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ここ数日でちょっとがたがたしたことがあったのですがそちらはカテゴリ「精神関係」で改めて書きたいのでまた別の日に。明日は試合に行くのでその後になりそう。こういうことはなるべくフレッシュなうちに書きたいのですがしょうがない。
さて先日はそんながたがたの中で友人のリサイタルに行って来ました。メルボルン大学で博士号を終えた彼が博士号のテーマに、そしてピアノにおける一種のライフワーク的なものとして(でいいんだよね)弾いていたリストの「巡礼の年:第2年(イタリア)」をまるっと全部聴けるコンサート。一つ一つで、またはいくつか組み合わせて弾いて十分面白い&成り立つ曲が結構あるのであんまり全曲演奏って聴かない気がします。私も第2年今弾いてますが全部は弾かないなあ。なので色々貴重な機会でした。
そして博士号のプロジェクトの一部として録音したこの第2年(+α)のCDも発売してました。もちろん買いましたよー。
Liszt's Italian Pilgrimage
ピアノ:Tristan Lee
フランツ・リスト 巡礼の年:第2年(イタリア)
婚礼
物思いに沈む人
サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ
ペトラルカのソネット第47、104、123番
ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲
リスト!イタリア!というよりも今回の演奏の印象はそれぞれの曲、曲集全体としての音楽だけでなくそのインスピレーションや題材になった作品にも思いを馳せられるような何重の層にもなっている芸術作品の集まりの素晴らしさ。もちろん音楽聴いてんですし芸術なのは当たり前ですが音楽もありながら詩もありながら彫刻もありながら絵も有りながら、みたいなテレビでしか見たことのないヨーロッパの美術館みたいな感覚でした。
特に演奏が好きだったのは婚礼、3つめのソネット、そしてダンテ・ソナタかなあ。婚礼に関しては単曲でもう何回も聴いてるしそれ以上に弾いてるはずなのでアットホーム感が心地良い。ダンテ・ソナタはあんな難しいあんな大曲を全体像からディテールまでしっかりコントロールしてどこからみても納得の行くパワフルで鬼気迫る(そして繊細なところは繊細な)演奏で聴けてよかったです。彼の演奏がこの曲に関しては自分の中でのスタンダードであり理想像。
そういえば今回聴衆側にいた別の友人がリストの巡礼の年について面白いことを言ってました。なんでも第2年、第3年は音楽の内容とか表現に対して実際の音が少ない、と。確かに私も楽譜を買ったとき違和感があったんですよね。「あれ、こんなのっぺりとした楽譜でいいの?」みたいな。第1年だったりリストの他の(もっと早期の)作品だと音いっぱいだからリストが晩年に向けて身につけた表現法というか作風というか魔法なのかもしれませんね。
自分にとっては(印象派方面から来てるから自然と、といえばいいのかな)第3年がメインディッシュな感じで取り組んでますがTristanは第3年は弾いたり演奏したりするのかなあ。また色々違って面白いのでどういうアプローチするか気になります。でも博士号は終わってフリーだからなあ。こんど会ったら今後のレパートリーとか聞いてみないとですね(今回後飲みも早く退却だったので・・・)
今日の一曲: フランツ・リスト 巡礼の年:第2年(イタリア)より「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」
iTunes Storeでのリンク
いやーこんな難しい曲自分では一生弾かないですしそんなに頻繁に聴こうとも思えないのですが今回の演奏のあとだと紹介するのはこれしかない。というか今回紹介しないと多分ずっと紹介しない。
ピアノってのは(例えば同曲集のソネットのように)人間の気持ちを表現するのに巧みな楽器なだけでなく本当に色んな物になれるのが面白いと思います。自分の普段のレパートリーだと鳥だったり花火だったり宇宙だったり。
この通称ダンテ・ソナタでピアノが何になることを求められるか、といえばずばり「地獄」です。ダンテの「神曲」の前半「地獄篇」が題材になっているので。
大学の頃ピアノ仲間の中で超絶難しい曲といったらダンテ・ソナタが筆頭みたいなところがありましたが(それでも何人か弾いてました)、今でもやっぱり体力的にも技巧的にも音楽的にもものすごい巨大なモニュメントみたいにそびえ立っている気がします。
というかこの曲が一つの独立したソナタじゃなくて曲集の一部になってるのが色々納得いかない。題材とかの関係もいろいろあるけどこれはこれでこれだろう(意味不明)。要するに異次元だといいたいわけです。
なんと前述のTristanの録音、Move Recordsから出たときにiTunes Storeでも発売になったようで。なのでもちろん激推しでリンク。ダンテ・ソナタは長いのでアルバムオンリーですが是非是非。
さて先日はそんながたがたの中で友人のリサイタルに行って来ました。メルボルン大学で博士号を終えた彼が博士号のテーマに、そしてピアノにおける一種のライフワーク的なものとして(でいいんだよね)弾いていたリストの「巡礼の年:第2年(イタリア)」をまるっと全部聴けるコンサート。一つ一つで、またはいくつか組み合わせて弾いて十分面白い&成り立つ曲が結構あるのであんまり全曲演奏って聴かない気がします。私も第2年今弾いてますが全部は弾かないなあ。なので色々貴重な機会でした。
そして博士号のプロジェクトの一部として録音したこの第2年(+α)のCDも発売してました。もちろん買いましたよー。
Liszt's Italian Pilgrimage
ピアノ:Tristan Lee
フランツ・リスト 巡礼の年:第2年(イタリア)
婚礼
物思いに沈む人
サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ
ペトラルカのソネット第47、104、123番
ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲
リスト!イタリア!というよりも今回の演奏の印象はそれぞれの曲、曲集全体としての音楽だけでなくそのインスピレーションや題材になった作品にも思いを馳せられるような何重の層にもなっている芸術作品の集まりの素晴らしさ。もちろん音楽聴いてんですし芸術なのは当たり前ですが音楽もありながら詩もありながら彫刻もありながら絵も有りながら、みたいなテレビでしか見たことのないヨーロッパの美術館みたいな感覚でした。
特に演奏が好きだったのは婚礼、3つめのソネット、そしてダンテ・ソナタかなあ。婚礼に関しては単曲でもう何回も聴いてるしそれ以上に弾いてるはずなのでアットホーム感が心地良い。ダンテ・ソナタはあんな難しいあんな大曲を全体像からディテールまでしっかりコントロールしてどこからみても納得の行くパワフルで鬼気迫る(そして繊細なところは繊細な)演奏で聴けてよかったです。彼の演奏がこの曲に関しては自分の中でのスタンダードであり理想像。
