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前回のエントリーに拍手ありがとうございます~
それから「Progressなう」のエントリーにも拍手増えててありがたいです。
前タランテラにを特集(?)しましたが似たような感じで今度はパッサカリアを紹介したいと思います。
パッサカリアは主にバロック時代(バッハ辺り)で使われた音楽の形式で、元々はどうやら踊りだったのですが、どちらかというと変奏曲に近いです。
だいたい8小節・16小節くらい?の決まったメロディー(大抵最初に低音で奏でられる)と和音進行が繰り返され、その上にのせるメロディーやパートが変わっていく形式。必ずしも常にそのメロディーがあるわけじゃなく、枠組み・和音進行だけ残ってることも。
ちなみに似たような音楽形式にはシャコンヌもありますね。
西洋音楽ではハーモニーで曲の緩急をつけるようなところもあるので同じメロディー・ハーモニーを延々と繰り返すということは音楽がぐるぐると同じところを回るような効果があります。
そしてその繰り返しがゆえに作曲家は曲に方向性を作ってうまいこと盛り上げるために工夫しなくちゃいけない、と思います。
ただその繰り返しと盛り上がりを上手に生かした結果まじない、呪縛のように働くようなところがあってそれが私は好きです。
それでは曲紹介に。
1)ヨハン・セバスチャン・バッハ 「パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582」
パッサカリアの王様といったらこの曲。パッサカリアの形式や特徴がよくわかる、そしてそのcraftの素晴らしさ、そしてオルガンという楽器のすごさまで味わえる曲です。パッサカリアの部分と(同じメロディーをテーマにした)フーガの部分、合わせて13分程。音楽が形を変えて展開していく様は宇宙のようで、長い旅のようです。
2)ブラームス 交響曲第4番 第4楽章
パッサカリアは交響曲の一部として使われることもあります。そういうケースは大抵最終楽章として使われるようで(ヴォーン=ウィリアムスの第5番とかウォルトンの第2番とか)。この最後に向かって盛り上がっていく感じがフィナーレに向いているのかな。ブラームスのパッサカリアはある意味バッハのそれよりも良い意味でドイツ臭い、厳しさのあるストイックな音楽です。
3)ショスタコーヴィチ バイオリン協奏曲第1番 第3楽章
20世紀の作曲家にもパッサカリアを書いた作曲家はたくさんいます。必ずしもバロック時代の形式をそのまま使うのではなく、現代らしく解釈したりしたものも。そんな中ショスタコのパッサカリアは結構「正当派」じゃないかな。形式は割と伝統的に、ただし魂はショスタコーヴィチの音楽そのまま。ヘビーで悲劇的で暗くて、とにかく強烈な曲。もしかしたら自分にとってお気に入りのパッサカリアかもしれません。
4)ラヴェル ピアノ三重奏曲 第3楽章
フランスでもパッサカリア曲はあります。ラヴェルのこの曲はそんなに伝統的な形式を感じさせなく、メロディーの絡み合いがちょっとフーガにもにた感覚で。ラヴェルの音楽としてもちょっと変わってるかな。これはこれで面白いパッサカリアで、それ以上にとても美しい曲です。
5)ブリテン 「テノール、ホルンと弦楽のためのセレナード」より「Dirge」
ブリテンのパッサカリアといったらオペラ「ピーター・グライムズ」のだと思いますが、最近出会って好きになったのがこの曲。パッサカリアの特徴、繰り返されるメロディーを最初から最後までテノール歌手が担当するという面白い構成。周りの楽器群のパートが変わるとはいえ、音楽の移り変わりを導く歌い手の技量が問われます。そしてなにより繰り返しの悲痛さが心にくる曲です。
6)ロドリーゴ 「3つのスペイン風小品」より「パッサカリア」
パッサカリアといえばオルガン、オケのための作品が多いのですがソロ楽器も一部の楽器なら演奏可能です。ピアノだとショスタコの24の前奏曲とフーガ(嬰ト短調)があるのですが、ギターならこれ。なかなか渋い曲ですが、スペインらしい暗さがあってバロックのギターを思わせるスタイルが好きな曲。
7)ヒンデミット 無伴奏ビオラソナタ Op.11-5 第4楽章
ピアノやギターのパッサカリアは繰り返し部分と変化する部分を分けて演奏できますが、バイオリンやチェロ、ビオラだとそれが難しいので和音進行で繰り返しを表す場合が多いです。にしてもこの曲はパッサカリアとわかりにくい。ただ雰囲気はありますし、特徴的な冒頭の和音とか、手を変え品を変え繰り返してるな、というのは分かるし。パッサカリアの魂みたいのはしっかりあって、その力強さと旅している感はバッハの無伴奏バイオリンのためのシャコンヌに劣らないビオラの名作品だと思います。
8)クラム 「マクロコスモス第2巻」より第10楽章「かんむり座より聞こえる声」
(もともとが知名度低い曲なんでこういうのもあれですが)驚くなかれ、この曲も実はパッサカリアなのです。繰り返されるメロディーはピアニストが口笛で吹いて、変化する部分はピアノの中の弦を弾いたり叩いたり、特殊奏法を駆使したパート。短い曲でパッサカリアに特徴的な盛り上がりはないものの、繰り返しのエフェクトや空間・時間の感覚はバロックから受け継がれてるような気がします。
今回紹介したり言及したりした他にもパッサカリアとして書かれた曲はたくさんあります。私の好みは20世紀が主ですが、もちろん元のバロック時代にもたくさん作品ありますしね。
先ほども書きましたがパッサカリアは「繰り返し」という形で縛りがあって、それがまじない、呪縛のように働くのが面白いです。
とりあえず最初はバッハ、そしてショスタコ、もしかしたらブリテン辺りがおすすめ。
今日の一曲はお休みです。
それから「Progressなう」のエントリーにも拍手増えててありがたいです。
前タランテラにを特集(?)しましたが似たような感じで今度はパッサカリアを紹介したいと思います。
パッサカリアは主にバロック時代(バッハ辺り)で使われた音楽の形式で、元々はどうやら踊りだったのですが、どちらかというと変奏曲に近いです。
だいたい8小節・16小節くらい?の決まったメロディー(大抵最初に低音で奏でられる)と和音進行が繰り返され、その上にのせるメロディーやパートが変わっていく形式。必ずしも常にそのメロディーがあるわけじゃなく、枠組み・和音進行だけ残ってることも。
ちなみに似たような音楽形式にはシャコンヌもありますね。
西洋音楽ではハーモニーで曲の緩急をつけるようなところもあるので同じメロディー・ハーモニーを延々と繰り返すということは音楽がぐるぐると同じところを回るような効果があります。
そしてその繰り返しがゆえに作曲家は曲に方向性を作ってうまいこと盛り上げるために工夫しなくちゃいけない、と思います。
ただその繰り返しと盛り上がりを上手に生かした結果まじない、呪縛のように働くようなところがあってそれが私は好きです。
それでは曲紹介に。
1)ヨハン・セバスチャン・バッハ 「パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582」
パッサカリアの王様といったらこの曲。パッサカリアの形式や特徴がよくわかる、そしてそのcraftの素晴らしさ、そしてオルガンという楽器のすごさまで味わえる曲です。パッサカリアの部分と(同じメロディーをテーマにした)フーガの部分、合わせて13分程。音楽が形を変えて展開していく様は宇宙のようで、長い旅のようです。
