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音楽をやっていて、いつでもなるべく好きな曲が多い方がいいな~と思うのですが。
ソロで弾いたり、オケで弾いたり、伴奏したり、はたまた聴いたり・・・音楽とふれあう方法はもう色々とあるのですが、そのなかでも私にとって一番確実に関わった音楽を好きになる触れあい方があります。
それは意外と思えるかもしれませんが「譜めくり」です。
自分で自分が弾いてる分には楽譜のページをめくるのはだいっきらいで。
暗譜するのも自然とページめくりが難しい場所や、ページをめくった後のセクションからで。
ラヴェルのとある曲に関してはページめくりが特に難しいところがあって、そのページが見事に根本からちぎれたりで。
そういうところは大体の場合はページのコピーをとって別の場所でめくれるようにしているのですが。
だからといって楽譜がデジタル化しちゃうのもなんか違う気がします。見にくそうですし。
気軽に鉛筆で書き込んだり消したりもそうですし、スクロールできちゃうと暗譜するときに「楽譜のどこにあるか」で頭の中で浮かべることができなくなりますしね。
他の人にページをめくってもらうのもまた別の問題があって。ただ単にちょっぴり人間不信で自分のことは自分でやりたい気質が災いしてちょっとページをめくってもらうのに気後れしてしまいます。
でも他のピアニストの譜めくりをするのは大好きです。
特に伴奏や室内楽、そしてコンチェルトをピアノで伴奏する場合で、ピアニストが座ってるちょっと左斜め後ろにちょこんと座って、ページをめくるときになったらすっと立ってページをめくってあげる。
これで少しお小遣いも稼げる場合もある、ちょっとしたお仕事ですが、曲によってはピアニストにとって大切な人です、譜めくりさんは。
ちなみに譜めくりは本番前に頼まれることもあれば、1,2回リハーサルをするときもあり。
だいたいピアノ弾きがピアノ弾きのためにやることが多いですね。
で、こうやって譜めくりしていると大抵めくった曲は好きになるんです。
私が譜めくりで好きになった曲は例えばラヴェルのピアノ協奏曲(ト長調)、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番、チャイコフスキーのピアノ三重奏などがあります。
どうして譜めくりで曲が好きになるかというといくつかの理由があります。
1つは聴いただけじゃやっぱり脳に入ってくる情報の量に限りがあります。音は時間と共に去っていくので、譜めくりをする時に楽譜を見ながら音を聞くのを同時に一生懸命やっているとそれだけでずいぶんと(リハーサルが一回、または本番ぶっつけでも)その曲を深く知り、感じることができるのです。
2つめはピアニストの傍にいるので臨場感がハンパなくあるので結構感情移入しやすいのと、逆に実際にひいてはいないので客観的に、というか統括的に音楽と楽譜を見ることができるので、かなりいいとこ取りなようなポジションでもあります。
譜めくりといってもただ楽譜をめくる、という仕事ではありません。
やっぱり弾き手が不便を感じないように存在する人なので、そのためのテクニックも多少必要で。
どこに座るか、いつ立つか、いつめくるか、どこを持ってめくるか・・・
弾き手の好みもありますので、それも教わったり学んだりしなければなりません。
あと今年ちょっと土壇場でちょこっとめくる機会があったんですが、手が乾いてるとかなりしんどいです(当たり前!)
あとはもう集中力ありけりです。とっても大切です。特に現代音楽(特に作曲家の新作の初演など事前に録音が聴けないもの!)では本当に真面目にちゃんと楽譜をフォローしてないと弾き手もものすごく大変ですからね!
私が譜めくりしたので一番大変だったのはラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の最終楽章でしょうか。
なんてったって速い!ほとんど立ちっぱなし!そしてだからこそ絶対めくるのはとちれない!
あとなにかと同じパッセージが続いたりするのでちゃんと一小節ごとに目を皿のようにして見ていないと迷子になります。
万が一ミスしても奏者もめくれませんからね!まあお互い怖いです。
音楽を知るにはものすごく有効で、そして曲を好きになるにも経験から譜めくりはとっても有効な方法であると思います。
目立たない仕事、いえ仕事というにもまたちょっと微妙なところなんですが(笑)
なかなか面白い、音楽家とのしてのポジションとしてオススメさせてもらいます♪
今日の一曲: モーリス・ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調 第3楽章
先ほど私にとって譜めくり最難関だった、といった曲です。
この頃(20世紀初頭~)はフランスではあんまりコンチェルトって書かれなかったんですよね。
同時代のドビュッシーは協奏曲と名の付く協奏曲を書いてませんし・・・フランス音楽はそういった演奏形態から脱出している、そういう時代なのですが。
そのなかでこの曲は正統派の超名曲です。
ラヴェルは「左手のためのピアノ協奏曲」も書いてますが今日は話に縁のあり、さらにより聞きやすくポピュラーなこちらをチョイスです。
この楽章に最もぴったりなフレーズはMoto perpetuoでしょう。ダントツで。
意味は「無窮動」または「常動曲」。ノンストップの弾丸の速さでまるで走馬燈のようにあっという間に駆け抜けていく最終楽章です。
オケのパートもソロが多く、まるで車で通りすぎていく景色のように入っては去り、入っては去り、そしてだんだんいつの間にかピアノと一緒に駆け、だんだんと一緒に駆ける人数が増えていってみんなでフィニッシュを迎えます。
そんななか一つエピソードを。
コンチェルトはオケと弾く機会があるときはピアノで伴奏するんですが、コンサートクラスなどだとピアノ伴奏でも演奏させてくれます。
(そして譜めくりはその伴奏のパートをする、ということで。)
伴奏のパートはもちろんピアノながらオケの全ての楽器を網羅するのですが、そこはラヴェルなのでオーケストラの充実をピアノに凝縮するのは難しいです。
特にこのコンチェルトのなかで効果的に使われる「鞭」の音。打楽器全般そうですが、いわゆるオケのスパイスなのでこのアクセントがないと物足りない、ということで。
ソリストであった私の友達はちょうどそこに一拍休みがあるソリストのピアニストが手を鞭の音に似せて一発叩く、という方法でこれを解決!
傍で見てると(そして聴衆側からも)なかなかコミカルですが、でも「ここはこれがなきゃ!」という友達のこだわりからうまれたこの一発、なかなかおすすめですよ(笑)
とりあえずこの曲は本当に聴いていて楽しいです(弾くと楽しい余裕もありません!)。
聞いてうずうずするエキサイティングな感覚を是非経験してください♪
他の楽章もかなりおすすめなのでまたそれは今度!
ソロで弾いたり、オケで弾いたり、伴奏したり、はたまた聴いたり・・・音楽とふれあう方法はもう色々とあるのですが、そのなかでも私にとって一番確実に関わった音楽を好きになる触れあい方があります。
それは意外と思えるかもしれませんが「譜めくり」です。
自分で自分が弾いてる分には楽譜のページをめくるのはだいっきらいで。
暗譜するのも自然とページめくりが難しい場所や、ページをめくった後のセクションからで。
ラヴェルのとある曲に関してはページめくりが特に難しいところがあって、そのページが見事に根本からちぎれたりで。
そういうところは大体の場合はページのコピーをとって別の場所でめくれるようにしているのですが。
だからといって楽譜がデジタル化しちゃうのもなんか違う気がします。見にくそうですし。
気軽に鉛筆で書き込んだり消したりもそうですし、スクロールできちゃうと暗譜するときに「楽譜のどこにあるか」で頭の中で浮かべることができなくなりますしね。
他の人にページをめくってもらうのもまた別の問題があって。ただ単にちょっぴり人間不信で自分のことは自分でやりたい気質が災いしてちょっとページをめくってもらうのに気後れしてしまいます。
でも他のピアニストの譜めくりをするのは大好きです。
特に伴奏や室内楽、そしてコンチェルトをピアノで伴奏する場合で、ピアニストが座ってるちょっと左斜め後ろにちょこんと座って、ページをめくるときになったらすっと立ってページをめくってあげる。
これで少しお小遣いも稼げる場合もある、ちょっとしたお仕事ですが、曲によってはピアニストにとって大切な人です、譜めくりさんは。
ちなみに譜めくりは本番前に頼まれることもあれば、1,2回リハーサルをするときもあり。
だいたいピアノ弾きがピアノ弾きのためにやることが多いですね。
で、こうやって譜めくりしていると大抵めくった曲は好きになるんです。
私が譜めくりで好きになった曲は例えばラヴェルのピアノ協奏曲(ト長調)、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番、チャイコフスキーのピアノ三重奏などがあります。
どうして譜めくりで曲が好きになるかというといくつかの理由があります。
1つは聴いただけじゃやっぱり脳に入ってくる情報の量に限りがあります。音は時間と共に去っていくので、譜めくりをする時に楽譜を見ながら音を聞くのを同時に一生懸命やっているとそれだけでずいぶんと(リハーサルが一回、または本番ぶっつけでも)その曲を深く知り、感じることができるのです。
2つめはピアニストの傍にいるので臨場感がハンパなくあるので結構感情移入しやすいのと、逆に実際にひいてはいないので客観的に、というか統括的に音楽と楽譜を見ることができるので、かなりいいとこ取りなようなポジションでもあります。
譜めくりといってもただ楽譜をめくる、という仕事ではありません。
やっぱり弾き手が不便を感じないように存在する人なので、そのためのテクニックも多少必要で。
どこに座るか、いつ立つか、いつめくるか、どこを持ってめくるか・・・
弾き手の好みもありますので、それも教わったり学んだりしなければなりません。
あと今年ちょっと土壇場でちょこっとめくる機会があったんですが、手が乾いてるとかなりしんどいです(当たり前!)
