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ピアノを弾いたり、音楽を聴いたり、絵画を見たりしていつも思うのは芸術には一種の正直さみたいなものがあるなー・・・ということで。
一番わかりやすい例がショスタコーヴィチの音楽ですかね。
前ピアノを教えていたときに成人の生徒さんから聞いた話なんですが、一昔前はショスタコーヴィチはソヴィエト共産党の為に音楽を作曲した、と思われていたらしく。
実際に彼の音楽を聴くと(交響曲ではなく、弦楽四重奏などもっと小さな編成の音楽)そんなことはないってことがクラシックに詳しくない人も分かると思います。
彼の音楽にこめられた辛さ、皮肉、怒りなどは・・・またあとで少し話したいですし、それはそれで一つのエントリーになるのですが、そういった感情の複雑な組み合わせが理論的にどう音符表れているかは分からないのですがはっきりと心に響いてきて、彼や他の人間の言葉以上に雄弁に真実を語るのです。
やはりどんな言語を持ってしても言葉の範囲やボキャブラリーには限りがあって、絵、動き、音楽などのほうが人間の無限に複雑な内面をよりフレキシブルに、豊かに表現出来る、ということなのかしらん。
精神疾患の症状も、治療のためにはもちろん言葉にすることが必要ですが、言葉では語れない多くのことが人の心には渦巻きます。
それを芸術で表現した人はたくさんいます。
例えば心理学の教科書に載っていたルイス・ウェインの猫の絵。統合失調症を煩った彼の精神と脳の状態の変化は彼の書く猫の絵に顕著に表れています。きっとネットでも探すとあると思うので・・・ものすごくドラマチックで面白いです。
人間主に視覚を通してものを理解する生き物なので絵画ほど顕著ではありませんが音楽にもそういった症状・精神状態は現れます。
例えばベルリオーズ。彼の「幻想交響曲」はアヘンを大量に(しかし致死量には足りなく)服用して死のうとした主人公が見た幻覚と夢の混ざり合いを第1楽章で描きます。次々に移り変わるシーンのなかに様々なイメージや色彩、それに混じって愛しい人のテーマが表れたり。
少ないながらも精神疾患の知識をかじった身として興味深いのはこの一見明るい音楽の中に表れる「恐怖」のイメージ。
「幻覚」といっても実はいろいろで、聴覚・視覚に訴える幻覚は健常者でも経験することは珍しくないです(詳しくはOliver Sacks著Musicophiliaに、そして親友の心理学の卒論もこのトピックを扱っています♪)。
精神疾患の症状として経験する幻覚は強い恐怖感を伴うことが多いそうです。(統合失調症、精神病症状を伴う鬱、ドラッグなどの薬物の中毒症状など)
そういった意味ではものすごくリアルに、言葉にならない内面を表現する音楽であるといえます。
実際理論的にこの和音がこういったものを表す、というのは本当に全く分からないのですが同じ調で同じ明るさ、そして同じ恐怖をもった曲が実はあるんです。
それが少し前に今日の一曲で紹介したセルゲイ・プロコフィエフの「悪魔的暗示」。
同じハ長調で似たような和音の連続は先ほどのベルリオーズと同じ「恐怖を伴う幻覚」を直感的に連想させます。
それが元となって私はこの曲の「悪魔的暗示」というのは精神症状としての幻覚・妄想による悪魔だという解釈をしています。
他人はみんな敵だ、みんなが自分を害しようとしていると告げる悪魔・・・その悪魔が常に見張っていて、地獄のような幻覚を見せて、そして恐怖に陥る自分をあざ笑う悪魔の高笑い・・・
そういったイメージで弾いているつもりです。
数いる著明な作曲家のうち精神疾患を患ったことで一番有名なのはローベルト・シューマンでしょう。
少し前まで彼は統合失調症を患っていた、という話を聞いていたのですが大学在学中に聞いたことによるとどうやら彼の持病は双極性障害(I型)だったという説が有力?らしいです。
DSM(精神障害の診断と統計の手引き)によると前者は精神病性障害に分類され、後者は気分障害に分類されるかなり異なるメカニズムといいましょうか性質の病気なのですが、実はこの2つかなり鑑別するのが難しいとのこと。
統合失調症には2つ状態があります。陽性の症状には幻覚、妄想、思考の障害などがあり、陰性の症状には感情鈍麻、思考の低下などがあります。
陽性の妄想には誇大妄想などもあり、思考の障害の表れ方にもよりますがこの状態は躁状態の誇大妄想、支離滅裂さと客観的には大変似て映ります。
そして陰性の症状の意欲低下、感情鈍麻などは鬱の症状と酷似しています。
シューマンの話に戻りますが、シューマンは作曲のとき二つのペンネームを使い分けていて、それはペンネームというレベルではなくある種のペルソナであったといわれています。
この二つのペルソナは彼の大型ピアノ作品「謝肉祭」に出演しています。
「フロレスタン」は英雄的で活発、外向的でドラマチックな性格。
「オイゼビウス」はシャイでロマンチスト、詩人で内向的、瞑想というか空想気味。
この二つのペルソナは統合失調症の陽性と陰性の状態を表すようでもあり、または双極性障害の躁と鬱を表すようであり・・・
二つの異なった状態を明確に表していながら、やっぱり鑑別は難しいものです。
先ほどショスタコーヴィチの話をしましたが。
前紹介しているはずなのですが、彼にとって弦楽四重奏曲というのは最もプライベートで正直な気持ちを吐露するための媒体・形式であり、そのうちでも第8番は彼が自殺を考えていて、遺書として書かれたという一連のエピソードから(もちろん曲の優れたこともありますが)有名です。
多少のバイアスが起こるのは覚悟の上で、例えばこの曲が彼にとっての遺書だと仮定した上で分析してみるとたくさんの面白い特徴が見えてきます。
1)曲の最初から何度も何度も繰り返されるレミドシ(DSCH)は彼の名前(独:Dmitri SCHostakovich)を表すことで有名
2)曲を構成するエレメントのほとんどが彼自身の作曲した作品からの引用、しかも政府にこっぴどく批判を受けたり、日の目を見なかったりしなかった曲をチョイス
3)第3楽章のメインセクションのリズムと和音進行がサン=サーンスの「死の舞踏」そのまま
4)この曲のスタイル、友人への初演のエピソード、そして自作を多数一つの曲に引用するという行動を深く掘り下げるとどうも自殺をほのめかすサインの一つ「身辺整理」に繋がるような気がしてたまらない
他にも探すとあると思うんですがここらで。
もちろん精神疾患の症状が作曲の完全ストップという形で現れたり(ラフマニノフ)、精神疾患でないながらもなにか通常とはどうも違う精神状態を表現していたり(スクリャービン)、こういったくくりに当てはめられないけれど特殊な精神の経験を表現している音楽、他芸術は色々あると思います。
ただやっぱり言いたいのは言葉での表現には限りがあって、もっと感覚的で嘘をつけない音楽で生の感情と触れあい、言葉で表現し難い精神症状などにまた違うレベルで共感できるようになりたいなあ、と思う・・・ということです!
今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第9番 第1楽章
精神疾患ではなく「正直さ」の話に戻りまして。
ショスタコーヴィチの交響曲は第2番「メーデー」、政府からの批判への答辞とされた第5番、1905年の血の日曜日事件について書いた第11番など共産党&革命がらみが多いです。
それはやっぱり政府お抱え(っていっちゃなんですが)の作曲家としてのショスタコーヴィチにとって交響曲は政府の為の音楽。公的な表現の場だったからで、そこではあんまり政府批判を音楽によってもしてはいけない(彼の、そして彼の家族や知人の命に関わる)わけで・・・
ただこの交響曲だけは例外、と言われています。
書かれたのは第二次大戦がまさにヨーロッパ側では終わる時。ロシアは戦勝国ということでショスタコーヴィチはもちろん政府から戦勝を祝うような壮大な交響曲を作曲することを期待されていたことでしょう。
が!
彼が書いたのはたった25分の交響曲。編成も例えば5番や7番などと比べるとちょっと控えめ。
しかも第1楽章はなんだか軽くておちょくってるみたいだし、第2楽章は暗くて淋しくて不気味で、第3楽章もまたあっという間に過ぎていくし第4楽章なんか悪役の登場音楽みたいだし、第5楽章もまた華やかさもなくおちょくられているようで・・・
政府にはもちろん不評です(当たり前!)
ショスタコとしては戦争に勝ったって負けたって人はたくさんむごいやり方で死んでいったんだし、ソヴィエトという国が変わることなく政府が調子に乗るだけで、まったく無意味なことだったという心境だったらしく、それをなんだかちょっと出来心で?シンフォニーの方でついつい表現してしまった・・・ということらしいです。
(表現のしかたに多少私の感情移入が入ってしまいましたことをお詫びします)
第1楽章にはショスタコのそんな皮肉と厭世とでもいいましょうか、反戦の気持ちがあくまでも軽いミリタリーマーチ(ショスタコのミリタリーマーチは大抵大げさに使われて皮肉の味が強いです)にのって歌われます。
ピッコロとトロンボーンの対比はまるでカリカチュア、デフォルメした人物像のよう。
どこかこう、meanといいますか、卑しさと意地の悪さが見え隠れする音楽。
軽快かつ辛辣、痛烈なこの音楽を聞けばショスタコーヴィチが共産党の犬だなんて言えないことうけあいです。
ショスタコーヴィチの音楽についてはそれだけで一つエントリーを書けますが、こういった反体制というか権力に逆らう精神、特に権力ばっかりで実体が悪いものに逆らう反骨精神はやはり若者にウケがいいようです。
こうやって暴力などに頼らず粋な?方法でそれを表現できることは何よりも良いと思いますし(暴力を避ける、という意味でもより正直に伝える、という意味でも)・・・なんといっても私にとってショスタコのこういった皮肉なユーモアセンスはものすごく憎めない、といいますかむしろ愛しい、というべきですか。
ロマンチックだったり、感動的だったりの正直な音楽も良いですが、こういった正直さもたまにはどうですか?
