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もう何回か話に出たかとは思いますが、私日本人としても結構小柄なもので。
オーストラリアに住んでるとバーのカウンターが高かったり(声を届かせるためにいつも足が宙に浮くほど乗り出してます)なんだかトイレの高さも微妙に違ったり(おなじく小柄な母談)、人に埋もれたりいろいろちょっとばかり不便なことはあったり。
ピアノの世界でもちょーっとだけ不都合がでます。まあ手は体の割りには大きいほうなのか1オクターブはとりあえず楽勝なんですけどそれ以上はきつくなったり。
他にもコンサートグランドピアノを全体重で押しても動かないという話もありますが、とりあえず手の話を。
私より手の小さい人も大学にはいたんであんまり言い訳したり贅沢いっちゃいけないのかもしれませんが、それでも普通のサイズの手の人の「普通」をやろうとすると手を傷める恐れがあり。
大学での私のピアノの先生は体格は普通なのに手が小さめらしく在学中はいろいろこのことについて話してくれました。
例えば曲を選ぶときもあんまり無理しちゃいけない、とか。ラフマニノフやリストのように自身が手が大きくて自分で弾くために書く作曲家の曲は気をつける、とか。(スクリャービンは自身が手が小さいのに小さい手には恐ろしい曲をたくさん書いてるんですよ。どうしてだろう。)
オクターブばっかり休みなく続く曲(ショパンの練習曲op. 25-10が思い浮かびます)や大きな和音ばっかりの曲(リストのリゴレットとか?)はとりあえずあきらめなさいと。
そしていつでもなるべく手は「閉じた」形にする、広げたままにしておかない、という風にもよく言われました。
あと先生はいい人なんですが多少せっかちで(例:演奏が終わって音が鳴り終わってないのにもう立ち上がる)怠けものなところがちょーっとありまして。
だからもちろん手を傷めないためなんですけど多少手に無理をさせるような箇所は音を抜いて良いよ、っていうんです。もちろん曲の音になるべく支障がでないようにしますが。でもたまに私が多少音的にこだわってるところも抜こうとするのであせります。
先生は安全第一だけれど私は若いから(?)多少無理したってそうたいして痛くもないから大丈夫よ♪的な、むしろ音楽に関しては少しくらい無理したいみたいなところがあるので。
で、無事今でもピアノに関して怪我をしたことはありません。入院中にかぎ編みのし過ぎで腱鞘炎になったことはありますが。あと薬の副作用で一回レッスンで指が動かなくなったこともあります。あ、それから精神的ショックで手が固まったことも。
なんにしろ原因はピアノを弾くことではないのでこの際オッケーです。
ただ手が小さいからといって小回りが効くとかそういうことは・・・自分に関しては自信がないです。テクニックは多少避けて通るというか二の次みたいなピアニストでしたので・・・
先生に・・・メールかかなきゃな、と思います。無事職をみつけて、またピアノもやってるってことが伝えたくて。
ただ先生は本当に口数少なくて、在学中はまあ奔放にピアノをやってた私のこともかわいがってくれたけれど今はどうかなーって気持ちもあり。
先生、大好きなんです。
こういう人なんですけど。
ミケランジェリに師事した経験があって(つまり私はミケランジェリの孫弟子!?チェロもね・・・私のチェロの先生、シュタルケルに習ったことがあるっていうんで私はシュタルケルの孫弟子・・・)、彼と同じくドビュッシーを得意としていて。
全体的に印象派が得意だけれど生徒が弾く分にはまあ結構心の広い人です。ただ基本ゆっくり過ぎる曲と難しい曲、あと毒がある曲は好きでないと私の経験によりわかりました(笑)私よりもずっと趣味のいい人ですから。
私に日本の音楽を弾いたらどうかと薦め、現代音楽専攻の道を示した人でもあり・・・
ほとんど毎年、ピアノのみの一日コンサートシリーズを主催(奏者は自身、大学での先生たち、そして優秀な生徒たち)したり、Port Fairyでの音楽フェスティバルの主催もやったりメルボルンの音楽の活動に貢献してる人です。
大学内の寮に一人で住んでいて、そこではコンサートグランドが3台あったり、おびただしい量の楽譜や本があったりでなかなか私は先生の家が好きで(笑)
実は私のチェロの先生(元)とも仲がよく、そして私の第2の師で友達でもあるメシアン弾きのマイケル・ハーヴィーと仲がよく。なにかとコネがいいんですよね。(ただマイケルは私の友達の先生でもあってそっちから知り合ったんですが)
生徒たちも本当にすごい人とかいっぱいいますし。
言動がどことなくコミカルでユニークで。生徒たちを知ってか知らずか笑わせてくれます。先ほど言いましたように口数は少ない人でいまいち何を考えてるか何を感じてるかわからないみたいなところもあり。
でもなにかにつけて優しい人です。
前述指がレッスンで動かなくなったときも自分も高血圧の薬を飲んでるから副作用があったりそれがつらかったりすることはよくわかる、というふうに慰めてくれましたし、うつがひどくて練習することもままならないときはなんとか無理せず少しずつ続けていけるよう支えてくれましたし。
本当に迷惑かけてばっかりで、そんなに演奏家としては先生のおめがねにかなうことはなかった生徒でしたけれど私が表現しようとしてること、冒険しようとしてること、そういうことは本当に認めてくれてある程度評価してくれてるようだったので・・・
またレッスンするならまずは先生にまた習いたいと思います。先生と呼びたい、呼べる人は彼しかいないと信じてますので。
なので今週メールを書かなきゃ!
今日の一曲: ポール・ロヴァット=クーパー 「Earth's Fury」
レコーディングはこちら
これだけピアノの話をしといて無神経にもほどがありますがブラスバンドのための曲です。
この録音で演奏しているトロンボーン奏者、ブレット・ベイカーのために書かれたコンチェルトにも似た感じの曲。
このブレット・ベイカーがすごいんですよ!トロンボーンって金管楽器で唯一スライド式、つまりは唯一音程を取るのに指じゃなくて腕の筋肉を使うじゃないですか。それがこんな超絶技巧で!