あとはもう集中力ありけりです。とっても大切です。特に現代音楽(特に作曲家の新作の初演など事前に録音が聴けないもの!)では本当に真面目にちゃんと楽譜をフォローしてないと弾き手もものすごく大変ですからね!
私が譜めくりしたので一番大変だったのはラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の最終楽章でしょうか。
なんてったって速い!ほとんど立ちっぱなし!そしてだからこそ絶対めくるのはとちれない!
あとなにかと同じパッセージが続いたりするのでちゃんと一小節ごとに目を皿のようにして見ていないと迷子になります。
万が一ミスしても奏者もめくれませんからね!まあお互い怖いです。
音楽を知るにはものすごく有効で、そして曲を好きになるにも経験から譜めくりはとっても有効な方法であると思います。
目立たない仕事、いえ仕事というにもまたちょっと微妙なところなんですが(笑)
なかなか面白い、音楽家とのしてのポジションとしてオススメさせてもらいます♪
今日の一曲: モーリス・ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調 第3楽章
先ほど私にとって譜めくり最難関だった、といった曲です。
この頃(20世紀初頭~)はフランスではあんまりコンチェルトって書かれなかったんですよね。
同時代のドビュッシーは協奏曲と名の付く協奏曲を書いてませんし・・・フランス音楽はそういった演奏形態から脱出している、そういう時代なのですが。
そのなかでこの曲は正統派の超名曲です。
ラヴェルは「左手のためのピアノ協奏曲」も書いてますが今日は話に縁のあり、さらにより聞きやすくポピュラーなこちらをチョイスです。
この楽章に最もぴったりなフレーズはMoto perpetuoでしょう。ダントツで。
意味は「無窮動」または「常動曲」。ノンストップの弾丸の速さでまるで走馬燈のようにあっという間に駆け抜けていく最終楽章です。
オケのパートもソロが多く、まるで車で通りすぎていく景色のように入っては去り、入っては去り、そしてだんだんいつの間にかピアノと一緒に駆け、だんだんと一緒に駆ける人数が増えていってみんなでフィニッシュを迎えます。
そんななか一つエピソードを。
コンチェルトはオケと弾く機会があるときはピアノで伴奏するんですが、コンサートクラスなどだとピアノ伴奏でも演奏させてくれます。
(そして譜めくりはその伴奏のパートをする、ということで。)
伴奏のパートはもちろんピアノながらオケの全ての楽器を網羅するのですが、そこはラヴェルなのでオーケストラの充実をピアノに凝縮するのは難しいです。
特にこのコンチェルトのなかで効果的に使われる「鞭」の音。打楽器全般そうですが、いわゆるオケのスパイスなのでこのアクセントがないと物足りない、ということで。
ソリストであった私の友達はちょうどそこに一拍休みがあるソリストのピアニストが手を鞭の音に似せて一発叩く、という方法でこれを解決!
傍で見てると(そして聴衆側からも)なかなかコミカルですが、でも「ここはこれがなきゃ!」という友達のこだわりからうまれたこの一発、なかなかおすすめですよ(笑)
とりあえずこの曲は本当に聴いていて楽しいです(弾くと楽しい余裕もありません!)。
聞いてうずうずするエキサイティングな感覚を是非経験してください♪
他の楽章もかなりおすすめなのでまたそれは今度!
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ブログの更新の時間を自由にしてみました。
やっぱり書きたくなくなるとき、というものはあるので。
最近祖父からDVDがきたので夕飯後はクイズに忙しいのもありまして(笑)
ピアノも最近仕事がなくても弾いてないんですよ。
あれもまた気分がちょっと乗らないと「うーん」となっちゃって。
筋肉痛でもそうでなくとも結構些細なことでhinderされるというか。
そのくせ夜の1時とかにふとリゲティが弾きたくなるとか困ったことになるんですよね。
プロでもないのに将来は防音室とか・・・でしょうか。
(まあ聞く方にも使えますしね)
とりあえずピアノにしてもブログにしてもあんまり間が空くとより書かなくなるぞ!と自分を脅して(!?)とりあえずいつも思っている、考えてることをここにかくことにしました。しばしおつきあいください。
こういった本がまずあるんですよ。母が面白そうと買ったのを読んだのですがなかなか内輪ネタで面白い(爆)
で、楽器別に性格の傾向がある、というはなしが主にされているのですが、実はこの本を読む前も私もそれについて考えたことが多々ありまして。(でも必ずしも本の内容と一致するわけではないです。なんせ国が違うもので。これは大きいです)
実際私だけじゃなく友達と話しててそういう話になったこともあります。
その一番顕著な例が下の通りです。
ホルンの友達と、ホルン友達の関係者である友達といて、ホルン奏者の性格について語り合った際の結論:
1)男性ホルン奏者は基本自信家。単純で、ロジカルな思考の持ち主。
2)女性ホルン奏者は「強い女」に見えて、実際内面ものすごく打たれやすいところがあったり、男女関係に関しては些細なことで疑心暗鬼になっちゃったり。
他にも、オケピアニスト・オケマネージャーとしてかなり近い立場で第3者としてオケ全体を見回せる位置にいて例えばチェロとホルンのカップル(ないし親友、家族同士)がどうして多いんだろう、とかトロンボーンの結束はやっぱり強いなあーとか、いろいろ思うことはあるのです。
そしてそういったことも創作の臓器とも言える大事な部分になってたり。
上の本で茂木さんが書いたように、楽器と奏者の関係は相互的だと思います。
人がある性格の特徴を持っているから(または身体的特徴からある楽器がより容易に弾けることで)ある楽器に惹かれ、そして楽器の特徴(弾く姿勢、作曲家がその楽器に求める役割、音、音の出し方、そして演奏に関わる行動など)が奏者の人間性に影響していく、という。
(プラス同じ楽器の人とのつきあいでもまた変わるでしょう。同じ楽器どうしで集まりやすいホルンやチェロ、ビオラなんかは特に)
例えばトランペットやトロンボーン奏者のあの姿勢。
クラリネットが音域によっていろんな違う音色がでるところ。
オーボエ奏者がリードを自分の納得いくようにけずるところ。
ビオラがいつも派手なパートをもらえないところ。
コントラバスの楽器のサイズとそれから推測される奏者の力持ちさ。
テューバのレパートリーの狭さ、そして逆にバイオリンのレパートリーの広さ。
みんなみんな意味があって、それでお互いに影響し合っていくのが自分にとってはやっぱり素敵な関係だな~と。
(注:こういったことから導き出すのはあくまでも自分の奏者や彼らの行動、楽器の観察と、楽器の知識から自分なりの解釈ででたものでみんながそう思うというわけではありません。)
私個人としては(クラシックに限らず)誰にでも一人に一つ(最低でも)、運命の楽器があるんじゃないかと思います。
もちろんさっきいったように人は楽器に影響されるのでもともとパーフェクトマッチ、というわけでもないですが、きっとそうやってお互い影響し合ってぴったり合っていき、お互いにいい影響をもたらす人と楽器の組み合わせがあるんじゃないかとおもうんですよ。上手下手は別として(ただ、「合う」楽器は上達が早いのでは?と根拠なく思っております)
そして教える人や、楽器との相性(安いオーボエでは自分との相性がわかりませんしね、例えば)などいろんな要因がかかわってくるのでしょうが。
私に関しては・・・ピアノはもともと器が広いというかな楽器なのであれですが、でもチェロに関してはわりと・・・他の楽器よりもあってたかな、と思います。性格的には主にチェロで、ちょっとビオリスト的性格も入ってると自己分析しております。
チェロ奏者の性格を分析・考えてると耳が痛いんですよね(苦笑)どうやら私の欠点の多くはチェリストの欠点のようで・・・
タイトルにもあるようにこれは序曲、いや序章で。
いろんな楽器にこうじゃないか、という説はあるのですが、また今度の機会にとっておきます。
チェロとホルンについては結構詳細があるんですが・・・面白いので。
またちゃんと文にできることを願ってます。(Crossing fingers)
今日の一曲: エドゥワール・ラロ 「スペイン交響曲」 第3楽章
バイオリン。
それはピアノに次ぐ機動力を持つ、どこでも運べる、悪魔が弾く楽器とも言われる、そして個々の楽器や奏者により最も差がでやすい楽器。
その最も差が出やすいところと、バイオリン人口の多さを考えるとバイオリンの性格タイプ、というのはひとえにいえないものだとばかり思ってましたが、最近2次創作を含めて自分のプランしたオケの中で「変装」または「変身」をするキャラがほとんど全員といっていいほどバイオリンを弾いていることに気づき、たまげました。無意識ですよ、オケ3つ分!(笑)
あんな不自然な姿勢で、あんな小さい楽器に魂を込めることでどんなに感情が圧縮された音が出るか、というのがバイオリンの音の醍醐味の一つであると思ってます。
同時にバイオリンの音は七変化。軽やかだったり、ひょうひょうしてたり、情熱的だったり。気まぐれ、とか意のまま、という言葉がぴったりです。
技巧のポテンシャルはもうまるで楽器が身体の一部のよう。演じているけどものすごく身についてるからリアリティがあったり?
