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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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中国史好きの音楽の話
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~

去年誕生日に曼荼羅的な絵を描きましたが今年もやりたいな、と思って今日はペン入れしてました。誕生日には色塗りは間に合わなさそうですが近いうち仕上げたいです。(ついでにピーターの曲で色塗りしたい絵もありますし、そっちもまた)
ちなみに去年の絵はこんな感じ。今年はもちょっと違う感じです。

昨日は夜も遅くに何やら自分の中で考えが迷走していました。
もう長い間中国の古代史が好きなのですが(このブログでもちょっと過去に書いたかも)、どこから始まった話か、「秦の始皇帝の生涯の物語をリヒャルト・シュトラウス風のオペラでやったら面白いだろうな」(いわゆるチャイニーズ・オペラ=京劇とかではなく)という想像が始まり。
なんかこう、物語にアリアを入れたくなるようなポイントがちょこちょこあるんですよね。ソロのアリアだったらまだ子どもとか若い頃の始皇帝(テノール)だったり、呂不韋(バリトン)のアリアとか呂不韋と趙姫(ソプラノ)のデュエットだったり、あとは始皇帝暗殺のくだりで荊軻(テノール)に2つ3つくらいアリアを歌わせたいですし(ちょーっと贔屓しすぎかな?ものすごい好きな人物なのですよ)。

あとは春秋時代で伍子胥を題材にシェークスピア風スタイルの悲劇とか。(リチャード3世とかオセローとかみたいに)ああいうモノローグがものすごく映える人物ですからねー。面白そう。
それから歌曲集の題材にするなら女性人物がいいかな、と。歌曲集は一続きではなくてシーンごとに切り取る形なので嫁ぐ前、嫁ぐ後とかで心境の違いとか描写したらいいなーとか思って。

上記の妄想は全部西洋音楽・西洋文学の形態で、という形をとっていたのですが、もちろん中国にも昔の昔から音楽文化があるのですよね。今各時代のそれがどれくらい、どんな形で残っているかは分からないですが(時代のながらももちろんですがその間に起こった変化も半端ない)、ものすごく興味があります。

中国の歴史で「考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝」(by wikipedia)である殷王朝にも音楽にまつわるエピソードがあるんですよね。最後の王・紂王を惑わして王朝を滅びさせた悪女として有名な妲己の悪行の一つとして「新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽」を作らせた、というくだりがあるそうで。なんか要するにざっくり言えばふしだらな音楽を作れってことだったらしいです。
歌曲にしても言葉だけじゃなくて音楽のスタイルから何からこれまでの宮廷音楽(がどんなものか分かりませんが)とはがらっと違う、そういう感じになるような音楽を作る必要ができたということで突き詰めてみると(資料は少ないながらも)興味深い音楽の改革なんじゃないのかな、と思います。
(文化全般そうですけど中国史において音楽って割と君主主導で変化してってるようなイメージがあります)

古代中国において宮廷の音楽と庶民の音楽ってどういう線引きというかスタイルの違いがあったんだろうな、ということはたまに考えます。
例えばところ時代かわって中世のヨーロッパでは「カルミナ・ブラーナ」に見られるように宗教音楽とは別の民俗音楽があったということは知ってるのですが。そしてその時代を舞台としたBryce Courtenayの小説「Sylvia」でその民俗音楽の一つの役割が若い人に恋とか性愛について教えることだった、みたいな描写があって(カルミナもそういうとこありますしねー)。
だから妲己が命じて作らせた新淫の声etc.にしても宮廷文化はそういうものを避けていただけで庶民の文化ではそういうものをすでに音楽の中で扱ってた可能性は十分あるんじゃないかと思います。

それから宮廷・庶民の文化それぞれにおけるマルチカルチュアリズムも(なかなか追っかけられてないのですが)興味があります。庶民に関しては今ほど交通手段が整ってなかったとはいえ割といろんな地方に人が行き来してた印象はあるのですが、宮廷においての文化のミックスはさらにすごかったのではないかと思います。正式な国交に限らず例えば皇帝が別の国から妻を迎えたり(あれ、それは正式な国交か)、奴隷や音楽家などのスタッフを集めたり。