※ショスタコーヴィチを愛称として私はショスタコ、またはタコと呼んでいるのですが、そうするとこの曲はタコの9番=タコの吸盤、またはもっと短縮してタコキューと呼んでやって下さい♪
以上要らない追記でした♪
一番わかりやすい例がショスタコーヴィチの音楽ですかね。
前ピアノを教えていたときに成人の生徒さんから聞いた話なんですが、一昔前はショスタコーヴィチはソヴィエト共産党の為に音楽を作曲した、と思われていたらしく。
実際に彼の音楽を聴くと(交響曲ではなく、弦楽四重奏などもっと小さな編成の音楽)そんなことはないってことがクラシックに詳しくない人も分かると思います。
彼の音楽にこめられた辛さ、皮肉、怒りなどは・・・またあとで少し話したいですし、それはそれで一つのエントリーになるのですが、そういった感情の複雑な組み合わせが理論的にどう音符表れているかは分からないのですがはっきりと心に響いてきて、彼や他の人間の言葉以上に雄弁に真実を語るのです。
やはりどんな言語を持ってしても言葉の範囲やボキャブラリーには限りがあって、絵、動き、音楽などのほうが人間の無限に複雑な内面をよりフレキシブルに、豊かに表現出来る、ということなのかしらん。
精神疾患の症状も、治療のためにはもちろん言葉にすることが必要ですが、言葉では語れない多くのことが人の心には渦巻きます。
それを芸術で表現した人はたくさんいます。
例えば心理学の教科書に載っていたルイス・ウェインの猫の絵。統合失調症を煩った彼の精神と脳の状態の変化は彼の書く猫の絵に顕著に表れています。きっとネットでも探すとあると思うので・・・ものすごくドラマチックで面白いです。
人間主に視覚を通してものを理解する生き物なので絵画ほど顕著ではありませんが音楽にもそういった症状・精神状態は現れます。
例えばベルリオーズ。彼の「幻想交響曲」はアヘンを大量に(しかし致死量には足りなく)服用して死のうとした主人公が見た幻覚と夢の混ざり合いを第1楽章で描きます。次々に移り変わるシーンのなかに様々なイメージや色彩、それに混じって愛しい人のテーマが表れたり。
少ないながらも精神疾患の知識をかじった身として興味深いのはこの一見明るい音楽の中に表れる「恐怖」のイメージ。
「幻覚」といっても実はいろいろで、聴覚・視覚に訴える幻覚は健常者でも経験することは珍しくないです(詳しくはOliver Sacks著Musicophiliaに、そして親友の心理学の卒論もこのトピックを扱っています♪)。
精神疾患の症状として経験する幻覚は強い恐怖感を伴うことが多いそうです。(統合失調症、精神病症状を伴う鬱、ドラッグなどの薬物の中毒症状など)
そういった意味ではものすごくリアルに、言葉にならない内面を表現する音楽であるといえます。
実際理論的にこの和音がこういったものを表す、というのは本当に全く分からないのですが同じ調で同じ明るさ、そして同じ恐怖をもった曲が実はあるんです。
それが少し前に今日の一曲で紹介したセルゲイ・プロコフィエフの「悪魔的暗示」。
同じハ長調で似たような和音の連続は先ほどのベルリオーズと同じ「恐怖を伴う幻覚」を直感的に連想させます。
それが元となって私はこの曲の「悪魔的暗示」というのは精神症状としての幻覚・妄想による悪魔だという解釈をしています。
他人はみんな敵だ、みんなが自分を害しようとしていると告げる悪魔・・・その悪魔が常に見張っていて、地獄のような幻覚を見せて、そして恐怖に陥る自分をあざ笑う悪魔の高笑い・・・
そういったイメージで弾いているつもりです。
数いる著明な作曲家のうち精神疾患を患ったことで一番有名なのはローベルト・シューマンでしょう。
少し前まで彼は統合失調症を患っていた、という話を聞いていたのですが大学在学中に聞いたことによるとどうやら彼の持病は双極性障害(I型)だったという説が有力?らしいです。
DSM(精神障害の診断と統計の手引き)によると前者は精神病性障害に分類され、後者は気分障害に分類されるかなり異なるメカニズムといいましょうか性質の病気なのですが、実はこの2つかなり鑑別するのが難しいとのこと。
統合失調症には2つ状態があります。陽性の症状には幻覚、妄想、思考の障害などがあり、陰性の症状には感情鈍麻、思考の低下などがあります。
陽性の妄想には誇大妄想などもあり、思考の障害の表れ方にもよりますがこの状態は躁状態の誇大妄想、支離滅裂さと客観的には大変似て映ります。
そして陰性の症状の意欲低下、感情鈍麻などは鬱の症状と酷似しています。
シューマンの話に戻りますが、シューマンは作曲のとき二つのペンネームを使い分けていて、それはペンネームというレベルではなくある種のペルソナであったといわれています。
この二つのペルソナは彼の大型ピアノ作品「謝肉祭」に出演しています。
「フロレスタン」は英雄的で活発、外向的でドラマチックな性格。
「オイゼビウス」はシャイでロマンチスト、詩人で内向的、瞑想というか空想気味。
この二つのペルソナは統合失調症の陽性と陰性の状態を表すようでもあり、または双極性障害の躁と鬱を表すようであり・・・
二つの異なった状態を明確に表していながら、やっぱり鑑別は難しいものです。
先ほどショスタコーヴィチの話をしましたが。
前紹介しているはずなのですが、彼にとって弦楽四重奏曲というのは最もプライベートで正直な気持ちを吐露するための媒体・形式であり、そのうちでも第8番は彼が自殺を考えていて、遺書として書かれたという一連のエピソードから(もちろん曲の優れたこともありますが)有名です。
多少のバイアスが起こるのは覚悟の上で、例えばこの曲が彼にとっての遺書だと仮定した上で分析してみるとたくさんの面白い特徴が見えてきます。
1)曲の最初から何度も何度も繰り返されるレミドシ(DSCH)は彼の名前(独:Dmitri SCHostakovich)を表すことで有名
2)曲を構成するエレメントのほとんどが彼自身の作曲した作品からの引用、しかも政府にこっぴどく批判を受けたり、日の目を見なかったりしなかった曲をチョイス
3)第3楽章のメインセクションのリズムと和音進行がサン=サーンスの「死の舞踏」そのまま
4)この曲のスタイル、友人への初演のエピソード、そして自作を多数一つの曲に引用するという行動を深く掘り下げるとどうも自殺をほのめかすサインの一つ「身辺整理」に繋がるような気がしてたまらない
他にも探すとあると思うんですがここらで。
もちろん精神疾患の症状が作曲の完全ストップという形で現れたり(ラフマニノフ)、精神疾患でないながらもなにか通常とはどうも違う精神状態を表現していたり(スクリャービン)、こういったくくりに当てはめられないけれど特殊な精神の経験を表現している音楽、他芸術は色々あると思います。
ただやっぱり言いたいのは言葉での表現には限りがあって、もっと感覚的で嘘をつけない音楽で生の感情と触れあい、言葉で表現し難い精神症状などにまた違うレベルで共感できるようになりたいなあ、と思う・・・ということです!
今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第9番 第1楽章
精神疾患ではなく「正直さ」の話に戻りまして。
ショスタコーヴィチの交響曲は第2番「メーデー」、政府からの批判への答辞とされた第5番、1905年の血の日曜日事件について書いた第11番など共産党&革命がらみが多いです。
それはやっぱり政府お抱え(っていっちゃなんですが)の作曲家としてのショスタコーヴィチにとって交響曲は政府の為の音楽。公的な表現の場だったからで、そこではあんまり政府批判を音楽によってもしてはいけない(彼の、そして彼の家族や知人の命に関わる)わけで・・・
ただこの交響曲だけは例外、と言われています。
書かれたのは第二次大戦がまさにヨーロッパ側では終わる時。ロシアは戦勝国ということでショスタコーヴィチはもちろん政府から戦勝を祝うような壮大な交響曲を作曲することを期待されていたことでしょう。
が!
彼が書いたのはたった25分の交響曲。編成も例えば5番や7番などと比べるとちょっと控えめ。
しかも第1楽章はなんだか軽くておちょくってるみたいだし、第2楽章は暗くて淋しくて不気味で、第3楽章もまたあっという間に過ぎていくし第4楽章なんか悪役の登場音楽みたいだし、第5楽章もまた華やかさもなくおちょくられているようで・・・
政府にはもちろん不評です(当たり前!)
ショスタコとしては戦争に勝ったって負けたって人はたくさんむごいやり方で死んでいったんだし、ソヴィエトという国が変わることなく政府が調子に乗るだけで、まったく無意味なことだったという心境だったらしく、それをなんだかちょっと出来心で?シンフォニーの方でついつい表現してしまった・・・ということらしいです。
(表現のしかたに多少私の感情移入が入ってしまいましたことをお詫びします)
第1楽章にはショスタコのそんな皮肉と厭世とでもいいましょうか、反戦の気持ちがあくまでも軽いミリタリーマーチ(ショスタコのミリタリーマーチは大抵大げさに使われて皮肉の味が強いです)にのって歌われます。
ピッコロとトロンボーンの対比はまるでカリカチュア、デフォルメした人物像のよう。
どこかこう、meanといいますか、卑しさと意地の悪さが見え隠れする音楽。
軽快かつ辛辣、痛烈なこの音楽を聞けばショスタコーヴィチが共産党の犬だなんて言えないことうけあいです。
ショスタコーヴィチの音楽についてはそれだけで一つエントリーを書けますが、こういった反体制というか権力に逆らう精神、特に権力ばっかりで実体が悪いものに逆らう反骨精神はやはり若者にウケがいいようです。
こうやって暴力などに頼らず粋な?方法でそれを表現できることは何よりも良いと思いますし(暴力を避ける、という意味でもより正直に伝える、という意味でも)・・・なんといっても私にとってショスタコのこういった皮肉なユーモアセンスはものすごく憎めない、といいますかむしろ愛しい、というべきですか。
ロマンチックだったり、感動的だったりの正直な音楽も良いですが、こういった正直さもたまにはどうですか?
※ショスタコーヴィチを愛称として私はショスタコ、またはタコと呼んでいるのですが、そうするとこの曲はタコの9番=タコの吸盤、またはもっと短縮してタコキューと呼んでやって下さい♪
以上要らない追記でした♪
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※このエントリーは自画自賛仕様となっております。
今年新しく素敵なノートブックが手に入ったのでQuotebookを作り直そうかともくろんでおります。
Quotebook、とは・・・
自分が気に入った名言、迷言、詩、歌詞などの言葉を書き留めておくノート。
基本ずーっととっておくためのものなのですが、結局作る過程でなんか間違えたりして気に入らないことができたり、価値観が変わったりして数年ごとに作り治しています。
写真は新旧Quotebook.。
右が今までのもの。ノートがひもとじになってるのが特徴です。
左が新しく入手したもの。右側に見える紐状のものは使うことでふくらんだり閉じにくくならないようにノートを閉じるためのもの。
メシアンと言えば鳥、ということもあり前のを買ったのですがやっぱり自分自身は蝶に惹かれますので・・・(正確には蛾が好きなんですが)
今自分の持ち物に合計50匹以上蛾がいます。
主にダリのポスターやアクセサリーなどが中心なので部屋に入ってもわかりにくいですが。
Quotebookを作るとき、欠かせない詩が一つありまして。
2001年、私の長い長い精神不調の中で書きました「The Isle of the Dead」(死の島)という詩で・・・はい、自分で書いた詩を自分で気に入ってます(笑)
一応英語版だけですが(昔やった和訳はひどいので英語で勘弁してください(汗))、こちらにアップしてみました。
アップできるくらい気に入ってるのですよ(笑)
タイトルからも想像できるかとは思いますが、アルノルト・ベックリンの一連の絵画「死の島」、ならびにそれらにインスピレーションを受けたセルゲイ・ラフマニノフの交響詩「死の島」を題材としています。
さらに、当時ものすごく感銘を受けたウィリアム・ダンバーの「Lament for the Makers」という詩にもまた「死の舞踏」的な性格、構成、リズムなどに強い影響を受けています。
Lament for the Makers、好きなんですよね。日本語の訳が見つからないんですけど・・・
死からは誰も、どんなことをしても逃れられない、というようなことがまず謡われ、そして歌い手の回りの人が死んでいったことを一人一人語り・・・
そして「(死が)私のみを生かしておくわけがないだろう」的なフレーズがまた心に切実に来て。
Timor Mortis Conturbat Me(死の恐怖が私を悩ませる)というフレーズの繰り返しがだんだんパラノイアチックになっていってまたそれも心ふるわせて、それはそれは私に大きな影と創作心を与えたものです。
英語版(といってもスコットランド語?なのですが)はこちらです。読解難易度はかなり高めです!