2)ブラームス 交響曲第4番 第4楽章
パッサカリアは交響曲の一部として使われることもあります。そういうケースは大抵最終楽章として使われるようで(ヴォーン=ウィリアムスの第5番とかウォルトンの第2番とか)。この最後に向かって盛り上がっていく感じがフィナーレに向いているのかな。ブラームスのパッサカリアはある意味バッハのそれよりも良い意味でドイツ臭い、厳しさのあるストイックな音楽です。
3)ショスタコーヴィチ バイオリン協奏曲第1番 第3楽章
20世紀の作曲家にもパッサカリアを書いた作曲家はたくさんいます。必ずしもバロック時代の形式をそのまま使うのではなく、現代らしく解釈したりしたものも。そんな中ショスタコのパッサカリアは結構「正当派」じゃないかな。形式は割と伝統的に、ただし魂はショスタコーヴィチの音楽そのまま。ヘビーで悲劇的で暗くて、とにかく強烈な曲。もしかしたら自分にとってお気に入りのパッサカリアかもしれません。
4)ラヴェル ピアノ三重奏曲 第3楽章
フランスでもパッサカリア曲はあります。ラヴェルのこの曲はそんなに伝統的な形式を感じさせなく、メロディーの絡み合いがちょっとフーガにもにた感覚で。ラヴェルの音楽としてもちょっと変わってるかな。これはこれで面白いパッサカリアで、それ以上にとても美しい曲です。
5)ブリテン 「テノール、ホルンと弦楽のためのセレナード」より「Dirge」
ブリテンのパッサカリアといったらオペラ「ピーター・グライムズ」のだと思いますが、最近出会って好きになったのがこの曲。パッサカリアの特徴、繰り返されるメロディーを最初から最後までテノール歌手が担当するという面白い構成。周りの楽器群のパートが変わるとはいえ、音楽の移り変わりを導く歌い手の技量が問われます。そしてなにより繰り返しの悲痛さが心にくる曲です。
6)ロドリーゴ 「3つのスペイン風小品」より「パッサカリア」
パッサカリアといえばオルガン、オケのための作品が多いのですがソロ楽器も一部の楽器なら演奏可能です。ピアノだとショスタコの24の前奏曲とフーガ(嬰ト短調)があるのですが、ギターならこれ。なかなか渋い曲ですが、スペインらしい暗さがあってバロックのギターを思わせるスタイルが好きな曲。
7)ヒンデミット 無伴奏ビオラソナタ Op.11-5 第4楽章
ピアノやギターのパッサカリアは繰り返し部分と変化する部分を分けて演奏できますが、バイオリンやチェロ、ビオラだとそれが難しいので和音進行で繰り返しを表す場合が多いです。にしてもこの曲はパッサカリアとわかりにくい。ただ雰囲気はありますし、特徴的な冒頭の和音とか、手を変え品を変え繰り返してるな、というのは分かるし。パッサカリアの魂みたいのはしっかりあって、その力強さと旅している感はバッハの無伴奏バイオリンのためのシャコンヌに劣らないビオラの名作品だと思います。
8)クラム 「マクロコスモス第2巻」より第10楽章「かんむり座より聞こえる声」
(もともとが知名度低い曲なんでこういうのもあれですが)驚くなかれ、この曲も実はパッサカリアなのです。繰り返されるメロディーはピアニストが口笛で吹いて、変化する部分はピアノの中の弦を弾いたり叩いたり、特殊奏法を駆使したパート。短い曲でパッサカリアに特徴的な盛り上がりはないものの、繰り返しのエフェクトや空間・時間の感覚はバロックから受け継がれてるような気がします。
今回紹介したり言及したりした他にもパッサカリアとして書かれた曲はたくさんあります。私の好みは20世紀が主ですが、もちろん元のバロック時代にもたくさん作品ありますしね。
先ほども書きましたがパッサカリアは「繰り返し」という形で縛りがあって、それがまじない、呪縛のように働くのが面白いです。
とりあえず最初はバッハ、そしてショスタコ、もしかしたらブリテン辺りがおすすめ。
今日の一曲はお休みです。
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行ってきました、弾いてきました!
<コンサート:Piano Fortissimo!>
<コンサート:Piano Fortissimo!>
日時:2013年7月19日 午後7時30分
場所:Centre of Creative Arts, Firbank Grammar School, Brighton
プログラムはメシアンの「ヒメコウテンシ」とラフマニノフの練習曲「音の絵」op.39-8。
母校が新しくグランドピアノを購入したののお披露目コンサートに招待されて演奏してきました。
在学生徒(小学校2校、そして中学高校)、先生、卒業生、ゲストなどがピアノソロ、そしてピアノを含んだアンサンブルで演奏しました。
うちの学校は私が通ってた時代から合唱が強くて、合唱の演目もありましたし、ジャズトリオの演奏もあり。
私は卒業生では2番目に年上でした。1番上は今卒業生としてはスターといってもいいソプラノ歌手の子で(私より3歳上)。
コンサートはテーブル形式で、丸いテーブルに聴衆が座って食べたり飲んだりしながらコンサートを聴く、というスタイルで、曲目の間に食べたりしゃべったりできるよう奏者紹介なども兼ねて結構時間をとったり。面白いスタイルでした。
そういうスタイルだったので弾く前とか後とか聴衆席に座ることも出来たのですが、ステージ裏という場所が好きなのと場所がとにかく懐かしいので前も後もたむろしていました。
演奏自体は自分としてはそこそこでした。
舞台に上がって弾き始めたあとに緊張をちょっと感じてそれで指が回らなかったり。もともと手が届かないところがある上に内心ちょこちょこ「あー」となって余裕がなかった感じでしたね。
9月にはなんとか磨き上げたい!
ピアノは普通にいいピアノでしたよ。普段弾いてるピアノがあれなんでなんでも良く感じるのですが、特に今回ヒメコウテンシを弾くに当たって高音があれだけクリアで、真ん中辺りが暖かい音なのはパーツのキャラ分けがちょっと楽になる。
ラフマニノフはほぼ中音辺りの柔らかい音に乗っかることができてこれもピアノが味方した形に。
この新しいピアノの音をこのコンサート1つであまねく使う・聴かせる、ということについては結構貢献できたんじゃないかな。
ホールがある音楽の建物はほとんど変わってませんでした。むしろ老朽化している所も(汗)
ただ新しく楽器用のロッカーを設置したり、それから前回来た時以来2階のレッスン室を新しくしたり。あと過去のコンサートや演奏旅行にいったときの写真もいっぱい飾ってありました。私もいました。妹もいました。
そして在学時代にいた先生達はすっかり古参となり。本番前の時間、それからコンサートの進行の間をぬって演奏&裏方に関わってた先生達と思い出話や音楽話をしたり。
こういう気持ちが高ぶる場だからということもあり、音楽がらみの環境なこともあり知らない生徒や先生達とも色々お話しました。(軽躁だったわけじゃないと思います)
なじみの先生が「なんだか卒業してここを離れたことがなかったような」と言ってましたね。外見がほとんど変わってない、と言われたのもそうですが本当にあの場所で自然に立ち回ってて、時間の流れがよく分からなかったです。
さらに聴衆側にも知り合いの先生が何人も居ました。(あ、あと今海外にいる親友が家族に知らせてくれたみたいで3人来てました)
在学時代に音楽のトップだった先生、そして隣の男子校で音楽のトップだった先生。2人とも10年ぶり!
