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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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Almost definite?
前回のエントリーに拍手どうもですー。

ここ数日ものすごく暑くはないのですが外に出て動くと暑かったり、そして昨日今日はなんだか外の空気が煙たい感じで。VIC州の色んなところで山火事や火事が起こっているのでその影響かな。
そろそろWhite Night(2月22日)の予定を立てたいのですがその日(夜)は暑くて天気が良いといいんだけど。

今日はレクチャーのことなどでメールを送ってる音楽心理学の団体からお便りがあって音楽と感情についての研究のためにアンケート回答者を募集していて鬱を患ったことのある人は特に歓迎ということだったので今ちょっと答えてきました。
楽しい時に聞く曲、悲しいときに聴く曲、音楽を聴く目的、聞いてどういう気持ちになるか、どういったシチュエーションで音楽を聞くか、などについての質問がありました。
以前読んだ論文でティーンエイジャーと音楽を聴く行動や感情について調べた研究がありましたがこういう研究は面白そう。もっと話を聞きたいですね。

仕事がちょっと最近忙しくなってきましたがまだピアノは毎日出来る余裕があります。この先ちょっと休み休みになるかもしれませんが大分曲も固まってきましたし軌道に乗ってきた感じ。
もう大きくプログラムが変わることはないかなーと思うのでここで一旦発表してみたいと思います。
順番はまだまだ悩み中なので順不同で。

メシアン 「鳥のカタログ」より:
・モリヒバリ
・モリフクロウ
ショスタコーヴィチ 前奏曲とフーガ 第12番 嬰ト短調
ヒンデミット 組曲「1922年」より:
・第3楽章「夜の音楽」
・第4楽章「ボストン」
・第5楽章「ラグタイム」
武満 「雨の木素描II」
アデス 「Darknesse Visible」
メシアン 「前奏曲集」より:
・第5番「夢の中の触れ得ぬ音・・・」
・第6番「苦悩の鐘と惜別の涙」
・第8番「風の反映」

これにバッハの平均律第2巻第6番(嬰ニ短調)を足すかどうかも悩み中。

色々考えた結果これまで以上にものすごく我が道を行くプログラムになりましたね。
メシアンたくさんはもちろん、バッハを入れなければがっつり20世紀の作曲家たちずらり。1922年(ヒンデミット)から1992年(武満&アデス)まで実に80年をカバー。

我が道を行ってるのは時代だけでなく、この12曲の多くが「人間らしくない」性質のポテンシャルを少なからず持っている(と私は思う)こと。
鳥のカタログでは鳥になり、ラグタイムでは機械になり、その他にも人間の感性を離れたキャラクターや表現が満載のプログラムです。
なのでバッハを入れるとしたら例えば人間と機械の狭間ぐらいを狙った感じで弾いてみたいな、とか。これは昨日聞いてたBrett Deanの「Vexations and Devotions」から思うこともあったりするのですが。
それもあって聞き手には必ずしも響かないかもしれないなあ、という事は考えてるのですが・・・

ちなみにヒンデミットを全5楽章でなく後半3つにしたのは「夜の音楽」を際立たせるという目的もあり。鳥のカタログはどちらも夜の曲ですし、それに「闇」や「夢」などのキーワードもあり。他の曲順がどうであれ「夜の音楽」を「真ん中の楽章」ではなく最初の楽章にすることでしっかり印象つけられればいいな、と思っています。

印象付けといえば「Darknesse Visible」。カラープリントの楽譜のインパクトに比べると聴く音楽としてはちょっと難しい。慣れない人の初聴きではヘタすると印象がほとんど残らないかもしれなくて、それは勿体ない。最後でバラバラだったメロディーが元ネタに近い形で現れるエンディングをどう活かすか・・・

でも「Darknesse Visible」はほんと自分に馴染んできてる気がします。まだ音もさらってて強弱の諸々も全然ですしトレモロも拙いですし解釈のピントもまだ合ってない感じなのですが、その下で何か通じる、分かるものがある。メシアンやラヴェルやショスタコやクラムと似たようなレベルで、でも全然違う性質の「通じる」。
一番最初の難しいのを超えてよかった-。(ただこれから詰めていくのも難しいですがね)
ただアデスの音楽全体に通じるものなのか、それともこの曲だけなのかはこれから探していきたいと思います。

そして実はメシアンの前奏曲集も弾く前はむちゃくちゃ難しそうだなーと思ってたんですよ。でもこれも慣れが大きかった。やっぱり前奏曲集・20のまなざし・鳥のカタログ・練習曲集のそれぞれが(同じ作曲家にしては)色々違う性質の音楽だなーということは実感しましたが、それでもメシアンはメシアンですね。

