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前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
今日は心身ともにかなり調子が悪いですが一昨日と昨日のコンサートの感想はしっかり書いていきたいと思います。とりあえずまず一昨日のメル響から。
メル響は毎年この季節にMetropolis Festivalといって新しい音楽、それも21世紀の、オーストラリアやメルボルン、たまに世界で初演となるような音楽を演奏したり、今生きて活躍している作曲家をフィーチャーしたりするミニシリーズをやっています。
今年はメル響だけでなくMelbourne Recital Centreと合同で企画してイギリスの作曲家トーマス・アデスを中心に、クラシックとはまた別のジャンルも交えてたくさんのコンサートを展開していたようです。
その中でのこの「Tempest」。プログラムは以下の通りです。
指揮者:トーマス・アデス
ソリスト:Hila Plitmann(ソプラノ)、Penelope Mills(メゾ・ソプラノ)、Toby Spence(テノール)
チャイコフスキー 「The Tempest」
アデス オペラ「The Tempest」一部抜粋
(休憩)
ブリテン 「我らの狩りをする先祖達」
アデス 「Tevot」
・・・ということでシェークスピアの戯曲「The Tempest(テンペスト)」を中心にアデスの音楽、そしてイギリス音楽の先人であるブリテンの音楽を組み合わせたプログラムでした。
テンペストはちょろっと読んだことがあるだけなのですが(学校でやらなかったので)、wikipediaに相関図とあらすじが載っているので後でゆっくり。(英語版の方が詳しいかも)
チャイコフスキーのThe Tempestはざっくり言うと同じチャイコの幻想序曲であるロミジュリと全く同じテンプレートにのっとった曲ですね(汗)展開が似すぎて困るくらい。
でも海や嵐の描写はそれらしいですし(弦楽器の音の多さがすごい!)、あとホルンが結構活躍してました。ちょこちょこかっこいいパッセージが多くて。
アデスのThe Tempestはあくまでもシェークスピアの戯曲を「ベースにした」オペラだそうです。主なテーマを抜き出したり解釈を加えたり現代の言葉にしたりした、という風にプログラムに書いてありました。
最後のファーディナンド(テノール)とミランダ(メゾ・ソプラノ)が愛の力で自由になるシーンの音楽の美しさったら本当に舞台で完全な形として見たいと強く思ったのですが、なにより妖精アリエル(ソプラノ)が凄かった!
もともとアリエルって作中でも性別の解釈が難しいようですが(文にはheとあっても舞台では女性が演じたり)、そんな性別不詳で人間ではない存在であるアリエルをアデスはソプラノのかなり高音域をふんだんに使った、跳躍の激しいパートで表現。
かなり現代音楽的な感じで、叫び声だといえばそれまでなのですが(実際歌詞が英語なのに聞き取れない)、とにかく凄いんですよ。超絶技巧をただ使うのではなく、人間でない、妖精という存在を表現するのにはものすごく効果的だと思いますし、ものすごく納得がいく表現です。
それに実際歌った人がそれを見事に歌い上げましたよ。もう開いた口がふさがらなかったです!なんであんな声が、あんな跳躍ができるんだ!
(ちなみに上記ソプラノの方がこのパートを練習しているところを旦那さんが撮影してアップした動画が見られます。歌のパートだけだとちょっと曲の初印象としては微妙なので必ずしもおすすめしないですが、パートの凄さと彼女の凄さを味わうにはこちら。)
その狂気もすごかったですがブリテンの狂気も凄かったです。「我らの狩りをする先祖」はテノールとオケのための歌曲集(でいいのかな)なのですが、ブリテンの初期の作品にもかかわらずすでに色々確立しててびっくり。
彼の他の作品(特にSinfonia da Requiem)や、親交があったというショスタコとの共通点も見られたり(最終楽章がショスタコの交響曲第14番の最終楽章に似てたり。でもこっちが先なんですよね、時系列的には)。
歌詞は同時代のオーデンという詩人の物だったり、オーデンが現代訳したものだったりがあるのですが唯一Thomas Ravencroftの詩を死の舞踏に仕立てた楽章(Dance of Death (Hawking for the Partridge)) が一番心に刺さりました。
ブリテンもオーデンも反戦的なテーマで作品を書いているのですが(ブリテンに関しては「戦争レクイエム」参照)、特にこの曲での「Rats Away!」では反ユダヤ主義に対して声を上げたりもしていて。
こういうメッセージ性の強い音楽が得意だな、と思うのと同時にブリテンがRats Awayを始め音での風景描写が鮮明ですごいな、と。(戦争レクイエムの手榴弾のくだりとかそうですもんねー)
そして最後にアデスのTevot。去年彼のPolarisを聞いた時にPolaris、以前メル響の演奏で聞いたAsyla、そしてこのTevotが同じようなテーマで書かれた、半分連作みたいな感じになっているという話を読んでからこの曲を聞くのを楽しみにしていました。
TevotはPolarisに似ているところも多かったですが、なんといってもマーラーを感じました。(The Tempestはブリテンの声楽曲やリゲティのLe Grand Macabreを感じましたね)
20分くらいの曲なのですが、オーケストラの響きとか、全体としてのまとまり、流れや壮大さが説明するのは難しいながらもマーラーっぽいところがあり。実際プログラムにマーラーがシベリウスに語った言葉が載っていましたが。
でももしかしたらTevotよりはPolarisの方が聞きやすいかも。Polarisの方が海のイメージとか星空のイメージがつかみやすいか・・・Tevotは途中でものすごく魅力的なリズムに引き込まれたのですが。
録音手に入れてもっと聞きたいですね。
あ、もちろんオケも大活躍でしたよ。バルコニー席でしたがコントラファゴットさんもしっかり聞こえましたし。打楽器、特にマリンバがかっこよかった!縦横無尽の活躍でした。
ということで今回全曲初めて聴く曲で、本当に素晴らしい音楽と出会えてものすごく嬉しかったです。
イギリス音楽好き、20世紀以降音楽好きとしてはたまらなかったですし、狂気の音楽としてもどストライクでした。
かなり刺激が強かったですがこれからもっともっと聞いて親しみたいです。
昨日のコンサートについてはまた明日。
今日の一曲: ベンジャミン・ブリテン 「我らの狩りをする先祖」より「Dance of Death (Hawking for Partridge)」
本当はTevotを紹介したかったのですが文にするのならこっちかな。またTevotは今度ゆっくりいつか。
この曲の歌詞であるHawking for PartridgeというのはThomas Ravencroftという17世紀の詩人の作品で、この曲集のタイトルにあるように「狩り」についての詩です。(英語ですが詩はこちらに)
「我らの狩りをする先祖達」はプロローグとエピローグで「我らの先祖」の事が語られ、そしてその間の3つの楽章が全て「動物」に関する詩となっています・・・・が、それらは「動物」のことでなく、他の事を指しています。
例えば「Rats Away!」(詩:オーデン)は20世紀ヨーロッパに起こった反ユダヤ的な諸々を指していたり。
前述の通りこの「Hawking for Partridge」という詩自体は17世紀に書かれた狩りについての詩なのですが、ブリテンはこの詩を曲にするにあたって、そしてこの曲集に含めるにあたってその詩に新しい意味を持たせています。
例えば詩の中に「German」とか「Jew」という言葉が出てくるのを繰り返したり。
曲をタランテラ=死ぬまで踊り狂う舞踏に仕立てて、死神のバイオリン(とビオラ)を出したり。
こうやってブリテンが曲を仕立てた結果「Murdering kites」まで狩りに使う猛禽類のことではなく戦闘機を連想してしまったりするのが本当に不思議。
そしてタランテラも同じ音型をぐるぐる繰り返すところにつながらない単語の羅列が繰り返されたり、そういうところから生まれる狂気がたまらない!
特に冒頭で歌い手が無伴奏でつぶやくように単語の羅列を「Whurret!」をはさみながら繰り返し、一人で盛り上げていくところは圧巻です。作曲家も歌い手もすごい。
リンクした試聴のところがちょうどタランテラがはっきり現れてる部分なのですが、そういえばイギリスのタランテラって初めてかも。イギリス風だと割とイギリス周りのジーグという踊りに似ていますがね。
そこらへんはまた別のエントリーで。
とにかく死の舞踏、狂気の音楽としてピカ一です。ブリテン好きなのに今まで知らなかったのが悔やまれますが、今回のコンサートで素晴らしい演奏に出会ってよかった。
「我らの狩りをする先祖」はソプラノ版とテノール版がありますがブリテンといえばテノールがやっぱりおすすめかな。ソプラノ版も聞いてみたいです。
今日は心身ともにかなり調子が悪いですが一昨日と昨日のコンサートの感想はしっかり書いていきたいと思います。とりあえずまず一昨日のメル響から。
メル響は毎年この季節にMetropolis Festivalといって新しい音楽、それも21世紀の、オーストラリアやメルボルン、たまに世界で初演となるような音楽を演奏したり、今生きて活躍している作曲家をフィーチャーしたりするミニシリーズをやっています。
今年はメル響だけでなくMelbourne Recital Centreと合同で企画してイギリスの作曲家トーマス・アデスを中心に、クラシックとはまた別のジャンルも交えてたくさんのコンサートを展開していたようです。
その中でのこの「Tempest」。プログラムは以下の通りです。
指揮者:トーマス・アデス
ソリスト:Hila Plitmann(ソプラノ)、Penelope Mills(メゾ・ソプラノ)、Toby Spence(テノール)
チャイコフスキー 「The Tempest」
アデス オペラ「The Tempest」一部抜粋
(休憩)
ブリテン 「我らの狩りをする先祖達」
アデス 「Tevot」
・・・ということでシェークスピアの戯曲「The Tempest(テンペスト)」を中心にアデスの音楽、そしてイギリス音楽の先人であるブリテンの音楽を組み合わせたプログラムでした。
テンペストはちょろっと読んだことがあるだけなのですが(学校でやらなかったので)、wikipediaに相関図とあらすじが載っているので後でゆっくり。(英語版の方が詳しいかも)
チャイコフスキーのThe Tempestはざっくり言うと同じチャイコの幻想序曲であるロミジュリと全く同じテンプレートにのっとった曲ですね(汗)展開が似すぎて困るくらい。
でも海や嵐の描写はそれらしいですし(弦楽器の音の多さがすごい!)、あとホルンが結構活躍してました。ちょこちょこかっこいいパッセージが多くて。
アデスのThe Tempestはあくまでもシェークスピアの戯曲を「ベースにした」オペラだそうです。主なテーマを抜き出したり解釈を加えたり現代の言葉にしたりした、という風にプログラムに書いてありました。
最後のファーディナンド(テノール)とミランダ(メゾ・ソプラノ)が愛の力で自由になるシーンの音楽の美しさったら本当に舞台で完全な形として見たいと強く思ったのですが、なにより妖精アリエル(ソプラノ)が凄かった!