腕の筋肉ってそんなに細かく動くんですか!?といった印象です。
そして彼とともに弾いているのがBlack Dyke Band。彼らは本当にすごいです。技巧はもちろん、ブラスの音、というものの真髄を骨の髄から全身に感じます。
たとえこの曲が例えばオーケストラで聴くような名曲のような音楽的深さは不足していても、ブラスバンドというものはこの金管楽器たちの音の素晴らしさというものでカバーするどころかカバーする以上の素晴らしさがあって。
まっすぐで、輝かしくて、豊かで、明るくて、いくつもの音が全く一つにとけあい、あったかいブラスの音は最高です。
Earth's Furyとは大地の怒り、といったところでしょうか。「Twister」、「Fallen Memories」、「Succeed the Storm」の3楽章からなるこの曲は自然の猛威とそれとともに生きる人間の心を描いてるのかなーと思います。
だからでしょうかね、私は「Succeed the Storm」の前向きに突っ走っていく性格が好きです。
トロンボーンという楽器の限界、ブラスの集合体の音の素晴らしさを聴くにはもってこいの、エキサイティングで感動的な(メロディーとかよりは音に)一曲です。
オーストラリアに住んでるとバーのカウンターが高かったり(声を届かせるためにいつも足が宙に浮くほど乗り出してます)なんだかトイレの高さも微妙に違ったり(おなじく小柄な母談)、人に埋もれたりいろいろちょっとばかり不便なことはあったり。
ピアノの世界でもちょーっとだけ不都合がでます。まあ手は体の割りには大きいほうなのか1オクターブはとりあえず楽勝なんですけどそれ以上はきつくなったり。
他にもコンサートグランドピアノを全体重で押しても動かないという話もありますが、とりあえず手の話を。
私より手の小さい人も大学にはいたんであんまり言い訳したり贅沢いっちゃいけないのかもしれませんが、それでも普通のサイズの手の人の「普通」をやろうとすると手を傷める恐れがあり。
大学での私のピアノの先生は体格は普通なのに手が小さめらしく在学中はいろいろこのことについて話してくれました。
例えば曲を選ぶときもあんまり無理しちゃいけない、とか。ラフマニノフやリストのように自身が手が大きくて自分で弾くために書く作曲家の曲は気をつける、とか。(スクリャービンは自身が手が小さいのに小さい手には恐ろしい曲をたくさん書いてるんですよ。どうしてだろう。)
オクターブばっかり休みなく続く曲(ショパンの練習曲op. 25-10が思い浮かびます)や大きな和音ばっかりの曲(リストのリゴレットとか?)はとりあえずあきらめなさいと。
そしていつでもなるべく手は「閉じた」形にする、広げたままにしておかない、という風にもよく言われました。
あと先生はいい人なんですが多少せっかちで(例:演奏が終わって音が鳴り終わってないのにもう立ち上がる)怠けものなところがちょーっとありまして。
だからもちろん手を傷めないためなんですけど多少手に無理をさせるような箇所は音を抜いて良いよ、っていうんです。もちろん曲の音になるべく支障がでないようにしますが。でもたまに私が多少音的にこだわってるところも抜こうとするのであせります。
先生は安全第一だけれど私は若いから(?)多少無理したってそうたいして痛くもないから大丈夫よ♪的な、むしろ音楽に関しては少しくらい無理したいみたいなところがあるので。
で、無事今でもピアノに関して怪我をしたことはありません。入院中にかぎ編みのし過ぎで腱鞘炎になったことはありますが。あと薬の副作用で一回レッスンで指が動かなくなったこともあります。あ、それから精神的ショックで手が固まったことも。
なんにしろ原因はピアノを弾くことではないのでこの際オッケーです。
ただ手が小さいからといって小回りが効くとかそういうことは・・・自分に関しては自信がないです。テクニックは多少避けて通るというか二の次みたいなピアニストでしたので・・・
先生に・・・メールかかなきゃな、と思います。無事職をみつけて、またピアノもやってるってことが伝えたくて。
ただ先生は本当に口数少なくて、在学中はまあ奔放にピアノをやってた私のこともかわいがってくれたけれど今はどうかなーって気持ちもあり。
先生、大好きなんです。
こういう人なんですけど。
ミケランジェリに師事した経験があって(つまり私はミケランジェリの孫弟子!?チェロもね・・・私のチェロの先生、シュタルケルに習ったことがあるっていうんで私はシュタルケルの孫弟子・・・)、彼と同じくドビュッシーを得意としていて。
全体的に印象派が得意だけれど生徒が弾く分にはまあ結構心の広い人です。ただ基本ゆっくり過ぎる曲と難しい曲、あと毒がある曲は好きでないと私の経験によりわかりました(笑)私よりもずっと趣味のいい人ですから。
私に日本の音楽を弾いたらどうかと薦め、現代音楽専攻の道を示した人でもあり・・・
ほとんど毎年、ピアノのみの一日コンサートシリーズを主催(奏者は自身、大学での先生たち、そして優秀な生徒たち)したり、Port Fairyでの音楽フェスティバルの主催もやったりメルボルンの音楽の活動に貢献してる人です。
大学内の寮に一人で住んでいて、そこではコンサートグランドが3台あったり、おびただしい量の楽譜や本があったりでなかなか私は先生の家が好きで(笑)
実は私のチェロの先生(元)とも仲がよく、そして私の第2の師で友達でもあるメシアン弾きのマイケル・ハーヴィーと仲がよく。なにかとコネがいいんですよね。(ただマイケルは私の友達の先生でもあってそっちから知り合ったんですが)
生徒たちも本当にすごい人とかいっぱいいますし。
言動がどことなくコミカルでユニークで。生徒たちを知ってか知らずか笑わせてくれます。先ほど言いましたように口数は少ない人でいまいち何を考えてるか何を感じてるかわからないみたいなところもあり。
でもなにかにつけて優しい人です。
前述指がレッスンで動かなくなったときも自分も高血圧の薬を飲んでるから副作用があったりそれがつらかったりすることはよくわかる、というふうに慰めてくれましたし、うつがひどくて練習することもままならないときはなんとか無理せず少しずつ続けていけるよう支えてくれましたし。
本当に迷惑かけてばっかりで、そんなに演奏家としては先生のおめがねにかなうことはなかった生徒でしたけれど私が表現しようとしてること、冒険しようとしてること、そういうことは本当に認めてくれてある程度評価してくれてるようだったので・・・
またレッスンするならまずは先生にまた習いたいと思います。先生と呼びたい、呼べる人は彼しかいないと信じてますので。
なので今週メールを書かなきゃ!
今日の一曲: ポール・ロヴァット=クーパー 「Earth's Fury」
レコーディングはこちら
これだけピアノの話をしといて無神経にもほどがありますがブラスバンドのための曲です。
この録音で演奏しているトロンボーン奏者、ブレット・ベイカーのために書かれたコンチェルトにも似た感じの曲。
このブレット・ベイカーがすごいんですよ!トロンボーンって金管楽器で唯一スライド式、つまりは唯一音程を取るのに指じゃなくて腕の筋肉を使うじゃないですか。それがこんな超絶技巧で!
腕の筋肉ってそんなに細かく動くんですか!?といった印象です。
そして彼とともに弾いているのがBlack Dyke Band。彼らは本当にすごいです。技巧はもちろん、ブラスの音、というものの真髄を骨の髄から全身に感じます。
たとえこの曲が例えばオーケストラで聴くような名曲のような音楽的深さは不足していても、ブラスバンドというものはこの金管楽器たちの音の素晴らしさというものでカバーするどころかカバーする以上の素晴らしさがあって。
まっすぐで、輝かしくて、豊かで、明るくて、いくつもの音が全く一つにとけあい、あったかいブラスの音は最高です。
Earth's Furyとは大地の怒り、といったところでしょうか。「Twister」、「Fallen Memories」、「Succeed the Storm」の3楽章からなるこの曲は自然の猛威とそれとともに生きる人間の心を描いてるのかなーと思います。
だからでしょうかね、私は「Succeed the Storm」の前向きに突っ走っていく性格が好きです。
トロンボーンという楽器の限界、ブラスの集合体の音の素晴らしさを聴くにはもってこいの、エキサイティングで感動的な(メロディーとかよりは音に)一曲です。
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まずはちょっとした問題を。
黒くて白くて足が3本に金の靴下一足半、これなーんだ?
