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本当に今、たった今思ったんですけど音楽って不思議なものだなーと。
音自体はは時間とともに消えていくけれど、音楽の演奏が人の心に残ったり、記憶に残ったり、書き記されたり、デジタル的なフォーマットで書き記されたりして時間を超えて残っていくんだなーって。
もちろん人の中を通るごとに変化するのはあるのですが、音楽の核というか芯みたいなスピリットは人よりも長く生き続けるんですよね。
さてさて。
心身リカバリーしつつもありますが、まだまだ弱気なのかやっぱり一人旅に出たいなー目新しい景色が見たいなー一人で自由にのんびりしたいなーとかいう思いが頭をぐるぐるしたりして。
一人旅に出たのも随分前なのでそろそろまた行ってもいいかな、との結論に至りました。
一人旅の始まりは「Melway」でした。
Melwayとはメルボルンと郊外のロードマップで、私の見たことのある道路地図の中で最高のもの。
こっちに来た当時から隅から隅まで読んでこんなところに行きたいな、とかこんな名前の道があるんだなーとか楽しんでたのですが、大学に入って行動の自由(音楽科は授業時間自体は少ないので(笑))が出来た頃、ちょっとMelwayで見つけた面白いかもしれない行ったことの無いようなスポットに電車でぶらりと行ってみたり。
30℃ほどの良い天気の日に電車で南下して2駅(5km)ビーチを歩いたり。
あとはタスマニアに2泊3日旅行にも行きました。一人でホバートに、マイケルにあったりもしながら(車がないので)バスと徒歩でホバートのシティ周りを回ったりしまして。
そして日帰りでグレート・オーシャン・ロードにある町Warrnamboolに電車で日帰りに行ったり。
基本独りで居るのが一番心地良いというか・・・
Warrnamboolに行ったときに気づいたのですが海の崖沿いの公園で四方数キロ誰もいない状態があまりにも心地よくて「これが自分のパーソナルスペースか!」と初めて納得した思い出があって。
知ってる人を訪ねるんじゃなくて一人で気ままに自由にぶらりと知らない土地に行くのが性に合ってるようです。
さて、今年の春に一応行こうかな-と思ってはいるのですがまだ行き先を決めかねてます。
多少は勝手知ったホバートも惹かれるのですが、やっぱり新しい、自分にとって未踏な場所、自然の美しいところがいいなーと。
あとはやっぱり限られた予算ですし、車はないのでそこまで現地で動き回れませんし、そして個人的な心の落ち着きの理由から水があるところがいいな、とか。
あれこれ考えたあげく候補その1はVIC州北部にある、NSW州の境であるマレー川の畔のYarrawonga、Mulwalaという町。(2つの町は川を隔ててお向かいさんです)
メルボルン都心からは電車とバスを乗り継いで
マレー川にダムを造る過程で生まれたLake Mulwalaという人工湖の、湖に木が何本も生えている景色が昔そこを通ったときから忘れられず。
夕焼けのLake Mulwalaはさぞ美しいんだろうなあ・・・とネットで見る写真を見て思うのです。
なんでもクルーズなんかもあるそうで、湖畔からだけでなく船の上から見るのも楽しそう!と惹かれるものがたくさんあります。
あともう一つの候補はがっつり州外。NSW州の北側の海岸にあるCoffs Harbourという場所。
NSW州とはいっても距離でいったらシドニーよりもQLD州のゴールドコーストに近いのですが・・・
ここのお目当ては海、庭園・公園、そしてなによりも町のの近くにある蝶園♪
実は以前オーストラリアにも蝶園が(動物園の一部としてでも。メルボルン動物園にもあるのですが)ないかと思い、検索をかけたところ見つけたところです。
Coffs Harbourには飛行機で行くことになるのですが、移動時間自体は電車で候補1に行くのとそんなに変わらないかな~?
あとはもう予算と宿泊が取れるかの問題でしょうかね。
できるならワイヤレスインターネットがあるところだったら急な仕事の心配も少なくて済みますし。
車がなくてもそこそこゆっくり楽しめそうなのですが車があったらもう色んな所にいけますね!
実は密かな夢はSpirit of Tasmaniaというフェリーで車同伴(笑)でタスマニアに渡って足の届かなかった場所に行ってみたい!
オーストラリアは広く大きく、本当に色んなところがあるので・・・一応14年住んで自分のhome countryとなった国ですが、まだまだ観光客気分で探検してみたいです♪
今日の一曲: セルゲイ・プロコフィエフ 「キージェ中尉」より「トロイカ」
前へ前へ、そんな一曲を今日はチョイスです。
この曲が一部である「キージェ中尉」のことは別の日におかせてもらいます・・・が、とりあえず。
この曲は私が中学生の時に妹とものすごーくはまった音楽で(笑)
それはなんといってもオープニングのインパクトの強さにありました。
私たち曰く、「世界で一番ぎこちないキーチェンジ」!
とりあえず、ずっこけます。音楽がずっこけ、そして聴く方も多少なりともずっこけます。
プロコフィエフもまたちょっと変わったユーモアの持ち主なのですが、もうこのこけ方は新喜劇並みですよ(笑)
トロイカ、というのはロシアの三頭立て馬車のこと。
馬車と言えば、ということで鈴が活躍し、そして同じくロシアを表す(奇しくも「3」つながりの)バラライカを真似たバイオリンのパッセージもあり。
雪のロシアの町の情景をパーフェクトにセットアップしてくれます。にくいです。
トロイカはひたすら忙しく前に進み、駆け。
きっと師走なんでしょうね。
この曲で自分が心地良く感じる一つの要因として、中低音楽器の活躍があると思います。
メインメロディーを担うチェロ、そしてトロンボーン、ファゴット、サキソフォンのソロ。ここらがしっかりしてるからこそ明るいだけで空回りする音楽にならないのですね。
そしてなんといっても一番の魅力は・・・昔と現在のミーティングポイント、みたいな時間・時代をさりげなく捉えているところでしょうか。
トロイカ=馬車が町を駆け巡る中、曲の後半で突然ブラスが不協和音を奏でますが、これは車のクラクション。あまりのスピードで馬車が通るもんですから急ブレーキしたんでしょうか。
馬車と自動車、どちらも共に存在していた時代。トロイカのスピードとは比べられないスピード化社会の黎明期・・・といったら深読みしすぎでしょうか?
なんにせよそういったいかにも「ロシアらしい」ような楽しい、きらきらとした冬の情景が映像のようにはっきりと表現されている短く、一見とるにたらないながらも楽しく聴ける、粋な一曲です♪
ちなみにリンクを貼った録音を始め、「キージェ中尉」はコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」とカップリングされることが多いのですが、書かれた時代とそれからちょっと風変わりでばかばかしいおとぎ話的な物語、という共通点もありなにかと相性が良いみたいです。そちらもなかなか楽しめる曲集ですよ。
音自体はは時間とともに消えていくけれど、音楽の演奏が人の心に残ったり、記憶に残ったり、書き記されたり、デジタル的なフォーマットで書き記されたりして時間を超えて残っていくんだなーって。
もちろん人の中を通るごとに変化するのはあるのですが、音楽の核というか芯みたいなスピリットは人よりも長く生き続けるんですよね。
さてさて。
心身リカバリーしつつもありますが、まだまだ弱気なのかやっぱり一人旅に出たいなー目新しい景色が見たいなー一人で自由にのんびりしたいなーとかいう思いが頭をぐるぐるしたりして。
一人旅に出たのも随分前なのでそろそろまた行ってもいいかな、との結論に至りました。
一人旅の始まりは「Melway」でした。
Melwayとはメルボルンと郊外のロードマップで、私の見たことのある道路地図の中で最高のもの。
こっちに来た当時から隅から隅まで読んでこんなところに行きたいな、とかこんな名前の道があるんだなーとか楽しんでたのですが、大学に入って行動の自由(音楽科は授業時間自体は少ないので(笑))が出来た頃、ちょっとMelwayで見つけた面白いかもしれない行ったことの無いようなスポットに電車でぶらりと行ってみたり。
30℃ほどの良い天気の日に電車で南下して2駅(5km)ビーチを歩いたり。
あとはタスマニアに2泊3日旅行にも行きました。一人でホバートに、マイケルにあったりもしながら(車がないので)バスと徒歩でホバートのシティ周りを回ったりしまして。
そして日帰りでグレート・オーシャン・ロードにある町Warrnamboolに電車で日帰りに行ったり。
基本独りで居るのが一番心地良いというか・・・
Warrnamboolに行ったときに気づいたのですが海の崖沿いの公園で四方数キロ誰もいない状態があまりにも心地よくて「これが自分のパーソナルスペースか!」と初めて納得した思い出があって。
知ってる人を訪ねるんじゃなくて一人で気ままに自由にぶらりと知らない土地に行くのが性に合ってるようです。
さて、今年の春に一応行こうかな-と思ってはいるのですがまだ行き先を決めかねてます。
多少は勝手知ったホバートも惹かれるのですが、やっぱり新しい、自分にとって未踏な場所、自然の美しいところがいいなーと。
あとはやっぱり限られた予算ですし、車はないのでそこまで現地で動き回れませんし、そして個人的な心の落ち着きの理由から水があるところがいいな、とか。
あれこれ考えたあげく候補その1はVIC州北部にある、NSW州の境であるマレー川の畔のYarrawonga、Mulwalaという町。(2つの町は川を隔ててお向かいさんです)
メルボルン都心からは電車とバスを乗り継いで
マレー川にダムを造る過程で生まれたLake Mulwalaという人工湖の、湖に木が何本も生えている景色が昔そこを通ったときから忘れられず。
夕焼けのLake Mulwalaはさぞ美しいんだろうなあ・・・とネットで見る写真を見て思うのです。
なんでもクルーズなんかもあるそうで、湖畔からだけでなく船の上から見るのも楽しそう!と惹かれるものがたくさんあります。
あともう一つの候補はがっつり州外。NSW州の北側の海岸にあるCoffs Harbourという場所。
NSW州とはいっても距離でいったらシドニーよりもQLD州のゴールドコーストに近いのですが・・・
ここのお目当ては海、庭園・公園、そしてなによりも町のの近くにある蝶園♪
実は以前オーストラリアにも蝶園が(動物園の一部としてでも。メルボルン動物園にもあるのですが)ないかと思い、検索をかけたところ見つけたところです。
Coffs Harbourには飛行機で行くことになるのですが、移動時間自体は電車で候補1に行くのとそんなに変わらないかな~?
あとはもう予算と宿泊が取れるかの問題でしょうかね。
できるならワイヤレスインターネットがあるところだったら急な仕事の心配も少なくて済みますし。
車がなくてもそこそこゆっくり楽しめそうなのですが車があったらもう色んな所にいけますね!
実は密かな夢はSpirit of Tasmaniaというフェリーで車同伴(笑)でタスマニアに渡って足の届かなかった場所に行ってみたい!