もともとアリエルって作中でも性別の解釈が難しいようですが(文にはheとあっても舞台では女性が演じたり)、そんな性別不詳で人間ではない存在であるアリエルをアデスはソプラノのかなり高音域をふんだんに使った、跳躍の激しいパートで表現。
かなり現代音楽的な感じで、叫び声だといえばそれまでなのですが(実際歌詞が英語なのに聞き取れない)、とにかく凄いんですよ。超絶技巧をただ使うのではなく、人間でない、妖精という存在を表現するのにはものすごく効果的だと思いますし、ものすごく納得がいく表現です。
それに実際歌った人がそれを見事に歌い上げましたよ。もう開いた口がふさがらなかったです!なんであんな声が、あんな跳躍ができるんだ!
(ちなみに上記ソプラノの方がこのパートを練習しているところを旦那さんが撮影してアップした動画が見られます。歌のパートだけだとちょっと曲の初印象としては微妙なので必ずしもおすすめしないですが、パートの凄さと彼女の凄さを味わうにはこちら。)
その狂気もすごかったですがブリテンの狂気も凄かったです。「我らの狩りをする先祖」はテノールとオケのための歌曲集(でいいのかな)なのですが、ブリテンの初期の作品にもかかわらずすでに色々確立しててびっくり。
彼の他の作品(特にSinfonia da Requiem)や、親交があったというショスタコとの共通点も見られたり(最終楽章がショスタコの交響曲第14番の最終楽章に似てたり。でもこっちが先なんですよね、時系列的には)。
歌詞は同時代のオーデンという詩人の物だったり、オーデンが現代訳したものだったりがあるのですが唯一Thomas Ravencroftの詩を死の舞踏に仕立てた楽章(Dance of Death (Hawking for the Partridge)) が一番心に刺さりました。
ブリテンもオーデンも反戦的なテーマで作品を書いているのですが(ブリテンに関しては「戦争レクイエム」参照)、特にこの曲での「Rats Away!」では反ユダヤ主義に対して声を上げたりもしていて。
こういうメッセージ性の強い音楽が得意だな、と思うのと同時にブリテンがRats Awayを始め音での風景描写が鮮明ですごいな、と。(戦争レクイエムの手榴弾のくだりとかそうですもんねー)
そして最後にアデスのTevot。去年彼のPolarisを聞いた時にPolaris、以前メル響の演奏で聞いたAsyla、そしてこのTevotが同じようなテーマで書かれた、半分連作みたいな感じになっているという話を読んでからこの曲を聞くのを楽しみにしていました。
TevotはPolarisに似ているところも多かったですが、なんといってもマーラーを感じました。(The Tempestはブリテンの声楽曲やリゲティのLe Grand Macabreを感じましたね)
20分くらいの曲なのですが、オーケストラの響きとか、全体としてのまとまり、流れや壮大さが説明するのは難しいながらもマーラーっぽいところがあり。実際プログラムにマーラーがシベリウスに語った言葉が載っていましたが。
でももしかしたらTevotよりはPolarisの方が聞きやすいかも。Polarisの方が海のイメージとか星空のイメージがつかみやすいか・・・Tevotは途中でものすごく魅力的なリズムに引き込まれたのですが。
録音手に入れてもっと聞きたいですね。
あ、もちろんオケも大活躍でしたよ。バルコニー席でしたがコントラファゴットさんもしっかり聞こえましたし。打楽器、特にマリンバがかっこよかった!縦横無尽の活躍でした。
ということで今回全曲初めて聴く曲で、本当に素晴らしい音楽と出会えてものすごく嬉しかったです。
イギリス音楽好き、20世紀以降音楽好きとしてはたまらなかったですし、狂気の音楽としてもどストライクでした。
かなり刺激が強かったですがこれからもっともっと聞いて親しみたいです。
昨日のコンサートについてはまた明日。
今日の一曲: ベンジャミン・ブリテン 「我らの狩りをする先祖」より「Dance of Death (Hawking for Partridge)」
本当はTevotを紹介したかったのですが文にするのならこっちかな。またTevotは今度ゆっくりいつか。
この曲の歌詞であるHawking for PartridgeというのはThomas Ravencroftという17世紀の詩人の作品で、この曲集のタイトルにあるように「狩り」についての詩です。(英語ですが詩はこちらに)
「我らの狩りをする先祖達」はプロローグとエピローグで「我らの先祖」の事が語られ、そしてその間の3つの楽章が全て「動物」に関する詩となっています・・・・が、それらは「動物」のことでなく、他の事を指しています。
例えば「Rats Away!」(詩:オーデン)は20世紀ヨーロッパに起こった反ユダヤ的な諸々を指していたり。
前述の通りこの「Hawking for Partridge」という詩自体は17世紀に書かれた狩りについての詩なのですが、ブリテンはこの詩を曲にするにあたって、そしてこの曲集に含めるにあたってその詩に新しい意味を持たせています。
例えば詩の中に「German」とか「Jew」という言葉が出てくるのを繰り返したり。
曲をタランテラ=死ぬまで踊り狂う舞踏に仕立てて、死神のバイオリン(とビオラ)を出したり。
こうやってブリテンが曲を仕立てた結果「Murdering kites」まで狩りに使う猛禽類のことではなく戦闘機を連想してしまったりするのが本当に不思議。
そしてタランテラも同じ音型をぐるぐる繰り返すところにつながらない単語の羅列が繰り返されたり、そういうところから生まれる狂気がたまらない!
特に冒頭で歌い手が無伴奏でつぶやくように単語の羅列を「Whurret!」をはさみながら繰り返し、一人で盛り上げていくところは圧巻です。作曲家も歌い手もすごい。
リンクした試聴のところがちょうどタランテラがはっきり現れてる部分なのですが、そういえばイギリスのタランテラって初めてかも。イギリス風だと割とイギリス周りのジーグという踊りに似ていますがね。
そこらへんはまた別のエントリーで。
とにかく死の舞踏、狂気の音楽としてピカ一です。ブリテン好きなのに今まで知らなかったのが悔やまれますが、今回のコンサートで素晴らしい演奏に出会ってよかった。
「我らの狩りをする先祖」はソプラノ版とテノール版がありますがブリテンといえばテノールがやっぱりおすすめかな。ソプラノ版も聞いてみたいです。
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前回のエントリーに拍手ありがとうございます。
昨日は行ってきました、Grigoryan Brothersのコンサート。
Melbourne Recital Centreの大きい方のホール、Elisabeth Murdoch Hallでのコンサートでした。
Grigoryan Brothersはクラシックを中心にジャンルを超えて活躍するギターデュオです。その名の通り二人は兄弟で、兄はSlava、そしてちょっと年が離れた弟はLeonard。中央アジア系のオーストラリア人、メルボルン育ちだそうです(両親も音楽家らしいですね)。
Slavaの方はおそらく昔メル響のコンサートで生で演奏聴いてるはずなんですが、二人で弾くのを聴くのはこれが初めて。もちろんiTunes Storeで何曲か去年ダウンロードしてよく聴いていますが、やっぱ生は違いますよ。
なんたってアコースティックギターは生で聴くとものすごく違いますから。
今回のコンサートでメインイベントのGrigoryan Brothersの演奏の前にStrathmore Secondary Collegeというメルボルンの北にある中学校・高校のギターアンサンブル(ウッドベースを含めて16人くらいかな)の演奏がありました。
数年前私がピアノを教えていたころから学校でギターを習う生徒、そして教える楽器にギターを含める学校の数はどんどん伸びていましたが、もはやギターアンサンブルが学校でできる、それもそこそこ力があるアンサンブルがある時代になったんですね。
オケの弦楽器でピチカート(弦を指ではじく)を合わせるのも難しいのでアコースティックギターをアンサンブルとして合わせるのの難しさも少し想像がつきますがなかなかのものでした。
特に上級生で結構上手い子いましたよ。一番上手い子はビブラートのかけ方とか違いますもの。卒業後も続けるのかな。
それから一番上手い子4人でやったチュニジアの作曲家の曲が面白かったです。あの曲はまたどこかで出会えないものか。
そしてメインイベントのGrigoryan Brothers。今回新譜「The Seasons」をひっさげツアーとしてVIC州を中心に様々な町でコンサートをやっている内の一公演でした。
「The Seasons」とはチャイコフスキーのピアノ曲集「四季」のこと。タイトルには四季とありますが実際には1ヶ月=1楽章=1つの詩が引用されています。二人のお父さん(ギタリストではないけど弦楽器奏者)が編曲したそうです。元は15年前にギター1本のために編曲しようとして断念したのを改めてギターデュオのために全12楽章編曲したそう。
「四季」はちなみに中学校~高校の時に私も何曲か弾いてます。妹と合わせると12楽章中10くらいは弾いてるんじゃないかな。
ですが今回の公演では「四季」の一部(第1,2,4,8,10,12楽章)だけでなく以前録音した曲や、ブラジルの作曲家(名前忘れたーなんかブラジル国内でだけ有名、と言ってたけど)の曲なども演奏されました。
コンサートの最初に演奏された「Fantasy on the Theme of William Lawes」と最後(アンコール前)に演奏された「Jongo」は録音持ってて良く知ってる曲でした。特にJongoは聴いて楽しいですし、ギターの胴をたたく部分とかどうやってるんだろうなーと思ってたし生で聴けてうれしかったです。
「四季」はよく知ってる曲とは言えギター2本で聴くのは新鮮でしたね。割とピアノとギターのできることって違うところがちょこちょこあるので気になってましたが編曲もオリジナルに結構忠実で、いい感じでした。
それにしても2月、8月というテンポの速い楽章がすごかったです。超絶技巧というか、個々のパートだけでなくアンサンブルのチームワークも一枚岩でないとできないアクロバット(これは他の曲に関しても言えますね。特にブラジルの作曲家の曲ですごかった)。特に8月がかっこよかった。元々好きな楽章というのを差し引いても。
それから演奏を生で聴いて、見て二人の音の違いとか弾き方の違いがなんとなく分かった気がします(録音聴くだけだと難しいです、そこは)。演奏だけじゃなくて曲間の曲の紹介など短いトークからでも二人の人柄が見えて、それがまた演奏のスタイルの違いにも結びついて。
Slavaはどちらかというと真面目なのかな。音もまっすぐ芯が通ったところがありますし。ユーモアに関してはLeonardのほうが前に出してきたというか。Slavaに「だよね?」と確認とることも多く。Leonardの方が音がのびのびとしていて、ラテン系の曲のセンスもネイティブっぽい。
Slavaは音もテクニックも独特なんですよね。彼の音、特にメロディー(その中でも速いメロディー)を弾く時の音の独特さをどうやって説明したらいいかこの24時間考えてたんですがなかなか上手く表現できない。なんか音の伸びというか、指で弦をはじいたあとまっすぐ続くんですよね。Decayすることなく。アコースティックギター、というよりはエレキに近いような。でもその説明もちょっと違うような。
