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自分の行動におけるピアノの比重をもうちょっと大きくしたい欲が出てきた今日この頃。
とりあえず当面の目標は:
1)7月中に先生にレッスンをしてもらう(ラヴェルのソナチネ、もしかしたらメシアンのまなざし第15番、プロコフィエフのリゴードン(op.12から)、あわよくばリゲティの練習曲第11番(En Suspens)あたりも?)
2)8月に新しいラヴェルを初めて冬曲をレパートリーに入れる
3)メシアンの「鳥のカタログ」第3巻とリゲティの練習曲第1巻を誕生日プレゼントにもらう
となっています。
もともと弾く曲に関しては(聴く曲と比べても極端に)偏食ですが、大学を卒業してから少しわがままになったような、同時に許容範囲がちょっと広がったような気がします。
大学での課題や演奏することを意識せず曲が選べるようになったので前よりわがままに(=きがねなく現代音楽寄りに)なり好きな曲ばっかり弾いている、というのがあり。そして大学ではみんな課題にバッハの平均律やショパンの練習曲ばっかり弾いていたので在学中はバッハとショパン全般弾く気にならなかったのですが一人でいるとまあトッカータとかフランス組曲なら弾いてもいいかな~という気になったりで。
今は主に新しい曲中心、プラス大学在学中以前に弾いた曲をさらったりしながらやっています。
基本的に初見は苦手ではないですし、今は先ほども言いましたように好きな曲ばっかり弾くので再習得よりは新しく曲を練習するほうが好きですし楽です。むしろ再習得はもともと苦手で。
その理由はというと・・・
弾く曲にはどうも2種類あって。
一つは練習する過程で解釈をじっくり考えてどうやって表現するか、曲に対しての印象や解釈をひとつひとつ計画して、演奏の際に毎回それを再現できるように練習する曲。
もう一つは練習で音とその他楽譜に書かれてることを練習したあと、解釈などはその時の気分で感覚的に、感じたままに表現する曲。
前者には例えばラヴェルの作品やメシアンの「20のまなざし」、後者にはメシアンの「鳥のカタログ」やクラムの「マクロコスモス」があります。
演奏するとなると後者のほうが楽かと思いきや(まあある意味気楽ではありますが)前者はどちらかというと「できる」という確信が持ちやすく、そしてなんといっても後者は再習得がめんどくさい!
その曲を自由にできる、自分の一部のように操れる感覚がどうも忘れられなくて音をさらう練習がものすごくもどかしく感じるんです。音楽と心が呼び合ってるのに指のあたりでコミュニケーションエラーがものすごく起こっている感じ。で、結果指も回ってないのに心に引っ張られ感じたままに弾いてしまって練習にも何にもならないということです。
今の自分が大学時代と比べてピアニストとして総合的にどうなのか、というのはものすごく解らないものなんですが(今度レッスンにいっても先生リアクションが薄いというかわかりにくいというかなにかとわかりにくい人なのでそっちの線からもわからないです)・・・
とりあえずテクニックはまだ劣化したまま、特に左手の指の周りとスタミナはどうにかしなくちゃいけないことはわかっています。
いろいろ気がはやることばっかりなのですが、将来的にどうしても!どうしてもいつでも弾けるようにしたい曲があるのでその長期目標にむかって頑張って行きたいとおもっています。
覚え書き代わりにその「いつでも弾けるようにしたい曲」のリスト:
スクリャービン:練習曲op.42-5
メシアン:「20のまなざし」より第4番、第11番、第12番、第17番
メシアン:「鳥のカタログ」よりモリヒバリ、モリフクロウ、ダイシャクシギ、ニシコウライウグイス
バッハ:トッカータホ短調
ラフマニノフ:練習曲「音の絵」op.39-4, 7, 8
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第16番
ブラームス:2つのラプソディー
ラヴェル:できるだけ多く
プロコフィエフ:悪魔的暗示、アルマンド、ガヴォット
リゲティ:できるもんならできるだけ多く
Koehne:Twilight Rain
武満:雨の木素描II
・・・案外多いですね。こりゃ相当精進しないと。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第1番 第3楽章
いやあマーラーはいいですよね~
第1番はどっぷりはまってない方に一番おすすめです♪なんたって母が好きなものですからハズレはないんですよ(笑)
マーラーはシベリウスに「交響曲は世界のように全てを包括してなければいけない」というようなことを説いたのですが、マーラーの交響曲は実に世界そのもの。
自然や、人とその心、時、そういったものが全て詰まってる(公約通り?)・・・彼の音楽を聴くことは他では味わえない素晴らしい類の(人生)経験です。
自然を肌に感じる第1楽章も、力強く花開く第2楽章も、剣をとって巨大な力に果敢に立ち向かう第4楽章も本当にピカイチなのですが今日は第3楽章を。
第3楽章は・・・一言で言えば「円を描いて連なる雨の中の葬送行進」でしょうか。
ヨーロッパの輪唱メロディーで有名な「フレール・ジャック」(ドイツ語:Bruder Martin)のメロディーをまさにいろんな楽器に輪唱させてぐるぐる、というのがメイン。
最初のティンパニの歩みにのるコントラバスのソロはまたレアもので、なかなか難しいらしいですよ(この手のコントラバスソロって音程の不安定さを買われてキャスティングされたのですが最近はみんなぴしっと決めてしまうんですってね)。
その一人の行進にだんだんと楽器が加わって、いつしか暗い服をまとった誰とも付かない集団の行進になって。その無限な暗さと、そしてものすごく・・・無限な感じが不気味な反面ものすごく心が惹かれます。
ただそれだけでなりたってるわけではありません。
この曲の最近気づいた魅力、というのがこの・・・エキゾチックな感覚が至る所にささやかにちりばめられているところ。
ユダヤ風だったり(じっさいはっきりとユダヤ音楽してるところもあります。マーラーはユダヤ系だったそうですし)、スペイン/中東風(スペイン音楽は中東の影響を大きく受けています)だったり、または正体はわからないけれどちょっぴりセクシーでエキゾチックな、どこか非現実的なフレーバーがあって。
それがまた魅惑的で、心をとらえるようで・・・
で、とらえられたら最後フレール・ジャックの渦に飲み込まれて出られなくなっちゃうんですよ。
でもそれさえも快感になっちゃう、地味ーに中毒的な。
最後の方でメロディーが消えて打楽器の影とティンパニの遠ざかる歩みのところまで来ると「終わらないで!」とちょっぴり思ってしまうことうけあいです。
それもこれもでもマーラーの素晴らしいメロディー構築と楽器使いの賜物、ということもあります。
カノンなんでそれぞれの楽器の音もそれが集まるとどうなるかというのもよくわかりやすいです。(あれ、文が迷走気味・・・)
構築的だけれど、ものすごく感情豊かで同時に感覚的で・・・いろんなところに訴えてくるこの曲。
この楽章だけでも結構楽しめますが、マーラー1番まるまる聞くのをお奨めします。
(他の楽章の紹介もまた後ほどします!)
マーラーは個人的には若い人にものすごく聴いて(そして弾いて)もらいたいのですが年代問わずものすごく素晴らしい音楽です。お近づきになって損は決してしないと強く信じています。たとえそれがこの交響曲でなくとも。
マーラー万歳!(といっても表現しきれないほどいまマーラー愛に満ちてます!)
とりあえず当面の目標は:
1)7月中に先生にレッスンをしてもらう(ラヴェルのソナチネ、もしかしたらメシアンのまなざし第15番、プロコフィエフのリゴードン(op.12から)、あわよくばリゲティの練習曲第11番(En Suspens)あたりも?)
2)8月に新しいラヴェルを初めて冬曲をレパートリーに入れる
3)メシアンの「鳥のカタログ」第3巻とリゲティの練習曲第1巻を誕生日プレゼントにもらう
となっています。
もともと弾く曲に関しては(聴く曲と比べても極端に)偏食ですが、大学を卒業してから少しわがままになったような、同時に許容範囲がちょっと広がったような気がします。
大学での課題や演奏することを意識せず曲が選べるようになったので前よりわがままに(=きがねなく現代音楽寄りに)なり好きな曲ばっかり弾いている、というのがあり。そして大学ではみんな課題にバッハの平均律やショパンの練習曲ばっかり弾いていたので在学中はバッハとショパン全般弾く気にならなかったのですが一人でいるとまあトッカータとかフランス組曲なら弾いてもいいかな~という気になったりで。
今は主に新しい曲中心、プラス大学在学中以前に弾いた曲をさらったりしながらやっています。
基本的に初見は苦手ではないですし、今は先ほども言いましたように好きな曲ばっかり弾くので再習得よりは新しく曲を練習するほうが好きですし楽です。むしろ再習得はもともと苦手で。
その理由はというと・・・
弾く曲にはどうも2種類あって。
一つは練習する過程で解釈をじっくり考えてどうやって表現するか、曲に対しての印象や解釈をひとつひとつ計画して、演奏の際に毎回それを再現できるように練習する曲。
もう一つは練習で音とその他楽譜に書かれてることを練習したあと、解釈などはその時の気分で感覚的に、感じたままに表現する曲。
前者には例えばラヴェルの作品やメシアンの「20のまなざし」、後者にはメシアンの「鳥のカタログ」やクラムの「マクロコスモス」があります。
演奏するとなると後者のほうが楽かと思いきや(まあある意味気楽ではありますが)前者はどちらかというと「できる」という確信が持ちやすく、そしてなんといっても後者は再習得がめんどくさい!
