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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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詩と音楽(おそらく前も書いた話)
前回のエントリーに拍手どうもです~

新しいPCのおまけについてきたReader、ほとんど使ってません。あんまり外にでないというのももちろんありますが・・。
ただPCに入ってた論文いくつか入れました。縦書きのpdfはどうやらだめっぽいですが(文学作品の中でのヒグラシの話なのに!)日本語も英語もちょこちょこ入れてみました。あとは読むだけ。

前も書いたのですが読むときはがっつり、という読み方なので小説とか中身・長さがフルサイズ(自分基準)の本だとあんまり読まないと思うので。
だからちょこちょこ読めて、手元に置いておきたくて、ふと思いついたときに好きなところが参照しやすいということで詩集をいくつか入れとこうかな、と思いまして。
手元に置いておきたい詩集、と考えるともう7人ほど手元に置きたい詩人が浮かびます。例によって音楽を通じてその作品を知った詩人ばかりです。
ということで今日はその7人の詩人に関連のある音楽作品を紹介します。

1)ライナー・マリア・リルケ: ショスタコーヴィチ 交響曲第14番 第9楽章「詩人の死」
リルケの詩は出身国であるドイツを中心にたくさんの歌曲に使われていますが、私が知ってると言えるのはショスタコの14番(交響曲とはいいながらどっちかというと歌曲集)だけですね。リルケの詩は割とストレートで癖のない印象があるのですが、ショスタコの書くこの曲の繊細さ、弦の音の透明さはぴったりですね。死んだ詩人を前にして時と空間が凍り止まった感覚。

2)ギヨーム・アポリネール: ショスタコーヴィチ 交響曲第14番 第3楽章「ローレライ」
同じくショスタコ14番から。11つある楽章の中の5つはアポリネールの詩なんですが、その中で一番好きな「自殺者」(第4楽章)は好きだ好きだといつも話しているような印象なのでこちらを。こちらも詩が美しくて(あらすじは「ブレンターノのローレライ」と同じ)、それをオペラのようにレチタティーヴォとアリアに仕立てて詩の中で登場人物に動きがあるところと時がとまったようになるところを分けているのがうまくできてるなあ、と思うのです。あとチェレスタもいるよ。チェロソロから次の楽章につながるよ。

3)フェデリコ・ガルシーア・ロルカ: クラム 「Songs, Drones and Refrains of Death」より「Casida of the Boy Wounded by Water」
ロルカももとはショスタコの14番から知ったのですが、プーランクが彼の死においてバイオリンソナタを捧げてたり色々音楽家と縁がある詩人です。その中でもやっぱり何よりクラムでしょう。ロルカの詩の数々を歌曲にしているクラムですが、その詩と音楽との融合はこの曲が一番です。この最初から闇に満ちた曲を締めくくる、澱んだ水の深さと暗さが心の奥まで染み渡る音楽。ピアノの弾むような低音のリズムが後で夢に出る・・・かも。

4)ウィリアム・バトラー・イエイツ: ウォーロック 「シャクシギ」 第3楽章「The Withering of the Boughs」
イエイツの名前はケルト神話・ケルト史周りで聞いたことはあるけどあんまり読んでないです。作品も多いですし。ただ彼は日本の能などの作品を編纂していたりもしていて、これはイエイツの作品も日本の伝統芸能の作品ももっと知れとつつかれているのでは(汗)でもこの「シャクシギ」に使われてる詩は探して読みましたよ。音楽は一続きですが詩でいえばこれが一番好き。風景の描写がすばらしい。ウォーロックの音楽にも風を感じて風景に心が解けていくようなところがあり。でもなんといってもコールアングレの渋さに惚れ惚れします。

5)ウィルフレッド・オーウェン: ブリテン 「戦争レクイエム」より「Dies Irae - Lacrimosa」
いつもお世話になってる歌曲に使われている詩とその翻訳を乗せたサイトをみたらオーウェンはブリテン以外でも歌曲にしている作曲家がいてなんだかうれしかった(なんでかな)。Dies Iraeは他の楽章よりもさらに元々のカトリックのレクイエムの歌詞とオーウェンの詩のミックス&対比がてんこもりなのですが、Lacrimosaの部分はその名の通り涙のセクションです。ここで使われてる詩は「Futility」=「無駄なこと」というのですが、戦いの中倒れた仲間を起こそうとする詩とLacrimosaの立ち替わり入れ替わりが。言葉で説明できない不思議な成り立ち。