特に隣の男子校の音楽のトップの先生は昔から大変好きな先生だったのですがなんといってもうちの学校の先生じゃないですし色々声をかけづらかったのが、今回演奏者として再会できておしゃべりできてよかったです。
先生一同から演奏についてお褒めの言葉をいただいて、そして(昔は現代音楽大嫌いだったピアノの先生も含め)メシアンよかったよ、との言葉もいただいて。結構先生達はメシアン好きな人も多く。前述隣の男子校の先生はオルガン奏者なのもあってメシアン演奏の経験もあるとか。
外見は変わってなくても卒業から10年、音楽の知識を広め深めてきたためにこうやって先生達と対等の立場に(ただしまだMr/Mrs付けで呼んでしまうのですが)音楽の話に花を咲かせることができて。
それにリサイタルをやる、という話をすると本当にみんな応援してくれるのが嬉しい。
私の演奏を、私のメシアンを聴きたいと思ってくれる人がこんなにもいるんだ、と思い知りました。
今回の演奏では最高にホームな聴衆となってくれて、そしてピアノ弾きの私を応援してくれる味方になってくれて心から幸せです。
演奏の質はちと磨くところが多かったのですが、演奏自体以外で得る物が本当に多かったです。音楽、演奏を続けていくことに関して本当に心強く感じました。
なのでちょっと一息ついて9月に向かって再スタートしたいと思います。無理のない程度に。
実は今ちょっと携帯でつないで更新してるので今日の一曲はお休み。
届いたCDシリーズも終わったのでまた紹介する曲アンテナをonしなければ。
プログラムはメシアンの「ヒメコウテンシ」とラフマニノフの練習曲「音の絵」op.39-8。
母校が新しくグランドピアノを購入したののお披露目コンサートに招待されて演奏してきました。
在学生徒(小学校2校、そして中学高校)、先生、卒業生、ゲストなどがピアノソロ、そしてピアノを含んだアンサンブルで演奏しました。
うちの学校は私が通ってた時代から合唱が強くて、合唱の演目もありましたし、ジャズトリオの演奏もあり。
私は卒業生では2番目に年上でした。1番上は今卒業生としてはスターといってもいいソプラノ歌手の子で(私より3歳上)。
コンサートはテーブル形式で、丸いテーブルに聴衆が座って食べたり飲んだりしながらコンサートを聴く、というスタイルで、曲目の間に食べたりしゃべったりできるよう奏者紹介なども兼ねて結構時間をとったり。面白いスタイルでした。
そういうスタイルだったので弾く前とか後とか聴衆席に座ることも出来たのですが、ステージ裏という場所が好きなのと場所がとにかく懐かしいので前も後もたむろしていました。
演奏自体は自分としてはそこそこでした。
舞台に上がって弾き始めたあとに緊張をちょっと感じてそれで指が回らなかったり。もともと手が届かないところがある上に内心ちょこちょこ「あー」となって余裕がなかった感じでしたね。
9月にはなんとか磨き上げたい!
ピアノは普通にいいピアノでしたよ。普段弾いてるピアノがあれなんでなんでも良く感じるのですが、特に今回ヒメコウテンシを弾くに当たって高音があれだけクリアで、真ん中辺りが暖かい音なのはパーツのキャラ分けがちょっと楽になる。
ラフマニノフはほぼ中音辺りの柔らかい音に乗っかることができてこれもピアノが味方した形に。
この新しいピアノの音をこのコンサート1つであまねく使う・聴かせる、ということについては結構貢献できたんじゃないかな。
ホールがある音楽の建物はほとんど変わってませんでした。むしろ老朽化している所も(汗)
ただ新しく楽器用のロッカーを設置したり、それから前回来た時以来2階のレッスン室を新しくしたり。あと過去のコンサートや演奏旅行にいったときの写真もいっぱい飾ってありました。私もいました。妹もいました。
そして在学時代にいた先生達はすっかり古参となり。本番前の時間、それからコンサートの進行の間をぬって演奏&裏方に関わってた先生達と思い出話や音楽話をしたり。
こういう気持ちが高ぶる場だからということもあり、音楽がらみの環境なこともあり知らない生徒や先生達とも色々お話しました。(軽躁だったわけじゃないと思います)
なじみの先生が「なんだか卒業してここを離れたことがなかったような」と言ってましたね。外見がほとんど変わってない、と言われたのもそうですが本当にあの場所で自然に立ち回ってて、時間の流れがよく分からなかったです。
さらに聴衆側にも知り合いの先生が何人も居ました。(あ、あと今海外にいる親友が家族に知らせてくれたみたいで3人来てました)
在学時代に音楽のトップだった先生、そして隣の男子校で音楽のトップだった先生。2人とも10年ぶり!
特に隣の男子校の音楽のトップの先生は昔から大変好きな先生だったのですがなんといってもうちの学校の先生じゃないですし色々声をかけづらかったのが、今回演奏者として再会できておしゃべりできてよかったです。
先生一同から演奏についてお褒めの言葉をいただいて、そして(昔は現代音楽大嫌いだったピアノの先生も含め)メシアンよかったよ、との言葉もいただいて。結構先生達はメシアン好きな人も多く。前述隣の男子校の先生はオルガン奏者なのもあってメシアン演奏の経験もあるとか。
外見は変わってなくても卒業から10年、音楽の知識を広め深めてきたためにこうやって先生達と対等の立場に(ただしまだMr/Mrs付けで呼んでしまうのですが)音楽の話に花を咲かせることができて。
それにリサイタルをやる、という話をすると本当にみんな応援してくれるのが嬉しい。
私の演奏を、私のメシアンを聴きたいと思ってくれる人がこんなにもいるんだ、と思い知りました。
今回の演奏では最高にホームな聴衆となってくれて、そしてピアノ弾きの私を応援してくれる味方になってくれて心から幸せです。
演奏の質はちと磨くところが多かったのですが、演奏自体以外で得る物が本当に多かったです。音楽、演奏を続けていくことに関して本当に心強く感じました。
なのでちょっと一息ついて9月に向かって再スタートしたいと思います。無理のない程度に。
実は今ちょっと携帯でつないで更新してるので今日の一曲はお休み。
届いたCDシリーズも終わったのでまた紹介する曲アンテナをonしなければ。
前回のエントリーに拍手どうもですー♪
あの後「ポケナガ」ゆっくり進めています。まだシステム・機能など把握できてないですし、なんといってもブショーの名前がローマ字表記で頭に入りにくい!