割と小説を読んでて「外国」(今で言う中国の中の)の音楽を演奏させる場面って出くわすような気がするのですよね。例えば陳舜臣著「小説十八史略」を読んでると音楽を通じて望郷だったり異国感だったりを描写するのが結構あって(特に女性がメインのくだりではそう)、それがものすごく好き。
故郷の音楽、というのは世界どこでもやっぱり生まれ育った地を離れて生きる人物にとって故郷を強く思わせ、復讐や望郷の念をかきたてるもので、その音楽の持つ力を感じられる歴史のエピソードはやっぱりいいなあ、と思います。

もう延々と書いてしまいそうなので今回はここら辺で。
まだまだ勉強不足ですしもう何年も中国史の本は新しく買ってないですが(・・・というか家にあるのは全部父が持ってたやつ)、いい中国史(主に古代)の小説・歴史書があったら読みたいです。そのうち。日本に行って買うか。


今日の一曲はお休みです。

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4000 visitors - Thank you all!
前回のエントリーに拍手、ありがとうございます。
そして今日カウンターが4000を超えました!訪れていただいて感謝です!
こないだも書いたのですが検索キーワードでいらっしゃっている方、求めている何か、あるいは求めてなかった別のなにかがここで見つかれば幸いです。
これからも長らくよろしくお願いいたします。

・・・とは言っても今日は他に書くこと考えてなくて(汗)
もうすぐで書き終わりそうな創作もろもろだったり、誕生日になんとか仕上げたい絵だったり、明日の胃カメラだったり、昨日買うことになったけど結局キャンセルになった車だったり、ピアノのことだったり、ゲーム周りだったり、一時帰国だったり、色んなところに注意が分散してしまって。(あらためてリストしてみると多いな!自分でもびっくり)
車に関してとりあえず言えるのはやっぱ難しいですな。プライベート売買だと特に。また今度目処がついたら改めて。

あれよあれよという間にもうすぐ誕生日で、妹にはiTunes storeのvoucherを買ってもらうことにしました。
今本当に音楽に出会いたい時期というか、欲しいものがほぼそれしかないんですよね。こないだ興味本位でiTunes storeを「Celesta」で検索してたら余計に。いろんなジャンルの音楽でチェレスタが使われてるのが試聴できて本当にうずうずする!もっと自分なりにこの楽器を探索したい!と思ってしまうんですよ。
世界中の、様々な時代の音楽にアクセスできる時代のすごさをもろに感じましたねー・・・ゆっくり揃えていきたいと思います。購入したらまた紹介しますね~

一時帰国に関してはやりたいこと色々あってまた固まってきたら別エントリ立てたいのですが、「工場見学」に行ってみたいな、と思ってます。
静岡 工場見学 などのキーワードでグーグル検索かけてみると結構見学できる企業をまとめたページとかがあって面白いですね。こことか。主に食品・飲料、そして静岡なので楽器が2件。
翻訳のお仕事をいただいたクライアント会社さんとか以前担当した案件に近い事業の企業が一番勉強になりそうだけど(でも品質管理とかについては薬品・食品などわりと広く共通してる部分もありそうだなあ)、やっぱりピアノの方にもどうしても惹かれますねー(笑)
(でも両親が住んでるのは県の東側なのでちょっと遠いっちゃあ遠いかも・・・)
仕事との関連もそうですが、こういうのを見るのもまた日本のものづくりを見る、つまり「日本を見る」ことだな、と最近思っています。あとやっぱり単純に面白そう(笑)自分が身近に触れたことのない世界ですからねー(父の会社も工場あるんですが、一応)

そして両親が日本から荷物を昨日送ってくれたそうで。誕生日には間に合わないっぽいですがface to aceのCD3枚!(その他にもいろいろありますが・・・あ、意外なところだと妹がチャーシューを作るのにたこ糸を頼んだそうです(笑)楽しみです。私はあんまり自分のできるとわかってる枠の外にでないもんで、料理は)