その曲を自由にできる、自分の一部のように操れる感覚がどうも忘れられなくて音をさらう練習がものすごくもどかしく感じるんです。音楽と心が呼び合ってるのに指のあたりでコミュニケーションエラーがものすごく起こっている感じ。で、結果指も回ってないのに心に引っ張られ感じたままに弾いてしまって練習にも何にもならないということです。
今の自分が大学時代と比べてピアニストとして総合的にどうなのか、というのはものすごく解らないものなんですが(今度レッスンにいっても先生リアクションが薄いというかわかりにくいというかなにかとわかりにくい人なのでそっちの線からもわからないです)・・・
とりあえずテクニックはまだ劣化したまま、特に左手の指の周りとスタミナはどうにかしなくちゃいけないことはわかっています。
いろいろ気がはやることばっかりなのですが、将来的にどうしても!どうしてもいつでも弾けるようにしたい曲があるのでその長期目標にむかって頑張って行きたいとおもっています。
覚え書き代わりにその「いつでも弾けるようにしたい曲」のリスト:
スクリャービン:練習曲op.42-5
メシアン:「20のまなざし」より第4番、第11番、第12番、第17番
メシアン:「鳥のカタログ」よりモリヒバリ、モリフクロウ、ダイシャクシギ、ニシコウライウグイス
バッハ:トッカータホ短調
ラフマニノフ:練習曲「音の絵」op.39-4, 7, 8
ショスタコーヴィチ:前奏曲とフーガ第16番
ブラームス:2つのラプソディー
ラヴェル:できるだけ多く
プロコフィエフ:悪魔的暗示、アルマンド、ガヴォット
リゲティ:できるもんならできるだけ多く
Koehne:Twilight Rain
武満:雨の木素描II
・・・案外多いですね。こりゃ相当精進しないと。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第1番 第3楽章
いやあマーラーはいいですよね~
第1番はどっぷりはまってない方に一番おすすめです♪なんたって母が好きなものですからハズレはないんですよ(笑)
マーラーはシベリウスに「交響曲は世界のように全てを包括してなければいけない」というようなことを説いたのですが、マーラーの交響曲は実に世界そのもの。
自然や、人とその心、時、そういったものが全て詰まってる(公約通り?)・・・彼の音楽を聴くことは他では味わえない素晴らしい類の(人生)経験です。
自然を肌に感じる第1楽章も、力強く花開く第2楽章も、剣をとって巨大な力に果敢に立ち向かう第4楽章も本当にピカイチなのですが今日は第3楽章を。
第3楽章は・・・一言で言えば「円を描いて連なる雨の中の葬送行進」でしょうか。
ヨーロッパの輪唱メロディーで有名な「フレール・ジャック」(ドイツ語:Bruder Martin)のメロディーをまさにいろんな楽器に輪唱させてぐるぐる、というのがメイン。
最初のティンパニの歩みにのるコントラバスのソロはまたレアもので、なかなか難しいらしいですよ(この手のコントラバスソロって音程の不安定さを買われてキャスティングされたのですが最近はみんなぴしっと決めてしまうんですってね)。
その一人の行進にだんだんと楽器が加わって、いつしか暗い服をまとった誰とも付かない集団の行進になって。その無限な暗さと、そしてものすごく・・・無限な感じが不気味な反面ものすごく心が惹かれます。
ただそれだけでなりたってるわけではありません。
この曲の最近気づいた魅力、というのがこの・・・エキゾチックな感覚が至る所にささやかにちりばめられているところ。
ユダヤ風だったり(じっさいはっきりとユダヤ音楽してるところもあります。マーラーはユダヤ系だったそうですし)、スペイン/中東風(スペイン音楽は中東の影響を大きく受けています)だったり、または正体はわからないけれどちょっぴりセクシーでエキゾチックな、どこか非現実的なフレーバーがあって。
それがまた魅惑的で、心をとらえるようで・・・
で、とらえられたら最後フレール・ジャックの渦に飲み込まれて出られなくなっちゃうんですよ。
でもそれさえも快感になっちゃう、地味ーに中毒的な。
最後の方でメロディーが消えて打楽器の影とティンパニの遠ざかる歩みのところまで来ると「終わらないで!」とちょっぴり思ってしまうことうけあいです。
それもこれもでもマーラーの素晴らしいメロディー構築と楽器使いの賜物、ということもあります。
カノンなんでそれぞれの楽器の音もそれが集まるとどうなるかというのもよくわかりやすいです。(あれ、文が迷走気味・・・)
構築的だけれど、ものすごく感情豊かで同時に感覚的で・・・いろんなところに訴えてくるこの曲。
この楽章だけでも結構楽しめますが、マーラー1番まるまる聞くのをお奨めします。
(他の楽章の紹介もまた後ほどします!)
マーラーは個人的には若い人にものすごく聴いて(そして弾いて)もらいたいのですが年代問わずものすごく素晴らしい音楽です。お近づきになって損は決してしないと強く信じています。たとえそれがこの交響曲でなくとも。
マーラー万歳!(といっても表現しきれないほどいまマーラー愛に満ちてます!)
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ピアニストは音楽を聴くと自然と指が動くと言いますがそれよりも自然に舌が動いてしまう流 星姫です。こんにちは。
滑舌は全然ですが管楽器奏者でもないのにそういった人と(家族も併せて)つるみまくった結果ダブルタンギングもトリプルタンギングもできるようになってしまった次第であります。
それはさておき本題へ。
いつもオケの様々な楽器のことを知っておきたいと思う中で、どんな楽器が何を得意としていてなにが苦手か、ということをそういった知識の一つとして頭に入れていたいと思います。
ちょっとそういうことを自分なりにまとめてみたいな~と思ったので、お試し企画として、自分で一番経験があるチェロで、「管弦楽におけるチェロの苦手・鬼門」をテーマにちょっと書いてみます。よろしくお願いします。
チェロのソロのなかでもリーダーのみが弾くソロ、前から何人かが弾くソロ、そしてチェロがセクションとして目立つセクションソロがあります。
リーダーのみのソロの鬼門を二つ。(この2つが一番難しい、というわけではないです。あしからず。)
まずはホルストの「惑星」から「金星」。2カ所ほどソロがあるのですが、一つ(後のほう)は音域・音程のコンビネーションがかなり難しいのですが、問題はむしろ前のソロ。
私の元のチェロの先生がいってたのですが、難易度こそもう一つのソロほどではないものの、件のソロの数小節前にオーボエのソロが全く同じフレーズを弾いてて、彼らにとってはお茶の子さいさいのソロなので相当ハードルが上がるんです!聞いている方はあんまり意識しなくともチェロのリーダーにはかなり!プレッシャーがかかる1フレーズです。
もう一つはスッペの「詩人と農夫」序曲からの長いソロ。これもまあ難しい、というわけじゃないんですけど実際弾いたことが良い思い出になっていないんで・・・高校の時のオケだったんですが、あとで録音したのを聞いてみたらものっそ音程が外れてて。自分の演奏でこんなにトラウマになるとは・・・そのMDは一生封印です。
チェロの集団的ソロではもっと顕著に難しいものがあります。
たとえばプロコフィエフのロミジュリの「ロレンス神父とロミオ」でのソロ。チェロのセクションがいくつものパートにも別れてソロを弾くのですが、ちょっと音域的に苦しいこともあり、とりあえずアンサンブルとしてまとめ、美しくするのがものすごーく難しいパートなのです。
似たようなソロにドビュッシーの「海」の第1楽章、あの有名なロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」の冒頭(これは前から5人のソロ)も同じくチェロ同士でそこそこ難しいパートを会わせるのがものすごく難しい、チェロにとっての鬼門です。
あとチェリストの間ではショスタコーヴィチの「祝典序曲」の第2主題(?)のメロディーの難しさは有名です。
曲が速いのもありますが、たとえゆっくりだったって「(真ん中のドのすぐ下の)シ→ミ→ド#(上)」の音程はなかなかとりづらいです。
ここを練習するためにとあるチェリストがチェロと指の間に糸を張って体で覚えるようしてたら、チェリストがいない間に誰かが糸を短くしてしまった、という逸話まであるほどです(ただこれはチャイコの5番の第2楽章、という説もありますが)。
チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」の緊張感あふれるフィナーレセクションの始めは弦楽器全体にとって鬼門です。
なぜなら調が変ホ短調、つまり6つもフラットがあるから!
弦楽器っていうのは(特にバイオリン)楽器の構造上(難しく言えば開放弦の音程上)、シャープの調の方がフラットの調より弾きやすい仕組みになってるのです。
変ホ短調は特に弾きにくい、音程がとりにくく。早いパッセージは苦戦します。
そんななかチェロのパートはまたチェロの広い音域のなかでも高音域に入るちょっと手前の「弾きにくい」セクションで書かれてて。
もどかしいったらありゃしないんですよ(汗)
あと曲が始まっていきなり高音域でぱっと入らなくちゃいけないストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」も本当に胃に悪いです。是非聞いてみて下さい。
音程以外で難しいのはマーラー5番の第2楽章。嵐の中の本当に不気味な静けさを表す延々としたスローでソフトなソロで、弓をゆっくり動かすのでとにかく腕が痛くなりますし、長い間無表情といってもいいくらいの弾き方なので精神的にもけっこうきついです。
そしてこれは全体的な印象なんですがチェリストはいわゆる「後打ち」(Off-beats)が他の楽器の奏者と比べて下手な傾向がある気がするんですよ。
例えばそういった感じのパートが多いホルン奏者やビオリストにとってはSecond Nature、ごく自然なものですが、チェリストはリズム&伴奏よりはメロディー&副メロディーが多く、それを好むためたまーに後打ちに出くわすと多少ならずとも苦戦するみたいです。
こうやってみるとチェロは必ずしも器用な楽器ではないような印象を受けるかもしれませんが、この楽器はもともと許容範囲がかなり広い楽器なので得意なことも一杯あります。
表現力の豊かさはもちろん、ベースラインとしてのしっかりさなどもあり・・・次回この企画ではチェロの得意、そしてチェロという楽器が輝くソロの例を挙げてみたいと思います。(ただそれは思いつくのが難しいんじゃなくて絞り込むのが難しいのでまだまだ時間がかかるかも!)