このころから結構詩を書くことが多く、心のうちの表現をするのにメインの媒体としていたのですが、つい最近ぱたっ、と詩を書くのをやめてしまって・・・
その一つの要因としては自分の過去に書いた詩を読み返したとき、この「死の島」よりも自分が好きになれた、それよりも優れてると思えた詩が全く一つもなく。
なんとなくぼんやりと挫折感を感じてしまって、あの詩を超えられないんだなー・・・と思ってしまった結果みたいです。
表現形態はいろいろありますが、どうも自然と遠ざけてたエリアもあります。
その中の一つが作曲。マイケルやPなど作曲を精力的にしていた友達が何人かいたので自然に自分が比較してしまうことを恐れてか遠ざけてしまったジャンル、ということらしく・・・
でもメルボルン大学音楽科では課題でちょっとした曲を書いたり、なんということは授業の一環としてありました。
例えばTechniques 3-2という科目(通常3年生の科目ですが、大学制度のいろいろのあれで実際に3年目でやる人もいれば他の学年でやる人もたくさんいます)なんですが、この科目では20世紀で起こった様々な音楽の流派(実験音楽、ジャズ、etc)の事を学び、実際にそのスタイルで曲を書いたりアレンジしたりするという課題がありました。
いろいろ短時間で習うのでそこらの音楽を専門としてる私にとっては伝わっていないことが多かった感じも否めませんが、楽しかったのは実験音楽・偶然の音楽の課題です・・・が!
ミニマル・ミュージックの課題に自分が書いた曲は自分の唯一の作曲作品ながらなかなかの出来で、むしろ一世一代の芸術だと思います(笑)
(いえ、そこまで素晴らしい代物じゃないんですけど自分はこれ以上の音楽はかけないと思ってるので・・・あくまでもパーソナルベスト、ということです)
ミニマル・ミュージックというのは音楽の全てのエレメント(リズム、メロディー、動き、ハーモニー)などを最小限に抑えた音楽のスタイルで、結果20世紀の音楽のなかではかなり聞きやすい部類に入ります。
主にアメリカとヨーロッパでそのスタイルは2つに別れ、アメリカの流派(スティーヴ・ライヒ、テリー・ライリー、ジョン・アダムスなど)ではメカニカルな反復が特徴的で、ヨーロッパの流派(ヘンリク・グレツキ、アルヴォ・ペルトなど、主に非ロシアソヴィエト圏)はスローな動きとスピリチュアルな雰囲気(ソヴィエトは共産主義なので宗教音楽が禁止されていたため、と言われてます)が特徴です。
私の作品、「Grey Angel」(2006)は後者のヨーロッパ流派のスタイルで書かれてます。
ヨーロッパ流派のミニマル・ミュージックはかなり私のツボでして、いまでも愛聴しています。
ちょうど創作活動の方で立ち上げ始めたストーリーのキャラクターを多少イメージしながらプランして。
違う長さの音型(ミニマル・ミュージックは不協和音を避けるので先生のアドバイス通り五音音階で)を3種類ほど用意して、それを反復させながら、1つの音型はベースとして使い、もう二つの音型を決まったパターンによって変化させていく・・・というものなのでメカニズムとしてはものすごくシンプルかつ論理的。しかも聴いてみるとその論理的な部分をあまり感じさせず。
自慢になりますが課題にしては出来が良すぎたのか授業で発表したときちょっとクラスがしん、としました(汗)
後の採点もかなりの高得点。自慢の一曲です♪
ちなみに発表したときはピアノ1台3手(つまり2人演奏)なのですが、実際の理想はチェレスタとオルガンの低音ペダルのアンサンブルでやりたかったです。
楽譜書きソフトにちょうどMIDIアウトプット機能があったので(提出は楽譜でしたが)アップしてみました。(Grey Angel チェレスタ+オルガンペダルver.)
これもアップできるほど好きな作品です。バックアップもかねてipodにピアノバージョン、チェレスタ+オルガンヴァージョンともに入れてあります。
で、なぜ基本お調子者の私がこれに味をしめて作曲に傾かなかったか、というともちろん先ほどの理由もありますが、あくまでもこれは課題として書けたものであって、ミニマル・ミュージックが書けたからといって他のスタイルの音楽が書けるとは限りませんし、ミニマル・ミュージックをこれ以上書きたいとは思えなかったので・・・
たまたま課題と創作の方向性がマッチした結果の、あくまでも「大学の課題」としてのレベルの作曲だったことはものすごく承知なので、これはこれで良い作品だったけどこれ以上は、ということにしました。
その「たまたま」のエレメントが大きいので作曲をしたとしてもそれ以上に良い曲は書けなかったと思いますし。
なので結果この曲は私の中ではマスターピースとして殿堂入り、ということで・・・
それでも今でも詩が書ければなーとか曲が書けたらなーとか思うことはよくあります(笑)
いろんな表現形態でいろんなことがアウトプットできるのは楽しいでしょうし。
でも詩については一生のうちでもう一度くらい詩でアウトプットしたくなる気持ちになるのではないかな~とか思ってます。根拠は全くないのですが。
気が向いたら今までとは全く違う表現形態を試し冒険できるように心はなるべくオープンにしておきたいとおもいます。
百も千もの自画自賛、おつきあいありがとうございました。
実際にリンクをたどって詩や曲を読んで、聴いていただいた方にはその何重にも感謝いたしたいと思います。
最後に一つだけ自画自賛を・・・
今日の一曲は流 星姫作曲「Grey Angel」とさせていただきます(笑)
お断り:Isle of DeadとGrey Angelはどちらも私の著作物であり、無断転載・無断使用を堅く禁じます。
今年新しく素敵なノートブックが手に入ったのでQuotebookを作り直そうかともくろんでおります。
自分が気に入った名言、迷言、詩、歌詞などの言葉を書き留めておくノート。
基本ずーっととっておくためのものなのですが、結局作る過程でなんか間違えたりして気に入らないことができたり、価値観が変わったりして数年ごとに作り治しています。
写真は新旧Quotebook.。
右が今までのもの。ノートがひもとじになってるのが特徴です。
左が新しく入手したもの。右側に見える紐状のものは使うことでふくらんだり閉じにくくならないようにノートを閉じるためのもの。
メシアンと言えば鳥、ということもあり前のを買ったのですがやっぱり自分自身は蝶に惹かれますので・・・(正確には蛾が好きなんですが)
今自分の持ち物に合計50匹以上蛾がいます。
主にダリのポスターやアクセサリーなどが中心なので部屋に入ってもわかりにくいですが。
Quotebookを作るとき、欠かせない詩が一つありまして。
2001年、私の長い長い精神不調の中で書きました「The Isle of the Dead」(死の島)という詩で・・・はい、自分で書いた詩を自分で気に入ってます(笑)
一応英語版だけですが(昔やった和訳はひどいので英語で勘弁してください(汗))、こちらにアップしてみました。
アップできるくらい気に入ってるのですよ(笑)
タイトルからも想像できるかとは思いますが、アルノルト・ベックリンの一連の絵画「死の島」、ならびにそれらにインスピレーションを受けたセルゲイ・ラフマニノフの交響詩「死の島」を題材としています。
さらに、当時ものすごく感銘を受けたウィリアム・ダンバーの「Lament for the Makers」という詩にもまた「死の舞踏」的な性格、構成、リズムなどに強い影響を受けています。
Lament for the Makers、好きなんですよね。日本語の訳が見つからないんですけど・・・
死からは誰も、どんなことをしても逃れられない、というようなことがまず謡われ、そして歌い手の回りの人が死んでいったことを一人一人語り・・・
そして「(死が)私のみを生かしておくわけがないだろう」的なフレーズがまた心に切実に来て。
Timor Mortis Conturbat Me(死の恐怖が私を悩ませる)というフレーズの繰り返しがだんだんパラノイアチックになっていってまたそれも心ふるわせて、それはそれは私に大きな影と創作心を与えたものです。
英語版(といってもスコットランド語?なのですが)はこちらです。読解難易度はかなり高めです!
このころから結構詩を書くことが多く、心のうちの表現をするのにメインの媒体としていたのですが、つい最近ぱたっ、と詩を書くのをやめてしまって・・・
その一つの要因としては自分の過去に書いた詩を読み返したとき、この「死の島」よりも自分が好きになれた、それよりも優れてると思えた詩が全く一つもなく。
なんとなくぼんやりと挫折感を感じてしまって、あの詩を超えられないんだなー・・・と思ってしまった結果みたいです。
表現形態はいろいろありますが、どうも自然と遠ざけてたエリアもあります。
その中の一つが作曲。マイケルやPなど作曲を精力的にしていた友達が何人かいたので自然に自分が比較してしまうことを恐れてか遠ざけてしまったジャンル、ということらしく・・・
でもメルボルン大学音楽科では課題でちょっとした曲を書いたり、なんということは授業の一環としてありました。
例えばTechniques 3-2という科目(通常3年生の科目ですが、大学制度のいろいろのあれで実際に3年目でやる人もいれば他の学年でやる人もたくさんいます)なんですが、この科目では20世紀で起こった様々な音楽の流派(実験音楽、ジャズ、etc)の事を学び、実際にそのスタイルで曲を書いたりアレンジしたりするという課題がありました。
いろいろ短時間で習うのでそこらの音楽を専門としてる私にとっては伝わっていないことが多かった感じも否めませんが、楽しかったのは実験音楽・偶然の音楽の課題です・・・が!