そういえば今回聴衆側にいた別の友人がリストの巡礼の年について面白いことを言ってました。なんでも第2年、第3年は音楽の内容とか表現に対して実際の音が少ない、と。確かに私も楽譜を買ったとき違和感があったんですよね。「あれ、こんなのっぺりとした楽譜でいいの?」みたいな。第1年だったりリストの他の(もっと早期の)作品だと音いっぱいだからリストが晩年に向けて身につけた表現法というか作風というか魔法なのかもしれませんね。
自分にとっては(印象派方面から来てるから自然と、といえばいいのかな)第3年がメインディッシュな感じで取り組んでますがTristanは第3年は弾いたり演奏したりするのかなあ。また色々違って面白いのでどういうアプローチするか気になります。でも博士号は終わってフリーだからなあ。こんど会ったら今後のレパートリーとか聞いてみないとですね(今回後飲みも早く退却だったので・・・)
今日の一曲: フランツ・リスト 巡礼の年:第2年(イタリア)より「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」
iTunes Storeでのリンク
いやーこんな難しい曲自分では一生弾かないですしそんなに頻繁に聴こうとも思えないのですが今回の演奏のあとだと紹介するのはこれしかない。というか今回紹介しないと多分ずっと紹介しない。
ピアノってのは(例えば同曲集のソネットのように)人間の気持ちを表現するのに巧みな楽器なだけでなく本当に色んな物になれるのが面白いと思います。自分の普段のレパートリーだと鳥だったり花火だったり宇宙だったり。
この通称ダンテ・ソナタでピアノが何になることを求められるか、といえばずばり「地獄」です。ダンテの「神曲」の前半「地獄篇」が題材になっているので。
大学の頃ピアノ仲間の中で超絶難しい曲といったらダンテ・ソナタが筆頭みたいなところがありましたが(それでも何人か弾いてました)、今でもやっぱり体力的にも技巧的にも音楽的にもものすごい巨大なモニュメントみたいにそびえ立っている気がします。
というかこの曲が一つの独立したソナタじゃなくて曲集の一部になってるのが色々納得いかない。題材とかの関係もいろいろあるけどこれはこれでこれだろう(意味不明)。要するに異次元だといいたいわけです。
なんと前述のTristanの録音、Move Recordsから出たときにiTunes Storeでも発売になったようで。なのでもちろん激推しでリンク。ダンテ・ソナタは長いのでアルバムオンリーですが是非是非。
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先生のコンサートに行っておきながら感想エントリーを書くのを忘れるとは不覚。
というか原因は完全にはっきりしてます。コンサートから帰宅してから見たサッカーの試合、パースとメルボルン・ヴィクトリーの試合でついにパースを倒したの+試合内容が嬉しくて嬉しくて。もう仕方がないですほんとそこは。
さて70代をのんびり?ひた走り?どちらかわかりませんが相変わらず大学で教えたり演奏したり海外に行ったりしている私のピアノの先生、Stephen McIntyre。いつも会えば(とはいえ最近はずっと演奏の場です)変わらずのキャラと指の動きと脳の冴え、元気で過ごしているようで何よりです。
今回はこんなプログラムのリサイタルでした。
プログラム:
ヨハネス・ブラームス 4つのバラード op.10
ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン ディアベリ変奏曲
ちょっと短めではありますが内容しっかり。特にディアベリの最後の(後で足されたという)変奏曲群は例えば似たような性質の四重奏曲やピアノソナタに負けないprofoundさがあり。
でも最初に作曲された方の、より軽い感じの変奏曲も先生の手にかかるとユーモアと魅力が光ります。やっぱり先生の演奏にはユーモアの要素は欠かせない、というか個人的に聴いてて楽しいです。(自分が比較的苦手としているところだから余計に)
大学にいたとき弾いたブラームスはことごとく晩期の作品だったので先生の手で初期のブラームスを聴くのは新鮮でした。先生もその先生(ミケランジェリ)の演奏でこの曲を初めて聴いたのが始まりと話してたのでこうやって師弟のつながりで影響が広がり受け継がれて行くのが面白いなー・・・と思ったのでもしかしたら冬あたりに一つくらいバラード弾いてみるかな。
ブラームスのバラード、演奏としては第1番のひんやり感だったりそこから各々違う雰囲気を纏うのがすごく好きだったのですが相変わらず先生せっかちで(笑)座ってから第1番に取りかかる時間がものすごく短かったです。なんというか事前の空気というものがあの曲はあるんじゃないかなとちょっと思ったり。
さてプログラムが短いこともあって感想も短くなっちゃいました。本当はもう一つ話したいトピックがあるのですがカテゴリ的に別のエントリーを立てるのが望ましいと思ったのでまた後日。忘れなければ明日。
今日の一曲: ヨハネス・ブラームス バラード op.10 第1番
ブラームスのバラードで一番有名なのはこれかな。高校時代VCEの音楽のレパートリーリストにも入っててその時点で弾いてた人も結構いたはず。ブラームスはあんまり題名を付けたり特定の題材で曲を書いたりすることが少ないのでこのバラード第1番みたいな例外は音楽そのもの以外のキャッチー要素がある気がします。
題材はスコットランドの民族詩らしいです。スコットランドで最後に首が切られて落ちるというとマクベスと割と共通点が。(ちなみにうちの高校は英語の授業でマクベスやりました)
この曲もそうですが北欧風味の2つのラプソディーも音の響きだけでブラームスが実際住んでたドイツよりぐっと緯度が上がる感かなりツボです。あとブラームスの音楽をあまりエキゾチックと呼ばない中この3曲は異国情緒みたいな雰囲気がすごい良い。
基本(ピアノに限らずですが)寒々しさを演出するのには音が開いた配置の和音を使うのが一般的なテクニック・・・なため私みたいに手が小さいと「ずっとオクターブ和音続き・・・でもある程度メロティーのラインはつなげたいんだけど・・・」みたいなところでちょっとつまづいたりします(笑)高校のころは正にそうだったのですが今は色んな曲を弾いて色んな回り道を編み出して(?)きたので多分なんとかなるやと思えます。まだこの第1番を弾くと決めたわけじゃないですがやっぱり有力候補かなー。
本文の方で書いた先生の話から今回はミケランジェリが弾いてる録音にしました。
彼は弾いたレパートリーが点々としている印象で面白いです。(先生はまんべんない)好きな曲ばっかり弾いてるのかな。でも自分も点々と弾く傾向があるなか少なからず共通レパートリーがあって見つけるとちょっと嬉しいです。
ただそういうこともあってミケランジェリの録音はアルバム・CDとして入手するとちょっと他ではみない曲の組み合わせで収録されてることがたびたびあります。ということでベートーヴェンとシューベルトのピアノソナタ1つずつもいっしょにどうぞ。
というか原因は完全にはっきりしてます。コンサートから帰宅してから見たサッカーの試合、パースとメルボルン・ヴィクトリーの試合でついにパースを倒したの+試合内容が嬉しくて嬉しくて。もう仕方がないですほんとそこは。