今回・次回は自分の(一応)専門分野のチェロですが、これが演奏経験なしの楽器となるとどうまとまるでしょうか。楽しみ?です。
今日の一曲: フランツ・リスト ピアノ協奏曲第1番 第3楽章
誤解を招かない様に一応:「第3楽章」は最終楽章ではなく緩徐楽章とフィナーレの間にあるあの短いやつです。
ピアニストとして自分が邪道だと思う主な理由の一つにリストとショパンがそう好きではないことがあります。
決して嫌いでもないんですが、作曲家としてひっくるめてはちょっと・・・例えばショパンだとバラード第4番とか、そういう風に個々の曲で好きなのはちらほらあるんですがね。
そしてリストの曲で数少ない好きな曲が今日の一曲。これも協奏曲全体としてはそう好きじゃないんですけどこの楽章は本当に愛らしいです。
リストは特に日本ではピアノ得意な作曲家として知られていますが(実際スーパーコンサートピアニストでしたしね!)、オーケストラもできるんだぞ!ということがこの楽章の最初のささやかなトライアングルのソロにすべて表れているような気がしてたまらないんです!
この楽章の随所に現れるトライアングルの尖ったキラキラと、ピアノの踊る音符の丸いキラキラの最高の共演で。
降り踊る雨を表すような軽やかなワルツは、同じくリストの「ラ・カンパネラ」をちょっとおとなしくしたような曲想でものすごーく好きです。
ピアノやリストの魅力、そしてそれよりもトライアングルの魅力が知りたいという方(いるんですか!?)、是非是非おすすめです。
追記: リストのピアノ協奏曲が2つあるということは意外と知られていませんが、結構2番は好みが分かれて、この第1番があんまり好きでない人が第2番を好きだということは結構あるみたいなのでそちらも併せて推薦します。(ただし私はまだ第2番とはお近づきになっていませんので詳しいことは知りません・・・すみません)
滑舌は全然ですが管楽器奏者でもないのにそういった人と(家族も併せて)つるみまくった結果ダブルタンギングもトリプルタンギングもできるようになってしまった次第であります。
それはさておき本題へ。
いつもオケの様々な楽器のことを知っておきたいと思う中で、どんな楽器が何を得意としていてなにが苦手か、ということをそういった知識の一つとして頭に入れていたいと思います。
ちょっとそういうことを自分なりにまとめてみたいな~と思ったので、お試し企画として、自分で一番経験があるチェロで、「管弦楽におけるチェロの苦手・鬼門」をテーマにちょっと書いてみます。よろしくお願いします。
チェロのソロのなかでもリーダーのみが弾くソロ、前から何人かが弾くソロ、そしてチェロがセクションとして目立つセクションソロがあります。
リーダーのみのソロの鬼門を二つ。(この2つが一番難しい、というわけではないです。あしからず。)
まずはホルストの「惑星」から「金星」。2カ所ほどソロがあるのですが、一つ(後のほう)は音域・音程のコンビネーションがかなり難しいのですが、問題はむしろ前のソロ。
私の元のチェロの先生がいってたのですが、難易度こそもう一つのソロほどではないものの、件のソロの数小節前にオーボエのソロが全く同じフレーズを弾いてて、彼らにとってはお茶の子さいさいのソロなので相当ハードルが上がるんです!聞いている方はあんまり意識しなくともチェロのリーダーにはかなり!プレッシャーがかかる1フレーズです。
もう一つはスッペの「詩人と農夫」序曲からの長いソロ。これもまあ難しい、というわけじゃないんですけど実際弾いたことが良い思い出になっていないんで・・・高校の時のオケだったんですが、あとで録音したのを聞いてみたらものっそ音程が外れてて。自分の演奏でこんなにトラウマになるとは・・・そのMDは一生封印です。
チェロの集団的ソロではもっと顕著に難しいものがあります。
たとえばプロコフィエフのロミジュリの「ロレンス神父とロミオ」でのソロ。チェロのセクションがいくつものパートにも別れてソロを弾くのですが、ちょっと音域的に苦しいこともあり、とりあえずアンサンブルとしてまとめ、美しくするのがものすごーく難しいパートなのです。
似たようなソロにドビュッシーの「海」の第1楽章、あの有名なロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」の冒頭(これは前から5人のソロ)も同じくチェロ同士でそこそこ難しいパートを会わせるのがものすごく難しい、チェロにとっての鬼門です。
あとチェリストの間ではショスタコーヴィチの「祝典序曲」の第2主題(?)のメロディーの難しさは有名です。
曲が速いのもありますが、たとえゆっくりだったって「(真ん中のドのすぐ下の)シ→ミ→ド#(上)」の音程はなかなかとりづらいです。
ここを練習するためにとあるチェリストがチェロと指の間に糸を張って体で覚えるようしてたら、チェリストがいない間に誰かが糸を短くしてしまった、という逸話まであるほどです(ただこれはチャイコの5番の第2楽章、という説もありますが)。
チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」の緊張感あふれるフィナーレセクションの始めは弦楽器全体にとって鬼門です。
なぜなら調が変ホ短調、つまり6つもフラットがあるから!
弦楽器っていうのは(特にバイオリン)楽器の構造上(難しく言えば開放弦の音程上)、シャープの調の方がフラットの調より弾きやすい仕組みになってるのです。
変ホ短調は特に弾きにくい、音程がとりにくく。早いパッセージは苦戦します。
そんななかチェロのパートはまたチェロの広い音域のなかでも高音域に入るちょっと手前の「弾きにくい」セクションで書かれてて。
もどかしいったらありゃしないんですよ(汗)
あと曲が始まっていきなり高音域でぱっと入らなくちゃいけないストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」も本当に胃に悪いです。是非聞いてみて下さい。
音程以外で難しいのはマーラー5番の第2楽章。嵐の中の本当に不気味な静けさを表す延々としたスローでソフトなソロで、弓をゆっくり動かすのでとにかく腕が痛くなりますし、長い間無表情といってもいいくらいの弾き方なので精神的にもけっこうきついです。
そしてこれは全体的な印象なんですがチェリストはいわゆる「後打ち」(Off-beats)が他の楽器の奏者と比べて下手な傾向がある気がするんですよ。
例えばそういった感じのパートが多いホルン奏者やビオリストにとってはSecond Nature、ごく自然なものですが、チェリストはリズム&伴奏よりはメロディー&副メロディーが多く、それを好むためたまーに後打ちに出くわすと多少ならずとも苦戦するみたいです。
こうやってみるとチェロは必ずしも器用な楽器ではないような印象を受けるかもしれませんが、この楽器はもともと許容範囲がかなり広い楽器なので得意なことも一杯あります。
表現力の豊かさはもちろん、ベースラインとしてのしっかりさなどもあり・・・次回この企画ではチェロの得意、そしてチェロという楽器が輝くソロの例を挙げてみたいと思います。(ただそれは思いつくのが難しいんじゃなくて絞り込むのが難しいのでまだまだ時間がかかるかも!)
今回・次回は自分の(一応)専門分野のチェロですが、これが演奏経験なしの楽器となるとどうまとまるでしょうか。楽しみ?です。
今日の一曲: フランツ・リスト ピアノ協奏曲第1番 第3楽章
誤解を招かない様に一応:「第3楽章」は最終楽章ではなく緩徐楽章とフィナーレの間にあるあの短いやつです。
ピアニストとして自分が邪道だと思う主な理由の一つにリストとショパンがそう好きではないことがあります。
決して嫌いでもないんですが、作曲家としてひっくるめてはちょっと・・・例えばショパンだとバラード第4番とか、そういう風に個々の曲で好きなのはちらほらあるんですがね。
そしてリストの曲で数少ない好きな曲が今日の一曲。これも協奏曲全体としてはそう好きじゃないんですけどこの楽章は本当に愛らしいです。
リストは特に日本ではピアノ得意な作曲家として知られていますが(実際スーパーコンサートピアニストでしたしね!)、オーケストラもできるんだぞ!ということがこの楽章の最初のささやかなトライアングルのソロにすべて表れているような気がしてたまらないんです!