そんなバイオリンの魅力がつまったこの曲。
情熱と、気まぐれさと、浮気性と、不思議なナチュラルさ。
目の前で姿を変えたり、話術を巧みに操ったり、いろんな表情を見せたり。
どこか狂ったような、でもそうだとしていても本人は至って正気なような。
「悪魔の楽器」バイオリンとしての面も見られます。
そしてこのアンネ=ゾフィー・ムターとうバイオリニストが好きで好きで。
この曲にぴったりのクレイジーさ、強さ、表現の広さと技巧の自然さ、そして自由さを持っていると思います。
彼女の演奏には男性バイオリニストにはないものがあって。それはまた多くの女性バイオリニストが持っていない者でもあるのですが、でもその直感的な印象は「なによりも女性らしい」もので。
ガッツ、というか、強さというか。
よく女性は痛みに強いという話を聞きますけどそういう感じの強さなんですよね。
女性は男性なんか比べものにならないものを生まれながらに与えられていて。
優しさ、繊細さももちろんですが、それも全部持った上でタフなところ。
女性として生まれ持ったパワーの一番極端な例を彼女の音に聞くんです。
もっとこういう路線のバイオリニストが(特に日本からは)増えて欲しいと切実に願ってます。
(実は大学の友達に一人いたんですけどね。私とそうかわらない体格なのにパワーはすごかった!)
だって今は男女平等の社会。もっともっと女性にパワフルに花咲かせてもらいたいです。
やっぱり書きたくなくなるとき、というものはあるので。
最近祖父からDVDがきたので夕飯後はクイズに忙しいのもありまして(笑)
ピアノも最近仕事がなくても弾いてないんですよ。
あれもまた気分がちょっと乗らないと「うーん」となっちゃって。
筋肉痛でもそうでなくとも結構些細なことでhinderされるというか。
そのくせ夜の1時とかにふとリゲティが弾きたくなるとか困ったことになるんですよね。
プロでもないのに将来は防音室とか・・・でしょうか。
(まあ聞く方にも使えますしね)
とりあえずピアノにしてもブログにしてもあんまり間が空くとより書かなくなるぞ!と自分を脅して(!?)とりあえずいつも思っている、考えてることをここにかくことにしました。しばしおつきあいください。
こういった本がまずあるんですよ。母が面白そうと買ったのを読んだのですがなかなか内輪ネタで面白い(爆)
で、楽器別に性格の傾向がある、というはなしが主にされているのですが、実はこの本を読む前も私もそれについて考えたことが多々ありまして。(でも必ずしも本の内容と一致するわけではないです。なんせ国が違うもので。これは大きいです)
実際私だけじゃなく友達と話しててそういう話になったこともあります。
その一番顕著な例が下の通りです。
ホルンの友達と、ホルン友達の関係者である友達といて、ホルン奏者の性格について語り合った際の結論:
1)男性ホルン奏者は基本自信家。単純で、ロジカルな思考の持ち主。
2)女性ホルン奏者は「強い女」に見えて、実際内面ものすごく打たれやすいところがあったり、男女関係に関しては些細なことで疑心暗鬼になっちゃったり。
他にも、オケピアニスト・オケマネージャーとしてかなり近い立場で第3者としてオケ全体を見回せる位置にいて例えばチェロとホルンのカップル(ないし親友、家族同士)がどうして多いんだろう、とかトロンボーンの結束はやっぱり強いなあーとか、いろいろ思うことはあるのです。
そしてそういったことも創作の臓器とも言える大事な部分になってたり。
上の本で茂木さんが書いたように、楽器と奏者の関係は相互的だと思います。
人がある性格の特徴を持っているから(または身体的特徴からある楽器がより容易に弾けることで)ある楽器に惹かれ、そして楽器の特徴(弾く姿勢、作曲家がその楽器に求める役割、音、音の出し方、そして演奏に関わる行動など)が奏者の人間性に影響していく、という。
(プラス同じ楽器の人とのつきあいでもまた変わるでしょう。同じ楽器どうしで集まりやすいホルンやチェロ、ビオラなんかは特に)
例えばトランペットやトロンボーン奏者のあの姿勢。
クラリネットが音域によっていろんな違う音色がでるところ。
オーボエ奏者がリードを自分の納得いくようにけずるところ。
ビオラがいつも派手なパートをもらえないところ。
コントラバスの楽器のサイズとそれから推測される奏者の力持ちさ。
テューバのレパートリーの狭さ、そして逆にバイオリンのレパートリーの広さ。
みんなみんな意味があって、それでお互いに影響し合っていくのが自分にとってはやっぱり素敵な関係だな~と。
(注:こういったことから導き出すのはあくまでも自分の奏者や彼らの行動、楽器の観察と、楽器の知識から自分なりの解釈ででたものでみんながそう思うというわけではありません。)
私個人としては(クラシックに限らず)誰にでも一人に一つ(最低でも)、運命の楽器があるんじゃないかと思います。
もちろんさっきいったように人は楽器に影響されるのでもともとパーフェクトマッチ、というわけでもないですが、きっとそうやってお互い影響し合ってぴったり合っていき、お互いにいい影響をもたらす人と楽器の組み合わせがあるんじゃないかとおもうんですよ。上手下手は別として(ただ、「合う」楽器は上達が早いのでは?と根拠なく思っております)
そして教える人や、楽器との相性(安いオーボエでは自分との相性がわかりませんしね、例えば)などいろんな要因がかかわってくるのでしょうが。
私に関しては・・・ピアノはもともと器が広いというかな楽器なのであれですが、でもチェロに関してはわりと・・・他の楽器よりもあってたかな、と思います。性格的には主にチェロで、ちょっとビオリスト的性格も入ってると自己分析しております。
チェロ奏者の性格を分析・考えてると耳が痛いんですよね(苦笑)どうやら私の欠点の多くはチェリストの欠点のようで・・・
タイトルにもあるようにこれは序曲、いや序章で。
いろんな楽器にこうじゃないか、という説はあるのですが、また今度の機会にとっておきます。
チェロとホルンについては結構詳細があるんですが・・・面白いので。
またちゃんと文にできることを願ってます。(Crossing fingers)
今日の一曲: エドゥワール・ラロ 「スペイン交響曲」 第3楽章
バイオリン。
それはピアノに次ぐ機動力を持つ、どこでも運べる、悪魔が弾く楽器とも言われる、そして個々の楽器や奏者により最も差がでやすい楽器。
その最も差が出やすいところと、バイオリン人口の多さを考えるとバイオリンの性格タイプ、というのはひとえにいえないものだとばかり思ってましたが、最近2次創作を含めて自分のプランしたオケの中で「変装」または「変身」をするキャラがほとんど全員といっていいほどバイオリンを弾いていることに気づき、たまげました。無意識ですよ、オケ3つ分!(笑)
あんな不自然な姿勢で、あんな小さい楽器に魂を込めることでどんなに感情が圧縮された音が出るか、というのがバイオリンの音の醍醐味の一つであると思ってます。
同時にバイオリンの音は七変化。軽やかだったり、ひょうひょうしてたり、情熱的だったり。気まぐれ、とか意のまま、という言葉がぴったりです。
技巧のポテンシャルはもうまるで楽器が身体の一部のよう。演じているけどものすごく身についてるからリアリティがあったり?
