×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
まずはちょっとした問題を。
黒くて白くて足が3本に金の靴下一足半、これなーんだ?
それはクラシック音楽に普通に使われる楽器の中で一番演奏人口が多い楽器、ピアノです。
これは私が大学で愛用していた練習室のピアノです。この練習室、わからないかもしれませんが非常に狭くて、他の人があんまり使わない(ピアノ以外の人は使えないくらい狭いです)のでよく住んでました(?)。
ピアノ。正式名はピアノフォルテ。
親戚楽器はいろいろいますが、音の強弱がつけられる、つまりピアノ=弱、フォルテ=強でピアノフォルテ、ということです。
まさに「私はピアノであり、フォルテである」(聖書の「黙示録」をもじってみました)
ちなみに大学時代私のあだ名はピアノでした。ピアノを弾くのとは関係なしにピアノの「小さな、ソフトな」という意味合いがなんとなく私に合ったそうで。
おっと脱線。それまで主流だったハープシコードにはないその特徴がピアノをポピュラーにし、そして生まれてからピアノはずっとずっと進化し続けてきたんです。
例えばベートーベンのころと比べて今は鍵盤の鍵の数も88と増え(ベーゼンドルファー製のピアノはもっとあります)低音から高音まで幅広い音域の音を出すようになり。
そしてメカニズムもずいぶんと変わりました。
他の楽器の奏者の人はピアノは楽器よりも機械に近いって言うんですよ。
まあ極端に言えば声は特別ですし、それに弦楽器なんか手作りで作られ、楽器はだいたい奏者の動きが楽器と一体になって音がでる、という感じですが・・・ピアノはキーを指で押したあとピタゴラスイッチですからね(笑)
でも人間の繊細なところをこれだけ忠実に表現できる機械はどこにもないと思います。
強弱はもちろん、音質、ペダルによる細やかな表現・・・弾く人間さえどう動けばいいかわかっていれば何でもそれに大して忠実に音に反映させる。
キーを押して、それがフェルトで包まれたハンマーを動かし弦を叩く・・・それだけなのになんでこんなに細やかな表現ができるんだろう?と不思議でたまりません。
どんなに技術が進んだ今でも電子ピアノはどうしても本物のピアノに追いつかないのはまるでカメラが人間の目に追いつかないというのと似たようなところがありますね。
そしてピアノの不思議なところがもうひとつ。
ピアノっていうのは鍵盤、ボディ、ハンマー、弦を押さえる仕組みなどが木でできていて、そしてフレーム、弦、ペダルなどが金属でできているんです。
だからピアノは弾き方や曲によって音が木製になったり、金属製に変身したりするんです。
例えばショパン、モーツァルト、ブラームスやベートーベンでは木製の色が強く、バルトークは半々、ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどは金属感が強いです。
そしてピアノは何も鍵盤やペダルのみで弾くものではありません。いつもはハンマーが弦を弾く、撥弦楽器の一種ですが、何もそれに限ったことではなく・・・
前少しお話しましたが特殊奏法ではピアノの中の弦を弾いたり(はじいたり、のほうの弾いたりです)、ピアノの弦を押さえたまま鍵盤を弾いたり、ピアノの弦の上に紙を置いたりしてピアノを弾いたり、ピアノを叩いたり・・・
弦楽器になったり、打楽器になったりもするのです。
(上記の奏法はグランドピアノのみでできるものであり、正しくやらないと(正しくやっても?)ピアノを傷めることになる可能性があるので経験を積んだピアニストにより作曲家がやれっていっているときのみ試すことをお勧めします)
実は今日は久しぶりにその特殊奏法を多用するジョージ・クラムの音楽を弾きました。うちのピアノはアップライトですのでできるだけやりましたが彼は本当にピアノの表現の世界を広げましたねー。
弾くたびに音の範囲が広がり、実験してみることで新しい音が生まれるのがくすぐったいやらうれしいやらで。
ずっとずっとピアノを弾いていきたいです。仕事とか趣味というものを超えて、人間として抱く思い、表現したいことをみんな受け止めて形にしてくれるこの楽器が好きだから。
グランドピアノの前に座ってるとまるでそういう風に包み込んでくれる大きな存在と向き合っているようで・・・機械ではなく、血の通った存在と一緒にいるようで、ものすごく落ち着くんですよ。
いつかはベーゼンドルファーの・・・なんて贅沢は言わずともグランドピアノと一緒に住みたいです。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「マクロコスモス」第2巻 より 「Litany of the Galactic Bells」
ピアノの素晴らしさ、音の幅、クラムの表現方法・・・全部何とかしようとして「マクロコスモス」の中で多少妥協して落ち着いたのがこの曲。
実際弾いたこともあります。マクロコスモス第2巻全12曲の3分の2ほど弾いたはずです。そしてそれらの一つ一つを弾きながらピアノで出せる音、音の間の間についてたくさん、たくさん考えさせられました。
そのうちの「Litany of Galactic Bells」。銀河の鐘の連祷、と訳されているのを見ましたが・・・
まるで超新星の爆発のような輝かしい、幾色の光が夜空に、宇宙に輝いているような和音の爆発。
そして追憶のような遠い歌の上にきらめく遠い星・・・
ほどけたような、切ないベートーベンの「ハンマークラヴィーア」ソナタからの一節。それがまた夢で聞いているようにほどけて行き・・・というようなイメージで私個人は弾いてます。
ペダルを踏んだままにしていることが多いクラムの音楽。ピアノをやっている人なら音がにごるのでは?と思うかもしれませんがその濁ったおとの響きがまた複雑な背景を作り出し、ペダルを踏んだままある種のソフトなタッチで弾くことでこの曲で聞かれるような夢の中のような雰囲気を作り出せるみたいです。
ちなみにマクロコスモス第1巻、第2巻はそれぞれの曲に12星座(プラス献呈した人のイニシャル)が割り当てられてますが、この曲は獅子座。たぶん獅子座流星群をあらわしてるのではないでしょうか。
クラムも金属製の音を得意としているため大音量で高音の玉虫色の不協和音は耳障りに感じるかもしれませんがぜひこの天文ショーに耳を傾けていただきたいです。
最後に。クラムの音楽は大変詳細的に指図が書いてありますが、録音によってその解釈や結果的に出る音にずいぶんと差がでます。上に上げたのは私も所有している録音で、Margaret Leng-Tanという現代音楽専門の女性ピアニストのものです。これが一番オーソドックスっぽいかなーということですが。
あんまりでも聴かないんですよね。やっぱり自分の頭の中、心の中に聴こえる自分の解釈が自分に一番しっくりくるので。
クラムはもっと弾きたいですしもっといろんな人に知ってもらいたいです♪
黒くて白くて足が3本に金の靴下一足半、これなーんだ?