さて70代をのんびり?ひた走り?どちらかわかりませんが相変わらず大学で教えたり演奏したり海外に行ったりしている私のピアノの先生、Stephen McIntyre。いつも会えば(とはいえ最近はずっと演奏の場です)変わらずのキャラと指の動きと脳の冴え、元気で過ごしているようで何よりです。
今回はこんなプログラムのリサイタルでした。
プログラム:
ヨハネス・ブラームス 4つのバラード op.10
ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン ディアベリ変奏曲
ちょっと短めではありますが内容しっかり。特にディアベリの最後の(後で足されたという)変奏曲群は例えば似たような性質の四重奏曲やピアノソナタに負けないprofoundさがあり。
でも最初に作曲された方の、より軽い感じの変奏曲も先生の手にかかるとユーモアと魅力が光ります。やっぱり先生の演奏にはユーモアの要素は欠かせない、というか個人的に聴いてて楽しいです。(自分が比較的苦手としているところだから余計に)
大学にいたとき弾いたブラームスはことごとく晩期の作品だったので先生の手で初期のブラームスを聴くのは新鮮でした。先生もその先生(ミケランジェリ)の演奏でこの曲を初めて聴いたのが始まりと話してたのでこうやって師弟のつながりで影響が広がり受け継がれて行くのが面白いなー・・・と思ったのでもしかしたら冬あたりに一つくらいバラード弾いてみるかな。
ブラームスのバラード、演奏としては第1番のひんやり感だったりそこから各々違う雰囲気を纏うのがすごく好きだったのですが相変わらず先生せっかちで(笑)座ってから第1番に取りかかる時間がものすごく短かったです。なんというか事前の空気というものがあの曲はあるんじゃないかなとちょっと思ったり。
さてプログラムが短いこともあって感想も短くなっちゃいました。本当はもう一つ話したいトピックがあるのですがカテゴリ的に別のエントリーを立てるのが望ましいと思ったのでまた後日。忘れなければ明日。
今日の一曲: ヨハネス・ブラームス バラード op.10 第1番
ブラームスのバラードで一番有名なのはこれかな。高校時代VCEの音楽のレパートリーリストにも入っててその時点で弾いてた人も結構いたはず。ブラームスはあんまり題名を付けたり特定の題材で曲を書いたりすることが少ないのでこのバラード第1番みたいな例外は音楽そのもの以外のキャッチー要素がある気がします。
題材はスコットランドの民族詩らしいです。スコットランドで最後に首が切られて落ちるというとマクベスと割と共通点が。(ちなみにうちの高校は英語の授業でマクベスやりました)
この曲もそうですが北欧風味の2つのラプソディーも音の響きだけでブラームスが実際住んでたドイツよりぐっと緯度が上がる感かなりツボです。あとブラームスの音楽をあまりエキゾチックと呼ばない中この3曲は異国情緒みたいな雰囲気がすごい良い。
基本(ピアノに限らずですが)寒々しさを演出するのには音が開いた配置の和音を使うのが一般的なテクニック・・・なため私みたいに手が小さいと「ずっとオクターブ和音続き・・・でもある程度メロティーのラインはつなげたいんだけど・・・」みたいなところでちょっとつまづいたりします(笑)高校のころは正にそうだったのですが今は色んな曲を弾いて色んな回り道を編み出して(?)きたので多分なんとかなるやと思えます。まだこの第1番を弾くと決めたわけじゃないですがやっぱり有力候補かなー。
本文の方で書いた先生の話から今回はミケランジェリが弾いてる録音にしました。
彼は弾いたレパートリーが点々としている印象で面白いです。(先生はまんべんない)好きな曲ばっかり弾いてるのかな。でも自分も点々と弾く傾向があるなか少なからず共通レパートリーがあって見つけるとちょっと嬉しいです。
ただそういうこともあってミケランジェリの録音はアルバム・CDとして入手するとちょっと他ではみない曲の組み合わせで収録されてることがたびたびあります。ということでベートーヴェンとシューベルトのピアノソナタ1つずつもいっしょにどうぞ。
コンサート行っておきながら感想書くのすっかり忘れてました。
あっぶなー。今週末もまたコンサートなのに(汗)
メル響がサー・アンドリュー・デイヴィスとこの数年間続けてきたマーラーサイクルも終盤。まだ予定が未定な8番「千人の交響曲」をのぞいてこれがラスト。(サー・デイヴィスは今年いっぱいで首席指揮者としてのお仕事終わりなのでいつかゲストとして来てやってくれるかなあ・・・)
今回はこれまでとはちょっと変わったフォーマットのコンサートでした。
Mahler 10: Letters and Readings
指揮者:Sir Andrew Davis
「Inside the Mind of Mahler」(俳優・脚本:Tama Matheson)
(休憩)
グスタフ・マーラー 交響曲第10番
今回のコンサートは違和感から始まりました。なんとステージにいるオケの団員がみんな私服。
そこにサー・デイヴィスが指揮台に立って「すまないけどまだリハーサルしなくちゃいけないところがあって」と話し始めたところでなるほどもう『何か』が始まってるんだなと。
リハーサルと称して交響曲の一部を弾き始めると「なんだこれは!これはマーラーの10番じゃないぞ!」と現れた人物。舞台に上がったその人は何かの間違いで蘇ったマーラー(Tama Matheson演じる)でした。
そこからこの作品の背景や作曲家の思いなどを作曲家自身と指揮者がマーラー自身の記録された言葉などを中心に話していく(そしてビオラのリーダー演じるフロイトも交えて)という舞台作品仕立てになっていました。
後からこのコンサートのレビューにあったとおり普通にプログラムにも書いてあることだし要らないっちゃあ要らない演出ではあるとは確かに思いますけど普通に面白かったですし楽しかったです。この10番はマーラーのパーソナルな部分がものすごく強く現れているのでそれを強調したフォーマットは面白いですし、あとたまにマーラーの交響曲って一人の人間が書いたことを忘れがちなすごさもありますし。それから何よりマーラーが生きてた時代と今の時代で諸々価値観が変わってることをちゃんと認識する必要があるという意味で大切かもと思います。特にマーラーの作品の重要な要素「死」は彼の時代と比べて医療などが進んだ今とではとらえ方がかなり違ったり。あと蘇ったマーラーが私たち聴衆のことを「underdressed」と言ったのですがクラシック音楽の演奏環境も変わってる。フロイトの治療だって当時は最先端だったのが今では時代遅れ扱い。クラシック音楽というジャンルに限っていえば100年ちょいなんて最近のことなのですがcontextと合わせることで、それを生身の人間を通して触れることで肌で感じる、というのは意義があるんじゃないかなあ。
さて本題マーラー10番。マーラーが最後に書いた作品であり、彼自身の思い(特に妻アルマに向けた思い)を音のみならず言葉としてスコアに溢れさせた未完の作品・・・を後からDaryl Cookeが完成させた作品。未完成、完成といってもラフスケッチは全部できてて後から肉付け&楽器に音を振り分けする部分があったということらしいです。ただ出版するにはアルマの壁(私が勝手にそう呼んでいる)が高く厚くそびえたらしいですが最終的にこのバージョンは認められれ今でも演奏されているとか。