そんなバイオリンの魅力がつまったこの曲。
情熱と、気まぐれさと、浮気性と、不思議なナチュラルさ。
目の前で姿を変えたり、話術を巧みに操ったり、いろんな表情を見せたり。
どこか狂ったような、でもそうだとしていても本人は至って正気なような。
「悪魔の楽器」バイオリンとしての面も見られます。
そしてこのアンネ=ゾフィー・ムターとうバイオリニストが好きで好きで。
この曲にぴったりのクレイジーさ、強さ、表現の広さと技巧の自然さ、そして自由さを持っていると思います。
彼女の演奏には男性バイオリニストにはないものがあって。それはまた多くの女性バイオリニストが持っていない者でもあるのですが、でもその直感的な印象は「なによりも女性らしい」もので。
ガッツ、というか、強さというか。
よく女性は痛みに強いという話を聞きますけどそういう感じの強さなんですよね。
女性は男性なんか比べものにならないものを生まれながらに与えられていて。
優しさ、繊細さももちろんですが、それも全部持った上でタフなところ。
女性として生まれ持ったパワーの一番極端な例を彼女の音に聞くんです。
もっとこういう路線のバイオリニストが(特に日本からは)増えて欲しいと切実に願ってます。
(実は大学の友達に一人いたんですけどね。私とそうかわらない体格なのにパワーはすごかった!)
だって今は男女平等の社会。もっともっと女性にパワフルに花咲かせてもらいたいです。
今日はピアノの練習で多少後退したなあ~とちょっぴり悔しく思うことがありました。
大学のときと比べちゃいけないのは重々承知なんですけどね。
でもやっぱり今になって「あのころの自分はどういうピアニストだったんだろう」と考えることで、このいわゆるピアノ弾きとしてのニューステージをどう進んでいくか、ということが見えてくるような気がしないでもないのでちょっと今日はそこらへんを考えてみたいと思います。
自分のピアニストとしての大きな弱点はまとめると2つあったと思います。
1つはテクニックの弱さ、もう1つはレパートリーに関してたいてい好きなものしか弾かなかったことです。
どちらも今も健在なのですが・・・
それはどちらもやっぱりピアニストとしての態度に問題があったのかなあと。表現することにはまじめだけれど「ピアノを弾く」ということに対しては不真面目ですから・・・うーん・・・
レパートリーは偏食・・・というのはもはやピアニストならではの贅沢ですね。
手の小ささですでにある程度弾けるレパートリーが狭まってるのにそれでもまだつべこべ言ってもまだ一生かかっても弾ききれないほどの曲があるのでそれに若干甘えちゃってるようなところがある私です。
音楽を知れば知るほど、弾きたい曲も増えるわけで、そんなにたくさん弾きたいものがあるとテクニックのためメインに曲を弾くことに時間を費やしたくなくなるんですよ。人生短し、表現したいことは無限なので。で、
・・・という言い訳なのです。
それが自分の進む道だ、と思ってたわけではないのですがとにかく曲を弾きたい!という思いが強すぎていろんなものをないがしろにしてきたことはうすうす気づいていましたが・・・
やっぱり大学も4年間だけ、ということであえて見ない振りをしてやってきちゃったわけです。
反対に自分のピアニストとしての強みはどこか、というと・・・
どうしても「ピアニストとして」ではなくて「音楽家としての」強みになってしまうのですが、なによりもまず「音楽的なカンの良さ」だと思います。
これに関しては本当に自分の中で自慢できる少ない一つなんですが・・・ただ「勘がいい」イコール「センスがいい」というわけではないのであしからず。
「勘の良さ」を説明するのは難しいのですが、とにかく自分はオーケストラでは特にずっとカンに頼って弾いてたような印象を受けます。
例えば休みの小節を数えなくていいとか(元々周りの楽器のやってることを聴いて判断してるのですが)、リズムは考えなくてもいい、感じることができるとか・・・そういうことをみんなひっくるめてカンと言わせてもらいます。
この勘の良さのおかげでオーケストラで弾く時はほとんど技術面以外で苦労をしたことはありません・・・が!ただバルトークの音楽だけは本当に躍起になって「こりゃいかん」と思いました。
そこで初めて「音楽的なカン」の存在に気づいた覚えがあります。
ただやっぱり勘の良さというのは自分のピアニストとしての能力にはかなり強みとなってくれて。
それはなんといってもオケピアニストとしての活動にものをいいました。
チェリストとしてオケで弾いた経験もそうですが、そこらへんの能力も一役買ってたのでは?と思います。
オケでの活動と、オケピアニストの特殊なところはまた別の機会に(本当は書きたかったのですがすでにここまでの文をみてこんなぐだぐだではいけないと思いましたので・・・すみません)
ピアノを弾くことが今自分にとってなんなのか、それさえも分からないのですが。
とりあえずピアノを弾きたいと思う以上、それによって表現したいと思う以上はやっぱり練習も、そしてピアニストとしての自分磨き、自分の表現を磨くこと、そしてそれを全部楽しむことを続けていきたいと思います。
ほんっとぐだぐだな文で本当にごめんなさい!磨くべきことはここにもありましたね・・・(汗)
今日の一曲: エンリケ・グラナドス 「ゴイェスカス」より「エピローグ」
今日はクラシック以外にしようかな~と思ったんですけどまた別の日に。
リアルでは特にロマンチックとは言えない私ですが(少なくとも表では)、音楽や小説ではロマンチックも気分によっては全然行けます。
この「ゴイェスカス」もそんなロマンチックな音楽の一つ。ジャンルは情熱と悲恋です。
前も言いましたが最終楽章から紹介するのはどうかなあ・・・と思いながら今回はエピローグを紹介させてもらいます。
ざっくりあらすじを。
マホとマハは恋人同士。二人は毎晩(?)愛を語り合う仲なのだけど、マホが決闘で殺され、死が二人の仲を引き裂いてしまう。悲しむマハの前にマホの亡霊が現れ、二人は歌い踊るけれど、朝を告げる鐘が鳴り、マホはギターを奏でながら消えてしまう。
これはスペイン人によるスペイン音楽なのですが(結構多くのスペイン音楽がフランス人によって書かれてます。例えばビゼーのカルメンとか)、スペイン音楽ってそこまで派手でもないんだなーという印象を受けますね。
でもやっぱり情熱的なことには変わりませんし、独特の土臭さもまたやみつきにないます。
なによりもやっぱりロマンスを求めるならこの曲はある意味最高のものを与えてくれると思います。
例えばこの曲集の前の楽章で使われたマホとマハの愛を表すテーマの展開(まるでお互い触れられないですれ違うようでまたきゅんとします!)もまたその効果を増幅しますし、個人的なツボは最後の最後で朝の鐘が鳴り、マホが消えるときに弾き手を失ったギターの開放弦が鳴るところですかね。あれはもう切なすぎて。
今日はこの楽章を薦めさせてもらいましたが、とりあえず最初から最後までまずは聴くことをおすすめします。
他の楽章(とくに「灯火のファンダンゴ」、「愛と死」)も名曲ですよ♪
そして願わくは他の楽章を紹介するときには文がもう少しまともになっていますように・・・(汗)
大学のときと比べちゃいけないのは重々承知なんですけどね。
でもやっぱり今になって「あのころの自分はどういうピアニストだったんだろう」と考えることで、このいわゆるピアノ弾きとしてのニューステージをどう進んでいくか、ということが見えてくるような気がしないでもないのでちょっと今日はそこらへんを考えてみたいと思います。
自分のピアニストとしての大きな弱点はまとめると2つあったと思います。
1つはテクニックの弱さ、もう1つはレパートリーに関してたいてい好きなものしか弾かなかったことです。
どちらも今も健在なのですが・・・
それはどちらもやっぱりピアニストとしての態度に問題があったのかなあと。表現することにはまじめだけれど「ピアノを弾く」ということに対しては不真面目ですから・・・うーん・・・
レパートリーは偏食・・・というのはもはやピアニストならではの贅沢ですね。
手の小ささですでにある程度弾けるレパートリーが狭まってるのにそれでもまだつべこべ言ってもまだ一生かかっても弾ききれないほどの曲があるのでそれに若干甘えちゃってるようなところがある私です。
音楽を知れば知るほど、弾きたい曲も増えるわけで、そんなにたくさん弾きたいものがあるとテクニックのためメインに曲を弾くことに時間を費やしたくなくなるんですよ。人生短し、表現したいことは無限なので。で、
・・・という言い訳なのです。
それが自分の進む道だ、と思ってたわけではないのですがとにかく曲を弾きたい!という思いが強すぎていろんなものをないがしろにしてきたことはうすうす気づいていましたが・・・
やっぱり大学も4年間だけ、ということであえて見ない振りをしてやってきちゃったわけです。
反対に自分のピアニストとしての強みはどこか、というと・・・
