忍者ブログ
~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ・・・
前回のエントリーに拍手ありがとうございます。
今日はちょっとおでかけしてきたのですがその前にちょっと。

オーケストラプロジェクトに関してちょっと続報がきました。
なんでも第1コンサート、マーラー6番のコンサートが延期になるそうです。
コンサート場所の都合がついてなかったり、というのがあったり、他にもなんだか難しそうで。
第2コンサートが4月なんでどうかな、中止じゃなくて延期とはいうけどなんだかちょっと心配です。まだ弾くと決まったわけじゃないですが・・・
マーラー6番はチェレスタ弾きとしてものすごく思い入れが強いので、すっごく指をクロスさせておきます。

さて、今日は同門の先輩とNorth Carltonでコーヒーなど。
大学時代はピアノにおいてすでになんとなく「巨匠」的な存在であり、室内楽や伴奏にも忙しく、法律も同時に大学でやってて(音楽のほうで忙しすぎて成績はあれだったときいていますが・・・)。
同じピアニスト、同じ先生に習っている生徒(アカデミー在学中はマイケル=Michael Kieran Harveyにならってたそうでそちらでもコネクションが)、そしてコンサートクラス&地下練習室常連として在学中から若干過保護気味に(特に酔ってるときはひどく心配されます)可愛がってもらってます。

とはいっても向こうは去年は指揮などもやっててかなり忙しく、コンサート後の飲み会でちょっと会ったりするほかはだいぶ久しぶり。
こうやってゆっくり話すのは在学中もあんまりなかったなあ。

もちろんと言うべきか、話のトピックはほぼ100%ピアノについて。ピアニスト同士、というのもありますがやっぱり間があくとそれが優先度高い話題になります。
何弾いてるか、とかこれから何やるか、とか。
あとメシアンのピアノ音楽の話が多かったですね。20のまなざしに鳥のカタログ。
こんどシドニー国際ピアノコンクールに出るらしくて、そのレパートリーを聞いたり。昔から得意としている曲だったり、まだ彼が弾くのを聞いたことない曲もいろいろ。いつのまにかリストのダンテ・ソナタなんか弾いてるのねー・・・

なんか彼が言うにはマイケルに会ったりすると私のこと聞かれるらしいです(笑)
去年はあんまりメールもしてなかったけど心配してくれてるんだなあ、こっちに来たときは会いたいしホバートに遊びにいってもいいしメールももうちょっとしなきゃ。
そして「マイケルに似てるところがある」とも言われましたね。
好きな音楽の傾向とか(実はこれはあんまり正確ではないのです、マイケルは今の現代音楽、未来を向いてる現代音楽が得意で私は後ろを向いてる現代音楽が好き)、あとは「音楽に対してIntellectualなアプローチをしている」ことらしく。(それが特筆するほど珍しいものなんだかどうかは自分でよくわからないですが)
私のintellectualの程度はマイケルに遠く及ばないものですがそう言ってもらえるのは本当にうれしいし光栄なことです。
ちなみに昔マイケルの生徒だった別の友達からも、こちらはヘルスのつくメンタル面で私がマイケルににてるかもしれない、と評されたこともあり。ちなみにちなみに私のドクターも私はメンタルヘルスに対してintellectualなアプローチをする方が合う、と言ってたり。

そして人前でピアノを演奏するのに戻ることを強く促されましたね。
ちょっと場所を借りて(教会とかだと500ドルくらいで借りれるとこもあるそうです)コンサートをちょっとやってみたらどうか、とか。教会だったら信仰つながりでバッハとかメシアンとか合わせてみたらどうか、とか。
いつでも自分の弾いてるの聴いて欲しかったら聴くよ、とも言われましたし。
若干調子良いこという人ではあるんですが、やっぱり私の演奏を聴きたい、という気持ちは本当に真剣だということが分かりますし、私にピアニストで居て欲しい、という気持ちもまた強いことがわかりますし。
私がまだ演奏やりたいと思ってる気持ちもちゃんと分かって見抜いてて、助けの手をさしのべてくれて。
本当に優しい先輩です。
今日そうやって説かれて演奏に戻ることについて真剣に考えようと思い始めました。これからまたちょくちょく会おう、と言って、そうやって実際に会うなかできっとその思いは強まるし、形になり進んできたらまたアドバイスももらえますし。

ということでそれ以来頭の中が若干そのことでいっぱいで。
できたら秋冬で頭が鈍ったり弱気・消極的になるまでに決意を固めたいと思います。ちょっと練習増やしたりとかなんとか、ちょこちょこ今の生活で変えるところもでてくると思いますし。