そういえば私の誕生日といえば次の日が七夕です。前南半球で見える星、見えない星について書いた時に書いたかどうかは分かりませんがメルボルンではベガ(織女星)もアルタイル(牽牛星)も見えません~
なんとなーく、昔見た星空を覚えてはいるけれど一時帰国ではそこまでゆっくり夜空見れてないからなあ。でも北斗七星は最近の一時帰国で探しましたよ。あれならほぼ季節問わず見れますしね(南十字星がそうだから北斗七星もそう、と思ってしまっているんですが間違ってたらすみません)。
7月7日は夜外にでる予定はないのですが7月8日は友達と集まって飲むつもりなので空に目を向けたいと思います。星が見えないほど酔う予定はないですので(笑)

ということで明日は胃カメラ。
今日の真夜中から絶食、朝バスで病院に向かって内視鏡検査して回復して数時間待って妹同伴で帰宅、という予定。帰宅は同伴必須で公共交通機関使っちゃダメということで。
11時には終わるんだけど、と言われてるのですが妹が来れるのは3時半とかなので待ち時間が長い。いや、待つのはいいんですけど病院に手間がかかるので大変申し訳ない。(学校に通ってるとき住んでたエリアなのですがみんな家を出て職についているのでそれしかないんです・・・)
そのまま一日休んでなきゃいけないので明日は胃カメラレポ書けるかどうかわかりませんが(そもそも書くことあるかな!?)、なんか面白いことがあったら(非日常な体験ですし)書きますね(笑)
それよりも何よりも、ピロリ感染とか重大な所見とかが見つからないよう願っています。


今日の一曲: The Beatles 「While my guitar gently weeps」



ちょっと趣向を変えて、久しぶりに。
ビートルズの楽曲のなかでものすごく好きな部類に入るのですが、どうしても「Strawberry Fields Forever」とか「The Long and Winding Road」とかそっちの方を先に挙げてしまってあんまり目立たせることがない曲で、それに気づくたびになんか申し訳ない気持ちになる曲です(苦笑)

あと、最近あんまりラジオは聴かないのですが昔母が車でラジオをつけていたころ、60年代~80年代の音楽のチャンネル(Gold FM 104.3)をよく聴いてて。この曲はなぜか自分にとってはCDでビートルズ揃えで聴いたり、ipodでシャッフル再生して聴くよりも同時代の音楽がラジオで流れてくる中で出会うのが格段に嬉しかったりするのです。
理由はよくわからないのですが。きっと自分のなかでこの曲は「この時代の代表的な音楽の感じ」(大部分は生まれてなかったけど!)というざっくりした印象があるんだと思います。

もうですね、歌でなくギターばっかり聴いてたい曲です(笑)
タイトル通りの「泣く」ギターソロだったり、間奏の終わりが長調になるとこだったり(調との相性もいいんですよ、きっと)、全体的なちょっと古びた雰囲気だったり、ちょこちょこフレーズの終わりだったりなんかこう、やられちゃうんですよ。
楽器一本の音が心に染みいる、というのはいいですよね。ピアノだといっぺんにできることが多くて複雑だから、もっとこういうシンプルに染みいる音ってのは忘れちゃいけないと思いますし。

そのとってもストレートな悲しみが単純にいいなあ、と素直に思います。
いつもではないけれどここぞという心持ちのときに(実際冬はありますね、そういうの)聴きたくなる曲です。

余談ですが、聖飢魔IIのCDをamazonで探したときにも思ったのですが、英語の歌のカタカナ表記の読みにくさびっくりしますね!

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6月も無事終わり。
前回のエントリーに拍手ありがとうございます!

