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相変わらずネットがつながりません。
しかも回復するのがいつかわからないときました。仕事とかほんと不便です。
創作も結構不便です。(ネットで色々見ながら考えを広げてる部分がこんなに多かったとは)
なにより追加のパケット代が大変なので早くなんとかならないかしらん。
こないだメル響からコンサート3つで99ドルのお知らせが来たので3つまとめて予約しましたが、その最初のコンサートが昨日でした。
プログラムは以下の通り:
指揮者:Matthew Coorey
ムソルグスキー 禿げ山の一夜
ハイドン チェロ協奏曲第2番 (チェロ:Pieter Wispelwey)
(休憩)
ムソルグスキー 「ホヴァーンシチナ」序曲
スクリャービン 法悦の詩
実はこのプログラムのリハーサル期間の間に本来指揮するはずだったヤン・パスカル・トルトゥリエが急遽母国に帰らなくちゃいけなかったという事情でこのMatthew Cooreyというオーストラリアの指揮者が代役になったそうです。
その際にコンチェルトがプロコフィエフのSinfonie-Concertanteからハイドンのニ長調に変更になり、それとともに曲の順番も一部変わりました。これはオケだけでなくソリストも大変!でもリスクベネフィットを考えてのことでしょうね(プロコはチェロにとって最難関らしいですが曲もでかくてリハーサル時間が足りなかったと思われます)。
変更後の後半に当たる2曲はそんなに演奏頻度も高くなく、プログラムによると前回メル響が「法悦の詩」を演奏したのは1972年で2度目、ということなので振れる人を探すのも難しかっただろうな。
そんな事情があったわけで今回のコンサートはベストな形ではなかったと思われます。
実際弦を中心にアンサンブルがちょっと崩れてしまうところもありましたし(ただ禿げ山に関してはもともとあのさくさくしたテンポでやるにはちょっと音楽的にもアンサンブル的にも無理があったかも)、あとはオールロシアで普段聴けないような曲(Sinfonie-Concertanteもそうです)が聴ける、そのプログラムとしてのまとまりが聴けなかったのはちょっと残念かな。
ただプログラムが変更になったことで別に貴重な演奏が聴けましたよ。
ハイドンのニ長調といえばチェロの協奏曲の中でも良く聴く、でも難しいところも技巧・音楽性合わせて多々ある曲。優雅さと威風堂々とした雰囲気を兼ね備えた曲で割と素直に弾くと美しさがでるようなところがあるコンチェルトなのですが、昨日の演奏はそんなイメージを窓の外にぽいっとするような奇抜な演奏でした。
とにかく表現がquirky。気まぐれで、自由で、どこか神経質なところがあって。それだけでひょろっとひょうひょうしたジョーカー的なキャラクターができちゃうような。
楽譜に書いてある音を変えてる箇所もありましたし、カデンツァもものすごく変わった感じで、1音1音に意表を突かれるような演奏でした。あと高音の駆使がすごい!
斬新な解釈が聴いてて楽しかったですし、驚きっぱなしなのも楽しかったです。
「ホヴァーンシチナ」序曲は存在すら知らなかった曲ですが面白かったですねー。プログラムによるとオペラの中身はドラマチックなのですが序曲は穏やかなまま終始進むので終わってびっくりしました。
ちなみに今回演奏されたのはリムスキー=コルサコフによる編曲(ショスタコ版もあるそうです)。前述禿げ山もリムスキー=コルサコフによる編曲ですし、「展覧会の絵」もオケに編曲したのはラヴェル、とどうもムソルグスキーはオケ使いに難があるっぽい。でもリムスキーにしろラヴェルにしろ一流のオケ使いが編曲しているあたり元のアイディアの魅力もちゃんとあるんだろうな。
スクリャービンといえばピアノで少なからず弾いている作曲家ですが、ピアノ音楽も割と難解な作曲家なのに、オケ音楽もまた難解、しかもスタイルが全く違うのがまた分からない!という知れば知るほど変な作曲家。
一応「法悦の詩」は(交響曲いくつかとともに)録音を持ってて、聴いたことあるのですが生で聴くのは初めて。ハーモニーとか盛り上がり方、色彩の豊かさとかは確かにスクリャービンで、だけど音が波のように押し寄せて渦巻く感じがあってオーケストレーションとか考える暇が無い。というかずっと「えーっこんな表現!?」と驚くことが多かったです。
スクリャービンのオケ曲って妙にちょっとシュトラウスっぽいところがあるというか、あと躁に傾いている時に触れられたくない神経に触れるところがってちょっと敬遠してたのですが今回聴いてみてもっと分かりたくなりましたね。聴けば聴くほど分からなくなりそうではありますが。
ということで今回のコンサートでは色々驚きました。もちろん良い驚きで。
そして大学以来の友達でちょくちょくメル響でバイオリン弾いてる子がいるのですが、その子にちょっと後で挨拶してきました。彼女は高校のころくらいから慢性疲労症候群を患ってて、病気は違えど慢性的に調子が不安定で特に冬に具合が悪くなりがちなのは私と共通していて、ちょっとそこらへんわかり合えるところがあるのです。お互い「大丈夫~?」みたいに挨拶するのです(笑)
実際具合はそんなに良くなかったようなのですがコンサートで弾けててなにより。私も無理せずがんばらなくちゃ。
そうそう、今年も誕生日はアブサン飲んで祝うことになりました。大変楽しみ。(年一よりも機会を多くしたいです、ほんとは)
今日の一曲: モデスト・ムソルグスキー 「禿げ山の一夜」
(ネットがつながらないため録音リンクなし)
おそらく前紹介したけど気にしない。
ストラヴィンスキーの「火の鳥」もそうですが、この曲も「夜になると魔王がでて配下の魔物と騒ぐ」みたいな話です。子供に夜に外に出ずおとなしく寝なさい、みたいな目的があると考えるとそういうのは万国共通なのかな。魔物のイメージの国による違いとか調べてみるのも面白そうですが。
暗くて派手で騒がしくて、なのがこの曲の主な魅力というか楽しさですが、実は「美しい」部分も多々あるのはもっと知られて欲しいですね。
例えば最後、朝が来て鐘が鳴り、魔物達と魔王が眠りにつくシーンでのクラリネットのソロ、それからそれに続く(同じメロディーを長調で奏でる)フルートのソロはシンプルだけれど本当に綺麗。長く延ばす音の表現がうまいと心にぐんぐんしみいります。
それから曲の中程でちょっと静かになってテンポを落とす部分がありますが(そのセクションに入るところのビオラ達のソロも好きです)、そこの色気が良いですね。ほんの短い間ではありますがロシア音楽らしい妖艶さが見えて。
やっぱりロシア音楽ですし、あと原曲・編曲どちらもこの魔物の禍々しさとかを表現するために色んな音で効果を出しているということもあって、速いと盛り上がるのは分かってるながらもあんまり速すぎるテンポではいけないなあ、と。
ある程度重厚さと暗さが味わえる演奏が一番だと思います。
(私も弾いたことあるんですがそのときにどんな風な演奏だったか覚えてないなあ・・・楽しかったのは確かですね)
今回リンクする録音をゆっくり探すあれがなかったので省きましたが自分の持ってる録音はショルティ&ロンドン交響楽団のWeekend in RussiaというCDでした。でも地元ロシアのオケで聴いてみたいという気持ちも強いです。
しかも回復するのがいつかわからないときました。仕事とかほんと不便です。
創作も結構不便です。(ネットで色々見ながら考えを広げてる部分がこんなに多かったとは)
なにより追加のパケット代が大変なので早くなんとかならないかしらん。
こないだメル響からコンサート3つで99ドルのお知らせが来たので3つまとめて予約しましたが、その最初のコンサートが昨日でした。
プログラムは以下の通り:
指揮者:Matthew Coorey
ムソルグスキー 禿げ山の一夜
ハイドン チェロ協奏曲第2番 (チェロ:Pieter Wispelwey)
(休憩)
ムソルグスキー 「ホヴァーンシチナ」序曲
スクリャービン 法悦の詩
実はこのプログラムのリハーサル期間の間に本来指揮するはずだったヤン・パスカル・トルトゥリエが急遽母国に帰らなくちゃいけなかったという事情でこのMatthew Cooreyというオーストラリアの指揮者が代役になったそうです。
その際にコンチェルトがプロコフィエフのSinfonie-Concertanteからハイドンのニ長調に変更になり、それとともに曲の順番も一部変わりました。これはオケだけでなくソリストも大変!でもリスクベネフィットを考えてのことでしょうね(プロコはチェロにとって最難関らしいですが曲もでかくてリハーサル時間が足りなかったと思われます)。
変更後の後半に当たる2曲はそんなに演奏頻度も高くなく、プログラムによると前回メル響が「法悦の詩」を演奏したのは1972年で2度目、ということなので振れる人を探すのも難しかっただろうな。
そんな事情があったわけで今回のコンサートはベストな形ではなかったと思われます。
実際弦を中心にアンサンブルがちょっと崩れてしまうところもありましたし(ただ禿げ山に関してはもともとあのさくさくしたテンポでやるにはちょっと音楽的にもアンサンブル的にも無理があったかも)、あとはオールロシアで普段聴けないような曲(Sinfonie-Concertanteもそうです)が聴ける、そのプログラムとしてのまとまりが聴けなかったのはちょっと残念かな。
ただプログラムが変更になったことで別に貴重な演奏が聴けましたよ。
ハイドンのニ長調といえばチェロの協奏曲の中でも良く聴く、でも難しいところも技巧・音楽性合わせて多々ある曲。優雅さと威風堂々とした雰囲気を兼ね備えた曲で割と素直に弾くと美しさがでるようなところがあるコンチェルトなのですが、昨日の演奏はそんなイメージを窓の外にぽいっとするような奇抜な演奏でした。
とにかく表現がquirky。気まぐれで、自由で、どこか神経質なところがあって。それだけでひょろっとひょうひょうしたジョーカー的なキャラクターができちゃうような。
楽譜に書いてある音を変えてる箇所もありましたし、カデンツァもものすごく変わった感じで、1音1音に意表を突かれるような演奏でした。あと高音の駆使がすごい!