どうしても「ピアニストとして」ではなくて「音楽家としての」強みになってしまうのですが、なによりもまず「音楽的なカンの良さ」だと思います。
これに関しては本当に自分の中で自慢できる少ない一つなんですが・・・ただ「勘がいい」イコール「センスがいい」というわけではないのであしからず。
「勘の良さ」を説明するのは難しいのですが、とにかく自分はオーケストラでは特にずっとカンに頼って弾いてたような印象を受けます。
例えば休みの小節を数えなくていいとか(元々周りの楽器のやってることを聴いて判断してるのですが)、リズムは考えなくてもいい、感じることができるとか・・・そういうことをみんなひっくるめてカンと言わせてもらいます。
この勘の良さのおかげでオーケストラで弾く時はほとんど技術面以外で苦労をしたことはありません・・・が!ただバルトークの音楽だけは本当に躍起になって「こりゃいかん」と思いました。
そこで初めて「音楽的なカン」の存在に気づいた覚えがあります。
ただやっぱり勘の良さというのは自分のピアニストとしての能力にはかなり強みとなってくれて。
それはなんといってもオケピアニストとしての活動にものをいいました。
チェリストとしてオケで弾いた経験もそうですが、そこらへんの能力も一役買ってたのでは?と思います。
オケでの活動と、オケピアニストの特殊なところはまた別の機会に(本当は書きたかったのですがすでにここまでの文をみてこんなぐだぐだではいけないと思いましたので・・・すみません)
ピアノを弾くことが今自分にとってなんなのか、それさえも分からないのですが。
とりあえずピアノを弾きたいと思う以上、それによって表現したいと思う以上はやっぱり練習も、そしてピアニストとしての自分磨き、自分の表現を磨くこと、そしてそれを全部楽しむことを続けていきたいと思います。
ほんっとぐだぐだな文で本当にごめんなさい!磨くべきことはここにもありましたね・・・(汗)
今日の一曲: エンリケ・グラナドス 「ゴイェスカス」より「エピローグ」
今日はクラシック以外にしようかな~と思ったんですけどまた別の日に。
リアルでは特にロマンチックとは言えない私ですが(少なくとも表では)、音楽や小説ではロマンチックも気分によっては全然行けます。
この「ゴイェスカス」もそんなロマンチックな音楽の一つ。ジャンルは情熱と悲恋です。
前も言いましたが最終楽章から紹介するのはどうかなあ・・・と思いながら今回はエピローグを紹介させてもらいます。
ざっくりあらすじを。
マホとマハは恋人同士。二人は毎晩(?)愛を語り合う仲なのだけど、マホが決闘で殺され、死が二人の仲を引き裂いてしまう。悲しむマハの前にマホの亡霊が現れ、二人は歌い踊るけれど、朝を告げる鐘が鳴り、マホはギターを奏でながら消えてしまう。
これはスペイン人によるスペイン音楽なのですが(結構多くのスペイン音楽がフランス人によって書かれてます。例えばビゼーのカルメンとか)、スペイン音楽ってそこまで派手でもないんだなーという印象を受けますね。
でもやっぱり情熱的なことには変わりませんし、独特の土臭さもまたやみつきにないます。
なによりもやっぱりロマンスを求めるならこの曲はある意味最高のものを与えてくれると思います。
例えばこの曲集の前の楽章で使われたマホとマハの愛を表すテーマの展開(まるでお互い触れられないですれ違うようでまたきゅんとします!)もまたその効果を増幅しますし、個人的なツボは最後の最後で朝の鐘が鳴り、マホが消えるときに弾き手を失ったギターの開放弦が鳴るところですかね。あれはもう切なすぎて。
今日はこの楽章を薦めさせてもらいましたが、とりあえず最初から最後までまずは聴くことをおすすめします。
他の楽章(とくに「灯火のファンダンゴ」、「愛と死」)も名曲ですよ♪
そして願わくは他の楽章を紹介するときには文がもう少しまともになっていますように・・・(汗)
つい最近新しい取引先ができて、医薬の仕事中心になるので小躍りしていたところですが、ここのところやっていたArts系の翻訳をやっていてやっぱり心はやっぱり芸術系の方にまだまだ思いが深いな-と思いました。
こういう仕事もやっていけるといいなあ・・・
それはさておき。
今日唐突に書きたくなったのは「暗譜」のこと。
音楽を覚えて、演奏などで楽譜なしで弾くこと・・・と書いたところでこの説明の下手さを謝罪させてください(汗)
音楽の演奏では楽譜を見て演奏する場合と、演奏しない場合があります。
どういうときにどういう人が楽譜を見て弾くのか、そうでないのか・・・というのは私の知る限りはっきりとは決まってません。しいていえば「慣習に従う」というのが一般的なルールでしょうか。
オーケストラではたいていみんな楽譜をみますが、ピアニストの演奏はほとんどの場合暗譜です(が、そうでない演奏も結構あります)。
基本的に同時に一緒に演奏するのが2人以上の場合(声+ピアノの場合を除く)は楽譜有りで弾く場合が多い・・・ような気がします。
伴奏・室内楽でのピアノ奏者は必ずといっていいほど楽譜有りで弾きます。主な理由はピアノ譜には他のパートも記されていて、まとめ役のピアニストが他のパートの動向を把握するために楽譜を見ている必要がある、というわけなのですが。
その法則で行くと指揮者はオーケストラの全てのパートが記されている複雑なスコアを見ながら指揮する、ということになりますが、スコアなしで指揮する指揮者、そして特定の曲のみスコアなしで指揮する指揮者も結構居るみたいです。
でもそんなことは生半可な気持ちじゃきっとできませんもんね。あれだけの複雑な情報を脳の中に蓄積してちゃんと引き出しながら、同時に指揮の全てをするなんて。
大学だとピアニストと歌う人以外はコンサートクラスなんかだと楽譜を見て弾くことも珍しくありませんでした。
大まかな分け方で言えばコンチェルトは暗譜し、ソナタ他は楽譜を見る(ソナタは一応室内楽ですしね)、というところかな。
そんななかちょっと地味に大変な楽器が一つ。
ホルンの人はみんなモーツァルトの4つの協奏曲を弾くのですが、このうち3つ(2番~4番)は同じ調で、しかも曲自体もかなり似通っています。
なのでいくつか弾いて、暗譜するようになると弾いてる途中で別のコンチェルトに変わっちゃったりしちゃうそうです。あわてて楽譜をチェックしたり、ipodで確認したり(笑)
ちなみにその唯一似通ってない第1番は実はモーツァルトが書いた物ではない、という説もあるそうです。
暗譜の演奏中に音を忘れたりそれによって演奏ストップすることをMemory slipとこちらでは呼びます。
演奏家が恐れていることの一つで、どんなによく知っていて自分の一部のような曲でも、たまにランダムにおそってきます。
大学のピアニストにとってMemory slipに関して鬼門だったのはショパンのスケルツォ第4番。何人もの凄腕の先輩が弾いてますがコンサートクラスでmemory slipを経験する人の多いこと。
私が4年半のうちに唯一経験した授業での演奏でのmemory slipはヒンデミットのピアノソナタ第3番第3楽章。途中でフーガがあるのですがその途中で頭が真っ白に・・・いやあ怖かったです。
バッハがちょっと怖い、とみんな(?)感じるのはやっぱり同じくフーガの途中で分からなくなったらもうお手上げですからね。
楽譜を見る、見ない、それは慣習に従う従わないありますが結局は演奏者自身が決めることです。
楽譜を見た方が安心するんじゃないか、と思われる方もいらっしゃると思いますが、むしろ楽譜がない方がいい、という人が特にピアノ弾きには多いです。
楽譜を見ることで脳の集中がそっちに行く、というのとやっぱり暗譜してあった方が音楽が自分の一部のように感じる、というようなことを良く聞きます。
私の場合、上記の理由もありますが、なんといっても楽譜のページをめくるのが面倒くさい、という理由が大きいです。
(だからといって楽譜がデジタル化されるのもなんか違うなーと思います。わがままです。基本)
なのでごく自然とページめくりがやっかいな所ばっかり早く覚えます。
あと生涯のほとんど目が悪いので基本的に細かい物をがんばって見るのが嫌い、というまたこれもくだらない理由もあります。
基本演奏は暗譜ですが、今までに武満の作品、メシアンの「ダイシャクシギ」などは楽譜を見て演奏したことがあります。説明するほどの理由はないのですが・・・どうも自信がつかなかったというか、なんというか・・・
暗譜する方法・・・というのは特にこれといってありません。私の場合。
弾いてると自然と覚えますし、頭の中で音名を言っていることも多いので。
ただ弾いているところが楽譜のページのどこらへんにあるか、とかぼんやりとした楽譜面は覚えていて、それを参照することもあります。
メシアンを暗譜で弾く、というと驚かれることもありますが、比較的自然にくるほうですし、そのぼんやりとした楽譜面、一部の音、手の形、そして音の色彩の組み合わせで案外結構覚えられます。