そんな独特な音を持つ彼が同じく独特なスタイルと音、思考を持つMichael Kieran HarveyとWestlakeの作品で共演してることはだから改めて考えると面白いなーと。天才同士どんな音楽作りをしたんだろうなー。
とにかく2人ギターを弾くそのアンサンブルが強く印象に残りました。もしかしたら楽器かまわず一番すごいチームワークかもしれないなあ、と思うくらい。一枚岩なんですよね、完全に。
それは兄弟でありつまり長く一緒の時間を過ごしてきた、ということもあり、それぞれのギターでの技巧や表現のレベルの高さもあり、それに加えていろんな要素があるんだろうなあ。
そしてコンサート後にCD販売があったので一枚買っちゃいました。
新譜じゃなくて「Distance」の方(すでに何トラックか持ってるやつです)。今はがっつりクラシックのスタイルじゃなくてもうちょっと離れたところにある音楽が聴きたい気分なので。
それにしても先月Kronos Quartet買ってクラム買ってこれ買って・・・日本でも近いうちにCD買おうと思ってるのに大丈夫か。お金もそうだけどiTunes プレイリストの整頓も。
さて、家の中は寒いくらいですが外はしばらく暖かいようなので明日はどっか行くかな。どっか行くところがあるかも分からないのですが・・・
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 「四季」より8月「収穫」(Edward Grigoryanによるギターデュオ版)
Whichway Musicでの試聴リンク
なかなかチャイコフスキーの小さい規模の曲って(大規模曲もある程度そうなのですが)長く深く好きになることが難しいというか。だから「四季」も高校生あたりでちょっと食傷気味だったようなところがあり。
そんな中で最後の方で弾いたのがこの8月。自分で色々聴いて「これはちょっと雰囲気が違うな」と思って好きになった曲です。
未だにこの曲が「収穫」っぽいかどうかは分からないのですが、収穫の忙しさとか大変さとか、中間部のシンプルで素朴なメロディーとか、断片的には分かるかな-・・・
とにかく速い(体感スピードは曲集一かと)。これをピアノで弾くのもちと難しいですがそれをギターで弾くとなるとさらに難しい。特に時々でてくる高速アルペジオとか、ギター2人で聴く(そして見る)とほんとびっくりします。実際オリジナルのピアノ版に聴き劣りしませんからね。
それもこれも2人の演奏のすごさ、そしてチームワークの強さがなせる技。
今回聴いた中で8月以外で良かったのはギターの音で素朴さが際立つ1月、寒々しいけれど歌うギターが聴ける10月あたりですかね。やっぱりアコースティックは良いですよ。
公式サイトには6月の試聴がありますね。これも美しい曲です。
さっきあれだけ言いましたけど、「四季」の12曲はどれも魅力的な曲です。ただ毎日それを練習するとか演奏に向けて練習するとか、濃いおつきあいをせずあくまでもカジュアルに聴く用におすすめです。
Grigoryan Brothersの他のアルバムも上記サイトやMyspace(今見たら4月もあった)で試聴できます。
昨日は行ってきました、Grigoryan Brothersのコンサート。
Melbourne Recital Centreの大きい方のホール、Elisabeth Murdoch Hallでのコンサートでした。
Grigoryan Brothersはクラシックを中心にジャンルを超えて活躍するギターデュオです。その名の通り二人は兄弟で、兄はSlava、そしてちょっと年が離れた弟はLeonard。中央アジア系のオーストラリア人、メルボルン育ちだそうです(両親も音楽家らしいですね)。
Slavaの方はおそらく昔メル響のコンサートで生で演奏聴いてるはずなんですが、二人で弾くのを聴くのはこれが初めて。もちろんiTunes Storeで何曲か去年ダウンロードしてよく聴いていますが、やっぱ生は違いますよ。
なんたってアコースティックギターは生で聴くとものすごく違いますから。
今回のコンサートでメインイベントのGrigoryan Brothersの演奏の前にStrathmore Secondary Collegeというメルボルンの北にある中学校・高校のギターアンサンブル(ウッドベースを含めて16人くらいかな)の演奏がありました。
数年前私がピアノを教えていたころから学校でギターを習う生徒、そして教える楽器にギターを含める学校の数はどんどん伸びていましたが、もはやギターアンサンブルが学校でできる、それもそこそこ力があるアンサンブルがある時代になったんですね。
オケの弦楽器でピチカート(弦を指ではじく)を合わせるのも難しいのでアコースティックギターをアンサンブルとして合わせるのの難しさも少し想像がつきますがなかなかのものでした。
特に上級生で結構上手い子いましたよ。一番上手い子はビブラートのかけ方とか違いますもの。卒業後も続けるのかな。
それから一番上手い子4人でやったチュニジアの作曲家の曲が面白かったです。あの曲はまたどこかで出会えないものか。
そしてメインイベントのGrigoryan Brothers。今回新譜「The Seasons」をひっさげツアーとしてVIC州を中心に様々な町でコンサートをやっている内の一公演でした。
「The Seasons」とはチャイコフスキーのピアノ曲集「四季」のこと。タイトルには四季とありますが実際には1ヶ月=1楽章=1つの詩が引用されています。二人のお父さん(ギタリストではないけど弦楽器奏者)が編曲したそうです。元は15年前にギター1本のために編曲しようとして断念したのを改めてギターデュオのために全12楽章編曲したそう。
「四季」はちなみに中学校~高校の時に私も何曲か弾いてます。妹と合わせると12楽章中10くらいは弾いてるんじゃないかな。
ですが今回の公演では「四季」の一部(第1,2,4,8,10,12楽章)だけでなく以前録音した曲や、ブラジルの作曲家(名前忘れたーなんかブラジル国内でだけ有名、と言ってたけど)の曲なども演奏されました。
コンサートの最初に演奏された「Fantasy on the Theme of William Lawes」と最後(アンコール前)に演奏された「Jongo」は録音持ってて良く知ってる曲でした。特にJongoは聴いて楽しいですし、ギターの胴をたたく部分とかどうやってるんだろうなーと思ってたし生で聴けてうれしかったです。
「四季」はよく知ってる曲とは言えギター2本で聴くのは新鮮でしたね。割とピアノとギターのできることって違うところがちょこちょこあるので気になってましたが編曲もオリジナルに結構忠実で、いい感じでした。
それにしても2月、8月というテンポの速い楽章がすごかったです。超絶技巧というか、個々のパートだけでなくアンサンブルのチームワークも一枚岩でないとできないアクロバット(これは他の曲に関しても言えますね。特にブラジルの作曲家の曲ですごかった)。特に8月がかっこよかった。元々好きな楽章というのを差し引いても。
それから演奏を生で聴いて、見て二人の音の違いとか弾き方の違いがなんとなく分かった気がします(録音聴くだけだと難しいです、そこは)。演奏だけじゃなくて曲間の曲の紹介など短いトークからでも二人の人柄が見えて、それがまた演奏のスタイルの違いにも結びついて。
Slavaはどちらかというと真面目なのかな。音もまっすぐ芯が通ったところがありますし。ユーモアに関してはLeonardのほうが前に出してきたというか。Slavaに「だよね?」と確認とることも多く。Leonardの方が音がのびのびとしていて、ラテン系の曲のセンスもネイティブっぽい。
Slavaは音もテクニックも独特なんですよね。彼の音、特にメロディー(その中でも速いメロディー)を弾く時の音の独特さをどうやって説明したらいいかこの24時間考えてたんですがなかなか上手く表現できない。なんか音の伸びというか、指で弦をはじいたあとまっすぐ続くんですよね。Decayすることなく。アコースティックギター、というよりはエレキに近いような。でもその説明もちょっと違うような。
そんな独特な音を持つ彼が同じく独特なスタイルと音、思考を持つMichael Kieran HarveyとWestlakeの作品で共演してることはだから改めて考えると面白いなーと。天才同士どんな音楽作りをしたんだろうなー。
とにかく2人ギターを弾くそのアンサンブルが強く印象に残りました。もしかしたら楽器かまわず一番すごいチームワークかもしれないなあ、と思うくらい。一枚岩なんですよね、完全に。
それは兄弟でありつまり長く一緒の時間を過ごしてきた、ということもあり、それぞれのギターでの技巧や表現のレベルの高さもあり、それに加えていろんな要素があるんだろうなあ。
そしてコンサート後にCD販売があったので一枚買っちゃいました。
新譜じゃなくて「Distance」の方(すでに何トラックか持ってるやつです)。今はがっつりクラシックのスタイルじゃなくてもうちょっと離れたところにある音楽が聴きたい気分なので。
それにしても先月Kronos Quartet買ってクラム買ってこれ買って・・・日本でも近いうちにCD買おうと思ってるのに大丈夫か。お金もそうだけどiTunes プレイリストの整頓も。
さて、家の中は寒いくらいですが外はしばらく暖かいようなので明日はどっか行くかな。どっか行くところがあるかも分からないのですが・・・
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 「四季」より8月「収穫」(Edward Grigoryanによるギターデュオ版)
Whichway Musicでの試聴リンク
なかなかチャイコフスキーの小さい規模の曲って(大規模曲もある程度そうなのですが)長く深く好きになることが難しいというか。だから「四季」も高校生あたりでちょっと食傷気味だったようなところがあり。
そんな中で最後の方で弾いたのがこの8月。自分で色々聴いて「これはちょっと雰囲気が違うな」と思って好きになった曲です。
未だにこの曲が「収穫」っぽいかどうかは分からないのですが、収穫の忙しさとか大変さとか、中間部のシンプルで素朴なメロディーとか、断片的には分かるかな-・・・
とにかく速い(体感スピードは曲集一かと)。これをピアノで弾くのもちと難しいですがそれをギターで弾くとなるとさらに難しい。特に時々でてくる高速アルペジオとか、ギター2人で聴く(そして見る)とほんとびっくりします。実際オリジナルのピアノ版に聴き劣りしませんからね。
それもこれも2人の演奏のすごさ、そしてチームワークの強さがなせる技。
今回聴いた中で8月以外で良かったのはギターの音で素朴さが際立つ1月、寒々しいけれど歌うギターが聴ける10月あたりですかね。やっぱりアコースティックは良いですよ。
公式サイトには6月の試聴がありますね。これも美しい曲です。
さっきあれだけ言いましたけど、「四季」の12曲はどれも魅力的な曲です。ただ毎日それを練習するとか演奏に向けて練習するとか、濃いおつきあいをせずあくまでもカジュアルに聴く用におすすめです。
Grigoryan Brothersの他のアルバムも上記サイトやMyspace(今見たら4月もあった)で試聴できます。
行ってきましたコンサート!