斬新な解釈が聴いてて楽しかったですし、驚きっぱなしなのも楽しかったです。
「ホヴァーンシチナ」序曲は存在すら知らなかった曲ですが面白かったですねー。プログラムによるとオペラの中身はドラマチックなのですが序曲は穏やかなまま終始進むので終わってびっくりしました。
ちなみに今回演奏されたのはリムスキー=コルサコフによる編曲(ショスタコ版もあるそうです)。前述禿げ山もリムスキー=コルサコフによる編曲ですし、「展覧会の絵」もオケに編曲したのはラヴェル、とどうもムソルグスキーはオケ使いに難があるっぽい。でもリムスキーにしろラヴェルにしろ一流のオケ使いが編曲しているあたり元のアイディアの魅力もちゃんとあるんだろうな。
スクリャービンといえばピアノで少なからず弾いている作曲家ですが、ピアノ音楽も割と難解な作曲家なのに、オケ音楽もまた難解、しかもスタイルが全く違うのがまた分からない!という知れば知るほど変な作曲家。
一応「法悦の詩」は(交響曲いくつかとともに)録音を持ってて、聴いたことあるのですが生で聴くのは初めて。ハーモニーとか盛り上がり方、色彩の豊かさとかは確かにスクリャービンで、だけど音が波のように押し寄せて渦巻く感じがあってオーケストレーションとか考える暇が無い。というかずっと「えーっこんな表現!?」と驚くことが多かったです。
スクリャービンのオケ曲って妙にちょっとシュトラウスっぽいところがあるというか、あと躁に傾いている時に触れられたくない神経に触れるところがってちょっと敬遠してたのですが今回聴いてみてもっと分かりたくなりましたね。聴けば聴くほど分からなくなりそうではありますが。
ということで今回のコンサートでは色々驚きました。もちろん良い驚きで。
そして大学以来の友達でちょくちょくメル響でバイオリン弾いてる子がいるのですが、その子にちょっと後で挨拶してきました。彼女は高校のころくらいから慢性疲労症候群を患ってて、病気は違えど慢性的に調子が不安定で特に冬に具合が悪くなりがちなのは私と共通していて、ちょっとそこらへんわかり合えるところがあるのです。お互い「大丈夫~?」みたいに挨拶するのです(笑)
実際具合はそんなに良くなかったようなのですがコンサートで弾けててなにより。私も無理せずがんばらなくちゃ。
そうそう、今年も誕生日はアブサン飲んで祝うことになりました。大変楽しみ。(年一よりも機会を多くしたいです、ほんとは)
今日の一曲: モデスト・ムソルグスキー 「禿げ山の一夜」
(ネットがつながらないため録音リンクなし)
おそらく前紹介したけど気にしない。
ストラヴィンスキーの「火の鳥」もそうですが、この曲も「夜になると魔王がでて配下の魔物と騒ぐ」みたいな話です。子供に夜に外に出ずおとなしく寝なさい、みたいな目的があると考えるとそういうのは万国共通なのかな。魔物のイメージの国による違いとか調べてみるのも面白そうですが。
暗くて派手で騒がしくて、なのがこの曲の主な魅力というか楽しさですが、実は「美しい」部分も多々あるのはもっと知られて欲しいですね。
例えば最後、朝が来て鐘が鳴り、魔物達と魔王が眠りにつくシーンでのクラリネットのソロ、それからそれに続く(同じメロディーを長調で奏でる)フルートのソロはシンプルだけれど本当に綺麗。長く延ばす音の表現がうまいと心にぐんぐんしみいります。
それから曲の中程でちょっと静かになってテンポを落とす部分がありますが(そのセクションに入るところのビオラ達のソロも好きです)、そこの色気が良いですね。ほんの短い間ではありますがロシア音楽らしい妖艶さが見えて。
やっぱりロシア音楽ですし、あと原曲・編曲どちらもこの魔物の禍々しさとかを表現するために色んな音で効果を出しているということもあって、速いと盛り上がるのは分かってるながらもあんまり速すぎるテンポではいけないなあ、と。
ある程度重厚さと暗さが味わえる演奏が一番だと思います。
(私も弾いたことあるんですがそのときにどんな風な演奏だったか覚えてないなあ・・・楽しかったのは確かですね)
今回リンクする録音をゆっくり探すあれがなかったので省きましたが自分の持ってる録音はショルティ&ロンドン交響楽団のWeekend in RussiaというCDでした。でも地元ロシアのオケで聴いてみたいという気持ちも強いです。
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前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
なんだか調子の下降が落ち着いた感じです。前回話したピアノのあれだったり、あとそんなには寒くないのがきいてるかな。
仕事もしばらく分きたので朝もちゃんと起きなきゃ。
さて、昨日はちょっとコンサートに行ってきました。珍しいですが午前中に。
今オーストラリア国立音楽アカデミーでは実技試験でもあるリサイタルの時期。アカデミーには何人か友達がいますがその直接の友達を通して知り合ったビオラの友達のリサイタルがあったので行ってきました。
前もそうでしたが試験とはいえ公共のリサイタルなのでいつも通り紹介。
<ANAM Recital: Katie Yap>
テレマン 幻想曲 第10番(ビオラ無伴奏:原曲はバイオリン曲)
マルティヌー 3つのマドリガル(バイオリンとビオラ)
コダーイ セレナード op.12(バイオリン2台とビオラ)
ブリテン 3つのディヴェルティメント(バイオリン2台、ビオラとチェロ)
なかなかマイナー・・・というかニッチなところを付いたプログラムです。
このプログラムは「1,2,3,4」がテーマになっていて、上に書いたようにビオラ1人からデュエット、トリオ、カルテットと人数が増えていくプログラムになっています。
一応アカデミーでのこういう実技試験は「ソロ・リサイタル」となっていますが室内楽作品を含めるケースも多く、でも今回のプログラムも(ビオラという内声担当の楽器にも関わらず)ビオラを主に聞かせる、という意味でちゃんとビオラのリサイタルなプログラムでした。
ほぼ全てが初めて聞く曲でしたが面白い曲でしたよー。
マルティヌーは大学1年のときにフルート、バイオリンとピアノの作品を聞いてあんまりぴんとこなかったのですが、今回のこのマドリガルで見直しました。いい味してます。
あとコダーイでのビオラパートの活躍すっごいですね。あの渋い低音がごうごう鳴る鳴る。「ハーリ・ヤーノシュ」でも長いビオラのソロがありますが、こちらの方がハンガリーらしいワイルドな感じ。
それから「ディヴェルティメント」って軽妙な小品というイメージがありますが(モーツァルト以来)、ブリテンのディヴェルティメントはもう小さなシンフォニーみたいな雰囲気というかテンションというか、作り込まれた度合いがすごいというか。
そんなプログラムを通じてKatieの音がよかったですね。私とそう変わらない体格でしっかり響くパワフルで豊かな音。音響も味方してましたが元もしっかり。
なにより「健康的」な音という印象でした。作曲家のラインアップから分かるかもしれませんが、必ずしも素直に美しい音ばかりでなく苦み走ってる音もたくさん求められる中で、苦みのある音も気持ちよく心に響くのが聞いててとっても良かったです。
そしてこのプログラムで素晴らしいと思ったのがソロ・デュオ・トリオ・カルテットと楽器編成が変わっていく中でビオラのキャラクター、役割が大きく変わっていくこと。
テレマンでの即興的な自由さ、マルティヌーでのバイオリンと対等に張り合う様子、コダーイで(ソロもあるけど)チェロとはまたひと味違った性質でアンサンブルを下から支える力持ち、そしてブリテンで内声を担当して内側から支えながら他の3人と違う立ち回りをしていたり。
チェロもそうですがビオラも本当に多彩な音でビオラならではの多彩な役割を演じられるんですよ。去年のビオラコンサートでもそれを実感しましたが、今回のプログラムではそれを改めて再確認しました。
(クラシックではマイナーながらも色々活躍しているのでクラシック以外のジャンルでももっと活躍させてあげてほしい!)