今日で6月も終わり、先月「一旦リサイタルのプログラムを休んで新しい曲を弾いてみる」といった期間の一応の終わりです。
結局弾いたのは(復習も合わせて)こんな曲:

モンポウ 歌と踊り 第5,6,7番
カバレフスキー 前奏曲 嬰ト短調、変ロ短調、変ホ長調
シマノフスキ 練習曲 op.4-3
ヴェーベルン 変奏曲
ドビュッシー 「映像」第2集より「葉ずえを渡る鐘」
ラフマニノフ 練習曲「音の絵」 op.39-4
メシアン 「鳥のカタログ」より「ニシコウライウグイス」

この1ヶ月新しい曲と出会えて楽しかったですし新鮮でしたし、リサイタルのプログラムを続けるだけでは身につけられないものも少しはあったかな・・・と。

出会いに関してはやっぱりヴェーベルンと改めて向き合えたのは大きかったです。前々からいわゆる「新ウィーン楽派」と呼ばれる、20世紀前半のオーストリア周りの音楽(シェーンベルクとかベルクとかも)を弾いてみたかったですし、去年のマイケルのこの曲の演奏で「できるかもしれない」と思っていたのでこれはいい機会でした。わりといけるかも、と自信がつきました。まだ弾くだけでなく分析面でもやることいっぱいありますが・・・

でも、一見何が何だか分からないような音楽でも、自分が親しんでいる音楽と変わらない物理の法則というか、なんらかの共通言語が存在していて、それを見つけたり、音の数列(Series)を見つけたりすると一気に曲との距離が縮まる感覚はもうやめられませんね(笑)わけがわからない、なんて言われますが現代音楽と向き合って関係を深めていくのはやっぱり楽しいです。

そして去年の冬弾いていたカバレフスキーに戻れたのはなんだかほっとしました。去年始めたばかりなのですがこの馴染み様は自分でもびっくり。ショスタコとかプロコフィエフで長年培ってきたソヴィエト音楽への愛と親しみなんでしょうか。
もともとこの前奏曲集からいくつか弾きたい、と思ったのは今回弾いた変ロ短調のがきっかけで。いかにもソヴィエト!と私が感じたこの曲、本当に楽しく弾けたのですが同時に自分の腕の長さの限界も思い知った曲でした(笑)

それから「映像」を1曲増やせたのは大きかったです。何よりもドビュッシーにまた触れられて安心しましたし、弾いていて気持ち良かったですし。そして結果これで「水」系の音の細かい2曲だけが残り(以前も描きましたが)。

ラフマニノフは大学1年の最終試験で弾いた曲なんですが、今回弾いたことでいかに最近自分の指が衰えているか、いかに技巧的な側面を怠ってきたかが浮き彫りになりましたね。
この曲はがっつりの動きと細かい動きがミックスで出てくるのがトリッキーで、自分の手のキャパをちょっと超えてる感じがして。曲も何回戻ってきてもものすごく好きですし、指を鍛えるにはいいかなと思った次第ですがこれがリサイタル曲に生きてくるかな・・・?

そして今後演奏プログラムにちょこちょこっと組み入れられるような、人前で弾いてもいいと思える曲が増えたという意味でもこの1ヶ月のレパートリーは自分の力になったのではないかと思います。
ソナタ一つまるまるとか曲集まるまるとか習得するのも大切ですが、小さい曲をこうやってちょこちょことやっていくのに時間を割くのも大切ですね。
今月やった曲が生きるのはまだ先になりそうですが再会するのを楽しみにしています。

・・・といっても実は今日で全部打ち止めにするのではなく、ドビュッシーとかラフマニノフ、ヴェーベルンとニシコウライウグイスはもうちょっと延長で弾くつもりでいます。1週間とか2週間とか。(もちろんリサイタルのプログラムには順次以降しながら)まだまだやりのこしたことがあって。

ニシコウライウグイスはもう半年も弾いてるんですよね。ちょっと習得遅いなあ、というかだらだらやってるなあ、一旦置いておいて戻ってきた方がいいのかな、とは思うのですが。どうも手放すには好き過ぎるというか(苦笑)弾けなくても弾くのが好きで。でもまあいずれは置いて先にすすまなきゃ。春にはイソヒヨドリが待っている。
とはいっても「鳥のカタログ」は「20のまなざし」より時間はかかる気がしますし、何回か戻ってくる必要性をより感じます。もっと「鳥のカタログ」を身につけたい。