この楽章の随所に現れるトライアングルの尖ったキラキラと、ピアノの踊る音符の丸いキラキラの最高の共演で。
降り踊る雨を表すような軽やかなワルツは、同じくリストの「ラ・カンパネラ」をちょっとおとなしくしたような曲想でものすごーく好きです。
ピアノやリストの魅力、そしてそれよりもトライアングルの魅力が知りたいという方(いるんですか!?)、是非是非おすすめです。
追記: リストのピアノ協奏曲が2つあるということは意外と知られていませんが、結構2番は好みが分かれて、この第1番があんまり好きでない人が第2番を好きだということは結構あるみたいなのでそちらも併せて推薦します。(ただし私はまだ第2番とはお近づきになっていませんので詳しいことは知りません・・・すみません)
梅雨やら夏やらいろいろ日本はごっちゃになっている季節みたいですが(あくまでも当事者ではない私の印象ですが)、メルボルンは今本格的に冬みたいです。
日本は夏はじめじめ、冬は乾燥ですがメルボルンは反対で夏は極度乾燥、冬はどっちかというと湿り気がある気候です。夏は洗濯物があっというまに乾きますが、冬は全くで。ちょっと怠けるといろんなところに貯まります。
あと夏は水不足が深刻なので、冬の降水量が貯水池の水の量にものすごーくものをいいます。
冬はただでも精神の調子が落ちやすく、それに加えて雨となるとダブルでしんどいことも多くあるのですが、とりあえず命の水のため、と思うようにしています。
雨は好きなんですけどね~。
特に冬のしとしととした雨音なんかは好きで。
メルボルンでの冬の気温は最高気温なら10度を切ることはめったにないですし、最低気温は氷点下になることはまずないです。(ただこれは都市部の話で、郊外、とくに外海に面した地域や山岳部などではもっともっと寒くなります!)
都市部では雪は降りませんが、夏ほどではないですけど嵐に雹を伴うこともあります。
落葉樹はもちろん落葉します。一番見事なのが秋のMalvernあたりのDandenong Road。広い道の真ん中のトラム分離帯で、線路の両側の並木の落葉は見事な物です。路線ナンバー5(Malvern - Melbourne Uni)、64(East Brighton - Melbourne Uni)で見れます♪
でもやっぱり気温のおかげか、冬でもなんだかいっぱい花が咲いています。
最近あんまり外に出てないんで実際どんな花が咲いているというのはまた写真付きでまた別の記事にしたいと思ってるんですが(ちょうどあしたお出かけなんで覚えておきます!)・・・
空はグレーでも花はカラフルですので、例えばシティの近くの王立植物園を始めいろんな庭園系観光地は冬でも十分(むしろまた独特な感じで)楽しめます。
メルボルンのカフェもまた冬の楽しみの一つです。
ショッピングしながらちょっとカフェに入って一息、とか友達でカフェに集まって食べたり飲んだり、など。
カフェの中も混み合ったりしますが、外の席も結構たくさん座ってます。
あの傘型のヒーターで暖を取りながら暖かい食べ物と飲み物でゆっくり、という光景はシティのLaneway(小道)に連なるカフェ通りでよく見られます。
この冬私の一番お薦めはチョコレート専門のカフェ。
一番メジャーどころはMax Brenner、そしてKoko Black。スペイン風のチュロスもあるSan Churro、世界的なチョコレートブランドであるLindtもカフェをやってます。
LindtやKoko Blackはチョコレートショップもまた充実してますし、こういった店は外からも見えたりするチョコレートフォンデュもあったり。あー試したい!
そして今年はThe Ageにこんな記事が。
メルボルンでの芸術系展覧の動員数はかなりのものらしいです。
去年はダリ展が州立美術館でありましたし(このおかげか去年の動員数は世界の美術館で20位でした!オーストラリア国内ではトップです)、今年は西洋美術展が州立美術館で、そしてFederation SquareでABBA World、映画監督Tim Burton展、州立博物館でタイタニック展もあるということで動員数がすでにうなぎ登りだとか。
そりゃあBatmobileが展示されたらそれだけでも見にいきたくなるよなあ~(爆)
自分にとっては当たり前のことなので言及しませんでしたがもちろん音楽のコンサートなども多数在りますよ!
ということでアート巡りはメルボルンの冬の主要なアトラクションとしてもいいと思います♪
そして是非是非シティまで足を伸ばしてお店を見たり(ちょうど6月はセールシーズンですしね!)カフェで一服、など・・・どうでしょうか?(笑)
メルボルンの冬で気をつけなければならないことがあることがあるとすればそれは他の季節と同じく「天候が急に変わりやすい」、ということでしょうか。
出かけるときには晴れていても、電車から降りたら雨、なんということもざらにありますし、急に大雨になったり、風が吹いたりなんかはもう起きすぎて驚きようがありません(笑)
実際「おかしいな~調子悪いな~」と思ってたらさっきまで晴れてたはずなのにいつのまにかざーざー雨降ってたりして「結局また雨かよ!」と突っ込みを入れることの多さといったら・・・私だけかもしれませんが。
重ね着、靴の選びかたはもちろん(といってもオージーは別に靴は惜しくないような感じのものを履いてますが・・・たまに冬でもサンダルにTシャツに短パンの人もいます。たまに。)、折りたたみ傘があると便利です。
オージーは多少の雨は気にしないんですが、こういう冬の天候ではちょっとそれじゃすまないような雨も降るので、特に雨を気になさる日本人の方には是非とも。
風雨対策にはちょっとかさばりますが骨が8本のものがタフです♪
私の愛用傘はこのFlat Catのもの。25ドルくらいだったかな?
たたんだ時:

広げた時:

広げるとちょっと派手?ですがかなり愛用してます♪
メルボルンへ来る人、というよりもなによりも自分へのメッセージなんですが多少の寒さや天候の変化にへこたれず、メルボルンのユニークな冬をがんがん楽しんで下さい!
実は結構今冬は郊外に出かける予定(Olindaに再び、そしてWilson's Promontoryへキャンプ?)が入ってるので、これからちょっと楽しみにしている次第です。
メルボルンの冬レポート、また続きます!
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 交響曲第5番 第3楽章
最近紹介している作曲家が偏っているような気がしてたまらないのですが、でもまだまだたくさんストックはありますし、曲はだぶらないようにしてるのでオーケーかなー・・・なんて・・・
さて、前々にも「複数回演奏した曲」としてブログ文中で紹介しましたチャイコの5番。
物心ついたときから知っていて、さらに4回演奏経験がある、なじみは深い曲です。
冷静に評価すれば4番よりは好きですが、でも6番には到底かなわない、そんな交響曲ですが。
(ちなみに個人的に小澤さんのチャイコは好きなのでこの録音をチョイス。ぜひ体が良くなったあかつきにはチャイコを振ってもらいたいものです・・・お早い回復を祈ってます!)
チャイコフスキーの音楽、といえばなんといっても「ワルツ」ですね。
バレエでも、交響曲でも、ピアノ曲でもやたらとワルツを書きます。そしてその多くが「名曲」として有名になっています。
例えば「くるみ割り人形」の「花のワルツ」、「四季」の「12月:クリスマス」、「眠れる森の王女」のワルツ(これはディズニーにも使用されましたね)などがあります。
優雅で、色彩豊かで、思わず心が動く、そしてリズムを取ってしまう、踊りたくなってしまう素敵な曲の数々です。
チャイコフスキーのワルツには秋、冬を連想させる物がおおいですね。もちろん「くるみ割り人形」はクリスマスの話ですし、先ほどの「四季」のもそうです。
「花のワルツ」も個人的な印象ですが、散りゆく花の最後の舞、みたいな感じで。
そしてこの交響曲第5番第3楽章のワルツもまたそんな秋~冬の印象が強いです。
他の楽章のキャラがものすごくたっているがために、ちょっと印象が薄いこの曲ですが、チャイコフスキー、そしてロシア音楽のいつも話しています「素朴さ」とか優雅ななかの「土臭さ」がいい意味で表れています。
そして私は個人的にチャイコフスキーがゲイであるためなのかどうなのかわかりませんが彼の音楽の「女性的なエレメント」がものすごく気に入っていて。
シンプルだけれど繊細で、軽いようでノスタルジックで・・・そんなささやかな秋という季節の舞をこの曲で全て味わうことができると思っています。
ただ一つ言うことが。せっかく繊細なワルツで、しかも交響曲のまっただ中の一楽章なんですからバレエのナンバーのエンディングでポーズを付けるときみたいな終わり方にしなくてもいいと思うんですよ~
ドヴォルザークの「新世界」と並ぶ残念な結びです・・・(苦笑)
音楽で体感温度は変わるものだと思うんですよ。(詳しいことは後日メインで取り上げたいのですが)
でも夏に聞くような(例:フランス・スペイン)音楽は冬にも聴きますが、冬に聞く様な(例:ドイツ・ロシア)音楽は暑苦しくて夏には聞けないんですよ。
なので今日のメイン記事と同じで、冬には冬だけに楽しめる物をちゃんと楽しんでいこう、ということで今日この曲を選ばせてもらいました。
交響曲第5番は総じて素晴らしい曲ですが、季節柄、そして何かと忘れられがちな楽章なので、これを機にこの第3楽書を気にとめていただきたいと思います。
日本は夏はじめじめ、冬は乾燥ですがメルボルンは反対で夏は極度乾燥、冬はどっちかというと湿り気がある気候です。夏は洗濯物があっというまに乾きますが、冬は全くで。ちょっと怠けるといろんなところに貯まります。
あと夏は水不足が深刻なので、冬の降水量が貯水池の水の量にものすごーくものをいいます。
冬はただでも精神の調子が落ちやすく、それに加えて雨となるとダブルでしんどいことも多くあるのですが、とりあえず命の水のため、と思うようにしています。
雨は好きなんですけどね~。
特に冬のしとしととした雨音なんかは好きで。
メルボルンでの冬の気温は最高気温なら10度を切ることはめったにないですし、最低気温は氷点下になることはまずないです。(ただこれは都市部の話で、郊外、とくに外海に面した地域や山岳部などではもっともっと寒くなります!)