とりあえずなんとなーく進んでいる感じ。
あと細かいところですが出陣して砂煙が走っていくのが三国志VIと同じというかコーエーらしいというか。親しみがある表現です。
今日はとにかく息苦しかったです。
最近胃酸がまた悪さしてるな、とは思ってたのですが低気圧のせい、寝てる間~起床時の寒さもあり、今日はピアノに差し障るほどの息苦しさでした。
一応胃の薬も再開して(吸引ステロイドもやらなきゃ)、みかん・グレープフルーツジュースも控えて、風が強いので外に出ないようにしたり、それからなるべく寝転がらないように気をつけたりはしてるのですが。
特にピアノやってるときは気分が高ぶるのでそれとともに息苦しさも増すのが悩み。
ピアノって管楽器や声楽みたいに呼吸が直接音になる楽器ではないですが、それでも呼吸は大切。
弾いていてものすごく呼吸を意識する、ということはないですが演奏への影響は心に留めてますし、こういうふうに呼吸が乱れるとその影響はよーくわかります。
息の長さ・深さもそうですし、吸ってる途中で息がつまるのもそう。かなり演奏が左右されます。
でもそれを除けばリサイタルのプログラムはだんだんと詰められてきてるかな。
もちろん大きく改善したり変わったりすることはほとんどといってないですが、ちょっとずつ良くなってきてるところだったり、ちょっとずつ楽になってきてることだったり。
それでもまだ大きな問題もあります。
例えば「ダイシャクシギ」で霧があたりに立ちこめ夜が来る場面。大学で弾いたときもその部分だけ暗譜できなかったのですが、今回も苦戦中。この部分は本当にパターンとか全くなくて、一部分ずつ毎日、何回も繰り返し楽譜を見たり見なかったりしながら暗譜しています。
あとイソヒヨドリを始め技巧的に指が回らない(またはたまに回らなくなる)ところも目をそらさずしっかり練習したり。
あとは音楽的な諸々も。
ラフマニノフのop.39-8は最近「ゼラチンの量を調節する」という表現がぴったりくる練習をしています。流れるように、柔らかく、でもあんまりぐだぐだに流れてしまわないように。
それから「間の取り方」ももちょっと余裕があればなあ。
先ほど書いた呼吸に合わせる、というのもありますが鳥カタの場合外の鳥の声に耳を傾けてタイミングをとってみたり、なんてのもやってます。
ただ「ダイシャクシギ」はまた違って、ただひたすら自分の頭の中で海の波の音を聴いてるのが効く様子。
こういう実験も楽しいのですが、なんせ技巧的にも暗譜的にも余裕がないとできないこと。
特に暗譜で苦戦してるときってこれまで技巧・音楽どっちの面でも積み上げてきたことが一旦後退するところがあり。なかなか心にもこたえます。
でも一旦暗譜してしまうと楽譜を見て弾いてる時以上に音楽がしっかり身についてる感覚、自由に動かせる感覚がある・・・というのはあくまでも個人の感想ですが。
今はとりあえず7月19日の学校での演奏があるのでプログラム全体についてはちょっと考えられずにいます。
ただ思うのは、やっぱりこの計14曲(だったかな)は絵にまつわるタイトルが付いてないのも含めて絵画っぽいところがあるな、と。
自然の鮮やかさ、繊細さ、そして渋い色彩を描いた複数の画家の風景画を集めた展示みたいな印象があります。
それなりに曲調にもバラエティがあるプログラムだと思ってるのですが、長く弾いてるとどうしても「プログラムに欠けてるもの」へのcravingが出てくるんですよね。
今のcravingを単純に表すと炎、闇、そして人工超秩序/カオス(紙一重)。だからアデスの音楽、Carl Vineの音楽、それからこないだ届いた平沢進の音楽が特にこのcravingに当てはまるようで。
といっても今弾いてる曲達に飽きたとかそういう話ではないんですよね。ただ一昨年のダフニスとクロエの時の聖飢魔II割合アップといい、聴く音楽でバランスをとろうというメカニズムはやっぱりあるんだな、と実感しています。
毎日ピアノもやりたいしやんなきゃいけないのですが、これから1週間自分のバースデーディナー&ドリンクがあったり(夕飯ちゃんと食べられるか!?ばたばたしているんですが!)、あと在外投票にもいかなきゃいけない。仕事ももちろんある。
地味に全方向に忙しくなってしまいましたが忙しすぎ・飲み過ぎ・胃酸過多には気をつけようと思います。
今日の一曲はお休みです。
あの後「ポケナガ」ゆっくり進めています。まだシステム・機能など把握できてないですし、なんといってもブショーの名前がローマ字表記で頭に入りにくい!
とりあえずなんとなーく進んでいる感じ。
あと細かいところですが出陣して砂煙が走っていくのが三国志VIと同じというかコーエーらしいというか。親しみがある表現です。
今日はとにかく息苦しかったです。
最近胃酸がまた悪さしてるな、とは思ってたのですが低気圧のせい、寝てる間~起床時の寒さもあり、今日はピアノに差し障るほどの息苦しさでした。
一応胃の薬も再開して(吸引ステロイドもやらなきゃ)、みかん・グレープフルーツジュースも控えて、風が強いので外に出ないようにしたり、それからなるべく寝転がらないように気をつけたりはしてるのですが。
特にピアノやってるときは気分が高ぶるのでそれとともに息苦しさも増すのが悩み。
ピアノって管楽器や声楽みたいに呼吸が直接音になる楽器ではないですが、それでも呼吸は大切。
弾いていてものすごく呼吸を意識する、ということはないですが演奏への影響は心に留めてますし、こういうふうに呼吸が乱れるとその影響はよーくわかります。
息の長さ・深さもそうですし、吸ってる途中で息がつまるのもそう。かなり演奏が左右されます。
でもそれを除けばリサイタルのプログラムはだんだんと詰められてきてるかな。
もちろん大きく改善したり変わったりすることはほとんどといってないですが、ちょっとずつ良くなってきてるところだったり、ちょっとずつ楽になってきてることだったり。
それでもまだ大きな問題もあります。
例えば「ダイシャクシギ」で霧があたりに立ちこめ夜が来る場面。大学で弾いたときもその部分だけ暗譜できなかったのですが、今回も苦戦中。この部分は本当にパターンとか全くなくて、一部分ずつ毎日、何回も繰り返し楽譜を見たり見なかったりしながら暗譜しています。
あとイソヒヨドリを始め技巧的に指が回らない(またはたまに回らなくなる)ところも目をそらさずしっかり練習したり。
あとは音楽的な諸々も。
ラフマニノフのop.39-8は最近「ゼラチンの量を調節する」という表現がぴったりくる練習をしています。流れるように、柔らかく、でもあんまりぐだぐだに流れてしまわないように。
それから「間の取り方」ももちょっと余裕があればなあ。
先ほど書いた呼吸に合わせる、というのもありますが鳥カタの場合外の鳥の声に耳を傾けてタイミングをとってみたり、なんてのもやってます。
ただ「ダイシャクシギ」はまた違って、ただひたすら自分の頭の中で海の波の音を聴いてるのが効く様子。
こういう実験も楽しいのですが、なんせ技巧的にも暗譜的にも余裕がないとできないこと。
特に暗譜で苦戦してるときってこれまで技巧・音楽どっちの面でも積み上げてきたことが一旦後退するところがあり。なかなか心にもこたえます。
でも一旦暗譜してしまうと楽譜を見て弾いてる時以上に音楽がしっかり身についてる感覚、自由に動かせる感覚がある・・・というのはあくまでも個人の感想ですが。
今はとりあえず7月19日の学校での演奏があるのでプログラム全体についてはちょっと考えられずにいます。
ただ思うのは、やっぱりこの計14曲(だったかな)は絵にまつわるタイトルが付いてないのも含めて絵画っぽいところがあるな、と。
自然の鮮やかさ、繊細さ、そして渋い色彩を描いた複数の画家の風景画を集めた展示みたいな印象があります。
それなりに曲調にもバラエティがあるプログラムだと思ってるのですが、長く弾いてるとどうしても「プログラムに欠けてるもの」へのcravingが出てくるんですよね。
今のcravingを単純に表すと炎、闇、そして人工超秩序/カオス(紙一重)。だからアデスの音楽、Carl Vineの音楽、それからこないだ届いた平沢進の音楽が特にこのcravingに当てはまるようで。
といっても今弾いてる曲達に飽きたとかそういう話ではないんですよね。ただ一昨年のダフニスとクロエの時の聖飢魔II割合アップといい、聴く音楽でバランスをとろうというメカニズムはやっぱりあるんだな、と実感しています。
毎日ピアノもやりたいしやんなきゃいけないのですが、これから1週間自分のバースデーディナー&ドリンクがあったり(夕飯ちゃんと食べられるか!?ばたばたしているんですが!)、あと在外投票にもいかなきゃいけない。仕事ももちろんある。
地味に全方向に忙しくなってしまいましたが忙しすぎ・飲み過ぎ・胃酸過多には気をつけようと思います。
今日の一曲はお休みです。
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~
ただいま新しいCD噛み砕き期間です。いいものいっぱいで幸せ!