人前で弾くことはとりあえず全くなくなりましたが、自分が弾く分にも「自分の一部となった」と思える様になるべく暗譜していきたいと思います。
今日の一曲: パウル・ヒンデミット ピアノソナタ第3番 第3楽章
さきほど私がMemory Slipがあったといった曲です。
録音はグールドのですが、なんせグールドですので他の演奏が聴きたいなあ、と今更(だって弾いてたの在学中ですよ)思います。
ヒンデミットは20世紀のドイツの作曲家ですが、彼の音楽のおよそ半分ほどはこのソナタの第1楽章のようにイギリス風味の強い性格をしています。
ただこの第3楽章は珍しくドイツ風味、しかもどこかブラームスに似たものを感じます。
自分がこの曲に惹かれたのはやっぱりどこか「苦しみ」「重み」のエレメントがあったからだと思います。
そしてそれにともなう人間味、あったかさも。
和音がずっしり心にくるのは聞いていてもそうですし、弾いていると指を通じてさらに感じられます。
そしてちょっと不思議なことなのですが、この楽章には先ほども言いましたようにフーガになっているセクションがあります。バッハのフーガとは分析してみるとここが違うんだな~と思うところが多々ありますが。
(実は第4楽章がまるまるフーガなので、そこんとこどうなんだろうと思わざるを得ませんがね)
苦しみ、重みと対照的な高音域のセクションもまた秀逸です。
なんでしょうね、どこをとっても人間の心に近いトーンというか色彩というか・・・そこがやっぱりブラームスっぽい要素なんでしょうけど。
ヒンデミットはビオラ奏者、金管奏者などのように弾くのを避けて通れないような楽器の奏者にはよく知られ、愛され、高評価を得ているのですがピアニストはほとんど彼の作品を弾かないため彼のソナタは忘れられがちです。
ドイツ音楽の歴史のまぎれもない一部であり、それも素晴らしい20世紀、そしてドイツの音楽ですのでもうちょっと弾かれるようになるといいなあ~と思ってます。
私自身ももう一回チャレンジしたいです!
こういう仕事もやっていけるといいなあ・・・
それはさておき。
今日唐突に書きたくなったのは「暗譜」のこと。
音楽を覚えて、演奏などで楽譜なしで弾くこと・・・と書いたところでこの説明の下手さを謝罪させてください(汗)
音楽の演奏では楽譜を見て演奏する場合と、演奏しない場合があります。
どういうときにどういう人が楽譜を見て弾くのか、そうでないのか・・・というのは私の知る限りはっきりとは決まってません。しいていえば「慣習に従う」というのが一般的なルールでしょうか。
オーケストラではたいていみんな楽譜をみますが、ピアニストの演奏はほとんどの場合暗譜です(が、そうでない演奏も結構あります)。
基本的に同時に一緒に演奏するのが2人以上の場合(声+ピアノの場合を除く)は楽譜有りで弾く場合が多い・・・ような気がします。
伴奏・室内楽でのピアノ奏者は必ずといっていいほど楽譜有りで弾きます。主な理由はピアノ譜には他のパートも記されていて、まとめ役のピアニストが他のパートの動向を把握するために楽譜を見ている必要がある、というわけなのですが。
その法則で行くと指揮者はオーケストラの全てのパートが記されている複雑なスコアを見ながら指揮する、ということになりますが、スコアなしで指揮する指揮者、そして特定の曲のみスコアなしで指揮する指揮者も結構居るみたいです。
でもそんなことは生半可な気持ちじゃきっとできませんもんね。あれだけの複雑な情報を脳の中に蓄積してちゃんと引き出しながら、同時に指揮の全てをするなんて。
大学だとピアニストと歌う人以外はコンサートクラスなんかだと楽譜を見て弾くことも珍しくありませんでした。
大まかな分け方で言えばコンチェルトは暗譜し、ソナタ他は楽譜を見る(ソナタは一応室内楽ですしね)、というところかな。
そんななかちょっと地味に大変な楽器が一つ。
ホルンの人はみんなモーツァルトの4つの協奏曲を弾くのですが、このうち3つ(2番~4番)は同じ調で、しかも曲自体もかなり似通っています。
なのでいくつか弾いて、暗譜するようになると弾いてる途中で別のコンチェルトに変わっちゃったりしちゃうそうです。あわてて楽譜をチェックしたり、ipodで確認したり(笑)
ちなみにその唯一似通ってない第1番は実はモーツァルトが書いた物ではない、という説もあるそうです。
暗譜の演奏中に音を忘れたりそれによって演奏ストップすることをMemory slipとこちらでは呼びます。
演奏家が恐れていることの一つで、どんなによく知っていて自分の一部のような曲でも、たまにランダムにおそってきます。
大学のピアニストにとってMemory slipに関して鬼門だったのはショパンのスケルツォ第4番。何人もの凄腕の先輩が弾いてますがコンサートクラスでmemory slipを経験する人の多いこと。
私が4年半のうちに唯一経験した授業での演奏でのmemory slipはヒンデミットのピアノソナタ第3番第3楽章。途中でフーガがあるのですがその途中で頭が真っ白に・・・いやあ怖かったです。
バッハがちょっと怖い、とみんな(?)感じるのはやっぱり同じくフーガの途中で分からなくなったらもうお手上げですからね。
楽譜を見る、見ない、それは慣習に従う従わないありますが結局は演奏者自身が決めることです。
楽譜を見た方が安心するんじゃないか、と思われる方もいらっしゃると思いますが、むしろ楽譜がない方がいい、という人が特にピアノ弾きには多いです。
楽譜を見ることで脳の集中がそっちに行く、というのとやっぱり暗譜してあった方が音楽が自分の一部のように感じる、というようなことを良く聞きます。
私の場合、上記の理由もありますが、なんといっても楽譜のページをめくるのが面倒くさい、という理由が大きいです。
(だからといって楽譜がデジタル化されるのもなんか違うなーと思います。わがままです。基本)
なのでごく自然とページめくりがやっかいな所ばっかり早く覚えます。
あと生涯のほとんど目が悪いので基本的に細かい物をがんばって見るのが嫌い、というまたこれもくだらない理由もあります。
基本演奏は暗譜ですが、今までに武満の作品、メシアンの「ダイシャクシギ」などは楽譜を見て演奏したことがあります。説明するほどの理由はないのですが・・・どうも自信がつかなかったというか、なんというか・・・
暗譜する方法・・・というのは特にこれといってありません。私の場合。
弾いてると自然と覚えますし、頭の中で音名を言っていることも多いので。
ただ弾いているところが楽譜のページのどこらへんにあるか、とかぼんやりとした楽譜面は覚えていて、それを参照することもあります。
メシアンを暗譜で弾く、というと驚かれることもありますが、比較的自然にくるほうですし、そのぼんやりとした楽譜面、一部の音、手の形、そして音の色彩の組み合わせで案外結構覚えられます。
人前で弾くことはとりあえず全くなくなりましたが、自分が弾く分にも「自分の一部となった」と思える様になるべく暗譜していきたいと思います。
今日の一曲: パウル・ヒンデミット ピアノソナタ第3番 第3楽章
さきほど私がMemory Slipがあったといった曲です。
録音はグールドのですが、なんせグールドですので他の演奏が聴きたいなあ、と今更(だって弾いてたの在学中ですよ)思います。
ヒンデミットは20世紀のドイツの作曲家ですが、彼の音楽のおよそ半分ほどはこのソナタの第1楽章のようにイギリス風味の強い性格をしています。
ただこの第3楽章は珍しくドイツ風味、しかもどこかブラームスに似たものを感じます。
自分がこの曲に惹かれたのはやっぱりどこか「苦しみ」「重み」のエレメントがあったからだと思います。
そしてそれにともなう人間味、あったかさも。
和音がずっしり心にくるのは聞いていてもそうですし、弾いていると指を通じてさらに感じられます。
そしてちょっと不思議なことなのですが、この楽章には先ほども言いましたようにフーガになっているセクションがあります。バッハのフーガとは分析してみるとここが違うんだな~と思うところが多々ありますが。
(実は第4楽章がまるまるフーガなので、そこんとこどうなんだろうと思わざるを得ませんがね)
苦しみ、重みと対照的な高音域のセクションもまた秀逸です。
なんでしょうね、どこをとっても人間の心に近いトーンというか色彩というか・・・そこがやっぱりブラームスっぽい要素なんでしょうけど。
ヒンデミットはビオラ奏者、金管奏者などのように弾くのを避けて通れないような楽器の奏者にはよく知られ、愛され、高評価を得ているのですがピアニストはほとんど彼の作品を弾かないため彼のソナタは忘れられがちです。
ドイツ音楽の歴史のまぎれもない一部であり、それも素晴らしい20世紀、そしてドイツの音楽ですのでもうちょっと弾かれるようになるといいなあ~と思ってます。
私自身ももう一回チャレンジしたいです!