都市部では雪は降りませんが、夏ほどではないですけど嵐に雹を伴うこともあります。
落葉樹はもちろん落葉します。一番見事なのが秋のMalvernあたりのDandenong Road。広い道の真ん中のトラム分離帯で、線路の両側の並木の落葉は見事な物です。路線ナンバー5(Malvern - Melbourne Uni)、64(East Brighton - Melbourne Uni)で見れます♪
でもやっぱり気温のおかげか、冬でもなんだかいっぱい花が咲いています。
最近あんまり外に出てないんで実際どんな花が咲いているというのはまた写真付きでまた別の記事にしたいと思ってるんですが(ちょうどあしたお出かけなんで覚えておきます!)・・・
空はグレーでも花はカラフルですので、例えばシティの近くの王立植物園を始めいろんな庭園系観光地は冬でも十分(むしろまた独特な感じで)楽しめます。
メルボルンのカフェもまた冬の楽しみの一つです。
ショッピングしながらちょっとカフェに入って一息、とか友達でカフェに集まって食べたり飲んだり、など。
カフェの中も混み合ったりしますが、外の席も結構たくさん座ってます。
あの傘型のヒーターで暖を取りながら暖かい食べ物と飲み物でゆっくり、という光景はシティのLaneway(小道)に連なるカフェ通りでよく見られます。
この冬私の一番お薦めはチョコレート専門のカフェ。
一番メジャーどころはMax Brenner、そしてKoko Black。スペイン風のチュロスもあるSan Churro、世界的なチョコレートブランドであるLindtもカフェをやってます。
LindtやKoko Blackはチョコレートショップもまた充実してますし、こういった店は外からも見えたりするチョコレートフォンデュもあったり。あー試したい!
そして今年はThe Ageにこんな記事が。
メルボルンでの芸術系展覧の動員数はかなりのものらしいです。
去年はダリ展が州立美術館でありましたし(このおかげか去年の動員数は世界の美術館で20位でした!オーストラリア国内ではトップです)、今年は西洋美術展が州立美術館で、そしてFederation SquareでABBA World、映画監督Tim Burton展、州立博物館でタイタニック展もあるということで動員数がすでにうなぎ登りだとか。
そりゃあBatmobileが展示されたらそれだけでも見にいきたくなるよなあ~(爆)
自分にとっては当たり前のことなので言及しませんでしたがもちろん音楽のコンサートなども多数在りますよ!
ということでアート巡りはメルボルンの冬の主要なアトラクションとしてもいいと思います♪
そして是非是非シティまで足を伸ばしてお店を見たり(ちょうど6月はセールシーズンですしね!)カフェで一服、など・・・どうでしょうか?(笑)
メルボルンの冬で気をつけなければならないことがあることがあるとすればそれは他の季節と同じく「天候が急に変わりやすい」、ということでしょうか。
出かけるときには晴れていても、電車から降りたら雨、なんということもざらにありますし、急に大雨になったり、風が吹いたりなんかはもう起きすぎて驚きようがありません(笑)
実際「おかしいな~調子悪いな~」と思ってたらさっきまで晴れてたはずなのにいつのまにかざーざー雨降ってたりして「結局また雨かよ!」と突っ込みを入れることの多さといったら・・・私だけかもしれませんが。
重ね着、靴の選びかたはもちろん(といってもオージーは別に靴は惜しくないような感じのものを履いてますが・・・たまに冬でもサンダルにTシャツに短パンの人もいます。たまに。)、折りたたみ傘があると便利です。
オージーは多少の雨は気にしないんですが、こういう冬の天候ではちょっとそれじゃすまないような雨も降るので、特に雨を気になさる日本人の方には是非とも。
風雨対策にはちょっとかさばりますが骨が8本のものがタフです♪
私の愛用傘はこのFlat Catのもの。25ドルくらいだったかな?
たたんだ時:
広げた時:
広げるとちょっと派手?ですがかなり愛用してます♪
メルボルンへ来る人、というよりもなによりも自分へのメッセージなんですが多少の寒さや天候の変化にへこたれず、メルボルンのユニークな冬をがんがん楽しんで下さい!
実は結構今冬は郊外に出かける予定(Olindaに再び、そしてWilson's Promontoryへキャンプ?)が入ってるので、これからちょっと楽しみにしている次第です。
メルボルンの冬レポート、また続きます!
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 交響曲第5番 第3楽章
最近紹介している作曲家が偏っているような気がしてたまらないのですが、でもまだまだたくさんストックはありますし、曲はだぶらないようにしてるのでオーケーかなー・・・なんて・・・
さて、前々にも「複数回演奏した曲」としてブログ文中で紹介しましたチャイコの5番。
物心ついたときから知っていて、さらに4回演奏経験がある、なじみは深い曲です。
冷静に評価すれば4番よりは好きですが、でも6番には到底かなわない、そんな交響曲ですが。
(ちなみに個人的に小澤さんのチャイコは好きなのでこの録音をチョイス。ぜひ体が良くなったあかつきにはチャイコを振ってもらいたいものです・・・お早い回復を祈ってます!)
チャイコフスキーの音楽、といえばなんといっても「ワルツ」ですね。
バレエでも、交響曲でも、ピアノ曲でもやたらとワルツを書きます。そしてその多くが「名曲」として有名になっています。
例えば「くるみ割り人形」の「花のワルツ」、「四季」の「12月:クリスマス」、「眠れる森の王女」のワルツ(これはディズニーにも使用されましたね)などがあります。
優雅で、色彩豊かで、思わず心が動く、そしてリズムを取ってしまう、踊りたくなってしまう素敵な曲の数々です。
チャイコフスキーのワルツには秋、冬を連想させる物がおおいですね。もちろん「くるみ割り人形」はクリスマスの話ですし、先ほどの「四季」のもそうです。
「花のワルツ」も個人的な印象ですが、散りゆく花の最後の舞、みたいな感じで。
そしてこの交響曲第5番第3楽章のワルツもまたそんな秋~冬の印象が強いです。
他の楽章のキャラがものすごくたっているがために、ちょっと印象が薄いこの曲ですが、チャイコフスキー、そしてロシア音楽のいつも話しています「素朴さ」とか優雅ななかの「土臭さ」がいい意味で表れています。
そして私は個人的にチャイコフスキーがゲイであるためなのかどうなのかわかりませんが彼の音楽の「女性的なエレメント」がものすごく気に入っていて。
シンプルだけれど繊細で、軽いようでノスタルジックで・・・そんなささやかな秋という季節の舞をこの曲で全て味わうことができると思っています。
ただ一つ言うことが。せっかく繊細なワルツで、しかも交響曲のまっただ中の一楽章なんですからバレエのナンバーのエンディングでポーズを付けるときみたいな終わり方にしなくてもいいと思うんですよ~
ドヴォルザークの「新世界」と並ぶ残念な結びです・・・(苦笑)
音楽で体感温度は変わるものだと思うんですよ。(詳しいことは後日メインで取り上げたいのですが)
でも夏に聞くような(例:フランス・スペイン)音楽は冬にも聴きますが、冬に聞く様な(例:ドイツ・ロシア)音楽は暑苦しくて夏には聞けないんですよ。
なので今日のメイン記事と同じで、冬には冬だけに楽しめる物をちゃんと楽しんでいこう、ということで今日この曲を選ばせてもらいました。
交響曲第5番は総じて素晴らしい曲ですが、季節柄、そして何かと忘れられがちな楽章なので、これを機にこの第3楽書を気にとめていただきたいと思います。
今度の日曜日に親友がBrunswickにある"a minor place"というカフェにブランチ/ランチに行こう、というメールを送ってきたのですが「イ短調(=a minor)!?」と思ってしまった私。どうがんばってもイ短調にしかみえないんですけどねえ。
昨日ツイッターでつぶやいていたことを少し。
自分コンサートなどはよく友達と(大学時代)、または一人で(今)行くのですが、もしも音楽家の人とおつきあいしたらデートにコンサートは行かないだろうな~と。ストーリーでもいくつか音楽家カップルはいますが、どうもコンサートデートはさせたことがないです。
よーく考えてみると実際音楽家同士でコンサートデートという話を聞かないです。もちろん音楽家カップルでコンサートには行きますが、どうも内容・目的がデート、というケースはないようで。
なんでしょうか、コンサートに行くとどうしても他の音楽家にたくさん出くわして、結果語り合いたくなるので・・・恋人同士というよりは音楽家同士のつきあいになってしまうのですかね。
クラシック音楽家の世界は、少なくともメルボルンではずいぶんと小さい世界なのでそのなかでいろんな人間ドラマがちょこちょこあります。(ちょこちょこ(笑))
もちろん音楽家として出会ってつきあい始めたり、つきあって別れる人もいればそのまま結婚して、さらに次世代音楽家を生む人もいます。
うちもプロじゃないですが音楽によって結ばれた音楽家がプロじゃないけど音楽家を生んだ例ですが、もっとすごいところも居ます。その家族は:
父→プロホルン奏者、母→ピアニスト、子供達→4人とも大学で音楽を専攻、4人併せてちょうど弦楽四重奏ができる
・・・という構成になってます。
実際芸術・表現活動は脳の領域においても感情とものすごく密接な関連があることもあり、音楽を共に奏でることでお互いに特別な感情を抱く、というのはもちろんよくありえることで。
ただやっぱり個人の信条などとかもたくさん関わってくるので心のすれ違いや大げんかもまた同じくらいよくあることで。個人の感情+音楽に関わる感情のdouble complicationです。
プロの音楽家でもメシアン夫妻(メシアンは妻・ロリオ女史と演奏する前提で「アーメンの幻影」を書いてます)、ロストロポーヴィチ夫妻、ブリテン&ピアーズ、そしてメル響にも職場結婚?の夫婦が居ます。
あくまでも個人的なデータですが(一応他にもそう思っている友達が何人かがいます)、どうもチェリストとホルン奏者のカップルがメルボルンには多いような気がするんです。
大学時代で夫婦・カップル・元カップル併せて4組、親友同士が1組、親子が2組くらいは居ましたね。
カップルの場合どっちが男でどっちが女、という傾向は特にないんですけど偶然というにはちょっと多いな~なんて友達と話してました。
楽器性格論でも似たもの同士のようでいろいろ反対・・・というかお互いにうまく補える部分がある楽器同士、という感じですからね・・・やっぱり楽器と性格は関係があるんじゃないか、と思ったきっかけでも実はあるんです。
音楽家同士だと話ももちろんある程度は合いますし、音楽が生活の一部なわけなのでライフスタイルのリズムなども合ったりします。なによりもお互いが音楽を愛すること、そして音楽を奏でることの素晴らしさを理解していることが人間同士の心のつながりにまた新たな味を加える・・・んですかね?ちょっとよく解らないことを語ってしまった気がしますが(汗)
でもやっぱり恋人同士で普段の演奏とは関係なくアンサンブルをやったり、こないだ見た「シャネルとストラヴィンスキー」みたいに親子みんなでピアノを囲んで歌ったり弾いたりするのも楽しそうですし、また憧れでもあります。いつか私もあんな風に・・・?