オーストラリア国立音楽アカデミー(ANAM)でイギリスのメシアン弾きピアニスト、Peter Hillをゲストに迎えアカデミーの生徒・教員と共演もあったコンサート。
プログラムはこんな感じ:
メシアン オンド・マルトノとピアノのための「未刊の音楽帖」より第1番
メシアン 前奏曲集より第1番「鳩」
メシアン カンテヨジャーヤ
メシアン オンド・マルトノとピアノのための「未刊の音楽帖」より第4番
バッハ 「平均律クラヴィーア曲集」より
第1巻 第1番 (ハ長調)
第2巻 第3番 (嬰ハ長調)
第2巻 第10番 (ホ短調)
第2巻 第4番 (嬰ハ短調)
第1巻 第24番 (ロ短調)
メシアン アーメンの幻影
今回のコンサートは9時開演とちょっと遅め。その代わり、というか8時からゲストPeter Hillによるコンサート前トークがありました。
彼はメシアンの作品を多く演奏してきただけでなくメシアンの奥さん、故ロリオ夫人とインタビューなどで直接お話したりもしたそうで、たくさん面白い話を知ってました。(あとオーストラリアでのフットボール事情で冗談飛ばしたり、わかってらっしゃる(笑))
今回演奏された「アーメンの幻影」や「20のまなざし」が作曲された時代、1940年のパリがナチスの統治下にあったこと、戒厳令によって夜に出歩くのが困難になった中でも作曲活動、演奏活動は活発に行われたこととか。
メシアンがサン・トリニテ教会のオルガニストになった経緯(前衛的な音楽を持ち込まない、と手紙を書いたそうです)、そして最初の奥さんとの関係、そしてパリ国立音楽院に就任したときのこと、ロリオ夫人との出会い、そして作曲のことやメシアンが亡くなったときのことまで。
そしてロリオ夫人から聴いたという結婚当時のこと。メシアンとロリオ夫人が結婚したのは最初の夫人が亡くなってから2年のこと。世間体を気にしてなのかな、内密に身内の少人数だけで結婚の式だけあげたそうなのですが、その時に2人が教会から出たら入り口のところでクロウタドリがさえずっていったそうで、それを2人は天の祝福と受け取ったとのことです。
コンサート前のトークはホールとは別の部屋で行われたのですが、当初予定していた人数を大幅に超える人が来て部屋が結構ぎゅうぎゅう詰めに。コンサート自体も聴衆はホールの前半分だけを(広めに)使うレイアウトだったのですが、ほぼ満員。
ちなみに今回「未刊の音楽帖」でオンド・マルトノを演奏したのは一昨年ユースオケのトゥーランガリラでオンド・マルトノを演奏した男の子。彼は今回ピアノも弾きましたよ。
Peter Hillのメシアンの演奏はなんというか、「柔」でしたね。全体的に柔らかい感じがあって、リズムもしっかりしてるのですが(特にカンテヨジャーヤで)、ハーモニーや色彩の溶け合いやタッチが優しい。カンテヨジャーヤではちょっとリズムが前のめりな感じが親しみ深かったです。
そしてメシアンのまっただ中のバッハ。どうしてバッハを入れたかなんとなーく分かるような分からないようなのですが、演奏はおもしろかったです。ゲストが最初と最後の曲、生徒3人が真ん中の3曲を一曲ずつ弾いたのですが、奏者それぞれの解釈が面白かった。
特に各曲(前奏曲+フーガ)の前奏曲部分が割とオーソドックスじゃない解釈の演奏が多くて。ただ割と長い曲ばかりのチョイスだったのがこの時間・このプログラムだと長く感じたかなあ。
「アーメンの幻影」は2台のピアノのために書かれていますが、生徒6人が7つの楽章を代わる代わる第1パートを担当して、ゲストが第2パートを全楽章担当するというフォーマットでした。(なるべく多くの生徒にレパートリーに触れたり演奏したり経験を与えるのもあると思いますし、練習時間が限られてるのもあると思われます)
第1パートは難しい方のパート(=ロリオ夫人が弾く方のパート。第2はメシアン自身が弾く用)で、さらに2人のアンサンブルが大変難しい曲なのですが素晴らしい演奏でした。特に第6・7楽章でトリをつとめた前述オンド・マルトノの彼の演奏にはびっくりしました。頭一つ抜きんでてますね、今回演奏したアカデミーの生徒達でも。技巧はもちろん、センスがあるというか表現が正確。
・・・ここしばらく「表現の正確さ・精密さ」というフレーズを使うことが多いですが、それは必ずしも楽譜に、そして作曲家の意図に忠実に、ということを指しているのではないです。それよりも奏者自身が思っていること、表現したいこと、弾くことを通じてやりたいことがどれだけ鮮明に、正確に聞き手に伝わってくるか・・・ということを意味しています。作曲家の意図を汲むのも含まれていますし、あえて違うことをするというのも含まれてますし、迷いの無さというか、conviction、convincingな性質も含まれていて。自分の演奏にそれが一番足りないなと自覚してるので最近特に気にしているのです。
帰りもちょっと遅かったですが久しぶりに生メシアンが聴きに行けて(そして勉強になって)よかったです。これを機にもっとメシアン弾きピアニストがメルボルンで増えるといいなあ・・・とか思ってるんですが。(有望な奏者もいますしねー)
「アーメンの幻影」もだれか一緒に弾く人を見つけていつか演奏したいですねー。このブログでほとんど触れてませんがすごい好きな曲なのですよ。そしてメシアンのレパートリーの中でかなり大事な曲なのです。今日の一曲でちょっと紹介します。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「アーメンの幻影」 第3楽章「イエスの苦悩のアーメン」
メシアンがピアノ2台のために書いた「アーメンの幻影」。パリ国立音楽院で和声(ハーモニー)について教えていたメシアンはその教室で生徒だったロリオ夫人のピアノの才能を高く評価するようになり、彼女のためにピアノ曲を書くようになったのですが、その第1号だったのがこの作品。
先ほど書きましたようにロリオ夫人が第1パート、メシアンが第2パートを弾くように作曲されていて、従来の(そしてどんな時代の)ピアノ2台の作品とは違って第1パート、第2パートの内容がかなり違う、とってもunevenな作りになっています(でもそれぞれのパートが偏っても全体としてはちゃんと成り立ってます)。
第1パートは色彩や「時」の描写、鳥の歌などの技巧やディテールが主で、第2パートが繰り返し現れるテーマなど音楽的なストーリーラインというか、そういう部分。(なので第1パートの方が難しいけれど第2パートはソロが多かったりします)
で、7つの楽章のそれぞれが「○○のアーメン」というフォーマットになっていて、アーメン=そうありますように、Let it be、神の心のままに、などなどの意味合いがありますが様々なニュアンスの「アーメン」を各楽章が表しています。
この「イエスの苦悩のアーメン」はタイトルから分かるとおりイエスが受難において感じる苦悩、迷い、そして最終的に父である神の仰せのままに、と苦しみ・死を負うことを受け入れる「アーメン」です。
去年弾いた「十字架のまなざし」とものすごく似てるんですよね。曲調だったり、半音の動きで苦しみを表すのとか、ハーモニーや色調とか、エンディングの和音とか。こういう痛々しさはメシアンもあんまりたくさん使わないのですが(基本明るい方向観てますね、あの人は)、同時にこういうパーソナルな規模の苦しみの表現の仕方ってメシアン以外ではあんまり見ませんね。(いろんな作曲家がいろんな苦悩の表現をして、それはまた面白いのですが)
で、「十字架のまなざし」になくてこの曲にあるのがその「苦しみを受け入れる」部分。曲の最後の方に静寂が訪れ、そしてピアノの低音が聞こえ、第1楽章のテーマが戻ってくるのですが、それが神の意志というかを表していて。かすかに聞こえるその響きがとても美しいです。
なかなかクリスチャンじゃないとイエスの受難の苦しみに共感する、というのはあまり好ましいことではないと思われるのですが(もちろん私も何度も言ってるように無神論者ですよ)、一人の人間としての信じるものと苦しみとの葛藤だったり、そういうことは誰にでもあることで。それらに触れ、音楽でそれを表現するのに触れるのもまた面白いことだと思います。
以前「メシアンの作品が受け入れられないのは宗教的な意味合いも大きいのかもしれない」というようなことを書きましたが、メシアンの音楽にしても他の宗教的な芸術作品にしても宗教以外の意味合いだったり、考え方があったりすると思うので。そこでの壁をなんとかできたらな。
録音はメシアン夫婦演奏のを。mp3であったので。
オーストラリア国立音楽アカデミー(ANAM)でイギリスのメシアン弾きピアニスト、Peter Hillをゲストに迎えアカデミーの生徒・教員と共演もあったコンサート。
プログラムはこんな感じ:
メシアン オンド・マルトノとピアノのための「未刊の音楽帖」より第1番
メシアン 前奏曲集より第1番「鳩」
メシアン カンテヨジャーヤ
メシアン オンド・マルトノとピアノのための「未刊の音楽帖」より第4番
バッハ 「平均律クラヴィーア曲集」より
第1巻 第1番 (ハ長調)
第2巻 第3番 (嬰ハ長調)
第2巻 第10番 (ホ短調)
第2巻 第4番 (嬰ハ短調)
第1巻 第24番 (ロ短調)
メシアン アーメンの幻影
今回のコンサートは9時開演とちょっと遅め。その代わり、というか8時からゲストPeter Hillによるコンサート前トークがありました。
彼はメシアンの作品を多く演奏してきただけでなくメシアンの奥さん、故ロリオ夫人とインタビューなどで直接お話したりもしたそうで、たくさん面白い話を知ってました。(あとオーストラリアでのフットボール事情で冗談飛ばしたり、わかってらっしゃる(笑))
今回演奏された「アーメンの幻影」や「20のまなざし」が作曲された時代、1940年のパリがナチスの統治下にあったこと、戒厳令によって夜に出歩くのが困難になった中でも作曲活動、演奏活動は活発に行われたこととか。