そしてゲーム屋さんでポケモンブラック2とポケモン信長の野望買って来ました。どちらもまだ始めません。始めるとそっちにかかりっきりになるのでもうちょっと待つ。
さて、昨日は友達のリサイタルに行ってきました。
去年私がリサイタルを開くきっかけになった同門の先輩です。
会うのはちょっとぶり。演奏を聴くのもそれより長いぶりかな。
プログラムはこんな感じでした:
<12 Etudes and a Toccatissimo>
ピアノ:Stefan Cassomenos
Vine 「Toccatissimo」
リスト 超絶技巧練習曲集より
第7番「英雄」
第11番「夕べの調べ」
第8番「荒々しき狩り」
リゲティ 練習曲集より
第4番「ファンファーレ」
第11番「宙吊りで」
第8番「鉄」
ドビュッシー 練習曲集より
第11番「組み合わされたアルペジオのための練習曲」
ラフマニノフ 練習曲集「音の絵」より
op.33-4 ニ短調
op.39-1 ハ短調
op.33-1 ヘ短調
op.39-6 イ短調
op.39-9 ニ長調
リストからリゲティまで様々な作曲家による「エチュード」を計12曲、そしてトッカータというこれまた技巧を凝らした形式の最高峰、という意味の「Toccatissimo」(オーストラリアの作曲家Carl Vineが去年のシドニー国際ピアノコンクールの課題曲として書いた曲だそうです)、という最初から最後まで技巧がハードな、ピアニストとしてものすごくスタミナを要するプログラム。
ただそんなに超絶技巧が続くプログラムながら、選曲・演奏どちらの面からも聞いてて飽きない、面白いコンサートでした。
彼の演奏は大学にいた頃ソロに伴奏に室内楽に頻繁に聴いていたのですが、そんななかで意外と彼が弾くリストを聞くのは初めてだったかも。
激情も持ち合わせてる彼ですがリストの演奏は意外とドライ。もしかしたらちょっと物足りないと感じる人もいたかもしれませんが、元がロマンチックな音楽なのであんまり濃い弾き方だと胃がもたれがちなので私はこれでも全然いけます。
これはプログラム通じていえることなんですけど両手で弾く音楽の中で(縦にも横にも)優先順位のつけかたというか、取捨選択がうまくできてるんですよね。聞かせたいところ盛り上げたいところはしっかり聞かせて、そうでないところは抑える、みたいな。
プログラムの性質もありますが、今回の演奏ではステファンの感情的な面よりも分析的な面が良く現れてた印象でした。大学では音楽だけでなく法律もやっていて(ただピアノで忙しすぎて両立は苦しそうでしたが)、そういう面があることは分かっていたはずなのですが。(っていうかうちの先生の門下ってそういうプレイヤー多いな)
その2つの側面のバランスが演奏に現れる、という意味で一番しっくり来たのがラフマニノフのop.39-1でしたね。曲自体もラフマニノフの緻密なメカニックな側面と情熱的な側面のバランスが面白いです。
それにしても「Toccatissimo」はすごかった。技巧の極み、というのもそうですがこないだ説明しようとしたVineの色彩とか音楽回路が爆発してましたね。解説に「not for the faint-hearted(心臓の弱い人には向いてない)」とありましたが、いやああれは弾けん(笑)
あとしばらく会ってなかったピーターが来てたのでちょっとしゃべりました。というか久しぶりすぎてちと空回ってすまん。またちょっとして会ってゆっくりしゃべりたいです。
彼もCDを作るとかいう話なので(去年弾いてたメトネルは彼の演奏で是非手に入れたい!というか他の人の演奏だと手に入れる気がしない作曲家なのです)、私も諸々がんばらなきゃ。
実はちとばかり(というかそれ以上)ピアノで伸び悩んでるのですが、今日はヒメコウテンシを弾いてるときにキジバトがしばらく近くに来てて鳥の鳴き声弾いて遊んだりもしたのでちょっと気が楽になりました。もうちょっとメシアンをしっかりしないといけないので。がんばります。
今日の一曲: セルゲイ・ラフマニノフ 練習曲集「音の絵」 op.39-1
ラフマニノフは以前も書いてるはずなのですが背も2mくらいあって手もとっても大きい作曲家・ピアニストだったため、書いてる作品も大きな手が必要なものがちょこちょこあって。
私のサイズの手ではどうしても弾けない(または弾けても手に悪い)曲が結構あったりするのです。
そんなわけで弾きたくてもどうしてもあきらめなきゃいけない曲、というのは存在して。
ただこの練習曲「音の絵」のop.39-1は諦めきれないのです。まだ弾けるかどうか試してないのですが、試して絶対ダメなのが分かるのがちょっと怖い。
op.39のセットは(今いくつか弾いてますが)ちょっと渋めの良い曲揃いで、一番好きは他にもあるのですが、この第1番を諦めるのも勿体ない。
先ほど書きましたが練習曲らしく技巧が緻密にできていてメカニック的な組み立てがある曲で、同時に炎のような情熱も秘めたり爆発させたり。
この曲って主となる調はハ短調だけれどハーモニーはヘ短調のそれが濃く混じってて、それがまた炎の暗さに拍車をかけてたり。
ハ短調も好きですが、ヘ短調もいい調ですよね。ラフマニノフの作品でヘ短調ってそんなにないですが(練習曲のop.33-1、そして前奏曲くらいかな)全部かっこいい。あとベートーヴェンの「熱情」ソナタや「エグモント」序曲など、とにかく闇と炎を表すような曲が多いキーです。
とにかくかっこいい。頭と心がつながって炎が暗く燃え上がる感覚はたまらんだろうなあ。
自分が弾いたらそこの炎の部分とメカの部分のバランスはどうなるんだろう、というのも楽しみなところ。だから諦められないのです。
リンクしたのはリヒテルの演奏で、練習曲集「音の絵」の抜粋と前奏曲集の抜粋が収録されています。正にラフマニノフのピアノ!って感じのする演奏ですね。(今弾いてるop.39-7も試聴してみましたがロシアの重さが!自分の演奏にも重みと渋みが欲しいです)
私がいつも聞いてるMichael Kieran Harvey(3曲だけ録音してるんですよ)の演奏はメカ寄りで、ちょっと神経質な感じが実は結構ツボっているのです。面白いですよ。
(私もそっちに似るかなーそしたら)
ただいま新しいCD噛み砕き期間です。いいものいっぱいで幸せ!