それはクラシック音楽に普通に使われる楽器の中で一番演奏人口が多い楽器、ピアノです。
これは私が大学で愛用していた練習室のピアノです。この練習室、わからないかもしれませんが非常に狭くて、他の人があんまり使わない(ピアノ以外の人は使えないくらい狭いです)のでよく住んでました(?)。
ピアノ。正式名はピアノフォルテ。
親戚楽器はいろいろいますが、音の強弱がつけられる、つまりピアノ=弱、フォルテ=強でピアノフォルテ、ということです。
まさに「私はピアノであり、フォルテである」(聖書の「黙示録」をもじってみました)
ちなみに大学時代私のあだ名はピアノでした。ピアノを弾くのとは関係なしにピアノの「小さな、ソフトな」という意味合いがなんとなく私に合ったそうで。
おっと脱線。それまで主流だったハープシコードにはないその特徴がピアノをポピュラーにし、そして生まれてからピアノはずっとずっと進化し続けてきたんです。
例えばベートーベンのころと比べて今は鍵盤の鍵の数も88と増え(ベーゼンドルファー製のピアノはもっとあります)低音から高音まで幅広い音域の音を出すようになり。
そしてメカニズムもずいぶんと変わりました。
他の楽器の奏者の人はピアノは楽器よりも機械に近いって言うんですよ。
まあ極端に言えば声は特別ですし、それに弦楽器なんか手作りで作られ、楽器はだいたい奏者の動きが楽器と一体になって音がでる、という感じですが・・・ピアノはキーを指で押したあとピタゴラスイッチですからね(笑)
でも人間の繊細なところをこれだけ忠実に表現できる機械はどこにもないと思います。
強弱はもちろん、音質、ペダルによる細やかな表現・・・弾く人間さえどう動けばいいかわかっていれば何でもそれに大して忠実に音に反映させる。
キーを押して、それがフェルトで包まれたハンマーを動かし弦を叩く・・・それだけなのになんでこんなに細やかな表現ができるんだろう?と不思議でたまりません。
どんなに技術が進んだ今でも電子ピアノはどうしても本物のピアノに追いつかないのはまるでカメラが人間の目に追いつかないというのと似たようなところがありますね。
そしてピアノの不思議なところがもうひとつ。
ピアノっていうのは鍵盤、ボディ、ハンマー、弦を押さえる仕組みなどが木でできていて、そしてフレーム、弦、ペダルなどが金属でできているんです。
だからピアノは弾き方や曲によって音が木製になったり、金属製に変身したりするんです。
例えばショパン、モーツァルト、ブラームスやベートーベンでは木製の色が強く、バルトークは半々、ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどは金属感が強いです。
そしてピアノは何も鍵盤やペダルのみで弾くものではありません。いつもはハンマーが弦を弾く、撥弦楽器の一種ですが、何もそれに限ったことではなく・・・
前少しお話しましたが特殊奏法ではピアノの中の弦を弾いたり(はじいたり、のほうの弾いたりです)、ピアノの弦を押さえたまま鍵盤を弾いたり、ピアノの弦の上に紙を置いたりしてピアノを弾いたり、ピアノを叩いたり・・・
弦楽器になったり、打楽器になったりもするのです。
(上記の奏法はグランドピアノのみでできるものであり、正しくやらないと(正しくやっても?)ピアノを傷めることになる可能性があるので経験を積んだピアニストにより作曲家がやれっていっているときのみ試すことをお勧めします)
実は今日は久しぶりにその特殊奏法を多用するジョージ・クラムの音楽を弾きました。うちのピアノはアップライトですのでできるだけやりましたが彼は本当にピアノの表現の世界を広げましたねー。
弾くたびに音の範囲が広がり、実験してみることで新しい音が生まれるのがくすぐったいやらうれしいやらで。
ずっとずっとピアノを弾いていきたいです。仕事とか趣味というものを超えて、人間として抱く思い、表現したいことをみんな受け止めて形にしてくれるこの楽器が好きだから。
グランドピアノの前に座ってるとまるでそういう風に包み込んでくれる大きな存在と向き合っているようで・・・機械ではなく、血の通った存在と一緒にいるようで、ものすごく落ち着くんですよ。
いつかはベーゼンドルファーの・・・なんて贅沢は言わずともグランドピアノと一緒に住みたいです。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「マクロコスモス」第2巻 より 「Litany of the Galactic Bells」
ピアノの素晴らしさ、音の幅、クラムの表現方法・・・全部何とかしようとして「マクロコスモス」の中で多少妥協して落ち着いたのがこの曲。
実際弾いたこともあります。マクロコスモス第2巻全12曲の3分の2ほど弾いたはずです。そしてそれらの一つ一つを弾きながらピアノで出せる音、音の間の間についてたくさん、たくさん考えさせられました。
そのうちの「Litany of Galactic Bells」。銀河の鐘の連祷、と訳されているのを見ましたが・・・
まるで超新星の爆発のような輝かしい、幾色の光が夜空に、宇宙に輝いているような和音の爆発。
そして追憶のような遠い歌の上にきらめく遠い星・・・
ほどけたような、切ないベートーベンの「ハンマークラヴィーア」ソナタからの一節。それがまた夢で聞いているようにほどけて行き・・・というようなイメージで私個人は弾いてます。
ペダルを踏んだままにしていることが多いクラムの音楽。ピアノをやっている人なら音がにごるのでは?と思うかもしれませんがその濁ったおとの響きがまた複雑な背景を作り出し、ペダルを踏んだままある種のソフトなタッチで弾くことでこの曲で聞かれるような夢の中のような雰囲気を作り出せるみたいです。
ちなみにマクロコスモス第1巻、第2巻はそれぞれの曲に12星座(プラス献呈した人のイニシャル)が割り当てられてますが、この曲は獅子座。たぶん獅子座流星群をあらわしてるのではないでしょうか。
クラムも金属製の音を得意としているため大音量で高音の玉虫色の不協和音は耳障りに感じるかもしれませんがぜひこの天文ショーに耳を傾けていただきたいです。
最後に。クラムの音楽は大変詳細的に指図が書いてありますが、録音によってその解釈や結果的に出る音にずいぶんと差がでます。上に上げたのは私も所有している録音で、Margaret Leng-Tanという現代音楽専門の女性ピアニストのものです。これが一番オーソドックスっぽいかなーということですが。
あんまりでも聴かないんですよね。やっぱり自分の頭の中、心の中に聴こえる自分の解釈が自分に一番しっくりくるので。
クラムはもっと弾きたいですしもっといろんな人に知ってもらいたいです♪
黒くて白くて足が3本に金の靴下一足半、これなーんだ?