メシアンがサン・トリニテ教会のオルガニストになった経緯(前衛的な音楽を持ち込まない、と手紙を書いたそうです)、そして最初の奥さんとの関係、そしてパリ国立音楽院に就任したときのこと、ロリオ夫人との出会い、そして作曲のことやメシアンが亡くなったときのことまで。
そしてロリオ夫人から聴いたという結婚当時のこと。メシアンとロリオ夫人が結婚したのは最初の夫人が亡くなってから2年のこと。世間体を気にしてなのかな、内密に身内の少人数だけで結婚の式だけあげたそうなのですが、その時に2人が教会から出たら入り口のところでクロウタドリがさえずっていったそうで、それを2人は天の祝福と受け取ったとのことです。
コンサート前のトークはホールとは別の部屋で行われたのですが、当初予定していた人数を大幅に超える人が来て部屋が結構ぎゅうぎゅう詰めに。コンサート自体も聴衆はホールの前半分だけを(広めに)使うレイアウトだったのですが、ほぼ満員。
ちなみに今回「未刊の音楽帖」でオンド・マルトノを演奏したのは一昨年ユースオケのトゥーランガリラでオンド・マルトノを演奏した男の子。彼は今回ピアノも弾きましたよ。
Peter Hillのメシアンの演奏はなんというか、「柔」でしたね。全体的に柔らかい感じがあって、リズムもしっかりしてるのですが(特にカンテヨジャーヤで)、ハーモニーや色彩の溶け合いやタッチが優しい。カンテヨジャーヤではちょっとリズムが前のめりな感じが親しみ深かったです。
そしてメシアンのまっただ中のバッハ。どうしてバッハを入れたかなんとなーく分かるような分からないようなのですが、演奏はおもしろかったです。ゲストが最初と最後の曲、生徒3人が真ん中の3曲を一曲ずつ弾いたのですが、奏者それぞれの解釈が面白かった。
特に各曲(前奏曲+フーガ)の前奏曲部分が割とオーソドックスじゃない解釈の演奏が多くて。ただ割と長い曲ばかりのチョイスだったのがこの時間・このプログラムだと長く感じたかなあ。
「アーメンの幻影」は2台のピアノのために書かれていますが、生徒6人が7つの楽章を代わる代わる第1パートを担当して、ゲストが第2パートを全楽章担当するというフォーマットでした。(なるべく多くの生徒にレパートリーに触れたり演奏したり経験を与えるのもあると思いますし、練習時間が限られてるのもあると思われます)
第1パートは難しい方のパート(=ロリオ夫人が弾く方のパート。第2はメシアン自身が弾く用)で、さらに2人のアンサンブルが大変難しい曲なのですが素晴らしい演奏でした。特に第6・7楽章でトリをつとめた前述オンド・マルトノの彼の演奏にはびっくりしました。頭一つ抜きんでてますね、今回演奏したアカデミーの生徒達でも。技巧はもちろん、センスがあるというか表現が正確。
・・・ここしばらく「表現の正確さ・精密さ」というフレーズを使うことが多いですが、それは必ずしも楽譜に、そして作曲家の意図に忠実に、ということを指しているのではないです。それよりも奏者自身が思っていること、表現したいこと、弾くことを通じてやりたいことがどれだけ鮮明に、正確に聞き手に伝わってくるか・・・ということを意味しています。作曲家の意図を汲むのも含まれていますし、あえて違うことをするというのも含まれてますし、迷いの無さというか、conviction、convincingな性質も含まれていて。自分の演奏にそれが一番足りないなと自覚してるので最近特に気にしているのです。
帰りもちょっと遅かったですが久しぶりに生メシアンが聴きに行けて(そして勉強になって)よかったです。これを機にもっとメシアン弾きピアニストがメルボルンで増えるといいなあ・・・とか思ってるんですが。(有望な奏者もいますしねー)
「アーメンの幻影」もだれか一緒に弾く人を見つけていつか演奏したいですねー。このブログでほとんど触れてませんがすごい好きな曲なのですよ。そしてメシアンのレパートリーの中でかなり大事な曲なのです。今日の一曲でちょっと紹介します。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「アーメンの幻影」 第3楽章「イエスの苦悩のアーメン」
メシアンがピアノ2台のために書いた「アーメンの幻影」。パリ国立音楽院で和声(ハーモニー)について教えていたメシアンはその教室で生徒だったロリオ夫人のピアノの才能を高く評価するようになり、彼女のためにピアノ曲を書くようになったのですが、その第1号だったのがこの作品。
先ほど書きましたようにロリオ夫人が第1パート、メシアンが第2パートを弾くように作曲されていて、従来の(そしてどんな時代の)ピアノ2台の作品とは違って第1パート、第2パートの内容がかなり違う、とってもunevenな作りになっています(でもそれぞれのパートが偏っても全体としてはちゃんと成り立ってます)。
第1パートは色彩や「時」の描写、鳥の歌などの技巧やディテールが主で、第2パートが繰り返し現れるテーマなど音楽的なストーリーラインというか、そういう部分。(なので第1パートの方が難しいけれど第2パートはソロが多かったりします)
で、7つの楽章のそれぞれが「○○のアーメン」というフォーマットになっていて、アーメン=そうありますように、Let it be、神の心のままに、などなどの意味合いがありますが様々なニュアンスの「アーメン」を各楽章が表しています。
この「イエスの苦悩のアーメン」はタイトルから分かるとおりイエスが受難において感じる苦悩、迷い、そして最終的に父である神の仰せのままに、と苦しみ・死を負うことを受け入れる「アーメン」です。
去年弾いた「十字架のまなざし」とものすごく似てるんですよね。曲調だったり、半音の動きで苦しみを表すのとか、ハーモニーや色調とか、エンディングの和音とか。こういう痛々しさはメシアンもあんまりたくさん使わないのですが(基本明るい方向観てますね、あの人は)、同時にこういうパーソナルな規模の苦しみの表現の仕方ってメシアン以外ではあんまり見ませんね。(いろんな作曲家がいろんな苦悩の表現をして、それはまた面白いのですが)
で、「十字架のまなざし」になくてこの曲にあるのがその「苦しみを受け入れる」部分。曲の最後の方に静寂が訪れ、そしてピアノの低音が聞こえ、第1楽章のテーマが戻ってくるのですが、それが神の意志というかを表していて。かすかに聞こえるその響きがとても美しいです。
なかなかクリスチャンじゃないとイエスの受難の苦しみに共感する、というのはあまり好ましいことではないと思われるのですが(もちろん私も何度も言ってるように無神論者ですよ)、一人の人間としての信じるものと苦しみとの葛藤だったり、そういうことは誰にでもあることで。それらに触れ、音楽でそれを表現するのに触れるのもまた面白いことだと思います。
以前「メシアンの作品が受け入れられないのは宗教的な意味合いも大きいのかもしれない」というようなことを書きましたが、メシアンの音楽にしても他の宗教的な芸術作品にしても宗教以外の意味合いだったり、考え方があったりすると思うので。そこでの壁をなんとかできたらな。
録音はメシアン夫婦演奏のを。mp3であったので。
前回のエントリーに拍手ありがとうございました~
(だいぶちらかったので次回は要改善ですね)
ちょっとここ数日精神が故障気味です。おそらく季節の変わり目。
しかし気分が沈むのに加えて情緒不安定というか易刺激性・軽躁の傾向・不安などがやってくるのが厄介。今を乗り切るのもそうですがこれからの季節をなんとかsurviveしなきゃいけないので、なかなか今の不調は悩みどころ。
そんな中ピアノのレッスンに行ってきました。
およそ半年ぶり、今やってるプログラムを初めて先生に聞かせるレッスンでした。
今日はドビュッシーとフォーレをちょこちょこっと弾いたのですが(まあそこそこに弾けました。そして色々アドバイスをいただきました)、メシアンの話もしました。
先生がメシアンを弾いたのを聴いたことはないのですが、「20のまなざし」からはいくつか弾いているらしいんですよね。
そして先生はメシアンに会ってる(少なくとも直接みている)とのことで。
そのことは前からちょこちょこ聞いていたのですが今日は改めてまとめてみたいと思います。
メシアンがオーストラリアに来たのはオーストラリア建国200周年の1988年。
メシアンは旅するときは必ずマダム・ロリオと一緒だった・・・というのをどこかで読みましたが来豪のときも一緒だったそう。
で、そのときにメルボルンに来て、メルボルン大学のMelba Hallでコンサートが開かれ、ロリオ夫人が弾いたりメシアンが話したりしたのを先生が聴きに行ったそうです。
1988年というとメシアンはちょうど80歳。先生は去年70歳の誕生日コンサートをやったということは当時47歳。
メシアンは作曲家・オルガニストであり、敬虔なクリスチャン(基本カトリックで自然信仰など主流のキリスト教の信仰とは違う部分もあります)であり、そして鳥類学者でもありました。
彼が住んでいたフランスのみならず世界のいろんな場所で鳥の鳴き声を楽譜に起こして記録し、例えば「鳥のカタログ」(フランスの鳥たち)や「七つの俳諧」(日本の鳥たち)などの作品に取り入れたのです。
オーストラリアというのはコアラ、カンガルーなどの有袋類に限らず独特の生物(植物・動物)が独自の生態系を作り上げています。もちろん生息している鳥の種類も独特。ワライカワセミとかコトドリとか、それからセキセイインコを始めとするペットとして知られるインコ・オウム類の多くはオーストラリアが原産だったり。
(逆にその独特な種類のためメシアンが曲に使う鳥の多くはこちらでは直接見る・聴くことができないです)
なのでメシアンはオーストラリアの鳥たちに興味津々だったそうです。