オーストラリアは広く大きく、本当に色んなところがあるので・・・一応14年住んで自分のhome countryとなった国ですが、まだまだ観光客気分で探検してみたいです♪
今日の一曲: セルゲイ・プロコフィエフ 「キージェ中尉」より「トロイカ」
前へ前へ、そんな一曲を今日はチョイスです。
この曲が一部である「キージェ中尉」のことは別の日におかせてもらいます・・・が、とりあえず。
この曲は私が中学生の時に妹とものすごーくはまった音楽で(笑)
それはなんといってもオープニングのインパクトの強さにありました。
私たち曰く、「世界で一番ぎこちないキーチェンジ」!
とりあえず、ずっこけます。音楽がずっこけ、そして聴く方も多少なりともずっこけます。
プロコフィエフもまたちょっと変わったユーモアの持ち主なのですが、もうこのこけ方は新喜劇並みですよ(笑)
トロイカ、というのはロシアの三頭立て馬車のこと。
馬車と言えば、ということで鈴が活躍し、そして同じくロシアを表す(奇しくも「3」つながりの)バラライカを真似たバイオリンのパッセージもあり。
雪のロシアの町の情景をパーフェクトにセットアップしてくれます。にくいです。
トロイカはひたすら忙しく前に進み、駆け。
きっと師走なんでしょうね。
この曲で自分が心地良く感じる一つの要因として、中低音楽器の活躍があると思います。
メインメロディーを担うチェロ、そしてトロンボーン、ファゴット、サキソフォンのソロ。ここらがしっかりしてるからこそ明るいだけで空回りする音楽にならないのですね。
そしてなんといっても一番の魅力は・・・昔と現在のミーティングポイント、みたいな時間・時代をさりげなく捉えているところでしょうか。
トロイカ=馬車が町を駆け巡る中、曲の後半で突然ブラスが不協和音を奏でますが、これは車のクラクション。あまりのスピードで馬車が通るもんですから急ブレーキしたんでしょうか。
馬車と自動車、どちらも共に存在していた時代。トロイカのスピードとは比べられないスピード化社会の黎明期・・・といったら深読みしすぎでしょうか?
なんにせよそういったいかにも「ロシアらしい」ような楽しい、きらきらとした冬の情景が映像のようにはっきりと表現されている短く、一見とるにたらないながらも楽しく聴ける、粋な一曲です♪
ちなみにリンクを貼った録音を始め、「キージェ中尉」はコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」とカップリングされることが多いのですが、書かれた時代とそれからちょっと風変わりでばかばかしいおとぎ話的な物語、という共通点もありなにかと相性が良いみたいです。そちらもなかなか楽しめる曲集ですよ。
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(↑スペルミスじゃないですよ、わざとです(笑))
今日はDaylesfordまで行く予定(昨日やっと予定がたったところ!)だったのですが昨日の午後から心身の調子がすこぶる悪く、これは無理できないと今朝リタイア。全面休養の一日となりました。
昨夜10年来のネットでの友人であり、強力なScaffoldingである人と話していたところ頑張りすぎで最近調子が右肩下がりな感じでここまできたんじゃないか、と言われました。
思って見ればモーニントン半島に行く前に仕事終わらせなきゃ、から始まってレッスンまでピアノも仕事や勉強と並んで頑張らなきゃ→曲を今週中に仕上げなきゃ、などと次から次へと頑張る締め切りみたいなものが出来ていて・・・
プラス毎週のように友達と会っていて正直あんまり楽しめないことも少なくなく、人疲れしてたのを無理に押していたような感じもひしひしします。
完全に自己管理・自己ケア・自己モニタリングの不足だった、と今日冷静になって大変反省しております。
明日は仕事なのですが、仕事はとりあえず苦にならなさそうなので勿論頑張り、あとはピアノや創作、勉強の方も気負わずやっていこうと思ってます。
方針としてはしばらく友達とは会わないようにして、一人で自由にきままに動き回れる時間を大切にしたいと思ってます。
で、昨日の午後の不調で「いかん!」と思った時にとっさに博物館に足を向けまして。
動物園や水族館は少しお金がかかりますし、博物館はシティから近いですし、なんといっても恐竜の化石と虫の展示が常時やってますので(笑)
恐竜の化石や、世界の動物の標本もそうですが、なによりも昆虫ほか虫を見ていると本当になんともいえない落ち着きを感じるんですよ。
昔から図鑑で育った子供だったのですが、中でも虫、特に蛾なんかは愛着が強くて。メルボルンではあまりめぼしい虫たちにお目にかかれる機会は少ないのですが実物が見れるときは必ずといっていいほどはしゃいじゃいます。
昨日は何よりも生きてるタランチュラの展示が愛しくて愛しくて。
自分の手のひらよりも大きい奴らがこっちにおしりを向けたまま、触角だけたまにむにゃむにゃ動かして寝ていたり、そして珍しくもそもそ歩き回ってる様子を見ると心が不思議と和みます。もともと蜘蛛は、とくにタランチュラは好きなんですが、実物が動いてるのを見るとこんなにも愛しいものかと(笑)
見てると好奇心が次から次へと湧いてくるんですよね。
8本もある足の動かし方には規則性みたいなものがあるのか?とか。どんな表情をして、何を思って動いているんだろう、とか。
昨日珍しくもそもそ歩き回ってた子はなにやら左後ろ足を怪我しているようで、そこだけ動きがぎこちないように思えました。もともとはメルボルン空港の検疫で押収されて博物館に来たらしいです。
「大変ね-」とかいってついつい厚いガラス越しに日本語でしゃべりかけてしまったり。
なつく動物だったらよかったのだけれど、なつきそうには無いです。ただそれでもきっと私はしゃべりかけるでしょう(笑)
(オーストラリアは検疫が厳しく、持ち込める食料品なども限りがあります。ただその厳しい検疫が外来種により自然形態を乱されることを防いでるのであって、Cane Toad以来外来種で問題があったことは皆無と言っていいでしょう。ちなみに口蹄疫も狂犬病も存在しません。)
とにかく蜘蛛で和むのも一時的な食い止めではあるのですが、調子が悪く感じたときにああやって気軽にゆったり(?)時間を過ごせる、自分が気が楽になれる場所を知っているのは本当に自分でも助かります。
特に冬場は外でまったりするのにも天候が悪かったりで・・・今年のメルボルンの冬は雨が多いので余計に。
春になったら動物園のバタフライハウスに遊びに行こうと思います。何とかトリバネアゲハ、それよりもユリシーズ(オオルリアゲハ)に好かれようとしてみたいです。蝶になつかれたい。
春になったら・・・といえば貯金次第で(給料が数ヶ月分オージードル換算が滞納されています。お父さん、しっかりしてください)春になったら電車で(metropolitan範囲外で)一泊くらい旅行にいこうかなーと。2泊でもいいですし。
ワイヤレスインターネットがあるところなら緊急の仕事だって出来ちゃいますしね。あ、仕事を休むための旅行ではなくどちらかというと違う景色で、誰も知ってる人がいないところ(田舎とか)でまったりしたいな、という。
一人旅は日帰りでWarrnumboolに、そして2泊3日でタスマニア(ホバート)に行ったのですがどこに行こうかなあ・・・
水のあるところが良いです。川でも湖でも海でも。
ちなみに来週末はコンサート続き。
土曜日はPiano Landmarksという元は私の先生が、今は同門の先輩が主催しているピアノコンサートシリーズ。1日に4つサウスメルボルンの国立アカデミーでコンサートがあるのですが、朝一のコンサートに私の先生スティーブンが、最後の夜のコンサートにマイケルが出演するので(他の2つのコンサートも知ってる人出るのですがとりあえず)その2つを聴きに行きます。
今年のテーマは「Preludes, Fugues and Etudes」で、先生は前奏曲オムニバス的プログラム、マイケルは練習曲オムニバス的プログラム担当です。
日曜日はここらの区域のタウンホールでKlezmaniaのコンサート。
クレズマー(イディッシュ=ユダヤ音楽)を知る一歩として、行ってみようかなーと思い。
実はそのタウンホールのある地域自体がメルボルンのユダヤ人地区なのですが、こういうコンサートの話をあんまり聞いたことが無かったので飛びついてしまいました♪あー楽しみ!
何はともあれ今週はあんまり飛ばさず、ゆっくり無理せず行きたいと思います。
ちなみにタイトルはArachnoid Mater=くも膜をもじって付けました。MaterじゃなくてMatter (事柄)ということで。
今日の一曲: モーリス・ラヴェル 「古風なメヌエット」
心に優しい曲を今日は自分のために一つ。
ラヴェルはいわゆるフランスの20世紀初頭の「印象派」と呼ばれるくくりに入っていますが、同時に「新古典派」のくくりにも入っていて。
19世紀の終わり、ワーグナーに代表される熟れすぎた「ロマン派音楽」に辟易した芸術家達がそれに取って代わる新しい芸術の形を探していたのが20世紀初頭、ことに第一次大戦の前にこういった探索がされていました。
「新古典派」というのはロマン派以前の音楽、つまり「古典」時代のモーツァルトやハイドン、さらにさかのぼって「バロック」のバッハやクープランなどの音楽にあったシンプルさ、簡潔さ、クリアさを取り戻そう、そういう動きだったんです。
ストラヴィンスキーやプロコフィエフも後にこの運動に傾倒するのですが、その話は後日。
Menuet Antique=古風なメヌエット、というこのピアノのための曲は実は(基本自分このコーナー参照無しでやってるので)そういった思想の一環なのかは定かではないです。ただタイトルが・・・ね。示してますよね。
こないだレッスンの時に先生が言うにはラヴェルは多作でなかった分それぞれの曲のクオリティが高く、「悪い」曲を書かない・・・のだけれどこの古風なメヌエットは比較的弱い曲だ、ということで。
まあ誰でも初期の作品は自分のスタイルを見つける発展途上の音楽。幼き頃から天才と呼ばれ完成された音楽を書き、生涯自体短かったモーツァルトさえも初期と晩期の音楽は結構違います。
これは聴いてみるよりも弾いてみると本当によく分かるんですけど、確かに「典型的な」完成されたラヴェルの音楽では確かにこの曲はないんですよ。
どこが、とは言いにくいのですがちょっと違う。ラヴェルの音楽は割と手になじむんですが(手が小さいので)、割と違和感がある。サウンドもなんだかちょっと違う。
でもむしろそれが「初々しさ」ゆえのぎこちなさ、あやふやさとして私はものすごく愛しくて。
それでもラヴェルの音楽にある前向きな懐かしさ、とか透明さ、とか優雅さは勿論ありますし。
なんとも言えない女性的なクオリティ、優しさがあるから憎めないどころか愛せずには居られない、そんな曲です。
あ、この曲は(ラヴェルが多くの自身のピアノ曲にしたように)ラヴェルによるオケ編曲版もあります。
ラヴェルはすぐれたピアノ曲書きではありますが、オーケストレーションの才能は音楽史の中でもトップ5に入るほどの腕なので、編曲版もすごく名曲です・・・が!