自分を、特に音楽家としての自分を支えてくれるすべての友人に深く感謝です。


今日の一曲: エドゥアール・ラロ 「スペイン交響曲」 第1楽章



今回のエントリーのタイトルはバッハ由来で、今日話したのはピアノ曲のことでしたがどちらでもない曲をチョイス。前回のエントリーの名残、といいましょうか。

「交響曲」と名がついてますが昨日ちょろっと書きましたように形式としてはバイオリン交響曲に近く。5楽章編成のなかにスペイン的な魅力がいっぱい詰まっています。
とはいえラロはフランスの作曲家、いわゆるいつもの「フランス人がスペインにあこがれてスペイン音楽を書く」という(ドビュッシー、ビゼーなど)あれなんですが・・・

あとどうも仲の良いバイオリン友達の認識だとわりとチャラい、ショーピース扱いみたいです。
私も割と軽薄な音楽が嫌いなほうですが彼女も同じくらい(少なくとも)そうで。でもバイオリンはある程度ショーピース的な曲もレパートリーに加えておくことが求められるみたいですよ。
私にとってはでもこの曲ってそこまでショーピースではないんですね。確かに交響曲と呼ぶにはバイオリンのソリストを大々的に中心にしていて、確かに派手で華麗でそんなに深い音楽ではないけれど・・・
楽しい、だけじゃすまないしっかりした何かがあると思います。
(実はサポートとなるオケパートがそこそこしっかりしている、というのと、あとは弾き手のスタイルにも大きく左右されてくると思います、こういう曲って特に)

私が好きなのは第3,4楽章ですがこの曲の顔ともいえる第1楽章もまたなかなかエキサイティング。
バイオリンが自由に、情熱的に駆け回るのがやっぱり爽快ですし、ニ短調という調とスペインという国のダークな部分がものすごく生きてると思います。
メインテーマ(?)をバイオリンソロが弾くときのdown bow3回が力強くて気に入ってたり。(弓は引いたり(down)押したり(up)して音がでるのですが、引く場合の方が音のアタックががっつり来るので、押すほうを使わないで引く→一回離れて戻ってまた引く→一回離れて戻ってまた引く、という弾き方になります。この説明で分かるかな?)
あとはバイオリンでよくやることですがちょっと高めの音でももっと緊張感と情熱を出すために一番下のG弦で弾いてしまう、という奏法も聴かれます。強烈な音色になるんですよ。

ショーピースであってもなかなか憎めない曲。大変聞きやすいですしバイオリンの音はこれだ、というのをある程度聴くことができる曲としておすすめです。ぜひ聴く際は全楽章どうぞ。いろんなキャラクターが楽しめますよ♪

私が持ってるのはアンネ=ゾフィー・ムターの演奏。彼女の演奏は人によって好みが分かれると思いますが、クレイジーで情熱的な、(以前から書いてますが)女性ならではながら最近の女性には比較的見られない印象のある激しさ・強さが濃く現れてるのが私は大好きです。女たるものある意味こうありたい。
同じくスペイン系ショーピースとして有名な「ツィゴイネルワイゼン」がカップリング曲として入ってます。

拍手[1回]

PR
コンチェルト=協奏曲
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~

昨日は原因不明の鬱状態に陥ってしんどいよりもものすごく混乱していました。
ちょっと書き物してただけなんですが、夜中に頭が全く空っぽになってしまって何も考えられない状態に。
なんだか原因が不明なのがものすごーくもどかしかったのですが寝て起きたら回復。
なんなんだったんだろう・・・

前回書き終わってネタ尽きたなーと思ったら案外早くネタが見つかっちゃいました。
なんだか分からないですが協奏曲についてちょっと書いてみたいな、と。
前から書いてますが自分が特別好きというジャンルではないのですがふと思ったので。

協奏曲。元のイタリア語からコンチェルトと呼ぶことも多いですね。
どういう曲か、というとおおざっぱに言えばソリスト(ソロプレイヤー)がいて、オケの伴奏で「協奏」する曲のことを指します。

といってもソリストが居ない協奏曲も中にはありますし(バロック時代の協奏曲とか、20世紀の「管弦楽のための協奏曲」とか)、ソリストがいても協奏曲という名がついていないものや協奏曲と扱われないものもあります。
ソリストがいても協奏曲と「名がつかない」ものにはラロの「スペイン交響曲」(ソリスト:バイオリン)やラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリスト:ピアノ)などがあります。これらは弾く側・聞く側の認識としてもコンサートでのスタンダードな曲順(序曲の後、休憩はさんで交響曲の前)としても「協奏曲」扱いになります。
ただストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(ソリスト:ピアノ)やメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」(ソリスト:ピアノとオンド・マルトノ)のようにどうもソリストがいても協奏曲として「扱われない」曲もあり。そこんとこの線引きはよく分からないのですがあるようです。