(Melba Hallで話したときも「私は鳥が本当に好きで」みたいなことを言ったら先生始め聴衆が「うんうん、知ってるー」みたいなリアクションだったそうです)
ネットで探したらメシアンが来豪したのは冬周りだったため、多くの鳥の繁殖期から外れていて落胆した、との話もありましたが先生の話によるとフランスで聴くのとはかなり違う種類の鳥の声が聞けて興味深かった、と話していたそう。
(メシアンがマグパイの声を聴いてどう思ったのかが知りたかったな-。ちなみにオーストラリアでいうマグパイ(≠カササギ)の鳴き声はここの動画・音声で。私が知っている鳥の鳴き声では美しさのトップクラスです)
メシアンはメルボルンでは、というか郊外になりますがMt. DandenongのSherbrooke Forestに行ってコトドリ(Lyrebird)の鳴き声を聞いたそうです(野生で姿を見るのは難しいですが声だけならそんなに珍しくはないです)。コトドリは他の鳥の声やその他いろんな音(人工音まで)を物まねすることで有名ですが、メシアンはどんなコトドリの歌を聴いたのか気になりますね。
ちなみに私がSherbrooke Forestでコトドリの鳴き声を聞いたときはワライカワセミの鳴き声を真似してました(本物も聞こえました)。
そんなオーストラリアから持ち帰った鳥の声はメシアンが最後に完成させたオケ曲「彼方の閃光」(フランス語で「Eclairs sur l'Au-dela...」、1987~1991年作曲)に織り込まれています。
第3楽章の「コトドリと結婚の都」という楽章ではそのタイトル通りコトドリの鳴き声、それからワライカワセミの鳴き声(すぐわかります)も聞こえます。調べてみるとどうやらメシアンはこの曲の初演を聴くことがなかったようなのが残念。
ちなみにこのブログでも書いてるかもしれませんが去年メル響で以前首席指揮者を務めていたMarkus Stenzのカムバックミニシリーズで、プログラムが秘密になっていた最終コンサート(Act Three)ではこの「彼方の閃光」が演奏されました。(メル響とAustralian Youth Orchestraのコラボでこの大編成&複雑な名曲を演奏したのですが、私はラジオで聴いてるだけでした)
メルボルンに縁のある曲というのは結構少ないので(笑)とっても貴重なレパートリーだと思います。
メシアンも最近はここらではそんなにキワモノ扱いされなくなってきたというか玄人好みのコアなレパートリーに入って来た印象があるのですが、今日先生に聞いたら先生の生徒でメシアンを弾いてるピアニストはいないそうで(常に勧めてはいるとのことです)。
若いころにロマン派の情熱的な音楽に共感したり、ピアノを極めるピアニズムの王道を進んでいるとなかなかとっつきづらいものなのかなあ。曲自体の難しさ・複雑さ(技巧だけでなく頭での部分も)もあるのですが。
先生だけでなくラリアで一番クレイジーなピアニストである我らが(?)Michael Kieran Harveyもまたメシアンの音楽を愛する一人。私が在学中に「鳥のカタログ」を弾いてた以来彼がメシアンを弾くのを聴いていませんが、やっぱりこの国でメシアンといったらマイケル、なんですよね。
そしてメシアンを弾く人はいてもそのほとんどが「20のまなざし」を弾いてて、「鳥のカタログ」に関してはマイケルと自分以外で弾いてる人に出会ったことがない、という状態。鳥カタはピアノの曲としてはまた別のものが求められてそれが難しかったりするし、鳥カタが求めてるものをなかなかピアニストが求めないというか・・・うーん。
だからもっとオーストラリアのピアニストはメシアンを弾くといいと思うんですよ。
そして日本に関しても、メシアンの宗教観というか思想というか、自然に対するアプローチは日本の伝統的なそれとものすごく近いものがあるので、もっとメシアンに近づいてほしい、と思うのです。
(「七つの俳諧」がメシアン玄人でもとっつきにくい曲であるということのネガティブインパクトはあれど)
そんなことを自分の中で叫んでいたら今月末(イースター前)に国立アカデミーであるメシアンのコンサートのチケットが届きましたよ。
イギリスのメシアン弾き、Peter Hillを迎えて国立アカデミーの生徒たちとメシアンを中心にしたプログラムのコンサート。楽しみ!
9時コンサートで8時にトークがあるそうなので是非トークから聴きに行きたいです。
大学時代は私といったらメシアン、という認識が直接の知り合いに限らず結構広まってたみたいで、その特別な感じというか独占感もなんとなく気持ちいいですし、リストとかベートーヴェンみたいにものすごく伝統がしっかり根付いてたり、ピアニスト同士の競争があったり、そういうことがない自分のフィールドとしてあるのもいいのですが・・・
たまーにやっぱり寂しくなりますし、あと単純に素晴らしい音楽だからもっと弾かれて、もっと広い層の人の耳に入る&馴染むようになってほしいですよ。
クラムもそうですが(クラム同士はいつでも大歓迎)メシアンも本当にそう。
もっとメシアンの音楽が愛されるように、南半球の片隅で私もちょこちょこやってきます。
今日の一曲: クロード・ドビュッシー 「映像」第2集 「葉ずえを渡る鐘」
先生が弾いてる録音リンク
こんだけメシアンひっぱっといてなんですが、今日レッスンで弾いた曲から。
ドビュッシーの「映像」第2集は全3曲から成っていますが、その内の2曲が東洋モチーフ。で、この第1曲「葉ずえを渡る鐘」だけが東洋じゃない。おそらく西洋。
ただこの最初の全音階(=西洋の伝統的な音階とは違う)の鐘の響きだったり、ドビュッシー得意のどの調でもない曖昧なハーモニーなんかを聴くとどうも西洋の教会の鐘の音を連想するのが容易ではない。で、ちょうど他の2曲が東洋風だからイメージがそっちに引っ張られてしまう。
そんな経緯で未だにこの曲の「イメージ」(映像=Images、なのですが)がつかめていないわけです。
先生が言うにこれの第3曲の「金色の魚」をドビュッシー展で実際に見たように視覚的な「絵」をどこかで探してみればいいんじゃないか、と。ドビュッシーが意図した視覚的イメージじゃなくても
自分のこの曲の解釈を表すような画像をどこかで探してみたら良いんじゃないかと言われ。
(おそらくぐーぐるさんにお世話になるかと)
それからこの曲と同じく複数の種類の鐘の音をモチーフとしたラヴェルの「鏡」の最終楽章「鐘の谷」との比較も先生と話してました。先生曰くこっち(ドビュッシー)の方が「Imaginative」だと。確かにそうなんですよね。ラヴェルの方は割とリアルというか、鐘の音を重ねることで風景を描写するけれど、その他の風景の描写をしていないというか。この曲は割と鐘の音以外の部分も描き入れている感じ。
(ただ自分はその「いかに鐘の音だけで」みたいな部分だったり、響きだけで色々表現の実験ができる余裕があるラヴェルの方が好きだったりします)
ということでちょっと不思議な曲なのですが、後半の鐘の音が輝きながらころころと下降する部分の美しさったらたまらないです。なんというかやっぱり「映像」はドビュッシーの良いところが味わえるなあ、と。
そしてどれも長い曲ではないので「映像」第2集の他の2曲、さらに「映像」第1集の全3曲もおすすめ。先生の録音リンクしちゃいます。試聴がある第1集の「水の反映」はこのCDの中で自分的にベスト。
(だいぶちらかったので次回は要改善ですね)
ちょっとここ数日精神が故障気味です。おそらく季節の変わり目。
しかし気分が沈むのに加えて情緒不安定というか易刺激性・軽躁の傾向・不安などがやってくるのが厄介。今を乗り切るのもそうですがこれからの季節をなんとかsurviveしなきゃいけないので、なかなか今の不調は悩みどころ。
そんな中ピアノのレッスンに行ってきました。
およそ半年ぶり、今やってるプログラムを初めて先生に聞かせるレッスンでした。
今日はドビュッシーとフォーレをちょこちょこっと弾いたのですが(まあそこそこに弾けました。そして色々アドバイスをいただきました)、メシアンの話もしました。
先生がメシアンを弾いたのを聴いたことはないのですが、「20のまなざし」からはいくつか弾いているらしいんですよね。
そして先生はメシアンに会ってる(少なくとも直接みている)とのことで。
そのことは前からちょこちょこ聞いていたのですが今日は改めてまとめてみたいと思います。
メシアンがオーストラリアに来たのはオーストラリア建国200周年の1988年。
メシアンは旅するときは必ずマダム・ロリオと一緒だった・・・というのをどこかで読みましたが来豪のときも一緒だったそう。
で、そのときにメルボルンに来て、メルボルン大学のMelba Hallでコンサートが開かれ、ロリオ夫人が弾いたりメシアンが話したりしたのを先生が聴きに行ったそうです。
1988年というとメシアンはちょうど80歳。先生は去年70歳の誕生日コンサートをやったということは当時47歳。
メシアンは作曲家・オルガニストであり、敬虔なクリスチャン(基本カトリックで自然信仰など主流のキリスト教の信仰とは違う部分もあります)であり、そして鳥類学者でもありました。
彼が住んでいたフランスのみならず世界のいろんな場所で鳥の鳴き声を楽譜に起こして記録し、例えば「鳥のカタログ」(フランスの鳥たち)や「七つの俳諧」(日本の鳥たち)などの作品に取り入れたのです。
オーストラリアというのはコアラ、カンガルーなどの有袋類に限らず独特の生物(植物・動物)が独自の生態系を作り上げています。もちろん生息している鳥の種類も独特。ワライカワセミとかコトドリとか、それからセキセイインコを始めとするペットとして知られるインコ・オウム類の多くはオーストラリアが原産だったり。
(逆にその独特な種類のためメシアンが曲に使う鳥の多くはこちらでは直接見る・聴くことができないです)