スケールも長さもマーラーの交響曲として最大ではないですが色んな人の思いが相当ぎっしり詰まっている曲。
なので一回聞いただけじゃ全部は理解できないですし要スコア(汗)やっぱりマーラー節!ってとこもあれば「おおう?」みたいな違和感(多分Cookeさんのせいなくて元々のマーラーの仕業)があるところもあり。なにより形式だけで「うおーそうかー」と頭を色々巡らせる力があるって半端ない。
とにかく曲をなんとか頭のなかで処理しようと忙しくて演奏がどうだったかまでは頭が回らない部分もあったのですがメル響なんで聞いてて楽しい、エキサイティングな演奏だったながらびしっと統率のきびきびしたオケで一回聞いてみたいところです。その方が映えるところも数々あるはず。
(まだ8番聞いてませんが&9番は別のオケで聞きましたが)1番からずっと聞いてきて最後にこれが待ってるとか地味に大ボス感がすごくて面白かったです。しばらく間おいてからでいいんでまた1番から味わいたい気持ちもあります。懲りないなー&飽きないなー自分。もちろん8番やるんだったらコンプリートしに行きます。あれはまたあれで別のモンスターですし。楽しみなので是非やっていただきたい。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 第5楽章
最後の最後のマーラー。愛だったり絶望だったり死だったり最後の作品なのに、そして未完成のまま亡くなっているのに最後の最後まで(=死後まで)しっかり生命力が詰まっているすごい作品です。
マーラーでいうと一番有名な曲が5番のアダージェット(アルマへのラブレターみたいなもん)なのかな、巷では。でもやっぱりある程度マーラーの作品を知ると一番強く感じるのが彼の作品を支配する「死」の影だと思います。交響曲も歌曲も至る所に死がいる。
ただ10番まで来てさらにまた斬新な死との出会い、死の表現が出てくるのがまたすごい。
マーラーはそのころニューヨークに渡っていてホテルからたまたま葬送の太鼓を聞いたのがこの楽章の冒頭から繰り返されるバスドラム(箱入り)のモチーフになってるらしいです。
外国に行って普段と違う文化に出会う新鮮さが新しい表現をもたらしたわけですね。
でも実際「異文化」+「生死にまつわる何か」のコンボってものすごくパワフルですよね。私も個人的に最近そこで思うことあったのですが、特に予期しない形でその2つの要素の組み合わせにエンカウントするとすごい衝撃を受けるんだろうな。
ただ現代人としてはマーラーの曲を聴くだけでもその異文化+死に関する価値観に真っ向にぶつかるのを体験するんですよね。曲をよく知ってても、例えばマーラーが死と親しみをもって遊び始めるのにぞっとしたり違和感を感じたりとか、そういうのは薄れない部分もあって。「死」が非日常になっていってる今の時代には(そして未来はもっと)マーラーの異質をもっと感じられる、楽しめるようになってるのかも。
さて余談なのですが先ほども書きました葬送の太鼓、今回のコンサートでは布にくるまれた箱の中に(おそらくスタンダードなものより小さい?)バスドラムが入っているというセットアップだったのですが他の演奏だとどうなってるかちょっと気になります。10番は他の交響曲とくらべて打楽器控えめな分こういう特殊な楽器の存在感が強いですね。(6番のハンマーほどインパクトはないにしても)
マーラーが完成させた最初の楽章だけ収録してる録音もありますがもちろん今回は「Cookeによる完全版」で。なぜかストリーミング版が多めなのはなんでだろう。
あっぶなー。今週末もまたコンサートなのに(汗)
メル響がサー・アンドリュー・デイヴィスとこの数年間続けてきたマーラーサイクルも終盤。まだ予定が未定な8番「千人の交響曲」をのぞいてこれがラスト。(サー・デイヴィスは今年いっぱいで首席指揮者としてのお仕事終わりなのでいつかゲストとして来てやってくれるかなあ・・・)
今回はこれまでとはちょっと変わったフォーマットのコンサートでした。
Mahler 10: Letters and Readings
指揮者:Sir Andrew Davis
「Inside the Mind of Mahler」(俳優・脚本:Tama Matheson)
(休憩)
グスタフ・マーラー 交響曲第10番
今回のコンサートは違和感から始まりました。なんとステージにいるオケの団員がみんな私服。
そこにサー・デイヴィスが指揮台に立って「すまないけどまだリハーサルしなくちゃいけないところがあって」と話し始めたところでなるほどもう『何か』が始まってるんだなと。
リハーサルと称して交響曲の一部を弾き始めると「なんだこれは!これはマーラーの10番じゃないぞ!」と現れた人物。舞台に上がったその人は何かの間違いで蘇ったマーラー(Tama Matheson演じる)でした。
そこからこの作品の背景や作曲家の思いなどを作曲家自身と指揮者がマーラー自身の記録された言葉などを中心に話していく(そしてビオラのリーダー演じるフロイトも交えて)という舞台作品仕立てになっていました。
後からこのコンサートのレビューにあったとおり普通にプログラムにも書いてあることだし要らないっちゃあ要らない演出ではあるとは確かに思いますけど普通に面白かったですし楽しかったです。この10番はマーラーのパーソナルな部分がものすごく強く現れているのでそれを強調したフォーマットは面白いですし、あとたまにマーラーの交響曲って一人の人間が書いたことを忘れがちなすごさもありますし。それから何よりマーラーが生きてた時代と今の時代で諸々価値観が変わってることをちゃんと認識する必要があるという意味で大切かもと思います。特にマーラーの作品の重要な要素「死」は彼の時代と比べて医療などが進んだ今とではとらえ方がかなり違ったり。あと蘇ったマーラーが私たち聴衆のことを「underdressed」と言ったのですがクラシック音楽の演奏環境も変わってる。フロイトの治療だって当時は最先端だったのが今では時代遅れ扱い。クラシック音楽というジャンルに限っていえば100年ちょいなんて最近のことなのですがcontextと合わせることで、それを生身の人間を通して触れることで肌で感じる、というのは意義があるんじゃないかなあ。
さて本題マーラー10番。マーラーが最後に書いた作品であり、彼自身の思い(特に妻アルマに向けた思い)を音のみならず言葉としてスコアに溢れさせた未完の作品・・・を後からDaryl Cookeが完成させた作品。未完成、完成といってもラフスケッチは全部できてて後から肉付け&楽器に音を振り分けする部分があったということらしいです。ただ出版するにはアルマの壁(私が勝手にそう呼んでいる)が高く厚くそびえたらしいですが最終的にこのバージョンは認められれ今でも演奏されているとか。
スケールも長さもマーラーの交響曲として最大ではないですが色んな人の思いが相当ぎっしり詰まっている曲。
なので一回聞いただけじゃ全部は理解できないですし要スコア(汗)やっぱりマーラー節!ってとこもあれば「おおう?」みたいな違和感(多分Cookeさんのせいなくて元々のマーラーの仕業)があるところもあり。なにより形式だけで「うおーそうかー」と頭を色々巡らせる力があるって半端ない。