音楽に詳しい方ならご存じかもしれませんがピアノの12音の調律は平均律といって12の音の間隔が均等になるように調律されていますが、オケなど他の音楽だと和音などが美しく聞こえるように音程をその都度調整するのですが、その調整がこの曲のオケバージョンの最初の音になかなかの悪影響を及ぼしております。
これはオケが悪いわけでもなく、曲が悪いわけでもなく・・・ただそういうシステムの違いからピアノで自然に聞こえることがオケではあれ?となる、ということで・・・
とりあえずそんな理由からピアノ版をお奨めします♪
今日はDaylesfordまで行く予定(昨日やっと予定がたったところ!)だったのですが昨日の午後から心身の調子がすこぶる悪く、これは無理できないと今朝リタイア。全面休養の一日となりました。
昨夜10年来のネットでの友人であり、強力なScaffoldingである人と話していたところ頑張りすぎで最近調子が右肩下がりな感じでここまできたんじゃないか、と言われました。
思って見ればモーニントン半島に行く前に仕事終わらせなきゃ、から始まってレッスンまでピアノも仕事や勉強と並んで頑張らなきゃ→曲を今週中に仕上げなきゃ、などと次から次へと頑張る締め切りみたいなものが出来ていて・・・
プラス毎週のように友達と会っていて正直あんまり楽しめないことも少なくなく、人疲れしてたのを無理に押していたような感じもひしひしします。
完全に自己管理・自己ケア・自己モニタリングの不足だった、と今日冷静になって大変反省しております。
明日は仕事なのですが、仕事はとりあえず苦にならなさそうなので勿論頑張り、あとはピアノや創作、勉強の方も気負わずやっていこうと思ってます。
方針としてはしばらく友達とは会わないようにして、一人で自由にきままに動き回れる時間を大切にしたいと思ってます。
で、昨日の午後の不調で「いかん!」と思った時にとっさに博物館に足を向けまして。
動物園や水族館は少しお金がかかりますし、博物館はシティから近いですし、なんといっても恐竜の化石と虫の展示が常時やってますので(笑)
恐竜の化石や、世界の動物の標本もそうですが、なによりも昆虫ほか虫を見ていると本当になんともいえない落ち着きを感じるんですよ。
昔から図鑑で育った子供だったのですが、中でも虫、特に蛾なんかは愛着が強くて。メルボルンではあまりめぼしい虫たちにお目にかかれる機会は少ないのですが実物が見れるときは必ずといっていいほどはしゃいじゃいます。
昨日は何よりも生きてるタランチュラの展示が愛しくて愛しくて。
自分の手のひらよりも大きい奴らがこっちにおしりを向けたまま、触角だけたまにむにゃむにゃ動かして寝ていたり、そして珍しくもそもそ歩き回ってる様子を見ると心が不思議と和みます。もともと蜘蛛は、とくにタランチュラは好きなんですが、実物が動いてるのを見るとこんなにも愛しいものかと(笑)
見てると好奇心が次から次へと湧いてくるんですよね。
8本もある足の動かし方には規則性みたいなものがあるのか?とか。どんな表情をして、何を思って動いているんだろう、とか。
昨日珍しくもそもそ歩き回ってた子はなにやら左後ろ足を怪我しているようで、そこだけ動きがぎこちないように思えました。もともとはメルボルン空港の検疫で押収されて博物館に来たらしいです。
「大変ね-」とかいってついつい厚いガラス越しに日本語でしゃべりかけてしまったり。
なつく動物だったらよかったのだけれど、なつきそうには無いです。ただそれでもきっと私はしゃべりかけるでしょう(笑)
(オーストラリアは検疫が厳しく、持ち込める食料品なども限りがあります。ただその厳しい検疫が外来種により自然形態を乱されることを防いでるのであって、Cane Toad以来外来種で問題があったことは皆無と言っていいでしょう。ちなみに口蹄疫も狂犬病も存在しません。)
とにかく蜘蛛で和むのも一時的な食い止めではあるのですが、調子が悪く感じたときにああやって気軽にゆったり(?)時間を過ごせる、自分が気が楽になれる場所を知っているのは本当に自分でも助かります。
特に冬場は外でまったりするのにも天候が悪かったりで・・・今年のメルボルンの冬は雨が多いので余計に。
春になったら動物園のバタフライハウスに遊びに行こうと思います。何とかトリバネアゲハ、それよりもユリシーズ(オオルリアゲハ)に好かれようとしてみたいです。蝶になつかれたい。
春になったら・・・といえば貯金次第で(給料が数ヶ月分オージードル換算が滞納されています。お父さん、しっかりしてください)春になったら電車で(metropolitan範囲外で)一泊くらい旅行にいこうかなーと。2泊でもいいですし。
ワイヤレスインターネットがあるところなら緊急の仕事だって出来ちゃいますしね。あ、仕事を休むための旅行ではなくどちらかというと違う景色で、誰も知ってる人がいないところ(田舎とか)でまったりしたいな、という。
一人旅は日帰りでWarrnumboolに、そして2泊3日でタスマニア(ホバート)に行ったのですがどこに行こうかなあ・・・
水のあるところが良いです。川でも湖でも海でも。
ちなみに来週末はコンサート続き。
土曜日はPiano Landmarksという元は私の先生が、今は同門の先輩が主催しているピアノコンサートシリーズ。1日に4つサウスメルボルンの国立アカデミーでコンサートがあるのですが、朝一のコンサートに私の先生スティーブンが、最後の夜のコンサートにマイケルが出演するので(他の2つのコンサートも知ってる人出るのですがとりあえず)その2つを聴きに行きます。
今年のテーマは「Preludes, Fugues and Etudes」で、先生は前奏曲オムニバス的プログラム、マイケルは練習曲オムニバス的プログラム担当です。
日曜日はここらの区域のタウンホールでKlezmaniaのコンサート。
クレズマー(イディッシュ=ユダヤ音楽)を知る一歩として、行ってみようかなーと思い。
実はそのタウンホールのある地域自体がメルボルンのユダヤ人地区なのですが、こういうコンサートの話をあんまり聞いたことが無かったので飛びついてしまいました♪あー楽しみ!
何はともあれ今週はあんまり飛ばさず、ゆっくり無理せず行きたいと思います。
ちなみにタイトルはArachnoid Mater=くも膜をもじって付けました。MaterじゃなくてMatter (事柄)ということで。
今日の一曲: モーリス・ラヴェル 「古風なメヌエット」
心に優しい曲を今日は自分のために一つ。
ラヴェルはいわゆるフランスの20世紀初頭の「印象派」と呼ばれるくくりに入っていますが、同時に「新古典派」のくくりにも入っていて。
19世紀の終わり、ワーグナーに代表される熟れすぎた「ロマン派音楽」に辟易した芸術家達がそれに取って代わる新しい芸術の形を探していたのが20世紀初頭、ことに第一次大戦の前にこういった探索がされていました。
「新古典派」というのはロマン派以前の音楽、つまり「古典」時代のモーツァルトやハイドン、さらにさかのぼって「バロック」のバッハやクープランなどの音楽にあったシンプルさ、簡潔さ、クリアさを取り戻そう、そういう動きだったんです。
ストラヴィンスキーやプロコフィエフも後にこの運動に傾倒するのですが、その話は後日。
Menuet Antique=古風なメヌエット、というこのピアノのための曲は実は(基本自分このコーナー参照無しでやってるので)そういった思想の一環なのかは定かではないです。ただタイトルが・・・ね。示してますよね。
こないだレッスンの時に先生が言うにはラヴェルは多作でなかった分それぞれの曲のクオリティが高く、「悪い」曲を書かない・・・のだけれどこの古風なメヌエットは比較的弱い曲だ、ということで。
まあ誰でも初期の作品は自分のスタイルを見つける発展途上の音楽。幼き頃から天才と呼ばれ完成された音楽を書き、生涯自体短かったモーツァルトさえも初期と晩期の音楽は結構違います。
これは聴いてみるよりも弾いてみると本当によく分かるんですけど、確かに「典型的な」完成されたラヴェルの音楽では確かにこの曲はないんですよ。
どこが、とは言いにくいのですがちょっと違う。ラヴェルの音楽は割と手になじむんですが(手が小さいので)、割と違和感がある。サウンドもなんだかちょっと違う。
でもむしろそれが「初々しさ」ゆえのぎこちなさ、あやふやさとして私はものすごく愛しくて。
それでもラヴェルの音楽にある前向きな懐かしさ、とか透明さ、とか優雅さは勿論ありますし。
なんとも言えない女性的なクオリティ、優しさがあるから憎めないどころか愛せずには居られない、そんな曲です。
あ、この曲は(ラヴェルが多くの自身のピアノ曲にしたように)ラヴェルによるオケ編曲版もあります。
ラヴェルはすぐれたピアノ曲書きではありますが、オーケストレーションの才能は音楽史の中でもトップ5に入るほどの腕なので、編曲版もすごく名曲です・・・が!