今回のプログラムはしっかり一つ一つの音にキャラクターを込める表現の正確さがものすごく問われる曲ばかりで、特に適切なテンポを選んでコントロールすることも大切になったり。自分の表現したいことを今以上にちゃんと詳細に&はっきり決めて、表現の精度を上げていくことが課題になるかな。大丈夫か私。

あとはピアノを弾く以外を取り入れる可能性も一応考えてはいます。時間とか準備とかどうかなー・・・でも良いアイディアが浮かんで実現できたら面白そう。

まだまだ考えること頑張ること色々ですが、ピアノを弾く以外からのアプローチも含め形にしていければなあ。

どうもさっきから喉が痛いのは外の煙っぽいやつのかな?風邪ではなさそうなので。
気道の調子は悪くないのですがもちょっと加湿器に頼ってもいいのかも・・・


今日の一曲はちょっと遅くなったのでお休み。購入したCDから紹介する曲が列をなしているので次回から。

拍手[1回]

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Tan Dunのチャイニーズ・ニューイヤー(コンサートのラジオ放送ちょっと感想など)
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~
そしてAge of Wondersのエントリーにアクセス多いですが3を楽しみにしている人が日本にも結構いるのでしょうか。最近Shadow Magicも遊んでないのですがちょっと余裕できたら戻りたいなー・・・

今日はメル響のChinese New YearコンサートがHamer Hallであったのですが、それが豪ABCにより生放送されるということで小躍りして聴きました。
今回の主役は映画音楽でも有名なTan Dun(譚盾)。作曲家としてではなく指揮者として自身の作品、他の中国の作曲家の作品、そして西洋のクラシック音楽のレパートリー(メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲とプロコフィエフのロミオとジュリエット一部)を振りました。
ソリストもメルボルン、中国両方から参戦。中でも中国琵琶の演奏がよかったですねー。楽器が好きだってのもあるのですがオケともうまいこと合わせられてましたし。

クラシックでもお国柄というか国によって強い楽器があったりして、日本はピアノかな?韓国は声楽が強くて中国はバイオリンが強いんですよね。今回メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を弾いたLu Siqing(呂思清)というバイオリニストもパガニーニ国際コンクールで優勝した経歴があったり。今回そのメンデルスゾーンもアンコールのチャルダッシュ(モンティ作曲)も割とポピュラー中のポピュラーというか、気をつけないとちょっと薄っぺらくなりかねない曲ですが、表現がオーバーになることなくすっきりした演奏で、さらに粒が揃った精密な音の並びだったのが印象的。
日本含めアジアの方のバイオリン演奏って(伝統的な楽器や音楽の影響があるのかしら)どっちかというと音が甘い風味になる傾向(二胡的な)があるのでちょっとびっくりしました。

そしてTan Dunの新作、三重協奏曲「The Triple Resurrection」。ピアノとバイオリンとチェロがソリストとなる協奏曲だったのですが、協奏曲という枠にはまらない自由な作品でした。
Tan Dunはこの作品を彼の映画三部作に絡めているのですが、それらが「映画のための音楽」だったのと逆にこれは「映画に先立つ音楽」だそうです。なので映像が後から来るんですよ。出会う機会はあるかしらん。

Tan Dunはほんと面白い。The Triple Resurrectionは前述のとおり協奏曲という枠にはまらないのですが映画音楽の枠にはめるのももったいない。西洋の枠にも東洋の枠にもはまらず両方を取り入れて、伝統を大事にしながら現代の様々なスタイルの音楽を取り入れたり、それで自分のスタイルをしっかり確立していて(以前購入したクロノス・カルテット演奏「Ghost Opera」のスタイルとの一貫性)。中でもあのリズムの独特さは凄い。Primitiveだけれど新鮮。

そもそもあの人は生い立ちの独特さからして凄いです。
中国がものすごいことになっていた文化大革命(12年生の歴史で習ったりJung Changのワイルド・スワンズで読んだりでちょっと知ってるけど説明は大変なのでwikipeに丸投げ)の中で生まれ育ち、中国から海外に渡る間に様々な経験を蓄積して今世界中で活躍しているという。
文化大革命って文化面だけに限っても過去の色んな伝統とか少数文化を含む「古いもの」を徹底的に潰してきて、その前の時代の色々も含めて音楽をやる余裕がない人も多かったと思われ。
その他いろいろな要素があってこの時期が音楽に関してもブランクになって・・・いるのかな。今Tan Dunと同じくらいの年齢でクラシック界隈で活躍している中国人作曲家って聞かないですし。