ミニマル・ミュージックの課題に自分が書いた曲は自分の唯一の作曲作品ながらなかなかの出来で、むしろ一世一代の芸術だと思います(笑)
(いえ、そこまで素晴らしい代物じゃないんですけど自分はこれ以上の音楽はかけないと思ってるので・・・あくまでもパーソナルベスト、ということです)
ミニマル・ミュージックというのは音楽の全てのエレメント(リズム、メロディー、動き、ハーモニー)などを最小限に抑えた音楽のスタイルで、結果20世紀の音楽のなかではかなり聞きやすい部類に入ります。
主にアメリカとヨーロッパでそのスタイルは2つに別れ、アメリカの流派(スティーヴ・ライヒ、テリー・ライリー、ジョン・アダムスなど)ではメカニカルな反復が特徴的で、ヨーロッパの流派(ヘンリク・グレツキ、アルヴォ・ペルトなど、主に非ロシアソヴィエト圏)はスローな動きとスピリチュアルな雰囲気(ソヴィエトは共産主義なので宗教音楽が禁止されていたため、と言われてます)が特徴です。
私の作品、「Grey Angel」(2006)は後者のヨーロッパ流派のスタイルで書かれてます。
ヨーロッパ流派のミニマル・ミュージックはかなり私のツボでして、いまでも愛聴しています。
ちょうど創作活動の方で立ち上げ始めたストーリーのキャラクターを多少イメージしながらプランして。
違う長さの音型(ミニマル・ミュージックは不協和音を避けるので先生のアドバイス通り五音音階で)を3種類ほど用意して、それを反復させながら、1つの音型はベースとして使い、もう二つの音型を決まったパターンによって変化させていく・・・というものなのでメカニズムとしてはものすごくシンプルかつ論理的。しかも聴いてみるとその論理的な部分をあまり感じさせず。
自慢になりますが課題にしては出来が良すぎたのか授業で発表したときちょっとクラスがしん、としました(汗)
後の採点もかなりの高得点。自慢の一曲です♪
ちなみに発表したときはピアノ1台3手(つまり2人演奏)なのですが、実際の理想はチェレスタとオルガンの低音ペダルのアンサンブルでやりたかったです。
楽譜書きソフトにちょうどMIDIアウトプット機能があったので(提出は楽譜でしたが)アップしてみました。(Grey Angel チェレスタ+オルガンペダルver.)
これもアップできるほど好きな作品です。バックアップもかねてipodにピアノバージョン、チェレスタ+オルガンヴァージョンともに入れてあります。
で、なぜ基本お調子者の私がこれに味をしめて作曲に傾かなかったか、というともちろん先ほどの理由もありますが、あくまでもこれは課題として書けたものであって、ミニマル・ミュージックが書けたからといって他のスタイルの音楽が書けるとは限りませんし、ミニマル・ミュージックをこれ以上書きたいとは思えなかったので・・・
たまたま課題と創作の方向性がマッチした結果の、あくまでも「大学の課題」としてのレベルの作曲だったことはものすごく承知なので、これはこれで良い作品だったけどこれ以上は、ということにしました。
その「たまたま」のエレメントが大きいので作曲をしたとしてもそれ以上に良い曲は書けなかったと思いますし。
なので結果この曲は私の中ではマスターピースとして殿堂入り、ということで・・・
それでも今でも詩が書ければなーとか曲が書けたらなーとか思うことはよくあります(笑)
いろんな表現形態でいろんなことがアウトプットできるのは楽しいでしょうし。
でも詩については一生のうちでもう一度くらい詩でアウトプットしたくなる気持ちになるのではないかな~とか思ってます。根拠は全くないのですが。
気が向いたら今までとは全く違う表現形態を試し冒険できるように心はなるべくオープンにしておきたいとおもいます。
百も千もの自画自賛、おつきあいありがとうございました。
実際にリンクをたどって詩や曲を読んで、聴いていただいた方にはその何重にも感謝いたしたいと思います。
最後に一つだけ自画自賛を・・・
今日の一曲は流 星姫作曲「Grey Angel」とさせていただきます(笑)
お断り:Isle of DeadとGrey Angelはどちらも私の著作物であり、無断転載・無断使用を堅く禁じます。
(なんだかいろんな言語をごっちゃに今してしまった気がしてたまらない・・・ちゃんと調べなくてすみません(汗))
5月6月の更新停滞が嘘のようにブログに書きたいことがでてくるこの頃。
冬にしちゃあ上等だと思いますが創作のほうも進めようよ、という・・・
今日も二つ候補があったのですが、結果こちらに。
最近、ここ数ヶ月ひどい乾燥で恐ろしい状態になっていた右人差し指がだんだん治ってきた様子です。
ピアニストにとって手は商売道具と言われますがこの年になるまで手をいたわるということをしてこなかったもんでちょっぴり焦りましたがとりあえずハンドクリーム、そして皿洗いの時には手袋、ということで改善途中です。
自分の手・・・にはコンプレックスとまではいきませんが多少不便さを感じることは多いです。
ピアニストとしてはやっぱり手が大きい、指が長い方が有利なもの。
例えばブラームス、ラフマニノフ、リストあたりのピアノ音楽は大きな和音をパワフルに弾いたり、広く分散されたアルペジオ(分散和音)を弾いたりということが多いので。(ラフマニノフやリストは自身の曲を多く弾いた演奏家で、大きな手を持っていたことで知られています)
それもまたピアノ音楽の華やかさには欠かせないテクニック、なのですが・・・
私の手は指の長さはそこそこですがやっぱり手のサイズが・・・
(それでもやっぱり体の大きさと比較すれば良い方でとは言われますが)
鍵盤でドから次のドまで、つまり1オクターブは楽に届きますが、それ以上はちょっときついですね。
オクターブにしても届くものの、ずっとオクターブばっかりだと手が痛みます。
先ほど行ったようなパッセージは弾けない、または弾けてもうまく弾けない、または手を痛めたり・・・
同じく手の小さめの(体型はごく普通なんですが)先生はそういうのが多い曲はとりあえず弾かないようにいいます。で、曲の中でそういったパッセージがあれば多少ずるをしなさいとも言ってました。
実際手の小さい名ピアニストもたくさんいます。
スクリャービンも手を痛める前はそうでしたし、アリシア・デ・ラローチャやヴラディミール・アシュケナージなども手が小さいと言われています。
ラヴェルも手が小さかったらしく、彼のピアノ曲はものすごく複雑な小回りを必要とするパッセージがたくさんあります。(実際私の手はラヴェルの書く音型などと比較的相性がいいように思えます)
小さい手であんまり広げるのを無理したり、オクターブばっかりのパッセージを続けたり、手の大きさにかかわらず反復練習をやりすぎたりでとにかく手を無理に酷使し続けるともちろん怪我に繋がります。
腱鞘炎、筋肉痛、ほかにもいろいろ。脳への影響としてフォーカル・ジストニア(職業性の局所ジストニア)もあるんだとか。
腱鞘炎はピアノが原因でなったことはないんですが(病院での退屈→鍵編みのやりすぎが原因ではあります)、手が疲れたら休むこと、そして腕が痛くなったらどの指に繋がっている筋肉や腱が痛んでいるのかを書く指を動かして調べ、原因を突き止めることが大切らしいです。そういうときはその指の動かし方、使い方に問題がある場合が多い、と聞きます。
大体こういった怪我はなんらかの形での手の間違った使い方が原因らしいので(弾きすぎ、ではなく)、一番先に先生にレッスンで相談するのがいいんだそうです(大学仲間情報)。
ピアニストは両手を同じように、同じくらいの頻度で使いますが、他の楽器ではそうでないものもあります。
片手で楽器を支えながら片手で音程をとったり、片手で弓を動かしながら片手で音程をとったり。
バイオリンなどの弦楽器は右手で弓を動かし、左手で音程をとります。
なぜ左手で音程をとったりビブラートをかけたりと細かい動きを?と思われる方もいるかもしれませんがむしろ音質や音量などのかなり繊細な調整は弓、つまり右手でするものなので、実際そっちのほうが利き手のほうが都合がいいのでは、と最近(最近かよ!)思うようになりました。
有名なバイオリニスト、パガニーニはぎっちょといって左右をひっくり返して(=左手で弓、etc)バイオリンを弾いたそうですがなんせ昔のことなのでどこまで本当なのかは分かっていないそうです。
弦楽器の人は左手の指で弦を押さえますので長いことやっているとだんだん指紋が消えてきます。
バイオリンの人は細い弦を押さえるので指の先端、チェロなんかだと弦が比較的太くビブラートもまた幅広くなるので指の腹に近い方が硬くなり指紋が消えます。
チェロに限っては高音域になると親指の外側で弦を押さえることが多いので左親指の第1関節の外側くらいに胼胝ができます。
バイオリンはチェロよりドからレなどの音の間が狭いので、基本指先が細い方が向いてる・・・はず。
でも指が太いとチェロでも高音域は音の間が狭いので大変そう。私の前のチェロの先生ソーセージみたいな指してたけどどうやって弾けてたのかしら。
金管楽器は色々と一緒くたに扱われることが多いですが(じっさい大学でも。基本の音の出し方や呼吸が同じなので)、手の使い方は全く違います。
トランペットは右手でピストンを操り音程をとります。左手は楽器を支えますが、これはなしでも吹けないことはない、片手で演奏できる数少ない楽器の一つです。
ホルンは実は逆。左手で音程を操り、右手は後ろ向きに開いたベルのなかに突っ込んで音色の調整などをします。あんまり手が太ってるとそこの調整は厳しいのかしら・・・
トロンボーンはスライドによる音程の調整に腕の筋肉を使う唯一の楽器。指の筋肉の細かさと比べて大きい筋肉なのでさぞ細かい動きは難しいかと思いきや名手は本当にそんなことを感じさせませんね!
人間というのは手を使って本当にいろんな素晴らしいことをやり遂げてきましたが、音楽を奏でることもまたその一つ。
今回は手の話に絞ってしまったのですが声楽での声帯の働き、特にピアノでの脳の働き、そして金管楽器における唇の働きなど音楽と人体の関わりというのはものすごく素晴らしい、そして特別なものがあります。
音楽ってあんまりそう思われませんが物理や解剖学とものすごーく近いんですよね。
せっかく理系のお仕事してるのでそういう面にも目をどんどん向けていきたいです。
今日の一曲: マイケル・キーラン・ハーヴィー 「ピンク・ノーチラス」
録音はこちら。
マイケルもまた(体格が小さいので)そんなに手は大きくない方なのですがリストとか自分の曲とか平気ででっかいのを弾きますね。
それもすごいですし、指の回りもすごいのですが一番すごいのはやっぱり彼の表現したいエネルギーに手が耐えているそのタフさなのかも・・・?