音楽に詳しい方ならご存じかもしれませんがピアノの12音の調律は平均律といって12の音の間隔が均等になるように調律されていますが、オケなど他の音楽だと和音などが美しく聞こえるように音程をその都度調整するのですが、その調整がこの曲のオケバージョンの最初の音になかなかの悪影響を及ぼしております。
これはオケが悪いわけでもなく、曲が悪いわけでもなく・・・ただそういうシステムの違いからピアノで自然に聞こえることがオケではあれ?となる、ということで・・・
とりあえずそんな理由からピアノ版をお奨めします♪
今日の練習ででめでたく今まで弾いてきた曲にさよならしました♪
ピアノ弾きの新しいフェーズを就職と共に始めたときに弾き始めた曲たち。こないだのレッスン後少しがんばりまして今やっと前に進める、と判断しまして・・・レッスンで指摘されたことをもっと練習するにもここでその指摘分野を一層磨ける曲を選んで気持ち新たに頑張りたいと思ってます。
一応プログラムは今のところこんな感じ:
リゲティ・ジェルジュ 練習曲第11番 "En Suspens"
モーリス・ラヴェル 前奏曲
ヨハネス・ブラームス 2つのラプソディー
クロード・ドビュッシー 映像第1集から「ラモー礼賛」
オリヴィエ・メシアン 練習曲「火の島I」
気持ち新たに、といいましたが今すでに弾いてるリゲティ、さらにラヴェル以外は以前弾いたもの。そしてラヴェルは1分ほどの短い曲。なのであと一つまっさらに新しい曲を弾こうかなーと。
ラヴェルとメシアンは常に弾く、という方針は固まってますが他の方針(曲集を全曲制覇するか、など)もこの時期に決めていきたいと思います。
さてさて。
ピアノは今でも弾いてますし、チェロもまた少し戻ってみようかなあ、と思ったり。
一日打楽器奏者(デジタルパッド)もなりゆきでやったことがありますし、小学校から中学校にかけて2年間ほどオーボエも吹いていました。小学校で一学期ごとローテーションでトランペット、クラリネット、オーボエを吹いたのの延長線上の活動でして。
自分が実際に弾いていない楽器でも本当に心に近く感じるものがいくつかあります。
その一つがホルンで、そしてもう一つはビオラ。
ホルンは友好関係と育ちからの親しみでしたが、ビオラはどっちかというと自分の性格が親しみを呼んだような気がします。
そもそもビオラは妹がバイオリンを始めてから数年後バイオリンの先生に「ビオラに転向しない?」と呼びかけられたのが縁の始まり。
妹を「出世が早いよ!」といって家族みんなで唆したのですが、実際7年生でビオラを始めて同じ年の年末にあったSpeech Night(卒業式を兼ねた全校のセレモニー)ではそれぞれの楽器の最前列が私の学年(10年生)で占められてる中に一人ビオラのリーダーの隣に座ってたほどです。
それから同じような時期にピアノの発表かなんかの為にユースオケの休憩中にピアノ(ラフマニノフの前奏曲ニ長調でした)を練習してたところとある先輩の男の子がいきなりページをめくってくれたばかりかものっそほめてくれまして。彼はユースオケでビオラを弾いていて、後にアメリカ留学してそちらに移住したとにかく凄いビオラ奏者だってことが後に判明するのですが。
(プラスほとんどのビオラ奏者が妹のようにバイオリン奏者からの転向者なのですが、彼は私の知っている唯一の「純粋な」ビオリストなのです)
大学に進学した後国立アカデミー在学の彼に再会し、おそれ多くも伴奏を頼まれちゃったりしまして。
その伴奏を頼まれたコンペが9曲ほど最初のラウンドで弾かなくちゃいけないもので、みっちりリハーサルした期間ビオラのレパートリーや楽器自体のことなど、たくさんたくさん学び、近しさと親しさをこの楽器に抱くようになりました。
そのコンペでわかったのですが、同じ弦楽器でも実際にビオラのことを本当に分かってる人は少ないです(これはチェロに対してもいえることですが)。審査員の曲のチョイスときたらなかなか首をかしげるものでしたし。
ビオラは何かと前に出ない、内向的で自分たち同士で理解し合ってれば幸せな、縁の下の力持ち。
なにかと馬鹿にされたり(ビオラジョークの多さ!)、ないがしろにされたりすることも少なくないけれど、特に気にすることなくもくもくと伴奏と内声を担当してオケを支えているのです。
実際深く厚みがあって暖かく、時には凶暴でダークな音色も披露できるビオラ。
実際バイオリニストで(バイオリンにはない)低音のC弦が羨ましい!っていう人は大学でもたくさんいました。
でもビオラ弾き自体はとってもマイノリティで、レパートリーもごくごく小さいものです。
モーツァルト、ドボルザーク、レスピーギ、ヒンデミットとかなりメジャーどころの作曲家もビオラを弾いたのですが、実際に奏者兼作曲家としてたくさんの曲を残したヒンデミット以外はほとんどビオラ曲を書いてません。
(ただオケ曲の中でものっそビオラの使い方がうまい!っていう作曲はたまにいます。それを感じるとぞくぞくしますし嬉しいです!)
あとピアノ三重奏(ピアノ+バイオリン+チェロ)と比べてビオラを足したピアノ四重奏の響き、そしてチームワークは一段違うものがありますね♪
ビオラの本当のキャパシティ、潜在能力みたいなものをもっとも教えてくれたのはヒンデミットとブラームスでしょうか。
ヒンデミットの多くの無伴奏・伴奏付きソナタ、それからブラームスの晩年のもとはクラリネットのために書かれた(ただ大半がビオラのほうがナチュラルに聞こえる)2つのソナタ。
ビオラならではの音色、表現、テクニック、パワーがピアノを弾いていてもひしひしと感じられます。
詳細は私がなにを言うよりもまずヒンデミットのビオラソナタop.11-4、そして2つのブラームスのビオラソナタを聴いてもらえれば、と思います。
そして伴奏したうちでこれは運命か!とおもった曲が一つ。
ショスタコーヴィチの生涯最後の作品、ビオラソナタ。
20世紀になってヴィオラのステータスはちょっぴり上がったような気がしますが、同時にバルトーク、ブラームス、ショスタコなど晩年にビオラを活躍させたがった音楽家は多いです。一通りいろいろやってたどり着いたのがビオラなのか、はたまた死に近づいてくるとビオラの音色に魅せられるなにかがあるのか・・・
ショスタコのソナタはそういった作品の中でも最たるもの。
自分にとってこんなに弾くのが自然だった、曲に自然に入って行けた曲は他にありません。
実際技巧的な問題を除けばビオラ音楽のピアノパートってものすごく自分の内面と相性がいいように思えます。ビオラ奏者と共に音楽を奏でる、というのも(何人か伴奏する機会がありましたが)結構落ち着きます。
ただショスタコのビオラソナタは・・・これこそ自分が死ぬときに聴いていたい、生きている間も心の拠り所としたい曲だな-と思いました。
いつでもここに戻ってきたい、一緒にいて・・・と思い、たまに自分の一部のように感じることもあります。
そんなこんなでビオラにすっかりぞっこんになり、ビオラを弾かない人としてはかなりビオラのレパートリーを知るようになり(知識メインですが)。心の中で一種の友として愛しながら今に至ります。
ただこないだ日本から送られてきた録画に入ってた「のだめカンタービレ」の映画で千秋君が「ビオラに頼らない!」と言ったあの台詞には一人で20分ぐらい笑ってましたね(笑)ジョークを読んでも分かると思いますが誰もビオラに頼ろうとは思いません!ビオラに頼ったらあの人達困りますよ!頼られたらおそらくは一番おろおろする人種です(笑)
母と私曰く、どっちかというとオタク気質で自分の興味あること・好きなことはちゃんとこなしますしのめりこんだりして内輪で盛り上がるけれど責任がある立場というものが苦手で、主流とは別のところでひっそり楽しむ人たち、というのがビオラという楽器の見解です。
自分はチェロ気質だな、と思うことも多々あるのですが(とくに短所では・・・)、上記の理由も結構あてはまるがゆえにビオラ奏者やビオラ音楽と妙に馬が合うのかな・・・?
卒業して、さらに妹もビオラを弾かなくなって久しいですが、ビオラ音楽を愛し、探し続け、とりあえずいつかショスタコのヴィオラソナタは一緒に弾く人がいなくても買うつもりですがこの心の友とひっそりと付き合っていきたいと思います。
今日の一曲: ニーノ・ロータ 間奏曲
ビオラレパートリーというあまり使われない物置の、その奥の箱に入った、あまり知られていない大切なtokenを今回は引っ張り出してみたいと思います。
ニーノ・ロータはイタリアの作曲家で、本人は純音楽の作曲家だと主張しているのですが、映画音楽で有名な人。有名な作品にはゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」(学校の英語の授業でロミジュリをやるときかならず見ます!)、ゴッドファーザーの愛のテーマ、太陽がいっぱい、などなど。
そんな中彼が書いたビオラ作品。
ロミオとジュリエットのTime for usと似たテイストの美しいメロディーから始まって表現に富んだ、さらに技巧も尽くして、ビオラの良いところをみーんな盛り込んだ、ビオラが弾くにふさわしい曲になっています。
もともとビオラはバイオリンのように音が派手でなく、どこかpathosを含んだ音色。
それが悲しげなこの曲にぴったりで。
ビオラって女性的な音というか性格をしてますが、それもまたぴったり。
(余談ですがビオラは実際にイタリア語だと女性詞をとるマイノリティ楽器の一つです。他にはテューバ、トランペットなど。)
内側へ、内側へと向くビオラの音がどこかなつかしく、豊かに、ときに激しく、哀しく・・・ロータには申し訳ないですが映画音楽と似たエレメントがあって、目の前には無いはずの映像が見えるような錯覚に陥ります。
日本人ビオラ奏者、今井信子演奏のCDは全てビオラのために書かれた(=アレンジではない)ビオラ曲が集められていますが、わりとモダンな感じのも結構ある中でちょっと独特な光を放つ一曲です♪
ピアノ弾きの新しいフェーズを就職と共に始めたときに弾き始めた曲たち。こないだのレッスン後少しがんばりまして今やっと前に進める、と判断しまして・・・レッスンで指摘されたことをもっと練習するにもここでその指摘分野を一層磨ける曲を選んで気持ち新たに頑張りたいと思ってます。
一応プログラムは今のところこんな感じ:
リゲティ・ジェルジュ 練習曲第11番 "En Suspens"
モーリス・ラヴェル 前奏曲
ヨハネス・ブラームス 2つのラプソディー
クロード・ドビュッシー 映像第1集から「ラモー礼賛」
オリヴィエ・メシアン 練習曲「火の島I」
気持ち新たに、といいましたが今すでに弾いてるリゲティ、さらにラヴェル以外は以前弾いたもの。そしてラヴェルは1分ほどの短い曲。なのであと一つまっさらに新しい曲を弾こうかなーと。
ラヴェルとメシアンは常に弾く、という方針は固まってますが他の方針(曲集を全曲制覇するか、など)もこの時期に決めていきたいと思います。
さてさて。
ピアノは今でも弾いてますし、チェロもまた少し戻ってみようかなあ、と思ったり。
一日打楽器奏者(デジタルパッド)もなりゆきでやったことがありますし、小学校から中学校にかけて2年間ほどオーボエも吹いていました。小学校で一学期ごとローテーションでトランペット、クラリネット、オーボエを吹いたのの延長線上の活動でして。
自分が実際に弾いていない楽器でも本当に心に近く感じるものがいくつかあります。
その一つがホルンで、そしてもう一つはビオラ。
ホルンは友好関係と育ちからの親しみでしたが、ビオラはどっちかというと自分の性格が親しみを呼んだような気がします。
そもそもビオラは妹がバイオリンを始めてから数年後バイオリンの先生に「ビオラに転向しない?」と呼びかけられたのが縁の始まり。
妹を「出世が早いよ!」といって家族みんなで唆したのですが、実際7年生でビオラを始めて同じ年の年末にあったSpeech Night(卒業式を兼ねた全校のセレモニー)ではそれぞれの楽器の最前列が私の学年(10年生)で占められてる中に一人ビオラのリーダーの隣に座ってたほどです。
それから同じような時期にピアノの発表かなんかの為にユースオケの休憩中にピアノ(ラフマニノフの前奏曲ニ長調でした)を練習してたところとある先輩の男の子がいきなりページをめくってくれたばかりかものっそほめてくれまして。彼はユースオケでビオラを弾いていて、後にアメリカ留学してそちらに移住したとにかく凄いビオラ奏者だってことが後に判明するのですが。
(プラスほとんどのビオラ奏者が妹のようにバイオリン奏者からの転向者なのですが、彼は私の知っている唯一の「純粋な」ビオリストなのです)
大学に進学した後国立アカデミー在学の彼に再会し、おそれ多くも伴奏を頼まれちゃったりしまして。
その伴奏を頼まれたコンペが9曲ほど最初のラウンドで弾かなくちゃいけないもので、みっちりリハーサルした期間ビオラのレパートリーや楽器自体のことなど、たくさんたくさん学び、近しさと親しさをこの楽器に抱くようになりました。
そのコンペでわかったのですが、同じ弦楽器でも実際にビオラのことを本当に分かってる人は少ないです(これはチェロに対してもいえることですが)。審査員の曲のチョイスときたらなかなか首をかしげるものでしたし。
ビオラは何かと前に出ない、内向的で自分たち同士で理解し合ってれば幸せな、縁の下の力持ち。
なにかと馬鹿にされたり(ビオラジョークの多さ!)、ないがしろにされたりすることも少なくないけれど、特に気にすることなくもくもくと伴奏と内声を担当してオケを支えているのです。
実際深く厚みがあって暖かく、時には凶暴でダークな音色も披露できるビオラ。
実際バイオリニストで(バイオリンにはない)低音のC弦が羨ましい!っていう人は大学でもたくさんいました。
でもビオラ弾き自体はとってもマイノリティで、レパートリーもごくごく小さいものです。
モーツァルト、ドボルザーク、レスピーギ、ヒンデミットとかなりメジャーどころの作曲家もビオラを弾いたのですが、実際に奏者兼作曲家としてたくさんの曲を残したヒンデミット以外はほとんどビオラ曲を書いてません。
(ただオケ曲の中でものっそビオラの使い方がうまい!っていう作曲はたまにいます。それを感じるとぞくぞくしますし嬉しいです!)