それはクラシック音楽に普通に使われる楽器の中で一番演奏人口が多い楽器、ピアノです。
ピアノ。正式名はピアノフォルテ。
親戚楽器はいろいろいますが、音の強弱がつけられる、つまりピアノ=弱、フォルテ=強でピアノフォルテ、ということです。
まさに「私はピアノであり、フォルテである」(聖書の「黙示録」をもじってみました)
ちなみに大学時代私のあだ名はピアノでした。ピアノを弾くのとは関係なしにピアノの「小さな、ソフトな」という意味合いがなんとなく私に合ったそうで。
おっと脱線。それまで主流だったハープシコードにはないその特徴がピアノをポピュラーにし、そして生まれてからピアノはずっとずっと進化し続けてきたんです。
例えばベートーベンのころと比べて今は鍵盤の鍵の数も88と増え(ベーゼンドルファー製のピアノはもっとあります)低音から高音まで幅広い音域の音を出すようになり。
そしてメカニズムもずいぶんと変わりました。
他の楽器の奏者の人はピアノは楽器よりも機械に近いって言うんですよ。
まあ極端に言えば声は特別ですし、それに弦楽器なんか手作りで作られ、楽器はだいたい奏者の動きが楽器と一体になって音がでる、という感じですが・・・ピアノはキーを指で押したあとピタゴラスイッチですからね(笑)
でも人間の繊細なところをこれだけ忠実に表現できる機械はどこにもないと思います。
強弱はもちろん、音質、ペダルによる細やかな表現・・・弾く人間さえどう動けばいいかわかっていれば何でもそれに大して忠実に音に反映させる。
キーを押して、それがフェルトで包まれたハンマーを動かし弦を叩く・・・それだけなのになんでこんなに細やかな表現ができるんだろう?と不思議でたまりません。
どんなに技術が進んだ今でも電子ピアノはどうしても本物のピアノに追いつかないのはまるでカメラが人間の目に追いつかないというのと似たようなところがありますね。
そしてピアノの不思議なところがもうひとつ。
ピアノっていうのは鍵盤、ボディ、ハンマー、弦を押さえる仕組みなどが木でできていて、そしてフレーム、弦、ペダルなどが金属でできているんです。
だからピアノは弾き方や曲によって音が木製になったり、金属製に変身したりするんです。
例えばショパン、モーツァルト、ブラームスやベートーベンでは木製の色が強く、バルトークは半々、ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどは金属感が強いです。
そしてピアノは何も鍵盤やペダルのみで弾くものではありません。いつもはハンマーが弦を弾く、撥弦楽器の一種ですが、何もそれに限ったことではなく・・・
前少しお話しましたが特殊奏法ではピアノの中の弦を弾いたり(はじいたり、のほうの弾いたりです)、ピアノの弦を押さえたまま鍵盤を弾いたり、ピアノの弦の上に紙を置いたりしてピアノを弾いたり、ピアノを叩いたり・・・
弦楽器になったり、打楽器になったりもするのです。
(上記の奏法はグランドピアノのみでできるものであり、正しくやらないと(正しくやっても?)ピアノを傷めることになる可能性があるので経験を積んだピアニストにより作曲家がやれっていっているときのみ試すことをお勧めします)
実は今日は久しぶりにその特殊奏法を多用するジョージ・クラムの音楽を弾きました。うちのピアノはアップライトですのでできるだけやりましたが彼は本当にピアノの表現の世界を広げましたねー。
弾くたびに音の範囲が広がり、実験してみることで新しい音が生まれるのがくすぐったいやらうれしいやらで。
ずっとずっとピアノを弾いていきたいです。仕事とか趣味というものを超えて、人間として抱く思い、表現したいことをみんな受け止めて形にしてくれるこの楽器が好きだから。
グランドピアノの前に座ってるとまるでそういう風に包み込んでくれる大きな存在と向き合っているようで・・・機械ではなく、血の通った存在と一緒にいるようで、ものすごく落ち着くんですよ。
いつかはベーゼンドルファーの・・・なんて贅沢は言わずともグランドピアノと一緒に住みたいです。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「マクロコスモス」第2巻 より 「Litany of the Galactic Bells」
ピアノの素晴らしさ、音の幅、クラムの表現方法・・・全部何とかしようとして「マクロコスモス」の中で多少妥協して落ち着いたのがこの曲。
実際弾いたこともあります。マクロコスモス第2巻全12曲の3分の2ほど弾いたはずです。そしてそれらの一つ一つを弾きながらピアノで出せる音、音の間の間についてたくさん、たくさん考えさせられました。
そのうちの「Litany of Galactic Bells」。銀河の鐘の連祷、と訳されているのを見ましたが・・・
まるで超新星の爆発のような輝かしい、幾色の光が夜空に、宇宙に輝いているような和音の爆発。
そして追憶のような遠い歌の上にきらめく遠い星・・・
ほどけたような、切ないベートーベンの「ハンマークラヴィーア」ソナタからの一節。それがまた夢で聞いているようにほどけて行き・・・というようなイメージで私個人は弾いてます。
ペダルを踏んだままにしていることが多いクラムの音楽。ピアノをやっている人なら音がにごるのでは?と思うかもしれませんがその濁ったおとの響きがまた複雑な背景を作り出し、ペダルを踏んだままある種のソフトなタッチで弾くことでこの曲で聞かれるような夢の中のような雰囲気を作り出せるみたいです。
ちなみにマクロコスモス第1巻、第2巻はそれぞれの曲に12星座(プラス献呈した人のイニシャル)が割り当てられてますが、この曲は獅子座。たぶん獅子座流星群をあらわしてるのではないでしょうか。
クラムも金属製の音を得意としているため大音量で高音の玉虫色の不協和音は耳障りに感じるかもしれませんがぜひこの天文ショーに耳を傾けていただきたいです。
最後に。クラムの音楽は大変詳細的に指図が書いてありますが、録音によってその解釈や結果的に出る音にずいぶんと差がでます。上に上げたのは私も所有している録音で、Margaret Leng-Tanという現代音楽専門の女性ピアニストのものです。これが一番オーソドックスっぽいかなーということですが。
あんまりでも聴かないんですよね。やっぱり自分の頭の中、心の中に聴こえる自分の解釈が自分に一番しっくりくるので。
クラムはもっと弾きたいですしもっといろんな人に知ってもらいたいです♪
PR
今日はメンタルヘルスの話を少し。
精神関係の、つまり心の病気といってもいろいろ種類があって。
今一番メジャーな精神疾患のリストははDSM-IVでしょうか。あの本にはたいていの精神の障害がリストされています。(大学時代に図書室で借りて読んだことは私もあります。臨床心理士や精神医の部屋に置いてあったりもしますね)
その中でもまた「不安障害」「摂食障害」などの分類があって・・・