なのでメシアンはオーストラリアの鳥たちに興味津々だったそうです。
(Melba Hallで話したときも「私は鳥が本当に好きで」みたいなことを言ったら先生始め聴衆が「うんうん、知ってるー」みたいなリアクションだったそうです)
ネットで探したらメシアンが来豪したのは冬周りだったため、多くの鳥の繁殖期から外れていて落胆した、との話もありましたが先生の話によるとフランスで聴くのとはかなり違う種類の鳥の声が聞けて興味深かった、と話していたそう。
(メシアンがマグパイの声を聴いてどう思ったのかが知りたかったな-。ちなみにオーストラリアでいうマグパイ(≠カササギ)の鳴き声はここの動画・音声で。私が知っている鳥の鳴き声では美しさのトップクラスです)
メシアンはメルボルンでは、というか郊外になりますがMt. DandenongのSherbrooke Forestに行ってコトドリ(Lyrebird)の鳴き声を聞いたそうです(野生で姿を見るのは難しいですが声だけならそんなに珍しくはないです)。コトドリは他の鳥の声やその他いろんな音(人工音まで)を物まねすることで有名ですが、メシアンはどんなコトドリの歌を聴いたのか気になりますね。
ちなみに私がSherbrooke Forestでコトドリの鳴き声を聞いたときはワライカワセミの鳴き声を真似してました(本物も聞こえました)。
そんなオーストラリアから持ち帰った鳥の声はメシアンが最後に完成させたオケ曲「彼方の閃光」(フランス語で「Eclairs sur l'Au-dela...」、1987~1991年作曲)に織り込まれています。
第3楽章の「コトドリと結婚の都」という楽章ではそのタイトル通りコトドリの鳴き声、それからワライカワセミの鳴き声(すぐわかります)も聞こえます。調べてみるとどうやらメシアンはこの曲の初演を聴くことがなかったようなのが残念。
ちなみにこのブログでも書いてるかもしれませんが去年メル響で以前首席指揮者を務めていたMarkus Stenzのカムバックミニシリーズで、プログラムが秘密になっていた最終コンサート(Act Three)ではこの「彼方の閃光」が演奏されました。(メル響とAustralian Youth Orchestraのコラボでこの大編成&複雑な名曲を演奏したのですが、私はラジオで聴いてるだけでした)
メルボルンに縁のある曲というのは結構少ないので(笑)とっても貴重なレパートリーだと思います。
メシアンも最近はここらではそんなにキワモノ扱いされなくなってきたというか玄人好みのコアなレパートリーに入って来た印象があるのですが、今日先生に聞いたら先生の生徒でメシアンを弾いてるピアニストはいないそうで(常に勧めてはいるとのことです)。
若いころにロマン派の情熱的な音楽に共感したり、ピアノを極めるピアニズムの王道を進んでいるとなかなかとっつきづらいものなのかなあ。曲自体の難しさ・複雑さ(技巧だけでなく頭での部分も)もあるのですが。
先生だけでなくラリアで一番クレイジーなピアニストである我らが(?)Michael Kieran Harveyもまたメシアンの音楽を愛する一人。私が在学中に「鳥のカタログ」を弾いてた以来彼がメシアンを弾くのを聴いていませんが、やっぱりこの国でメシアンといったらマイケル、なんですよね。
そしてメシアンを弾く人はいてもそのほとんどが「20のまなざし」を弾いてて、「鳥のカタログ」に関してはマイケルと自分以外で弾いてる人に出会ったことがない、という状態。鳥カタはピアノの曲としてはまた別のものが求められてそれが難しかったりするし、鳥カタが求めてるものをなかなかピアニストが求めないというか・・・うーん。
だからもっとオーストラリアのピアニストはメシアンを弾くといいと思うんですよ。
そして日本に関しても、メシアンの宗教観というか思想というか、自然に対するアプローチは日本の伝統的なそれとものすごく近いものがあるので、もっとメシアンに近づいてほしい、と思うのです。
(「七つの俳諧」がメシアン玄人でもとっつきにくい曲であるということのネガティブインパクトはあれど)
そんなことを自分の中で叫んでいたら今月末(イースター前)に国立アカデミーであるメシアンのコンサートのチケットが届きましたよ。
イギリスのメシアン弾き、Peter Hillを迎えて国立アカデミーの生徒たちとメシアンを中心にしたプログラムのコンサート。楽しみ!
9時コンサートで8時にトークがあるそうなので是非トークから聴きに行きたいです。
大学時代は私といったらメシアン、という認識が直接の知り合いに限らず結構広まってたみたいで、その特別な感じというか独占感もなんとなく気持ちいいですし、リストとかベートーヴェンみたいにものすごく伝統がしっかり根付いてたり、ピアニスト同士の競争があったり、そういうことがない自分のフィールドとしてあるのもいいのですが・・・
たまーにやっぱり寂しくなりますし、あと単純に素晴らしい音楽だからもっと弾かれて、もっと広い層の人の耳に入る&馴染むようになってほしいですよ。
クラムもそうですが(クラム同士はいつでも大歓迎)メシアンも本当にそう。
もっとメシアンの音楽が愛されるように、南半球の片隅で私もちょこちょこやってきます。
今日の一曲: クロード・ドビュッシー 「映像」第2集 「葉ずえを渡る鐘」
先生が弾いてる録音リンク
こんだけメシアンひっぱっといてなんですが、今日レッスンで弾いた曲から。
ドビュッシーの「映像」第2集は全3曲から成っていますが、その内の2曲が東洋モチーフ。で、この第1曲「葉ずえを渡る鐘」だけが東洋じゃない。おそらく西洋。
ただこの最初の全音階(=西洋の伝統的な音階とは違う)の鐘の響きだったり、ドビュッシー得意のどの調でもない曖昧なハーモニーなんかを聴くとどうも西洋の教会の鐘の音を連想するのが容易ではない。で、ちょうど他の2曲が東洋風だからイメージがそっちに引っ張られてしまう。
そんな経緯で未だにこの曲の「イメージ」(映像=Images、なのですが)がつかめていないわけです。
先生が言うにこれの第3曲の「金色の魚」をドビュッシー展で実際に見たように視覚的な「絵」をどこかで探してみればいいんじゃないか、と。ドビュッシーが意図した視覚的イメージじゃなくても
自分のこの曲の解釈を表すような画像をどこかで探してみたら良いんじゃないかと言われ。
(おそらくぐーぐるさんにお世話になるかと)
それからこの曲と同じく複数の種類の鐘の音をモチーフとしたラヴェルの「鏡」の最終楽章「鐘の谷」との比較も先生と話してました。先生曰くこっち(ドビュッシー)の方が「Imaginative」だと。確かにそうなんですよね。ラヴェルの方は割とリアルというか、鐘の音を重ねることで風景を描写するけれど、その他の風景の描写をしていないというか。この曲は割と鐘の音以外の部分も描き入れている感じ。
(ただ自分はその「いかに鐘の音だけで」みたいな部分だったり、響きだけで色々表現の実験ができる余裕があるラヴェルの方が好きだったりします)
ということでちょっと不思議な曲なのですが、後半の鐘の音が輝きながらころころと下降する部分の美しさったらたまらないです。なんというかやっぱり「映像」はドビュッシーの良いところが味わえるなあ、と。
そしてどれも長い曲ではないので「映像」第2集の他の2曲、さらに「映像」第1集の全3曲もおすすめ。先生の録音リンクしちゃいます。試聴がある第1集の「水の反映」はこのCDの中で自分的にベスト。
また間が開きました-。
例によってゲームです。そして書き物も進めています。ただやっぱりゲームです。
ポケモンダイヤモンドではディアルガを捕まえ(伝説のポケモンのはずなんですが一発で捕まってしまって)、Age of Wonders: Shadow MagicではJuliaルートシナリオ2を終えてKe-nanルートシナリオ2へ。
AoWはたまにマップ制覇でなくてシナリオ内のミッションをクリア=シナリオクリアという場合があるのでちょっと攻略調べてたら今後Julia, Ke-nanのルート(各3シナリオ)をクリアしたらダークエルフのMeandorのルートも出てくるようで大変楽しみ。前作までの経緯を見て彼のことはもっと知りたいと思っていたので。
さて、本題へ。
音楽に関して、楽器に関して色々考えを巡らせることが多いのですが、よく思うのは自分が特定の楽器で好きなところだったり魅力だったり、そういうものを伝えるにはどんな曲を聴いてもらったらいいだろう、ということ。
音楽に関しちゃ言葉だけじゃやっぱり伝わらないことも多いですしね。
ということで特にその「魅力を伝えたい!」という思いが強いいくつかの楽器についてお試しで10曲ずつ選んでみることにしました。理想としてはCD1枚にまとめて渡せるようにすることですが、とりあえず今回は時間は気にせず。
今回の楽器はチェロ。一番近い、一番知ってるはずのところから。お試し。
1)ドヴォルザーク チェロ協奏曲第1番
絶対王者ですからね。まずはこれです。チェロがいかに表現が豊かで、幅が広くて、1人でもオケに対等であることが分かって。音とか音楽自体だけではなくチェロを弾く作法とか、チェロの佇まい、気品というか、そういうものが感じられるという意味でもトータルで「これぞチェロ」みたいなところがある曲です。そして音楽自体も素晴らしい。ソロのパートだけでなくオケのパートも交響曲と同じくらいの内容の充実ですよ。特に第2楽章いいですね。
2)ベートーヴェン チェロソナタ第3番
チェロの豊かに歌い上げる音、その人間の声に似た暖かさを味わうのにはやっぱこの曲でしょう。時に甘く、時に激しく、そしてピアノとのアンサンブルも絶妙。チェロの魅力を味わうのなら第1楽章、ですが曲としては第2楽章が好き。そして第3楽章は本当に(聞いてても弾いてても)楽しい!