本当にこのコンサートではいいものを聴かせてもらいました。ビオラやっぱり大好きです。もちろんipodにも入ってますが生でもちょこちょこ聞きたいです。
今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ ビオラソナタ 第2楽章
ビオラつながりでチョイス。本当はこの曲は自分にとって本当に特別で、好きすぎて聴かないだけでなく曲の存在自体あまり口に出さないくらいな曲です。ものすごーく弾きたいです。
この第2楽章は実際弾いたことがあって、この曲全体を好きになるきっかけになった楽章です。
普通(というかモーツァルトとか古典派以降の伝統的な)ソナタって3楽章編成だと速い→遅い→速いという構成になりますが20世紀になるとそれとは違った楽章構成のソナタも色々出てきます。
ショスタコーヴィチは後期になると交響曲・弦楽四重奏・協奏曲・ソナタなどで第1楽章を遅いテンポにすることが増えるような気がします。
(もちろんショスタコ特有のことではないんですが、なんだかそういう傾向ははっきりしてきてますよね)
それはそれで効果的だったり、意味ありげだったりしてこの時期のショスタコの音楽を考える上で一番わかりやすいスタート地点じゃないかな、と思います。
以前も書いたと思いますがこのビオラソナタはショスタコーヴィチが書いた最後の作品。(これもまたわかりやすいスタート地点ですね)
彼の他の作品と比べるとシンプルで、色んなものが「無い」ように思えますが、その中にも本当にいろいろな思いがあります。
この第2楽章もちょっとどこか不気味なところがあるように思えます。
速い楽章ですがもちろん明るくはなく、含むエネルギーの質もちょっと異様。
何かを掴もうと、感じようとするのが怖くなる何かをはらんでいる曲。
ピアノのパートもそこそこしっかりありますが、なんといってもビオラです。
ビオラしか表現できない世界、というのが本当にあるんだなというのがこの楽章、そしてこのソナタにはたくさんあります。
バイオリンの音はタイトで神経質なところがあって向いてなかったり、逆にチェロだと感情が入って豊かすぎたり。ビオラならではの「虚」があるんですね。
この曲はバシュメットが弾く録音が二つ手持ちにあるんですが、自分で買ったほう(もう一つは友達に借りた)のこの楽章の演奏が面白い。
ものすごーく焦ってる感じなんですよ。テンポが速めで前のめりで、なにかにかき立てられているような。最初弾いててものすごく怖かったです。この曲が向かっているところ=死ですからね。スローで長い第3楽章が次にあるとはいえ、この弾き方はちょっと。
(でもそれがやっぱりこの曲の弾き方・解釈としてはぴったりなことがあって、今ではむしろ好きなのです)
なので今回は試聴はありませんがその録音をリンクします。バシュメットは自分の中ではザ・ビオリストというか。闇とか病みとかの度合いも含めて自分にとってビオラってこんな感じがいいな、と思うところがあります。特にこの曲で。
他にもカシュカシアンの録音、タベア・ツィンマーマンの録音も見つけました。まだまだ他にもありそう。
ブログ本文でもそうですが今日の一曲でも自分が好きな曲であればあるほど空回りしますね。反省。そしてどうか汲んでください(汗)
なんだか調子の下降が落ち着いた感じです。前回話したピアノのあれだったり、あとそんなには寒くないのがきいてるかな。
仕事もしばらく分きたので朝もちゃんと起きなきゃ。
さて、昨日はちょっとコンサートに行ってきました。珍しいですが午前中に。
今オーストラリア国立音楽アカデミーでは実技試験でもあるリサイタルの時期。アカデミーには何人か友達がいますがその直接の友達を通して知り合ったビオラの友達のリサイタルがあったので行ってきました。
前もそうでしたが試験とはいえ公共のリサイタルなのでいつも通り紹介。
<ANAM Recital: Katie Yap>
テレマン 幻想曲 第10番(ビオラ無伴奏:原曲はバイオリン曲)
マルティヌー 3つのマドリガル(バイオリンとビオラ)
コダーイ セレナード op.12(バイオリン2台とビオラ)
ブリテン 3つのディヴェルティメント(バイオリン2台、ビオラとチェロ)
なかなかマイナー・・・というかニッチなところを付いたプログラムです。
このプログラムは「1,2,3,4」がテーマになっていて、上に書いたようにビオラ1人からデュエット、トリオ、カルテットと人数が増えていくプログラムになっています。
一応アカデミーでのこういう実技試験は「ソロ・リサイタル」となっていますが室内楽作品を含めるケースも多く、でも今回のプログラムも(ビオラという内声担当の楽器にも関わらず)ビオラを主に聞かせる、という意味でちゃんとビオラのリサイタルなプログラムでした。
ほぼ全てが初めて聞く曲でしたが面白い曲でしたよー。
マルティヌーは大学1年のときにフルート、バイオリンとピアノの作品を聞いてあんまりぴんとこなかったのですが、今回のこのマドリガルで見直しました。いい味してます。
あとコダーイでのビオラパートの活躍すっごいですね。あの渋い低音がごうごう鳴る鳴る。「ハーリ・ヤーノシュ」でも長いビオラのソロがありますが、こちらの方がハンガリーらしいワイルドな感じ。
それから「ディヴェルティメント」って軽妙な小品というイメージがありますが(モーツァルト以来)、ブリテンのディヴェルティメントはもう小さなシンフォニーみたいな雰囲気というかテンションというか、作り込まれた度合いがすごいというか。
そんなプログラムを通じてKatieの音がよかったですね。私とそう変わらない体格でしっかり響くパワフルで豊かな音。音響も味方してましたが元もしっかり。
なにより「健康的」な音という印象でした。作曲家のラインアップから分かるかもしれませんが、必ずしも素直に美しい音ばかりでなく苦み走ってる音もたくさん求められる中で、苦みのある音も気持ちよく心に響くのが聞いててとっても良かったです。
そしてこのプログラムで素晴らしいと思ったのがソロ・デュオ・トリオ・カルテットと楽器編成が変わっていく中でビオラのキャラクター、役割が大きく変わっていくこと。
テレマンでの即興的な自由さ、マルティヌーでのバイオリンと対等に張り合う様子、コダーイで(ソロもあるけど)チェロとはまたひと味違った性質でアンサンブルを下から支える力持ち、そしてブリテンで内声を担当して内側から支えながら他の3人と違う立ち回りをしていたり。
チェロもそうですがビオラも本当に多彩な音でビオラならではの多彩な役割を演じられるんですよ。去年のビオラコンサートでもそれを実感しましたが、今回のプログラムではそれを改めて再確認しました。
(クラシックではマイナーながらも色々活躍しているのでクラシック以外のジャンルでももっと活躍させてあげてほしい!)
本当にこのコンサートではいいものを聴かせてもらいました。ビオラやっぱり大好きです。もちろんipodにも入ってますが生でもちょこちょこ聞きたいです。
今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ ビオラソナタ 第2楽章
ビオラつながりでチョイス。本当はこの曲は自分にとって本当に特別で、好きすぎて聴かないだけでなく曲の存在自体あまり口に出さないくらいな曲です。ものすごーく弾きたいです。
この第2楽章は実際弾いたことがあって、この曲全体を好きになるきっかけになった楽章です。
普通(というかモーツァルトとか古典派以降の伝統的な)ソナタって3楽章編成だと速い→遅い→速いという構成になりますが20世紀になるとそれとは違った楽章構成のソナタも色々出てきます。
ショスタコーヴィチは後期になると交響曲・弦楽四重奏・協奏曲・ソナタなどで第1楽章を遅いテンポにすることが増えるような気がします。
(もちろんショスタコ特有のことではないんですが、なんだかそういう傾向ははっきりしてきてますよね)
それはそれで効果的だったり、意味ありげだったりしてこの時期のショスタコの音楽を考える上で一番わかりやすいスタート地点じゃないかな、と思います。
以前も書いたと思いますがこのビオラソナタはショスタコーヴィチが書いた最後の作品。(これもまたわかりやすいスタート地点ですね)
彼の他の作品と比べるとシンプルで、色んなものが「無い」ように思えますが、その中にも本当にいろいろな思いがあります。
この第2楽章もちょっとどこか不気味なところがあるように思えます。