ただやっぱり難しいんですよね。結構多数の疾患に(上記分類の境界を越えて)共通の症状があったりなんてことは珍しくないそうですから。
そんななか「気分障害」という分類のなかに鬱は分類されます・・・が、その分類にあてはまる病気はうつだけではありません。中には最近分類が別になった疾患などもあり、やはり症状の種類で分類しているだけあって素人目にも玄人目にも紛らわしい疾患が多いです(それはどの分類でも一緒ですが)。
そのなかでもよく混同されやすいのがうつと双極性障害ですね。それはどちらも今では珍しい病気ではないということと、その症状の類似が主な理由らしいです。
双極性障害は一昔は躁うつ病と呼ばれていた病気で、うつが気分の沈みを症状として主に経験するのに対してうつ状態と躁状態、つまり気分の高揚を両方症状として経験する病気です。
ちなみに双極性障害も今は何タイプかに分かれていて・・・いわば100%うつと100%躁を経験する病状が1型、症状が主にうつで軽い躁(軽躁)をたまに経験するのが2型、そのほかにも躁と鬱を急速に入れ替わりに経験する病状、躁と鬱の複雑に絡み合ったような症状を体験するの、いろいろあります。
(ちなみに躁だけ、という病状もあるようですが双極性障害に含まれるらしいです)
躁状態は異常な気分の高揚、誇大妄想、多動、多弁、睡眠が不必要だと感じるなどの症状が含まれますが・・・
一言で言えば躁状態はちっとも楽しくありません。
躁=多幸感(Euphoria)ではないので。
私の経験したのはいわゆる軽躁(診断は一応双極性障害の2型です)なんですが、これはこれで結構しんどいです。しゃべったらとまらなかったり、頭の中が常に高速でスピンしていたり・・・
気持ちが高揚している、というよりは無理やり吊り上げられているみたいな感じで、いろんなものがその吊り上げられた心についていけず、エネルギーが自分のコントロール外で無駄にどんどん流出していく・・・という感じだった記憶が多いです。
あとこの病気が「双極性」、つまりうつと躁を両極のように扱っていますが(実際文面で見ればうつと躁の症状は正反対に見えます)、実際に体験してみると躁と鬱はとっても似たような感じがします。
特に軽躁状態から鬱になるときにその印象は強いです。それはジェットコースターで頂上から急降下する感じではなく、例えて言うならば時計で59分から00分になるような、それだけ二つの正反対と思われる心の状態にはものすごく近い何かがあるような・・・学術などで説明できるものではありませんが、患者としてぼんやりと、でも確かに感じることです。
1型に見られるような躁は本人にも周りの人にも見て何かが異常だとわかり易く、しかもその症状は他の疾患ではあまり見られない特徴的なものですが、2型で見られるようなそれが弱まったバージョンだとちょっと難しいです。
まず患者本人が「あ、調子がいいな」と思いがちで、周りも同じことを感じがちで・・・本人や周りがそれを「異常」と見なさなければ精神医にももちろん伝わりません。それに・・・やっぱり患者の立場からいうと「調子がいい」んだと思いたいんですよ。あんなに苦しかったのに気持ちが少しでも楽になって、それをまた別の「異常」とは思いたくないじゃないですか。
そんなこんなで見落とされがちな2型の双極性障害。ただ、それが単極性のうつと診断されてしまうことには危険があります。
今第一にうつの治療薬としてつかわれるSSRIという種類の抗うつ剤。これは双極性障害に対して使われると躁の症状を悪化させてしまう恐れがあります。
なので双極性障害はたいていの場合リチウムのような気分安定剤で治療されることが望ましいです。
うつと双極性障害の誤診はかなり多いです。
でもそれは症状がとても似通っていること、そして精神疾患は定期的なアポのセッションで行われる患者の自己申告や周りからの報告、そしてその短い時間での精神医の判断によるものであることが主な理由で、たとえ持続的に日常を観察したとしても、どんなに経験を積んだ医師でもこの2つの病気を識別するのは難しいという話です。
だからこの誤診、そして精神疾患の誤診全般に関しては誰が悪いということもないことが多い、という事情です。
最初はSSRIで、それで悪化したらリチウムを・・・このことに限らず行き当たりばったりのような治療で不安を感じている患者さんも多いかもしれませんが、人間の心を医学として扱うにはまだまだこの時代はトライアル・アンド・エラーで行かなくてはならないのです。
でも薬によって異常などが起きた場合には普段からの医師とのコミュニケーションがものを言います。
たとえばSSRIの投与により躁状態が現れたりした場合は医師に患者自身や周りの人が連絡を取れば理想的にはすぐ薬を投与、そしてこまめにアポをとって様子を見たり別の治療法を考えたりして患者さんになるべく負担をかけない対応ができる、はずですので。
以上えらそうに聞こえたらすみません。まだまだどうやって伝えるか模索中なもので。
そしてここで述べたことは私の経験を基にしています。精神疾患の症状や感じ方、病気の経験、薬への反応などはすべて個々の患者さんによって違います(なので難しいんですが!)。
今日の一曲: レナード・バーンスタイン 「ウェスト・サイド物語」より「Gee, Officer Krupke」
ウェスト・サイド物語はいろんな意味で何度も楽しめるミュージカルでものすごく好きです。
音楽もダンスも良いし、ストーリーもなかなか。「ロミオとジュリエット」のリメイクとしてみるとかなり優れたもののように思われます。
そしてそれが身についたころにその社会的側面がまた奥深い。
ストーリー全体のテーマでもある白人とプエルトリコ人の対立、「America」に見られるアメリカとプエルトリコの当時の状況、そしてこの「Gee, Officer Krupke」にてみられる若者たちの社会的ポジションなど・・・
なんか騒ぎを起こしちゃ裁判所、精神医、ソーシャルワーカーとたらいまわしにされ、どこでも無責任な大人がいい加減なことを言って無駄なレッテルを若者たちに貼っていく・・・まあ、今と通じるところは多いですが。
それをコミカルに(音楽としてはオーバーにコミカルに)歌い上げる若者たち、でもそのメッセージは痛烈です。
歌詞のコミカルでcatchyな感じでつい楽しくなっちゃうけれどはっとさせられますね。
ちなみにウェスト・サイド物語はバーンスタイン自身が「交響的舞曲」としてメドレーのようにひとつのオケ曲にまとめてます。これもいいとこたくさんでお勧め。
ミュージカルも交響的舞曲も私は「スケルツォ」の部分が一番好きです。トニーが見た自由になる夢(だったかな?)の音楽です。
あとミュージカルでは「Tonight」のアンサンブルが作曲的にも舞台的にも秀逸ですね。それから「Boy Like That」やもちろん「マンボ」(これは交響的舞曲でも奏者が「マンボ!」といって盛り上がる!)も好きです。
要するに好きなものばっかりです!