3)ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲第1番
チェロは歌い上げるのが得意な楽器ですが、あんまりそっち系の曲ばっかり選んでもいられない。チェロ独特の暗い魅力やパワーなんかもカバーしてきたいのです。ということでチェロをよく知りチェロを愛した(と思われる)ショスタコ。第1楽章の更新での和音ばっかりのソロのかっこよさだったり、スローな第2楽章の狂おしいクライマックス、たった一人のカデンツァにブルドーザー級(!?)のラスト。かっこいい悪役なチェロが聞けます。
4)ブラームス チェロソナタ第1番
ブラームスは2つチェロソナタを書いていてどちらも甲乙つけがたいのですがチェロらしさを追求するならこっちかな。第1楽章での深く暗くてEarthyな、どこまでも内側に潜るような激しい情熱を持ったキャラクターだったり、第3楽章の男性的なパワフルさだったり。それにしてもブラームスは(ソナタ含めた)室内楽がとんでもなく素晴らしい。もっとブラームスを聴こうよみんな。そしてチェロソナタ第1番から始めてくださいな。
5)ヴィラ=ロボス ブラジル風バッハ第1番 第1楽章
1台だけでも十分いろんなことがカバーできるチェロをたくさん集めるとどうなるか。いろんな役割を分担して、まるでオーケストラのようなアンサンブルになります。それがこのブラジル風バッハ第1番。8~12人のチェロがパワフルに、そして一糸乱れぬチームワークで動き回ります。冒頭からのブラジル独特のリズムの躍動感がたまらないですねー。
6)エルガー エニグマ変奏曲 第12変奏
チェロのためのレパートリー以外でもチェロは色々なところで活躍しています。今回選んだのは変奏曲の途中で短いためちょっとだけ見過ごされがちなチェロのセクションソロ。イギリスらしい哀愁を帯びたメロディーをセクション全員で歌い上げる、目まぐるしい変奏曲の中でもひときわ美しいひとときです。
7)日本民謡 知覧節(ヨーヨー・マ演奏)
ちょっと変わり種を一つ。ヨーヨー・マが日本民謡を弾くJapanese MelodiesというCD収録の一曲。元々日本の音楽はメロディーに重心が大きくて、それをチェロで歌い上げると深みがぐんと増すのですが、この曲には特別ななにかを感じます。西洋の楽器と東洋のメロディーの組み合わせで、チェロの音色の美しさと日本のメロディーの柔軟さが不思議な音楽を作り出すような。
8)ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
オケでチェロが一番輝いてるのっていつだろう、と思ったらこの曲にたどり着きました。いろんな楽器でいろんな良いとこがあって、チェロがものすごく目立つわけじゃないですが色々活躍場所はありますよ。冒頭とか(力強いところは一般的にチェロの貢献度が高い)、そしてスローな第3楽章は地味ながらも結構活躍してます。特にクライマックスで奏でる、諸刃の剣のようなメロディーは他の楽器じゃまねできない。
9)ピアソラ 「Le Grand Tango」
これはベートーヴェンとかブラームスとか伝統的なレパートリーに比べて若干演奏頻度は少ないように思われますが、チェロという楽器の性質を濃く表している曲だと思います。なんてったって情熱的。暗い。狂う。ただ暖かくて深くて歌うのではなく、「闇」はチェロの性質の大事なところを担っていると思います。とにかく最後の1/3での盛り上がりというか発狂が最高です。
10)クラム 弦楽四重奏曲「Black Angels」より「God-music」
クラム贔屓なのは差し引いてもこのGod-musicはチェロが活躍する曲としてもっともっと知られてほしく、評価してほしい曲ですね。チェロの音は地に足が着いたような安定感があるのですが、この曲ではそれも残しながらどこか浮遊しているような、伝統的なチェロのイメージからいろいろ解き放たれたようなところもあって(前述知覧節に似たような)。とにかくこのヘブライ風メロディーが美しくて、グラスハーモニカと音響が不思議な雰囲気を出して、本当に特別な空間と時間を作る曲です。
うーん、曲のチョイス・・・もうちょっとオケ周りでなんとかならないか。あと室内楽でももっと活躍してるはずなんだけどなあ・・・
レパートリーの幅は決して小さくはないけれど、ものすごく大きいわけでもないので取り残しはあんまりないはずなんですが。
とりあえずお試し、ということで。次回はもうちょっとだけでもうまく・・・なったらいいけど。
ちなみに他の楽器ではビオラとかチェレスタとか途中まで考えてありますが、なんとかまとまるといいな。
今日の一曲はお休みです。
例によってゲームです。そして書き物も進めています。ただやっぱりゲームです。
ポケモンダイヤモンドではディアルガを捕まえ(伝説のポケモンのはずなんですが一発で捕まってしまって)、Age of Wonders: Shadow MagicではJuliaルートシナリオ2を終えてKe-nanルートシナリオ2へ。
AoWはたまにマップ制覇でなくてシナリオ内のミッションをクリア=シナリオクリアという場合があるのでちょっと攻略調べてたら今後Julia, Ke-nanのルート(各3シナリオ)をクリアしたらダークエルフのMeandorのルートも出てくるようで大変楽しみ。前作までの経緯を見て彼のことはもっと知りたいと思っていたので。
さて、本題へ。
音楽に関して、楽器に関して色々考えを巡らせることが多いのですが、よく思うのは自分が特定の楽器で好きなところだったり魅力だったり、そういうものを伝えるにはどんな曲を聴いてもらったらいいだろう、ということ。
音楽に関しちゃ言葉だけじゃやっぱり伝わらないことも多いですしね。
ということで特にその「魅力を伝えたい!」という思いが強いいくつかの楽器についてお試しで10曲ずつ選んでみることにしました。理想としてはCD1枚にまとめて渡せるようにすることですが、とりあえず今回は時間は気にせず。
今回の楽器はチェロ。一番近い、一番知ってるはずのところから。お試し。
1)ドヴォルザーク チェロ協奏曲第1番
絶対王者ですからね。まずはこれです。チェロがいかに表現が豊かで、幅が広くて、1人でもオケに対等であることが分かって。音とか音楽自体だけではなくチェロを弾く作法とか、チェロの佇まい、気品というか、そういうものが感じられるという意味でもトータルで「これぞチェロ」みたいなところがある曲です。そして音楽自体も素晴らしい。ソロのパートだけでなくオケのパートも交響曲と同じくらいの内容の充実ですよ。特に第2楽章いいですね。
2)ベートーヴェン チェロソナタ第3番
チェロの豊かに歌い上げる音、その人間の声に似た暖かさを味わうのにはやっぱこの曲でしょう。時に甘く、時に激しく、そしてピアノとのアンサンブルも絶妙。チェロの魅力を味わうのなら第1楽章、ですが曲としては第2楽章が好き。そして第3楽章は本当に(聞いてても弾いてても)楽しい!
3)ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲第1番
チェロは歌い上げるのが得意な楽器ですが、あんまりそっち系の曲ばっかり選んでもいられない。チェロ独特の暗い魅力やパワーなんかもカバーしてきたいのです。ということでチェロをよく知りチェロを愛した(と思われる)ショスタコ。第1楽章の更新での和音ばっかりのソロのかっこよさだったり、スローな第2楽章の狂おしいクライマックス、たった一人のカデンツァにブルドーザー級(!?)のラスト。かっこいい悪役なチェロが聞けます。
4)ブラームス チェロソナタ第1番
ブラームスは2つチェロソナタを書いていてどちらも甲乙つけがたいのですがチェロらしさを追求するならこっちかな。第1楽章での深く暗くてEarthyな、どこまでも内側に潜るような激しい情熱を持ったキャラクターだったり、第3楽章の男性的なパワフルさだったり。それにしてもブラームスは(ソナタ含めた)室内楽がとんでもなく素晴らしい。もっとブラームスを聴こうよみんな。そしてチェロソナタ第1番から始めてくださいな。
5)ヴィラ=ロボス ブラジル風バッハ第1番 第1楽章
1台だけでも十分いろんなことがカバーできるチェロをたくさん集めるとどうなるか。いろんな役割を分担して、まるでオーケストラのようなアンサンブルになります。それがこのブラジル風バッハ第1番。8~12人のチェロがパワフルに、そして一糸乱れぬチームワークで動き回ります。冒頭からのブラジル独特のリズムの躍動感がたまらないですねー。
6)エルガー エニグマ変奏曲 第12変奏
チェロのためのレパートリー以外でもチェロは色々なところで活躍しています。今回選んだのは変奏曲の途中で短いためちょっとだけ見過ごされがちなチェロのセクションソロ。イギリスらしい哀愁を帯びたメロディーをセクション全員で歌い上げる、目まぐるしい変奏曲の中でもひときわ美しいひとときです。
7)日本民謡 知覧節(ヨーヨー・マ演奏)
ちょっと変わり種を一つ。ヨーヨー・マが日本民謡を弾くJapanese MelodiesというCD収録の一曲。元々日本の音楽はメロディーに重心が大きくて、それをチェロで歌い上げると深みがぐんと増すのですが、この曲には特別ななにかを感じます。西洋の楽器と東洋のメロディーの組み合わせで、チェロの音色の美しさと日本のメロディーの柔軟さが不思議な音楽を作り出すような。
8)ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
オケでチェロが一番輝いてるのっていつだろう、と思ったらこの曲にたどり着きました。いろんな楽器でいろんな良いとこがあって、チェロがものすごく目立つわけじゃないですが色々活躍場所はありますよ。冒頭とか(力強いところは一般的にチェロの貢献度が高い)、そしてスローな第3楽章は地味ながらも結構活躍してます。特にクライマックスで奏でる、諸刃の剣のようなメロディーは他の楽器じゃまねできない。
9)ピアソラ 「Le Grand Tango」
これはベートーヴェンとかブラームスとか伝統的なレパートリーに比べて若干演奏頻度は少ないように思われますが、チェロという楽器の性質を濃く表している曲だと思います。なんてったって情熱的。暗い。狂う。ただ暖かくて深くて歌うのではなく、「闇」はチェロの性質の大事なところを担っていると思います。とにかく最後の1/3での盛り上がりというか発狂が最高です。
10)クラム 弦楽四重奏曲「Black Angels」より「God-music」
クラム贔屓なのは差し引いてもこのGod-musicはチェロが活躍する曲としてもっともっと知られてほしく、評価してほしい曲ですね。チェロの音は地に足が着いたような安定感があるのですが、この曲ではそれも残しながらどこか浮遊しているような、伝統的なチェロのイメージからいろいろ解き放たれたようなところもあって(前述知覧節に似たような)。とにかくこのヘブライ風メロディーが美しくて、グラスハーモニカと音響が不思議な雰囲気を出して、本当に特別な空間と時間を作る曲です。
うーん、曲のチョイス・・・もうちょっとオケ周りでなんとかならないか。あと室内楽でももっと活躍してるはずなんだけどなあ・・・
レパートリーの幅は決して小さくはないけれど、ものすごく大きいわけでもないので取り残しはあんまりないはずなんですが。
とりあえずお試し、ということで。次回はもうちょっとだけでもうまく・・・なったらいいけど。
ちなみに他の楽器ではビオラとかチェレスタとか途中まで考えてありますが、なんとかまとまるといいな。
今日の一曲はお休みです。