それに関しては本当に「Only time will tell」ですね(笑)
今日の一曲: コリン・マシューズ 「冥王星」、+α
ホルストの有名な「惑星」。
この曲は火星・金星・水星・木星・土星・天王星・海王星の7楽章から成り立っています。
作曲年が1914~1916年ということもあり、(そしてこの曲が天文学ではなく占星学をイメージしていることもあり)1930年に発見された冥王星はこの組曲に入っていません。
(占星術にはちなみに冥王星を含むようにしたものもあれば、そうでないものもあります)
それでホルストの専門家、コリン・マシューズによって書かれたのがこの「冥王星」。
元の最終楽章である海王星の後に演奏されるように書かれています。
ホルストの惑星にはそれぞれ火星=戦をもたらす者、木星=喜びをもたらす者などと副題が付いていますが、マシューズは冥王星に「再生する者」と名付けています。ある意味、こう・・・「回帰」的な感じで。
この曲が「惑星」の一部としてふさわしいかはもう個人の意見なのですが、曲としては(イギリスのオケ音楽としては)それはそれでなかなか素晴らしいものだと私は思います。
チェレスタのパートも美味しいですし(笑)、ちょっと海王星から繋がっているような宇宙的な雰囲気、そして海王星からどれだけ冥王星が天文学的に離れているか、同時に冥王星という「惑星」がいかに異世界かというものが感じられます。
この「冥王星」がホルストの「惑星」とともに収録されているCDはサイモン・ラトル(Sir Simon Rattleですね)が指揮なんですが、彼はこのwikipediaの記事によると惑星に関連した、でも組曲「惑星」の一部ではなく4つの曲の作曲を委託した、という話で。
その4曲が:
1)小惑星4179:トータティス(カイヤ・サーリアホ)
2)オシリスに向かって(マティアス・ピンチャー)
3)ケレス(マーク=アンソニー・タネジ)
4)コマロフの墜落(ブレット・ディーン)
なんですが。
ブレット・ディーンはオーストラリアと縁の深い作曲家なので興味津々なのもありますが、あえてこの曲達を今日選んだのはこのニュースが入ったから♪
オシリス?!あのオシリス!?と思ってついつい舞い上がってしまいました。
「惑星」を一通りマスターしたと思った方、そしてイギリスの現代音楽に興味がある方、そして天文学好きな方には特にオススメの一枚です。
昨日ツイッターでつぶやいていたことを少し。
自分コンサートなどはよく友達と(大学時代)、または一人で(今)行くのですが、もしも音楽家の人とおつきあいしたらデートにコンサートは行かないだろうな~と。ストーリーでもいくつか音楽家カップルはいますが、どうもコンサートデートはさせたことがないです。
よーく考えてみると実際音楽家同士でコンサートデートという話を聞かないです。もちろん音楽家カップルでコンサートには行きますが、どうも内容・目的がデート、というケースはないようで。
なんでしょうか、コンサートに行くとどうしても他の音楽家にたくさん出くわして、結果語り合いたくなるので・・・恋人同士というよりは音楽家同士のつきあいになってしまうのですかね。
クラシック音楽家の世界は、少なくともメルボルンではずいぶんと小さい世界なのでそのなかでいろんな人間ドラマがちょこちょこあります。(ちょこちょこ(笑))
もちろん音楽家として出会ってつきあい始めたり、つきあって別れる人もいればそのまま結婚して、さらに次世代音楽家を生む人もいます。
うちもプロじゃないですが音楽によって結ばれた音楽家がプロじゃないけど音楽家を生んだ例ですが、もっとすごいところも居ます。その家族は:
父→プロホルン奏者、母→ピアニスト、子供達→4人とも大学で音楽を専攻、4人併せてちょうど弦楽四重奏ができる
・・・という構成になってます。
実際芸術・表現活動は脳の領域においても感情とものすごく密接な関連があることもあり、音楽を共に奏でることでお互いに特別な感情を抱く、というのはもちろんよくありえることで。
ただやっぱり個人の信条などとかもたくさん関わってくるので心のすれ違いや大げんかもまた同じくらいよくあることで。個人の感情+音楽に関わる感情のdouble complicationです。
プロの音楽家でもメシアン夫妻(メシアンは妻・ロリオ女史と演奏する前提で「アーメンの幻影」を書いてます)、ロストロポーヴィチ夫妻、ブリテン&ピアーズ、そしてメル響にも職場結婚?の夫婦が居ます。
あくまでも個人的なデータですが(一応他にもそう思っている友達が何人かがいます)、どうもチェリストとホルン奏者のカップルがメルボルンには多いような気がするんです。
大学時代で夫婦・カップル・元カップル併せて4組、親友同士が1組、親子が2組くらいは居ましたね。
カップルの場合どっちが男でどっちが女、という傾向は特にないんですけど偶然というにはちょっと多いな~なんて友達と話してました。
楽器性格論でも似たもの同士のようでいろいろ反対・・・というかお互いにうまく補える部分がある楽器同士、という感じですからね・・・やっぱり楽器と性格は関係があるんじゃないか、と思ったきっかけでも実はあるんです。
音楽家同士だと話ももちろんある程度は合いますし、音楽が生活の一部なわけなのでライフスタイルのリズムなども合ったりします。なによりもお互いが音楽を愛すること、そして音楽を奏でることの素晴らしさを理解していることが人間同士の心のつながりにまた新たな味を加える・・・んですかね?ちょっとよく解らないことを語ってしまった気がしますが(汗)
でもやっぱり恋人同士で普段の演奏とは関係なくアンサンブルをやったり、こないだ見た「シャネルとストラヴィンスキー」みたいに親子みんなでピアノを囲んで歌ったり弾いたりするのも楽しそうですし、また憧れでもあります。いつか私もあんな風に・・・?