あとピアノ三重奏(ピアノ+バイオリン+チェロ)と比べてビオラを足したピアノ四重奏の響き、そしてチームワークは一段違うものがありますね♪
ビオラの本当のキャパシティ、潜在能力みたいなものをもっとも教えてくれたのはヒンデミットとブラームスでしょうか。
ヒンデミットの多くの無伴奏・伴奏付きソナタ、それからブラームスの晩年のもとはクラリネットのために書かれた(ただ大半がビオラのほうがナチュラルに聞こえる)2つのソナタ。
ビオラならではの音色、表現、テクニック、パワーがピアノを弾いていてもひしひしと感じられます。
詳細は私がなにを言うよりもまずヒンデミットのビオラソナタop.11-4、そして2つのブラームスのビオラソナタを聴いてもらえれば、と思います。
そして伴奏したうちでこれは運命か!とおもった曲が一つ。
ショスタコーヴィチの生涯最後の作品、ビオラソナタ。
20世紀になってヴィオラのステータスはちょっぴり上がったような気がしますが、同時にバルトーク、ブラームス、ショスタコなど晩年にビオラを活躍させたがった音楽家は多いです。一通りいろいろやってたどり着いたのがビオラなのか、はたまた死に近づいてくるとビオラの音色に魅せられるなにかがあるのか・・・
ショスタコのソナタはそういった作品の中でも最たるもの。
自分にとってこんなに弾くのが自然だった、曲に自然に入って行けた曲は他にありません。
実際技巧的な問題を除けばビオラ音楽のピアノパートってものすごく自分の内面と相性がいいように思えます。ビオラ奏者と共に音楽を奏でる、というのも(何人か伴奏する機会がありましたが)結構落ち着きます。
ただショスタコのビオラソナタは・・・これこそ自分が死ぬときに聴いていたい、生きている間も心の拠り所としたい曲だな-と思いました。
いつでもここに戻ってきたい、一緒にいて・・・と思い、たまに自分の一部のように感じることもあります。
そんなこんなでビオラにすっかりぞっこんになり、ビオラを弾かない人としてはかなりビオラのレパートリーを知るようになり(知識メインですが)。心の中で一種の友として愛しながら今に至ります。
ただこないだ日本から送られてきた録画に入ってた「のだめカンタービレ」の映画で千秋君が「ビオラに頼らない!」と言ったあの台詞には一人で20分ぐらい笑ってましたね(笑)ジョークを読んでも分かると思いますが誰もビオラに頼ろうとは思いません!ビオラに頼ったらあの人達困りますよ!頼られたらおそらくは一番おろおろする人種です(笑)
母と私曰く、どっちかというとオタク気質で自分の興味あること・好きなことはちゃんとこなしますしのめりこんだりして内輪で盛り上がるけれど責任がある立場というものが苦手で、主流とは別のところでひっそり楽しむ人たち、というのがビオラという楽器の見解です。
自分はチェロ気質だな、と思うことも多々あるのですが(とくに短所では・・・)、上記の理由も結構あてはまるがゆえにビオラ奏者やビオラ音楽と妙に馬が合うのかな・・・?
卒業して、さらに妹もビオラを弾かなくなって久しいですが、ビオラ音楽を愛し、探し続け、とりあえずいつかショスタコのヴィオラソナタは一緒に弾く人がいなくても買うつもりですがこの心の友とひっそりと付き合っていきたいと思います。
今日の一曲: ニーノ・ロータ 間奏曲
ビオラレパートリーというあまり使われない物置の、その奥の箱に入った、あまり知られていない大切なtokenを今回は引っ張り出してみたいと思います。
ニーノ・ロータはイタリアの作曲家で、本人は純音楽の作曲家だと主張しているのですが、映画音楽で有名な人。有名な作品にはゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」(学校の英語の授業でロミジュリをやるときかならず見ます!)、ゴッドファーザーの愛のテーマ、太陽がいっぱい、などなど。
そんな中彼が書いたビオラ作品。
ロミオとジュリエットのTime for usと似たテイストの美しいメロディーから始まって表現に富んだ、さらに技巧も尽くして、ビオラの良いところをみーんな盛り込んだ、ビオラが弾くにふさわしい曲になっています。
もともとビオラはバイオリンのように音が派手でなく、どこかpathosを含んだ音色。
それが悲しげなこの曲にぴったりで。
ビオラって女性的な音というか性格をしてますが、それもまたぴったり。
(余談ですがビオラは実際にイタリア語だと女性詞をとるマイノリティ楽器の一つです。他にはテューバ、トランペットなど。)
内側へ、内側へと向くビオラの音がどこかなつかしく、豊かに、ときに激しく、哀しく・・・ロータには申し訳ないですが映画音楽と似たエレメントがあって、目の前には無いはずの映像が見えるような錯覚に陥ります。
日本人ビオラ奏者、今井信子演奏のCDは全てビオラのために書かれた(=アレンジではない)ビオラ曲が集められていますが、わりとモダンな感じのも結構ある中でちょっと独特な光を放つ一曲です♪
最近こちらの新聞でこないだのメンタルヘルスイベントでメインパーソナリティを務めたPatrick McGorry教授がメンタルヘルス改革の主張においてデータの数字をふくらましたという疑惑があるそうで。
twitterで2度ほどつぶやいているのですが、精神関係に関しては統計は様々なものがあって、統計の取り方、分析の仕方、解釈で随分と差が出てしまうので、一概にふくらました、とは限らない側面もありながら・・・
メンタルヘルスケアの重要さを主張するにしても実際に改ざんしたのならそれはいけないことですし、どっちにしろこうやって騒がれて信頼が失われることによってこの課題の重要さや、こないだイベントで話されたような課題、問題、解決策の重みが失われたり、無視されたりすることになったら残念ですし。
今日はそのイベントで話されたうち、イベント全体の感想のなかであまり言及できなかったトピックを一つまとめてみたいと思います。
Scaffolding。
その単語自体の意味は建築などで建物の周りに組む足場のこと。
scaffoldという風に単語の形を変えると足場だったり、はたまた絞首刑の台という意味もあります。
ただこの文脈ではscaffoldingは命を奪う物ではなく、命を救う物のことを指します。
Scaffolding。
それは人の心に何かあったとき、頼れるところ。落ちそうになれば受け止めてくれる、困ったときに足を向けられる避難所のような・・・心にとって安全であれるところ。
誰にとってもあって損はないですし、むしろ必要なものですが、心の病を抱えている人にとっては必要であり、その人にとって大きな助けになるものでもあります。
もちろんScaffoldingの形は人それぞれ。
親しい人だったり、信仰だったり、趣味だったり・・・
ここでは便宜上「人」に関連したscaffoldingに関してお話したいと思います。
scaffoldingとして個人が別の個人を選ぶことはごく自然な行為。苦しむときは一人じゃあ淋しすぎるし心細い。一人じゃ乗り切れないって思いますし、そもそも病気で判断・思考能力が鈍っているときは間違った行動や判断をしてしまうので誰かが傍にいてガイドしてあげることが必要な場合もあります。
信頼できるドクターやその他専門家がいれば慢性的に精神疾患を抱えている方にとっては確実なオプションですね。
専門知識ももちろん、治療過程で十分な話し合いと意思疎通、信頼が築いていられれば患者さんを人間としてよく知っていますし、なんといっても冷静に話し合いができます。
ただ何が何でもお医者さんにいくのもあれですしね。
急にアポがとれないこともありますし、病気自体の影響とは別の話(例えば仕事や人間関係で一時的に落ち込むことなど)だったり、病気とは直接関係のない一時的な原因がはっきりわかっている不調だったり。
またはまだ病気を患って日が浅かったり、はたまた病気かどうかも分かっていない状態だったり。
いろいろリストしましたがとにかくなるべくお医者さんにいかなくて済むのが一番良い!
