思います。
まだまだ勉強不足で(自殺について自分がいいと思った本が家にあるのですが未再読)色々足りない部分もあるかと思いますがとりあえず今現在書きたいことをまとめました。

唐突なようで・・・というのが今日自殺について特に書きたいことです。
精神疾患や心の調子全般でもそうですが、「気づき」の難しさ、そして大切さがたくさんの人を悩ませています。
自殺はその周りの人にとっては突然起こるように思えますが、そこまで至る過程には実はたくさんのことがその人に起こっています。
「命を終える」という決断に至るのはそれなりに迷いがあるはずですし(特に精神疾患の症状により思考が遅くなっていたりぐるぐるなっている場合)、実際に事を起こすまでに身辺整理などをしていたり(自殺を計画しているサインとしてよくあげられていますね)遺書を残したりとさらに時間がかかったりもしているのです。

自殺が突然起こるように周りが感じる理由の一つとして、うつなどの疾患を抱える患者さんで自殺が起こりやすい病期の特徴があります。
うつの感情・行動・思考症状がいちばん強く表れているときは、患者さんには自殺という大きな行動を起こせるだけの思考と気力がない、とよく言われます。
逆に自殺が起こりやすいのは思考は歪んでいるけれど動いていて、その意図を隠しながら動くことができるエネルギーがある、一見良くなったと思われる状態なんだそう。
だからこそ「良くなったと思ったのに」と突然に感じる、ということで・・・良くなったと思って油断してはいけない、ということもありますし、だからといって一番症状が悪いときは自殺をしないと割り切ってもいけないということです(自殺願望を抱いていて、状態が変わったときに行動にうつすこともありえるので)。

そしてその「一見わりと普通に行動できている」と外から見られる状態で自殺が起こることも自殺は本人が意図して(=その行動を自分でコントロールして)行っているものだ、という認識が生まれる一つの要因だと思います。
全部のケースがそうとはもちろん言い切れないのですが、自殺は本人のコントロール外で起こっていることが多いと私は思います。例えば自殺という行動を起こす「自殺願望」の思考は精神疾患の思考症状の影響により思考がねじ曲がり、さらにそのねじ曲がりに本人が気づけなく、論理的にその思考を否定し正し、抜け出すこともできないことから行動に発展します。さらに思考以外の症状のつらさからも患者さんの心が弱っていてその思考と戦うことができず、辛さから楽になりたい気持ちと共にその曲がった思考に服従してしまうことにも繋がります。
精神疾患を抱えていなくとも自殺をオプションとしてある期間続けて(または繰り返し)考えている時点で思考・心のディフェンスに(生きる強い本能にそれだけ強く逆らえるだけの)なんらかの異常というか危機が生じていて、思考・行動が本人のコントロール外になっている、と解釈できると思いますが・・・・

最近思ったのですが日本は欧米とは全く違う自殺の文化的背景があって、独特の見解だったり認識だったり価値観があって独特の問題があるのですが・・・(ここはもっと勉強しなきゃなんとも言えないです。自分にはforeignな世界なので)
精神疾患を持つ患者さんの自殺については病死、というか病状の急転による最悪の転帰と私は全般的に認識しています。なので正しい、間違っているという次元の問題ではない、とも。
ちなみに国によっては自殺を特別な区分とせず、報道するときにただ「亡くなった」と区別しないで報道するところもあるそうです(自殺がタブーだということではなく、逆に特別扱いはやめよう、という方針だそうです)。

自殺は無責任だとか、逃げだとか、自分勝手な行為だと言う人がいることが居ますが(そしてそういう言い分にもう何年も苦しめられてきましたが)、それはあくまで自殺した人が自分の行動を制御できていた前提でしか言えないと思いますので・・・
病気によって人の思考や感情、行動が(本人がどう感じるか、外からどう見えるかにかかわらず)その人のコントロールを離れるということが実際あると言うこと、そして健康だったときどんなに強い人でも病気になったらどういう風に変わるかわからない、そしてどこまで病気が心をねじまげていくのに気づけ、戦えるかどうかはわからない・・・なので誰も自殺した人に対して上記のようなことを(もう一回は書けない)言える立場にはないんじゃないかと思います。

長々と書いてしまいましたがパート1はここまで。次回のパート2では自殺に対する認識を中心に広げていこうと思います。
こうやってまとめるまでに自分の中で色んな思いがあって・・・自己弁護も恥ずかしながらありますし、複数の意味でのリベンジもありますし、懺悔?みたいなものもあります。このブログの他の色々なエントリーと同じく「知って欲しい」という思いもありますし・・・書くと昨日決めて、昨日の夜は自殺を必死で止めた夢まで見ました。
未だに自信はないのですが、自分にとってもどこかの誰かにとっても「なにか」があれば、と思います。