速い楽章ですがもちろん明るくはなく、含むエネルギーの質もちょっと異様。
何かを掴もうと、感じようとするのが怖くなる何かをはらんでいる曲。
ピアノのパートもそこそこしっかりありますが、なんといってもビオラです。
ビオラしか表現できない世界、というのが本当にあるんだなというのがこの楽章、そしてこのソナタにはたくさんあります。
バイオリンの音はタイトで神経質なところがあって向いてなかったり、逆にチェロだと感情が入って豊かすぎたり。ビオラならではの「虚」があるんですね。
この曲はバシュメットが弾く録音が二つ手持ちにあるんですが、自分で買ったほう(もう一つは友達に借りた)のこの楽章の演奏が面白い。
ものすごーく焦ってる感じなんですよ。テンポが速めで前のめりで、なにかにかき立てられているような。最初弾いててものすごく怖かったです。この曲が向かっているところ=死ですからね。スローで長い第3楽章が次にあるとはいえ、この弾き方はちょっと。
(でもそれがやっぱりこの曲の弾き方・解釈としてはぴったりなことがあって、今ではむしろ好きなのです)
なので今回は試聴はありませんがその録音をリンクします。バシュメットは自分の中ではザ・ビオリストというか。闇とか病みとかの度合いも含めて自分にとってビオラってこんな感じがいいな、と思うところがあります。特にこの曲で。
他にもカシュカシアンの録音、タベア・ツィンマーマンの録音も見つけました。まだまだ他にもありそう。
ブログ本文でもそうですが今日の一曲でも自分が好きな曲であればあるほど空回りしますね。反省。そしてどうか汲んでください(汗)
前回のエントリーに拍手、そしていつもよりも多いアクセスありがとうございます~
春の祭典についてですが、facebook経由で面白い動画が流れてきたので紹介。
「春の祭典」の音を可視化したミュージックアニメーションの動画です。
第1部はこちら、第2部はこちら。仕組みなどについては第1部の動画に説明が(英語で)。
電子演奏ですが結構音もちゃんとしてますし、楽譜が読めなくてもなんとなーく曲の構成とかが分かるように、そして複雑で全部は聞きとることができない部分も光で見れるようになっています。
ようつべではバレエのパフォーマンスもみれますが、これは全く違う意味で大変おすすめの動画。
(ちなみにこれを作った方はほかにもいろんな曲のミュージックアニメーションを作っています。電子演奏ではなく人間の演奏で作っているのもたくさん)
さて、こないだ「面白いこと」が出てきたと言いましたが、ちょっと詳細を。
こないだ同窓会で行ってきた私の母校なんですが、最近新しくグランドピアノを購入したそうで(楽器買うんだったら少しは寄付したぞー)、そのお披露目的なコンサートをやるので弾かないか、というお便りがこないだ来たのです。
で、正式な詳細は決まってないのですがとりあえずお返事して弾くことになりました。今準備してるプログラムから一部弾きたいです。どんなピアノかな。
(ちなみに依頼主の音楽で一番偉い先生が、私が在学中もクラリネットを教えたり吹奏楽の指揮したりしてた先生なのですが、卒業したんだからファーストネームでもいいって言うんですがなんかそういう切り替え難しいですよね(汗))
で、上記のあれが7月中旬の予定で、それまでに自分の持ち曲の半分以上はなんとか演奏可能な状態になってるはず。
実際今の時点でも完全に・ほぼ暗譜までできている曲は結構多くて、7月のあれには持ち時間が何分でもそれに合わせて曲を選べそうな雰囲気。
で、始めたときからずっとそうなのですが、メシアンの「鳥のカタログ」、中でも「イソヒヨドリ」がプログラム中最難関で。(これが唯一7月までに演奏可能ではない曲ですね)
それでちゃんと演奏できるようになるのかなー暗譜できるようになるのかなーとここ数ヶ月悩んできたわけですが、今日やっと「そろそろイソヒヨドリも暗譜始めなきゃなー・・・」と思ってちょっと(楽譜は開いたままなるべく見ない、という形で)暗譜のお試しをしてみました。
そしたら・・・結構できました!(笑)
これまで意識的に暗譜しよう、と思って練習したことがないのになんとなーくできる、というかほとんど止まらずに通して弾けるくらい。もちろん詳細は覚えてなくてごまかした部分も結構ありますが、ごまかしがきくくらいには起点となるポイントが多く確保できているみたい。
これまでメシアンの曲を普通に練習してる(=暗譜を意識せず)中でだんだんと指と頭が音楽を覚えてくる、ということはありましたが先に書いたように今回はとにかく自信がなかったので本当にびっくりしました。
イソヒヨドリは自分が弾いてきた鳥カタの中では一番長く、結構音も多くて多くの部分に分かれているし、ハーモニーなんかももちろん伝統的なものとはかけはなれている。
でも自分でも知らないうちにどうやってか覚えていて、なんだか不思議だったり驚きだったり安心だったりでちょっと笑ってしまいました。
もちろんこれからやるべきことはたくさんありますし、暗譜に関して気は抜けないですけどね。
大学時代からメシアンを弾くたびに「難しいんでしょ?暗譜どうやってやってるの?」と言われます。
確かに弾くのも暗譜するのも簡単だとは全く言えませんが、だからって所謂伝統的なピアノのレパートリーと比べてものすごく難しいわけでもないと思います。
ちょっとコツがいることはいるんですよね。メシアンの音楽言語をある程度知ってると(特に20のまなざしは)その言語の中での動き方はわかってきますし。
以前も書きましたが手の形の記憶は割と大きいです。あと常にメインとなるメロディー・・・じゃないけど一つ主になるラインを耳で追っていって、それを頭の中に刻み込み、それを基準点として手の形を合わせていくと割と覚えられるものです。
あと前回このことを話したときはハーモニーの「色」を覚えることで暗譜練習のときに音の正誤をチェックしたり、と書いた覚えも。
とにかく(メシアンの音楽言語についてちょっとは学ぶことは必須として)自分なりに記憶のコツを見つけることなんです、きっと。そしてそうすると絶対といっていいくらい複数の記憶法を組み合わせることになると思うんです。
でも結局複数の記憶法を組み合わせるのも、個人個人で合った暗譜のコツを探すのも結局メシアンや他の20世紀以降の音楽に限ったことじゃなくて、それ以前の時代の曲でもそうだと思うんです。
ただそれをより強く、合理的・論理的に意識して、ちょっと工夫を加えたりするのが必要かな。そうやってやってるとだんだん弾くのが楽になって、その積み重ねが今日みたいな嬉しい驚きにつながったり。
で、その暗譜の工夫やスキルはメシアンの音楽のみならずいろんな時代のいろんな音楽に応用できると思います。
なのでメシアン(そしてその他いわゆる現代音楽)を難しい、特に暗譜が難しいという理由で敬遠しないでほしいなあ、と思っています。
もちろん理由がそれだけでないのはよーくわかっていますが(笑)
ちょっとあれな言い方かもしれませんが要するに「慣れ」です。慣れってほんと大きいですよ。なめちゃいけません。
それにわからないまま暗中模索しててふと頭と心のギアがかちっと合ったときの気持ちよさとか、わからないのがだんだん馴染んできて自分の一部になってくる感覚、それを自分のものに少しでもできたと感じるときの感覚とか。それが今日だったんですが(今日以外にも何度となく経験してます)。
そういった快感が(とっつきにくい、努力が報われない、理解できないなどと思われがちですが)現代音楽でもちゃんと感じられるんです。
ということでメシアン難しくないです、といったら嘘になりますが「そんなには」難しくないです。
怖がらないで聴いて&弾いてくださいな~
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「峡谷から星達へ・・・」 第6楽章「恒星の呼び声」
やっと今日聴きました!聴いて良かった!素晴らしい音楽に出会えてよかった!
(大学在学中も一回だけ聴いたことあるんですが大学の図書館から持ち出し禁止なのでその1回だけだったんです)
前回、というか結構前になりますがメシアンの大規模曲を紹介したのは「彼方の閃光」でしたね。あの作品はメシアンがオーストラリアに来た時聞いた鳥の声を使ったりしてますが、この「峡谷から星達へ」はメシアンがその前にアメリカに行ったときの風景や鳥の声をがっつり使っています。
(ちなみにCDジャケットにはアメリカで撮ったメシアンの写真が載ってます。カラー写真です!)