精神関係の、つまり心の病気といってもいろいろ種類があって。
今一番メジャーな精神疾患のリストははDSM-IVでしょうか。あの本にはたいていの精神の障害がリストされています。(大学時代に図書室で借りて読んだことは私もあります。臨床心理士や精神医の部屋に置いてあったりもしますね)
その中でもまた「不安障害」「摂食障害」などの分類があって・・・
ただやっぱり難しいんですよね。結構多数の疾患に(上記分類の境界を越えて)共通の症状があったりなんてことは珍しくないそうですから。
そんななか「気分障害」という分類のなかに鬱は分類されます・・・が、その分類にあてはまる病気はうつだけではありません。中には最近分類が別になった疾患などもあり、やはり症状の種類で分類しているだけあって素人目にも玄人目にも紛らわしい疾患が多いです(それはどの分類でも一緒ですが)。
そのなかでもよく混同されやすいのがうつと双極性障害ですね。それはどちらも今では珍しい病気ではないということと、その症状の類似が主な理由らしいです。
双極性障害は一昔は躁うつ病と呼ばれていた病気で、うつが気分の沈みを症状として主に経験するのに対してうつ状態と躁状態、つまり気分の高揚を両方症状として経験する病気です。
ちなみに双極性障害も今は何タイプかに分かれていて・・・いわば100%うつと100%躁を経験する病状が1型、症状が主にうつで軽い躁(軽躁)をたまに経験するのが2型、そのほかにも躁と鬱を急速に入れ替わりに経験する病状、躁と鬱の複雑に絡み合ったような症状を体験するの、いろいろあります。
(ちなみに躁だけ、という病状もあるようですが双極性障害に含まれるらしいです)
躁状態は異常な気分の高揚、誇大妄想、多動、多弁、睡眠が不必要だと感じるなどの症状が含まれますが・・・
一言で言えば躁状態はちっとも楽しくありません。
躁=多幸感(Euphoria)ではないので。
私の経験したのはいわゆる軽躁(診断は一応双極性障害の2型です)なんですが、これはこれで結構しんどいです。しゃべったらとまらなかったり、頭の中が常に高速でスピンしていたり・・・
気持ちが高揚している、というよりは無理やり吊り上げられているみたいな感じで、いろんなものがその吊り上げられた心についていけず、エネルギーが自分のコントロール外で無駄にどんどん流出していく・・・という感じだった記憶が多いです。
あとこの病気が「双極性」、つまりうつと躁を両極のように扱っていますが(実際文面で見ればうつと躁の症状は正反対に見えます)、実際に体験してみると躁と鬱はとっても似たような感じがします。
特に軽躁状態から鬱になるときにその印象は強いです。それはジェットコースターで頂上から急降下する感じではなく、例えて言うならば時計で59分から00分になるような、それだけ二つの正反対と思われる心の状態にはものすごく近い何かがあるような・・・学術などで説明できるものではありませんが、患者としてぼんやりと、でも確かに感じることです。
1型に見られるような躁は本人にも周りの人にも見て何かが異常だとわかり易く、しかもその症状は他の疾患ではあまり見られない特徴的なものですが、2型で見られるようなそれが弱まったバージョンだとちょっと難しいです。
まず患者本人が「あ、調子がいいな」と思いがちで、周りも同じことを感じがちで・・・本人や周りがそれを「異常」と見なさなければ精神医にももちろん伝わりません。それに・・・やっぱり患者の立場からいうと「調子がいい」んだと思いたいんですよ。あんなに苦しかったのに気持ちが少しでも楽になって、それをまた別の「異常」とは思いたくないじゃないですか。
そんなこんなで見落とされがちな2型の双極性障害。ただ、それが単極性のうつと診断されてしまうことには危険があります。
今第一にうつの治療薬としてつかわれるSSRIという種類の抗うつ剤。これは双極性障害に対して使われると躁の症状を悪化させてしまう恐れがあります。
なので双極性障害はたいていの場合リチウムのような気分安定剤で治療されることが望ましいです。
うつと双極性障害の誤診はかなり多いです。
でもそれは症状がとても似通っていること、そして精神疾患は定期的なアポのセッションで行われる患者の自己申告や周りからの報告、そしてその短い時間での精神医の判断によるものであることが主な理由で、たとえ持続的に日常を観察したとしても、どんなに経験を積んだ医師でもこの2つの病気を識別するのは難しいという話です。
だからこの誤診、そして精神疾患の誤診全般に関しては誰が悪いということもないことが多い、という事情です。
最初はSSRIで、それで悪化したらリチウムを・・・このことに限らず行き当たりばったりのような治療で不安を感じている患者さんも多いかもしれませんが、人間の心を医学として扱うにはまだまだこの時代はトライアル・アンド・エラーで行かなくてはならないのです。
でも薬によって異常などが起きた場合には普段からの医師とのコミュニケーションがものを言います。
たとえばSSRIの投与により躁状態が現れたりした場合は医師に患者自身や周りの人が連絡を取れば理想的にはすぐ薬を投与、そしてこまめにアポをとって様子を見たり別の治療法を考えたりして患者さんになるべく負担をかけない対応ができる、はずですので。
以上えらそうに聞こえたらすみません。まだまだどうやって伝えるか模索中なもので。
そしてここで述べたことは私の経験を基にしています。精神疾患の症状や感じ方、病気の経験、薬への反応などはすべて個々の患者さんによって違います(なので難しいんですが!)。
今日の一曲: レナード・バーンスタイン 「ウェスト・サイド物語」より「Gee, Officer Krupke」
ウェスト・サイド物語はいろんな意味で何度も楽しめるミュージカルでものすごく好きです。
音楽もダンスも良いし、ストーリーもなかなか。「ロミオとジュリエット」のリメイクとしてみるとかなり優れたもののように思われます。
そしてそれが身についたころにその社会的側面がまた奥深い。
ストーリー全体のテーマでもある白人とプエルトリコ人の対立、「America」に見られるアメリカとプエルトリコの当時の状況、そしてこの「Gee, Officer Krupke」にてみられる若者たちの社会的ポジションなど・・・
なんか騒ぎを起こしちゃ裁判所、精神医、ソーシャルワーカーとたらいまわしにされ、どこでも無責任な大人がいい加減なことを言って無駄なレッテルを若者たちに貼っていく・・・まあ、今と通じるところは多いですが。
それをコミカルに(音楽としてはオーバーにコミカルに)歌い上げる若者たち、でもそのメッセージは痛烈です。
歌詞のコミカルでcatchyな感じでつい楽しくなっちゃうけれどはっとさせられますね。
ちなみにウェスト・サイド物語はバーンスタイン自身が「交響的舞曲」としてメドレーのようにひとつのオケ曲にまとめてます。これもいいとこたくさんでお勧め。
ミュージカルも交響的舞曲も私は「スケルツォ」の部分が一番好きです。トニーが見た自由になる夢(だったかな?)の音楽です。
あとミュージカルでは「Tonight」のアンサンブルが作曲的にも舞台的にも秀逸ですね。それから「Boy Like That」やもちろん「マンボ」(これは交響的舞曲でも奏者が「マンボ!」といって盛り上がる!)も好きです。
要するに好きなものばっかりです!