ということでなんか内省的というか「誰が知りたいんだ」という内容のエントリーになってしまいましたが今月身につけた曲はまた将来生かしていくつもりですのでその再会の時にはちょっと思い出してやってくださいな(笑)
明日からはまた気を引き締めて。


今日の一曲: カール・オルフ 「カルミナ・ブラーナ」より「Estuans Interius」



寒い冬には必ず思い出すこの曲。外の寒さの厳しさとそれに伴う心の厳しさ(Bitterness)、そして飲み屋の暖炉で燃える炎を思います。
人生に翻弄され運命に弄ばれる一人の人間とその心のbitterな様子を表す歌なのですが、割とこう、率直な歌詞が印象的ですね(あくまでも私の印象ですが)。

率直に怒り語るバリトンのパートももちろん魅力的ですが、オケのパートもなかなか好きです。
これは歌曲全般に言えることですが、歌い手は多くの場合主人公、一人の人間の心情を表す役目で、伴奏は(ピアノなりオケなり)周りの空気、風景、より大きい力を表す役目をしています。
例えばシューベルトの「美しき水車小屋の娘」だと小川・水車を表す音型が頻繁に出てきたり、風景描写などのテクニックが分かりやすくあったりするのです。そういうとこに作曲家のトリックや技が聴いていたり、見つかると面白いですよ。
なので是非歌曲では歌だけではなくバックのオケやピアノにも注意して聴いてみてくださいね~

このEstuans Interiusは主に弦の伴奏がこの激情と空気の厳しさをよく表してると思います。とにかくリズムがにくいですね。
あとサビの前のオケだけの3小節のリズム大好きです(笑)

このEstuans Interiusに始まってIn Tavernaに終わる、男声+オケによる飲み屋の一連のシーンはほんと楽しいですね♪たのしく聴きたい弾きたい歌いたいです(笑)


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国立アカデミー「Viola! Sound Bite」コンサート感想
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~

今日はTwitterで面白い記事が回ってきました。英語ですがこちら
とある指揮者がプロジェクトの一部としてクラシックの偉大な作曲家10人を挙げたのですが、それに著名なビオリストを両親とする8歳の男の子が反論として自分が偉大だと思う10人の作曲家、そして自分が好きな10人の作曲家をのリストを挙げたその実際の手紙だそうで。挿絵入り(笑)
それがなかなかしっかりしてるんですよね。自分はこう思う、というのを8歳にしてちゃんと形にしてるところとか、実際の作曲家のチョイスとか、あと「偉大」と「好き」がちゃんと別物なとことか。(私が8歳のときはまだ「出会って」なかったもんなー)
実際の手紙自体は8歳の文で英語も分かりやすいため是非詠んでみてください。子供らしさにもほっこりします。

さて、今日は昼に国立アカデミーにコンサートを聴きに行ってきました。
今週はアカデミーで「Viola!」というビオラ奏者のゲストを迎えてのコンサートやマスタークラスなどが行われる、「ビオラ祭り」が行われていて、その中のコンサートでピーターの曲が演奏されるということで今回行ってきたわけです。
本当は火曜の夜のコンサートで演奏されるはずだったのですが予定変更となり、ついでに演奏されるはずだったBrett Deanの曲がプログラムから抜かれた結果、こういうプログラムになりました;

<Viola! Sound Bite>
モーツァルト バイオリンとビオラのための二重奏 ト長調 K.423
de Jager 7台のビオラのための「Metaphors」
ベートーヴェン 弦楽三重奏 ニ長調 op. 9-2

・・・ということでモーツァルトとベートーヴェンと名前が並ぶ、という。すごいですね(笑)

以前ベースパート抜きのバンド、アンサンブルについてちょっと話をした覚えがあるのですが(Twitterの方だったかな)、このモーツァルトは正にそういうアンサンブル。こないだのピアノ四重奏曲と同じくバイオリンとビオラが寄り添うような形でデュエットを奏でて、必ずしもベースラインを担当するわけがないんですよね。で、バンドで言うリズムセクションに該当するパートもないため、リズムが比較的弱くなって、でも即興的なパッセージがより自由になる(そこんとこ今回の演奏ではよく生きてたと思います)。
当時の宮廷で(例えば弾くスペースや設備の関係で)こういうセットアップが必要なこともあったのかな、というのは想像がつきますがとっても不思議なアンサンブルですね。