今日の一曲: ショスタコーヴィチ 交響曲第14番 第3楽章「ローレライ」



今日のエントリーのタイトルはこの曲から来ています。
通称「死者の歌」と呼ばれる、歌のサイクルみたいなフォーマットのショスタコ晩期の交響曲。
それぞれの楽章に「死」にまつわる詩が使われていて、この楽章はギヨーム・アポリネールの「ローレライ」を詩としています。

ローレライは恋人を遠くの地で亡くした絶世の美女。彼女を見る者は恋に落ち、それによっていろいろごたごたが起こるので僧侶が彼女を魔女として逮捕しにやってくる。
ローレライは(想う恋人はもう帰ってこないので)未練はない、魔女として裁きを受けましょうと言うけれど、こんどは僧侶が彼女に惚れてしまい口説き始め、彼女の命が奪われるのが惜しいから修道院に入れるようにはからうとまで言い出す。
このままそんな形で生きながらえるなら、とローレライは川の向こうにある恋人と住んだ(?)城を最後に一目見たいと願い、そのままライン川に身を投げる・・・というお話。

唐突に見えるけれど、よくよく考えればそういう流れだったじゃないか、というつながりでタイトル(ローレライが身を投げたところ)と今日の一曲にチョイスしました。

他の曲が「歌曲」的なスタイルなのに対して、これはオペラでのレチタティーヴォ(話すように歌い、舞台で台詞を言うように話を進めていく)に近いスタイル。
そしてローレライが崖に立るシーンだけがアリア(歌曲)のようになっていて。ぐっと来ます。一気に感情移入。

あとこの交響曲通して木琴がかっこいいですね。
もともと乾いた骨っぽい音で「死」関連の音楽にはよく使われますが、ショスタコの使うハーモニーが木琴の音にうまくマッチ。
そしてチェレスタも大活躍!あらゆる意味で自分にとってはつくづくありがたい交響曲です。

そしてこの楽章、次の楽章にぐーっと続いていくのですが、それは次回のエントリーと共に。そっちも関わっています。

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The New and the Old of Melbourne
以前Alain de Bottonの「Architecture of Happiness」を読んで以来、建物のデザインに現れる人の思い、というものをメルボルンに当てはめて話をしてみたいな、と思ってきました。
ずいぶんの間忘れていたのですが、昨日妹が日本は古いと新しいの絡み合いが(価値観とかも合わせて)なんだかうまくいっていないような気がする、というような事を言っていた(言わんとしていた)ことがあって。
まあ私もそうは思うんですが、メルボルンも結構そういうとこあるよ、と思ってふと思い出しました・・・ので今日気持ちがついてきているうちに書きます。

メルボルンのシティ周りを見るだけでもその建築がわりとはっきり2種類に分かれていることに気づくと思います。
一つは昔からある、ヨーロッパのスタイルにのっとって作られた建物。(法的に保護されているものも多いです)
もう一つは最近増え始めたちょっと奇妙な現代建築。
現代建築のデザインには色んな人が賛否両論ありますが、とりあえずこの2つのスタイルはいまメルボルンに共存しています。

どれだけ上手く共存しているか・・・というのは微妙なところで。
今Windsor Hotel(保護対象)の古い建物の上に新しく高層ビルを造るかどうかでもめてますし、鉄道関係のフォーラムでは主要駅の一つFlinders Street Stationの老朽化がひどく、保護対象で修復がほとんどできないことに疑問が投げかけられています。

メルボルンで新旧の建築が静かにせめぎ合っているのには理由があると思います。
メルボルンは古くから「リトル・ロンドン」という愛称で親しまれ、その古風な建築やイギリスの町に似た雰囲気を魅力としていました。
ただやっぱりオーストラリアも一部共和国になる動きがあり、そこまではいかなくともイギリス離れしたい動きが何年も静かに存在していて。
さらにメルボルンは首都でもなく(首都はキャンベラ)、第1の都市でもない(第1の都市はシドニー)ユニークなポジションにあって・・・やっぱりアイデンティティを強く打ち出したい気持ちがものすごくあるのでは、と思います。

メルボルンの現代建築は一見「なんだかな~」と思うようなデザインのものが多いのですが、それもまた新しいアイデンティティを打ち出したくて試行錯誤している姿なのかな、とおもうと若干仕方がない気もします。