そういった意味でも普段周りにいる親しい人達がscaffoldingとなっていることは望ましいと言えます。
先日のイベントでの話で興味深かったのは若い人には特にPeer group、友達グループや友達同士の絆が他の世代に比べて目立って大切だと言うこと。
なので友達の間でなにかあったら若い人にはものすごいダメージだ、ということを大人は分かっておかなくちゃいけませんし、逆に若い人にとっては友達の理解とサポートが強力なscaffoldingになるということ。
でもやはり理想は家族がscaffoldingになること、らしいです。
自然に考えれば一緒に住んでいる家族、とくに若い人・子供だったら愛を持って誕生から見守ってきた親がその人の事をよく知っていて、さらに長くの時間を共に過ごしているためなにかあったら気づきやすい。
それに本来ならば家族に対しては信頼を抱き、心を許していろんなことを話せるはずであり、もっともアクセスしやすいscaffoldingにデザインされているはずなのですが・・・
・・・家族と家族の形についてはまた別の長い話になりそうなのでそのうちまた。
友達がいるから大丈夫だ、主治医さえ分かってればそれでいい、という話でも勿論ありません。
scaffoldingに相当する人達はそれぞれメリットとデメリット、得意不得意があります。(例:先ほど言いましたようにお医者さんの場合冷静で専門的かjudgmentalでないアドバイスをもらえますが、会える時間と金銭的な問題がありますね)
家族、友達、専門家、その他アドバイスをもらえるサービスなど様々なscaffoldingの種類にアクセスできる状態にしておくのは重要ですし、サポートがあると知っているだけでも随分と落ち着くものです。
普段から備えておくことも勿論大切です。調子が悪くなると患者さん本人も正しい判断・思考ができない状態だったり、周りの人もおろおろするばかり、ということがよくありますからね。
そしてscaffoldingとなる側ももちろん努力が必要です。
周りにいる苦しんでいる人の力になるために、その役割に見合った「できること」があって、でもいざとなったら何をしていいかわからない、という人が多く。
私自身はここまで書いておきながら具体的な手ほどきなどの知識をなにも持ってないことを今現在お詫びしたいのですが、でも私も私の家族も友達も、いろいろ試行錯誤して今のお互いの理解とサポートがあるのは事実で。
でも試行錯誤の過程でいっぱい苦しいこともありました。そしてみんながポジティブな結果を迎えられるわけではありません。
なので例えば親のため、または若い人のために精神疾患についての知識や、サポート方法、どこまでできるのか&どこから専門家に任せるべきか、何かあったらどこに連絡するべきかなどについてトレーニングや手ほどきなど、授業だったり生活の一部としての教養としてみんなに身につけてもらえたら、というのはイベントでも話されていましたし、私も切実に思うことです。
こういったスキルや心遣いが自然にできることは苦しんでいる人を助けるだけでなく、病気になるのを食い止めたり、メンタルヘルス以外でも使えるもので・・・
精神疾患を患う人が増えるということは関わる周りの人も増えると言うことなので啓発が広く行われるのは重要ですね。
あとイベントでパネルのうちの一人の方が言っていたのは、昔はヨーロッパ系のコミュニティはキリスト教ベースで、キリスト教の信仰や教えがscaffoldingになっていた・・・けれど現代は価値観が一つの宗教にとらわれることなく、個人が自分の価値観を「選ぶ」時代になり。それと同時にscaffoldingは与えられるものでなく、自分で探さなければならないものになった、という話でした。(家族もまた与えられたscaffoldingなのですが、現代はこれもちょっと重みが減じてますもんね・・・)
なので一人一人がscaffoldingを日常のうちで探し、何かあったときに備えないといけない、というわけです。
(これは災害への備えと同じことです。ただやはり災害と一緒である程度情報にアクセスできないといけません。なのでもしものときにコンタクトできる施設、団体、コミュニティなどの情報の公開も大切!)
最後になりましたが、周りにscaffoldingとなる存在がいても、他の環境が患者さんにとって「安全」でなければあまり意味がありませんね。
例えば家族がscaffoldingとなっていても職場でメンタルヘルスに理解がなかったり、たとえば引っ越ししたり進学したりして今までscaffoldingになっていた環境から新しい環境に移ったり(ただでさえ引っ越しなど環境の変化はストレスに容易に繋がりますからね)・・・
なので本当の理想は社会全体が大きなscaffoldingになる、ということ。
精神疾患(その他にもいろいろありますが)に対してスティグマや偏見がない社会をつくることによって大きなscaffoldingを作ることはもちろんそうですが、社会全体がそうなることによって個人の認識がポジティブになり先ほどの話のような小さなscaffoldingができやすくなる、という効果もあります。
さらに、大きなscaffoldingがあることで患者さんがなるべく周りの人に頼らず、scaffoldingに依存しないようになる、と私は信じています。
自分はもう長いこと試行錯誤してきた上でいろんなscaffoldingを身につけてきました。
家族もそうですし、学生時代からの友達もその試行錯誤を一緒に通り抜けてきましたし、運のよさなのか、メルボルンの人の認識のポジティブさか大学でもたくさん理解を示してくれる、頼れる人に出会いました。
表現形態として音楽や創作もありますし、精神医もいますし、社会も今言いましたが暖かく。
失敗したこともたくさんありますが、本当に心から感謝しながら今私のscaffoldingとなっている人達を心から
信頼しています。
信頼することは本当に心が落ち着きますし、私の助けになっていると信じています。
例によって長くなってしまいましたが、本当にこのコンセプトは重要と思っていますし、なるべく多くの人に知ってもらいたいと思っているので・・・
少しずつでもいいから、何かがどこかで変わっていってくれれば、とdown underの片隅で今日も祈っています。
今日の一曲: Chuck Mangione 「Children of Sanchez」
(HMVでの録音リンク)
今日は何よりも金管奏者の娘としてお届けします♪
ここ数ヶ月Black Dyke Mills Bandのブラス音楽に何とも言えない愛とアットホーム感を感じています。
バンドと言えばイギリスバンド、中でもこのバンドは桁外れ。
うちにある2つのCDと1つのDVDじゃあまだまだ足りない!と思うほど。
そのなかでこのChildren of Sanchez。なんでも同名の小説を元にした同名の映画のための音楽で、メキシコを舞台としているんだそう。荒野を思わせるドライなラテン系のノリと音楽がたまらなくかっこいい!
ソロをつとめている楽器はフリューゲルホルン。トランペットの仲間の楽器で、巻きが広いといいましょうか、巻きがちょっと下に伸びてる感じ。トランペットははっきりした明るい音が特徴ですがフリューゲルホルンは甘く、fuzzyで柔らかい音色が特徴です。
ちなみに金管楽器はマウスピースの大きささえ同じなら持ち替えて弾けるんですが(逆にマウスピースの大きさが違うとembouchureが乱れるから駄目!とのこと)、トランペット奏者が持ち替えで吹く楽器だと私は甘めのはっきりした音色をもつコルネット、そして明快でちょっぴりドライなC管(できたらロータリーで♪)がお気に入り。
・・・と語り始めちゃあきりがないので閑話休題。
フリューゲルホルンの魅惑の音色で口説かれる最初のスローセクションでは実は打楽器が静かに活躍しています。打楽器はどんな音楽でもリズムを叩くだけじゃなくて雰囲気をセッティングするのにものすごーく重要な役割を担っています。
なのでそこにも耳をそばだてて欲しいです♪
でもなんといってもアップテンポのセクションの迫力!
低音金管がパンチアウトする金管楽器の低音域にある独特の刃、リズムの強力さ・・・
アーティキュレーションで爆発する金管のパワーに圧倒されっぱなし!
ラテン系のノリとメロディーと合わせるともう惚れ惚れ(笑)
このパワーというか爆発的な音というか、そういうものが自分にとっては「アットホーム」で。
ブラス・フェスティバルのコンサートとかで生でそのエネルギーを真っ向から浴びるのがなんともエキサイティングであり、心地良いです。
この曲を一通り聞き終わったらプロの金管オンリーブラスバンドを生で聴きに行きたくなること間違い無しですよ!
twitterで2度ほどつぶやいているのですが、精神関係に関しては統計は様々なものがあって、統計の取り方、分析の仕方、解釈で随分と差が出てしまうので、一概にふくらました、とは限らない側面もありながら・・・
メンタルヘルスケアの重要さを主張するにしても実際に改ざんしたのならそれはいけないことですし、どっちにしろこうやって騒がれて信頼が失われることによってこの課題の重要さや、こないだイベントで話されたような課題、問題、解決策の重みが失われたり、無視されたりすることになったら残念ですし。
今日はそのイベントで話されたうち、イベント全体の感想のなかであまり言及できなかったトピックを一つまとめてみたいと思います。
Scaffolding。
その単語自体の意味は建築などで建物の周りに組む足場のこと。
scaffoldという風に単語の形を変えると足場だったり、はたまた絞首刑の台という意味もあります。
ただこの文脈ではscaffoldingは命を奪う物ではなく、命を救う物のことを指します。
Scaffolding。
それは人の心に何かあったとき、頼れるところ。落ちそうになれば受け止めてくれる、困ったときに足を向けられる避難所のような・・・心にとって安全であれるところ。
誰にとってもあって損はないですし、むしろ必要なものですが、心の病を抱えている人にとっては必要であり、その人にとって大きな助けになるものでもあります。
もちろんScaffoldingの形は人それぞれ。
親しい人だったり、信仰だったり、趣味だったり・・・
ここでは便宜上「人」に関連したscaffoldingに関してお話したいと思います。
scaffoldingとして個人が別の個人を選ぶことはごく自然な行為。苦しむときは一人じゃあ淋しすぎるし心細い。一人じゃ乗り切れないって思いますし、そもそも病気で判断・思考能力が鈍っているときは間違った行動や判断をしてしまうので誰かが傍にいてガイドしてあげることが必要な場合もあります。
信頼できるドクターやその他専門家がいれば慢性的に精神疾患を抱えている方にとっては確実なオプションですね。
専門知識ももちろん、治療過程で十分な話し合いと意思疎通、信頼が築いていられれば患者さんを人間としてよく知っていますし、なんといっても冷静に話し合いができます。
ただ何が何でもお医者さんにいくのもあれですしね。
急にアポがとれないこともありますし、病気自体の影響とは別の話(例えば仕事や人間関係で一時的に落ち込むことなど)だったり、病気とは直接関係のない一時的な原因がはっきりわかっている不調だったり。
またはまだ病気を患って日が浅かったり、はたまた病気かどうかも分かっていない状態だったり。
いろいろリストしましたがとにかくなるべくお医者さんにいかなくて済むのが一番良い!
そういった意味でも普段周りにいる親しい人達がscaffoldingとなっていることは望ましいと言えます。
先日のイベントでの話で興味深かったのは若い人には特にPeer group、友達グループや友達同士の絆が他の世代に比べて目立って大切だと言うこと。
なので友達の間でなにかあったら若い人にはものすごいダメージだ、ということを大人は分かっておかなくちゃいけませんし、逆に若い人にとっては友達の理解とサポートが強力なscaffoldingになるということ。
でもやはり理想は家族がscaffoldingになること、らしいです。
自然に考えれば一緒に住んでいる家族、とくに若い人・子供だったら愛を持って誕生から見守ってきた親がその人の事をよく知っていて、さらに長くの時間を共に過ごしているためなにかあったら気づきやすい。
それに本来ならば家族に対しては信頼を抱き、心を許していろんなことを話せるはずであり、もっともアクセスしやすいscaffoldingにデザインされているはずなのですが・・・
・・・家族と家族の形についてはまた別の長い話になりそうなのでそのうちまた。
友達がいるから大丈夫だ、主治医さえ分かってればそれでいい、という話でも勿論ありません。
scaffoldingに相当する人達はそれぞれメリットとデメリット、得意不得意があります。(例:先ほど言いましたようにお医者さんの場合冷静で専門的かjudgmentalでないアドバイスをもらえますが、会える時間と金銭的な問題がありますね)
家族、友達、専門家、その他アドバイスをもらえるサービスなど様々なscaffoldingの種類にアクセスできる状態にしておくのは重要ですし、サポートがあると知っているだけでも随分と落ち着くものです。
普段から備えておくことも勿論大切です。調子が悪くなると患者さん本人も正しい判断・思考ができない状態だったり、周りの人もおろおろするばかり、ということがよくありますからね。
そしてscaffoldingとなる側ももちろん努力が必要です。
周りにいる苦しんでいる人の力になるために、その役割に見合った「できること」があって、でもいざとなったら何をしていいかわからない、という人が多く。
私自身はここまで書いておきながら具体的な手ほどきなどの知識をなにも持ってないことを今現在お詫びしたいのですが、でも私も私の家族も友達も、いろいろ試行錯誤して今のお互いの理解とサポートがあるのは事実で。
でも試行錯誤の過程でいっぱい苦しいこともありました。そしてみんながポジティブな結果を迎えられるわけではありません。
なので例えば親のため、または若い人のために精神疾患についての知識や、サポート方法、どこまでできるのか&どこから専門家に任せるべきか、何かあったらどこに連絡するべきかなどについてトレーニングや手ほどきなど、授業だったり生活の一部としての教養としてみんなに身につけてもらえたら、というのはイベントでも話されていましたし、私も切実に思うことです。
こういったスキルや心遣いが自然にできることは苦しんでいる人を助けるだけでなく、病気になるのを食い止めたり、メンタルヘルス以外でも使えるもので・・・
精神疾患を患う人が増えるということは関わる周りの人も増えると言うことなので啓発が広く行われるのは重要ですね。
あとイベントでパネルのうちの一人の方が言っていたのは、昔はヨーロッパ系のコミュニティはキリスト教ベースで、キリスト教の信仰や教えがscaffoldingになっていた・・・けれど現代は価値観が一つの宗教にとらわれることなく、個人が自分の価値観を「選ぶ」時代になり。それと同時にscaffoldingは与えられるものでなく、自分で探さなければならないものになった、という話でした。(家族もまた与えられたscaffoldingなのですが、現代はこれもちょっと重みが減じてますもんね・・・)
なので一人一人がscaffoldingを日常のうちで探し、何かあったときに備えないといけない、というわけです。
(これは災害への備えと同じことです。ただやはり災害と一緒である程度情報にアクセスできないといけません。なのでもしものときにコンタクトできる施設、団体、コミュニティなどの情報の公開も大切!)