そしてTan Dunが休憩中に流れたインタビューで「進歩する速さより速く伝統が消えている」という話をしていたのですが、中国のその時代生まれだからこそ痛感するんだろうなと思いました。他の国(日本やアメリカ、オーストラリア含む)でも進歩とともに伝統が消えていくのは深刻な問題ですが、中国の場合今の急速な進歩に伴い様々な少数民族のそれを含む伝統がすごい速さで消えて行くだけでなく、その両プロセスをぎゅっと凝縮した(+その他多々なる弊害)文化大革命がすでに起こっているのも大きい。

以前書いたように12年生の歴史「Revolutions!」でロシア革命・辛亥革命を勉強したのですが、どちらも帝政→共産主義への変化だったり時代が似ていたりで共通点も色々見られたのですが、中国の革命は(とくに大躍進以後)ものすごく変な感じというか異様さがあったというか。
文化大革命についても粛正のことだたったり紅衛兵の暴走だったり吊し上げの話だったり習ってて怖いなーと当時思ったのですが、今こうやって「その後々への影響」を考えるとまた別のぞっとする怖さがある。

今回のコンサートでTan Dunの作品や他の中国の音楽(3つアンコールがあって全部中国の曲でした)を聞くと小さいころ父が聞いてたラジオの中国語講座の記憶からか中国の音楽になんとなく親しみを覚えたりするのですが、反面そうやって歴史的な観点とそこから続く今現在を考えると中国がなんだかとても遠いものに感じたり。そんな相反的な「中国」を感じるコンサートでした。

メル響は今度は10月だったかな?にTan Dunのギター協奏曲を演奏する予定ですがもしかして私日本にいるかしらんその時。聞きたいんだけどなー。

さて最近音楽で書くことが多いのは嬉しいのですがたまにはメンタルヘルスの話もしたいよな、と思いながらアンテナをちょっと立ててるこの頃。基本的にそっち方向はちょっと慎重なのですが何か見つかるといいな。


今日の一曲: Tan Dun 「Ghost Opera」



以前購入したまま紹介してなかった。そして今も実は紹介できると思っていない(汗)だってプログラムノートとかが手元にないんです・・・ちょっと曲を理解するのに作曲家のヒントが欲しい。
でも今日のコンサートを聴いてこの作品はTan Dunのスタイルの「典型的な」範囲のうちなんだな、と分かってとりあえず安心です。やっぱり1曲聞いただけじゃ見当も付かないですから。

今回のコンサートでも中国琵琶が活躍しましたが、そちらは弦楽オーケストラをバックのソリストという位置。「Ghost Opera」では中国琵琶が弦楽四重奏と対等な位置で一つのアンサンブルを構成します。映像を見ていないので推測ですが琵琶がアンサンブルをリードするとこも少なくないんじゃないかな。

オペラという名ですが歌が入ってるわけではない不思議な曲。全体的に舞台っぽい雰囲気があって、同時に水墨画みたいな色彩もイメージします。
バッハの引用に始まり途中でシャウトがあったり「ものすごく中国っぽいぞー!」という場面もあり、かといってどこの音楽ともいいがたい場面もあったり。
その無国籍的な部分のスタイルがちょっとクラムの無国籍的な音楽部分に似ていたりするんですよね。あと引用のしかたも結構似てるし、水っぽい部分の表現も似ている。(水はTan Dunの音楽で重要なエレメントだとインタビューで言ってましたね)

音楽がよく分からなくともとにかく琵琶が格好いい音楽です。例えば日本の琵琶を語りに使うときのような多彩な描写的表現がいっぱい出てきて本当に表現豊かな楽器だなと。
そして西洋の弦楽器も負けてませんよ。なんせクロノスですからね。東西の弦楽器の掛け合いももちろん聞き所。

そのうちTan Dunの映画音楽も聴いてみたいですね。ヨーヨー・マが弾いてる「Crouching Tiger, Hidden Dragon(邦題:グリーン・デスティニー)」が特に楽しみ。

拍手[1回]

コンサートの形いろいろ
前回の記事に拍手ありがとうございました~

ちょっと思い出して書き残しておきたいこと一つ。
こないだ出かける日の朝に夢の中でパニック発作を起こしたんですよ。そして目が覚めなかった。
パニック発作は10年ほど前にそんなにひどくないですが1,2回ほど起こったきりで、こんな形で戻ってくるとは。
でもそれ以来特に関連症状とか変化とかはないので特に心配するようなことはなさそうです。

ちなみに今日facebookでフォローしてるメンタルヘルス団体がこんなイラストを紹介してました。
「何が起きても最悪の想定に光の速さで飛んでいく不安ガール」。ちょっと悔しくなるくらいいいとこ突いて思わず笑いました。確かにいるもんな、不安ガール。