アメリカの田舎とか大自然の風景ってオーストラリアのそれと似たようなところがあって、クラムの音楽やこの曲でもその似たところというか、ちょっと親しみを覚えるような感じがあるんですよね。
そしてそういった景色を映像で見て「あー違うなー」というところは音楽でも違うと感じるのも面白い。
その違いを具体的に感じるのがアメリカは壮大な地球の大地と果てない宇宙がものすごく近く感じる、というところですかね。(ハワイも含め)そういう感覚がオーストラリアで無いわけじゃないんですけど、度合いが違うというか。
その宇宙の近さもこの「峡谷から星達へ・・・」で強く感じられます。実際星たちを題材にした楽章も複数あります。
そんななかのこの「恒星の呼び声」はオケ曲の一部ながらホルンがたった一人で吹く珍しい楽章です。
(なのでレパートリーが元々小さいホルンではこの曲もソロレパートリーとしてコンクールの課題などに使ったりしています)
果てしなく広がる宇宙をオケやピアノで表すのはよく見られますがホルン、というのはまた意外な気もします。
ただ星と星の間に本当の意味で何もない、その孤独さというか「虚」の感じを表現するにはある意味ホルンは向いてるのかな、と。
ホルンって独特の響きや余韻があって、それが長すぎず短すぎず強すぎず、他の楽器ではまねできない呼び声になるのかなーと。
で、改めて聞いてみるとこのホルンのソロ、思ったよりも技巧がすごい!ホルンにしたら超絶技巧の類になるんですかね。
それもホルンの技巧を披露するための曲でないし(星の呼び声=星の言語を表現するのが第一目的)、書いたメシアンがホルン吹きでもないのもあって「普通のホルン曲」よりも難しくなってるのではと推測。スコアみてみないと諸々分かりませんけど。(図書館にスコアあるかな)
先ほど書きましたがこの楽章は「響き」が命だと思います。音のアタックから音が消えるまで、そして音と音の間の静寂も。なのでやっぱりこの曲は是非!生で聞かないと100%味わえないと思います。
ホルンの音と、それがホールに反射して響き、消えていくの、それから場の緊張の空気まであって初めて宇宙になるかな。
(でも考えてみるとただでさえ難しい、音が外れるホルンがこんなにプレッシャーmaxなシチュエーションでこんな難しい曲を聴衆・オケの前でたった一人で吹くって大変も大変ですね)
でもこの楽章はちょっと初めてだと聴きにくい。そもそもこの時代のメシアンのオケ曲ってそんなに聞きやすいといえるものは多くない。
ただ「峡谷から星達へ」だと第8楽章の「甦りしものとアルデバランの歌」が美しいと思います。まだ聞き始めたばっかりですが星の描写が綺麗でおすすめ。
そしてリンクしたのが購入した録音です。ジャケットも素敵だし前述メシアンのカラー写真も。(笑)
春の祭典についてですが、facebook経由で面白い動画が流れてきたので紹介。
「春の祭典」の音を可視化したミュージックアニメーションの動画です。
第1部はこちら、第2部はこちら。仕組みなどについては第1部の動画に説明が(英語で)。
電子演奏ですが結構音もちゃんとしてますし、楽譜が読めなくてもなんとなーく曲の構成とかが分かるように、そして複雑で全部は聞きとることができない部分も光で見れるようになっています。
ようつべではバレエのパフォーマンスもみれますが、これは全く違う意味で大変おすすめの動画。
(ちなみにこれを作った方はほかにもいろんな曲のミュージックアニメーションを作っています。電子演奏ではなく人間の演奏で作っているのもたくさん)
さて、こないだ「面白いこと」が出てきたと言いましたが、ちょっと詳細を。
こないだ同窓会で行ってきた私の母校なんですが、最近新しくグランドピアノを購入したそうで(楽器買うんだったら少しは寄付したぞー)、そのお披露目的なコンサートをやるので弾かないか、というお便りがこないだ来たのです。
で、正式な詳細は決まってないのですがとりあえずお返事して弾くことになりました。今準備してるプログラムから一部弾きたいです。どんなピアノかな。
(ちなみに依頼主の音楽で一番偉い先生が、私が在学中もクラリネットを教えたり吹奏楽の指揮したりしてた先生なのですが、卒業したんだからファーストネームでもいいって言うんですがなんかそういう切り替え難しいですよね(汗))
で、上記のあれが7月中旬の予定で、それまでに自分の持ち曲の半分以上はなんとか演奏可能な状態になってるはず。
実際今の時点でも完全に・ほぼ暗譜までできている曲は結構多くて、7月のあれには持ち時間が何分でもそれに合わせて曲を選べそうな雰囲気。
で、始めたときからずっとそうなのですが、メシアンの「鳥のカタログ」、中でも「イソヒヨドリ」がプログラム中最難関で。(これが唯一7月までに演奏可能ではない曲ですね)
それでちゃんと演奏できるようになるのかなー暗譜できるようになるのかなーとここ数ヶ月悩んできたわけですが、今日やっと「そろそろイソヒヨドリも暗譜始めなきゃなー・・・」と思ってちょっと(楽譜は開いたままなるべく見ない、という形で)暗譜のお試しをしてみました。
そしたら・・・結構できました!(笑)
これまで意識的に暗譜しよう、と思って練習したことがないのになんとなーくできる、というかほとんど止まらずに通して弾けるくらい。もちろん詳細は覚えてなくてごまかした部分も結構ありますが、ごまかしがきくくらいには起点となるポイントが多く確保できているみたい。
これまでメシアンの曲を普通に練習してる(=暗譜を意識せず)中でだんだんと指と頭が音楽を覚えてくる、ということはありましたが先に書いたように今回はとにかく自信がなかったので本当にびっくりしました。
イソヒヨドリは自分が弾いてきた鳥カタの中では一番長く、結構音も多くて多くの部分に分かれているし、ハーモニーなんかももちろん伝統的なものとはかけはなれている。
でも自分でも知らないうちにどうやってか覚えていて、なんだか不思議だったり驚きだったり安心だったりでちょっと笑ってしまいました。
もちろんこれからやるべきことはたくさんありますし、暗譜に関して気は抜けないですけどね。
大学時代からメシアンを弾くたびに「難しいんでしょ?暗譜どうやってやってるの?」と言われます。
確かに弾くのも暗譜するのも簡単だとは全く言えませんが、だからって所謂伝統的なピアノのレパートリーと比べてものすごく難しいわけでもないと思います。
ちょっとコツがいることはいるんですよね。メシアンの音楽言語をある程度知ってると(特に20のまなざしは)その言語の中での動き方はわかってきますし。
以前も書きましたが手の形の記憶は割と大きいです。あと常にメインとなるメロディー・・・じゃないけど一つ主になるラインを耳で追っていって、それを頭の中に刻み込み、それを基準点として手の形を合わせていくと割と覚えられるものです。
あと前回このことを話したときはハーモニーの「色」を覚えることで暗譜練習のときに音の正誤をチェックしたり、と書いた覚えも。
とにかく(メシアンの音楽言語についてちょっとは学ぶことは必須として)自分なりに記憶のコツを見つけることなんです、きっと。そしてそうすると絶対といっていいくらい複数の記憶法を組み合わせることになると思うんです。
でも結局複数の記憶法を組み合わせるのも、個人個人で合った暗譜のコツを探すのも結局メシアンや他の20世紀以降の音楽に限ったことじゃなくて、それ以前の時代の曲でもそうだと思うんです。
ただそれをより強く、合理的・論理的に意識して、ちょっと工夫を加えたりするのが必要かな。そうやってやってるとだんだん弾くのが楽になって、その積み重ねが今日みたいな嬉しい驚きにつながったり。
で、その暗譜の工夫やスキルはメシアンの音楽のみならずいろんな時代のいろんな音楽に応用できると思います。
なのでメシアン(そしてその他いわゆる現代音楽)を難しい、特に暗譜が難しいという理由で敬遠しないでほしいなあ、と思っています。
もちろん理由がそれだけでないのはよーくわかっていますが(笑)
ちょっとあれな言い方かもしれませんが要するに「慣れ」です。慣れってほんと大きいですよ。なめちゃいけません。
それにわからないまま暗中模索しててふと頭と心のギアがかちっと合ったときの気持ちよさとか、わからないのがだんだん馴染んできて自分の一部になってくる感覚、それを自分のものに少しでもできたと感じるときの感覚とか。それが今日だったんですが(今日以外にも何度となく経験してます)。
そういった快感が(とっつきにくい、努力が報われない、理解できないなどと思われがちですが)現代音楽でもちゃんと感じられるんです。
ということでメシアン難しくないです、といったら嘘になりますが「そんなには」難しくないです。
怖がらないで聴いて&弾いてくださいな~
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「峡谷から星達へ・・・」 第6楽章「恒星の呼び声」
やっと今日聴きました!聴いて良かった!素晴らしい音楽に出会えてよかった!
(大学在学中も一回だけ聴いたことあるんですが大学の図書館から持ち出し禁止なのでその1回だけだったんです)
前回、というか結構前になりますがメシアンの大規模曲を紹介したのは「彼方の閃光」でしたね。あの作品はメシアンがオーストラリアに来た時聞いた鳥の声を使ったりしてますが、この「峡谷から星達へ」はメシアンがその前にアメリカに行ったときの風景や鳥の声をがっつり使っています。
(ちなみにCDジャケットにはアメリカで撮ったメシアンの写真が載ってます。カラー写真です!)
アメリカの田舎とか大自然の風景ってオーストラリアのそれと似たようなところがあって、クラムの音楽やこの曲でもその似たところというか、ちょっと親しみを覚えるような感じがあるんですよね。
そしてそういった景色を映像で見て「あー違うなー」というところは音楽でも違うと感じるのも面白い。
その違いを具体的に感じるのがアメリカは壮大な地球の大地と果てない宇宙がものすごく近く感じる、というところですかね。(ハワイも含め)そういう感覚がオーストラリアで無いわけじゃないんですけど、度合いが違うというか。
その宇宙の近さもこの「峡谷から星達へ・・・」で強く感じられます。実際星たちを題材にした楽章も複数あります。
そんななかのこの「恒星の呼び声」はオケ曲の一部ながらホルンがたった一人で吹く珍しい楽章です。
(なのでレパートリーが元々小さいホルンではこの曲もソロレパートリーとしてコンクールの課題などに使ったりしています)
果てしなく広がる宇宙をオケやピアノで表すのはよく見られますがホルン、というのはまた意外な気もします。
ただ星と星の間に本当の意味で何もない、その孤独さというか「虚」の感じを表現するにはある意味ホルンは向いてるのかな、と。
ホルンって独特の響きや余韻があって、それが長すぎず短すぎず強すぎず、他の楽器ではまねできない呼び声になるのかなーと。
で、改めて聞いてみるとこのホルンのソロ、思ったよりも技巧がすごい!ホルンにしたら超絶技巧の類になるんですかね。
それもホルンの技巧を披露するための曲でないし(星の呼び声=星の言語を表現するのが第一目的)、書いたメシアンがホルン吹きでもないのもあって「普通のホルン曲」よりも難しくなってるのではと推測。スコアみてみないと諸々分かりませんけど。(図書館にスコアあるかな)
先ほど書きましたがこの楽章は「響き」が命だと思います。音のアタックから音が消えるまで、そして音と音の間の静寂も。なのでやっぱりこの曲は是非!生で聞かないと100%味わえないと思います。
ホルンの音と、それがホールに反射して響き、消えていくの、それから場の緊張の空気まであって初めて宇宙になるかな。
(でも考えてみるとただでさえ難しい、音が外れるホルンがこんなにプレッシャーmaxなシチュエーションでこんな難しい曲を聴衆・オケの前でたった一人で吹くって大変も大変ですね)
でもこの楽章はちょっと初めてだと聴きにくい。そもそもこの時代のメシアンのオケ曲ってそんなに聞きやすいといえるものは多くない。
ただ「峡谷から星達へ」だと第8楽章の「甦りしものとアルデバランの歌」が美しいと思います。まだ聞き始めたばっかりですが星の描写が綺麗でおすすめ。
そしてリンクしたのが購入した録音です。ジャケットも素敵だし前述メシアンのカラー写真も。(笑)
前回のエントリーに拍手ありがとうですー。
以前クラウドファンディング企画にちょっと参加したADOMというゲームですが、あれからプレリリースを重ねバグフィックスや新機能などが追加され、とうとう昨日グラフィックス&BGMを導入したバージョンがリリースされました。
ちょっとだけプレイしてみたのですがなんかそのRPG感が半端ないですね!(笑)これまでもがっつりRPGではあったのですが、なんかこう「らしい」絵と音楽がつくとさらに。
まだまだグラフィックスも楽しみたいのですが、記号表示のときよりも一画面に表示される部分が少ないのでそれがちょっと不便なところもあり。反面HPゲージの表示は本当にありがたい。
これからも遊び込んで行きたいです。まだ開発者さんたちも色々作業を続けてますし、わくわくはまだ終わりじゃないですので。
さて、本題に。
今年はワーグナーの生誕200年で年末にOpera Australiaによる指輪サイクル完全公演だったり世界中で色々盛り上がっています。
が、今年はクラシック音楽に対してもうひとつ大事なイベントのメモリアルイヤーでもあります。
それがストラヴィンスキーの春の祭典初演から100周年!