人生80年・・・と格好つけても始まりませんね。
それに今から話すことのほとんどは人の寿命がもっと短かった時代のこと。
人が生涯を通して変わるように、作曲家によって創られた音楽も変わっていきます。
短命と思われるモーツァルトだって初期(といっても彼の場合はスタートがずいぶん早かったですが)と晩年(といっても享年は35歳)を比べるとそこそこ変化は聞き取れます。
もしかしたらクラシックをまったく知らない人でも最早期と最晩期の作品を聞き比べてもらったらどっちがどっちかわかるのでは?と思ってます。
音楽から感じ取れる「感じ」は必ずしも音楽的なものとは限らないので。
若いころの音楽が魅力的なのは作曲家がいろんなところで冒険や実験してるなーってのが伝わってくるときですね。スケールがでかかったり、自分で弾くのを想定して技巧を凝らしてみたり、楽器や音の限界を追求してみたり、内に有り余るパワーを表現してみたくなったり。そして自分のスタイルというかを追求し稀に迷走するのもこの時期ならでは。
バルトークの初期の粗暴さとかパワーとかいいですね。あとプロコフィエフなんかものすごーく不協和音をたくさん使ってすごい前衛的な曲とか書いてました。ストラヴィンスキーも初期は巨大なオーケストラを用いてて。彼らは後に新古典主義に傾いてもっと洗練された、いろいろそぎ落とした音楽を書いたんですけど、この若気の至り、っていうのがものすごく魅力的です。
反対にシェーンベルクとかシュトラウスとか前衛的な音楽を書いたドイツの作曲家たちのあまり知られてない若いころの作品を見てみると驚くほどブラームス的(ばりばりドイツロマン派)だったりしますね。あー若いころは傾倒してたんだなーでもみんな旅立ってったんだなーと思うとなんかほほえましかったり残念だったり。
フランスでもドビュッシーが同じような経緯をたどってます。
あとショパンが8歳のときに作曲したポロネーズを弾いたことがありますが、あれは8歳にしてはものすごく成熟してる、しっかりしてる曲でびっくりしました。よっぽど(笑)しっかりしてある意味ませてた子供だったんでしょうね。
私はでもどっちかというと晩年の音楽に惹かれます。
なんかものすごく悟った、道を究めた、余計なものをそぎおとした感があって若いころの曲が聞いててエキサイティングなら晩年の曲はエキサイティングな曲でも落ち着く何かがあるようで。
16歳で書いたピアノ四重奏曲からその暗さの片鱗を存分に見せていた闇に取り付かれた作曲家・マーラーの最後のいくつかの交響曲は光を見据えてるようなところがありますし、若いころからソヴィエト政府に反発していたショスタコーヴィチも晩年の作品ではどこかそれを含めて(まあ政府も多少はスターリンの死で変わってましたが)いろいろ受け入れているような、悟っているような感じで。
クラシック音楽史で一番豹変したのはおそらくスクリャービンではないでしょうか。ロシアの作曲家だった彼は最初はショパンにも似たピアノのロマン主義の象徴みたいな曲を書いたけれどどっかで神秘主義に傾倒してまったくわけのわからない音楽(といっても過言ではない)を書くようになってしまったという。あまりにも表現が個人的過ぎてついてける人が晩年にもなるとほとんどいなくて、むしろどんなスタイルでもない自分の道を行ってしまったという。
私が好きなのは最最晩年の曲たち。作曲家が死にどう向き合うか、そして死の訪れを感じ取っているのがどう音楽に現れるかは私の好奇心の一大テーマです。こないだ語ったとおり死臭のする音楽に惹かれるもので。
マーラーの交響曲第9番の最終楽章、ショスタコーヴィチのビオラソナタや弦楽四重奏第15番、メシアンの四重協奏曲、そしてモーツァルトのレクイエム・・・最後の曲(やそれに近いもの)はものすごく特別な何かがあります。
そうそう、作曲家は晩年にビオラ曲を書くことが多いですね。ショスタコーヴィチ、バルトーク、シューマン、ブラームス・・・これはビオラになにかあるのか、それともただ単にそこでやっとビオラに手が回ったからなのか・・・
作曲家によっては短命なため40代、50代の作品というものが存在しない人もいます(モーツァルト、シューベルトなど)。こういう人たちは長生きしたらどんな「晩年の音楽」をかいたんだろうと思うとすこし残念なような気もします。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 四重協奏曲(コンセール・ア・キャトル) 第2楽章
ある人が最後に書いた曲を「白鳥の歌」と言うそうですがこれはまさにメシアンの白鳥の歌。
その中でも第2楽章は現代音楽が苦手という人でも楽しめる美しい曲です。
メシアンは敬虔なカトリック信者で、生涯パリのサン・トリニテ教会でオルガニストを務めました。
彼の音楽はすべて神のため、そして無神論者の私でもメシアンの音楽には天国があると思います。
この楽章にもそんなある一種の天国があるような気がします。ピアノ、フルート、オーボエ、チェロといったソロ楽器たちの掛け合いが本当にこの世のものではないようで。
ちなみにこの曲、メシアン自身は最終楽章である第4楽章の途中で亡くなってしまって、奥さんのロリオ夫人が彼の愛弟子であったジョージ・ベンジャミンの手を借りて完成させたものです。(つまりメシアン自身は実際の演奏を聞いていません)
なんかものすごくほほえましい話なんですが、第4楽章を聴いてるとある時点から「おや?これはメシアンと違う?」というところになるのがやっぱりメシアンの音楽の存在の特別さを感じますね。
それに今から話すことのほとんどは人の寿命がもっと短かった時代のこと。
人が生涯を通して変わるように、作曲家によって創られた音楽も変わっていきます。
短命と思われるモーツァルトだって初期(といっても彼の場合はスタートがずいぶん早かったですが)と晩年(といっても享年は35歳)を比べるとそこそこ変化は聞き取れます。
もしかしたらクラシックをまったく知らない人でも最早期と最晩期の作品を聞き比べてもらったらどっちがどっちかわかるのでは?と思ってます。
音楽から感じ取れる「感じ」は必ずしも音楽的なものとは限らないので。
若いころの音楽が魅力的なのは作曲家がいろんなところで冒険や実験してるなーってのが伝わってくるときですね。スケールがでかかったり、自分で弾くのを想定して技巧を凝らしてみたり、楽器や音の限界を追求してみたり、内に有り余るパワーを表現してみたくなったり。そして自分のスタイルというかを追求し稀に迷走するのもこの時期ならでは。
バルトークの初期の粗暴さとかパワーとかいいですね。あとプロコフィエフなんかものすごーく不協和音をたくさん使ってすごい前衛的な曲とか書いてました。ストラヴィンスキーも初期は巨大なオーケストラを用いてて。彼らは後に新古典主義に傾いてもっと洗練された、いろいろそぎ落とした音楽を書いたんですけど、この若気の至り、っていうのがものすごく魅力的です。
反対にシェーンベルクとかシュトラウスとか前衛的な音楽を書いたドイツの作曲家たちのあまり知られてない若いころの作品を見てみると驚くほどブラームス的(ばりばりドイツロマン派)だったりしますね。あー若いころは傾倒してたんだなーでもみんな旅立ってったんだなーと思うとなんかほほえましかったり残念だったり。
フランスでもドビュッシーが同じような経緯をたどってます。
あとショパンが8歳のときに作曲したポロネーズを弾いたことがありますが、あれは8歳にしてはものすごく成熟してる、しっかりしてる曲でびっくりしました。よっぽど(笑)しっかりしてある意味ませてた子供だったんでしょうね。
私はでもどっちかというと晩年の音楽に惹かれます。
なんかものすごく悟った、道を究めた、余計なものをそぎおとした感があって若いころの曲が聞いててエキサイティングなら晩年の曲はエキサイティングな曲でも落ち着く何かがあるようで。
16歳で書いたピアノ四重奏曲からその暗さの片鱗を存分に見せていた闇に取り付かれた作曲家・マーラーの最後のいくつかの交響曲は光を見据えてるようなところがありますし、若いころからソヴィエト政府に反発していたショスタコーヴィチも晩年の作品ではどこかそれを含めて(まあ政府も多少はスターリンの死で変わってましたが)いろいろ受け入れているような、悟っているような感じで。