そしてゲーム屋さんでポケモンブラック2とポケモン信長の野望買って来ました。どちらもまだ始めません。始めるとそっちにかかりっきりになるのでもうちょっと待つ。
さて、昨日は友達のリサイタルに行ってきました。
去年私がリサイタルを開くきっかけになった同門の先輩です。
会うのはちょっとぶり。演奏を聴くのもそれより長いぶりかな。
プログラムはこんな感じでした:
<12 Etudes and a Toccatissimo>
ピアノ:Stefan Cassomenos
Vine 「Toccatissimo」
リスト 超絶技巧練習曲集より
第7番「英雄」
第11番「夕べの調べ」
第8番「荒々しき狩り」
リゲティ 練習曲集より
第4番「ファンファーレ」
第11番「宙吊りで」
第8番「鉄」
ドビュッシー 練習曲集より
第11番「組み合わされたアルペジオのための練習曲」
ラフマニノフ 練習曲集「音の絵」より
op.33-4 ニ短調
op.39-1 ハ短調
op.33-1 ヘ短調
op.39-6 イ短調
op.39-9 ニ長調
リストからリゲティまで様々な作曲家による「エチュード」を計12曲、そしてトッカータというこれまた技巧を凝らした形式の最高峰、という意味の「Toccatissimo」(オーストラリアの作曲家Carl Vineが去年のシドニー国際ピアノコンクールの課題曲として書いた曲だそうです)、という最初から最後まで技巧がハードな、ピアニストとしてものすごくスタミナを要するプログラム。
ただそんなに超絶技巧が続くプログラムながら、選曲・演奏どちらの面からも聞いてて飽きない、面白いコンサートでした。
彼の演奏は大学にいた頃ソロに伴奏に室内楽に頻繁に聴いていたのですが、そんななかで意外と彼が弾くリストを聞くのは初めてだったかも。
激情も持ち合わせてる彼ですがリストの演奏は意外とドライ。もしかしたらちょっと物足りないと感じる人もいたかもしれませんが、元がロマンチックな音楽なのであんまり濃い弾き方だと胃がもたれがちなので私はこれでも全然いけます。
これはプログラム通じていえることなんですけど両手で弾く音楽の中で(縦にも横にも)優先順位のつけかたというか、取捨選択がうまくできてるんですよね。聞かせたいところ盛り上げたいところはしっかり聞かせて、そうでないところは抑える、みたいな。
プログラムの性質もありますが、今回の演奏ではステファンの感情的な面よりも分析的な面が良く現れてた印象でした。大学では音楽だけでなく法律もやっていて(ただピアノで忙しすぎて両立は苦しそうでしたが)、そういう面があることは分かっていたはずなのですが。(っていうかうちの先生の門下ってそういうプレイヤー多いな)
その2つの側面のバランスが演奏に現れる、という意味で一番しっくり来たのがラフマニノフのop.39-1でしたね。曲自体もラフマニノフの緻密なメカニックな側面と情熱的な側面のバランスが面白いです。
それにしても「Toccatissimo」はすごかった。技巧の極み、というのもそうですがこないだ説明しようとしたVineの色彩とか音楽回路が爆発してましたね。解説に「not for the faint-hearted(心臓の弱い人には向いてない)」とありましたが、いやああれは弾けん(笑)
あとしばらく会ってなかったピーターが来てたのでちょっとしゃべりました。というか久しぶりすぎてちと空回ってすまん。またちょっとして会ってゆっくりしゃべりたいです。
彼もCDを作るとかいう話なので(去年弾いてたメトネルは彼の演奏で是非手に入れたい!というか他の人の演奏だと手に入れる気がしない作曲家なのです)、私も諸々がんばらなきゃ。
実はちとばかり(というかそれ以上)ピアノで伸び悩んでるのですが、今日はヒメコウテンシを弾いてるときにキジバトがしばらく近くに来てて鳥の鳴き声弾いて遊んだりもしたのでちょっと気が楽になりました。もうちょっとメシアンをしっかりしないといけないので。がんばります。
今日の一曲: セルゲイ・ラフマニノフ 練習曲集「音の絵」 op.39-1
ラフマニノフは以前も書いてるはずなのですが背も2mくらいあって手もとっても大きい作曲家・ピアニストだったため、書いてる作品も大きな手が必要なものがちょこちょこあって。
私のサイズの手ではどうしても弾けない(または弾けても手に悪い)曲が結構あったりするのです。
そんなわけで弾きたくてもどうしてもあきらめなきゃいけない曲、というのは存在して。
ただこの練習曲「音の絵」のop.39-1は諦めきれないのです。まだ弾けるかどうか試してないのですが、試して絶対ダメなのが分かるのがちょっと怖い。
op.39のセットは(今いくつか弾いてますが)ちょっと渋めの良い曲揃いで、一番好きは他にもあるのですが、この第1番を諦めるのも勿体ない。
先ほど書きましたが練習曲らしく技巧が緻密にできていてメカニック的な組み立てがある曲で、同時に炎のような情熱も秘めたり爆発させたり。
この曲って主となる調はハ短調だけれどハーモニーはヘ短調のそれが濃く混じってて、それがまた炎の暗さに拍車をかけてたり。
ハ短調も好きですが、ヘ短調もいい調ですよね。ラフマニノフの作品でヘ短調ってそんなにないですが(練習曲のop.33-1、そして前奏曲くらいかな)全部かっこいい。あとベートーヴェンの「熱情」ソナタや「エグモント」序曲など、とにかく闇と炎を表すような曲が多いキーです。
とにかくかっこいい。頭と心がつながって炎が暗く燃え上がる感覚はたまらんだろうなあ。
自分が弾いたらそこの炎の部分とメカの部分のバランスはどうなるんだろう、というのも楽しみなところ。だから諦められないのです。
リンクしたのはリヒテルの演奏で、練習曲集「音の絵」の抜粋と前奏曲集の抜粋が収録されています。正にラフマニノフのピアノ!って感じのする演奏ですね。(今弾いてるop.39-7も試聴してみましたがロシアの重さが!自分の演奏にも重みと渋みが欲しいです)
私がいつも聞いてるMichael Kieran Harvey(3曲だけ録音してるんですよ)の演奏はメカ寄りで、ちょっと神経質な感じが実は結構ツボっているのです。面白いですよ。
(私もそっちに似るかなーそしたら)
前回のエントリーに拍手ありがとうございます。
あれから元気にポケモン育成はげんでおります。ウルガモス2匹(正確にはウルガモスとメラルバ)を努力値の振り方を変えて使い勝手・用途がある程度異なるようにとの試み。
あのタウンマップだと家の近くだっていうけど意外と遠い変な場所でもらったタマゴが孵ったメラルバはメスだったのでニックネームを「Alexandra」に(ニコライ2世の奥さんから)、そしてこだいのしろで捕まえたウルガモスはオスだったので悩んだ結果「Akhenaten」(ツタンカーメンの父のファラオから)と名付けました。「A」の音が似合うんですよね。ブラック2で出会ったら(あとタマゴで増やしたら)またAのついた王族の名前にしたいです。インド、タイ周りでまだありそう。