さて、2月といえばコンサートシーズンがだんだんと始まってくる時期で、すでにメル響のSecret Symphonyも動き出していますし、メル響本体もSFドラマ「ドクター・フー」のコンサートをやったりしているようです。

遠出中にそういうクラシックに限らないコンサートについて友達と話をしてて、もちろんというかなんというか「そういうコンサートをもっとやったらいいのにね」という意見で。
ただ後から外部の素人なりに考えてみるとそういうコンサートって結構難しいんじゃないのかな・・・と思うようになってきました。

参考までにメル響がクラシック外でやってるコンサートには今回のドクター・フーだったりLord of the Ringsだったり、Tan Dunの映画音楽だったり、それからゲーム界隈ではThe Elder Scrolls V Skyrimのコンサートなど。こういうコンサートは大抵Melbourne Town Hallで行われ、映像も使ったりするそうです。

Melbourne Town Hallはメイン場所のHamer Hallより若干キャパシティが小さいホールで、前者満員=後者80%入り、くらいになりますかね。
そもそもMTHでやる理由はなんなのかな、と考えた結果やっぱり音楽と映像を合わせるためというのがあるかもしれない。ステージ横にブースみたいのが出来るようになってるので、あそこは。Hamer Hallはそこんとこそううまくいかないものなのかもしれない。

そして普通にクラシックのコンサートをやるよりも関わる人間も多くなる。
映像や演奏に関わる人員はもちろん、こういった映画などの作品ではオケは普段より小さくなることはなく、フルオケまたは普段より大人数になることもありそう。特に打楽器界隈・鍵盤界隈は多くなるんじゃないかな?さらに楽器も普段使わないようなもの(特に打楽器)を借りたり取り寄せたり、ということも必要になるか。
プラス映像との兼ね合いも合わせて&馴れないレパートリーを弾くのでリハーサルが多く・・・なるんだろうか。そこは変わらないのかな。プロだし。

それから楽譜も必然的に作曲者側から取り寄せになる。普段やってるようなレパートリーなら自分とこの楽譜ライブラリから使ったり国内の他のオケから借りることもできますが(ここら辺はちょっと知ってる話)、こういうレパートリーだとそれもできない。
そしてもちろん映像を取り寄せたり編集したりも必要になる。

あとは著作権とか作者への還元とかもあると考えると(チケット予約するのにも普通のシリーズまとめて予約とは別になってますし)、お客さんがいっぱい集まっても必ずしもものすごく儲かるわけじゃないのかもしれない、と素人なりにですが思います。
メル響は大きいオケでこういう大きいこともできたり、それを大きく宣伝したりできます(あとスポンサーにEmiratesがいたりしいます)が、他のオケだとなかなか難しそう。お金の問題もそうですがそれ以外の意味でも企画して実現する余裕ってなかなか得るのが難しい。

でも今はそういう大規模な形でなくとも「純コンサート」とはちょっと違った形のコンサートって増えてきて演奏形態は確かに広がっていると思います。
こないだのCathexisの限られたスペースの中で(とにかく楽器が多かった)映像と照明を効果的に使った演奏もそうですし、Grigoryan Brothersのプラネタリウムでのコンサート、メル響のSecret Symphony各シリーズもそう。
他にもちょろっと話を聞く限りでも踊りや演劇などのエレメントを取り入れたり、静画や映像、詩の朗読を取り入れたり、音楽の表現のため枠にとらわれない色々な試みが色んなところで行われています。

そういうのも考えてみたいなーとか思いながらもやっぱり自分にはそんな余裕は今のところなかなかないですね。個人単位でやってるのと、あと奏者としてできることがほんと狭いですし。
でもやってみたい。ちょっと世界が広がりそう。

それと同時にしっかりクラシックの範囲・純コンサートに特化してそれだけやってるオケも多くあってもいいんじゃないか、と思います。クラシックのレパートリーの多さとそれを外に出していくことの大切さがまず最初に思いつく理由なのですが、あと広げるだけでなく一つの形態を深める大切さもそうですし、私みたいな割と不器用というか活動範囲が狭い人間が力を出せる場があるといいなという気持ちもあったり(やっぱりチャレンジする、広げる機会があるとある程度広がりますが、常に色んなジャンルのことがプロレベルでできる器用な人は少数だと思うです)。