6)エドガー・アラン・ポー: ラフマニノフ 「鐘」 第3楽章
ポーは有名ではあるけれど案外歌曲になっている作品が少ないような。今回言及した他の詩人と比べて時代が新しいわけではないようだけれど大西洋の向こうだからなのかなあ・・・
ラフマニノフの「鐘」(毎回くどいようですがフィギュアで使われてない方)は音楽だったら第4楽章が一番のお気に入りですが元の詩だったら第3楽章の真鍮の鐘が圧巻。曲で使われてるロシア語版もしっかり韻を踏んでるのですが、元の英語版のたたみかけるような繰り返しと執拗な韻のパワーがすごい。表だった形ではなく狂気が伝わってきます。

7)ウォルト・ホィットマン: クラム 「Apparition」より「Dark Mother Always Gliding with Soft Feet」
ポーとだいたい似たような時代で同じアメリカでちょっと似た闇のスタイルのホィットマンは歌曲が結構書かれてるようで。うーむ。何はともあれまたクラムです。「Apparition」はホイットマンの「リンカーン大統領の追憶」という詩集の「When Lilac Last in Dooryard Bloom'd」という詩の中の「Death Carol」と呼ばれる部分を中心に音楽にしているのですが、このDark Mother~の部分はピアノ伴奏の音がほとんどなく、ほぼアカペラ状態。まるで空気か幽霊のように透き通っているながらもものすごい包容力を感じる声と語感に不思議と心地よさを感じます(それはこの曲の他の部分にも言えるかな)


ということで今回は詩を紹介するのではなく詩を重視して曲を選んで曲を紹介してみました。
そしてなんだかんだで曲をいくつか紹介したので今日の一曲はお休み。

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Shipwreck Coast(への憧れ)
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~

ピアノを1時間半に増やしたり外に出たり創作のアイディアを出したりちょこっとゲームもしたり、仕事を短縮してもこまごまと忙しい日々です。
今週は木曜日に暑くなる予報で(39度)それを利用して一日出かけようかなーと思ってます。明日日本の連休明けに仕事の調整をしてからでないと決められないのですが。

行きたいと思ってるのはメルボルンの南西、グレート・オーシャン・ロード沿いにある街Warrnambool。
グレート・オーシャン・ロードは基本車で行くところで公共交通機関だと不便きわまりないのですが、WarrnamboolならV/Line(メルボルン郊外の電車)の終点なので比較的簡単に行けます。4時間くらいかかりますが。

Warrnamboolで一番有名なのがホエールウォッチングですが、残念ながら今はその季節ではなく(冬から初春みたいです)、2番目に有名なのがチーズ工場なのですがそれも車がないと行けない。

今回私がWarrnamboolにいく目的は「海」と「難破船関係」の2つ。
一昨年くらいだったかな?前回行った時は蒼い海を見下ろしながら延々と崖の上を続く歩道を歩いて途中でものすごい風雨にあったのですが今回はそれのリベンジに。ちょうどメシアンの「イソヒヨドリ」が崖と海の景色なので実際に目で見てみたいですしね。

そして「難破船周り」・・・は創作のネタもあり、自分の趣味もあり(創作も趣味ですが)。
このグレート・オーシャン・ロードの周りの海って移民船などの難破がものすごく多くて(波とか岩とか見晴らしとか)、それにまつわる観光名所とかもいくつかあるんです。(本当はPort CampbellのLoch Ard号の難破場所や博物館が見たい・・・)
Warrnamboolにはそんな難破船の遺品や当時の町の様子などが見られるFlagstaff Hill Maritime Museumがあって、着いたらまずそこに寄るつもりでいます。

そもそもグレート・オーシャン・ロードの難破船に心惹かれるようになったきっかけは8年生の時の英語の授業でやったDavid McRobbie著「Mandragora」という本。
この本に関しては授業の思い出も楽しいものばかりでしたが、本も面白かった。以前こちらのエントリーで紹介しています。