それはクラシック音楽に普通に使われる楽器の中で一番演奏人口が多い楽器、ピアノです。
ピアノ。正式名はピアノフォルテ。
親戚楽器はいろいろいますが、音の強弱がつけられる、つまりピアノ=弱、フォルテ=強でピアノフォルテ、ということです。
まさに「私はピアノであり、フォルテである」(聖書の「黙示録」をもじってみました)
ちなみに大学時代私のあだ名はピアノでした。ピアノを弾くのとは関係なしにピアノの「小さな、ソフトな」という意味合いがなんとなく私に合ったそうで。
おっと脱線。それまで主流だったハープシコードにはないその特徴がピアノをポピュラーにし、そして生まれてからピアノはずっとずっと進化し続けてきたんです。
例えばベートーベンのころと比べて今は鍵盤の鍵の数も88と増え(ベーゼンドルファー製のピアノはもっとあります)低音から高音まで幅広い音域の音を出すようになり。
そしてメカニズムもずいぶんと変わりました。
他の楽器の奏者の人はピアノは楽器よりも機械に近いって言うんですよ。
まあ極端に言えば声は特別ですし、それに弦楽器なんか手作りで作られ、楽器はだいたい奏者の動きが楽器と一体になって音がでる、という感じですが・・・ピアノはキーを指で押したあとピタゴラスイッチですからね(笑)
でも人間の繊細なところをこれだけ忠実に表現できる機械はどこにもないと思います。
強弱はもちろん、音質、ペダルによる細やかな表現・・・弾く人間さえどう動けばいいかわかっていれば何でもそれに大して忠実に音に反映させる。
キーを押して、それがフェルトで包まれたハンマーを動かし弦を叩く・・・それだけなのになんでこんなに細やかな表現ができるんだろう?と不思議でたまりません。
どんなに技術が進んだ今でも電子ピアノはどうしても本物のピアノに追いつかないのはまるでカメラが人間の目に追いつかないというのと似たようなところがありますね。
そしてピアノの不思議なところがもうひとつ。
ピアノっていうのは鍵盤、ボディ、ハンマー、弦を押さえる仕組みなどが木でできていて、そしてフレーム、弦、ペダルなどが金属でできているんです。
だからピアノは弾き方や曲によって音が木製になったり、金属製に変身したりするんです。
例えばショパン、モーツァルト、ブラームスやベートーベンでは木製の色が強く、バルトークは半々、ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどは金属感が強いです。
そしてピアノは何も鍵盤やペダルのみで弾くものではありません。いつもはハンマーが弦を弾く、撥弦楽器の一種ですが、何もそれに限ったことではなく・・・
前少しお話しましたが特殊奏法ではピアノの中の弦を弾いたり(はじいたり、のほうの弾いたりです)、ピアノの弦を押さえたまま鍵盤を弾いたり、ピアノの弦の上に紙を置いたりしてピアノを弾いたり、ピアノを叩いたり・・・
弦楽器になったり、打楽器になったりもするのです。
(上記の奏法はグランドピアノのみでできるものであり、正しくやらないと(正しくやっても?)ピアノを傷めることになる可能性があるので経験を積んだピアニストにより作曲家がやれっていっているときのみ試すことをお勧めします)
実は今日は久しぶりにその特殊奏法を多用するジョージ・クラムの音楽を弾きました。うちのピアノはアップライトですのでできるだけやりましたが彼は本当にピアノの表現の世界を広げましたねー。
弾くたびに音の範囲が広がり、実験してみることで新しい音が生まれるのがくすぐったいやらうれしいやらで。
ずっとずっとピアノを弾いていきたいです。仕事とか趣味というものを超えて、人間として抱く思い、表現したいことをみんな受け止めて形にしてくれるこの楽器が好きだから。
グランドピアノの前に座ってるとまるでそういう風に包み込んでくれる大きな存在と向き合っているようで・・・機械ではなく、血の通った存在と一緒にいるようで、ものすごく落ち着くんですよ。
いつかはベーゼンドルファーの・・・なんて贅沢は言わずともグランドピアノと一緒に住みたいです。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「マクロコスモス」第2巻 より 「Litany of the Galactic Bells」
ピアノの素晴らしさ、音の幅、クラムの表現方法・・・全部何とかしようとして「マクロコスモス」の中で多少妥協して落ち着いたのがこの曲。
実際弾いたこともあります。マクロコスモス第2巻全12曲の3分の2ほど弾いたはずです。そしてそれらの一つ一つを弾きながらピアノで出せる音、音の間の間についてたくさん、たくさん考えさせられました。
そのうちの「Litany of Galactic Bells」。銀河の鐘の連祷、と訳されているのを見ましたが・・・
まるで超新星の爆発のような輝かしい、幾色の光が夜空に、宇宙に輝いているような和音の爆発。
そして追憶のような遠い歌の上にきらめく遠い星・・・
ほどけたような、切ないベートーベンの「ハンマークラヴィーア」ソナタからの一節。それがまた夢で聞いているようにほどけて行き・・・というようなイメージで私個人は弾いてます。
ペダルを踏んだままにしていることが多いクラムの音楽。ピアノをやっている人なら音がにごるのでは?と思うかもしれませんがその濁ったおとの響きがまた複雑な背景を作り出し、ペダルを踏んだままある種のソフトなタッチで弾くことでこの曲で聞かれるような夢の中のような雰囲気を作り出せるみたいです。
ちなみにマクロコスモス第1巻、第2巻はそれぞれの曲に12星座(プラス献呈した人のイニシャル)が割り当てられてますが、この曲は獅子座。たぶん獅子座流星群をあらわしてるのではないでしょうか。
クラムも金属製の音を得意としているため大音量で高音の玉虫色の不協和音は耳障りに感じるかもしれませんがぜひこの天文ショーに耳を傾けていただきたいです。
最後に。クラムの音楽は大変詳細的に指図が書いてありますが、録音によってその解釈や結果的に出る音にずいぶんと差がでます。上に上げたのは私も所有している録音で、Margaret Leng-Tanという現代音楽専門の女性ピアニストのものです。これが一番オーソドックスっぽいかなーということですが。
あんまりでも聴かないんですよね。やっぱり自分の頭の中、心の中に聴こえる自分の解釈が自分に一番しっくりくるので。
クラムはもっと弾きたいですしもっといろんな人に知ってもらいたいです♪
人生80年・・・と格好つけても始まりませんね。
それに今から話すことのほとんどは人の寿命がもっと短かった時代のこと。
人が生涯を通して変わるように、作曲家によって創られた音楽も変わっていきます。
短命と思われるモーツァルトだって初期(といっても彼の場合はスタートがずいぶん早かったですが)と晩年(といっても享年は35歳)を比べるとそこそこ変化は聞き取れます。
もしかしたらクラシックをまったく知らない人でも最早期と最晩期の作品を聞き比べてもらったらどっちがどっちかわかるのでは?と思ってます。
音楽から感じ取れる「感じ」は必ずしも音楽的なものとは限らないので。
若いころの音楽が魅力的なのは作曲家がいろんなところで冒険や実験してるなーってのが伝わってくるときですね。スケールがでかかったり、自分で弾くのを想定して技巧を凝らしてみたり、楽器や音の限界を追求してみたり、内に有り余るパワーを表現してみたくなったり。そして自分のスタイルというかを追求し稀に迷走するのもこの時期ならでは。