とにかく曲をなんとか頭のなかで処理しようと忙しくて演奏がどうだったかまでは頭が回らない部分もあったのですがメル響なんで聞いてて楽しい、エキサイティングな演奏だったながらびしっと統率のきびきびしたオケで一回聞いてみたいところです。その方が映えるところも数々あるはず。
(まだ8番聞いてませんが&9番は別のオケで聞きましたが)1番からずっと聞いてきて最後にこれが待ってるとか地味に大ボス感がすごくて面白かったです。しばらく間おいてからでいいんでまた1番から味わいたい気持ちもあります。懲りないなー&飽きないなー自分。もちろん8番やるんだったらコンプリートしに行きます。あれはまたあれで別のモンスターですし。楽しみなので是非やっていただきたい。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 第5楽章
最後の最後のマーラー。愛だったり絶望だったり死だったり最後の作品なのに、そして未完成のまま亡くなっているのに最後の最後まで(=死後まで)しっかり生命力が詰まっているすごい作品です。
マーラーでいうと一番有名な曲が5番のアダージェット(アルマへのラブレターみたいなもん)なのかな、巷では。でもやっぱりある程度マーラーの作品を知ると一番強く感じるのが彼の作品を支配する「死」の影だと思います。交響曲も歌曲も至る所に死がいる。
ただ10番まで来てさらにまた斬新な死との出会い、死の表現が出てくるのがまたすごい。
マーラーはそのころニューヨークに渡っていてホテルからたまたま葬送の太鼓を聞いたのがこの楽章の冒頭から繰り返されるバスドラム(箱入り)のモチーフになってるらしいです。
外国に行って普段と違う文化に出会う新鮮さが新しい表現をもたらしたわけですね。
でも実際「異文化」+「生死にまつわる何か」のコンボってものすごくパワフルですよね。私も個人的に最近そこで思うことあったのですが、特に予期しない形でその2つの要素の組み合わせにエンカウントするとすごい衝撃を受けるんだろうな。
ただ現代人としてはマーラーの曲を聴くだけでもその異文化+死に関する価値観に真っ向にぶつかるのを体験するんですよね。曲をよく知ってても、例えばマーラーが死と親しみをもって遊び始めるのにぞっとしたり違和感を感じたりとか、そういうのは薄れない部分もあって。「死」が非日常になっていってる今の時代には(そして未来はもっと)マーラーの異質をもっと感じられる、楽しめるようになってるのかも。
さて余談なのですが先ほども書きました葬送の太鼓、今回のコンサートでは布にくるまれた箱の中に(おそらくスタンダードなものより小さい?)バスドラムが入っているというセットアップだったのですが他の演奏だとどうなってるかちょっと気になります。10番は他の交響曲とくらべて打楽器控えめな分こういう特殊な楽器の存在感が強いですね。(6番のハンマーほどインパクトはないにしても)
マーラーが完成させた最初の楽章だけ収録してる録音もありますがもちろん今回は「Cookeによる完全版」で。なぜかストリーミング版が多めなのはなんでだろう。
いきなり秋が来ましたメルボルン。まだまだ何があるかわかりませんが夏もほぼ終わりのはず。
こういう急な天候の変化があると住んでる人には想定の範囲内ではありますが他のところからメルボルンに来てる人に「うちのメルボルンがすみませんねえ」みたいな申し訳ない気分になったりもします。メルボルンに来る際にはどの季節でも3つくらいの季節に重ね着で対応できるようにするのが理想的です。
さて月曜日はコンサートに行ってきました。友人のトリオPlexusの2019年シーズン始まり。
ただ今回はちょっといつもと趣旨が違うプログラムで。
Plexus「Phosphorescence」
バイオリン:Monica Curro、クラリネット:Philip Arkinstall、ピアノ:Stefan Cassomenos
照明効果:Kit Webster
Thomas Green 「Antique Dance Variations」
Gavin Bryars 「Sub Rosa」(リコーダー:Hannah Coleman、コントラバス:Damien Eckersley、パーカッション:Brent Miller)
Kate Moore ピアノ独奏のための「Spin Bird」
Joseph Schwantner 「Music of Amber」(上記パーカッション、フルート:Eliza Shephard、チェロ:Michelle Wood)
(休憩)
Georges Lentz 「Nguurraa」(上記チェロ、パーカッション)
Frederic Rzewski 「Coming Together」(上記リコーダー、フルート、チェロ、コントラバス、パーカッション、ナレーター:Gerry Connolly」
ゲストが多い!しかも器楽だけでなくナレーターに照明効果まで。そしてレパートリーも変わってて初演なのが最初の曲だけ、私が生まれる前後くらいに書かれた曲もいくつか。そして編成が変わってるのも面白いですね。
Plexusは普段作曲家に依頼して書いた曲をまとめて演奏するのですが今回は必ずしもそうでないということで面白い楽器編成の曲をまとめてみたり照明と組み合わせてみたり(タイトルとリンクしてますもんね、そこは)、その結果今回のコンサートはなんというかアンビエント系の曲が多かった印象でした。そのなかだとやっぱSub RosaとNguurraaが好きだったかも。後者は天文方面意識してるらしく親しみがある音楽のなかだとクラムにちょっと通じるところがあったからとっつきやすかったのかな。
ただコンサートのハイライトはその真逆にある暴力的ともいえる曲調の部分。打楽器と小編成室内楽の作品はこれまでのコンサートでいくつかありましたが、Music of Amberの第2楽章ではこの手のアンサンブルにはちょっと珍しくドラム系統をがんがん使ってくるスタイル。ピアノ+バスクラ+チェロがドラム系統と真っ向からぶつかり戦う構図と曲の推進力がものすごくかっこよかったです。
そして特筆したいのが実際の事件、そしてその事件に関する実際の言葉をベースにした「Coming Together」。作曲が1981年でいわゆるアダムズのオペラとかみたいな単純な繰り返しを基本構成としたミニマルミュージックの域に入る作品で、そのパターンの性質上演奏時間もなかなかの長さでしたが言葉以外の要素の圧もあって面白い曲でした。正直このコンサート全体、特にこの曲だけでも照明など「見るもの」がないとしんどかったと思いましたが(照明グッジョブ!)それでも面白い曲なことには変わりない。それにこの手の音楽は聴くのも骨が折れるながら弾く方がさらに大変。テンションをキープしたりずっと音楽が途切れず続く中でどう抑揚をやっていくか、それから体力集中力ももちろん。ほんとお疲れ様です。
先ほども書いたように打楽器がこういうアンサンブルで使われるのは前例いつくか見てますし色んな打楽器を使い分けていろんな曲に対応できますがゲストプレーヤー:リコーダーは正直意外でしたね。Sub Rosaではその独特な存在感に納得しましたがComing Togetherは音量もみんなすごいしちょっと聞こえない部分が多かった・・・(汗)あとどうしても「言葉」が主役の曲だから。しょうがないですね。