協奏曲の中ではオケとソリストが一緒に弾いたり、オケだけのところがあってり、ソリストだけのところもあったり。ここらへんはちょっと後ほど。
交響曲は代表的なのは4楽章編成ですが協奏曲は3楽章編成の方が多かったりします。形式としては基本のソナタに類似しています。
第1楽章がいわゆるソナタ形式の楽章(A-B-Aみたいな)で、第2楽章はスローテンポの楽章、そして第3楽章は快活なロンド形式(A-B-A-C-Aみたいな)、というのがスタンダードな流れでしょうか。でも割とスタンダードでないのも多い気がします。

交響曲と比べると全体的に協奏曲は短めの曲が多いです。
協奏曲の長さはたいていソリストの楽器(を弾くにあたってある負担)によるところが多いですね。なんたってソリストは協奏曲においてその音楽的、技巧的ないろいろを披露することが求められてるのでオケの中で弾いてる時よりも負担は大きいわけで。
ピアノ協奏曲は30分を超えるものも割とありますが、たとえば去年弾いたトマジのトランペット協奏曲や、同じくトランペットをソリストとするデザンクロ(Incantation, Threne et Danse)は10分強で終わっちゃってなんだかちょっと物足りなく思えたり。もっと聴きたいぞ-。

昔の、というのは古典派~ロマン派あたりの協奏曲においては多くの場合ソリストが弾き始める前にオケがしばらく弾くように書かれています。
割とその前奏の部分が長く感じてしまうせっかちな&20世紀慣れしている私(苦笑)
ソリストがどうやって入ってくるか、というのはでもちょっと面白いところがありますね。
私が個人的に気持ちいい、と思うのはバルトークのバイオリン協奏曲第2番や、エルガーのチェロ協奏曲とかプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番とか。これらの曲は説明を省いておきます。
というのは「ちょっと変わったソリストのエントリー(登場)」を紹介したくて。

1つめはサン=サーンスのチェロ協奏曲。
オーケストラが「じゃん」と一音弾いた後にソリストが入ってくる、というあるようでなかなかないエントリー。リハーサルで何回もやることはやりますが「じゃん」だけだと万が一オケ+指揮者とソリストの間にテンポのずれが生じたら、とか思うとものすごいひやひやものです。ためらったらずれる、どう転んでも開き直って堂々と入ってこなくちゃいけない。チェロを弾いてた人としてこのエントリーはものすごく怖いのですよ(汗)

もう1つはベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ベートーヴェンはとにかく形破りなことをしたがる人ですが、この曲はそんな破天荒さが音楽的なさりげなさとうまくバランスがとれてて良いんですよね。
この時代には珍しく曲の最初からソリストが一人で弾き始める・・・のですが、1フレーズ弾いただけでオケに交代。しかもオケがメインの調と全く関係キーで入って来る、という。しかも何もなかったように(あの時代の普通の協奏曲のように)しばらくピアノソリストは弾きません。ちょっと驚かせたかったんだよ、という意図が明らか(笑)

コンチェルトにおいてオケが弾かないでソリスト一人で技巧を披露する部分を「カデンツァ」と言います。
カデンツァはたいてい作曲家自身が一音一句書いている場合が多いです。これもロマン派あたりからの傾向かな。
もうちょっとさかのぼると、例えばモーツァルトのピアノ協奏曲のカデンツァはベートーヴェンが書いてる版がよく弾かれてたり。今でも(特に割と早めの時代の協奏曲だと)カデンツァをソリスト自身で書いたりすることも多いです。これまでの時代に著名な奏者がカデンツァを残してきたように今書かれているカデンツァも未来に受け継がれることがあるのかな、とか思ったり。

あとバロック~古典時代の協奏曲でよくあるのがソリストが指揮者を兼ねるパターン。
この時代の協奏曲はわりとオケとソロパートがあとの時代ほど融合していないため、オケだけで弾く部分(トゥッティといいます)もかなり多かったり。つまり弾いてない時に手で(指揮棒なしで)振る、ということができるわけです。
(ちなみにベートーヴェンはソリストとして自身のピアノ協奏曲を弾いた際に自分が指揮していると思ってしまってピアノにすごい勢いで手をぶつけたりしたというエピソードをきいたことがあります)

ロマン派~20世紀の協奏曲は全体的にボリュームも増して、ソリストとオケの掛け合いも濃密になりますが、トゥッティの部分もものすごく音楽として充実するようになります。ブラームスとかラフマニノフ、バルトークなどはオケで弾いててもなかなか弾きごたえのあるオケパートが出てきますし。交響曲に近づいている、というかソリストだけでなく曲全体として世界を形成するような感覚です。
ブルッフのバイオリン協奏曲第1番に至っては第1楽章で一番盛り上がるところがトゥッティ、つまりソリストが弾いていないところ、という事態も(笑)