1913年の5月29日、パリでこのバレエが初めて公演された夜、その踊りと曲の斬新さに観客がヤジを飛ばし、評価する者と批判する者が言い合い暴動に発展した・・・という前代未聞の出来事だったのですが。
春の祭典は単純に暴動が起きたからすごい、というだけの作品ではありません。
ストラヴィンスキーの作品の筆頭にあげられる名曲で、作曲法とか楽器の使い方とかも本当に緻密にできていて、独特の雰囲気とエネルギー、これまでになかったサウンドとBarbaricなキャラクターなど色んな意味で圧倒的な作品です。(そして音楽はもちろん振り付け・衣装なども斬新かつ素晴らしいものです)
分析すればするほどストラヴィンスキーのすごさがわかりますが、普通に聴いただけでもものすごいインパクトのある音楽で、弾くにも個々のパート・オケ全体としてのアンサンブル・指揮者のパートそれぞれの要素が難しく、同時に楽しくて弾きごたえがあるのです。
1913年の初演では暴動が起きましたが、100年経った今は「春の祭典」といえばすっかりオケにとっては定番レパートリーの一つ(バレエだともちょっと公演機会は少ないかな)。聴衆にとっても人気のある曲です。
メルボルンだと1~2年に一回は演奏されてるかな。私も1回弾いたことがあります。
先ほど書いたように難易度は高く、さらにオケの編成で木管楽器・金管楽器が多くて普段使わない楽器なんかも出てきたりするのですがそこらをクリアすればユースオケなんかでも(レベルが高いとこは)弾いたりします。
そんなこんなで春の祭典はなじみのある曲ではあるのですが、100年経っても未だにこの曲は最初に出会った人に驚きをもたらしています。
私は物心ついたころはもうこの曲を普通に知ってたのですが、母や大学の友達などの話を聞くとこの曲を初めて聴いて「本当にこれは音楽なのか」くらい驚いたそうで。
しっかり定番として根付いているけど100年経ってもそんな新鮮さがある。(しかも驚かせるだけでなく聴き続けるごとに、弾くごとにさらなる魅力が発見できる深さがあるので長く愛される)
今もこの曲は一般に人が抱いている「音楽」「クラシック音楽」のイメージをぶち壊すようなものなのです。
そんな春の祭典の初演は音楽史で一つのターニングポイントであり、ここから20世紀が始まるみたいな印象が私にはあります。
その少し前からワーグナー周りで諸々あってロマン派の時代は終わりつつある状態で、音楽はどこに行くんだろうみたいなところはあったのが、春の祭典により一つ新しい扉が開いたようなところがあり(もちろんその前後に開いた扉は色々ありますが)。
その扉が開いてちょうど100年。あの時のような暴動が起こったりすることは(おそらく)なかったですが、だからといってクラシック音楽に春の祭典のような名曲が生まれなくなったわけでも、変化していく勢いがなくなったわけでもありません。
まず音楽のスタイルが多様化して、色んなところから色んな音楽が入ってくるようになって、音楽の拠点も散らばり、人が分散したり、多様性を受け入れやすくなったのもそういうことが起こらなくなった一因です。
クラシック音楽、というのがたくさんの流れの中の一つになり、新しい音楽が作曲され演奏されるのがローカル規模になったというか。
なんだか20世紀になってクラシック音楽が衰退した、いわゆる「オワコン」になったという風に思われているような風潮はありますが、私は必ずしもそうでないと思います。
ストラヴィンスキー以降でも素晴らしい作曲家が斬新な作品をたくさん残していますし、ちょっとモダニズムあたりの時期で迷走もしましたが21世紀もまだまだ素晴らしい作曲家が活躍しています(クラム、アデス、ディーンなど)。
そして彼らが新しく創った作品には本当に驚くことがたくさん。毎回20世紀から21世紀にかけて作曲した新しい曲に出会うたびにクラシック音楽は100年もの間、そして今も静かに進化し続けているな、と思うのです。
(そしてそんな20世紀と21世紀の音楽を生かすのもこの時代の音楽家の仕事だと思います。)
ストラヴィンスキーの「春の祭典」は自分がずっと聴いてきているという意味でも、自分が主に弾いている20世紀の音楽の源であるという意味でもとっても大事な曲です。
あれからもう100年、同時にまだ100年。曲について、時代について色々考えさせられますが明日はとりあえず「春の祭典」を改めて聴きたいと思います。
みなさんも是非。
今日の一曲: ストラヴィンスキー 「春の祭典」より「敵の部族の遊戯」・「長老の行進」・「長老の大地への口づけ」
ストラヴィンスキーのバレエ、「春の祭典」はロシアの未開地の部族による春の(生け贄を伴う)祭りを表現した作品。
春の祭典は第1部・第2部に分かれていますがこれは第1部の後半。
曲を通じてテンポ・拍子がめまぐるしく変わる曲ですが、この「敵の部族の遊戯」はメロディー(的な音型)にその拍子の変わるのが聞き取りやすいかな。
先ほどオケ編成がでかいと書きましたがWikipediaによるとこんな感じ。だいたい目安は木管楽器の数で、各楽器が5人ずついる春の祭典は「5管編成」。しかもバスクラとかコントラファゴットとかが2本要る。ホルンはワーグナーチューバも含めて8人、ティンパニも2人体制。管に見合うように弦楽器も大人数です。
奏者が多い、ということはでっかい音が出せるというだけでなく、音量を確保しながらより多くのパートに分けて複雑な音楽にできるということ。この部分のスコアを見ると木管それぞれの楽器が3つのパートに分かれてたり、8人のホルンが大きく分けて2つのセクションに分かれてたり。
その複雑さがピークに達するのが「長老の行進」。だいたい4拍子に落ち着いたあたりです。
最初の方は割と優しく、というか一段一段違うパートを重ねていくので耳で追うのがなんとかできるのですが、クライマックスは本当にカオス(ただし完全にコントロールされた)。
スコアでいうと70番なのですが、ほぼ全ての楽器が違うことをしています。大まかな内訳は一小節に音を12個・6個・4個・8個弾くパートがそれぞれあって(ポリリズムですね)、それに繰り返されるメロディーっぽいパート複数と伴奏パート複数をさらに重ねる。
BBCの「春の祭典とポリリズム」に関しての動画を見つけたのですがここの1分10秒くらいからサンプルが聴けます。
一度この部分を打楽器だけが弾いているのを聴いたことあるのですが圧巻でした。(以前ブログに書いてると思います)あれは実際のコンサートでは聴けない貴重な体験ですね。
最後に大地への口づけも短くてものすごく音が小さく聴きとりづらいのですがストラヴィンスキーの天才が見られる箇所。弦のハーモニクスであんな言葉にできない和音を作れるなんて、あの人の頭のなかにはどんな「音」が住んでたんだ!本当にぶっとんだ頭脳と感性を持った人です。
よくは知らないのですがベルリン・フィル、ラトル指揮の録音を見つけたのでリンク。今年は新しい録音もいくつか出てるようなので色んな方向に要注目ですね。
以前クラウドファンディング企画にちょっと参加したADOMというゲームですが、あれからプレリリースを重ねバグフィックスや新機能などが追加され、とうとう昨日グラフィックス&BGMを導入したバージョンがリリースされました。
ちょっとだけプレイしてみたのですがなんかそのRPG感が半端ないですね!(笑)これまでもがっつりRPGではあったのですが、なんかこう「らしい」絵と音楽がつくとさらに。
まだまだグラフィックスも楽しみたいのですが、記号表示のときよりも一画面に表示される部分が少ないのでそれがちょっと不便なところもあり。反面HPゲージの表示は本当にありがたい。
これからも遊び込んで行きたいです。まだ開発者さんたちも色々作業を続けてますし、わくわくはまだ終わりじゃないですので。
さて、本題に。
今年はワーグナーの生誕200年で年末にOpera Australiaによる指輪サイクル完全公演だったり世界中で色々盛り上がっています。
が、今年はクラシック音楽に対してもうひとつ大事なイベントのメモリアルイヤーでもあります。
それがストラヴィンスキーの春の祭典初演から100周年!