あとは逆に他の音楽・表現ジャンルの人がクラシックとのコラボだったりクラシックの作品を演奏する機会も増えていいんじゃないかな。(ニコニコ動画でエース長官が葉加瀬太郎さんと共演してたのをちょろっと見たのですがあくまでも一例としてそういう形とか)
クラシック側から歩み寄ってる部分って意外と多くて、例えば現代音楽でクラシック外のスタイルに影響を受けて書いてる曲もあったり、もっとがっつりジャンル融合してたりってのもあったり。逆方向だったらクラシック音楽のリミックスとかアレンジとかもあったりしますし、でももっと色んな形態や機会で見てみたい&聴いてみたい。
せっかくジャンル(クラシックとそれ以外に限らず)の垣根が曖昧になってるのでどっちが歩み寄るとかじゃなく色んな方向から色んな方向に力を合わせていくのが一番。

今年もたくさんのコンサートを手帳に書き入れましたが色んな形で音楽を楽しめるといいな。
自分のこともちゃんとせねばですがとにかく聴く楽しみが楽しみです。


今日の一曲: クロード・ドビュッシー 「沈める寺」(富田勲によるシンセサイザー版)



そういう意図で選んだのではないのですが奇しくもクラシックとその外のジャンルの融合作品。

日本で買ったiTunes Store Cardの残り2000円でこのアルバムを買いました。富田勲の展覧会の絵、惑星に続いてドビュッシー作品集。前の2枚と同じく良く知っている曲揃いで、シンセサイザーの音で聴くと最初奇妙に聞こえるのですが、ちょっと聴き込むだけで新しい解釈と色彩が馴染むのがまた面白い。

ドビュッシーのピアノ音楽ってペダルを長く踏むことが多く(うちの先生は基本的にはベースが替わるまで変えなくて良い、と言ってます)、それがシンセサイザーの長ーく伸ばす音と似ているようで違うようで、でも相性が良かったり。
この「沈める寺」では特にその伸ばす音の重なりようが素晴らしいハーモニーと色彩を作っています。ピアノとはまた違うtexture。

シンセサイザー版の「沈める寺」はピアノ版の「沈める寺」と随分曲調が違うようにも思えますが、でも元の話(フランスの西の沖にあり海に沈んだ国イスの寺が姿を現すという伝説)にはどちらのバージョンも忠実なのが面白い。ピアノ版では強弱、和音の厚さやタッチで色彩を表しますが、シンセサイザーでは音色の違いで情景の変化をさらに視覚的に描きます。

これまで聴いた前述2枚では音色は違えど(そこを変換・翻訳してしまえば)そんなに解釈違わないなーという印象だったのですが、富田勲のドビュッシーは自分の解釈と色々違うところがあってものすごく新鮮でした。(ただ「沈める寺」はそこまで違わなかったかも。「雪の上の足跡」とか特にそうで、ちょっと弾き直してみたくなりました)
ピアノ同士でドビュッシーの演奏・解釈がものすごく違ってくるってことはあんまりないぽいのでそういう意味でもこの版を知って良かったです。

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今年もオケで弾きます!&グラミー賞クラシックside
引き続き夏ですメルボルン。
今日も最高気温は40度近くの中、相変わらず調子が定まらない背中(枕とか寝相とか)と頭を抱えて外出してきました。
普段は頭痛といえば緊張性頭痛で背中の諸々もあったのでそうかなーと思ってたのですがどうやら今日は暑さで血管が拡張してる方の頭痛らしいです。それに思い至るまでかなり時間がかかったのですが今はぬれタオルを首の後ろに当ててちょっと楽になったかな。

さて、今日良い便りが来ました。
こないだのMelbourne Youth Musicの指揮者養成プログラムで弾いたのが楽しかったのでコーチやってた指揮者さんにこれから弾く機会を増やすにはどうしたらいいか、と聞いたらメルボルンにいくつかあるコミュニティオケ(アマチュアのオケ)にコンタクトしてみたらどうか、とのお話だったので一つメールを送ってみました。
そしたらメールした先のStonnington Symphony Orchestraからお返事が来て今年のコンサートシリーズ3公演でぜひ弾いて欲しいとのことで。
コミュニティオケなので「ちゃんとした楽器」ではなくキーボードで演奏することになるそうですがヴォーン=ウィリアムスの交響曲第3番(チェレスタ)、ヴェルディの「スターバト・マーテル」(オルガン)、そしてムソルグスキーの「展覧会の絵」(チェレスタ)でパートをもらえるそうです。

展覧会の絵はもう小さいころから親しんできた曲で、チェレスタのパートがどんなもんかも想像は付いてるのですが(結構小さいです)、他は全く。ヴォーン=ウィリアムスの交響曲は一応手元に全部あって聴いてはいるのですが、その中でも3番はちょっと印象が薄い。一応IMSLPでパートをチェックしてみたのですが第3楽章にちょろっと弾くところがある様子。聞こえるようなパートかどうかはこれから録音でチェックですね。
そしてヴェルディに関してはオルガンパートということで完全にノーマークでした。そもそも弾く弾かないにかかわらず合唱曲全体そんなに知識はない。ということで曲とパートをチェックするだけでなくここからレパートリーの知識を広げ始めていかないとです。