それでは写真ギャラリーをどうぞ。
the Old TreasuryFederation Square左:旧大蔵省。今はメルボルンの歴史博物館だそう。隣の州会議事堂とともに結婚式の写真ロケーションとしてもよく使われています。

右:Federation Square。レストラン、美術館(Australian Centre of Moving Image)、観光情報局などありいつも賑わっています。

王立展示館Exhibition and Convention Centre左:王立展示館。世界遺産であり、大学の試験会場だったり、妹はこんど卒業式をここでやるそう。

右:Melbourne Exhibition and Convention Centre。この傾いたデザインは他にも高速道路の脇のモニュメントなどでも見られます。

Flinders Street StationFlinders Street Station。前は立派なのですが、地下通路とかプラットフォームとかはちょっと老朽していて・・・他にも以前使われていたけれど今は使っていないスペースなどもこの建物の中にあるそうです。

駅といえばメルボルン最大の駅Southern Cross Station(旧Spencer Street Station)はメルボルンの建物の中でかなりデザインが物議をかもしだしました。
こちらの公式サイトの写真を見ていただければわかると思います。
デザインだけでなく大雨・雹の日に破損なども受けましたし・・・迷走するメルボルンのものすごく良い例なんです。

St Patrick's CathedralRoyal Arcadeメルボルンの古い建物もう2つ。

左:聖パトリック大聖堂。メルボルン最大の教会です。夜に通りかかるのが多いので(Fitzroyから歩いてシティに戻るとき)夜の写真しかなかったです。

右:Royal Arcade。近くにあるBlock Arcadeとともに内装が昔のスタイルのままです。お店もちょっと粋なお店が多くて私のお気に入りアーケードです。

Victoria HarbourDocklandsシティの北西に最近できた新しい開発エリア、Docklands。
デザインも実際に人が住んだり使ったり訪れるのにも成功しているとは言い難いとの評判ですが、外に彫刻がいっぱいあったりして私は好きです。
ちなみに右の写真には古い型のトラムが。

シティのとあるビルシティでトラムの中から撮った写真。
迷走もある程度許容すると言いましたが、これはちょっと・・・(汗)
どこかは内緒です。メルボルンに来た際は探して見てください。
この建物、下もこうですけど上もかなり変なことになっていて。
統一感ゼロの建築なのです。
ヒント:最寄りの駅はMelbourne Centralです。



今日の一曲: ロス・エドワーズ 「Enyato II」 第2楽章 「White Cockatoo Spirit's Dance」 (ビオラ版)

Australian Music Centreのリンク(試聴は第1楽章のみ)

ロス・エドワーズ。オーストラリアの作曲家でものすごく音楽スタイルが好きな人です♪
同じオーストラリアでもたとえばSculthorpeはクイーンズランドのような「湿ったオーストラリア」のイメージがありますが、エドワーズは「乾いたオーストラリア」のイメージが。

このEnyato II(タイトルから分かるようにIとかIIIとかもあります。まだお目にかかれてないのがおおいのですが)はバイオリンまたはビオラが無伴奏で弾くように書かれた曲。
そのうちの第2楽章がたまに単独で演奏されていて、「White Cockatoo Spirit's Dance」の副題で知られています。

White Cockatooは白い羽と黄色いとさかを持ったキバタンのこと。
あまり詳しいことはわからないのですが、先住民アボリジニの自然崇拝につながるイメージがあるようです。

ロス・エドワーズの変拍子のリズムはストラヴィンスキーの「春の祭典」に似たものがあって、くるくる拍子が変わるのがものすごく生き生きしていて、そしてこんなにリズムが変わるのにこんなに自然に感じるのにびっくりするくらい。なんだか変拍子には「自然」を感じますね。リズムが一定なのは人間の創った感覚じゃないかと。

決まった調で書かれているわけではありませんが、調を感じる音楽な為、♯系から♭系に変わった時の色彩ががらっと変わるあの瞬間は愛しいです♪

どれくらいエドワーズの音楽がオーストラリアを代表しているか巷のことはわかりませんが、私にとって彼の音楽はいつでもオーストラリアらしく、その自然だったり、身の回りに感じるものをより鮮やかに、大切に感じます。明るく喜びのエネルギーに満ちたリズムと色彩が本当に嬉しくなります♪

リンクしたCDなのですが、最後のトラックの曲は尺八のために書かれています。(私もまだ聴いてないのですが・・・)確かオーストラリアの作曲家が尺八のために曲を書いているのはこれだけじゃないはずですよ。