この本で出てくる難破船のモデルがメルボルンに向かい最後の移民を乗せたおそらく一番有名な難破船、Loch Ard号。
で、その歴史的背景を知るために本自体の勉強を始める前にグループに分かれてオーストラリアの難破船についてリサーチする、という課題があったわけです。
私は西オーストラリア沖のBataviaという船の難破について調べたのですが(向こうも多い!Bataviaは船上で叛乱とかあって面白かったし別の小説のモチーフにもなってる)、グレート・オーシャン・ロード周りも本当に面白い。

中でもWarrnamboolあたりの海岸に眠っているというマホガニー・シップの話。
これは探してみたら前述「Mandragora」のエントリーで書いていますがオーストラリアがクック船長によって発見される前にこの辺りに来て難破していたポルトガルの船のことで。オーストラリアの東半分はその時代にはスペインの領海だったため、そこにいちゃいけない船だったらしく。
それでその沈んだ船が過去に何回か目撃されているという報告があるそうなんです。伝説・・・と前回は書きましたが信憑性は伝説以上になるんじゃないかな。
それになんともたまらなくロマンを感じるのです。今は砂の深くに沈んでいるという話もありますがひょんなことからでてこないかなーと。

それに沈んでも沈まなくても帆船ってかっこいいですよ。
シドニーに行ったとき(ラリア1年目?で)観光用の帆船に乗った時のあの木の感じとかは今でも覚えてますし、サウスバンクの向こうにあるPolly Woodsideという船の「パーティー予約受け付けます」のサインを見る度に心惹かれますし。ついでにナルニア国物語で一番好きな話は「朝びらき丸 東の海へ」です。とにかく帆船とか航海とかに弱い(笑)
(ただし学校の授業でやったSailingは得意ではなかったです)

ということで木曜日、楽しみです。かなりの早起きが求められますが(汗)大丈夫かな・・・
それにまたSorrentoも行くつもりでいるので次回はそちらもレポしたいと思います。


今日の一曲: アルベルト・ヒナステラ 組曲「クレオール舞曲集」



去年借りたCDシリーズラスト(リゲティはオペラなのでどこで区切ればいいか分からないのでパス)。南米アルゼンチンからヒナステラのピアノ音楽です。
去年ブラジルのヴィラ=ロボスの作品を弾きましたが、もっともっと新大陸・ラテンアメリカの音楽を知りたい、レパートリーに加えていきたい!と思った結果次の駅がヒナステラでした。

でも紹介するのが難しい。まずこのタイトルの「クレオール」が何かWikipeで調べたら複数矛盾するとも言える意味が出てきて。
要するにヨーロッパ諸国が南米とかを植民地とかにして移住したりして、その結果「植民地で生まれた白人」をクレオールと呼ぶんだとか。それと同時に植民地の原住民をクレオールとも呼ぶらしくて。大変ややこしい。(南米の場合前者なのかな・・・ちょっと確信が持てない)

ただしそれを逆に取って解釈するとこの「クレオール舞曲集」というのは人の文化、というよりも土地の文化という側面が強いのかな、と思ったりして。原住民だろうが移民の子としてその土地に生まれた民だろうが、その「生まれた土地」のリズムと文化をなんらかの形で受け継いでいる、みたいな。

そのリズムは(ヴィラ=ロボスの音楽でもそうですが)ヒナステラの音楽でものすごいウェイトを占めていると思います。とにかくパワフル。ピアノならでは、というか様々な原色が混じった和音をぶつけるようなパワフルでイレギュラーなところがあるリズム。本当に大地から来るようなリズムですね。

ただしこのCDに出てくる曲で速い曲は大体このパワフルな和音とリズムの連なりばっかりで、いざ弾くことを視野に入れると体力とか弾く際のパワーが若干心配だったり(汗)でも弾けたら(ある程度の余裕を持って、ですが)楽しいだろうなあ。
それにスローな曲はシンプルなところがあるメロディーが美しくて、色彩が面白くて。不思議な魅力があります。

とにかく楽しいですよ、ヒナステラの音楽。それはやっぱりラテンアメリカの音楽に共通する特徴だと思います。色彩が独特で豊かで、リズムがパワフルで、そしてとにかく楽しい。
なので難しいことは考えずにただ楽しむのが一番良いと思います。

ちょうど試聴が見つかった録音がヴィラ=ロボスの作品とのカップリングだったのでリンク。もっと新大陸の音楽を楽しみましょうぜ!