さて、今日は日本から荷物が着きましたので頼んだCD3枚を聞いて一人で楽しんでいるところです。ちょっと興奮し気味かも。
今回手元に来たのはface to ace「a new day」、平沢進「点呼する惑星」、そして滝本晃司「カタチ」。先ほどご飯の準備&ご飯食べながら最初の2枚を聞いて、今は3枚目をちょうど聞いているところ。
もうあれですね、新しい音楽に出会うのはいつも楽しくて素晴らしい。感極まっています。なのでこないだからたまってる分も合わせてゆっくりこちらでも紹介していきます。きっと。
最近ちょっと・・・というか随分長いことオンオフありで考えてきたことなのですが、英語のボキャブラリーに関して今日はちょっとだけ書きたいと思います。
医薬翻訳の仕事でもある程度は意識しているけれど、どっちかというと創作だったり日常で英語を書いたり話したり読んだりすることの方が強く意識することで。
小学校6年生のときだったかな、こっちに来て1年くらいたって小学校でネイティブの人が読むような本もだんだん読めるようになって、友達や先生の言ってることもだいぶ(雰囲気込みですが)分かるようになり。
そんなときのぼんやりした記憶の中に先生達(6年生は2クラスが半分合同でいつも授業してたのでした)が教えてくれたこと、というのがいくつか残っていて。その中の一つが「goとかgetとかそういうgenericな言葉はなるべく文を書くとき使うのを避けるように」ということでした。
つまり同じ「行く」というニュアンスがある言葉でも、goでなくwalkとかstrollとかrushとか、様子をより正確に表し、読み手が想像しやすくする言葉を使うこと、という教え。
もちろん6年生時点でそれを実行するには私にはちょっと無理な部分も多かったですが、英語で文を書く能力が高まって、それからいろんな機会で文を書くことが多くなるにつれてじわじわと意識して実行するようになってきたことです。先生達ありがとう。
Go=行く、でなくwalk=歩いて行く、stroll=ぶらぶら歩く、rush=急いで行くだったり。
Think=考える、でなくponder=考えをめぐらす、meditate=熟考する、reflect=思い返すだったり。
翻訳するにも文を1から書くにも「ニュアンス」まで伝える表現の正確さ(またでたぞこのフレーズ!)というのは大切だと思うし、英語日本語関係なくもっと重きを置いた方がいいんじゃないのかなあ、と思うのです。
で、そういう(名詞でなく特に上記動詞などで)表現のレパートリー、ボキャブラリーを広げるには何よりも小説を読むことなんじゃないのかな、と思います。
英語を学ぶにおいて英語の本(絵本から子供向けの本、ヤングアダルトフィクション、小説全般全部ひっくるめて)を読むことの大切さって知られてるんだろうか、とよく思います。
(技術翻訳においても科学論文だったり翻訳しようとしている分野で使われている文書を読むのは大切ですが)
ちなみにうちの両親は今でも英語の本を読むことで英語の色々を維持していたりしているようです。
「英語を勉強する」ということについては一度母に話を聞いてみるのが一番かもしれませんね。母はオーストラリアにいる間に(私達のように学校教育ではなく)英語やそのほかオーストラリアの文化を勉強する、色んな国籍の大人達が集まる教室に通ってたこともあったので。それから本も読んでるので。
で、このボキャブラリーに関してあくまで私としては真剣に(でも楽しく考えていた)話もうひとつ。
「おっぱい」を表す英語とそれに対応する日本語、考えてみるとなかなか難しい。
Twitterにつぶやいたのを引用すると:
自分のイメージだとTits=乳、Boobies=おっぱい、Boobs=胸、Breast=胸、Chest=胸・・・あらら(汗)。ちなみに胸筋はPecks。男性の胸が(筋肉でなく)ふくらんでいるのはMan-boobsといいます(なかなかこたえる言葉なので多用はしないほうがいい)
・・・となります。
ちなみに「おしり」を表す英語とそれに対応する日本語、だと:
Bottom=お尻、Bum=おしり、Butt=尻、Ass=尻、Arse=ケツ、Rear=ケツ、Behind=お尻?、Booties=お尻?、Gluteal=臀筋、Buttocks=尻の肉・・・なのかな。?マークをつけたのはかなりニュアンスが違う気がする。
この「ニュアンスの違いによる違和感ともどかしさ」というのが現れやすいのがこういう口語というか、スラングというかなのかもしれませんねえ。映画とか小説の翻訳やってたら転がり回ってたわー(汗)
ということで何が言いたいかというと日本語も英語も他のどんな言語でもやっぱり自分が書く文、言葉のニュアンスとか表現の正確さ、そして正確に表現するためのレパートリーとしてのボキャブラリーについて考えを広げてみるのも大事だし意外と楽しいよ、ということです。
ついでに言えば鬱を始め気分障害や不安障害だったり、はたまた身体的な痛みとかの症状に関してもドクターになるべく正確に伝えることってものすごく大切です。むしろこれは別のエントリーを立てるべきかな。考えておきます。
今日の一曲: トーマス・アデス オペラ「Powder Her Face」の舞踏組曲より「終曲」
正式には「Dances from Powder Her Face」で舞踏組曲ではないかも(汗)序曲・ワルツ・終曲のうちの最後の曲です。
アデスのオペラは以前シェークスピアをモチーフにした「The Tempest」を紹介していますがあちらは古典作品の解釈であるのに対してこちらは20世紀の実話(しかも主人公が亡くなったのは作曲のわずか2年前)を元にしているオペラ。op.番号からして「Asyla」と同時期かな?
元になっているというのがアーガイル公爵夫人マーガレットの離婚を巡ったスキャンダル。どうも様々な男性との不倫関係が問題になったらしいのですが、なんかさすが20世紀というか写真がいっぱい出てきているようで。英語版wikipediaで裸に真珠のネックレス、くらいならまあいいじゃんと思って読み進めたら「....oh(汗)」な内容で。
(写真が残るってやっぱインパクトありますよね。もっと昔の上流階級のスキャンダルとか絵で描いてた時代とかじゃなかなか考えられない。今はインターネットやソーシャルネットワークでさらに流出しやすくなった時代なんであれですが)
まあそういうあらすじなので内容、そして音楽も色っぽいです。特にこの「終曲」の妖しさったらたまらない!