それに関しては本当に「Only time will tell」ですね(笑)
今日の一曲: コリン・マシューズ 「冥王星」、+α
ホルストの有名な「惑星」。
この曲は火星・金星・水星・木星・土星・天王星・海王星の7楽章から成り立っています。
作曲年が1914~1916年ということもあり、(そしてこの曲が天文学ではなく占星学をイメージしていることもあり)1930年に発見された冥王星はこの組曲に入っていません。
(占星術にはちなみに冥王星を含むようにしたものもあれば、そうでないものもあります)
それでホルストの専門家、コリン・マシューズによって書かれたのがこの「冥王星」。
元の最終楽章である海王星の後に演奏されるように書かれています。
ホルストの惑星にはそれぞれ火星=戦をもたらす者、木星=喜びをもたらす者などと副題が付いていますが、マシューズは冥王星に「再生する者」と名付けています。ある意味、こう・・・「回帰」的な感じで。
この曲が「惑星」の一部としてふさわしいかはもう個人の意見なのですが、曲としては(イギリスのオケ音楽としては)それはそれでなかなか素晴らしいものだと私は思います。
チェレスタのパートも美味しいですし(笑)、ちょっと海王星から繋がっているような宇宙的な雰囲気、そして海王星からどれだけ冥王星が天文学的に離れているか、同時に冥王星という「惑星」がいかに異世界かというものが感じられます。
この「冥王星」がホルストの「惑星」とともに収録されているCDはサイモン・ラトル(Sir Simon Rattleですね)が指揮なんですが、彼はこのwikipediaの記事によると惑星に関連した、でも組曲「惑星」の一部ではなく4つの曲の作曲を委託した、という話で。
その4曲が:
1)小惑星4179:トータティス(カイヤ・サーリアホ)
2)オシリスに向かって(マティアス・ピンチャー)
3)ケレス(マーク=アンソニー・タネジ)
4)コマロフの墜落(ブレット・ディーン)
なんですが。
ブレット・ディーンはオーストラリアと縁の深い作曲家なので興味津々なのもありますが、あえてこの曲達を今日選んだのはこのニュースが入ったから♪
オシリス?!あのオシリス!?と思ってついつい舞い上がってしまいました。
「惑星」を一通りマスターしたと思った方、そしてイギリスの現代音楽に興味がある方、そして天文学好きな方には特にオススメの一枚です。
今日はピアノにおいてずいぶんと頭が心についていけずまあ大変な、でもまあ面白いことになっていたのですが・・・
メンタルヘルスのことをちゃんと文にできるかはわかりませんがなんとかトライしてみます。
今年で罹患10周年、みたいなことをこのブログでも言ってきましたが、実際問題いつから鬱になったかというのは誰にも解りません。それはまあもちろんそうなのですが、いつ「鬱」という診断を受けたのかもまたあやふやで。
そもそもそのころの自分の状態に関する記憶がずいぶんとあやふやで、「うつの可能性がある」と臨床心理士に言われたのは覚えてるんですけど・・・
まあ診断されたところで状態が変わるわけでもないのですが。
診断、というのはある病気を他の病気から識別し、それによって治療の必要性と方向性を決めるプロセス。
症状を和らげ、回復するためにどんな治療を施したらいいのか決めるために重要です。
精神疾患では患者さんの話を聞いたり、実際に患者さんの様子を見たり、周りの人から徴候を聞いたり、症状のチェックリストや評価基準を用いてどんな病気かを診断します。なので主に自覚的なことを元にするのが他の病気との主な違いです。
前に話した気がしてたまらないんですが、その主観に頼らざるを得ないことからくる難しさの上に精神疾患は病名が違っても似通った症状を持つものが多く、さらに同じ症状がいろんな病気に表れたり、病状が変わると共に病気の種類も変わったり、複数の病気が併存する場合も多いので診断はものすごく難しいんです。
でも正確な診断をしないと、例えば単極のうつと双極性障害では治療を間違えると病状を悪化させかねません。
診断が難しい=自己診断の危険も高いということを追記しておきます。
うつと診断を出したところで、個人や、サブタイプによる症状の違いなどによって治療も変わります。
なのでそれに対応するためにここ数年で日本では「新しいうつの種類」が出てきているらしいのですが。
正直なところその乱立には治療での融通のきかなさが関わっていると思います。どれだけ個人に対応する柔軟な、そして患者さんの状態や心に寄り添った治療ができてないか、ということですね。
脳もいろいろ、性格も色々なのでもちろん表れる症状もそれらの人との関わり方もいろいろなので細かく区分していたらきりがありませんから。
診断はあくまでも回復への第一歩目、のはずです。
病気を特定したあとは患者さん個人に目を向けて、治療方法を共に探り、医師・患者・周りの人の協力で治療を進めていかなければなりません。病名がわかったからといって治療が決まったわけでも治るとわかったわけでもないです。
特に「従来の型にはまらない」鬱などの場合、「Lila」の主人公、Phaedrusの言葉を借りると患者さんはいわゆる「カモノハシ」状態(つまりどこにもあてはまらないこと。精神疾患を抱える人もある種のカモノハシではあるので以後の文に当てはめていただきたいです)で、そういったカモノハシに対して(特に日本やオーストラリアでも田舎の方では)社会の風当たりが強いが故に「診断」を受けて病名が決まったところでその「分類」に落ち着いてしまうのかな~と私は考えています。
病名は避難所ではなく、これから進んでいくためのあくまでもヒントであり方角を示しているにすぎない、という認識がもっと広まるといいのですが。
精神疾患のばあい、病名よりは実際に患者さんに表れている症状それぞれの方が役立つ場合もあります。もちろん症状を治療したところで病気が治るわけではありませんが、でもある程度診断というものにとらわれないでもっと症状とその現れ方に目を向けると患者さんの人となりや、その人にとっての病気の性質が見えてくるのではないか、と過去の経験から思います。
もしも診断が間違っていた場合。
それは必ずしも医者の不手際を示すものではありません。
患者さんが症状を訴えるのがうまく自分でも表現できてなかったり、医者に伝わっていなかったり、それにどうしてもやっぱりお医者さんも他人なのでちょっと・・・その、ごまかしたり、隠したり、強がったり。そういうのもあるじゃないですか(自分自身いまでもたまに・・・なるべく正直にとは心がけていますが)。あといざとなるとどう説明して良いかわからなかったり。そういった理由でも患者さんが悪いとは限りません。
そこは医師も患者も人間です。人間の心を取り扱っているのでいつも理想の形でパーフェクトな所見が下せるとは限らないのです。
先ほども説明したように診断の難しさもあります。そして病気の評価に用いる尺度などにももちろん限界があります。DSMだって万能じゃないですし、今現在だって新版を作るのに多くの人がうーんと悩んでいます。
実際に「こんなテストで何が解るんだ」という声もよく聞きますがはっきり言わせてもらいます。
「じゃああなたはこれ以上正確に診断できるものを作れるんですか?」
もともと数値化できるのか、していいのか解らない「心」という・・・正常も異常も病気も性格も全ての境界があやふやなもの、そしてまだ全然未知な領域である脳の動きをなんとかして分類・診断・評価しようといろんな専門家が頭をひねり、頭を抱え、限界があると知りながら使われているのが今ある尺度で。
最近脳波などが診断に使われるかも?というニュースが入ってきていますが、本当に一刻も早く診断の助けになる、違った形の手段が使われるようになるといいと願っています。
私の診断に関して話を一つ。
私は最初単極性の鬱だといわれていましたが、何年かたってこれは双極性障害のII型、つまり鬱がほとんどでたまに躁までとはいかなくとも「軽躁」と呼ばれる状態になる病気なのではないかと。
ある意味この診断は自分の全ての見方をひっくり返しました。
だって「調子がいいかも」と思ってかなり調子がいい(笑)と思ったときは正常になったんじゃなくて、また違うタイプの異常になってた、ってことなので。
心はそれだけじゃあさすがに折れませんでしたが(もっと心が折れることを経験してきたので)、なんかやっぱり残念ですよね。
でも実際それを注意してみてると「調子が良いとき」と「軽躁」は感じが違うことをだんだんと学びました。でもやっぱり「なんかすごく調子がいいぞ」と思ったときにはまず疑ってかかる癖は直りませんね。軽躁だとはいえ、そういう状態はそれはそれでしんどくなりますし、あとで気分が急降下する場合もありますし。そういったコントロールできないムードスウィングに気をつけるのがこの病気の治療ですから。
まあ悲しい話ではありますが、疑ってかかって損だ、と思ったことはありません。ちょっと冷静に考えてみて本当に調子がよかったらそれはそれで嬉しいので。そのときに改めて手放しで喜びます(笑)
そんなこんなで10年ですよ。
で、なにを基準に10年か、という話は別の日にしましょう。これはまたちょっと慎重に話さなくちゃ行けないものなので。
長々と失礼しました。社会的正義感は薄い方なのではと思うのですが、自分が思い入れのあるエリアは集中的に熱弁する人なもので・・・趣味もしかり。
でもこれだけ強く思うからこそ、なんらかの形でメンタルヘルスの道を歩んで行けたらなあ、と思います。
今日の一曲: セルゲイ・ラフマニノフ 練習曲「音の絵」 op.39-4
今日初見で弾いていた曲・・・というか大学1年の頃に弾いていた曲なのですが。
この「音の絵」作品39番でいうとメジャーどころは3番、5番、そして前に紹介した6番なのですが私が好きなのはこの4番、7番、8番と見事に一つもかぶってません。ビンゴにしたら散々な成績です。
まあそれには驚いていないのですが・・・(茨道はいつものことです)
ラフマニノフは偉大な作曲家のみならず世紀のピアノの巨匠でもあったため、アメリカ渡来後ピアニストとして活動するに当たって自分の作品を演奏することも多かったのです。
時代が時代なので音質はあれなのですが、結構今でも彼の演奏の録音はCDで手に入ります。
私が持ってるCDでは彼はこの練習曲集のうちのいくつかを弾いているのですが、なんと!メジャーどころではないはずのこの第4番が入ってるのです!
全曲録音でなく録音したのに入ってるからには何らかの思い入れがあるのではないか・・・と思いたい!
でもまあマイナーな部類に入る理由も分かります。だって練習曲なのに技巧もあんまり駆使してないですし(でなければ大学1年で私が弾けるはずない)、曲想もちょっと地味。さして目立ったところのないような曲なんですが・・・私はむしろその素朴さに惹かれました。
ロシア特有の素朴さ、そして土臭さ、冷たさと熱さの共生・・・authenticityというかそういったものを感じました。
さらに感情的な音楽を書くことで有名なラフマニノフですが、この練習曲に関してはなんというか・・・理系?メカニカル?