ピーターの曲「Metaphors」は元々9台のビオラのための曲になるはずだったのですが最終的には7台のビオラのために書かれたようです。第1楽章は1人、第2楽章は2人、と楽章ごとにビオラが増えていってビオラだけのアンサンブルの様々な形、ビオラの様々な音色が世界を創り出していくような印象。
前後がモーツァルトとベートーヴェンということでちょっとこの現代音楽の分かりにくい感じはどう聴衆に受け止められるかなあ・・・と前半を聴いていて思ったのですが最終楽章の美しさの前には全くの杞憂でしたね。
最後の第7楽章は揺れる水の中のような6つのビオラの色彩の中にアラビア風の即興的なメロディーが奏でられる、とんでもなく美しい曲で。今描いている絵の色塗り作業はこれを聴いてやりたい!と強く思いました。(録音をもらえるようお願いしておきました~)他にも第5楽章、第6楽章でのビオラの使い方と音、色彩は本当に驚くばかり。
弦楽器をそろえるのではなく、ビオラだけを重ね、一緒に弾かせるアンサンブルのすごさに圧倒されました。元々ビオラは他の音に合わせる楽器ですが、他のアンサンブルよりもよりいっそうお互いの音を注意して聴くことが必要とされる曲でしたしね。

それから今回第1ビオラを弾いた方、昔メル響で弾いてて今はACOで弾いている方なのですが(実は一緒にお仕事したこともあるのです、今でもネットに動画が残ってるMetallephonicのコンサートで)、久しぶりに演奏を聴きました。
とっても個性的な、金属味が強いようなビオラの音で、彼のようなビオラの音は他でも聴いたことがないのですが、第1楽章のソロでは今までビオラで聞いたことのないほどの多彩な音色、表現が聴けて。びっくりしました。書き手も弾き手もこの(何かと過小評価されがちな)楽器の魅力と能力をフルに、それ以上に発揮させているんですね。

ベートーヴェンのトリオ(バイオリン・ビオラ・チェロ)もまた一つの完全な世界でしたね。
これはチェロがベースとして下を支えてるためビオラが割と自由に動けるタイプのアンサンブル。モーツァルトほどバイオリンに近くはない、もうちょっとチェロ寄り?なパート。内声サポートとしてのビオラですね。
このアンサンブルではビオラの渋い音も好きでしたが、割と小柄なチェロの女の子の働きが凄かった!こんなにアクティブでしっかり安定してると他の2人も安心して弾けるだろうなあ。

ビオラ祭り、ということでこのコンサートではビオラの色んな働き、作曲家としてのビオラの使い方、そして楽器としてのビオラの魅力がそれぞれの曲で味わえました。
モーツァルトはビオラをバイオリンと同等の能力を持った、とっても似た楽器として扱うのですが(バイオリン弾きでビオラ弾きだからかな)、そのためビオラならではの渋さとか暖かみとか歌わせ方が味わえないところがあったりするんですよね。
ピーターの「Metaphors」は(それを言葉で特定するのは難しいですが)そこここに「ああ、これはビオラならではだな、バイオリンでもチェロでも真似できないな」というビオラの能力と魅力があふれて居ましたし。
そしてベートーヴェンの三重奏には「バイオリンとチェロの間に位置する楽器」としてのユニークな役割、そして今おそらく一番「ビオラの役割」と認識されているビオラのポジションがあって。
ビオラという楽器のファンを長らくやっていますが(笑)、やっぱりこの楽器は素晴らしいな、と改めて思いました。

ピーターとは近いうち(録音のあれも含めて)会えるといいな、と思ってます。向こうから「忙しくて会えなくてごめん」と言ってくれましたし。優しい子だなあ。
今年の私の鬱は「疑心暗鬼」が目立ってる中、どうしても悪い方に考えてしまう病気の思考を打ち破ってくれている友達の存在には本当に感謝しています。