クラシック音楽史で一番豹変したのはおそらくスクリャービンではないでしょうか。ロシアの作曲家だった彼は最初はショパンにも似たピアノのロマン主義の象徴みたいな曲を書いたけれどどっかで神秘主義に傾倒してまったくわけのわからない音楽(といっても過言ではない)を書くようになってしまったという。あまりにも表現が個人的過ぎてついてける人が晩年にもなるとほとんどいなくて、むしろどんなスタイルでもない自分の道を行ってしまったという。
私が好きなのは最最晩年の曲たち。作曲家が死にどう向き合うか、そして死の訪れを感じ取っているのがどう音楽に現れるかは私の好奇心の一大テーマです。こないだ語ったとおり死臭のする音楽に惹かれるもので。
マーラーの交響曲第9番の最終楽章、ショスタコーヴィチのビオラソナタや弦楽四重奏第15番、メシアンの四重協奏曲、そしてモーツァルトのレクイエム・・・最後の曲(やそれに近いもの)はものすごく特別な何かがあります。
そうそう、作曲家は晩年にビオラ曲を書くことが多いですね。ショスタコーヴィチ、バルトーク、シューマン、ブラームス・・・これはビオラになにかあるのか、それともただ単にそこでやっとビオラに手が回ったからなのか・・・
作曲家によっては短命なため40代、50代の作品というものが存在しない人もいます(モーツァルト、シューベルトなど)。こういう人たちは長生きしたらどんな「晩年の音楽」をかいたんだろうと思うとすこし残念なような気もします。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 四重協奏曲(コンセール・ア・キャトル) 第2楽章
ある人が最後に書いた曲を「白鳥の歌」と言うそうですがこれはまさにメシアンの白鳥の歌。
その中でも第2楽章は現代音楽が苦手という人でも楽しめる美しい曲です。
メシアンは敬虔なカトリック信者で、生涯パリのサン・トリニテ教会でオルガニストを務めました。
彼の音楽はすべて神のため、そして無神論者の私でもメシアンの音楽には天国があると思います。
この楽章にもそんなある一種の天国があるような気がします。ピアノ、フルート、オーボエ、チェロといったソロ楽器たちの掛け合いが本当にこの世のものではないようで。
ちなみにこの曲、メシアン自身は最終楽章である第4楽章の途中で亡くなってしまって、奥さんのロリオ夫人が彼の愛弟子であったジョージ・ベンジャミンの手を借りて完成させたものです。(つまりメシアン自身は実際の演奏を聞いていません)
なんかものすごくほほえましい話なんですが、第4楽章を聴いてるとある時点から「おや?これはメシアンと違う?」というところになるのがやっぱりメシアンの音楽の存在の特別さを感じますね。
本題に入る前に・・・
今日はシティに出かけていきました。ほとんどいろんな店をみてまわったり写真を撮ったりのんびりしてましたが昨日話しましたサウスバンクにいくとなにやら賑やか。毎週日曜日のマーケットにしては時間がおそいなあ、と思いながら行ってみるとFood and Wine Festivalの出し物でいっぱい。
出し物といってもワインの
テイスティングのテントやらテーブルがほとんどで、行く人来る人みんなほろ酔いだったり?
ちなみに左手にある丸い建物がコンサートホールです。ここにはよくお世話になりました。

サウスバンクのレストランやカフェは昼下がりのいつもどおり賑やか。私もメルボルン一と思われるジェラート屋さんでプリン味のジェラートをいただきました。
Tutto Beneというこの写真の2階にあるイタリアンレストランの付属ジェラート屋です。
そうこうして歩いているとストリートパフォーマンスを見るささやかな人だかりが。行ってみたらその技術、そしてなによりも話術に惹かれて最後まで見てしまいました。話術・・・というか次々でるはユーモアと下ネタあふれた(!)トーク。
笑ったり拍手したりしながらものすごく楽しんで見れました。
写真はこちら。結構観客を招いてのパフォーマンスもやってました:
ナイフジャグリング、一輪車のほかにもテニスラケットを通り抜けたりファイアージャグリングもやっていました。
写真の演技が一番大掛かりで、観客からヘルパーを募ったところ韓国人のお姉さん、レバノン人の父娘、そしてキャンベラから来たというほろ酔いで真っ赤なおじさんが参加。パフォーマーがカナダ出身ということでなんかものすごく多国籍なパフォーマンスになりました。
ものすごく楽しかったです。出かけてよかった!
さて。
メルボルンはどこにいっても酒が飲めるぞ~♪・・・じゃなくて、本当にたくさん飲み飲みスポットがあります。
レストランで食事とともにワインやビールを飲んだり、ローカルのパブでテレビでスポーツ観戦したりビリヤードをしたりしながらオージーが飲むのを観察したり、クラブで踊ったり飲んだり、バーでバンドの演奏を聞きながら飲んだり。
こないだ行ったアイリッシュ・パブ、P.J. O'Briens (サウスバンク)はアイリッシュパブとあってギネスビールとアイリッシュ食などが売りで、しかも内装がまるでファンタジー映画やゲームで見るような酒場のようで、アイルランド移民の生活に使われた道具や、楽器やなんかもあります。個室のようになってるところも「Poet's Corner」とか書いてあったりして個室でゆっくり・・・なんてこともしたくなります。
そういえばアイリッシュパブはトイレのサインもあちらの言葉でかかれてて・・・Mnaが女性、Firが男性ですので間違いなきよう。
そしてここのパブは先日話しましたようにオイスターが超のつくほどおすすめです。
同じくサウスバンク、先ほどのメルボルンコンサートホールから進んですぐ、のQuay West というホテルにJarrah というバーがあります。
ここは私が大学行ってたときはメルボルン交響楽団の御用達のバーとしても知られてました。ホテルのバーなので静かで、外のエリアもカフェっぽく。
カクテルも頼めばどうやらあるみたいですし、今日のスペシャルにいい掘り出し物なカクテルがあるみたいです。
コンサート後にちょっとお疲れな音楽家たちがBGMなどに煩わされずにわいわいできるところで・・・
あとホテルなんでトイレがきれいです(笑)(またトイレの話?)
なんかワインとかビールとかの話でなくてカクテルの話ばっかりになってすみません。たいていこういうところではスピリッツかカクテルなので・・・(ワインは食事のときに)
カクテルつながりで次のバーへ。
シティから北のFitzroyもさまざまなバーがある地域ですが、その中で私のお気に入りはPolly Bar。
実を言うとシガーバーでもあり、そういったものもたしなむことができますがなんといってもカクテルの種類の多さ。
サイトのDrinksのなかのメニューを見るとスピリッツの種類の多さも、カクテルのすごさもわかると思います。
ちょっと珍しめのアブサンが注文できて、伝統的な火を付けるのみ方も体験できたりして・・・
久しく行ってませんがまた行ってカクテルの冒険をしてみたいです。
最後はまたちょっと変わったセッティングで。
先ほどのコンサートホールをシティと反対方向(南)に少し行くと、シアターと美術館の間にすこし開けたスペースがあります。
年によっては夏にここにSpiegeltentなるものが来て設置したテントのなかで一時期いろんなパフォーマンスをやったりします。そしてその周りのエリアは外飲みバーと化するのです。
ここもまたオケのあとの打ち上げで夏場は使われます。なんたってメルボルンの夏は夜でもいい心地であったかく。飲むなら開放的に外で!という気持ちになるもんですから。
ドリンク等は普通のバーですがその開放感と季節限定感が特別です♪
このほかにもメルボルンでは楽しく飲めるロケーションがたくさん。是非是非体験してもらいたいです・・・といいたいけれどまず自分がもっと体験したいですね!