メロディーやハーモニーよりもモチーフの展開や追いかけっこ(演奏する側からするとむしろ隠れん坊)によって作られていて、それがなんか楽しくて。
個人的になんですけど、私がこの曲を好きな以上に、どうやらこの曲が私という人間にぴったり合うような感覚を覚えます。上記の理由もそうですが、なによりもこのフィット感が(一番「好き」なのは第8番だとしても)私をこの曲に幾度も導いてくれるんだと思います。
派手な曲はやっぱり私の性に合うもんではどうやらないみたいですから、ね。(と曲にむけてウィンクしてみる)
まったく曲の紹介になってなかった気もしますが、曲の性質上(メカニカル、地味、さしてめだったハイライトもなし)あまり言葉にできるものではないので・・・ちょっとでも気になった方は、そしてなによりも彼の作品(練習曲、前奏曲、なんでも!)を少しでも知っている方にはちょっと耳を傾けてほしい一曲です。
作曲家本人の演奏をリンクしておきましたので、ぜひ彼の演奏で。
メンタルヘルスのことをちゃんと文にできるかはわかりませんがなんとかトライしてみます。
今年で罹患10周年、みたいなことをこのブログでも言ってきましたが、実際問題いつから鬱になったかというのは誰にも解りません。それはまあもちろんそうなのですが、いつ「鬱」という診断を受けたのかもまたあやふやで。
そもそもそのころの自分の状態に関する記憶がずいぶんとあやふやで、「うつの可能性がある」と臨床心理士に言われたのは覚えてるんですけど・・・
まあ診断されたところで状態が変わるわけでもないのですが。
診断、というのはある病気を他の病気から識別し、それによって治療の必要性と方向性を決めるプロセス。
症状を和らげ、回復するためにどんな治療を施したらいいのか決めるために重要です。
精神疾患では患者さんの話を聞いたり、実際に患者さんの様子を見たり、周りの人から徴候を聞いたり、症状のチェックリストや評価基準を用いてどんな病気かを診断します。なので主に自覚的なことを元にするのが他の病気との主な違いです。
前に話した気がしてたまらないんですが、その主観に頼らざるを得ないことからくる難しさの上に精神疾患は病名が違っても似通った症状を持つものが多く、さらに同じ症状がいろんな病気に表れたり、病状が変わると共に病気の種類も変わったり、複数の病気が併存する場合も多いので診断はものすごく難しいんです。
でも正確な診断をしないと、例えば単極のうつと双極性障害では治療を間違えると病状を悪化させかねません。
診断が難しい=自己診断の危険も高いということを追記しておきます。
うつと診断を出したところで、個人や、サブタイプによる症状の違いなどによって治療も変わります。
なのでそれに対応するためにここ数年で日本では「新しいうつの種類」が出てきているらしいのですが。
正直なところその乱立には治療での融通のきかなさが関わっていると思います。どれだけ個人に対応する柔軟な、そして患者さんの状態や心に寄り添った治療ができてないか、ということですね。
脳もいろいろ、性格も色々なのでもちろん表れる症状もそれらの人との関わり方もいろいろなので細かく区分していたらきりがありませんから。
診断はあくまでも回復への第一歩目、のはずです。
病気を特定したあとは患者さん個人に目を向けて、治療方法を共に探り、医師・患者・周りの人の協力で治療を進めていかなければなりません。病名がわかったからといって治療が決まったわけでも治るとわかったわけでもないです。
特に「従来の型にはまらない」鬱などの場合、「Lila」の主人公、Phaedrusの言葉を借りると患者さんはいわゆる「カモノハシ」状態(つまりどこにもあてはまらないこと。精神疾患を抱える人もある種のカモノハシではあるので以後の文に当てはめていただきたいです)で、そういったカモノハシに対して(特に日本やオーストラリアでも田舎の方では)社会の風当たりが強いが故に「診断」を受けて病名が決まったところでその「分類」に落ち着いてしまうのかな~と私は考えています。
病名は避難所ではなく、これから進んでいくためのあくまでもヒントであり方角を示しているにすぎない、という認識がもっと広まるといいのですが。
精神疾患のばあい、病名よりは実際に患者さんに表れている症状それぞれの方が役立つ場合もあります。もちろん症状を治療したところで病気が治るわけではありませんが、でもある程度診断というものにとらわれないでもっと症状とその現れ方に目を向けると患者さんの人となりや、その人にとっての病気の性質が見えてくるのではないか、と過去の経験から思います。
もしも診断が間違っていた場合。
それは必ずしも医者の不手際を示すものではありません。
患者さんが症状を訴えるのがうまく自分でも表現できてなかったり、医者に伝わっていなかったり、それにどうしてもやっぱりお医者さんも他人なのでちょっと・・・その、ごまかしたり、隠したり、強がったり。そういうのもあるじゃないですか(自分自身いまでもたまに・・・なるべく正直にとは心がけていますが)。あといざとなるとどう説明して良いかわからなかったり。そういった理由でも患者さんが悪いとは限りません。
そこは医師も患者も人間です。人間の心を取り扱っているのでいつも理想の形でパーフェクトな所見が下せるとは限らないのです。
先ほども説明したように診断の難しさもあります。そして病気の評価に用いる尺度などにももちろん限界があります。DSMだって万能じゃないですし、今現在だって新版を作るのに多くの人がうーんと悩んでいます。
実際に「こんなテストで何が解るんだ」という声もよく聞きますがはっきり言わせてもらいます。
「じゃああなたはこれ以上正確に診断できるものを作れるんですか?」
もともと数値化できるのか、していいのか解らない「心」という・・・正常も異常も病気も性格も全ての境界があやふやなもの、そしてまだ全然未知な領域である脳の動きをなんとかして分類・診断・評価しようといろんな専門家が頭をひねり、頭を抱え、限界があると知りながら使われているのが今ある尺度で。
最近脳波などが診断に使われるかも?というニュースが入ってきていますが、本当に一刻も早く診断の助けになる、違った形の手段が使われるようになるといいと願っています。
私の診断に関して話を一つ。
私は最初単極性の鬱だといわれていましたが、何年かたってこれは双極性障害のII型、つまり鬱がほとんどでたまに躁までとはいかなくとも「軽躁」と呼ばれる状態になる病気なのではないかと。
ある意味この診断は自分の全ての見方をひっくり返しました。
だって「調子がいいかも」と思ってかなり調子がいい(笑)と思ったときは正常になったんじゃなくて、また違うタイプの異常になってた、ってことなので。
心はそれだけじゃあさすがに折れませんでしたが(もっと心が折れることを経験してきたので)、なんかやっぱり残念ですよね。
でも実際それを注意してみてると「調子が良いとき」と「軽躁」は感じが違うことをだんだんと学びました。でもやっぱり「なんかすごく調子がいいぞ」と思ったときにはまず疑ってかかる癖は直りませんね。軽躁だとはいえ、そういう状態はそれはそれでしんどくなりますし、あとで気分が急降下する場合もありますし。そういったコントロールできないムードスウィングに気をつけるのがこの病気の治療ですから。
まあ悲しい話ではありますが、疑ってかかって損だ、と思ったことはありません。ちょっと冷静に考えてみて本当に調子がよかったらそれはそれで嬉しいので。そのときに改めて手放しで喜びます(笑)
そんなこんなで10年ですよ。
で、なにを基準に10年か、という話は別の日にしましょう。これはまたちょっと慎重に話さなくちゃ行けないものなので。
長々と失礼しました。社会的正義感は薄い方なのではと思うのですが、自分が思い入れのあるエリアは集中的に熱弁する人なもので・・・趣味もしかり。
でもこれだけ強く思うからこそ、なんらかの形でメンタルヘルスの道を歩んで行けたらなあ、と思います。
今日の一曲: セルゲイ・ラフマニノフ 練習曲「音の絵」 op.39-4
今日初見で弾いていた曲・・・というか大学1年の頃に弾いていた曲なのですが。
この「音の絵」作品39番でいうとメジャーどころは3番、5番、そして前に紹介した6番なのですが私が好きなのはこの4番、7番、8番と見事に一つもかぶってません。ビンゴにしたら散々な成績です。
まあそれには驚いていないのですが・・・(茨道はいつものことです)
ラフマニノフは偉大な作曲家のみならず世紀のピアノの巨匠でもあったため、アメリカ渡来後ピアニストとして活動するに当たって自分の作品を演奏することも多かったのです。
時代が時代なので音質はあれなのですが、結構今でも彼の演奏の録音はCDで手に入ります。
私が持ってるCDでは彼はこの練習曲集のうちのいくつかを弾いているのですが、なんと!メジャーどころではないはずのこの第4番が入ってるのです!
全曲録音でなく録音したのに入ってるからには何らかの思い入れがあるのではないか・・・と思いたい!
でもまあマイナーな部類に入る理由も分かります。だって練習曲なのに技巧もあんまり駆使してないですし(でなければ大学1年で私が弾けるはずない)、曲想もちょっと地味。さして目立ったところのないような曲なんですが・・・私はむしろその素朴さに惹かれました。
ロシア特有の素朴さ、そして土臭さ、冷たさと熱さの共生・・・authenticityというかそういったものを感じました。
さらに感情的な音楽を書くことで有名なラフマニノフですが、この練習曲に関してはなんというか・・・理系?メカニカル?
メロディーやハーモニーよりもモチーフの展開や追いかけっこ(演奏する側からするとむしろ隠れん坊)によって作られていて、それがなんか楽しくて。
個人的になんですけど、私がこの曲を好きな以上に、どうやらこの曲が私という人間にぴったり合うような感覚を覚えます。上記の理由もそうですが、なによりもこのフィット感が(一番「好き」なのは第8番だとしても)私をこの曲に幾度も導いてくれるんだと思います。
派手な曲はやっぱり私の性に合うもんではどうやらないみたいですから、ね。(と曲にむけてウィンクしてみる)
まったく曲の紹介になってなかった気もしますが、曲の性質上(メカニカル、地味、さしてめだったハイライトもなし)あまり言葉にできるものではないので・・・ちょっとでも気になった方は、そしてなによりも彼の作品(練習曲、前奏曲、なんでも!)を少しでも知っている方にはちょっと耳を傾けてほしい一曲です。
作曲家本人の演奏をリンクしておきましたので、ぜひ彼の演奏で。