最後になりましたが、周りにscaffoldingとなる存在がいても、他の環境が患者さんにとって「安全」でなければあまり意味がありませんね。
例えば家族がscaffoldingとなっていても職場でメンタルヘルスに理解がなかったり、たとえば引っ越ししたり進学したりして今までscaffoldingになっていた環境から新しい環境に移ったり(ただでさえ引っ越しなど環境の変化はストレスに容易に繋がりますからね)・・・
なので本当の理想は社会全体が大きなscaffoldingになる、ということ。
精神疾患(その他にもいろいろありますが)に対してスティグマや偏見がない社会をつくることによって大きなscaffoldingを作ることはもちろんそうですが、社会全体がそうなることによって個人の認識がポジティブになり先ほどの話のような小さなscaffoldingができやすくなる、という効果もあります。
さらに、大きなscaffoldingがあることで患者さんがなるべく周りの人に頼らず、scaffoldingに依存しないようになる、と私は信じています。
自分はもう長いこと試行錯誤してきた上でいろんなscaffoldingを身につけてきました。
家族もそうですし、学生時代からの友達もその試行錯誤を一緒に通り抜けてきましたし、運のよさなのか、メルボルンの人の認識のポジティブさか大学でもたくさん理解を示してくれる、頼れる人に出会いました。
表現形態として音楽や創作もありますし、精神医もいますし、社会も今言いましたが暖かく。
失敗したこともたくさんありますが、本当に心から感謝しながら今私のscaffoldingとなっている人達を心から
信頼しています。
信頼することは本当に心が落ち着きますし、私の助けになっていると信じています。
例によって長くなってしまいましたが、本当にこのコンセプトは重要と思っていますし、なるべく多くの人に知ってもらいたいと思っているので・・・
少しずつでもいいから、何かがどこかで変わっていってくれれば、とdown underの片隅で今日も祈っています。
今日の一曲: Chuck Mangione 「Children of Sanchez」
(HMVでの録音リンク)
今日は何よりも金管奏者の娘としてお届けします♪
ここ数ヶ月Black Dyke Mills Bandのブラス音楽に何とも言えない愛とアットホーム感を感じています。
バンドと言えばイギリスバンド、中でもこのバンドは桁外れ。
うちにある2つのCDと1つのDVDじゃあまだまだ足りない!と思うほど。
そのなかでこのChildren of Sanchez。なんでも同名の小説を元にした同名の映画のための音楽で、メキシコを舞台としているんだそう。荒野を思わせるドライなラテン系のノリと音楽がたまらなくかっこいい!
ソロをつとめている楽器はフリューゲルホルン。トランペットの仲間の楽器で、巻きが広いといいましょうか、巻きがちょっと下に伸びてる感じ。トランペットははっきりした明るい音が特徴ですがフリューゲルホルンは甘く、fuzzyで柔らかい音色が特徴です。
ちなみに金管楽器はマウスピースの大きささえ同じなら持ち替えて弾けるんですが(逆にマウスピースの大きさが違うとembouchureが乱れるから駄目!とのこと)、トランペット奏者が持ち替えで吹く楽器だと私は甘めのはっきりした音色をもつコルネット、そして明快でちょっぴりドライなC管(できたらロータリーで♪)がお気に入り。
・・・と語り始めちゃあきりがないので閑話休題。
フリューゲルホルンの魅惑の音色で口説かれる最初のスローセクションでは実は打楽器が静かに活躍しています。打楽器はどんな音楽でもリズムを叩くだけじゃなくて雰囲気をセッティングするのにものすごーく重要な役割を担っています。
なのでそこにも耳をそばだてて欲しいです♪
でもなんといってもアップテンポのセクションの迫力!
低音金管がパンチアウトする金管楽器の低音域にある独特の刃、リズムの強力さ・・・
アーティキュレーションで爆発する金管のパワーに圧倒されっぱなし!
ラテン系のノリとメロディーと合わせるともう惚れ惚れ(笑)
このパワーというか爆発的な音というか、そういうものが自分にとっては「アットホーム」で。
ブラス・フェスティバルのコンサートとかで生でそのエネルギーを真っ向から浴びるのがなんともエキサイティングであり、心地良いです。
この曲を一通り聞き終わったらプロの金管オンリーブラスバンドを生で聴きに行きたくなること間違い無しですよ!
今日はメルボルンはぽかぽか暖かい天気でした♪
なので昼間にちょっと近所に散歩へ。
この地では真冬でも色んな花が咲いていますが今日は日の光の暖かさか一層いきいきしていたようで。
そんなメルボルンの春の色彩をちょっと早いですが写真に納めてきました♪
家の近くの桃の花、満開。
他にも木蓮が最近目立ちますが、実際の開花はまだ先になりそうです。
家の近くといえば昨日から近所の家の前に「他の人にいくつか残して持ってって下さい」とのサインのもとにレモンがいくつか置いてあったので妹のレモンジンジャーティーの材料に2つほど貰っていきました。なんとも可愛いレモンでしたよ。

怒濤のユーカリシリーズ。
一番典型的なユーカリの木はこんなでしょうか。
口癖の様に話しています「オーストラリアの色彩」。
灰のかった白、灰緑、青みのある赤ピンク。
すらっとした厚い葉には油分が多く含まれていて火を起こすのにも使えますが、逆にBushfireでは被害を広げる原因にも。
幹は太いのですが枝は細く、葉や実が重いので基本柳のように垂れ下がっています。風にユーカリの枝葉が揺れる様はけっこう風情があります。
ユーカリの葉と小さな実。
これが大きくなるとジガバチの巣みたいな形(誰が分かるんだろう!?)になるんですが、そのユーカリの実をモチーフとした「スナグルポットとカドルパイ(Snugglepot and Cuddlepie)」という絵本のキャラクターがオーストラリアには居ます。(作者:May Gibbs)
可愛いですよ♪

こちらは黄色い花バージョン2種。
右側は葉っぱが丸いですがれっきとしたユーカリの仲間。
こういった形状の葉っぱのなかでは葉の付き方が綺麗なパターンになってるものもあって、そういうものはよく飾りに使われています。

また別の場所に咲いていた桃の花。
そこらへんは桃の木がずらっと並木状に並んでいて、暖かくなったので活発になったミツバチがぶんぶん飛んでいました。
昆虫の写真はトライしたことがなかったのですが難しい!そんななか右側の写真は本当にうまく撮れたと一人喜んでおります♪太ももの花粉団子までばっちり!
さて、前々からいくつかキーワードを挙げてそれにフィットする曲を挙げてみようという試みをしたいなーと思ってたのですが。
何よりも(いつもにも増して)自己満足、というか自分の脳内データベースの検索・引き出し機能のテスト・エクササイズみたいなものなのですが・・・(苦笑)
とりあえず一回試してみたいので今日やってみたいと思います。
キーワードはランダムではなく1つのトピックで、とりあえずお試しということで10個!
考えるプロセスはとりあえずは脳のみ、ipodやiTunes、楽譜に頼らずトライ。
<テーマ:形容詞>
穏やか (Gentle): オリヴィエ・メシアン 幼子イエスに注ぐ20のまなざしより第19番「我眠る、だが我が心は目覚め」
(穏やかはほんとうにたくさんありますが、そのなかでやっとこメシアンにしぼって、やっとここれに絞りました)
凶暴 (Violent): バルトーク・ベーラ 中国の不思議な役人
(曲の全体を通じて様々なタイプの凶暴さが見られる桁外れの音楽です。とくに「the girl sank to embrace him」の箇所が悦。)
曖昧 (Ambivalent): リゲティ・ジェルジュ 練習曲第11番 'En Suspens'
(タイトルもそうですがこの振り子が揺れるような、たちくらみでくらっと来るのを遅くしたようなどっちつかずの感覚がもうこれしかないです)
爽やか (Fresh): モーリス・ラヴェル クープランの墓より前奏曲
(夏の朝カーテンと窓を開けたときの外の空気や風と日の光の爽やかさという意味ではダントツにこれですね)
自由な (Free): ヨハネス・ブラームス チェロソナタヘ長調第1楽章
(これか、またはFrei aber Froh(自由だが幸せ)の交響曲第3番第1楽章でしたね。同じ調、同じ性格、同じ「人間としての自由」な感じ。でもチェロの方が開放的な気がしてこっちに。自由という言葉の定義でもまた変わります)
勝ち誇った (Victorious): グスタフ・マーラー 交響曲第1番第4楽章
(最初からの熾烈な戦いを「勝ち抜いた」!という強さと明るさ。自分の手で勝ち取った感が強いですよね)
壊滅的な (Devastating): グスタフ・マーラー 交響曲第6番第4楽章
(壊滅的な、というか絶望を通り越した絶望なのですよ。なんど這い上っても無残にたたき落とされる。完膚無きまでにたたきのめされそしてさらに踏みにじられる)
野心的な (Ambitious): ヨハネス・ブラームス 2つのラプソディーよりト短調
(ワーグナーとかシュトラウスとかあるはずなんですけどあんま好きじゃないんであんまり知らないんですよね(笑)でもこの曲も目の前にある障害を殺してでも取り除くことにためらいはなさそう)
陽気な (Merry): エマニュエル・シャブリエ スペイン
(これはもう。スペインの陽気さとフランスの軽さ。マドリッドにいった友達が町を見たとたんこの曲がぱっと頭の中で鳴ったそうです)
中性的な (gender-neutral): ベンジャミン・ブリテン 序章とロンドからロンド
(ミニマム音楽にありそうでない。聞いているときの気分によって女性的だったり、男性的だったり、どっちでもなかったり)
案外できるもんですね。
ただ参照なしでやってるからなのかな、好きな作曲家に偏り気味なのは。
次回は四字熟語とかでやってみたいです。
今日の一曲: ヨハネス・ブラームス 2つのラプソディーより第2番(ト短調)
来週あたりから弾こうと思っているブラームスの2つのラプソディ-。
ちなみにラプソディー=狂詩曲、というのがなんともそそります。S心が(笑)
ブラームスのピアノ曲、ブラームスのレパートリー全体のなかでもなかなか粋でスペシャルな位置にあると思います。
どちらの曲もゲルマンのルーツ、北欧の民族・神話のフレーバーが強くて、実際第1番ではグリークの「ペール・ギュント」に酷似したメロディーがあったり。
個人的に北欧神話の雰囲気とか価値観が昔から好きなのでわりとぴったり来る曲なのですが。
どちらかといえば格が上と見られるのは第1番(ロ短調)でしょうか。サーガ、エピック的な性格に加えどっちかというと壮大で華麗な性格、技巧もより難しく。
でも「ブラームスの曲は内向的であればあるほど素晴らしい!」・・・とは思わなくとも似たようなことを考えてる私は第2番に今回スポットライトを当てたいのです!