ピンク・ノーチラスはマイケルの生徒である友人Pがメルボルン大学在学中、彼と仲良くさせてもらってるときにPが弾いてた、初めて私が作曲家としてのマイケルを知った曲です。
実際何回かPが演奏するのを生で聴いてますし、彼が練習室でこれを練習するのを聴きながら私はぐっすり昼寝した思い出も・・・(笑)
といっても決して子守歌にできる曲ではありません。本来なら。
マイケルの曲に共通する複雑なリズムや巨大なエネルギー、ジャズなど多くの他ジャンルの影響、幾何学的な音型が3分半に詰まっています。
ピンク・ノーチラスというのは音響で言う「ピンク・ノイズ」(私も父の仕事の関係上聞いたことはあるのですが物理が壊滅的にまだ苦手なためwikipediaにリンク」の波長のパターンと、あとオウムガイの螺旋構造(これも昔ニュートンかなんかで読んだ記憶がぼんやり)のパターンを元にした曲だ・・・という風にPから一回聴いたことがあります。
正確なことはPのリサイタルのプログラムをどっかにやってしまったため説明できないのですが、でも音型やリズムの幾何学的な性格の説明はこれでつきます。
マイケルが演奏するとこの曲は本当に幾何学的で。
でもPが演奏するともっと人間的。(笑)先生から学ぶということは影響を受けるということで、特にマイケルが先生だと(そして特にPが望んでマイケルの生徒になったため)影響のポテンシャルは限りないのですが・・・
それでもPの演奏が彼自身の演奏で何よりも嬉しかった記憶があります。
作曲家自身の演奏より好きだ、というのもなんですが私はPの演奏が好きでした。
マイケルの音楽については数日前のエントリーを見ていただければ幸いです。
そしてそこでもいいましたように彼の演奏、そして作曲に初めましてをする方はこの曲がお奨めです。
もっと彼の演奏や作曲を知ってもらいたいという気持ちは在るものの空回りで。
もともと音楽を言葉で説明するのはどうかと思いますし、不完全燃焼に終わるのは見えてるのですが・・・
自分のためにも他のもろもろのためにも(そんなものがあれば)できる限り紹介していこうと思います。
5月6月の更新停滞が嘘のようにブログに書きたいことがでてくるこの頃。
冬にしちゃあ上等だと思いますが創作のほうも進めようよ、という・・・
今日も二つ候補があったのですが、結果こちらに。
最近、ここ数ヶ月ひどい乾燥で恐ろしい状態になっていた右人差し指がだんだん治ってきた様子です。
ピアニストにとって手は商売道具と言われますがこの年になるまで手をいたわるということをしてこなかったもんでちょっぴり焦りましたがとりあえずハンドクリーム、そして皿洗いの時には手袋、ということで改善途中です。
自分の手・・・にはコンプレックスとまではいきませんが多少不便さを感じることは多いです。
ピアニストとしてはやっぱり手が大きい、指が長い方が有利なもの。
例えばブラームス、ラフマニノフ、リストあたりのピアノ音楽は大きな和音をパワフルに弾いたり、広く分散されたアルペジオ(分散和音)を弾いたりということが多いので。(ラフマニノフやリストは自身の曲を多く弾いた演奏家で、大きな手を持っていたことで知られています)
それもまたピアノ音楽の華やかさには欠かせないテクニック、なのですが・・・
私の手は指の長さはそこそこですがやっぱり手のサイズが・・・
(それでもやっぱり体の大きさと比較すれば良い方でとは言われますが)
鍵盤でドから次のドまで、つまり1オクターブは楽に届きますが、それ以上はちょっときついですね。
オクターブにしても届くものの、ずっとオクターブばっかりだと手が痛みます。
先ほど行ったようなパッセージは弾けない、または弾けてもうまく弾けない、または手を痛めたり・・・
同じく手の小さめの(体型はごく普通なんですが)先生はそういうのが多い曲はとりあえず弾かないようにいいます。で、曲の中でそういったパッセージがあれば多少ずるをしなさいとも言ってました。
実際手の小さい名ピアニストもたくさんいます。
スクリャービンも手を痛める前はそうでしたし、アリシア・デ・ラローチャやヴラディミール・アシュケナージなども手が小さいと言われています。
ラヴェルも手が小さかったらしく、彼のピアノ曲はものすごく複雑な小回りを必要とするパッセージがたくさんあります。(実際私の手はラヴェルの書く音型などと比較的相性がいいように思えます)
小さい手であんまり広げるのを無理したり、オクターブばっかりのパッセージを続けたり、手の大きさにかかわらず反復練習をやりすぎたりでとにかく手を無理に酷使し続けるともちろん怪我に繋がります。
腱鞘炎、筋肉痛、ほかにもいろいろ。脳への影響としてフォーカル・ジストニア(職業性の局所ジストニア)もあるんだとか。
腱鞘炎はピアノが原因でなったことはないんですが(病院での退屈→鍵編みのやりすぎが原因ではあります)、手が疲れたら休むこと、そして腕が痛くなったらどの指に繋がっている筋肉や腱が痛んでいるのかを書く指を動かして調べ、原因を突き止めることが大切らしいです。そういうときはその指の動かし方、使い方に問題がある場合が多い、と聞きます。
大体こういった怪我はなんらかの形での手の間違った使い方が原因らしいので(弾きすぎ、ではなく)、一番先に先生にレッスンで相談するのがいいんだそうです(大学仲間情報)。
ピアニストは両手を同じように、同じくらいの頻度で使いますが、他の楽器ではそうでないものもあります。
片手で楽器を支えながら片手で音程をとったり、片手で弓を動かしながら片手で音程をとったり。
バイオリンなどの弦楽器は右手で弓を動かし、左手で音程をとります。
なぜ左手で音程をとったりビブラートをかけたりと細かい動きを?と思われる方もいるかもしれませんがむしろ音質や音量などのかなり繊細な調整は弓、つまり右手でするものなので、実際そっちのほうが利き手のほうが都合がいいのでは、と最近(最近かよ!)思うようになりました。
有名なバイオリニスト、パガニーニはぎっちょといって左右をひっくり返して(=左手で弓、etc)バイオリンを弾いたそうですがなんせ昔のことなのでどこまで本当なのかは分かっていないそうです。
弦楽器の人は左手の指で弦を押さえますので長いことやっているとだんだん指紋が消えてきます。
バイオリンの人は細い弦を押さえるので指の先端、チェロなんかだと弦が比較的太くビブラートもまた幅広くなるので指の腹に近い方が硬くなり指紋が消えます。
チェロに限っては高音域になると親指の外側で弦を押さえることが多いので左親指の第1関節の外側くらいに胼胝ができます。
バイオリンはチェロよりドからレなどの音の間が狭いので、基本指先が細い方が向いてる・・・はず。
でも指が太いとチェロでも高音域は音の間が狭いので大変そう。私の前のチェロの先生ソーセージみたいな指してたけどどうやって弾けてたのかしら。
金管楽器は色々と一緒くたに扱われることが多いですが(じっさい大学でも。基本の音の出し方や呼吸が同じなので)、手の使い方は全く違います。
トランペットは右手でピストンを操り音程をとります。左手は楽器を支えますが、これはなしでも吹けないことはない、片手で演奏できる数少ない楽器の一つです。
ホルンは実は逆。左手で音程を操り、右手は後ろ向きに開いたベルのなかに突っ込んで音色の調整などをします。あんまり手が太ってるとそこの調整は厳しいのかしら・・・
トロンボーンはスライドによる音程の調整に腕の筋肉を使う唯一の楽器。指の筋肉の細かさと比べて大きい筋肉なのでさぞ細かい動きは難しいかと思いきや名手は本当にそんなことを感じさせませんね!
人間というのは手を使って本当にいろんな素晴らしいことをやり遂げてきましたが、音楽を奏でることもまたその一つ。
今回は手の話に絞ってしまったのですが声楽での声帯の働き、特にピアノでの脳の働き、そして金管楽器における唇の働きなど音楽と人体の関わりというのはものすごく素晴らしい、そして特別なものがあります。
音楽ってあんまりそう思われませんが物理や解剖学とものすごーく近いんですよね。
せっかく理系のお仕事してるのでそういう面にも目をどんどん向けていきたいです。
今日の一曲: マイケル・キーラン・ハーヴィー 「ピンク・ノーチラス」
録音はこちら。
マイケルもまた(体格が小さいので)そんなに手は大きくない方なのですがリストとか自分の曲とか平気ででっかいのを弾きますね。
それもすごいですし、指の回りもすごいのですが一番すごいのはやっぱり彼の表現したいエネルギーに手が耐えているそのタフさなのかも・・・?
ピンク・ノーチラスはマイケルの生徒である友人Pがメルボルン大学在学中、彼と仲良くさせてもらってるときにPが弾いてた、初めて私が作曲家としてのマイケルを知った曲です。
実際何回かPが演奏するのを生で聴いてますし、彼が練習室でこれを練習するのを聴きながら私はぐっすり昼寝した思い出も・・・(笑)
といっても決して子守歌にできる曲ではありません。本来なら。
マイケルの曲に共通する複雑なリズムや巨大なエネルギー、ジャズなど多くの他ジャンルの影響、幾何学的な音型が3分半に詰まっています。
ピンク・ノーチラスというのは音響で言う「ピンク・ノイズ」(私も父の仕事の関係上聞いたことはあるのですが物理が壊滅的にまだ苦手なためwikipediaにリンク」の波長のパターンと、あとオウムガイの螺旋構造(これも昔ニュートンかなんかで読んだ記憶がぼんやり)のパターンを元にした曲だ・・・という風にPから一回聴いたことがあります。
正確なことはPのリサイタルのプログラムをどっかにやってしまったため説明できないのですが、でも音型やリズムの幾何学的な性格の説明はこれでつきます。
マイケルが演奏するとこの曲は本当に幾何学的で。
でもPが演奏するともっと人間的。(笑)先生から学ぶということは影響を受けるということで、特にマイケルが先生だと(そして特にPが望んでマイケルの生徒になったため)影響のポテンシャルは限りないのですが・・・
それでもPの演奏が彼自身の演奏で何よりも嬉しかった記憶があります。
作曲家自身の演奏より好きだ、というのもなんですが私はPの演奏が好きでした。
マイケルの音楽については数日前のエントリーを見ていただければ幸いです。
そしてそこでもいいましたように彼の演奏、そして作曲に初めましてをする方はこの曲がお奨めです。
もっと彼の演奏や作曲を知ってもらいたいという気持ちは在るものの空回りで。
もともと音楽を言葉で説明するのはどうかと思いますし、不完全燃焼に終わるのは見えてるのですが・・・
自分のためにも他のもろもろのためにも(そんなものがあれば)できる限り紹介していこうと思います。
今日は久しぶりにラケットボールをやってきました。
なにかと運動不足になりやすいのですが・・・でもテニスをやってたことも一応ありますし、ラケットボールも学生時代ちょっとやって好きだったので友達とまたやろう、ということになって。
バドミントンもたまにやるので手&腕が「こっちのラケット」慣れしてなくて・・・もうちょっと強さを取り戻したらスカッシュも試してみたいです!(てこの原理でもっと力がいりますのでね、ラケットが長いと)
本題は例によって音楽のことになりますが・・・
演奏する行為ももちろんものすごく楽しいながら、実はリサイタルやコンサートのプログラムをプランニングするのもまた大好きで。CDで組み合わせる曲なども面白いですね。
創作の中でのコンサートでどんな曲をやるか、というのを考えるのももちろんその楽しみの一部。
こだわりは聞く人と弾く人(振る人含め)どっちにも楽しいプログラムにする、ということです♪
(あと一応ホルンなどに馬鹿みたいに負担が大きいプログラムは避けてます。リアリティも重視!)