今日の一曲: レイフ・ヴォーン=ウィリアムス 交響曲第6番 第3楽章
これはむしろクラシックをちょっと知っている人のため・・・かもしれませんね。
ヴォーン=ウィリアムスは「グリーンスリーブスの幻想曲」で知られるように有名な曲はだいたい牧歌的な、弦楽器中心の良くも悪くも美しい曲が多く。
ヴォーン=ウィリアムスは同じような曲しか書けない、みたいな印象を私も昔持っていました。
ただヴォーン=ウィリアムスはばりばり現代音楽でエネルギッシュな面もあるんです。
その代表例がこちら。この交響曲全体的に彼としては斬新な感じの曲想ですが、それをよく象徴してるのが第3楽章のスケルツォ。
重々しい感じのあるミリタリーマーチのようなスケルツォ、激しさ、荒々しさにイギリス独特の軽やかさと繊細さがあって・・・
で、なによりもすごい!と思ったのはサクソフォンのソロがあるところです。
当時サクソフォンを使ったのは主にフランスの作曲家(またはフランスに影響を受けたロシアの作曲家)で、それとはまた違う存在感がこの楽章にはあって。
あの音色とソロにははっとします。
ヴォーン=ウィリアムスはこないだの雑学王でちらと写ったんですがどうやらイギリスの切手になってるらしいです。あーなんか欲しいです!
今日はシティに出かけていきました。ほとんどいろんな店をみてまわったり写真を撮ったりのんびりしてましたが昨日話しましたサウスバンクにいくとなにやら賑やか。毎週日曜日のマーケットにしては時間がおそいなあ、と思いながら行ってみるとFood and Wine Festivalの出し物でいっぱい。
出し物といってもワインの
ちなみに左手にある丸い建物がコンサートホールです。ここにはよくお世話になりました。
サウスバンクのレストランやカフェは昼下がりのいつもどおり賑やか。私もメルボルン一と思われるジェラート屋さんでプリン味のジェラートをいただきました。
Tutto Beneというこの写真の2階にあるイタリアンレストランの付属ジェラート屋です。
そうこうして歩いているとストリートパフォーマンスを見るささやかな人だかりが。行ってみたらその技術、そしてなによりも話術に惹かれて最後まで見てしまいました。話術・・・というか次々でるはユーモアと下ネタあふれた(!)トーク。
笑ったり拍手したりしながらものすごく楽しんで見れました。
写真はこちら。結構観客を招いてのパフォーマンスもやってました:
写真の演技が一番大掛かりで、観客からヘルパーを募ったところ韓国人のお姉さん、レバノン人の父娘、そしてキャンベラから来たというほろ酔いで真っ赤なおじさんが参加。パフォーマーがカナダ出身ということでなんかものすごく多国籍なパフォーマンスになりました。
ものすごく楽しかったです。出かけてよかった!
さて。
メルボルンはどこにいっても酒が飲めるぞ~♪・・・じゃなくて、本当にたくさん飲み飲みスポットがあります。
レストランで食事とともにワインやビールを飲んだり、ローカルのパブでテレビでスポーツ観戦したりビリヤードをしたりしながらオージーが飲むのを観察したり、クラブで踊ったり飲んだり、バーでバンドの演奏を聞きながら飲んだり。
こないだ行ったアイリッシュ・パブ、P.J. O'Briens (サウスバンク)はアイリッシュパブとあってギネスビールとアイリッシュ食などが売りで、しかも内装がまるでファンタジー映画やゲームで見るような酒場のようで、アイルランド移民の生活に使われた道具や、楽器やなんかもあります。個室のようになってるところも「Poet's Corner」とか書いてあったりして個室でゆっくり・・・なんてこともしたくなります。
そういえばアイリッシュパブはトイレのサインもあちらの言葉でかかれてて・・・Mnaが女性、Firが男性ですので間違いなきよう。
そしてここのパブは先日話しましたようにオイスターが超のつくほどおすすめです。
同じくサウスバンク、先ほどのメルボルンコンサートホールから進んですぐ、のQuay West というホテルにJarrah というバーがあります。
カクテルも頼めばどうやらあるみたいですし、今日のスペシャルにいい掘り出し物なカクテルがあるみたいです。
コンサート後にちょっとお疲れな音楽家たちがBGMなどに煩わされずにわいわいできるところで・・・
あとホテルなんでトイレがきれいです(笑)(またトイレの話?)
なんかワインとかビールとかの話でなくてカクテルの話ばっかりになってすみません。たいていこういうところではスピリッツかカクテルなので・・・(ワインは食事のときに)
カクテルつながりで次のバーへ。
シティから北のFitzroyもさまざまなバーがある地域ですが、その中で私のお気に入りはPolly Bar。
実を言うとシガーバーでもあり、そういったものもたしなむことができますがなんといってもカクテルの種類の多さ。
サイトのDrinksのなかのメニューを見るとスピリッツの種類の多さも、カクテルのすごさもわかると思います。
ちょっと珍しめのアブサンが注文できて、伝統的な火を付けるのみ方も体験できたりして・・・
久しく行ってませんがまた行ってカクテルの冒険をしてみたいです。
最後はまたちょっと変わったセッティングで。
先ほどのコンサートホールをシティと反対方向(南)に少し行くと、シアターと美術館の間にすこし開けたスペースがあります。
年によっては夏にここにSpiegeltentなるものが来て設置したテントのなかで一時期いろんなパフォーマンスをやったりします。そしてその周りのエリアは外飲みバーと化するのです。
ここもまたオケのあとの打ち上げで夏場は使われます。なんたってメルボルンの夏は夜でもいい心地であったかく。飲むなら開放的に外で!という気持ちになるもんですから。
ドリンク等は普通のバーですがその開放感と季節限定感が特別です♪
このほかにもメルボルンでは楽しく飲めるロケーションがたくさん。是非是非体験してもらいたいです・・・といいたいけれどまず自分がもっと体験したいですね!
今日の一曲: レイフ・ヴォーン=ウィリアムス 交響曲第6番 第3楽章
これはむしろクラシックをちょっと知っている人のため・・・かもしれませんね。
ヴォーン=ウィリアムスは「グリーンスリーブスの幻想曲」で知られるように有名な曲はだいたい牧歌的な、弦楽器中心の良くも悪くも美しい曲が多く。
ヴォーン=ウィリアムスは同じような曲しか書けない、みたいな印象を私も昔持っていました。
ただヴォーン=ウィリアムスはばりばり現代音楽でエネルギッシュな面もあるんです。
その代表例がこちら。この交響曲全体的に彼としては斬新な感じの曲想ですが、それをよく象徴してるのが第3楽章のスケルツォ。
重々しい感じのあるミリタリーマーチのようなスケルツォ、激しさ、荒々しさにイギリス独特の軽やかさと繊細さがあって・・・
で、なによりもすごい!と思ったのはサクソフォンのソロがあるところです。
当時サクソフォンを使ったのは主にフランスの作曲家(またはフランスに影響を受けたロシアの作曲家)で、それとはまた違う存在感がこの楽章にはあって。
あの音色とソロにははっとします。
ヴォーン=ウィリアムスはこないだの雑学王でちらと写ったんですがどうやらイギリスの切手になってるらしいです。あーなんか欲しいです!