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ラフマニノフの後期の作品の話 その2
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~

今回は一昨日の続き、ラフマニノフの後期の作品について。
前回から後期後期言ってますが私がラフマニノフの後期の作品というときは作品番号でいうとop.33以降、年で言えば1911年くらいからですね。
op.33=ピアノのための練習曲集「音の絵」の最初のセットなのですが、この曲集は作品番号一つ前の、同じくピアノのための前奏曲集とは(作曲時期が近いにもかかわらず)ちょっと趣旨や作曲スタイルが違うところがあったり。

そこから有名な「ヴォカリーズ」、合唱のための「徹夜祷(Vespers)」、合唱とオケのための大規模作品「鐘」(フィギュアで有名になったのとは別曲。でもこちらも素晴しい曲で、ラフマニノフの作品の中でも大好きな一曲です)など、主に歌曲・合唱曲を挟んで、ラフマニノフはop.39にピアノのための練習曲集「音の絵」の2つめのセットを書いています。作曲したのは1916年、最初のセットの5年後でロシア革命の1年前。

今私が弾いてるのもこのop.39の練習曲からなのです。さすがラフマニノフは巨大な手と超絶技巧の持ち主で演奏活動の割合も大きかっただけあって、「練習曲」は技巧的にかなり難しいです。
練習曲、というのは単純に技巧を鍛えるもの、技巧を披露するものではなく、これくらいの時代になると技巧をもってより深く鮮明な音楽の表現をすることに重きを置くようになっていて。
なので技巧の難しさはもっとさりげない形で現れるようになりましたし、色んなテクニックをさりげない形で組み込んでるため、練習曲をみて「これはこういうテクニックを磨くための曲だ」とはっきり言えないようになって。
ラフマニノフの練習曲もそんな感じです。

で、練習曲「音の絵」の中でもop.39のセットは前回書いたような、ラフマニノフの後期の作品の特徴が特に濃く現れているのが面白いと思うのです。
構成は以下の通り:
 第1番 ヘ短調
 第2番 イ短調 (海とカモメ)
 第3番 嬰ヘ短調
 第4番 ロ短調
 第5番 変ホ短調
 第6番 イ短調 (赤ずきんと狼)
 第7番 ハ短調
 第8番 ニ短調
 第9番 ニ長調

・・・お気づきでしょうか、最後以外全部短調。ただし、だからといって全体的にものすごーく暗いわけでは無いですし、最後の唯一長調の曲も(色彩に関しては)底抜けて明るいわけでもなく。
それぞれの曲がユニークなキャラクターを持っていて、さらに独特の渋めの色彩を豊かに展開しています。

そしてもう一つ、一部カッコでタイトルが書いてある曲がありますが、「音の絵」というだけあってラフマニノフはそれぞれの曲に絵画のようなイメージを関連させているようです。その度合いは曲によって変わるようで、上記のようにはっきりイメージが語られているものもあれば、ちょこちょこっとヒントだけが語られているものもあり。

それからこの曲集を通じてグレゴリオ聖歌の「怒りの日(Dies Irae)のメロディー(最初の四音:ド・シ・ド・ラ)が繰り返し現れる、という話もあります。ラフマニノフはどうもこのメロディーが好きだった、というか若干取り憑かれてた感があって、オケ曲「死の島」を始め色んなところでこの音型を何度も何度も使ってるんですよね。なのでそれを探してみるのも面白いです。

このセットだと初期の作品を思わせる情熱とダイナミックさをたたえた第5番、そして逃げる赤ずきん・追う狼の描写が映像的な第6番が特に人気が高いですね。
私が弾いてるのは自分が特に好きな第4,7,8番。第4番はロシアらしい土臭さとちょっと機械的なメカニズム、フレーズに合わせて変わる拍子が魅力的。第7番はラフマニノフらしい暗さとロシアの教会の鐘、ちょっと地味ながらものすごく深く濃いものがあるのが良いです。第8番は全然ラフマニノフらしくない、むしろフランス音楽に近いハーモニーとサウンド。
(ちなみにレスピーギが第2,6,7,9番と最初のセットの1曲をオケ編曲してるのも面白いですよ-)