1913年の5月29日、パリでこのバレエが初めて公演された夜、その踊りと曲の斬新さに観客がヤジを飛ばし、評価する者と批判する者が言い合い暴動に発展した・・・という前代未聞の出来事だったのですが。
春の祭典は単純に暴動が起きたからすごい、というだけの作品ではありません。
ストラヴィンスキーの作品の筆頭にあげられる名曲で、作曲法とか楽器の使い方とかも本当に緻密にできていて、独特の雰囲気とエネルギー、これまでになかったサウンドとBarbaricなキャラクターなど色んな意味で圧倒的な作品です。(そして音楽はもちろん振り付け・衣装なども斬新かつ素晴らしいものです)
分析すればするほどストラヴィンスキーのすごさがわかりますが、普通に聴いただけでもものすごいインパクトのある音楽で、弾くにも個々のパート・オケ全体としてのアンサンブル・指揮者のパートそれぞれの要素が難しく、同時に楽しくて弾きごたえがあるのです。
1913年の初演では暴動が起きましたが、100年経った今は「春の祭典」といえばすっかりオケにとっては定番レパートリーの一つ(バレエだともちょっと公演機会は少ないかな)。聴衆にとっても人気のある曲です。
メルボルンだと1~2年に一回は演奏されてるかな。私も1回弾いたことがあります。
先ほど書いたように難易度は高く、さらにオケの編成で木管楽器・金管楽器が多くて普段使わない楽器なんかも出てきたりするのですがそこらをクリアすればユースオケなんかでも(レベルが高いとこは)弾いたりします。
そんなこんなで春の祭典はなじみのある曲ではあるのですが、100年経っても未だにこの曲は最初に出会った人に驚きをもたらしています。
私は物心ついたころはもうこの曲を普通に知ってたのですが、母や大学の友達などの話を聞くとこの曲を初めて聴いて「本当にこれは音楽なのか」くらい驚いたそうで。
しっかり定番として根付いているけど100年経ってもそんな新鮮さがある。(しかも驚かせるだけでなく聴き続けるごとに、弾くごとにさらなる魅力が発見できる深さがあるので長く愛される)
今もこの曲は一般に人が抱いている「音楽」「クラシック音楽」のイメージをぶち壊すようなものなのです。
そんな春の祭典の初演は音楽史で一つのターニングポイントであり、ここから20世紀が始まるみたいな印象が私にはあります。
その少し前からワーグナー周りで諸々あってロマン派の時代は終わりつつある状態で、音楽はどこに行くんだろうみたいなところはあったのが、春の祭典により一つ新しい扉が開いたようなところがあり(もちろんその前後に開いた扉は色々ありますが)。
その扉が開いてちょうど100年。あの時のような暴動が起こったりすることは(おそらく)なかったですが、だからといってクラシック音楽に春の祭典のような名曲が生まれなくなったわけでも、変化していく勢いがなくなったわけでもありません。
まず音楽のスタイルが多様化して、色んなところから色んな音楽が入ってくるようになって、音楽の拠点も散らばり、人が分散したり、多様性を受け入れやすくなったのもそういうことが起こらなくなった一因です。
クラシック音楽、というのがたくさんの流れの中の一つになり、新しい音楽が作曲され演奏されるのがローカル規模になったというか。
なんだか20世紀になってクラシック音楽が衰退した、いわゆる「オワコン」になったという風に思われているような風潮はありますが、私は必ずしもそうでないと思います。
ストラヴィンスキー以降でも素晴らしい作曲家が斬新な作品をたくさん残していますし、ちょっとモダニズムあたりの時期で迷走もしましたが21世紀もまだまだ素晴らしい作曲家が活躍しています(クラム、アデス、ディーンなど)。
そして彼らが新しく創った作品には本当に驚くことがたくさん。毎回20世紀から21世紀にかけて作曲した新しい曲に出会うたびにクラシック音楽は100年もの間、そして今も静かに進化し続けているな、と思うのです。
(そしてそんな20世紀と21世紀の音楽を生かすのもこの時代の音楽家の仕事だと思います。)
ストラヴィンスキーの「春の祭典」は自分がずっと聴いてきているという意味でも、自分が主に弾いている20世紀の音楽の源であるという意味でもとっても大事な曲です。
あれからもう100年、同時にまだ100年。曲について、時代について色々考えさせられますが明日はとりあえず「春の祭典」を改めて聴きたいと思います。
みなさんも是非。
今日の一曲: ストラヴィンスキー 「春の祭典」より「敵の部族の遊戯」・「長老の行進」・「長老の大地への口づけ」
ストラヴィンスキーのバレエ、「春の祭典」はロシアの未開地の部族による春の(生け贄を伴う)祭りを表現した作品。
春の祭典は第1部・第2部に分かれていますがこれは第1部の後半。
曲を通じてテンポ・拍子がめまぐるしく変わる曲ですが、この「敵の部族の遊戯」はメロディー(的な音型)にその拍子の変わるのが聞き取りやすいかな。
先ほどオケ編成がでかいと書きましたがWikipediaによるとこんな感じ。だいたい目安は木管楽器の数で、各楽器が5人ずついる春の祭典は「5管編成」。しかもバスクラとかコントラファゴットとかが2本要る。ホルンはワーグナーチューバも含めて8人、ティンパニも2人体制。管に見合うように弦楽器も大人数です。
奏者が多い、ということはでっかい音が出せるというだけでなく、音量を確保しながらより多くのパートに分けて複雑な音楽にできるということ。この部分のスコアを見ると木管それぞれの楽器が3つのパートに分かれてたり、8人のホルンが大きく分けて2つのセクションに分かれてたり。
その複雑さがピークに達するのが「長老の行進」。だいたい4拍子に落ち着いたあたりです。
最初の方は割と優しく、というか一段一段違うパートを重ねていくので耳で追うのがなんとかできるのですが、クライマックスは本当にカオス(ただし完全にコントロールされた)。
スコアでいうと70番なのですが、ほぼ全ての楽器が違うことをしています。大まかな内訳は一小節に音を12個・6個・4個・8個弾くパートがそれぞれあって(ポリリズムですね)、それに繰り返されるメロディーっぽいパート複数と伴奏パート複数をさらに重ねる。
BBCの「春の祭典とポリリズム」に関しての動画を見つけたのですがここの1分10秒くらいからサンプルが聴けます。
一度この部分を打楽器だけが弾いているのを聴いたことあるのですが圧巻でした。(以前ブログに書いてると思います)あれは実際のコンサートでは聴けない貴重な体験ですね。
最後に大地への口づけも短くてものすごく音が小さく聴きとりづらいのですがストラヴィンスキーの天才が見られる箇所。弦のハーモニクスであんな言葉にできない和音を作れるなんて、あの人の頭のなかにはどんな「音」が住んでたんだ!本当にぶっとんだ頭脳と感性を持った人です。
よくは知らないのですがベルリン・フィル、ラトル指揮の録音を見つけたのでリンク。今年は新しい録音もいくつか出てるようなので色んな方向に要注目ですね。
前回のエントリーに拍手ありがとうございます♪
ただいまポケモンブラックではクリア後ダンジョンで伝説のドラゴンポケモン・キュレムを捕まえるべく対峙しているところ。
・・・そうかー右の翼がないのかーそれに図鑑のテキストから自身に完全を求めるとことか待機中のアニメーションとかあなたゲーチスに結構似てるのねー(次回作に関して読んだことも含め)
・・・とか考えながらも捕獲必中のマスターボールを投げてぽいっと1ターンで捕まえてしまう予定。そのためにとっておいた大事なアイテムです。
さてさて本題に。
昨日はシティのHer Majesty's TheatreでVictorian Operaによるジョン・アダムズのオペラ「Nixon in China」を観てきました。
詳細はこちら。キャストのリストやプレビュー動画も見られます。指揮者がユースオケでお世話になった指揮者さんで、オケでピアノを弾いてたうちの1人(今作はオケにピアノが2人、キーボードが1人と珍しい編成でした)が同門の先輩で。
先日も書きましたがこれが私にとって初めてのオペラ観劇でした。コンサートと違って演技とか演出とか見る要素がいっぱいあって大変。
この「Nixon in China」は1972年のニクソン訪中を題材にした作品で、歴史的背景もちょろっとだけ知ってはいたのですがもうちょっと勉強してけばよかったですね(苦笑)
でも全体的に見てて楽しかったです。メインキャストからコーラスから、歌や踊りや演技も。
そしてこんなに最近の、戦争とかではない政治的な歴史的出来事(作曲当時はニクソン夫妻は健在だったそうです)をオペラの題材にして、しかもミニマルミュージックという独特のスタイルで、となるとあんまり予想つかなかったのですが、オペラ作品として本当に面白かったです。
主要登場人物はアメリカ側からニクソン・ニクソン夫人・キッシンジャー、中国側から毛沢東・江青夫人・周恩来(と毛沢東の3人の女性秘書)。それぞれがしっかりキャラ付けされていて(ただ周恩来のキャラというかは比較的目立ちにくかったです)、それぞれにソロナンバーがあって。
ソロナンバーで一番印象に残ったのは江青夫人のソロ。(最後にコーラスも合わせて全員が小さい赤い本を掲げるナンバー)演じているのがかなり小さい女性(韓国出身のソプラノ歌手だそうです)だったのにもびっくりしたのですが、なんとこないだ子供を産んだばっかり、というのにもびっくり。それであのキャラの強さに歌のパワフルさ!