さて、昨日からグラミー賞についてクラシック界隈の話が色々入ってきて調べてみたら色々面白かったので書いてみようと思います。
グラミー賞の部門にはクラシック音楽に関するものがいくつかあるのですが今回注目したのは現代音楽関連の各部門。

前々からジョージ・クラムがグラミー賞をとったことがある、という話は聞いていたのですが詳しくは2001年に「Star-Child」でクラシック現代作品部門をとっているということで。(あとそのかなり前にピューリッツァーの音楽賞もとってる)
そこからちょっとWikipediaで調べてみていたのですが色々発見があって面白い(日本語のWikipediaに受賞者のリストがあるのですが、英語版のリストの方が見やすいし詳細です)。

1960年代の受賞者はもうしっかりクラシックのコアな作曲家ですが当時は新しかったんだろうなーということだったり、ジョン・アダムズが3回も受賞してたり(ミニマル系の作風から今の作風まで変遷しながら都度受賞している)、メシアンも最後の作品「Concert a quatre」が受賞してたり(本人の手で完成してないのでたぶん生きてない)、クラムが一昨年The Ghosts of Alhambraでノミネートされてたり。

上記英語版のリストにはここ数年の候補作品もリストされてるのですが、それを見るだけでもクラムやペルトのようにかなり前から活躍している作曲家と比較的新しく台頭してきた作曲家が入り乱れててこれまた面白い。19世紀までと違って今は作曲家がぽつぽつと世界の色んなところに点在して1人が1ジャンルみたいなことになってるわけですが、そんななかで古株が成長を続けながら新しい人材もぐんぐん育って、国境関係なく活躍し競い合ってるのが垣間見られていいですね。
(さらに他のクラシック部門まで見てみるとアデスが「The Tempest」で今年オペラの録音の賞をもらってたり、ペルトが「Adam's Lament」で合唱の録音の賞をもらってたり。それから先ほどの古参・新参の構図がより強まったりします)

そして今回Maria Schneiderというアメリカの作曲家が「Winter Morning Walks」というこのクラシック現代作品部門を始めいくつかの部門を受賞しているのですが、その録音でAustralian Chamber Orchestraが演奏しているということで大変めでたいです。
実は来月Australian Chamber Orchestraがその作品の演奏をメルボルンでやるということでさっそく予約しました(笑)でもその曲だけが目当てじゃなく、ちょうど今日大学の図書館でスコアを偶然見て「まだまだアダムズも知らないなー」と思ったジョン・アダムズの曲もやるということで。ついでにラウタヴァーラの作品もほとんど知らないのでこれを機に広げたい。

今日帰宅してからメル響を始め色々こっちで今年行きたいコンサートを手帳にがりがり書き入れてたのですが、現代音楽の演奏が盛んで本当に嬉しい限り。どのコンサートにいけばいいのか迷う贅沢な悩みです。
たまにクラシック音楽はもう衰退してる、とかクラシックは滅びたとかそういう感じの言葉を聞くこともあるのですが、今や音楽の中心ジャンルではないながらも世界中でいろんな作曲家が独自のスタイルで頭角を現してますし、奏者のレベルも高く表現形態も広がり、本当に質の高い音楽がいろんなところで生まれています。
奏者側でも19世紀以前の音楽を好んで弾いたり、「あのころは音楽がよかった」的な態度を見ますが、今の音楽も負けず劣らず素晴らしいですし、そんな今の音楽と昔の音楽どっちも体験できる恵まれた時代だと思います。
クラシック音楽死んでないぞ-。死んでるどころかぴんぴんしてるぞー。ちょっとした黄金時代かもしれないぞ-。

いつも思う(そしておそらくここに前書いた)のですが、特定の時代の奏者ってその前の時代の伝統を(純粋な形でなくてもなんらかの形で)引き継ぎながら、直前の時代・自分の時代の音楽を見据えて良い物を後に残せるように分析・理解・表現して、そしてある程度ふるいにかけるってのも仕事のうちだと思うんです。
今の時代ってちょっと特殊というか、20世紀の主に後半で色々音楽スタイルが分散したり、実験を重ねた結果アイディア・哲学として面白くても音楽としてどうか、みたいな音楽が多数生まれたりして、その他色々あってちょっと今振り返って黒歴史というかそういうあんま触れたくない空気ができてるようなところがありまして。
それでもそんな時代にもちゃんと素晴らしい作品はたくさん作られているので、全体だけを見るのではなく一つ一つ見て、ちゃんと向き合って判断しないと全部一緒くたに埋もれてしまう危険がある。
そこが今の時代ちょっと特殊で難しいところ。すぐ後ろを振り返って評価して、そして今をちゃんと見つめて評価しないといけない。