ということで予想よりコンサートが遅く終わったので友人たち(前回書いたコンサートでソロ弾いたクラリネット奏者含む)にご挨拶もしないで帰宅することになったのもちょっと残念でした。次(6月)こそはきっと。
3月は行く予定のコンサートが2つあります。一つは先生のリサイタル、そしてもう一つはメル響マーラー10番。千人の交響曲は結局やるのかやらないのかーーーってのは思うのですが巡礼なのでありがたく10番聴きにいかせていただきます。(9番は別のオケでしたが皆勤賞キープですよ)楽しみです。
今日の一曲: オスバルド・ゴリホフ 「3つの歌曲」より第1楽章「Night of the Flying Horses」
今日はとにかくラテン系のクラシックを欲する日でした。
最近(といっても時間的には結構前)のエントリーでスペイン音楽よりも南米の音楽の方が馴染む不思議についてちょっと書きましたが今日一日で何がそんなに差がつくのかはっきりした気がします。
一つは前も書いたようにリズムとハーモニーという音楽的要素。そしてもう一つは音楽が孕んでいる悲しみや怒りなどの感情の性質というか色というか。この色のAngstでないとここまでは共鳴できない!と少なくとも今日の心境としては確信しました。
ラテンアメリカといえば人も音楽も文化も陽気なイメージがあるかもしれませんが音楽に関してはそうでない曲も魅力的なものが多いです。特にアルゼンチン方面。ピアソラにしてもゴリホフにしても暗い曲はまあ暗い。しかも内向きに激しい。
特にゴリホフはアルゼンチンの人であるだけでなくユダヤ系の血筋+作風なのでAngst×Angstな感じが強烈です。(あと両方好きな音楽なのでその相乗効果は自分にとってどんぴしゃというのもあります)このNight of the Flying Horsesもその激しさが表れるのはたった一度、たった一部なのですがものすごいインパクトがあります。
強烈な音楽を欲するときは素直にむさぼるに限りますね、ほんと。他にもピアソラのLe Grand Tangoとか、あとアデスのArcadianaの「Et...」(個人的に「タンゴのゾンビ」と呼んでいます)とか、ラテン系からは離れますが同じくアデスのAsylaの第3楽章とか(どんな方向に強烈な感情にも合う便利な曲です)。たまたま今回そういう方向性じゃなかったけど強烈なマーラーとかショスタコとかもいいですよね。いろんな引き出しがまだまだ。
このNight of the Flying Horsesはシルクロード・アンサンブルも演奏してるのですが今回は「3つの歌曲」としてのバージョンを。向こうも楽しいんですけど今回は音をクラシック音楽の楽器に統一することで感情の高まりをこうぐっとなんというか集約してみる試み。
そしてこのブログでも何度も書いてきたように他の2つの歌曲もまたそれぞれ違ってそれぞれ素晴らしいです。また聴きたいと思った(多分心穏やかな)ときに楽しみたい。そしてもっと手持ちのゴリホフを増やしたい。(受難曲あたり狙ってます)
こういう急な天候の変化があると住んでる人には想定の範囲内ではありますが他のところからメルボルンに来てる人に「うちのメルボルンがすみませんねえ」みたいな申し訳ない気分になったりもします。メルボルンに来る際にはどの季節でも3つくらいの季節に重ね着で対応できるようにするのが理想的です。
さて月曜日はコンサートに行ってきました。友人のトリオPlexusの2019年シーズン始まり。
ただ今回はちょっといつもと趣旨が違うプログラムで。
Plexus「Phosphorescence」
バイオリン:Monica Curro、クラリネット:Philip Arkinstall、ピアノ:Stefan Cassomenos
照明効果:Kit Webster
Thomas Green 「Antique Dance Variations」
Gavin Bryars 「Sub Rosa」(リコーダー:Hannah Coleman、コントラバス:Damien Eckersley、パーカッション:Brent Miller)
Kate Moore ピアノ独奏のための「Spin Bird」
Joseph Schwantner 「Music of Amber」(上記パーカッション、フルート:Eliza Shephard、チェロ:Michelle Wood)
(休憩)
Georges Lentz 「Nguurraa」(上記チェロ、パーカッション)
Frederic Rzewski 「Coming Together」(上記リコーダー、フルート、チェロ、コントラバス、パーカッション、ナレーター:Gerry Connolly」
ゲストが多い!しかも器楽だけでなくナレーターに照明効果まで。そしてレパートリーも変わってて初演なのが最初の曲だけ、私が生まれる前後くらいに書かれた曲もいくつか。そして編成が変わってるのも面白いですね。
Plexusは普段作曲家に依頼して書いた曲をまとめて演奏するのですが今回は必ずしもそうでないということで面白い楽器編成の曲をまとめてみたり照明と組み合わせてみたり(タイトルとリンクしてますもんね、そこは)、その結果今回のコンサートはなんというかアンビエント系の曲が多かった印象でした。そのなかだとやっぱSub RosaとNguurraaが好きだったかも。後者は天文方面意識してるらしく親しみがある音楽のなかだとクラムにちょっと通じるところがあったからとっつきやすかったのかな。
ただコンサートのハイライトはその真逆にある暴力的ともいえる曲調の部分。打楽器と小編成室内楽の作品はこれまでのコンサートでいくつかありましたが、Music of Amberの第2楽章ではこの手のアンサンブルにはちょっと珍しくドラム系統をがんがん使ってくるスタイル。ピアノ+バスクラ+チェロがドラム系統と真っ向からぶつかり戦う構図と曲の推進力がものすごくかっこよかったです。
そして特筆したいのが実際の事件、そしてその事件に関する実際の言葉をベースにした「Coming Together」。作曲が1981年でいわゆるアダムズのオペラとかみたいな単純な繰り返しを基本構成としたミニマルミュージックの域に入る作品で、そのパターンの性質上演奏時間もなかなかの長さでしたが言葉以外の要素の圧もあって面白い曲でした。正直このコンサート全体、特にこの曲だけでも照明など「見るもの」がないとしんどかったと思いましたが(照明グッジョブ!)それでも面白い曲なことには変わりない。それにこの手の音楽は聴くのも骨が折れるながら弾く方がさらに大変。テンションをキープしたりずっと音楽が途切れず続く中でどう抑揚をやっていくか、それから体力集中力ももちろん。ほんとお疲れ様です。
先ほども書いたように打楽器がこういうアンサンブルで使われるのは前例いつくか見てますし色んな打楽器を使い分けていろんな曲に対応できますがゲストプレーヤー:リコーダーは正直意外でしたね。Sub Rosaではその独特な存在感に納得しましたがComing Togetherは音量もみんなすごいしちょっと聞こえない部分が多かった・・・(汗)あとどうしても「言葉」が主役の曲だから。しょうがないですね。
ということで予想よりコンサートが遅く終わったので友人たち(前回書いたコンサートでソロ弾いたクラリネット奏者含む)にご挨拶もしないで帰宅することになったのもちょっと残念でした。次(6月)こそはきっと。