よっぽど大きい曲を弾く場合以外(たとえばブリテンの戦争レクイエム、マーラーの交響曲6番など、曲の長さもそうですが奏者への負担、内容の濃さなども合わせての「大きさ」です)は一つのコンサートで複数の曲が弾かれます。
スタンダードなコンサートでは:
1)序曲(またはその他短いスターター曲)
2)協奏曲(コンチェルト。またはその他ソリストがいる曲。ソリストによっては演奏後にアンコールをやることも)
<休憩>
3)交響曲(シンフォニー。その他1時間前後、1時間超の大曲)
・・・で休憩を合わせて大体2時間半・・・くらいですかね?
(注:スタンダード、というのはメル響やユースオケなどメルボルンの様々なクラシックコンサートをもとにしたスタンダードです)
何事でもそうですが、これだけ長いコンサートもまた最初で心を掴むのがものすごく大切。
同時にかなりのプレッシャーを感じているであろう各奏者を一体にしてテンションを上げていかなくてはいけません。
オペラの序曲をオケのコンサートで弾いたり、5分ほどの短い曲を弾いたり、レパートリーは幅広いですが、個人的にいつも「どんな曲でコンサートを始めたら弾く方も聞く方も盛り上がるか?ということが気になって。
あくまでも個人的なチョイスなのですが、トップ5はここらへんじゃないかな~というものを集めてみました:
1) バーンスタイン 「キャンディード」序曲
2) グリンカ 「ルスランとリュドミラ」序曲
3) リムスキー=コルサコフ スペイン奇想曲
4) ショスタコーヴィチ 祝典序曲
5) カバレフスキー 「コラ・ブルニョン」序曲
キャンディードとルスランはどっちもスピード感あり、派手で華やかで、目の覚めるような、注目を引く序曲。
速ければ速いほどエキサイティング(・・・といっちゃあいけないのかもしれませんが)。
そして結構勢いで乗り切れますし(・・・といっちゃあいけないのかもしれませんが、再び)。
弾く方にも聞く方にも人気があり、飽きにくい曲です。
スタンダードなスターター曲でもあるのでリハーサル時間もある程度短縮できたり?
スペイン奇想曲に関してはこれは15分ほどある曲ですがコンサートの初めにはかなりふさわしい曲だと思います。
先ほどいった華やかさや勢い、テンションを上げる力ももちろんですが、オーケストラの様々な楽器がフィーチャーされるソロやアンサンブルが数多くあるので、例えばオーケストラ・クラシック音楽の紹介的なコンサートのオープニングにはもってこいではないかと思いますし、もちろんそれ以外のコンサートも(コンチェルトの規模などにもよりますが)ありだと思います♪
祝典序曲は上記3つと比較するともしかしたら(何回弾いていても)リハーサルに時間がかかる、ちょっと弾く側としてはもしかしたらびびりやすいかもしれない曲です。
でもショスタコーヴィチにしてはほとんどあり得ない軽快・明快さがフレッシュですし(物心つかないころからこの曲を知っていますが、これがショスタコと分かった時はひっくり返るかと思いましたもん!)。
これでコンサートを始めたらテンションはあがりますし度胸もまた据わるかと。
そして最後のカバレフスキー。
曲としてはあんまりそう目立って素晴らしい曲ではないのですがコンサートの最初としては結構きらきら輝くな~と思います。
派手な打楽器パート、えせフランス的な雰囲気、スピード感で、たとえばオールロシアンのコンサートのスターターとかでは同じロシア(ソヴィエト)の祝典序曲よりも適役な場合もあるかと思います。
一応無難なものを5つ選んでみましたが、たとえば照明でいろいろとやってくれるコンサートだと「ツァラトゥストラはかく語りき」(リヒャルト・シュトラウス)で始めるのもものすごくかっこいいですし、「庶民のためのファンファーレ」(コープランド)もまた衝撃的なオープニングでかっこいいですし。
あと金管に極度の負担がかかるプログラムの場合、弦中心の(=金管の体力温存可能な)序曲も例えばモーツァルトの「魔笛」序曲や「フィガロの結婚」序曲などをはじめたくさんあります。
他にも個性派・ひねった、またはケースバイケースで非常的に効果的なスターターなど考えてみたいですね。
(ただその場合実際一つずつコンサートまるまるプランしながらでないといけませんが)
あとはコンチェルト後に持ってかれるアンコールコレクションとか。
一曲勝負するなら(前述ケースですね)どんな曲がいいか、とか。
ライトミュージック(軽いクラシック)で奏者が退屈しないプログラムとか。
他にも結婚式、お葬式などのイベント・行事・その他occasionにふさわしい曲コレクションとか。
なんだかプランニング心が燃えてきました!
今後じっくり考えて(?)ここで語っていきたいと思います♪
今日の一曲: グスタフ・ホルスト 「惑星」より「火星」
惑星はもう3楽章目ですか(冥王星を含めると)。
今日は散々スターター曲のことを話してきたのですが、惑星は先ほどのコンサートで弾かれる曲の種類では
「大曲」(50分前後?)の部類に入ります・・・ですが!
惑星の第1楽章である「火星」のこのオープニングのインパクトの強さを買って、さらにプッシュプッシュしてあえてここで紹介させてもらいます。
まず。
弦楽器とは木製の弓に張ってある馬の毛で弦をこすり音を出す、ということが基本なのですが。
この「火星」のオープニングでは弦楽器全員が弓をひっくり返して、木の部分で弦を叩きます。
これはコル・レーニョという奏法で、よく「乾いた骨の音」を表すのに使います。
弦楽器全員同じリズムをこの奏法で、というのはなかなか珍しく、ものすごく・・・なんというか、もう人間の音じゃないです。ティンパニ+ハープの低音の地鳴りの向こうからなにかがやってくる、そんな印象の恐ろしい音です。
そしてこの曲を支配するリズムがまた独特で。
(ここで試聴できるようです)
この5拍子のリズムがまた不気味で、禍々しく。そして何百回も繰り返される(不穏な静けさの中間部でもこのリズムがばらして使われているほどです)このリズムの呪縛的な性格がたまりません。
楽器の音色、リズム、さらにハーモニー、音型、音量のうねりなどが全て全て禍々しくて。
不穏、不安、暗躍、好戦・・・そういった言葉がぴったりです。
この楽章の副題「戦をもたらす者」にふさわしすぎますね!
実はこの「惑星」は1914年から1916年にかけて書かれていまして。
この時に起こった世界的事件、つまり第一次世界大戦の始まりを意識しているとも言われますし、このころ書かれたストラヴィンスキーの「春の祭典」の影響を受けているとの話もあります。
全体的な雰囲気が聞きやすさはロマン派の音楽とそう変わりないようにも思えますが、それでもいろんな角度からこの20世紀という時代の始まりを濃く反映しているのがこの「惑星」だと思います。
あー・・・なんか、金管とかの話もしたかったんですが・・・
テナーチューバのソロが好きだ、という話とか・・・ああ、なんだか本当にごめんなさい!
またいつかどこかで!
注:今回は別の録音をチョイスしてみました♪ズービン・メータの指揮と解釈もまた興味津々ですがなんといってもカップリング曲がスター・ウォーズだというところがなかなかにくいです!
なにかと運動不足になりやすいのですが・・・でもテニスをやってたことも一応ありますし、ラケットボールも学生時代ちょっとやって好きだったので友達とまたやろう、ということになって。
バドミントンもたまにやるので手&腕が「こっちのラケット」慣れしてなくて・・・もうちょっと強さを取り戻したらスカッシュも試してみたいです!(てこの原理でもっと力がいりますのでね、ラケットが長いと)
本題は例によって音楽のことになりますが・・・
演奏する行為ももちろんものすごく楽しいながら、実はリサイタルやコンサートのプログラムをプランニングするのもまた大好きで。CDで組み合わせる曲なども面白いですね。
創作の中でのコンサートでどんな曲をやるか、というのを考えるのももちろんその楽しみの一部。
こだわりは聞く人と弾く人(振る人含め)どっちにも楽しいプログラムにする、ということです♪
(あと一応ホルンなどに馬鹿みたいに負担が大きいプログラムは避けてます。リアリティも重視!)
よっぽど大きい曲を弾く場合以外(たとえばブリテンの戦争レクイエム、マーラーの交響曲6番など、曲の長さもそうですが奏者への負担、内容の濃さなども合わせての「大きさ」です)は一つのコンサートで複数の曲が弾かれます。
スタンダードなコンサートでは:
1)序曲(またはその他短いスターター曲)
2)協奏曲(コンチェルト。またはその他ソリストがいる曲。ソリストによっては演奏後にアンコールをやることも)
<休憩>
3)交響曲(シンフォニー。その他1時間前後、1時間超の大曲)
・・・で休憩を合わせて大体2時間半・・・くらいですかね?
(注:スタンダード、というのはメル響やユースオケなどメルボルンの様々なクラシックコンサートをもとにしたスタンダードです)
何事でもそうですが、これだけ長いコンサートもまた最初で心を掴むのがものすごく大切。
同時にかなりのプレッシャーを感じているであろう各奏者を一体にしてテンションを上げていかなくてはいけません。
オペラの序曲をオケのコンサートで弾いたり、5分ほどの短い曲を弾いたり、レパートリーは幅広いですが、個人的にいつも「どんな曲でコンサートを始めたら弾く方も聞く方も盛り上がるか?ということが気になって。
あくまでも個人的なチョイスなのですが、トップ5はここらへんじゃないかな~というものを集めてみました:
1) バーンスタイン 「キャンディード」序曲
2) グリンカ 「ルスランとリュドミラ」序曲
3) リムスキー=コルサコフ スペイン奇想曲
4) ショスタコーヴィチ 祝典序曲
5) カバレフスキー 「コラ・ブルニョン」序曲
キャンディードとルスランはどっちもスピード感あり、派手で華やかで、目の覚めるような、注目を引く序曲。
速ければ速いほどエキサイティング(・・・といっちゃあいけないのかもしれませんが)。
そして結構勢いで乗り切れますし(・・・といっちゃあいけないのかもしれませんが、再び)。
弾く方にも聞く方にも人気があり、飽きにくい曲です。
スタンダードなスターター曲でもあるのでリハーサル時間もある程度短縮できたり?