練習曲「音の絵」の後もラフマニノフは作曲活動を続けています。演奏用の編曲も多いのですが、有名なところだと「パガニーニの主題による狂詩曲」、それから交響曲第3番(隠れがちですが愛すべき曲です)、そしてラフマニノフ自身が「最後の閃光」と話した最後の作品「交響的舞曲」(大好き!)、と素晴らしい作品を残しています。
ラフマニノフは作品数が多くないのでつい扱うのを避けてしまうのですがこれからもちゃんと良い曲を紹介していきたいです。


今日の一曲: セルゲイ・ラフマニノフ 練習曲「音の絵」 op.39-7



今回のエントリー、メインの部分は昨日書き終えて「今日の一曲」の部分を今書いているのですが、今日は昼にこの曲を練習してて「あーなんか諸々この曲とか他の曲の魅力がちゃんと書けてないなー」とちょっともどかしく思うことがあり。
やっぱり好きな曲に関してはいくら言葉を費やしても足りないし、納得がいかないものだなあ、と。

ラフマニノフの練習曲の中でもちょっと遅れて好きになったこの曲。地味だ地味だと言ってるop.39のセットの中でも輪をかけて渋い曲です。
でも一度その中にラフマニノフらしさを見つけて、その魅力に取り憑かれたら一生ものです。(そういう意味でも、そして色彩や曲調もホルストの「惑星」の「土星」にかなり似てるところはありますね)

レスピーギのオケ編曲にはこの曲が入ってるんです(「葬送行進曲」というタイトルが付けられています)。イタリア人からみるとこの曲の色調ってもしかしたらものすごく異質なんじゃないかなあ・・・(実際の編曲の中だとどっちかというとうまくいかなかった感がなきにしもあらず)

とにかくこの土臭い陰鬱さ、そしてどことなく漂う宗教的なフレーバーがロシアらしくて素晴らしい。ハ短調→変ホ短調という闇の深まりは最高ですし、そこからクライマックスで変イ長調の鐘が響くのもまたロシアらしい。染み入ります。
同時期の合唱+オケのための「鐘」の第4楽章を思わせますね(あと光の現れ方はマーラーっぽいところもある)。なんかどこまでもピアノなんですが、オケの響きに通じるものもあり。
ものすごく、なによりもラフマニノフ。これこそがラフマニノフだと私は思うんです(あくまでも個人的な感想ですが)。

ちなみにこの曲も大学時代に借りたアシュケナージの演奏をずっと聞いてるのですがもっともっと渋ーい暗ーい演奏を見つけたいなーと思ってます。自分で自分が望むように弾けるようになるのも大切ですが、聴くための録音ももう一つ欲しいなー・・・

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ラフマニノフの後期の作品の話 その1
前回のエントリー、そしてビオラのエントリーに拍手ありがとうございます~
 
一昨日はこないだ届いたスコアを読みながらペルトのLamentateを通して聴きました。
そして昨日は夢でface to aceの「ヒグラシ」を編曲する夢を見ました(夢の中ではっきり、というかがんがん聞こえました)。
ということで今もまだこの2曲が頭と心の奥に濃く刻まれている状態なのですが、今回は全く別の曲について書きたいと思います。
 
今(練習時間短縮中ながら)練習しているプログラムってメシアンの鳥カタを除くとちょっと「じゃない芸人」的なところがあるような。
フォーレも前奏曲集は比較的地味で演奏頻度も低いようですし、ドビュッシーの「映像」も第2集は時間も短く色彩もちょっと地味だったり、ラフマニノフの練習曲集「音の絵」もop.39のセットは渋いですし。
 