ニクソン夫人との対比もよかったです。
そしてこのオペラでおもしろかったけれど難しかったのが、主要人物がそれぞれ自分の思いを違う歌・言葉に乗せて同時に歌うところ。それぞれの思惑や考えなどが交錯する様子がよくわかって、伴奏するオケのミニマルミュージックならではのシンプルさ(ちょっと言葉が違うかな)をうまくベースにして展開する感じはわかるのですが、何せ同時に歌われると何を歌っているかわからなくなる!
(ちなみにオペラ全体英語で歌われます)
特に訪中最後の夜、それぞれが思いを語る第3幕でそれが顕著だったかな。突然ここで内的な展開になるのに、一度言葉が聞こえなくなったらもう取り戻せない(汗)
でも音楽は第3幕が一番好きでした。
宴のシーンだったり、ニクソン夫人が中国の工場や学校を視察したり、江青が革命バレエをニクソン夫妻に見せるシーンだったり、色々なところで(12年生の歴史で習ったような)この時代の中国の独特で異様な雰囲気とか、当事者はいたってまじめにやってるのに(それに面白いことじゃないところなのですが)なんか笑ってしまうおかしさが再現されてて。
どうも調べてみるとNixon in Chinaは風刺、というか当事者をけなしたりユーモラスに描くために作曲された作品じゃないみたいで。(キッシンジャーは例外、ということでいいのだろうか)
でもちょっとしたジョークもちょこちょこ入ってましたし(分からなかったのもいくつか)、上記笑えてしまうところとかあって、やっぱりそういう意味でも「面白い」オペラでしたね。
(しかも背景一面毛沢東の顔になったときほくろが目にはいってオースティン・パワーズのあのくだりを思い出してしまって・・・学校時代にさんざんそれでいじったんですよー・・・)
あ、あと毛沢東が踊ってました、ちょっとだけ!(この時点では身体が不自由で、演技もそれをちゃんと反映していましたが、それでも踊ってましたよ)
毛沢東は実際そうだったのかな、ほとんど公式の場に出てませんでしたね。主に周恩来がもてなしていた印象。
そんなこんなで楽しく観ましたが先ほど書いたように聞き取れなかった部分が多々あったのでリブレット(台本的なもの)やスコアをじっくり読まなきゃならないですし、それから歴史的なフォローアップがものすごく必要。
12年生の歴史科目「革命」では辛亥革命のカリキュラム(小論文に書く時代範囲)はアヘン戦争から文化大革命、なのですが色々contextにあてはめて理解するために前後のことも授業でちょろちょろ話します。一応ニクソンが訪中したこととか、その後の四人組の顛末や天安門事件くらいまでは話に出たかな。なので今回このオペラをきっかけにまた思いだし勉強に意欲が湧いたのは嬉しいです。
昨日調べものしたり、中国史に詳しい友人と話して、それからこれから父とも話す予定。
そういうことも含めて観に行って良かったですし、楽しみはまだ続いています。またオペラでなくても音楽から色々広げる楽しさを味わう機会に会えるといいな。そのためには外に出ようぜ自分よ。
今日の一曲はまたもやお休み。
ただいまポケモンブラックではクリア後ダンジョンで伝説のドラゴンポケモン・キュレムを捕まえるべく対峙しているところ。
・・・そうかー右の翼がないのかーそれに図鑑のテキストから自身に完全を求めるとことか待機中のアニメーションとかあなたゲーチスに結構似てるのねー(次回作に関して読んだことも含め)
・・・とか考えながらも捕獲必中のマスターボールを投げてぽいっと1ターンで捕まえてしまう予定。そのためにとっておいた大事なアイテムです。
さてさて本題に。
昨日はシティのHer Majesty's TheatreでVictorian Operaによるジョン・アダムズのオペラ「Nixon in China」を観てきました。
詳細はこちら。キャストのリストやプレビュー動画も見られます。指揮者がユースオケでお世話になった指揮者さんで、オケでピアノを弾いてたうちの1人(今作はオケにピアノが2人、キーボードが1人と珍しい編成でした)が同門の先輩で。
先日も書きましたがこれが私にとって初めてのオペラ観劇でした。コンサートと違って演技とか演出とか見る要素がいっぱいあって大変。
この「Nixon in China」は1972年のニクソン訪中を題材にした作品で、歴史的背景もちょろっとだけ知ってはいたのですがもうちょっと勉強してけばよかったですね(苦笑)
でも全体的に見てて楽しかったです。メインキャストからコーラスから、歌や踊りや演技も。
そしてこんなに最近の、戦争とかではない政治的な歴史的出来事(作曲当時はニクソン夫妻は健在だったそうです)をオペラの題材にして、しかもミニマルミュージックという独特のスタイルで、となるとあんまり予想つかなかったのですが、オペラ作品として本当に面白かったです。
主要登場人物はアメリカ側からニクソン・ニクソン夫人・キッシンジャー、中国側から毛沢東・江青夫人・周恩来(と毛沢東の3人の女性秘書)。それぞれがしっかりキャラ付けされていて(ただ周恩来のキャラというかは比較的目立ちにくかったです)、それぞれにソロナンバーがあって。
ソロナンバーで一番印象に残ったのは江青夫人のソロ。(最後にコーラスも合わせて全員が小さい赤い本を掲げるナンバー)演じているのがかなり小さい女性(韓国出身のソプラノ歌手だそうです)だったのにもびっくりしたのですが、なんとこないだ子供を産んだばっかり、というのにもびっくり。それであのキャラの強さに歌のパワフルさ!
ニクソン夫人との対比もよかったです。
そしてこのオペラでおもしろかったけれど難しかったのが、主要人物がそれぞれ自分の思いを違う歌・言葉に乗せて同時に歌うところ。それぞれの思惑や考えなどが交錯する様子がよくわかって、伴奏するオケのミニマルミュージックならではのシンプルさ(ちょっと言葉が違うかな)をうまくベースにして展開する感じはわかるのですが、何せ同時に歌われると何を歌っているかわからなくなる!
(ちなみにオペラ全体英語で歌われます)
特に訪中最後の夜、それぞれが思いを語る第3幕でそれが顕著だったかな。突然ここで内的な展開になるのに、一度言葉が聞こえなくなったらもう取り戻せない(汗)
でも音楽は第3幕が一番好きでした。
宴のシーンだったり、ニクソン夫人が中国の工場や学校を視察したり、江青が革命バレエをニクソン夫妻に見せるシーンだったり、色々なところで(12年生の歴史で習ったような)この時代の中国の独特で異様な雰囲気とか、当事者はいたってまじめにやってるのに(それに面白いことじゃないところなのですが)なんか笑ってしまうおかしさが再現されてて。
どうも調べてみるとNixon in Chinaは風刺、というか当事者をけなしたりユーモラスに描くために作曲された作品じゃないみたいで。(キッシンジャーは例外、ということでいいのだろうか)
でもちょっとしたジョークもちょこちょこ入ってましたし(分からなかったのもいくつか)、上記笑えてしまうところとかあって、やっぱりそういう意味でも「面白い」オペラでしたね。
(しかも背景一面毛沢東の顔になったときほくろが目にはいってオースティン・パワーズのあのくだりを思い出してしまって・・・学校時代にさんざんそれでいじったんですよー・・・)
あ、あと毛沢東が踊ってました、ちょっとだけ!(この時点では身体が不自由で、演技もそれをちゃんと反映していましたが、それでも踊ってましたよ)
毛沢東は実際そうだったのかな、ほとんど公式の場に出てませんでしたね。主に周恩来がもてなしていた印象。
そんなこんなで楽しく観ましたが先ほど書いたように聞き取れなかった部分が多々あったのでリブレット(台本的なもの)やスコアをじっくり読まなきゃならないですし、それから歴史的なフォローアップがものすごく必要。
12年生の歴史科目「革命」では辛亥革命のカリキュラム(小論文に書く時代範囲)はアヘン戦争から文化大革命、なのですが色々contextにあてはめて理解するために前後のことも授業でちょろちょろ話します。一応ニクソンが訪中したこととか、その後の四人組の顛末や天安門事件くらいまでは話に出たかな。なので今回このオペラをきっかけにまた思いだし勉強に意欲が湧いたのは嬉しいです。
昨日調べものしたり、中国史に詳しい友人と話して、それからこれから父とも話す予定。
そういうことも含めて観に行って良かったですし、楽しみはまだ続いています。またオペラでなくても音楽から色々広げる楽しさを味わう機会に会えるといいな。そのためには外に出ようぜ自分よ。
今日の一曲はまたもやお休み。