スペイン奇想曲に関してはこれは15分ほどある曲ですがコンサートの初めにはかなりふさわしい曲だと思います。
先ほどいった華やかさや勢い、テンションを上げる力ももちろんですが、オーケストラの様々な楽器がフィーチャーされるソロやアンサンブルが数多くあるので、例えばオーケストラ・クラシック音楽の紹介的なコンサートのオープニングにはもってこいではないかと思いますし、もちろんそれ以外のコンサートも(コンチェルトの規模などにもよりますが)ありだと思います♪
祝典序曲は上記3つと比較するともしかしたら(何回弾いていても)リハーサルに時間がかかる、ちょっと弾く側としてはもしかしたらびびりやすいかもしれない曲です。
でもショスタコーヴィチにしてはほとんどあり得ない軽快・明快さがフレッシュですし(物心つかないころからこの曲を知っていますが、これがショスタコと分かった時はひっくり返るかと思いましたもん!)。
これでコンサートを始めたらテンションはあがりますし度胸もまた据わるかと。
そして最後のカバレフスキー。
曲としてはあんまりそう目立って素晴らしい曲ではないのですがコンサートの最初としては結構きらきら輝くな~と思います。
派手な打楽器パート、えせフランス的な雰囲気、スピード感で、たとえばオールロシアンのコンサートのスターターとかでは同じロシア(ソヴィエト)の祝典序曲よりも適役な場合もあるかと思います。
一応無難なものを5つ選んでみましたが、たとえば照明でいろいろとやってくれるコンサートだと「ツァラトゥストラはかく語りき」(リヒャルト・シュトラウス)で始めるのもものすごくかっこいいですし、「庶民のためのファンファーレ」(コープランド)もまた衝撃的なオープニングでかっこいいですし。
あと金管に極度の負担がかかるプログラムの場合、弦中心の(=金管の体力温存可能な)序曲も例えばモーツァルトの「魔笛」序曲や「フィガロの結婚」序曲などをはじめたくさんあります。
他にも個性派・ひねった、またはケースバイケースで非常的に効果的なスターターなど考えてみたいですね。
(ただその場合実際一つずつコンサートまるまるプランしながらでないといけませんが)
あとはコンチェルト後に持ってかれるアンコールコレクションとか。
一曲勝負するなら(前述ケースですね)どんな曲がいいか、とか。
ライトミュージック(軽いクラシック)で奏者が退屈しないプログラムとか。
他にも結婚式、お葬式などのイベント・行事・その他occasionにふさわしい曲コレクションとか。
なんだかプランニング心が燃えてきました!
今後じっくり考えて(?)ここで語っていきたいと思います♪
今日の一曲: グスタフ・ホルスト 「惑星」より「火星」
惑星はもう3楽章目ですか(冥王星を含めると)。
今日は散々スターター曲のことを話してきたのですが、惑星は先ほどのコンサートで弾かれる曲の種類では
「大曲」(50分前後?)の部類に入ります・・・ですが!
惑星の第1楽章である「火星」のこのオープニングのインパクトの強さを買って、さらにプッシュプッシュしてあえてここで紹介させてもらいます。
まず。
弦楽器とは木製の弓に張ってある馬の毛で弦をこすり音を出す、ということが基本なのですが。
この「火星」のオープニングでは弦楽器全員が弓をひっくり返して、木の部分で弦を叩きます。
これはコル・レーニョという奏法で、よく「乾いた骨の音」を表すのに使います。
弦楽器全員同じリズムをこの奏法で、というのはなかなか珍しく、ものすごく・・・なんというか、もう人間の音じゃないです。ティンパニ+ハープの低音の地鳴りの向こうからなにかがやってくる、そんな印象の恐ろしい音です。
そしてこの曲を支配するリズムがまた独特で。
(ここで試聴できるようです)
この5拍子のリズムがまた不気味で、禍々しく。そして何百回も繰り返される(不穏な静けさの中間部でもこのリズムがばらして使われているほどです)このリズムの呪縛的な性格がたまりません。
楽器の音色、リズム、さらにハーモニー、音型、音量のうねりなどが全て全て禍々しくて。
不穏、不安、暗躍、好戦・・・そういった言葉がぴったりです。
この楽章の副題「戦をもたらす者」にふさわしすぎますね!
実はこの「惑星」は1914年から1916年にかけて書かれていまして。
この時に起こった世界的事件、つまり第一次世界大戦の始まりを意識しているとも言われますし、このころ書かれたストラヴィンスキーの「春の祭典」の影響を受けているとの話もあります。
全体的な雰囲気が聞きやすさはロマン派の音楽とそう変わりないようにも思えますが、それでもいろんな角度からこの20世紀という時代の始まりを濃く反映しているのがこの「惑星」だと思います。
あー・・・なんか、金管とかの話もしたかったんですが・・・
テナーチューバのソロが好きだ、という話とか・・・ああ、なんだか本当にごめんなさい!
またいつかどこかで!
注:今回は別の録音をチョイスしてみました♪ズービン・メータの指揮と解釈もまた興味津々ですがなんといってもカップリング曲がスター・ウォーズだというところがなかなかにくいです!
昨日は国立音楽アカデミー(サウスメルボルンのタウンホールの一角にあります。通ったことはないけれどコンサート会場としてお世話になったことは何回も。不思議な場所です)にマイケルのリサイタルを聴きに行きました。
マイケル、とは・・・
Michael Kieran Harvey、オーストラリアではかなり有名なピアニスト。
(よく誤解があるのですがKieranはミドルネームです。なぜかフルネームで知られています。)
現代音楽、とくにオーストラリアの作曲家の作品を専門・得意としていて自身も作曲家。
いろんなオーストラリアの音楽家と演奏など仕事をして、影響を受けたり、影響を与えたりしているすごい人です。
そしてなんといってもオーストラリア一のメシアン弾きです。
マイケルとの出会いは大学1年のピアノクラスで。
リストの超絶技巧練習曲について話しているときに彼が言ったことがものすごいインパクトして今でも心に残ってます。
「もしも人を殴りたいような気持ちになったら、ピアニストは人を殴らなくとも「マゼッパ」(超絶技巧練習曲第4番)を弾けばいい」
・・・というようなことを言っていたのですが。
その後マイケルの生徒だったPという男の子と友達になり(彼もマイケルの曲を弾いてました)、さらに私の先生もマイケルと友達だという菅家異な事が判明。友達の先生であり、先生の友達、ということで。
そしてその後マイケルがホバート(タスマニア州の州都)に拠点を移し、それにともないPもタスマニアに行き。
私はメシアンを専門にし始め、さらにPといろいろあり・・・
そんなときにマイケルがメルボルンに一時来る、ということでPのはからいと先生に許可を得てマイケルにメシアンのレッスンをしてもらうことになりました。
大学でもクレージー(性格的に、そしてピアノでのすごさ的に両方)だと評判があるマイケル。会ってみると本当に気さくな人で、レッスンの中で鳥の鳴き真似はするわいろいろと楽しくレッスンして、メシアン弾きと認めてもらい。
その後も日本から来た彼の友達の作曲家の女性の名ばかりの通訳をつとめたり、ページをめくったり、彼の演奏を聴きに行ったり、また別のメシアンの曲を見てもらったり・・・
いつしか物理的距離や年齢(誕生日は一日違いですが年齢は今およそ2杯ですもの)を超え直接の友達になっていました。
タスマニアに遊びに行ったときは奥さんとともにご飯につれてってもらったりもしていろいろと可愛がってもらってます。
ちなみにメルボルン大学にも一応なんらかのポジションがあって、それが「Casual Fellow」というポジションらしいんですが(非常勤のフェロー・・・なのかな?)、私の先生が確かにマイケルはCasual Fellow(カジュアルな男性)だからね、と・・・
確かにマイケルを形容するにふさわしい言葉なんですがそのタイミングでそんなだじゃれをぶっこむ先生に脱帽(汗)
Pがいつかいってたのですが、マイケルは「ピアニスト」というよりは「音楽家」、または「表現者」です。
彼が考えていることはピアノの上に限らず。
興味の範囲は本当に政治から環境から哲学から科学から広く深く・・・
作曲にもいろんなコンセプトを取り入れて、自身の作品以外の演奏にも音楽以外の表現形態を取り入れたパフォーマンスをすることが多いです。(これはまた後で)
彼の表現はものすごくパワフル。背丈こそ私とそんなに変わらないんですが桁外れのテクニックと表現の幅とパワフルさ、音楽的な豊かさは圧倒的です。
作曲家の作品がその人を表すならマイケルの思考はどんなに複雑なんだろう、と思います。
無限の色彩に、無限に広がる幾何学的なパッセージ。感情や思考、宇宙などがまるでモザイクになったような音楽・・・
きっと彼は脳と心と音楽がぶっとい線で直結してるんでしょうね。
マイケルはいつだって自分の思うこと、感じることを表現していたいのかな、と思います。さきほどの言葉もそうですが、彼は心になんかあったら理論的にそれを表現しようとする人なんです。
私の鬱のことも知ってるんですが、それと付き合っていく、自分なりに処理できるようなアイディアなどをいろいろと教えてくれたり。Pによると彼は若い頃ずいぶん辛い思いをしたらしいので、私の気持ちにも親身になってくれて、心と脳と理論のつきあいに関しては彼は私にとって師匠です(笑)
私の数エントリー前のメンタルヘルスや表現のあれこれも彼の影響が強いかも???
ともかく自分の「表現」というのが強いので何を弾いてもマイケル色に染まってしまうということはあります。
レパートリーの得意不得意にむらがかなりあるのと、記憶力に多少問題はありますが彼の「声」に合う物を弾かせたら本当に素晴らしいものを生み出す芸術家です。
さて、前置きが長くなってしまいましたが昨日彼のリサイタルで。
「48 Fugues for Frank」という今年初演された(昨日で7回目の演奏でした)彼自身の作品を聴きました。
リサイタルはこの曲を作曲するようにマイケルをそそのかした張本人である詩人Arjun von Caemmererのトークから始まりました。
この曲はフランク・ザッパという作曲家へのオマージュなので、そこのところいろいろの説明がトークの内容で。
小休憩の後に演奏(+スクリーンでvon Caemmererさんのヴィジュアル・ポエトリーの展示)がありました。
私はコンサートに行く前はフランク・ザッパのことは何も知りませんでしたが、こういう形で(トーク、そしてマイケルの音楽を通じて)彼の音楽や考えを知り、学ぶことができてよかったなーと思いました。
ザッパもまた「表現」を追求した人なんだな、と。何を表現して、どう表現して、どこまで表現できるか、を音楽によって突き詰めようとした人。
48 Fugues for Frankもそういった思想を反映しながら、さらに音楽的にもザッパの音楽(そしてザッパが影響を受けた音楽)のエレメントを使い書かれた音楽です。
実際形式はフーガではないんですよね。フーガという音楽にこめられた意味(ちなみに日本語にすると遁走曲)や性格といったものをくみ取った音楽、ということなんだと思います。
まるで脳と無限の宇宙のつながりみたいな、人間の表現が無限に広がる経験をこの演奏で味わいました。
で、コンサートの後にMichael Kieran Harvey Scholarshipの授与がありまして。
なんでもマイケルの知り合いが遺産をマイケルの名を付けた奨学金・賞を作るために残して下さったらしく。
オーストラリアの新しい音楽作りに貢献する、伝統の音楽体制では当てはまらない(私がPhaedrusの言葉でよく使う「カモノハシ」ですね)、伝統的なコンペなどで賞されることがないであろう若い音楽家を賞するためのScholarshipだそうです。
コンサート後の軽食でちょっとばかりマイケルと話しましたがあんまり会えないけれど話せる時間も短く。
(でも初めて会った彼の息子さんとか娘さんとかとちょろっとだけ話しました)
またもうちょっとのんびり話せればいいなあ~と思いながら別れてしまいました。
今回のコンサート、ticketmasterでチケット予約したんですがなんとその特典でこの48 Fugues for FrankのCDがタダでもらえちゃったんです!