ラフマニノフ、といえば若いときの作品、前奏曲嬰ハ短調(日本では「鐘」という愛称で知られていますね)やピアノ協奏曲第2番などが良く知られていますが、そういう映画音楽を思わせるようなロマンチックな曲ばっかり知られているのは日頃からちょっと勿体ないな、と思っていて。
そういうロマンチックな曲からはラフマニノフはチャイコフスキーのロシアの流れを継ぐ後期ロマン派の終わり近くの作曲家、みたいな印象を抱かれることが多いのですが、ちょっと外に出てみるとまた違った新鮮なスタイルの音楽があって、意外と新しい時代を彼なりに切り拓いているようなところもあったりするのです。
 
特にラフマニノフがアメリカに渡って演奏家としての活動を主とするようになる前あたり、後期の作品は本当に毛色が違って面白いです。
ピアノ音楽ひとつとっても前奏曲集(op.23, 32)と練習曲集「音の絵」(op.33, 39)を比べると色々違うところがあります。(さすがにスクリャービンみたいに「これ同一人物!?」というほどではないですが)
 
ラフマニノフを始めチャイコフスキーや後の時代のストラヴィンスキー、プロコフィエフなどもある程度そうですが、ロシアの音楽って三和音(ドミソ、とかレファラ、とか3つの音で出来る和音)をそのままの形で重ねて使う事が多くて、結果色彩としては原色使いみたいなことになるんですよね(お隣のフィンランドのシベリウスもそう)。反対にフランスとかは三和音に音を+αしてもっと微妙な色彩を作ることが多いです。
でもラフマニノフは練習曲集あたりからハーモニー、そして色彩のバラエティが広がってきて、「いつの間にこんな色使うようになったの!?」と驚くほどです。その傾向は特にop.39のセットで強くて、なんかちょっと別世界なんですよね。
それが結果ラフマニノフらしくないとも取れますし、地味になったとも取れますが(例えば絵画で原色使いから和風の色に変わったようなことなので、どう転んでも全体が地味な印象に映る)・・・
 
それから後期のラフマニノフの音楽って、元々彼の音楽を裏で支えてたメカニズムみたいなものが前に出てくる、というか。
ロマンチックな印象が先走っているけれど、とっても頭脳プレイというか機械部分までものすごく綿密に作ってあって、理論的に分析してもものすごく深い。
それが後期になってみるとその機械部分が表に出てきて、結果一見クールになったようにも思えるのですが、中身は同じラフマニノフ、ロシア音楽の独特な熱や厳しさや土臭さがちゃんと入ってて。
 
だから魂は有名どころの曲となんら変わりないのですが、それを表現する方法だったり手段だったりが年を重ねた結果がらっと変わって、それが面白いと思うんです。先ほど絵画にちょっと例えましたがそういう感じなんですよ。音楽って絵画よりも比べにくいのですが。
そしてそのスタイルだったり、新しい表現の方向性が同じ時代の他の作曲家と違って。過激な試みはしていないけれど独特で、確かに20世紀の表現。ラフマニノフの後期の音楽はちょっと不思議なポジションにあるんです。
 
さて、長くなってしまったのでここで一旦切ります。次回は後半としてラフマニノフの後期の作品の中でも今回書いた特徴というか魅力が強く見られる練習曲集「音の絵」のop.39のセットについて続けて書きたいと思っています。書きます。


今日の一曲は次回やりますー。

 

拍手[1回]

ちょっとメルボルンの音楽に関して振り返ったり
前回のエントリーに拍手ありがとうございます。
そして「精神の調子が悪いときの練習」についてのエントリーに拍手ありがとうございます!
あれは自分でも自信があるというか、自分ができることをなんとか形に出来たエントリーだったので。
少しでもヒントになれれば幸いです。

さて、無事日本からの年賀状も届き、お正月も終わり。
こないだPhysiotherapistに腕を診てもらいに行ったら腕(腱鞘炎)でなくて頸椎の神経のトラブルということでした。
首や首から腕へ繋がる神経のストレッチをしながらピアノも仕事も少なめ(しっかり休憩もとる)ということで当分は行くことになりました。

去年末にちょっと書きたかったことがあるのですが、時間が経ってしまったのである程度ざっくりした感じで書きます。
前回のエントリーで2011年の一時帰国の辺りから聴く音楽の幅が広がったと書きましたが(ボサノバ、聖飢魔II、アジアの民族音楽、などなど)、それとは別に同じ時期でクラシック音楽に関してもちょっと変化を感じたことがありまして。
それは自分が自発的に聞く音楽ではなく、メルボルン周辺で演奏されるレパートリーに関することで。