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A Spring Day in Melbourne
今日は朝から午後までずっとシティの方に。
帰ってきてすっかりくたくた。でも週末はきっと仕事なのでこうやって外に出れてよかったです。

朝一でまず精神医とのアポに。
特に話すような、心配になるような問題もなく、夏になるのでビタミンD濃度も心配ないかな、ということでビタミンDサプリもストップになりました。
太陽に当たることで増えるビタミンDは日照の少ない冬のうつに関連しているとも言われるので補助的な意味でこれまで飲んできたのですが、こないだの血液検査の結果から夏はちゃんと日光を浴びれば大丈夫でしょ、という結論に至ったわけです。
冬はまた調子が落ちる可能性がありますが、とりあえずのところ大丈夫。
サプリではあるんですが減薬はなんにしても良いことです。次のアポはリチウム濃度・甲状腺ホルモン・ビタミンD濃度の血液検査を終えた後2月の終わり。ずいぶん先ですが夏は心配ないので、そしていつでも連絡できますし。
ドクターが「でもなんかあったら手遅れになるよりは早めに連絡してね」といつも言っているのがやっぱり思いやりと信頼の証みたいでなんだか嬉しいです。

そしてその後はマッサージに。
シティにある日本マッサージのお店。「Miyabi(雅)」というところで、いつだったか妹が誕生日におごってくれて以来。
オイルマッサージもあるのですが今回も指圧にしてもらいました。
生まれて初めて「こってる」と言われてしまい(汗)でもデスクワークが主の生活になってしまったのでしょうがないですね。なんだか腰に負担がかかってて、そこから背中、そして肩にかけてこりが生じているのでは、という話でした。
身体を温めて動かすことが大事だそうです。そして今日は老廃物を流すために水分摂取を、とも言われました。
でもずいぶん背中・肩が軽くなって。そのうちまた来てこんどはオイルのほうも試せるかな?

メルボルンで大きな本屋といえばBorders。いつもいろいろお世話になっています。
今日は日本の母に貸したままおそらくこれから返ってこないであろうUrsula le Guinの「Earthsea」シリーズのメインの本をやっと購入。ずっと前に読んで、外伝的な話を今年読んでいたのですがこれがないと始まらない。
ファンタジー好きな私の中でもかなりの思い入れがある作品。これは知名度こそ低めなのですが(「ゲド戦記」として一部分アニメ映画にもなっていますが、原作者もあんまり満足じゃなかったようなので)、ものすごくクラシックな感じの、でもいろんなポピュラーなファンタジーでは見落とされがちな大切なことを大事に扱っていまっす。
詳細はまた読んでから。
Bordersにはなんと!私より大きい(長い)「はらぺこあおむし」のぬいぐるみもいました!
欲しいんですが165ドル(13500円くらい?)。大好きだし、魅力的なサイズと手触りですがどうしてもこれは・・・うーん。

くるみ割り人形メルボルンはどこもクリスマス色に染まってきています。
その筆頭がショッピングセンターMyer。シティの店は歩行者+トラムのみの通りに面したショーウィンドウが例年通りクリスマス仕様になっています。
今年は「くるみ割り人形」の物語が動く人形とナレーションでdisplayされています。
日陰のガラス越しなのでうまく写真がとれなかったのですが一枚、真夜中におもちゃの兵隊とネズミたちが戦いを繰り広げるシーンを。
このバージョン、私が知ってる物語とはちょっと違って、クララはお菓子の国の女王になる、というエンディング。あれ?金平糖の精は!?(チェレスタ奏者の心配)

そして待ち合わせている友達が(なんでも妹の誕生日になぜか初めてティラミスを作るのに苦戦して)遅れるというのでMetropolitan Arts Museum Shopだったりサウスメルボルンマーケットで次回のプロジェクトに使うビーズを吟味して買ってみたり。
そしてやっとDeGraves Streetで落ち合い、落ち着いて談話。

大学で知り合って何回か室内楽だったり伴奏という形だったりで一緒に弾いたりもした仲良しの友達。
ちょっとTomorrowシリーズ(映画版)のロビンを思わせるような、敬虔なクリスチャンかつナイーブ気味な(笑)可愛いバイオリニストの女の子。ほっぺなんかリンゴのようなんですよ(笑)
最近は国立アカデミーに受かって(来年から)、バイオリニストとしての修業というかなんかで普段は生理的に受け付けないショーピース的なレパートリーにも取り組んでるんだとか。お互い我慢でがんばってますわ(笑)