話がまた長くなってしまいましたが、そこんところも踏まえて今後もここメルボルンで現代のクラシック音楽をたくさん体験して応援したりその存在、魅力を広めていけたらいいな、と思っています。実際のところ後者はどれだけできてるか分からないのですが、ここやTwitterで色々言及したり感想書いたりおすすめしたりを続けたいです。続けます。

さて、今日はちょっとぶりにしっかり書きましたが調子にのって話が長くなりました。今後もしっかり書くようがんばるです。


今日の一曲: エドヴァルド・グリーグ 「ホルベアの時代から」より「リゴドン」



グラミー賞周りから選ぼうとしたのですが勉強不足につき断念。上記のSchneiderの作品が演奏されるコンサートから一曲選びました。
19世紀末に書かれていながらバロック風、つまり新古典的なスタイルを古音楽から現代音楽まで演奏するAustralian Chamber Orchestraがどう弾くか楽しみです。

私も学生時代この「ホルベアの時代から」を弾いたことがあります。前書いたと思いましたが学校のオケは普段弦・吹奏楽に分かれていたので弦楽オケの曲は色々弾きました。(主にイギリスが多かったです。ただこの曲もスタイルとしてはイギリス風)

この「リゴドン」を始めこの組曲の多くの楽章は長調と短調の単純なコントラストでキャラクターをぱっと変えることが多くて、それがわりとシンプル・すっきりしてて心地よかったり。
ちょうどこの頃ワーグナーを始めいろいろ調性が崩れていったり音楽が複雑化していったりということがあり、そういうのも含めて「ホルベアの時代(バロック時代)」はよかったなあーという思いもあったのだろうか、と思います。
前述今の時代もちょこちょこ難しいですが、グリーグの時代も色々音楽的に難しかったんだろうなあ・・・

バロック風の組曲でリゴドンという舞曲が出てくることは多いですが、組曲をしめくくるのを見たのは自分が知ってる限りでは唯一。リゴドンの素朴で元気なリズムを生かしながらフィナーレにふさわしい華やかさもあり、シンプルだけれどエネルギッシュな喜びもある音楽。
弦楽器独特の歯切れの良さが聴いてても弾いてても気持ちいい。
弦楽器という似たような音の楽器だけでもソロにメロディーを弾かせたり、強弱でメリハリをつけたり表情豊かなのが嬉しくなります。これもバロック時代からのノウハウですね。

この組曲がこんどのコンサートでジョン・アダムズの「John's Book of Alleged Dances」という現代の舞曲集ととなり合わせに演奏されるのはちょっと面白そうですね。どんなコントラストになるのか楽しみです。


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Melbourne Youth Musicサマーキャンプ助っ人参戦!
酷暑の日々が続くメルボルンです。
全豪オープンで体調を崩す人が出たり、電車が止まったり遅れたり、停電の恐れがあったり。
やっと来た暑い夏の日はありがたく気持ちいいものですが40度を超える日が続いたり上記のような問題が起こったりするとやっぱり大変です。
今日もシティからの帰宅が大変でした。無事帰って来れてよかったです。

そんな暑い中昨日今日と出かけてきました。もう長いことお世話になっているMelbourne Youth Musicのサマーキャンプに助っ人参戦してきました。オーケストラプログラムではなく指揮者養成プログラムでコープランドの「アパラチアの春」を弾いてきました。
(前書いたときから若干誤解があったことが判明しました。「アパラチアの春」はオケ版だけではなく13人の奏者で弾くちっさいバージョンがあってそっちを今回弾きました。)

メル響でも指揮するBen Northeyの指導の下、十数人の若い指揮者たち(20代前半が主)が課題曲3曲に取り組み、今週は毎日午前中にミニオケを実際に振ってリハーサル、その様子をビデオに撮って午後にそれをみながらフィードバック分析などする、というシステムみたいでした。
指揮者の卵達のレベルは色々差がありました。なかなか実際奏者を前にしてバトンを振るという機会は少ないので今回初めての人もいたんじゃないかな。でもみんなしっかりして頭の良い、才能溢れる若い人たちでした。
アパラチアの春はいくつかのセクションに分かれててそれぞれが違う難易度であるだけでなく違ったスキルを求められるので課題曲としては素晴らしいです。