元々アデスの音楽って澄んだ空気のような透明さがあって、このオペラも大編成のオケを使いながらも不思議な軽さがあって(バイオリン、クラリネット辺りの音が特徴的)、色気があるところもべたつかなく、下品にならない洗練された感じがあるのがすごい。
アデスの得意な闇の低音+透明な高音のギャップがここでも味わえます。
古典のスタイルであれ都会風のスタイルであれ、なんでも自分のものにしてしまうアデスの器用さ、そしてアデスの手でしか形作れないような絶妙なスタイルが本当に大好きです。あと彼の他の作品ではあんまりみられないセクシーさは貴重。この3つのダンスだけなら聞きにくいことはないと思うので是非是非聞いてみてください。
同じCDに収録されてる新古典派作品Three Studies after Couperinもさらに聞きやすいですし、ちょっとチャレンジならTevotも名曲。
あれから元気にポケモン育成はげんでおります。ウルガモス2匹(正確にはウルガモスとメラルバ)を努力値の振り方を変えて使い勝手・用途がある程度異なるようにとの試み。
あのタウンマップだと家の近くだっていうけど意外と遠い変な場所でもらったタマゴが孵ったメラルバはメスだったのでニックネームを「Alexandra」に(ニコライ2世の奥さんから)、そしてこだいのしろで捕まえたウルガモスはオスだったので悩んだ結果「Akhenaten」(ツタンカーメンの父のファラオから)と名付けました。「A」の音が似合うんですよね。ブラック2で出会ったら(あとタマゴで増やしたら)またAのついた王族の名前にしたいです。インド、タイ周りでまだありそう。
さて、今日は日本から荷物が着きましたので頼んだCD3枚を聞いて一人で楽しんでいるところです。ちょっと興奮し気味かも。
今回手元に来たのはface to ace「a new day」、平沢進「点呼する惑星」、そして滝本晃司「カタチ」。先ほどご飯の準備&ご飯食べながら最初の2枚を聞いて、今は3枚目をちょうど聞いているところ。
もうあれですね、新しい音楽に出会うのはいつも楽しくて素晴らしい。感極まっています。なのでこないだからたまってる分も合わせてゆっくりこちらでも紹介していきます。きっと。
最近ちょっと・・・というか随分長いことオンオフありで考えてきたことなのですが、英語のボキャブラリーに関して今日はちょっとだけ書きたいと思います。
医薬翻訳の仕事でもある程度は意識しているけれど、どっちかというと創作だったり日常で英語を書いたり話したり読んだりすることの方が強く意識することで。
小学校6年生のときだったかな、こっちに来て1年くらいたって小学校でネイティブの人が読むような本もだんだん読めるようになって、友達や先生の言ってることもだいぶ(雰囲気込みですが)分かるようになり。
そんなときのぼんやりした記憶の中に先生達(6年生は2クラスが半分合同でいつも授業してたのでした)が教えてくれたこと、というのがいくつか残っていて。その中の一つが「goとかgetとかそういうgenericな言葉はなるべく文を書くとき使うのを避けるように」ということでした。
つまり同じ「行く」というニュアンスがある言葉でも、goでなくwalkとかstrollとかrushとか、様子をより正確に表し、読み手が想像しやすくする言葉を使うこと、という教え。
もちろん6年生時点でそれを実行するには私にはちょっと無理な部分も多かったですが、英語で文を書く能力が高まって、それからいろんな機会で文を書くことが多くなるにつれてじわじわと意識して実行するようになってきたことです。先生達ありがとう。
Go=行く、でなくwalk=歩いて行く、stroll=ぶらぶら歩く、rush=急いで行くだったり。
Think=考える、でなくponder=考えをめぐらす、meditate=熟考する、reflect=思い返すだったり。
翻訳するにも文を1から書くにも「ニュアンス」まで伝える表現の正確さ(またでたぞこのフレーズ!)というのは大切だと思うし、英語日本語関係なくもっと重きを置いた方がいいんじゃないのかなあ、と思うのです。
で、そういう(名詞でなく特に上記動詞などで)表現のレパートリー、ボキャブラリーを広げるには何よりも小説を読むことなんじゃないのかな、と思います。
英語を学ぶにおいて英語の本(絵本から子供向けの本、ヤングアダルトフィクション、小説全般全部ひっくるめて)を読むことの大切さって知られてるんだろうか、とよく思います。
(技術翻訳においても科学論文だったり翻訳しようとしている分野で使われている文書を読むのは大切ですが)
ちなみにうちの両親は今でも英語の本を読むことで英語の色々を維持していたりしているようです。
「英語を勉強する」ということについては一度母に話を聞いてみるのが一番かもしれませんね。母はオーストラリアにいる間に(私達のように学校教育ではなく)英語やそのほかオーストラリアの文化を勉強する、色んな国籍の大人達が集まる教室に通ってたこともあったので。それから本も読んでるので。
で、このボキャブラリーに関してあくまで私としては真剣に(でも楽しく考えていた)話もうひとつ。
「おっぱい」を表す英語とそれに対応する日本語、考えてみるとなかなか難しい。
Twitterにつぶやいたのを引用すると:
自分のイメージだとTits=乳、Boobies=おっぱい、Boobs=胸、Breast=胸、Chest=胸・・・あらら(汗)。ちなみに胸筋はPecks。男性の胸が(筋肉でなく)ふくらんでいるのはMan-boobsといいます(なかなかこたえる言葉なので多用はしないほうがいい)
・・・となります。
ちなみに「おしり」を表す英語とそれに対応する日本語、だと:
Bottom=お尻、Bum=おしり、Butt=尻、Ass=尻、Arse=ケツ、Rear=ケツ、Behind=お尻?、Booties=お尻?、Gluteal=臀筋、Buttocks=尻の肉・・・なのかな。?マークをつけたのはかなりニュアンスが違う気がする。
この「ニュアンスの違いによる違和感ともどかしさ」というのが現れやすいのがこういう口語というか、スラングというかなのかもしれませんねえ。映画とか小説の翻訳やってたら転がり回ってたわー(汗)
ということで何が言いたいかというと日本語も英語も他のどんな言語でもやっぱり自分が書く文、言葉のニュアンスとか表現の正確さ、そして正確に表現するためのレパートリーとしてのボキャブラリーについて考えを広げてみるのも大事だし意外と楽しいよ、ということです。
ついでに言えば鬱を始め気分障害や不安障害だったり、はたまた身体的な痛みとかの症状に関してもドクターになるべく正確に伝えることってものすごく大切です。むしろこれは別のエントリーを立てるべきかな。考えておきます。
今日の一曲: トーマス・アデス オペラ「Powder Her Face」の舞踏組曲より「終曲」
正式には「Dances from Powder Her Face」で舞踏組曲ではないかも(汗)序曲・ワルツ・終曲のうちの最後の曲です。
アデスのオペラは以前シェークスピアをモチーフにした「The Tempest」を紹介していますがあちらは古典作品の解釈であるのに対してこちらは20世紀の実話(しかも主人公が亡くなったのは作曲のわずか2年前)を元にしているオペラ。op.番号からして「Asyla」と同時期かな?
元になっているというのがアーガイル公爵夫人マーガレットの離婚を巡ったスキャンダル。どうも様々な男性との不倫関係が問題になったらしいのですが、なんかさすが20世紀というか写真がいっぱい出てきているようで。英語版wikipediaで裸に真珠のネックレス、くらいならまあいいじゃんと思って読み進めたら「....oh(汗)」な内容で。
(写真が残るってやっぱインパクトありますよね。もっと昔の上流階級のスキャンダルとか絵で描いてた時代とかじゃなかなか考えられない。今はインターネットやソーシャルネットワークでさらに流出しやすくなった時代なんであれですが)
まあそういうあらすじなので内容、そして音楽も色っぽいです。特にこの「終曲」の妖しさったらたまらない!
元々アデスの音楽って澄んだ空気のような透明さがあって、このオペラも大編成のオケを使いながらも不思議な軽さがあって(バイオリン、クラリネット辺りの音が特徴的)、色気があるところもべたつかなく、下品にならない洗練された感じがあるのがすごい。
アデスの得意な闇の低音+透明な高音のギャップがここでも味わえます。
古典のスタイルであれ都会風のスタイルであれ、なんでも自分のものにしてしまうアデスの器用さ、そしてアデスの手でしか形作れないような絶妙なスタイルが本当に大好きです。あと彼の他の作品ではあんまりみられないセクシーさは貴重。この3つのダンスだけなら聞きにくいことはないと思うので是非是非聞いてみてください。
同じCDに収録されてる新古典派作品Three Studies after Couperinもさらに聞きやすいですし、ちょっとチャレンジならTevotも名曲。