メルボルンでここ数年の間で20世紀以降の音楽の演奏頻度が大分多くなった気がするんですよね。
実際のところその変化は私が大学を卒業してから徐々に起こっていたはずなのですが、でも私が特に好きなメシアン、そしてクラムの演奏頻度は2011年から目立って増えてるような・・・気がするのです。
(もちろん2008年はメシアン・イヤーでアカデミーのメシアン祭りなどもありましたが)
あくまでも感覚的な話ですが(一度メルボルン各所で演奏されてるレパートリーを分析してみたいものです)。ただし卒業当時と比べると違いは明確です。

メシアンについてはこのブログで何度も書いているようにもうスタンダードなレパートリーの立派な一員だと思います。
去年ユースオケでトゥーランガリラを弾いたり、時の終わりの四重奏曲についてはここ2年で複数回演奏されていますし、オルガン作品もリサイタルなどで弾かれているようですし(ただフランスのオルガンとは楽器の違いもあって難しいところもあるんだろうな)。あとはフルートとピアノのための「Le Merle Noir」もちらほら。
20のまなざしとか鳥カタとかがっつり曲集全部演奏される機会、そして大編成の曲が演奏される機会というのはさすがに少ないですが、それはこれからかなあ・・・なんといっても奏者・聴衆の慣れ、そして奏者が練習などに費やす時間の関係がありますからね。

クラムは確かにここ2年で演奏機会が変わった作曲家だと思います。
2011年から2012年にかけて私が実際聴きに行っただけでもApparition、Black Angels、鯨の声、天体の力学。
Black Angelsは私が聴きに行ったコンサートの他にAustralian Chamber Orchestraが「The Reef」というコンサートで今年・来年と一部を抜粋して演奏していたり。
片手で数えられはしますが、今も生きている作曲家の中では割と演奏頻度が高いと思われます。

当然私はこれらの変化を好ましいものだと思っています。
自分が大好きな(そして素晴らしいと信じている)音楽を生で聞く機会が増えること、そういった音楽の話をする仲間が増えることも嬉しいですし、奏者だけでなく聴衆にもそういった音楽が受け入れられ愛されるのも嬉しいですし。
現代音楽って難しいようで本当はそんなに難しくないし、独特の言語ながらも独特の美しさや表現があって面白いものだということが奏者に、そして聴き手に伝わりつつあるのは素晴らしいことだと思います。

前なんかのコンサートの前でマイケルが話していたのですが、ポピュラーな、聴衆に受けの良い音楽ばかりを提供することは奏者にとっても、音楽にとっても、そして聴衆にとっても良いことではないんです。
音楽によって新しい世界を拓くのは奏者が担うべき責任で、奏者は演奏を以て常に先頭に立って道を拓かなくちゃいけないと私は思っていて。(自分が出来てるかというとあれなんですが)
それは弾き手・聴き手にとって大変なことだけれどとっても大事なこと。

なかなかその奏者の意識も難しいです。私と一緒に大学を卒業したピアニストたちで海外に留学に行った友達がいるのですが、そのうち何人かは向こうで現代音楽をアクティブに弾くようになってるんですよね。(アカデミーに進学した友達もしかり)
つまり、メルボルン大学音楽科においての現代音楽に関する教育(特にピアニストの)はどうもいかんですよ。
(それはまあクラムの音楽を実験音楽扱いしていたことを始め在学中もうすうす気づいていたのですが)

それからマイケルの話でちょろっと聞いたのが世界の色んなところでクラシック音楽の新しい音楽の作曲・演奏活動が推進力を失って来ている、ということで。マイケルのがんばりなどもありオーストラリア(特に南部)はまだまだmomentumを持っているとのことですが・・・
それは先ほど書いた「受けの良い」音楽への偏り(もちろんお客さん集めて稼がなくちゃいけないのですが、それでも一般への浸透も合わせて諸々)、奏者の教育(奏者の質は高くなっているのに)など色々要因があって。
演奏の形態を工夫したり、色々試行錯誤がなされているのですが・・・