奏者として演奏したり指導を見て面白いことばかりでした。
指揮がどういう要素で成り立っているか、そして指揮をどうやって教え、学ぶか、とか。奏者として指揮者がやっていることは当たり前の様に読み取れるのですが、それを具体的にこれはこう、と説明されるのも面白い。
その諸々のプロセスをいわば丁寧に再確認するようなところがあって、それだけでもこういう場所で弾けて勉強になりました。

指揮者って一見そんなに難しいことはしてないように見えますがとっても指揮というのはとっても複雑なタスク。
基本的な要素からおおまかに順に書いてみると、まずバトンを振ってテンポは拍を示したり、音の性質や表現を示したり、手や目線で奏者にキューを送ったり、音楽全体の表現を主導したり、リハーサルを主導したり、オケを全体的にまとめたり。

今回バトンをとった若い人達はそれぞれ上記の要素の色んなステージにいましたが、私が居た2日間でもものすごい成長が見られてびっくりしました。特にコープランド2日目の今日はBenが積極的に次のステージにチャレンジするよう押してて、それでぐんとまた伸びて。指揮者に余裕がでてくるとこっちも安心します。
振ることに集中してた子がキューを与えてオケとのコミュニケーションが深まったり、基本テクニックや表現もコミュニケーションも身につけた子がリハーサルの運びをも磨いていったり。

そんな成長途中の指揮者たちに基本奏者は優しいです(笑)ちょっととちったりしてもカバーしますし、テンポが揺らいでも奏者側からテンポを示してあげたり。こういうとこで奏者の役割としては「ここ届いてないぜ」ということを示すこともあるんですが、奏者がオケで経験積んでると自然と色々カバーしようとしてしまう。

奏者にとって普段のリハーサルと違うのは短い時間のなかで複数の指揮者それぞれに順応していかなくちゃいけないところ。特に今回成長途中なので一人一人の個性や癖(悪い癖も含む)ってかなり差がでてきて、さらにまだ指揮者と奏者の間でお互い伝わりにくいこともあるのですが、でもオケで経験を積んでると前述カバーしたり、癖に補正をかけたり、そういうことがほぼ無意識にできるんですよね。

そして今回改めて指揮者と奏者の関係で面白いな、と思ったこと。指揮者と奏者は言葉を使わず、指揮者は身振り手振り(しかも通常の生活で使うものとはちょっと違う)で奏者に音楽の内容を伝え、そして奏者はそれに音楽で答える。つまり双方違う、しかもどちらもかなり曖昧というか抽象的な表現方法で。
これまで数え切れないオケの演奏を考えると最終的に成り立ってて、実際弾いてても指揮者の意図が感じられる、向こうもそれを聞いて判断すると双方向のコミュニケーションが成り立っているように思えます。
ただ、実際のところは指揮者の思惑と奏者の思惑の間、そして個々の奏者による指揮者の思惑の解釈の間に結構誤差が生じてるはずなんですよね。その誤差が積もり積もって打ち消し合ったり合わなかったりして、その全ての結果がオケの音楽なんだなと思うとものすごく興味深いです。

割と色んな方法でのコミュケーションがヘタな私ですが、オケのコミュニケーションは(上記深く考えるとあれですが)ものすごくうまくいってる気がします。
基本中心視野でも周辺視野でも指揮者をガン見していますが(笑)それだけじゃなくて、指揮者のバトンを追うだけじゃなく上手いこと答えられてるような気がするのです。
ソロピアノででないような性質の音を出したり、オケ独特の表現をしたりするんですよね。それを考えるととっても受動的なのが上手く効いてるかもしれません。

今回こうやって弾く機会があってものすごく楽しかったのですが、それだけでなく自分がオケで弾くことが得意だということを再認識しました。Benにもお褒めの言葉をいただきました。オケでもちょっと弾く機会を得るにはどうしたらいいのか聞いてみたのでもちょっと動いてみるかなと思います。完全に手前味噌ですがこのままだと勿体ない。

昨日、今日ととても楽しい、そしてとても貴重な体験をしました。
ユースオケの頃から若い指揮者たちがMelbourne Youth Music界隈で育ち、旅立っていくのを何回も見てますが、指揮者として活躍するのは厳しい道のりです。今回共演した若い指揮者たちの今後の活躍を願っています。

ちょっと遅くなったので今日の一曲はおやすみなのですがStreet Pianosといって今メルボルンのシティ&その周りの屋外にいくつかペイントされたアップライトピアノが置いてあって、写真をとったのでアップしておきます。Flinders Street駅からリハーサル場所のVCAまで実に4台もありました。暑くないときにもっと探してみよう。
  



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