バルトークの初期の粗暴さとかパワーとかいいですね。あとプロコフィエフなんかものすごーく不協和音をたくさん使ってすごい前衛的な曲とか書いてました。ストラヴィンスキーも初期は巨大なオーケストラを用いてて。彼らは後に新古典主義に傾いてもっと洗練された、いろいろそぎ落とした音楽を書いたんですけど、この若気の至り、っていうのがものすごく魅力的です。
反対にシェーンベルクとかシュトラウスとか前衛的な音楽を書いたドイツの作曲家たちのあまり知られてない若いころの作品を見てみると驚くほどブラームス的(ばりばりドイツロマン派)だったりしますね。あー若いころは傾倒してたんだなーでもみんな旅立ってったんだなーと思うとなんかほほえましかったり残念だったり。
フランスでもドビュッシーが同じような経緯をたどってます。
あとショパンが8歳のときに作曲したポロネーズを弾いたことがありますが、あれは8歳にしてはものすごく成熟してる、しっかりしてる曲でびっくりしました。よっぽど(笑)しっかりしてある意味ませてた子供だったんでしょうね。
私はでもどっちかというと晩年の音楽に惹かれます。
なんかものすごく悟った、道を究めた、余計なものをそぎおとした感があって若いころの曲が聞いててエキサイティングなら晩年の曲はエキサイティングな曲でも落ち着く何かがあるようで。
16歳で書いたピアノ四重奏曲からその暗さの片鱗を存分に見せていた闇に取り付かれた作曲家・マーラーの最後のいくつかの交響曲は光を見据えてるようなところがありますし、若いころからソヴィエト政府に反発していたショスタコーヴィチも晩年の作品ではどこかそれを含めて(まあ政府も多少はスターリンの死で変わってましたが)いろいろ受け入れているような、悟っているような感じで。
クラシック音楽史で一番豹変したのはおそらくスクリャービンではないでしょうか。ロシアの作曲家だった彼は最初はショパンにも似たピアノのロマン主義の象徴みたいな曲を書いたけれどどっかで神秘主義に傾倒してまったくわけのわからない音楽(といっても過言ではない)を書くようになってしまったという。あまりにも表現が個人的過ぎてついてける人が晩年にもなるとほとんどいなくて、むしろどんなスタイルでもない自分の道を行ってしまったという。
私が好きなのは最最晩年の曲たち。作曲家が死にどう向き合うか、そして死の訪れを感じ取っているのがどう音楽に現れるかは私の好奇心の一大テーマです。こないだ語ったとおり死臭のする音楽に惹かれるもので。
マーラーの交響曲第9番の最終楽章、ショスタコーヴィチのビオラソナタや弦楽四重奏第15番、メシアンの四重協奏曲、そしてモーツァルトのレクイエム・・・最後の曲(やそれに近いもの)はものすごく特別な何かがあります。
そうそう、作曲家は晩年にビオラ曲を書くことが多いですね。ショスタコーヴィチ、バルトーク、シューマン、ブラームス・・・これはビオラになにかあるのか、それともただ単にそこでやっとビオラに手が回ったからなのか・・・
作曲家によっては短命なため40代、50代の作品というものが存在しない人もいます(モーツァルト、シューベルトなど)。こういう人たちは長生きしたらどんな「晩年の音楽」をかいたんだろうと思うとすこし残念なような気もします。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 四重協奏曲(コンセール・ア・キャトル) 第2楽章
ある人が最後に書いた曲を「白鳥の歌」と言うそうですがこれはまさにメシアンの白鳥の歌。
その中でも第2楽章は現代音楽が苦手という人でも楽しめる美しい曲です。
メシアンは敬虔なカトリック信者で、生涯パリのサン・トリニテ教会でオルガニストを務めました。
彼の音楽はすべて神のため、そして無神論者の私でもメシアンの音楽には天国があると思います。
この楽章にもそんなある一種の天国があるような気がします。ピアノ、フルート、オーボエ、チェロといったソロ楽器たちの掛け合いが本当にこの世のものではないようで。
ちなみにこの曲、メシアン自身は最終楽章である第4楽章の途中で亡くなってしまって、奥さんのロリオ夫人が彼の愛弟子であったジョージ・ベンジャミンの手を借りて完成させたものです。(つまりメシアン自身は実際の演奏を聞いていません)
なんかものすごくほほえましい話なんですが、第4楽章を聴いてるとある時点から「おや?これはメシアンと違う?」というところになるのがやっぱりメシアンの音楽の存在の特別さを感じますね。
それに今から話すことのほとんどは人の寿命がもっと短かった時代のこと。
人が生涯を通して変わるように、作曲家によって創られた音楽も変わっていきます。
短命と思われるモーツァルトだって初期(といっても彼の場合はスタートがずいぶん早かったですが)と晩年(といっても享年は35歳)を比べるとそこそこ変化は聞き取れます。
もしかしたらクラシックをまったく知らない人でも最早期と最晩期の作品を聞き比べてもらったらどっちがどっちかわかるのでは?と思ってます。
音楽から感じ取れる「感じ」は必ずしも音楽的なものとは限らないので。
若いころの音楽が魅力的なのは作曲家がいろんなところで冒険や実験してるなーってのが伝わってくるときですね。スケールがでかかったり、自分で弾くのを想定して技巧を凝らしてみたり、楽器や音の限界を追求してみたり、内に有り余るパワーを表現してみたくなったり。そして自分のスタイルというかを追求し稀に迷走するのもこの時期ならでは。
バルトークの初期の粗暴さとかパワーとかいいですね。あとプロコフィエフなんかものすごーく不協和音をたくさん使ってすごい前衛的な曲とか書いてました。ストラヴィンスキーも初期は巨大なオーケストラを用いてて。彼らは後に新古典主義に傾いてもっと洗練された、いろいろそぎ落とした音楽を書いたんですけど、この若気の至り、っていうのがものすごく魅力的です。
反対にシェーンベルクとかシュトラウスとか前衛的な音楽を書いたドイツの作曲家たちのあまり知られてない若いころの作品を見てみると驚くほどブラームス的(ばりばりドイツロマン派)だったりしますね。あー若いころは傾倒してたんだなーでもみんな旅立ってったんだなーと思うとなんかほほえましかったり残念だったり。
フランスでもドビュッシーが同じような経緯をたどってます。
あとショパンが8歳のときに作曲したポロネーズを弾いたことがありますが、あれは8歳にしてはものすごく成熟してる、しっかりしてる曲でびっくりしました。よっぽど(笑)しっかりしてある意味ませてた子供だったんでしょうね。
私はでもどっちかというと晩年の音楽に惹かれます。
なんかものすごく悟った、道を究めた、余計なものをそぎおとした感があって若いころの曲が聞いててエキサイティングなら晩年の曲はエキサイティングな曲でも落ち着く何かがあるようで。
16歳で書いたピアノ四重奏曲からその暗さの片鱗を存分に見せていた闇に取り付かれた作曲家・マーラーの最後のいくつかの交響曲は光を見据えてるようなところがありますし、若いころからソヴィエト政府に反発していたショスタコーヴィチも晩年の作品ではどこかそれを含めて(まあ政府も多少はスターリンの死で変わってましたが)いろいろ受け入れているような、悟っているような感じで。