創作の話のような、音楽の話のような、メルボルン観光の話のような。
今まで書いてきた、書きかけてきた、そしてこれから書こうかなと思っているストーリーの多くにおいてサウスバンクとその500m周辺ほどの地域はよくストーリーでロケーションとして使われてます。
Google Mapでのサウスバンクはこちら。
結構長い間暖めてたアイディアも新しいアイディアも自然と、あんまり意識することもなかったんですがどうやらあそこらへんでキャラを動かすのがなかなか心地いいようで・・・ちょっとそのことについて考えてみました。
理由のひとつはきっとサウスバンクを含むエリアがメルボルンを象徴するような、イメージしやすいエリアだからということかもしれません。
Flinders Street StationやSt Paul's教会のような昔からの建物、Federation SquareやEureka Towerのような新しい建物が混在していて、新旧トラムも通っていますし、観光名所も先ほどの例のように多く・・・観光地の宣伝ではないんですがイメージのしやすさとローカルにとっての懐かしさというか親しみというか。
それに実際に行ってみたりするのにも便利なところですし。
ただEureka Towerはもろ観光地なのとあと新しいのでまだ扱ってないんですよね・・・そこらへんアイディアが思い浮かぶといいな、と思ってます。
あとはレストラン系統もたくさんあるのに使ってないんですよね・・・勿体無い。
もうひとつの理由は私のストーリーがオーケストラ活動を多く扱っていることがあると思います。
そこら辺のエリアにはメルボルン・コンサート・ホール(現 Hamer Hall)、メルボルン・タウン・ホール、BMW Edge、ヴィクトリア芸大、Iwaki Auditoriumなどクラシック音楽のリハーサル、コンサート、合宿にゆかりの深い施設が集まっています。
さらにコンサートがあれば打ち上げもある、ということで・・・だいたい打ち上げはコンサート会場の近場です。ちょっと思い出してみただけで4つ飲み場があります。オケコンサートの打ち上げは自分にとって数々の大切な楽しい思い出の宝庫だったので打ち上げのシーンはいくら書いても書き足りません。
あとは・・・やっぱり好きだからでしょうか。サウスバンクというエリアはもちろん、メルボルンという町が好きだ!というのを表現しようとするとメルボルンとその文化がある意味凝縮されたようなサウスバンクのエリアでキャラを動かしたい、ということになるのかもしれません。
そして歩いても、食べても、飲んでも、演奏しても、見ても、トラムに乗っても楽しめるサウスバンクは書くのも行くのも楽しいので。
さて、打ち上げ場所の話がでたところで明日はメルボルンの飲み場所の話をしたいと思います。
今日の一曲: P.D.Q Bach 「Schleptet」
バッハと言っても3大Bの一人で知られる大バッハとは関係はありません。
これはピーター・シックリーという作曲家がジョーク音楽を書くときに使う偽名。一応設定としてはバッハのできの悪い息子だとか(Wikipediaの項目参照)。
Schleptetは7人のアンサンブル+指揮者のちょっぴりまじめで奇想天外なパフォーマンス。
クラシックを知らない人でもずっこけるような、格調なんて窓の外、なユーモア100%のPDQならではの楽曲です。
あまりネタばれはしませんが、たとえばなんか誰かの弾いてるパートがどこかおかしかったり、最初のほうでホルン奏者が酸欠になって倒れたり(というパフォーマンス)、指揮者がなんかおかしいことをしていたり。
馬鹿馬鹿しさの頂点のなかでもまた最高の種類の馬鹿馬鹿しさだと思います。けっこうこれはききますよー。私の場合一日は笑って暮らせます(笑)
一応生演奏は見たことありますが、楽譜を見たことがないのでどの演奏でどこまでが楽譜に指示があるのかどこからがアドリブなのかはわかりません。いえることはたいていアドリブが混じっている、ということです。
一番面白いと思われるのは作曲者による演奏ですがこれは動画がアップされているので是非。
一番の見所は最終楽章ですので是非最後まで聞いてくださいね。
今まで書いてきた、書きかけてきた、そしてこれから書こうかなと思っているストーリーの多くにおいてサウスバンクとその500m周辺ほどの地域はよくストーリーでロケーションとして使われてます。
Google Mapでのサウスバンクはこちら。
結構長い間暖めてたアイディアも新しいアイディアも自然と、あんまり意識することもなかったんですがどうやらあそこらへんでキャラを動かすのがなかなか心地いいようで・・・ちょっとそのことについて考えてみました。
理由のひとつはきっとサウスバンクを含むエリアがメルボルンを象徴するような、イメージしやすいエリアだからということかもしれません。
Flinders Street StationやSt Paul's教会のような昔からの建物、Federation SquareやEureka Towerのような新しい建物が混在していて、新旧トラムも通っていますし、観光名所も先ほどの例のように多く・・・観光地の宣伝ではないんですがイメージのしやすさとローカルにとっての懐かしさというか親しみというか。
それに実際に行ってみたりするのにも便利なところですし。
ただEureka Towerはもろ観光地なのとあと新しいのでまだ扱ってないんですよね・・・そこらへんアイディアが思い浮かぶといいな、と思ってます。
あとはレストラン系統もたくさんあるのに使ってないんですよね・・・勿体無い。
もうひとつの理由は私のストーリーがオーケストラ活動を多く扱っていることがあると思います。
そこら辺のエリアにはメルボルン・コンサート・ホール(現 Hamer Hall)、メルボルン・タウン・ホール、BMW Edge、ヴィクトリア芸大、Iwaki Auditoriumなどクラシック音楽のリハーサル、コンサート、合宿にゆかりの深い施設が集まっています。
さらにコンサートがあれば打ち上げもある、ということで・・・だいたい打ち上げはコンサート会場の近場です。ちょっと思い出してみただけで4つ飲み場があります。オケコンサートの打ち上げは自分にとって数々の大切な楽しい思い出の宝庫だったので打ち上げのシーンはいくら書いても書き足りません。
あとは・・・やっぱり好きだからでしょうか。サウスバンクというエリアはもちろん、メルボルンという町が好きだ!というのを表現しようとするとメルボルンとその文化がある意味凝縮されたようなサウスバンクのエリアでキャラを動かしたい、ということになるのかもしれません。
そして歩いても、食べても、飲んでも、演奏しても、見ても、トラムに乗っても楽しめるサウスバンクは書くのも行くのも楽しいので。
さて、打ち上げ場所の話がでたところで明日はメルボルンの飲み場所の話をしたいと思います。
今日の一曲: P.D.Q Bach 「Schleptet」
バッハと言っても3大Bの一人で知られる大バッハとは関係はありません。
これはピーター・シックリーという作曲家がジョーク音楽を書くときに使う偽名。一応設定としてはバッハのできの悪い息子だとか(Wikipediaの項目参照)。
Schleptetは7人のアンサンブル+指揮者のちょっぴりまじめで奇想天外なパフォーマンス。
クラシックを知らない人でもずっこけるような、格調なんて窓の外、なユーモア100%のPDQならではの楽曲です。
あまりネタばれはしませんが、たとえばなんか誰かの弾いてるパートがどこかおかしかったり、最初のほうでホルン奏者が酸欠になって倒れたり(というパフォーマンス)、指揮者がなんかおかしいことをしていたり。
馬鹿馬鹿しさの頂点のなかでもまた最高の種類の馬鹿馬鹿しさだと思います。けっこうこれはききますよー。私の場合一日は笑って暮らせます(笑)
一応生演奏は見たことありますが、楽譜を見たことがないのでどの演奏でどこまでが楽譜に指示があるのかどこからがアドリブなのかはわかりません。いえることはたいていアドリブが混じっている、ということです。
一番面白いと思われるのは作曲者による演奏ですがこれは動画がアップされているので是非。
一番の見所は最終楽章ですので是非最後まで聞いてくださいね。