第1番が爆発的な下降するメロディーで始まるのに対して第2番はじわじわ下から攻めます(笑)
音域がこの中低音域に限られることでどんどんどす黒いものが溜まるわけです。
最終的な目標は胸の内に秘め虎視眈々とチャンスを狙い。その間に無心にもくもくと人を斬り、戦機を待って。
だからこそ先ほどの「野望的」なわけですね。
そしてまあこの曲を弾いたり聞いたりすると感じる厳しい寒さ。
第1番もそうなんですが、でも「厳しさ」、むしろ寒すぎていろいろ痛い的な、北欧の冬がどんな色でどんな感じなのかがひしひし分かるのは第2番。
第1番がストーリーテラー的な曲ならば第2番は戦記ですかね。
第1番にある真ん中の明るいあどけないセクションは皆無ですし、第2主題も第1番ほど女性的ではないですし。戦い、戦い、策略、野望、さらに戦いのひたすら男臭い(笑)物語です。
ということで2番を猛プッシュしてみましたがあくまでもこの2つの物語絵巻ならぬ音巻は2つでセットだと思います。1つは戦記、1つはまあ吟遊詩人が後に伝えたラプソディー的物語。
同じ時代の違う視点の描写、といいますか。
なので第1番、第2番合わせてブラームスの音楽とともに北欧の古の世界をお楽しみ下さい♪
内向的で重厚なのでグールドの演奏はお奨めしません。重厚さに関してはtoo much is beter than too little、重力でつぶれるくらいの演奏がこの曲に限らずいいですね!
なので昼間にちょっと近所に散歩へ。
この地では真冬でも色んな花が咲いていますが今日は日の光の暖かさか一層いきいきしていたようで。
そんなメルボルンの春の色彩をちょっと早いですが写真に納めてきました♪
他にも木蓮が最近目立ちますが、実際の開花はまだ先になりそうです。
家の近くといえば昨日から近所の家の前に「他の人にいくつか残して持ってって下さい」とのサインのもとにレモンがいくつか置いてあったので妹のレモンジンジャーティーの材料に2つほど貰っていきました。なんとも可愛いレモンでしたよ。
一番典型的なユーカリの木はこんなでしょうか。
口癖の様に話しています「オーストラリアの色彩」。
灰のかった白、灰緑、青みのある赤ピンク。
すらっとした厚い葉には油分が多く含まれていて火を起こすのにも使えますが、逆にBushfireでは被害を広げる原因にも。
幹は太いのですが枝は細く、葉や実が重いので基本柳のように垂れ下がっています。風にユーカリの枝葉が揺れる様はけっこう風情があります。
これが大きくなるとジガバチの巣みたいな形(誰が分かるんだろう!?)になるんですが、そのユーカリの実をモチーフとした「スナグルポットとカドルパイ(Snugglepot and Cuddlepie)」という絵本のキャラクターがオーストラリアには居ます。(作者:May Gibbs)
可愛いですよ♪
右側は葉っぱが丸いですがれっきとしたユーカリの仲間。
こういった形状の葉っぱのなかでは葉の付き方が綺麗なパターンになってるものもあって、そういうものはよく飾りに使われています。
そこらへんは桃の木がずらっと並木状に並んでいて、暖かくなったので活発になったミツバチがぶんぶん飛んでいました。
昆虫の写真はトライしたことがなかったのですが難しい!そんななか右側の写真は本当にうまく撮れたと一人喜んでおります♪太ももの花粉団子までばっちり!
さて、前々からいくつかキーワードを挙げてそれにフィットする曲を挙げてみようという試みをしたいなーと思ってたのですが。
何よりも(いつもにも増して)自己満足、というか自分の脳内データベースの検索・引き出し機能のテスト・エクササイズみたいなものなのですが・・・(苦笑)
とりあえず一回試してみたいので今日やってみたいと思います。
キーワードはランダムではなく1つのトピックで、とりあえずお試しということで10個!
考えるプロセスはとりあえずは脳のみ、ipodやiTunes、楽譜に頼らずトライ。
<テーマ:形容詞>
穏やか (Gentle): オリヴィエ・メシアン 幼子イエスに注ぐ20のまなざしより第19番「我眠る、だが我が心は目覚め」
(穏やかはほんとうにたくさんありますが、そのなかでやっとこメシアンにしぼって、やっとここれに絞りました)
凶暴 (Violent): バルトーク・ベーラ 中国の不思議な役人
(曲の全体を通じて様々なタイプの凶暴さが見られる桁外れの音楽です。とくに「the girl sank to embrace him」の箇所が悦。)
曖昧 (Ambivalent): リゲティ・ジェルジュ 練習曲第11番 'En Suspens'
(タイトルもそうですがこの振り子が揺れるような、たちくらみでくらっと来るのを遅くしたようなどっちつかずの感覚がもうこれしかないです)
爽やか (Fresh): モーリス・ラヴェル クープランの墓より前奏曲
(夏の朝カーテンと窓を開けたときの外の空気や風と日の光の爽やかさという意味ではダントツにこれですね)
自由な (Free): ヨハネス・ブラームス チェロソナタヘ長調第1楽章
(これか、またはFrei aber Froh(自由だが幸せ)の交響曲第3番第1楽章でしたね。同じ調、同じ性格、同じ「人間としての自由」な感じ。でもチェロの方が開放的な気がしてこっちに。自由という言葉の定義でもまた変わります)
勝ち誇った (Victorious): グスタフ・マーラー 交響曲第1番第4楽章
(最初からの熾烈な戦いを「勝ち抜いた」!という強さと明るさ。自分の手で勝ち取った感が強いですよね)
壊滅的な (Devastating): グスタフ・マーラー 交響曲第6番第4楽章
(壊滅的な、というか絶望を通り越した絶望なのですよ。なんど這い上っても無残にたたき落とされる。完膚無きまでにたたきのめされそしてさらに踏みにじられる)
野心的な (Ambitious): ヨハネス・ブラームス 2つのラプソディーよりト短調
(ワーグナーとかシュトラウスとかあるはずなんですけどあんま好きじゃないんであんまり知らないんですよね(笑)でもこの曲も目の前にある障害を殺してでも取り除くことにためらいはなさそう)
陽気な (Merry): エマニュエル・シャブリエ スペイン
(これはもう。スペインの陽気さとフランスの軽さ。マドリッドにいった友達が町を見たとたんこの曲がぱっと頭の中で鳴ったそうです)
中性的な (gender-neutral): ベンジャミン・ブリテン 序章とロンドからロンド
(ミニマム音楽にありそうでない。聞いているときの気分によって女性的だったり、男性的だったり、どっちでもなかったり)
案外できるもんですね。
ただ参照なしでやってるからなのかな、好きな作曲家に偏り気味なのは。
次回は四字熟語とかでやってみたいです。
今日の一曲: ヨハネス・ブラームス 2つのラプソディーより第2番(ト短調)
来週あたりから弾こうと思っているブラームスの2つのラプソディ-。
ちなみにラプソディー=狂詩曲、というのがなんともそそります。S心が(笑)
ブラームスのピアノ曲、ブラームスのレパートリー全体のなかでもなかなか粋でスペシャルな位置にあると思います。
どちらの曲もゲルマンのルーツ、北欧の民族・神話のフレーバーが強くて、実際第1番ではグリークの「ペール・ギュント」に酷似したメロディーがあったり。
個人的に北欧神話の雰囲気とか価値観が昔から好きなのでわりとぴったり来る曲なのですが。
どちらかといえば格が上と見られるのは第1番(ロ短調)でしょうか。サーガ、エピック的な性格に加えどっちかというと壮大で華麗な性格、技巧もより難しく。
でも「ブラームスの曲は内向的であればあるほど素晴らしい!」・・・とは思わなくとも似たようなことを考えてる私は第2番に今回スポットライトを当てたいのです!
第1番が爆発的な下降するメロディーで始まるのに対して第2番はじわじわ下から攻めます(笑)
音域がこの中低音域に限られることでどんどんどす黒いものが溜まるわけです。
最終的な目標は胸の内に秘め虎視眈々とチャンスを狙い。その間に無心にもくもくと人を斬り、戦機を待って。
だからこそ先ほどの「野望的」なわけですね。
そしてまあこの曲を弾いたり聞いたりすると感じる厳しい寒さ。
第1番もそうなんですが、でも「厳しさ」、むしろ寒すぎていろいろ痛い的な、北欧の冬がどんな色でどんな感じなのかがひしひし分かるのは第2番。
第1番がストーリーテラー的な曲ならば第2番は戦記ですかね。
第1番にある真ん中の明るいあどけないセクションは皆無ですし、第2主題も第1番ほど女性的ではないですし。戦い、戦い、策略、野望、さらに戦いのひたすら男臭い(笑)物語です。
ということで2番を猛プッシュしてみましたがあくまでもこの2つの物語絵巻ならぬ音巻は2つでセットだと思います。1つは戦記、1つはまあ吟遊詩人が後に伝えたラプソディー的物語。
同じ時代の違う視点の描写、といいますか。
なので第1番、第2番合わせてブラームスの音楽とともに北欧の古の世界をお楽しみ下さい♪
内向的で重厚なのでグールドの演奏はお奨めしません。重厚さに関してはtoo much is beter than too little、重力でつぶれるくらいの演奏がこの曲に限らずいいですね!