クラシック音楽史で一番豹変したのはおそらくスクリャービンではないでしょうか。ロシアの作曲家だった彼は最初はショパンにも似たピアノのロマン主義の象徴みたいな曲を書いたけれどどっかで神秘主義に傾倒してまったくわけのわからない音楽(といっても過言ではない)を書くようになってしまったという。あまりにも表現が個人的過ぎてついてける人が晩年にもなるとほとんどいなくて、むしろどんなスタイルでもない自分の道を行ってしまったという。
私が好きなのは最最晩年の曲たち。作曲家が死にどう向き合うか、そして死の訪れを感じ取っているのがどう音楽に現れるかは私の好奇心の一大テーマです。こないだ語ったとおり死臭のする音楽に惹かれるもので。
マーラーの交響曲第9番の最終楽章、ショスタコーヴィチのビオラソナタや弦楽四重奏第15番、メシアンの四重協奏曲、そしてモーツァルトのレクイエム・・・最後の曲(やそれに近いもの)はものすごく特別な何かがあります。
そうそう、作曲家は晩年にビオラ曲を書くことが多いですね。ショスタコーヴィチ、バルトーク、シューマン、ブラームス・・・これはビオラになにかあるのか、それともただ単にそこでやっとビオラに手が回ったからなのか・・・
作曲家によっては短命なため40代、50代の作品というものが存在しない人もいます(モーツァルト、シューベルトなど)。こういう人たちは長生きしたらどんな「晩年の音楽」をかいたんだろうと思うとすこし残念なような気もします。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 四重協奏曲(コンセール・ア・キャトル) 第2楽章
ある人が最後に書いた曲を「白鳥の歌」と言うそうですがこれはまさにメシアンの白鳥の歌。
その中でも第2楽章は現代音楽が苦手という人でも楽しめる美しい曲です。
メシアンは敬虔なカトリック信者で、生涯パリのサン・トリニテ教会でオルガニストを務めました。
彼の音楽はすべて神のため、そして無神論者の私でもメシアンの音楽には天国があると思います。
この楽章にもそんなある一種の天国があるような気がします。ピアノ、フルート、オーボエ、チェロといったソロ楽器たちの掛け合いが本当にこの世のものではないようで。
ちなみにこの曲、メシアン自身は最終楽章である第4楽章の途中で亡くなってしまって、奥さんのロリオ夫人が彼の愛弟子であったジョージ・ベンジャミンの手を借りて完成させたものです。(つまりメシアン自身は実際の演奏を聞いていません)
なんかものすごくほほえましい話なんですが、第4楽章を聴いてるとある時点から「おや?これはメシアンと違う?」というところになるのがやっぱりメシアンの音楽の存在の特別さを感じますね。
お気づきかもしれませんが私は声楽よりは器楽のほうが断然好きで。
言葉がないのがいいのか、それとも器楽曲のかかれかたが自分に合うのか、はたまた楽器の音が声よりすきなのか、多分全部ある程度理由としてあるんですけど・・・
器楽曲でも、言葉なしにいろんなことを伝えてくれます。
そのなかの一つのやり方が「楽器をどこでどう使うか」。
もちろんそのメロディーにあった楽器を、とか他の楽器との相性、とかそれに作曲家の好みもありますが(例えばプロコフィエフはクラリネットを多用します)、例えば俳句で季語によって季節を示唆するように楽器を象徴的に使うことも多々あります。
例えば一番分かりやすいのはフルート=鳥の声、でしょうか。
これはどっちかというと古典的なんで多少作曲家に飽きられ気味(?)なような気もしますけどフルートでそれらしいものを吹けばだいたい鳥の声に聞こえます。
ベートーベンの第6交響曲「田園」でのナイチンゲールの鳴き声なんか二つの音だけで不思議と鳥の声になりますね。
ピーターと狼でも小鳥役はフルート、そしてさらにオーボエはあひる役です。
白鳥の湖でもオーボエは終始巨大なソロがあり、それもまた白鳥(あひる)を表しているんでしょう。
こないだのカルミナ・ブラーナの焼かれた白鳥はオーボエのでかいバージョン(音の出し方からいうとです。形は全然違いますが)のファゴットの最高音域で白鳥の苦しさを表したり、なんてのもあります。
オーボエは他にも牧童の笛を表すこともあります。がらんと開けたなかでのソロでのびのびと弾いてるのはきっとそうです。実際に牧童がどんな笛を吹いてたか分かりませんがオーボエは結構古い楽器なので似たのを使ってたのかもしれませんね。
ベルリオーズの幻想交響曲第3楽章で牧童の笛が山々の間を呼び合うのが聞けます。
宗教絵画では天使ってたいていハープかトランペットを吹いていますが、これは音楽でも同じです。
とくにトランペットはバロック時代の宗教音楽でも聴きますし、それにまず悪役として使われることはほとんどないですね。
英雄的なセッティングとか、ファンファーレとかが目立ちます。
私の知ってる限りでトランペットが悪役なのはただ一曲。リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」で「英雄の戦い」の部分でトランペットが敵のテーマを奏でます。これがかっこいい!(ちなみにこの場合シュトラウスの好きで多用するホルンがいいもんです)
逆に悪魔や死神はバイオリンを持って描かれることが多いですね。
悪魔や死神をバイオリンのソロで表すことは多い・・・といいたいけれどバイオリンは常時弾いてますしソロも多いですし。
でも弦のチューニングを変えることにより音質を変えて奇怪な感じの音で悪魔や死神をあらわすという芸もあり。
例えばそのテクニックを使うサン=サーンスの「死の舞踏」、マーラーの交響曲第4番のスケルツォでバイオリンのソロが入ってくる瞬間のインパクトはすごいものです。少しの違和感がします。
ちなみに。
先ほどの「英雄の生涯」で「英雄の伴侶」は長いバイオリンソロで表されます。ロマンチックだったり、きまぐれだったり、おしゃべりだったり、口うるさかったり器用だったり・・・そんな多面的な「女性像」を表すに器用で感情豊かなバイオリンはぴったりなんでしょうね。
最後に打楽器の話を。
音楽のお国柄や背景の雰囲気を出すのに一役かってるのは実は打楽器群です。
たとえばカスタネットはスペイン、シンバルとドラムを組み合わせてハンガリー風、鈴はそりの鈴、スネアドラムは軍隊など。それに木琴はよく「骨の音」を出すために使われてるみたいです。
出番は他の楽器ほどないにしても例えば舞台の小道具や大道具のようにメインを引き立たせるのにものすごく重要な役割を果たしています。
今日の一曲: モデスト・ムソルグスキー 「展覧会の絵」(ラヴェルによるオーケストラ版)より「殻をつけたひなの踊り」
ムソルグスキーは多少残念な作曲家です。アイディアもいいし、書く曲もなかなかなんですけど楽器使いがちょっぴり下手。
彼の曲で有名な2曲はどちらもオーケストレーションは別の作曲家(オーケストレーションピカイチの作曲家2人)の手によって有名になったようなもので。
ただこの「展覧会の絵」はもとのピアノバージョンもすごいです。でもラヴェルのオーケストレーションがすごいのでオーケストラ版のほうが魅力的なのは否めませんが。
そんななかの「殻のついたひよこの踊り」。これほど情景が浮かんでくる曲はきっとないでしょう。にわとりが歩き回る中をひよこが走りまわる、一昔はどこでも見れたであろう光景。
オーケストラの音から殻のついたままであたふたするひよことその周りのひよこやにわとりの騒ぎがぴよぴよと聞こえてくるようで・・・本当に愛らしい曲です。