遅くなってしまったので今日の一曲はお休みです。また次回。


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メシアン、音楽、心、etc.
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~

メルボルンは冬真っ盛り、つまりコンサートのシーズンも真っ盛り。
ここ数年、大学に入って現代音楽にはまり始めたときと比べるとメルボルンでも心なしか20世紀以降の音楽が演奏される機会が増えたような印象があります。前はメル響のMetropolisシリーズで聴くだけだったあたりの音楽も、 Melbourne Recital Centreで室内楽規模の小さめのコンサートが増えてからぐんと聴くのが増えたような。
クラムの演奏もここで紹介したように何回かコンサートでやってますし、メシアンあたりなんかすでにスタンダードレパートリー扱いなんじゃないですか?メシアンイヤーとそう変わらない頻度っぽいですよ。
(今度メルボルンの主要コンサート場所の一ヶ月のプログラムを分析してみたいですね、Hamer Hallも再開しますし)

来月の後半にはMelbourne Recital CentreでAustralian Chamber Orchestraがメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」(とシューベルトの「ます」五重奏曲)を演奏するそうで、それに先駆けてMelbourne Reviewでメシアンのオーストラリアとのコネクション(1988年の来豪と「彼方の閃光」)と、それからこの四重奏曲の作曲の経緯についての記事が出ていました。英語ですが本文はこちら
今日昼Twitterの方でも紹介したのですが、この記事の最後のエピソードがとにかく凄かったので今回紹介しようと思います。

以前もこのブログで説明したと思いますが、この「時の終わりのための四重奏曲」は1941年、第2次世界大戦のまっただ中にメシアンが強制収容所に捕らえられている間に書かれたものです。
さっきの記事によると元はその場に楽器があって奏者が居たバイオリン・チェロ・クラリネットのトリオとして書かれるはずだったそうですが、看守の方の好意でピアノを収容所に運び入れてくれたらしく。
真冬の強制収容所という寒く厳しい環境の中で、収容所に囚われていた500人を聴衆にこの曲の初演は行われました。
(それにちなんで去年メル響のSecret Symphonyではメルボルン監獄でこの曲が演奏されたそうです)

肝心のエピソードは時変わって1970年代のワルシャワでの出来事。とあるピアニストがこの「時の終わりのための四重奏曲」の演奏に向けて練習していたところ、老人が「この曲は聴いたことがある、何という曲なんだ」と尋ねてきたそうです。なんとこの方、前述1941年の強制収容所での初演でこの曲を聴いた方だと判明。
初演では楽器もリハーサルも演奏環境も満足ではなく、初めての演奏を一回聴いたっきりにも関わらず30年もの間この曲がその方の記憶に残っていた、というのがまず凄いです。

そしてもうひとつ凄いと思ったこと。
音楽というのは良くも悪くも人の心を揺さぶるもので、記憶に強く結びつくことが経験や研究などで分かっています。
だから例えば先ほどの方もメシアンの曲の記憶が戦争や強制収容所での体験の記憶と結びついて苦しみに繋がった可能性も十分あり得るわけです。でも先ほどの記事から読める限りそういうことはなかった。

メシアンの四重奏曲が強制収容所で作曲された同じ頃、同じヨーロッパでもユダヤ人が送還された強制収容所ではワーグナーの音楽が鳴らされていたそうです。(ガス室に向かう間、とも聞いています)
ワーグナー自身反ユダヤ思想を持っていただけでなく(ヒトラーがそれに影響された、という形だったかな)、ワーグナーとヒトラーも親交があったみたいですし、ナチスがゲルマン民族の優越性に関するイメージ戦略としてワーグナーの音楽を多用していて。
今でもイスラエルでワーグナーの音楽がほとんどといって演奏されなく、ここ周りでまだまだ大きな確執が残っています。周りの若い音楽家でもワーグナーがそういう理由で不人気だったりするんですよね。