3月は行く予定のコンサートが2つあります。一つは先生のリサイタル、そしてもう一つはメル響マーラー10番。千人の交響曲は結局やるのかやらないのかーーーってのは思うのですが巡礼なのでありがたく10番聴きにいかせていただきます。(9番は別のオケでしたが皆勤賞キープですよ)楽しみです。
今日の一曲: オスバルド・ゴリホフ 「3つの歌曲」より第1楽章「Night of the Flying Horses」
今日はとにかくラテン系のクラシックを欲する日でした。
最近(といっても時間的には結構前)のエントリーでスペイン音楽よりも南米の音楽の方が馴染む不思議についてちょっと書きましたが今日一日で何がそんなに差がつくのかはっきりした気がします。
一つは前も書いたようにリズムとハーモニーという音楽的要素。そしてもう一つは音楽が孕んでいる悲しみや怒りなどの感情の性質というか色というか。この色のAngstでないとここまでは共鳴できない!と少なくとも今日の心境としては確信しました。
ラテンアメリカといえば人も音楽も文化も陽気なイメージがあるかもしれませんが音楽に関してはそうでない曲も魅力的なものが多いです。特にアルゼンチン方面。ピアソラにしてもゴリホフにしても暗い曲はまあ暗い。しかも内向きに激しい。
特にゴリホフはアルゼンチンの人であるだけでなくユダヤ系の血筋+作風なのでAngst×Angstな感じが強烈です。(あと両方好きな音楽なのでその相乗効果は自分にとってどんぴしゃというのもあります)このNight of the Flying Horsesもその激しさが表れるのはたった一度、たった一部なのですがものすごいインパクトがあります。
強烈な音楽を欲するときは素直にむさぼるに限りますね、ほんと。他にもピアソラのLe Grand Tangoとか、あとアデスのArcadianaの「Et...」(個人的に「タンゴのゾンビ」と呼んでいます)とか、ラテン系からは離れますが同じくアデスのAsylaの第3楽章とか(どんな方向に強烈な感情にも合う便利な曲です)。たまたま今回そういう方向性じゃなかったけど強烈なマーラーとかショスタコとかもいいですよね。いろんな引き出しがまだまだ。
このNight of the Flying Horsesはシルクロード・アンサンブルも演奏してるのですが今回は「3つの歌曲」としてのバージョンを。向こうも楽しいんですけど今回は音をクラシック音楽の楽器に統一することで感情の高まりをこうぐっとなんというか集約してみる試み。
そしてこのブログでも何度も書いてきたように他の2つの歌曲もまたそれぞれ違ってそれぞれ素晴らしいです。また聴きたいと思った(多分心穏やかな)ときに楽しみたい。そしてもっと手持ちのゴリホフを増やしたい。(受難曲あたり狙ってます)
まだまだ暑いですが暦の上では今日から秋。
ということでコンサートのシーズンもそろそろ開幕です。
昨日はいきなりこんなコンサートに行ってきました。
Jazz at Lincoln Center Orchestra with Wynton Marsalis and the MSO
指揮者:Nicholas Buc
Duke Ellingtonの曲3つ
レナード・バーンスタイン Prelude, Fugue and Riffs(クラリネット:Philip Arkinstall)
(休憩)
ウィントン・マルサリス 交響曲第4番「The Jungle」
ずっと楽しみにしてました、ウィントン・マルサリス率いるLincoln Center Orchestraとメル響の共演。オーストラリアは海外からアーティストがわんさか来るようなとこではないので(それでも来るときは見逃したくないですね)こういう機会はやっぱりつかみますよ。父がトランペット吹きで小さいころから聞いてた奏者ですからねー。
やっぱジャズって違う、という以前にまずやっぱアメリカの音って違うなーと思いました。なんだかんだでオーストラリアのオケってヨーロッパの支流なのかも(当たり前の話ですが)。
ジャズに限らずだと思うんですがとくにジャズの金管であんな開けっぴろげな音が出るのはアメリカくらいじゃないかな。目が覚めるし理屈抜きに楽しい。
最初のDuke Ellingtonはクラシック要素はなく純粋にLincoln Center Orchestraのジャズ演奏を楽しむセクションでしたがそこから後はジャズとクラシックの間で他のジャンルからも色々引っ張ってきて20世紀以降って人も音楽も広く動く時代になったのをかみしめながらとにかく楽しかったです。ジャズもクラシックも色々広く飲み込むジャンルだからなー。そしてお互いに影響もある。
バーンスタインでソリストだったのは今年もコンサート聴きに行く予定(来週から)のトリオの友人。とにかくジャズオケの音量がすごかったのでクラリネット一本では大変だっただろうなー。でもバーンスタインらしくおしゃれさがある楽しい曲で演奏も特に最後のRiffsでの疾走感など色々よかった。
後半の交響曲はさらに面白い曲でした。全体の構成としてはまあ交響曲。でも各楽章の構成はそうでない。色んなスタイルが立ち替わり現れるその変わり目の突然さはジャズ。
南米や中米、タンゴなど色んなところの影響が聞きとれるとクイズみたいで楽しい。やっぱりリズムが特徴的で複雑な音楽はジャズにしてもその色が活きますね。
あとこの曲はクラシックオケ・ジャズオケをただただ対照的に使うのではなく色んなパーツを色んな組み合わせで使うやりかたがものすごく頭が良い感じがしました。似てるけど違う、違うけど似てる、を曲のあらゆるところで肌で感じられる。
惜しむらくは6楽章構成で各楽章てんこ盛り、しかもクラシックの交響曲みたいな各楽章のコントラストが少なめ(=内容てんこ盛りだから)なために聞いてて長く感じちゃいました。ずっと楽しいには楽しいんですがやっぱりあれだけの内容を1時間超聞くと難しさも出てくる。そこんとこバーンスタインは偉大だなあと改めて。楽しい+簡潔にまとめることができる。
今回の指揮者さんは昔々ユースオケにいたころの先輩でした。バイオリン弾くだけじゃなくて自分で作曲もして指揮もして。長らく姿を見てなくてたまに活躍の話を聞くのみでしたが元気そうでなにより。指揮する前とか後とかの様子を見る限り昔と同じく面白い兄ちゃんみたいでそれはそれで感極まるところありました。
今年一発目のコンサートということもありますが内容というか音の質に関してもものすごくフレッシュでパワフルな演奏が聴けてよかったです。先ほども書きましたが改めてその文化の違いだったり(アメリカで弾くのはクラムくらいだし・・・)ジャズとクラシックの良いところを味わうことができてもう今年分満足しそうなくらい(笑)
でも来週は友人のトリオのコンサートのチケット予約してありますし今月もうマーラー10番のコンサートがあったり先生のリサイタルもあるそうで、ほんと贅沢な音楽環境メルボルン。
ついでなのですがサウスバンクあたりの整備も進んでいるみたいで音楽を聞く直接の環境だけでなくその周りの物理的環境もまた良くなるのが楽しみです。
今日の一曲: レナード・バーンスタイン 「Prelude, Fugue and Riffs」