私は親から支援がありますがやっぱり音楽家&音大生はお金に困るのがお決まりですね。
楽器教えで生計を立てるのは大変だそう。
ちなみに学費に関しては国立アカデミーは政府が出してますので。私も永住権とれたら年齢制限ひっからないうちにオーディション受けようかな、と思ってるのですが話を聴いてると仕事と両立できるかどうか(個人的に)怪しいところ。あんまり無理はできないので・・・(汗)

それにしてもみんな大学時代から私の先を行ってるのは承知ですがどんどん進んでっちゃうなあ。
人と比べるのも自分の性格からちょっと避けたいですし、自分の夢は音楽だけにないことは分かってるんですが。
なんだかちょっぴり焦るような、淋しいような。

でもまあ、メル響のオーディションを受けれるようにすることを含め当面の目標に向けて私もがんばらないと、と思いました。
そしてこれからは天気が良くなるので出かけられるときは出かけて友達に会ったりしたいです。

あ、そしてサウスメルボルンのビーズ屋で探してた黄色のビーズが無かったことに首をひねってます。
次はFitzroyかPrahran行きかしら。


(今日の一曲はくたくたなのでお休みです)

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クラムの世界 その2
今日は仕事にお笑い生配信視聴ですっかりくたびれ&ご機嫌です。
では昨日の続きを。

クラムの音楽が自分にとって親しくなった理由の一つに題材のチョイスがあります。
宇宙、天体、神話、ファンタジー、古代、生物、自然、儀式、虫・・・
みんな私のストライクゾーンです(笑)
曲のタイトルが一つの神話だったり宗教、流派だったり文化に捕らわれなく、自由なイメージをはぐくむことができて。それでも例えば科学だったり自然だったり既にある神話だったりに骨組みがあるのでまったく未知の世界でもなく。

実際クラムは彼が題材としたもの全てに知識を持っていたわけではないようです。
例えば話を聞きかじったり、言葉を見つけたり、コンセプトのおおまかなところを知ったり・・・
あとは彼なりのイメージでその周りに肉付けしたというようなことで、要するに妄想力の勝利。
私も割とそういう創作過程をたどることもあるからか、クラムの音楽のところも好きです。
実際非の打ち所なく元の題材により裏打ちされた作品、というのは取っつきづらいというか深く感じるにはその題材を深く知って理解することが必要、という面もあるので・・・
こういう風な構成で聴き手・弾き手の想像力に訴えかける方が親しみやすい、ということもあるのかもしれません。

そうやって想像力・妄想力を「刺激される過程」だったり、クラムの音楽によって自分の世界が形になっていくがものすごく気持ちいいのですが、その過程で子供の頃の空想だったり、どこかで読んだ神話だったり、色んな「もしも」や知識のかけらも蘇って世界の一部になって・・・そういうのがたまらない。自分の心で忘れていたもの、見えなかったものを刺激してくれたり。それもまた良い。
世界を構成するものだけでなく、自分を構成するもの、自分のアイデンティティについてもヒントをくれるような音楽だと思います。

クラムの音楽におそらく一番大きい影響があったのはバルトークの音楽ではないか、と思います。
論文でも対称性だったり構成だったりでの類似点(プラスバルトークの「ミクロコスモス」=小さい宇宙という題を意識しているかのような「マクロコスモス」=大きな宇宙というクラムの音楽のタイトル)が指摘されていましたが、なんといっても「夜の音楽」だったり「虫の音楽」の共通点は大きいと思います。
分析法をあんまり知らないので詳しいことは私からは何ともいえないのですが、感覚的・直感的にもものすごく似たものがあります。
メシアンは鳥、クラムは虫(昆虫に限らず実在/非実在の広い意味でのそういった生き物)。また不思議な形で自然と繋がっているのですね。

他にもクラムの音楽にある「時間を超えた時間」(武満やメシアンの音楽にもありますね)だったり、宇宙の無限に近い距離、天体の見えない動き、闇と無を抱く空間、遠く過ぎ去った過去や自然のうごめきとか、ロマンが一杯です。そこに人間の入る余地はないのかもしれないのですが(実際「鯨の声」などでクラムは人間的なエレメントを消すために奏者に仮面をつけるよう指示したりもしています)、よくよく考えるとものすごく身近なもの。