ものすごく具体的なイメージがわく曲ですが、ある程度曲を知ってさらに(!)具体的なイメージを知ってみたいと思うなら富田勲のシンセサイザーバージョンもぜひお勧めです♪
言葉がないのがいいのか、それとも器楽曲のかかれかたが自分に合うのか、はたまた楽器の音が声よりすきなのか、多分全部ある程度理由としてあるんですけど・・・
器楽曲でも、言葉なしにいろんなことを伝えてくれます。
そのなかの一つのやり方が「楽器をどこでどう使うか」。
もちろんそのメロディーにあった楽器を、とか他の楽器との相性、とかそれに作曲家の好みもありますが(例えばプロコフィエフはクラリネットを多用します)、例えば俳句で季語によって季節を示唆するように楽器を象徴的に使うことも多々あります。
例えば一番分かりやすいのはフルート=鳥の声、でしょうか。
これはどっちかというと古典的なんで多少作曲家に飽きられ気味(?)なような気もしますけどフルートでそれらしいものを吹けばだいたい鳥の声に聞こえます。
ベートーベンの第6交響曲「田園」でのナイチンゲールの鳴き声なんか二つの音だけで不思議と鳥の声になりますね。
ピーターと狼でも小鳥役はフルート、そしてさらにオーボエはあひる役です。
白鳥の湖でもオーボエは終始巨大なソロがあり、それもまた白鳥(あひる)を表しているんでしょう。
こないだのカルミナ・ブラーナの焼かれた白鳥はオーボエのでかいバージョン(音の出し方からいうとです。形は全然違いますが)のファゴットの最高音域で白鳥の苦しさを表したり、なんてのもあります。
オーボエは他にも牧童の笛を表すこともあります。がらんと開けたなかでのソロでのびのびと弾いてるのはきっとそうです。実際に牧童がどんな笛を吹いてたか分かりませんがオーボエは結構古い楽器なので似たのを使ってたのかもしれませんね。
ベルリオーズの幻想交響曲第3楽章で牧童の笛が山々の間を呼び合うのが聞けます。
宗教絵画では天使ってたいていハープかトランペットを吹いていますが、これは音楽でも同じです。
とくにトランペットはバロック時代の宗教音楽でも聴きますし、それにまず悪役として使われることはほとんどないですね。
英雄的なセッティングとか、ファンファーレとかが目立ちます。
私の知ってる限りでトランペットが悪役なのはただ一曲。リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」で「英雄の戦い」の部分でトランペットが敵のテーマを奏でます。これがかっこいい!(ちなみにこの場合シュトラウスの好きで多用するホルンがいいもんです)
逆に悪魔や死神はバイオリンを持って描かれることが多いですね。
悪魔や死神をバイオリンのソロで表すことは多い・・・といいたいけれどバイオリンは常時弾いてますしソロも多いですし。
でも弦のチューニングを変えることにより音質を変えて奇怪な感じの音で悪魔や死神をあらわすという芸もあり。
例えばそのテクニックを使うサン=サーンスの「死の舞踏」、マーラーの交響曲第4番のスケルツォでバイオリンのソロが入ってくる瞬間のインパクトはすごいものです。少しの違和感がします。
ちなみに。
先ほどの「英雄の生涯」で「英雄の伴侶」は長いバイオリンソロで表されます。ロマンチックだったり、きまぐれだったり、おしゃべりだったり、口うるさかったり器用だったり・・・そんな多面的な「女性像」を表すに器用で感情豊かなバイオリンはぴったりなんでしょうね。
最後に打楽器の話を。
音楽のお国柄や背景の雰囲気を出すのに一役かってるのは実は打楽器群です。
たとえばカスタネットはスペイン、シンバルとドラムを組み合わせてハンガリー風、鈴はそりの鈴、スネアドラムは軍隊など。それに木琴はよく「骨の音」を出すために使われてるみたいです。
出番は他の楽器ほどないにしても例えば舞台の小道具や大道具のようにメインを引き立たせるのにものすごく重要な役割を果たしています。
今日の一曲: モデスト・ムソルグスキー 「展覧会の絵」(ラヴェルによるオーケストラ版)より「殻をつけたひなの踊り」
ムソルグスキーは多少残念な作曲家です。アイディアもいいし、書く曲もなかなかなんですけど楽器使いがちょっぴり下手。
彼の曲で有名な2曲はどちらもオーケストレーションは別の作曲家(オーケストレーションピカイチの作曲家2人)の手によって有名になったようなもので。
ただこの「展覧会の絵」はもとのピアノバージョンもすごいです。でもラヴェルのオーケストレーションがすごいのでオーケストラ版のほうが魅力的なのは否めませんが。
そんななかの「殻のついたひよこの踊り」。これほど情景が浮かんでくる曲はきっとないでしょう。にわとりが歩き回る中をひよこが走りまわる、一昔はどこでも見れたであろう光景。
オーケストラの音から殻のついたままであたふたするひよことその周りのひよこやにわとりの騒ぎがぴよぴよと聞こえてくるようで・・・本当に愛らしい曲です。
ものすごく具体的なイメージがわく曲ですが、ある程度曲を知ってさらに(!)具体的なイメージを知ってみたいと思うなら富田勲のシンセサイザーバージョンもぜひお勧めです♪
今日はこんなものを買ってしまいました。
日本スーパーの近くのお店で$10で売ってました。ヴィヴァルディのオーボエソナタ(コンティニュオ付)の自筆楽譜の柄です。白黒反転のバージョンも売ってました。
けっこうヴィヴァルディはきれいに楽譜を書きますね。音符、そして文字の書体もあのころの流行だったんですかね、スタイルは。どことなく時代と文化を感じるところがいいです。
自筆譜はもうちょっとお目にかかれるといいなあ・・・面白そうです。
話は変わりまして。
芸術に携わる人もそうでない人も、「インスピレーション」というものに憧れる部分はある・・・かもしれません。
そんなインスピレーションの訪れを昔のギリシャの芸術の女神たちにたとえてミューズが訪れる、みたいな言い回しをする人も少なくなく。
作曲家の中には具体的なミューズが居た人も居ました。
まあ例えば恋人のために曲を書くとかは今でもよくありますし。昔も良くありましたし。
例えばマーラー。彼の有名な「アダージェット」は妻のアルマのために書かれたもの。愛がこんなに美しい音楽を生むんだというのの典型的な例です。
シューマンも似たようなものですね。クララとの結婚までこぎつけるまでの大恋愛、そして結婚後精神の健康を損なうまでの幸せな生活はきっと彼に音楽を創り出す源になったに違いません。
そして前述のブリテンとそのパートナー、ピーター・ピアーズ。ブリテンのテノールのための曲はピアーズの声の一番いいところ(声域・声質)を一番美しく聞かせるために書かれてます。ピアーズの歌唱力に関して批判的な人はピアーズは3つの音しか歌えないといいますがそれがほんとうに3つの音だとしてもブリテンはその3つの音で美しい音楽を奏でます。
私がやっぱり贔屓なのはメシアンとユヴォンヌ・ロリオ女史の話でしょうか。
メシアンの生徒で素晴らしいピアニストだったロリオ女史。メシアンはピアノの曲・ピアノのパートを彼女に会ってからことごとくささげてます。彼女が弾くことをいつでも想定して。
いまロリオ女史は国際メシアン・コンクール(メシアンと他現代音楽のコンクールで、プログラムがみんな現代音楽)の審査員長を務めたりしています。そして彼女は一番のメシアン弾きでもあり・・・なんか、演奏を聴いたり文献で読んだりする限り本当にミューズだったんだなあ、と思います。