そもそもクラシック音楽とジャズはお隣さん同士というかずっと近いところで進化し続けていてオーバーラップするところも少なからずある中「クラシック音楽らしさ」「ジャズらしさ」とは何ぞ?みたいな疑問はちょくちょく出てきます。
今回のコンサートで演奏された曲をベースに考えるとクラシック音楽らしさは形式の言語にあるんじゃないかな、という風に思います。
このPrelufe, Fugue and Riffsもタイトルや楽章構成だけでなくミクロの部分にも形式を感じ取ることでサウンドはしっかりジャズなのにクラシック感が出てくる、みたいなところがあるかなあ。バーンスタインは様々なジャンル、スタイルだけでなく形式も自由自在に(そして不自然さを感じさせず)活用できる天才でもある。
ジャズオケの演奏の中に協奏曲並とはいかないですがソリストとしての役割があるクラリネット。決して大きい音がでにくい楽器ではないのですが(クレズマーとかすごいですよね)それでも金管軍団+サックス軍団が揃うジャズオケの音量に太刀打ちするのって難しそう。でも聞こえる限りではなかなかかっこいいパート。どういう機会でまた聞けるかわからないけどまた生で聴きたいです。
リンクした録音はバーンスタインなのにウェストサイド物語のウェの字(?)もない他の曲が色々収録されたアルバム。先ほども書きましたがバーンスタインは楽しいしうまいし面白いし簡潔にまとまってます(あれ、こんなには書かなかったかな)。たまにはちょっとウェストサイドから離れて他の作品を聴くのもいいですよー
ということでコンサートのシーズンもそろそろ開幕です。
昨日はいきなりこんなコンサートに行ってきました。
Jazz at Lincoln Center Orchestra with Wynton Marsalis and the MSO
指揮者:Nicholas Buc
Duke Ellingtonの曲3つ
レナード・バーンスタイン Prelude, Fugue and Riffs(クラリネット:Philip Arkinstall)
(休憩)
ウィントン・マルサリス 交響曲第4番「The Jungle」
ずっと楽しみにしてました、ウィントン・マルサリス率いるLincoln Center Orchestraとメル響の共演。オーストラリアは海外からアーティストがわんさか来るようなとこではないので(それでも来るときは見逃したくないですね)こういう機会はやっぱりつかみますよ。父がトランペット吹きで小さいころから聞いてた奏者ですからねー。
やっぱジャズって違う、という以前にまずやっぱアメリカの音って違うなーと思いました。なんだかんだでオーストラリアのオケってヨーロッパの支流なのかも(当たり前の話ですが)。
ジャズに限らずだと思うんですがとくにジャズの金管であんな開けっぴろげな音が出るのはアメリカくらいじゃないかな。目が覚めるし理屈抜きに楽しい。
最初のDuke Ellingtonはクラシック要素はなく純粋にLincoln Center Orchestraのジャズ演奏を楽しむセクションでしたがそこから後はジャズとクラシックの間で他のジャンルからも色々引っ張ってきて20世紀以降って人も音楽も広く動く時代になったのをかみしめながらとにかく楽しかったです。ジャズもクラシックも色々広く飲み込むジャンルだからなー。そしてお互いに影響もある。
バーンスタインでソリストだったのは今年もコンサート聴きに行く予定(来週から)のトリオの友人。とにかくジャズオケの音量がすごかったのでクラリネット一本では大変だっただろうなー。でもバーンスタインらしくおしゃれさがある楽しい曲で演奏も特に最後のRiffsでの疾走感など色々よかった。
後半の交響曲はさらに面白い曲でした。全体の構成としてはまあ交響曲。でも各楽章の構成はそうでない。色んなスタイルが立ち替わり現れるその変わり目の突然さはジャズ。
南米や中米、タンゴなど色んなところの影響が聞きとれるとクイズみたいで楽しい。やっぱりリズムが特徴的で複雑な音楽はジャズにしてもその色が活きますね。
あとこの曲はクラシックオケ・ジャズオケをただただ対照的に使うのではなく色んなパーツを色んな組み合わせで使うやりかたがものすごく頭が良い感じがしました。似てるけど違う、違うけど似てる、を曲のあらゆるところで肌で感じられる。
惜しむらくは6楽章構成で各楽章てんこ盛り、しかもクラシックの交響曲みたいな各楽章のコントラストが少なめ(=内容てんこ盛りだから)なために聞いてて長く感じちゃいました。ずっと楽しいには楽しいんですがやっぱりあれだけの内容を1時間超聞くと難しさも出てくる。そこんとこバーンスタインは偉大だなあと改めて。楽しい+簡潔にまとめることができる。
今回の指揮者さんは昔々ユースオケにいたころの先輩でした。バイオリン弾くだけじゃなくて自分で作曲もして指揮もして。長らく姿を見てなくてたまに活躍の話を聞くのみでしたが元気そうでなにより。指揮する前とか後とかの様子を見る限り昔と同じく面白い兄ちゃんみたいでそれはそれで感極まるところありました。
今年一発目のコンサートということもありますが内容というか音の質に関してもものすごくフレッシュでパワフルな演奏が聴けてよかったです。先ほども書きましたが改めてその文化の違いだったり(アメリカで弾くのはクラムくらいだし・・・)ジャズとクラシックの良いところを味わうことができてもう今年分満足しそうなくらい(笑)
でも来週は友人のトリオのコンサートのチケット予約してありますし今月もうマーラー10番のコンサートがあったり先生のリサイタルもあるそうで、ほんと贅沢な音楽環境メルボルン。
ついでなのですがサウスバンクあたりの整備も進んでいるみたいで音楽を聞く直接の環境だけでなくその周りの物理的環境もまた良くなるのが楽しみです。
今日の一曲: レナード・バーンスタイン 「Prelude, Fugue and Riffs」
そもそもクラシック音楽とジャズはお隣さん同士というかずっと近いところで進化し続けていてオーバーラップするところも少なからずある中「クラシック音楽らしさ」「ジャズらしさ」とは何ぞ?みたいな疑問はちょくちょく出てきます。
今回のコンサートで演奏された曲をベースに考えるとクラシック音楽らしさは形式の言語にあるんじゃないかな、という風に思います。
このPrelufe, Fugue and Riffsもタイトルや楽章構成だけでなくミクロの部分にも形式を感じ取ることでサウンドはしっかりジャズなのにクラシック感が出てくる、みたいなところがあるかなあ。バーンスタインは様々なジャンル、スタイルだけでなく形式も自由自在に(そして不自然さを感じさせず)活用できる天才でもある。
ジャズオケの演奏の中に協奏曲並とはいかないですがソリストとしての役割があるクラリネット。決して大きい音がでにくい楽器ではないのですが(クレズマーとかすごいですよね)それでも金管軍団+サックス軍団が揃うジャズオケの音量に太刀打ちするのって難しそう。でも聞こえる限りではなかなかかっこいいパート。どういう機会でまた聞けるかわからないけどまた生で聴きたいです。
リンクした録音はバーンスタインなのにウェストサイド物語のウェの字(?)もない他の曲が色々収録されたアルバム。先ほども書きましたがバーンスタインは楽しいしうまいし面白いし簡潔にまとまってます(あれ、こんなには書かなかったかな)。たまにはちょっとウェストサイドから離れて他の作品を聴くのもいいですよー