メルボルンのことが書きたい気分なのにトピックはあるものの中身がまとまらなく。
明日はお出かけなので(仕事が入らなければ)、見聞してこようと思います。
そんなこんなでメシアンの話パート2。
メシアンはいわゆる「共感覚(Synaesthesia)」を持つ作曲家として有名です。
共感覚というのは例えば音を聞くと色が「見える」(この記述だとちょっと不正確なので後で説明します)という感覚や、文字に色がついて「見える」、または音を聞くと味を「感じる」というような・・・要するに一つの感覚にもう一つ別の感覚がついてくる、ということです。
感覚、というのは五感の様々な組み合わせだけではなく温度やさらにはオルガズムも含まれるという分類の仕方もあるそうで(オルガズムを感じたときに色が見える人がいるらしいです)
一応脳のちょっと特殊な/異常な機能なので珍しいものらしいですが、特に害はないもので。
この感覚は実際に視覚的に目に「見える」のではなく、脳の該当領域が刺激されて「見える」ような経験をする・・・といった方が正しいのでしょうか。目から視神経を通って入ってくる情報ではないので。
そのメカニズムもまだ解明されていないことが多く。
うーん・・・説明しにくい感覚です。
とにかくメシアンは音を聞くと色を感じるタイプの共感覚保持者で。(ちなみに共感覚を持っている人のことを英語ではSynaestheteと呼ぶらしいです。未だになぜか私はSynaesthesiaもSynaestheteもちゃんと発音できませんが)
彼が書いた曲のいろんなところや、そして彼が開発した調のシステムのそれぞれの調に至っても彼は色彩を感じ、その感じた色彩=どんな色彩を感じる「べきか」というのを書き入れたりしてるんです。
楽譜に書き入れられたものもありますし、さまざまな文献にてその詳細は容易に見つけることができます。
「べきか」と言いましたが、メシアンは共感覚を持つ人は全て彼と同じように色彩を感じると思っていたそうです。実際には最近の研究で(脳に関する分野の中でも結構新しい研究エリアなんですが)共感覚保持者が感じる「感覚」は人それぞれで、例えば同じ和音を聞いても青の色彩を感じる人もいれば紫を感じる人もいるということがわかっています。
メシアンの感じる色彩はなかなかすごくて。
一番すごい記述がある調の色彩として「透明な硫黄の黄色に薄紫の反射、プルシアンブルーの斑、そして茶色と紫がかった青」というのがあります。
実世界にはないような色の組み合わせ、そしてその詳細さには本当に目が飛び出す思いです。
実際にそこまで詳細に感じることができるのか、というのは本人にしかわかりませんが、私がメシアンのことをすごい!と思うのはその音という時間とともに過ぎ去って行く物を捕まえて色彩を感じ取ることはもちろん、それを実際に言葉で表現できちゃうことです。
そしてそれに加えてその感じた色彩を音で表現できちゃうことです。
なのでメシアンの音楽って本当にビビッドな超現実色彩の洪水の世界なんですよね。
「時の終わりのための四重奏曲」で「時の終わりを告げる天使のための虹の錯乱」と題された楽章がありますが、メシアンの音楽って「虹の錯乱」的なものがいっぱいあります。
色が流れたり、爆発したり、きらきら光ったり・・・そういう音楽を書くメシアンが好きです。
ここから私の話になりますが、私も音に色(やテクスチャ/質感)を感じる共感覚保持者・・・らしく。
実は厳密に言って共感覚なのか、それとも自分の記憶と想像力の反射神経が速いだけなのかあんまり区別は付いていないんですが、とにかく和音を聴くとなんらかのメカニズムにより色を感じることはできます。
他の共感覚保持者の方の話を聞いてるとそうやって別の感覚が作動するのはその人にとっては至って普通のことで、特に何に役に立つとかいうことは考えていない、という人が多いです。
私も前はそうでした。でもメシアンの音楽を知り、彼の共感覚についての話を読み、さらに彼の音楽を愛し専門としてやっていくことを決めたところで自分の共感覚を磨けるものなら磨けないか、利用できるものなら利用できないか、と思い始めました。
先ほども言ったように音は現れては時間と共に消え、「感覚」を感じてもなかなかそれを「しっかり」感じるチャンスを与えてくれません。
共感覚は磨けるか、というのは今でもわかりませんが、でもなんとか自分でその感覚を捕まえて意識的に感じる努力をできるだけしました。(メシアンの音楽だけに限らず)
どんな努力、といわれても具体的には説明しにくいんですけど、自分にしつこいほど「何が見えた?」という風に問うたり、その問いに実際に言葉で答えたり・・・した覚えがあります。
そんなこんなでだんだんはっきりと「色彩」が見えてくると、メシアンの言うほどではなくとも、例えば一つの和音でも一つの色でできている訳じゃないんだな、ってのがわかってきて。
特にメシアンや他の20世紀の音楽で使われる複雑な和音は複雑な色彩の組み合わせで、今でも自分の中で
言葉にするのに間に合わない、言葉と感覚が至らないほどです。
そして「見える色」を利用することも覚えてきました。
例えば上記複雑な和音はちょっと音を間違えて弾いていても気づきにくく、間違えて覚えてしまいやすいですが、音が違えば感じる色彩も違い、その違いは音の違いよりも明らかなのでそれを頼りに音を覚えたりしています。
和音と色の組み合わせを覚えて、ここは記憶によるとこの色だからつまりこの音を弾く・・・ということでは全然なく、私の記憶と感覚のレベルだと音が合っているか間違っているかを色彩で判断するので精一杯です(笑)
音楽以外で共感覚の使い道・・・というのは今のところないですが、でもメシアンの音楽(のみならず音楽全般)を感じるに当たって、メシアンの感じているような色彩の世界を少しでも感じられる(と思う)のが共感覚を持っている(らしい)ことで一番よかったと思うことです。
共感覚を持ったこと、メシアンの音楽にめぐりあえたことを一種の運命のようなものと思って、これからも演奏家とはいえないにしてもメシアン専門でやっていきたいと思います。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より第17番「沈黙のまなざし」
(今回はマダム・ロリオの演奏にしてみました♪)
タイトルの抽象的さは音楽の抽象的さにがっつり比例しております(笑)
「沈黙のまなざし」。在学最終年にて私の十八番であった・・・という話はさておいて、弾くのにもちょっと一癖、慣れていない人が聴くにはちょーっとハードルが高い一曲です。
なぜならメロディーらしいメロディーが皆無といっていいので。この曲はさきほど話しました「メシアンの色彩」なるものがフルに使われている・・・むしろ色彩しかありません。音ではなく100%色彩の「音楽」なので「沈黙」のまなざし、というわけです。
まずはこの曲を弾く話から。とりあえず色彩を感じるしかありません。それ以上の意味も、メロディーもありません。
さまざまな複雑なハーモニーを作り出す和音の中の音のバランスは誰も教えてくれません。自分の音を聞いて、できるだけの繊細さで透明で、同時に細かい色彩にあふれた音楽を作り出す・・・
聴くにもまた色彩を感じるしかありません。メロディーがないので何に意識を集中するとかなく、ぼんやりと聴くのが一番だと。
あんまりハードルをあげちゃあなあ、ともさすがに思うので一つ:うちの母は私がこれを練習しているのを聴いてラヴェルの曲かと思ったそうです(笑)
一番最後のセクションは私はよくダイヤモンドの輝きに例えます。透明な宝石から虹色の輝きが細かく発される、ちょうどそんな感じ。
そして私がこの曲を例えるもう一つのものが、宮沢賢治の色彩の描写です。
もしかしたら(保証はないですが)彼の作品の色彩の描写を見るとこの曲の趣旨が少しわかるかも・・・?