マイケルのCDはゆっくりゆっくり集めていて、なるべくサインももらうようにしているので(友達なんですがファンはファンです(笑))
特にマイケルがPeter Cundall(TVで庭関係の番組を持ってる人で、環境活動のなんかでこないだタスマニアで逮捕されてた人です)の語りと共に生録音したメシアンの「鳥のカタログ」(CD3枚組、実際一日3つのコンサートにわけて演奏しました)は私にとって宝物です。
今回のサインは・・・

昨日のコンサートがマイケルの誕生日とあって誕生日仕様でした!
次にマイケルの演奏が聴けるのは来月のPiano Landmarks。
元は私の先生主催の一日4つピアノコンサートの祭典?イベントなのですが、今は私の友達で先生の一番演奏活動的に活発な生徒が主催してます。
先生は朝一のコンサート、そしてマイケルは夜の最後のコンサート・・・らしいです。
あと10月に私の好きな作曲家Thomas Adesがメルボルンに来る際に彼の作品をマイケルが弾く予定なのですが、Ades絡みのもう一つのコンサートは作曲家自作自演、しかも古音楽とまだ私が知らないAdesの作品とのコラボとあってこっちも捨てがたい!
これから3ヶ月じっくり悩んでいきたいと思います。
最後に・・・
マイケルの演奏を聴くなら前述鳥のカタログ、そして同じくメシアンで20のまなざしもお奨めです。
彼の作曲した曲(そして自動的に自演)を聴くならPink Nautilus、またはToccata DNAあたりが割と聞きやすいと思います。
この両曲とも今後の「今日の一曲」で紹介していきたいです!
そして・・・今もこれからもマイケルを尊敬すべき、愛すべき音楽家として、友人として、そして一人の人間として・・・大好きです!
マイケル、とは・・・
Michael Kieran Harvey、オーストラリアではかなり有名なピアニスト。
(よく誤解があるのですがKieranはミドルネームです。なぜかフルネームで知られています。)
現代音楽、とくにオーストラリアの作曲家の作品を専門・得意としていて自身も作曲家。
いろんなオーストラリアの音楽家と演奏など仕事をして、影響を受けたり、影響を与えたりしているすごい人です。
そしてなんといってもオーストラリア一のメシアン弾きです。
マイケルとの出会いは大学1年のピアノクラスで。
リストの超絶技巧練習曲について話しているときに彼が言ったことがものすごいインパクトして今でも心に残ってます。
「もしも人を殴りたいような気持ちになったら、ピアニストは人を殴らなくとも「マゼッパ」(超絶技巧練習曲第4番)を弾けばいい」
・・・というようなことを言っていたのですが。
その後マイケルの生徒だったPという男の子と友達になり(彼もマイケルの曲を弾いてました)、さらに私の先生もマイケルと友達だという菅家異な事が判明。友達の先生であり、先生の友達、ということで。
そしてその後マイケルがホバート(タスマニア州の州都)に拠点を移し、それにともないPもタスマニアに行き。
私はメシアンを専門にし始め、さらにPといろいろあり・・・
そんなときにマイケルがメルボルンに一時来る、ということでPのはからいと先生に許可を得てマイケルにメシアンのレッスンをしてもらうことになりました。
大学でもクレージー(性格的に、そしてピアノでのすごさ的に両方)だと評判があるマイケル。会ってみると本当に気さくな人で、レッスンの中で鳥の鳴き真似はするわいろいろと楽しくレッスンして、メシアン弾きと認めてもらい。
その後も日本から来た彼の友達の作曲家の女性の名ばかりの通訳をつとめたり、ページをめくったり、彼の演奏を聴きに行ったり、また別のメシアンの曲を見てもらったり・・・
いつしか物理的距離や年齢(誕生日は一日違いですが年齢は今およそ2杯ですもの)を超え直接の友達になっていました。
タスマニアに遊びに行ったときは奥さんとともにご飯につれてってもらったりもしていろいろと可愛がってもらってます。
ちなみにメルボルン大学にも一応なんらかのポジションがあって、それが「Casual Fellow」というポジションらしいんですが(非常勤のフェロー・・・なのかな?)、私の先生が確かにマイケルはCasual Fellow(カジュアルな男性)だからね、と・・・
確かにマイケルを形容するにふさわしい言葉なんですがそのタイミングでそんなだじゃれをぶっこむ先生に脱帽(汗)
Pがいつかいってたのですが、マイケルは「ピアニスト」というよりは「音楽家」、または「表現者」です。
彼が考えていることはピアノの上に限らず。
興味の範囲は本当に政治から環境から哲学から科学から広く深く・・・
作曲にもいろんなコンセプトを取り入れて、自身の作品以外の演奏にも音楽以外の表現形態を取り入れたパフォーマンスをすることが多いです。(これはまた後で)
彼の表現はものすごくパワフル。背丈こそ私とそんなに変わらないんですが桁外れのテクニックと表現の幅とパワフルさ、音楽的な豊かさは圧倒的です。
作曲家の作品がその人を表すならマイケルの思考はどんなに複雑なんだろう、と思います。
無限の色彩に、無限に広がる幾何学的なパッセージ。感情や思考、宇宙などがまるでモザイクになったような音楽・・・
きっと彼は脳と心と音楽がぶっとい線で直結してるんでしょうね。
マイケルはいつだって自分の思うこと、感じることを表現していたいのかな、と思います。さきほどの言葉もそうですが、彼は心になんかあったら理論的にそれを表現しようとする人なんです。
私の鬱のことも知ってるんですが、それと付き合っていく、自分なりに処理できるようなアイディアなどをいろいろと教えてくれたり。Pによると彼は若い頃ずいぶん辛い思いをしたらしいので、私の気持ちにも親身になってくれて、心と脳と理論のつきあいに関しては彼は私にとって師匠です(笑)
私の数エントリー前のメンタルヘルスや表現のあれこれも彼の影響が強いかも???
ともかく自分の「表現」というのが強いので何を弾いてもマイケル色に染まってしまうということはあります。
レパートリーの得意不得意にむらがかなりあるのと、記憶力に多少問題はありますが彼の「声」に合う物を弾かせたら本当に素晴らしいものを生み出す芸術家です。
さて、前置きが長くなってしまいましたが昨日彼のリサイタルで。
「48 Fugues for Frank」という今年初演された(昨日で7回目の演奏でした)彼自身の作品を聴きました。
リサイタルはこの曲を作曲するようにマイケルをそそのかした張本人である詩人Arjun von Caemmererのトークから始まりました。
この曲はフランク・ザッパという作曲家へのオマージュなので、そこのところいろいろの説明がトークの内容で。
小休憩の後に演奏(+スクリーンでvon Caemmererさんのヴィジュアル・ポエトリーの展示)がありました。
私はコンサートに行く前はフランク・ザッパのことは何も知りませんでしたが、こういう形で(トーク、そしてマイケルの音楽を通じて)彼の音楽や考えを知り、学ぶことができてよかったなーと思いました。
ザッパもまた「表現」を追求した人なんだな、と。何を表現して、どう表現して、どこまで表現できるか、を音楽によって突き詰めようとした人。
48 Fugues for Frankもそういった思想を反映しながら、さらに音楽的にもザッパの音楽(そしてザッパが影響を受けた音楽)のエレメントを使い書かれた音楽です。
実際形式はフーガではないんですよね。フーガという音楽にこめられた意味(ちなみに日本語にすると遁走曲)や性格といったものをくみ取った音楽、ということなんだと思います。
まるで脳と無限の宇宙のつながりみたいな、人間の表現が無限に広がる経験をこの演奏で味わいました。
で、コンサートの後にMichael Kieran Harvey Scholarshipの授与がありまして。
なんでもマイケルの知り合いが遺産をマイケルの名を付けた奨学金・賞を作るために残して下さったらしく。
オーストラリアの新しい音楽作りに貢献する、伝統の音楽体制では当てはまらない(私がPhaedrusの言葉でよく使う「カモノハシ」ですね)、伝統的なコンペなどで賞されることがないであろう若い音楽家を賞するためのScholarshipだそうです。
コンサート後の軽食でちょっとばかりマイケルと話しましたがあんまり会えないけれど話せる時間も短く。
(でも初めて会った彼の息子さんとか娘さんとかとちょろっとだけ話しました)
またもうちょっとのんびり話せればいいなあ~と思いながら別れてしまいました。
今回のコンサート、ticketmasterでチケット予約したんですがなんとその特典でこの48 Fugues for FrankのCDがタダでもらえちゃったんです!
マイケルのCDはゆっくりゆっくり集めていて、なるべくサインももらうようにしているので(友達なんですがファンはファンです(笑))
特にマイケルがPeter Cundall(TVで庭関係の番組を持ってる人で、環境活動のなんかでこないだタスマニアで逮捕されてた人です)の語りと共に生録音したメシアンの「鳥のカタログ」(CD3枚組、実際一日3つのコンサートにわけて演奏しました)は私にとって宝物です。
今回のサインは・・・
昨日のコンサートがマイケルの誕生日とあって誕生日仕様でした!
次にマイケルの演奏が聴けるのは来月のPiano Landmarks。
元は私の先生主催の一日4つピアノコンサートの祭典?イベントなのですが、今は私の友達で先生の一番演奏活動的に活発な生徒が主催してます。
先生は朝一のコンサート、そしてマイケルは夜の最後のコンサート・・・らしいです。
あと10月に私の好きな作曲家Thomas Adesがメルボルンに来る際に彼の作品をマイケルが弾く予定なのですが、Ades絡みのもう一つのコンサートは作曲家自作自演、しかも古音楽とまだ私が知らないAdesの作品とのコラボとあってこっちも捨てがたい!
これから3ヶ月じっくり悩んでいきたいと思います。
最後に・・・
マイケルの演奏を聴くなら前述鳥のカタログ、そして同じくメシアンで20のまなざしもお奨めです。
彼の作曲した曲(そして自動的に自演)を聴くならPink Nautilus、またはToccata DNAあたりが割と聞きやすいと思います。
この両曲とも今後の「今日の一曲」で紹介していきたいです!
そして・・・今もこれからもマイケルを尊敬すべき、愛すべき音楽家として、友人として、そして一人の人間として・・・大好きです!