そんな中メシアンとかクラムは(現代音楽でも)必ずしも前衛的な音楽ではなくて、抽象的だけれど音楽的・イメージ的にとっかかりがある、現代音楽におけるゲートウェイとしてのポテンシャルがあると思うのです。
(マリファナがゲートウェイ・ドラッグと言われるのと重ねてしまった(汗))
だからメシアンやクラムの作品がその前の時代の作品と組み合わせられたり、もっと前衛的な作品と組み合わせられたりすることで奏者・聴衆共に道を拓くきっかけになると思いたいんです。
(クラムの作品は踊りや照明など演出のポテンシャルもありますし、それにどちらも室内楽でちょっと変わった組み合わせの楽器を使ってたりとかして、それでもレパートリー組みの可能性が広がりますしね)

だから純粋にもっとメシアンが聞きたい、クラムが聞きたい、というだけじゃなくてさらに向こうへの広がりもあるといいな、と思っています。
もちろん自分でもメシアン、クラムを弾いてそしてそこから20・21世紀音楽のレパートリーを広げていかないと、ですね。


今日の一曲: ジョージ・クラム 「鯨の声」 第四変奏 「中生代」



今日はメルボルン、最高気温が41度でした。暑くなるとクラムが聞きたくなりますが、特に最近海を思うことが多くなり、海が恋しくなるとやっぱり「鯨の声」(Vox Balaenae)が恋しくなります。

このブログでも何度か話が出ていますがこの「鯨の声」はフルート、チェロ、ピアノのために書かれた曲で、時の始まりから時の終わりまでの海、そして時代と共にその海で生命をはぐくむ生物たちの栄枯盛衰を描いた作品です。
作曲家クラムがザトウクジラの声をテープで聴いたのがきっかけでこの曲を書いたんだとか。

どこまでこの曲が科学的な諸々を反映しているかは分かりませんが(それに1971年作曲ですから新しい発見によって変わってることもいっぱいあるかも)、地学周りで調べて見ると面白いものがいっぱい出てきますね。
私がお気に入りに入れてるページにこういうサイトがあるのですが、割と「鯨の声」に対応するところがあって活用しています。

第4変奏の「中生代」は爬虫類、特に恐竜が地球に君臨した時代です。
気候は温暖で多湿、海は低酸素だったそう。爬虫類は地上だけでなく海にも生息していて、その鱗と牙を持った「竜」たちの繁栄をこの「中生代」の賑やかでメタリックな音から連想します。
(ちなみに金属音はピアノの特殊奏法によるもの。彫刻刀を使ったりしてるはず)

この「中生代」でフルートとチェロが奏でるエキゾチックなメロディーだったり、波のしぶきを思わせるピアノの5連符の音だったり、ダイナミックな曲調が私がこの曲を好きになったきっかけで。(あとは小さいころ恐竜が好きだったのもかなりイメージに影響してるかも)
やっぱりこの変奏はピアノ無双ですから(笑)フルートがかっこいい変奏も、チェロがかっこいい変奏もあって、全員それぞれ見せ場があるのもいいですね。楽しそう。難しそうですが。

そして以前書いているのですがこの曲、割とクラムの愛好家でない音楽家にも人気なんですよ。フルート奏者での人気は言わずもがなですがこれでクラムに興味を持ち始める人がちらほら。
そんなには不協和音的ではないですし、割と伝統的な「美しさ」も持ち合わせているのでクラムをあんまり聞いたことがない、という場合でもお薦めです。

なんか書いてたらこないだWunderkammerで見た各時代(古生代・中生代など)のカードを買いたくなりましたね。楽譜がなぜかちょろっとついてるやつ。ぴったりじゃないですか、この曲に。
こんど買ってこようかな。

リンクしたのは手元にある録音。Zizi Muellerのフルートがかっこいいんだ!(Idyll for the Misbegottenでも)
そしてMadrigalsを歌ってるのはJan DeGaetani!さらにジャケットもかっこいい(笑)
これも大学図書館コピーなのでそのうち(リンクしたのはmp3ですがCDとして)入手したいです。

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