実は個人的に曲の様々な箇所にぴったりだと思う文のリストを作ってあるのですが(自分のインスピレーションのため)・・・長くなるので作品の名前のリストだけ書いておきます。
「やまなし」、「水仙月の四日」、「銀河鉄道の夜」、「十力の金剛石」・・・などでの色彩についての文が参考になる・・・かも?
メシアンのどんな音楽、そして20世紀の音楽、さらに音楽全般にもいえることですが、もしも初めて聴いたときにぴんとこなくともひょんなきっかけ(または気分)で何かがつながることもあるので簡単に嫌いにならないでほしいです。
明日はお出かけなので(仕事が入らなければ)、見聞してこようと思います。
そんなこんなでメシアンの話パート2。
メシアンはいわゆる「共感覚(Synaesthesia)」を持つ作曲家として有名です。
共感覚というのは例えば音を聞くと色が「見える」(この記述だとちょっと不正確なので後で説明します)という感覚や、文字に色がついて「見える」、または音を聞くと味を「感じる」というような・・・要するに一つの感覚にもう一つ別の感覚がついてくる、ということです。
感覚、というのは五感の様々な組み合わせだけではなく温度やさらにはオルガズムも含まれるという分類の仕方もあるそうで(オルガズムを感じたときに色が見える人がいるらしいです)
一応脳のちょっと特殊な/異常な機能なので珍しいものらしいですが、特に害はないもので。
この感覚は実際に視覚的に目に「見える」のではなく、脳の該当領域が刺激されて「見える」ような経験をする・・・といった方が正しいのでしょうか。目から視神経を通って入ってくる情報ではないので。
そのメカニズムもまだ解明されていないことが多く。
うーん・・・説明しにくい感覚です。
とにかくメシアンは音を聞くと色を感じるタイプの共感覚保持者で。(ちなみに共感覚を持っている人のことを英語ではSynaestheteと呼ぶらしいです。未だになぜか私はSynaesthesiaもSynaestheteもちゃんと発音できませんが)
彼が書いた曲のいろんなところや、そして彼が開発した調のシステムのそれぞれの調に至っても彼は色彩を感じ、その感じた色彩=どんな色彩を感じる「べきか」というのを書き入れたりしてるんです。
楽譜に書き入れられたものもありますし、さまざまな文献にてその詳細は容易に見つけることができます。
「べきか」と言いましたが、メシアンは共感覚を持つ人は全て彼と同じように色彩を感じると思っていたそうです。実際には最近の研究で(脳に関する分野の中でも結構新しい研究エリアなんですが)共感覚保持者が感じる「感覚」は人それぞれで、例えば同じ和音を聞いても青の色彩を感じる人もいれば紫を感じる人もいるということがわかっています。
メシアンの感じる色彩はなかなかすごくて。
一番すごい記述がある調の色彩として「透明な硫黄の黄色に薄紫の反射、プルシアンブルーの斑、そして茶色と紫がかった青」というのがあります。
実世界にはないような色の組み合わせ、そしてその詳細さには本当に目が飛び出す思いです。
実際にそこまで詳細に感じることができるのか、というのは本人にしかわかりませんが、私がメシアンのことをすごい!と思うのはその音という時間とともに過ぎ去って行く物を捕まえて色彩を感じ取ることはもちろん、それを実際に言葉で表現できちゃうことです。
そしてそれに加えてその感じた色彩を音で表現できちゃうことです。
なのでメシアンの音楽って本当にビビッドな超現実色彩の洪水の世界なんですよね。
「時の終わりのための四重奏曲」で「時の終わりを告げる天使のための虹の錯乱」と題された楽章がありますが、メシアンの音楽って「虹の錯乱」的なものがいっぱいあります。
色が流れたり、爆発したり、きらきら光ったり・・・そういう音楽を書くメシアンが好きです。
ここから私の話になりますが、私も音に色(やテクスチャ/質感)を感じる共感覚保持者・・・らしく。
実は厳密に言って共感覚なのか、それとも自分の記憶と想像力の反射神経が速いだけなのかあんまり区別は付いていないんですが、とにかく和音を聴くとなんらかのメカニズムにより色を感じることはできます。
他の共感覚保持者の方の話を聞いてるとそうやって別の感覚が作動するのはその人にとっては至って普通のことで、特に何に役に立つとかいうことは考えていない、という人が多いです。
私も前はそうでした。でもメシアンの音楽を知り、彼の共感覚についての話を読み、さらに彼の音楽を愛し専門としてやっていくことを決めたところで自分の共感覚を磨けるものなら磨けないか、利用できるものなら利用できないか、と思い始めました。
先ほども言ったように音は現れては時間と共に消え、「感覚」を感じてもなかなかそれを「しっかり」感じるチャンスを与えてくれません。
共感覚は磨けるか、というのは今でもわかりませんが、でもなんとか自分でその感覚を捕まえて意識的に感じる努力をできるだけしました。(メシアンの音楽だけに限らず)
どんな努力、といわれても具体的には説明しにくいんですけど、自分にしつこいほど「何が見えた?」という風に問うたり、その問いに実際に言葉で答えたり・・・した覚えがあります。
そんなこんなでだんだんはっきりと「色彩」が見えてくると、メシアンの言うほどではなくとも、例えば一つの和音でも一つの色でできている訳じゃないんだな、ってのがわかってきて。
特にメシアンや他の20世紀の音楽で使われる複雑な和音は複雑な色彩の組み合わせで、今でも自分の中で
言葉にするのに間に合わない、言葉と感覚が至らないほどです。
そして「見える色」を利用することも覚えてきました。
例えば上記複雑な和音はちょっと音を間違えて弾いていても気づきにくく、間違えて覚えてしまいやすいですが、音が違えば感じる色彩も違い、その違いは音の違いよりも明らかなのでそれを頼りに音を覚えたりしています。
和音と色の組み合わせを覚えて、ここは記憶によるとこの色だからつまりこの音を弾く・・・ということでは全然なく、私の記憶と感覚のレベルだと音が合っているか間違っているかを色彩で判断するので精一杯です(笑)
音楽以外で共感覚の使い道・・・というのは今のところないですが、でもメシアンの音楽(のみならず音楽全般)を感じるに当たって、メシアンの感じているような色彩の世界を少しでも感じられる(と思う)のが共感覚を持っている(らしい)ことで一番よかったと思うことです。
共感覚を持ったこと、メシアンの音楽にめぐりあえたことを一種の運命のようなものと思って、これからも演奏家とはいえないにしてもメシアン専門でやっていきたいと思います。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より第17番「沈黙のまなざし」
(今回はマダム・ロリオの演奏にしてみました♪)
タイトルの抽象的さは音楽の抽象的さにがっつり比例しております(笑)
「沈黙のまなざし」。在学最終年にて私の十八番であった・・・という話はさておいて、弾くのにもちょっと一癖、慣れていない人が聴くにはちょーっとハードルが高い一曲です。
なぜならメロディーらしいメロディーが皆無といっていいので。この曲はさきほど話しました「メシアンの色彩」なるものがフルに使われている・・・むしろ色彩しかありません。音ではなく100%色彩の「音楽」なので「沈黙」のまなざし、というわけです。
まずはこの曲を弾く話から。とりあえず色彩を感じるしかありません。それ以上の意味も、メロディーもありません。
さまざまな複雑なハーモニーを作り出す和音の中の音のバランスは誰も教えてくれません。自分の音を聞いて、できるだけの繊細さで透明で、同時に細かい色彩にあふれた音楽を作り出す・・・
聴くにもまた色彩を感じるしかありません。メロディーがないので何に意識を集中するとかなく、ぼんやりと聴くのが一番だと。
あんまりハードルをあげちゃあなあ、ともさすがに思うので一つ:うちの母は私がこれを練習しているのを聴いてラヴェルの曲かと思ったそうです(笑)
一番最後のセクションは私はよくダイヤモンドの輝きに例えます。透明な宝石から虹色の輝きが細かく発される、ちょうどそんな感じ。
そして私がこの曲を例えるもう一つのものが、宮沢賢治の色彩の描写です。
もしかしたら(保証はないですが)彼の作品の色彩の描写を見るとこの曲の趣旨が少しわかるかも・・・?
実は個人的に曲の様々な箇所にぴったりだと思う文のリストを作ってあるのですが(自分のインスピレーションのため)・・・長くなるので作品の名前のリストだけ書いておきます。
「やまなし」、「水仙月の四日」、「銀河鉄道の夜」、「十力の金剛石」・・・などでの色彩についての文が参考になる・・・かも?
メシアンのどんな音楽、そして20世紀の音楽、さらに音楽全般にもいえることですが、もしも初めて聴いたときにぴんとこなくともひょんなきっかけ(または気分)で何かがつながることもあるので簡単に嫌いにならないでほしいです。