人じゃなかったら例えば特定の詩人の作品(クラム→ロルカ)、民俗音楽(ショスタコーヴィチ→ユダヤ音楽)、文化(フランス人作曲家→スペイン)に惹かれたり。そういうものも「ミューズ」に入ったりするんでしょうか。何かに出会って、それによって創作のスイッチが入ったり・・・
そうすると多作な作曲家はよりミューズとの出会いがあるんでしょうか、それともそれは関係なしに創ってるのか、そこが気になりますね。
私にミューズがいるとしたらそれは音楽でも書き物でも自分の想像したキャラクターや世界などですね。かっこつけたいわけではないんですけど、自分が創りだしたものがもっと創造への扉を開けるみたいで。
だから逆に何にも思い浮かばないときはviscious cycle、つまり悪循環に陥りやすいですねー(笑)
そういうときの気分転換法とかちゃんと考えてみるといいかもしれません。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「Vox Balaenae」(鯨の声)
この録音新しいし面白そう!・・・じゃなくて曲のほうです。
フルート、チェロ、ピアノのちょっと珍しいトリオで、クラムの得意なextended technique (楽器をちょっと変わった方法で演奏する)もふんだんに入ってます。
例えばフルートを吹きながら声もフルートに通したり、チェロの弦のチューニングを変えたり、ピアノの(グランドピアノでは)なかの弦を直接弾いたり(これは私もやったことあります)。
そしてピアノのなかに異物(!?)を入れたりして音を変えたり。
音の種類を広げれば、世界も広がる・・・と私は思ってますが。
じっさい様々なテクニックの使用で大海の古代から始まるさまざまな時代をあらわす各楽章でさまざまな表情をした海が広がります。例えばチェロの音でほんとうに鯨の鳴き声みたいな音があって、本当にそれだけでも情景がばっと脳内をかけめぐったり。
現代音楽だけれどどこか民族フレーバーがあったりしてそれもまたなんかある種の親近感があったり(私だけですか?)。よく神話や古代のエレメントやテーマを使った曲をクラムはよく書きますが、現代感ばりばりなのにどこかこう懐かしいような、そしてもっともっと前の文明などを思うような・・・そんな不思議な、謎的な音楽です。
クラムの音楽はとっつきがたいイメージがありますがこのさまざまな音のカオス(ってほどでもないですけど)に抵抗を持たずまず聴いてみてほしいです。
最初は音楽とは思えないような、耳障りな音と思ってもその向こうには時を越えた不思議な、謎に満ちた無言のメッセージがあります。
けっこうヴィヴァルディはきれいに楽譜を書きますね。音符、そして文字の書体もあのころの流行だったんですかね、スタイルは。どことなく時代と文化を感じるところがいいです。
自筆譜はもうちょっとお目にかかれるといいなあ・・・面白そうです。
話は変わりまして。
芸術に携わる人もそうでない人も、「インスピレーション」というものに憧れる部分はある・・・かもしれません。
そんなインスピレーションの訪れを昔のギリシャの芸術の女神たちにたとえてミューズが訪れる、みたいな言い回しをする人も少なくなく。
作曲家の中には具体的なミューズが居た人も居ました。
まあ例えば恋人のために曲を書くとかは今でもよくありますし。昔も良くありましたし。
例えばマーラー。彼の有名な「アダージェット」は妻のアルマのために書かれたもの。愛がこんなに美しい音楽を生むんだというのの典型的な例です。
シューマンも似たようなものですね。クララとの結婚までこぎつけるまでの大恋愛、そして結婚後精神の健康を損なうまでの幸せな生活はきっと彼に音楽を創り出す源になったに違いません。
そして前述のブリテンとそのパートナー、ピーター・ピアーズ。ブリテンのテノールのための曲はピアーズの声の一番いいところ(声域・声質)を一番美しく聞かせるために書かれてます。ピアーズの歌唱力に関して批判的な人はピアーズは3つの音しか歌えないといいますがそれがほんとうに3つの音だとしてもブリテンはその3つの音で美しい音楽を奏でます。
私がやっぱり贔屓なのはメシアンとユヴォンヌ・ロリオ女史の話でしょうか。
メシアンの生徒で素晴らしいピアニストだったロリオ女史。メシアンはピアノの曲・ピアノのパートを彼女に会ってからことごとくささげてます。彼女が弾くことをいつでも想定して。
いまロリオ女史は国際メシアン・コンクール(メシアンと他現代音楽のコンクールで、プログラムがみんな現代音楽)の審査員長を務めたりしています。そして彼女は一番のメシアン弾きでもあり・・・なんか、演奏を聴いたり文献で読んだりする限り本当にミューズだったんだなあ、と思います。
人じゃなかったら例えば特定の詩人の作品(クラム→ロルカ)、民俗音楽(ショスタコーヴィチ→ユダヤ音楽)、文化(フランス人作曲家→スペイン)に惹かれたり。そういうものも「ミューズ」に入ったりするんでしょうか。何かに出会って、それによって創作のスイッチが入ったり・・・
そうすると多作な作曲家はよりミューズとの出会いがあるんでしょうか、それともそれは関係なしに創ってるのか、そこが気になりますね。
私にミューズがいるとしたらそれは音楽でも書き物でも自分の想像したキャラクターや世界などですね。かっこつけたいわけではないんですけど、自分が創りだしたものがもっと創造への扉を開けるみたいで。
だから逆に何にも思い浮かばないときはviscious cycle、つまり悪循環に陥りやすいですねー(笑)
そういうときの気分転換法とかちゃんと考えてみるといいかもしれません。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「Vox Balaenae」(鯨の声)
この録音新しいし面白そう!・・・じゃなくて曲のほうです。
フルート、チェロ、ピアノのちょっと珍しいトリオで、クラムの得意なextended technique (楽器をちょっと変わった方法で演奏する)もふんだんに入ってます。
例えばフルートを吹きながら声もフルートに通したり、チェロの弦のチューニングを変えたり、ピアノの(グランドピアノでは)なかの弦を直接弾いたり(これは私もやったことあります)。
そしてピアノのなかに異物(!?)を入れたりして音を変えたり。
音の種類を広げれば、世界も広がる・・・と私は思ってますが。
じっさい様々なテクニックの使用で大海の古代から始まるさまざまな時代をあらわす各楽章でさまざまな表情をした海が広がります。例えばチェロの音でほんとうに鯨の鳴き声みたいな音があって、本当にそれだけでも情景がばっと脳内をかけめぐったり。
現代音楽だけれどどこか民族フレーバーがあったりしてそれもまたなんかある種の親近感があったり(私だけですか?)。よく神話や古代のエレメントやテーマを使った曲をクラムはよく書きますが、現代感ばりばりなのにどこかこう懐かしいような、そしてもっともっと前の文明などを思うような・・・そんな不思議な、謎的な音楽です。
クラムの音楽はとっつきがたいイメージがありますがこのさまざまな音のカオス(ってほどでもないですけど)に抵抗を持たずまず聴いてみてほしいです。
最初は音楽とは思えないような、耳障りな音と思ってもその向こうには時を越えた不思議な、謎に満ちた無言のメッセージがあります。