私は音楽が絶対的な善だという考えははっきりいって幻想だと思っています。先ほども書きましたが音楽は良くも悪くも人の心の繊細なところを内側からゆさぶることができるもので、だから書き手・弾き手・使い手・聴き手によっては人に癒やし(という言葉を使うのが好きではないですが)を与えることもできますし、同じくらい容易に、そして深く人を傷つけることもできる。
ファンタジー作品の「魔法」にそこらへん近いと思います。魔法使いが魔法を使う際にものすごく気をつけなくちゃいけないのと同じことが音楽を扱う人にもまた言えることで。

それを考えると30年越しにメシアンの四重奏に再会した方が辛い記憶に苦しむことなく曲の印象を覚えていたのはなんか、良かったなあ、と思うんです。
メシアンはあの強制収容所に音楽を持って光と色彩をもたらしたのだろうか、もしそうなら音楽家の真髄というか最高の目的というか、そういうものにあの時点でたどり着いていたんではないか、と思います。
そもそもメシアンは自分が音楽で何がしたいか、ということについてこういう言葉を残しています:
「私の目的は都市に住み鳥の歌を知らない人に鳥の歌を届け、軍隊のマーチやジャズしか知らない人にリズムを作り、色彩が見えない人に色を塗って見せることである。」
(ぎこちない訳すいません)

やっぱり音楽は使う人の心と意図に大きく影響されるんだな、と実感させられます。
メシアンにもう何度目か知りませんが惚れ直しました(笑)


今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「時の終わりのための四重奏曲」 第5楽章 「イエスの永遠性への賛歌」



この曲もステンドグラス以来ちょっとケチって出し渋ってるのでこれを機に久しぶりに一つ紹介。
先ほど書いた事情でピアノ、バイオリン、チェロ、クラリネットという変わった編成のカルテットですが、クラリネットだけの楽章もあり、ピアノ抜きの楽章もあり、バイオリンとピアノ、それからチェロとピアノの楽章もあります。なので単一楽章でソロレパートリーとして演奏する場合もあるんです。

この第5楽章もそんな一つ。タイトルと曲調が第8楽章と似てて紛らわしいですがこちらはチェロとピアノのための楽章。
チェロといえばやっぱりロマン派辺りのレパートリーがメジャーですが、そのくくりに劣らずまた別の美しさがある一曲です。20世紀から強力なスターですよ(違)

なんといってもこのメシアンのお得意な無限にゆっくりに弾く永遠の天国的なメロディー。
チェロの一番歌う中高音域で、胸が締め付けられるような優しい光と色の世界へ。
(でも本当は弾いてる人めっちゃ大変なんですよ!これだけフレーズが長いと弓のコントロールが難しい!途中で弓がなくならないように、かつ音が途切れたり震えたりしないように。それにはピアニストが伴奏を遅く弾きすぎないことがとっても大事だったりします)

スローで長い曲ってどんなに美しくても全員退屈させないのは難しいので「退屈しません」とは言いませんが(少なくともうちの先生は最後まで聞いてくれないタイプの曲です)、永遠に続いていくようながら終わるときが本当に勿体ない、終わって欲しくない、本当に永遠に続いて欲しいと思わせるのがメシアンのスローな曲の素晴らしいところだと私は思います。だからメシアンはやめられない。
ずっとずっとこの安全で優しさと光に満ちた世界に居たい、そう思う曲です。

今回ちょっと面白い録音を見つけたので試聴無し・新品が高いながらもちょっとリンク貼ってみました。
なんとカップリング曲がショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番。
なぜこれが面白いかというと、このショスタコのトリオの第4楽章にのユダヤ風の旋律に関して「ユダヤ人が強制収容所で自分の墓を掘らされ、その前で踊らされていた」という話が伝えられているため。
なかなかこの2曲(というかこの2人の作曲家)を一緒のCDに組み入れる事はないので珍しかったのと、ちょっと今日の話に通じるものを見つけてリンクしました。
(ちなみに私のおすすめはバレンボイムがピアノを弾いている録音です)

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