自分を取り巻く世界の全てを動かすメカニズムだったり、手塚治虫「火の鳥」の「未来編」のコスモゾーンのコンセプトに通じるような私たちの中、細胞のなかにある小宇宙(ミクロコスモス)、そして私たちの外に広がる大宇宙(マクロコスモス)、そういったものの源だったり、エネルギーだったり、動きだったり、メカニズムだったりを感じ、触れ、自分で動かすことができるような気がして。

だからクラムの音楽を演奏する人は私は「魔術師」だと思います。
内なる世界と外の世界を自由に動かし、表現し・・・想像したものを不可思議な形にして。
音楽家として音と心を操るだけでなく、弾く事に「空間を創り出す」というエレメントもありますし、そういった自分の世界をひっくるめて演出することもあり・・・
でもクラムの音楽の性質を考えるとどうしても「魔術師」といってしまいたいですね(笑)
クラムの音楽を多数世に送り出したメゾ・ソプラノ歌手ジャン・デガエタニだったり、クラムを始めプリペアド・ピアノやトイ・ピアノを用いたりもする現代音楽のピアニスト、マーガレット・レン・タンだったり・・・演奏を聴いていると音楽と弾くと言うよりは魔法を使っているという感じです。

私も魔法使いになりたいです。
想像力と妄想力、そしてピアノのでき得ること(特殊奏法をもちろん含め)全て駆使して音楽を弾くだけでなく、自然のメカニズム、空間、時間、色彩などをこの手で動かして自由に操り、表現したいという気持ちでいっぱいで。
なのでまずグランドピアノが欲しいです。中古でもいいので(笑)今のアップライトピアノだと特殊奏法が使えないのと、真ん中のペダルの機能が違うのと・・・あと音質がちょっと(汗)割りと音の粒一つ一つが聞こえて音が薄いため音をブレンドしたり余韻をコントロールするのが難しいのです。

私のピアノについての愚痴は置いておいて。
ジョージ・クラムの音楽は今敬遠されているほどに敬遠されるような音楽ではないと思います。
論理的だけれど想像力を刺激して、遠いようで本当はものすごく身近な世界。
偏見とキワモノ的な見方さえとっぱらえばきっとアプローチしやすい音楽。
もっと評価されてもいいんじゃないかなーと思います。

いつか私が魔術師になって、自分の内なる世界、外の世界の美しさ、そしてクラムの音楽を世に伝えることができるようになることを願って・・・


今日の一曲: ジョージ・クラム マクロコスモス第1巻 第11楽章「夢の音楽(愛と死の音楽)」



宣言通り聴きやすい、入門編クラムをチョイス。
時を超えた時、無限の空間・・・そういったクラムの音楽の主要なアイディアがシンプルに、心にしみて感じられる曲です。

使うハーモニーはほとんどロマン派以前の聴きやすいものばかり。
そして特殊奏法をほとんど?全然?使わない曲。
ただ和音の余韻により広がる世界はクラムの音楽以外の何物でもありません。

ドビュッシーが「音楽とは音と音の間の空間である」と言うように、この曲もまた音と音の間に広がる空間、余韻、そして音が消えていく瞬間、様々な音の余韻が絡み合い一つになるafterthoughtこそが音楽。
音が少なくともも色んなものにあふれています。

そして途中で現れる聞き覚えのあるようなメロディーはショパンの「幻想即興曲」からのメロディーの欠片。
夢のようにふっと現れて、ほどけるように無に帰していく・・・
そして原曲とは違ってペダルを踏んだままにしてあるのでそのふわふわした、夢の世界のような音の混ざり合いがまた美しく。

そういった引用の欠片も、きらきらと輝く音の粒も、深く響く和音も。
全て心の琴線に触れるのに、まるで触れ得ないような、不思議な存在感を放っていて。
透明で、触れればほどけそうなその音楽を心全体で受け止めたくなります。

こんな愛しい音楽を埋もれさせとくのは勿体ない!(といってもあんまりメジャーになって騒がれるのもなんですね、ひっそり大事に愛してあげて欲しいです)
クラムの音楽がキワモノだと、特殊奏法で奇抜なことをやっているだけだと決めつける前に素直な心でこの曲を聴いて欲しいです。
奇抜なサウンドも耳と脳の慣れでずいぶん見方が変わってくるんので、クラムを聴く際にはこういった割と聴きやすいものに心を開いて偏見をとっぱらうことをオススメします。
ただ、クラムの音楽がどうとかいうことを差し引いてもささやかに美しい曲なので皆さん是非♪

(今回はDVD版をリンク。いつか手に入れたい一枚です♪)

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