そしてソリストは必ずしも1人というわけではないです。2人の場合だとヴィヴァルディやバッハのバイオリン2人をソリストする二重協奏曲だったり、3人だとベートーヴェンのトリプルコンチェルト(ピアノ、バイオリン、チェロがソリスト)。
4人もありますよ。バッハのハープシコード4人がソリストの協奏曲だったり、あとシューマンの4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュックという曲だったり。(ちなみにオケにも4本別にホルンがいるのでだいぶ賑やか(笑))
あとはショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番やチェロ協奏曲第1番のように「ソリストに準じる存在」がいたり。ピアノ協奏曲ではトランペット、そしてチェロ協奏曲ではホルンがソリスト並に活躍します(前者はもうソリスト扱いですね)。

最後に、コンチェルトに関して音楽とは直接関係ない部分で楽しみになること、それは特に女性のソリストのコンサートドレス。
単純にどんなドレスを着るか、というのもそうですがそのドレスが曲にあってるか、どんなドレスがどんな曲に合うか、というのは考えてて楽しいですね。
ハチャトゥリアンのバイオリン協奏曲だったらドレスは赤がいい!とかショスタコのチェロ協奏曲あたりだったらあんま明るい色じゃないほうがいいな、とか。そういうのもまた良いです。

ということでコンチェルトを聴く際には曲自体、ソリスト、オケ、そしてコンサートでならソリストの衣装まで楽しみましょう♪としめてみます(笑)


今日の一曲: ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番 第1楽章



先ほど「変わったソリストのエントリー」として先ほど紹介しました曲です。
で、ちょっと先に断っておくのですが私がそんなに好きな曲というわけではないのです。すでに1回ユースオケで弾いて、それから大学のオケでマネージャーのときに聴いて。最初は良かったけどだんだんと・・・こう。はい。

でも良い曲なんですよ。素晴らしい音楽で。
先ほど書いたとおりベートーヴェンの型破りなアイディアと表現の繊細さが良いバランスで融合している曲だと思います。
同じベートーヴェンでも初期の作品は若さもありますし、破天荒さが先走りして「壊したい」意思がものすごく前にでちゃってちょっと面白いとこあったりするのですが(ピアノソナタ第3番 op.2-3とかピアノ三重奏曲ハ短調 op.1-3とか参照)、この曲はなんか表現がものすごく円熟した、みたいな印象があって。アイディアの奇抜さと意外性はそのままに、もっとさりげない表現と美しさを兼ね備え。

第1楽章はちょっと長いですが、そんな長い旅に乗っかってみる価値はものすごくありますよ。
本当にピアノっていいな、美しいな、と思いますし、優しくも豊かな色彩だったり、あと木の家のような不思議な暖かさがあります。
あとなんかベートーヴェンの楽曲の中でもちょっと違う色があるというか、ちょっとユニークなキャラクターな印象。

この曲は上記弾いたり関わったりしたときはどちらも女性がソリストで。それがなんだかしっくりするような曲なんですよね。男性のピアニストの演奏ももちろん良いですけど、なんとなく女性独特のクオリティが欲しくなる、そんな印象。(ただリンクしたのは男性ピアニスト)
ドレスは暖色系がいいですねー(また言ってる)

拍手[1回]

「風景の見える」意外なクラシック音楽の作曲家
前回のエントリーに拍手ありがとうございました。
なんだか前の前のエントリーの歌のタイトルのスペル間違ってたりちょっとだめだめですみません。

今日はちょっと休みました。といっても外に行ってきたのでくたくたではあります。
マッサージに行ったので体はだいぶ軽くなりました。施術中の息の楽なこと(笑)とくにうつぶせ中。
最近夜になると気道がぎゅっと縮まる、固くて広がらなくなるのでなんかできること学ぶことはないかなあ、と。

さて、今日はこないだから話してましたトピックです。
相も変わらず毎日仕事夕方の部(またはそれに相当する時間)には「碓氷峠音楽堂本舗」を聴いています。ただいま58/148回(今日更新があって増えました)。
未だに曲を覚えるスピードが曲を聴くペースに追いつかないのが悩みですがトーク、音楽ともに楽しんでいます。

当番組のパーソナリティでありますface to aceのお二人がユニットで創る音楽のコンセプトを「風景の見える音楽」と表現していまして。
それを聴いていつものことですがそれをクラシック音楽でいうとどうなのかな、と私は考えまして。(↑のほうは後ほどまたゆっくりもっと聴いてから・・・)

「風景の見える音楽」はクラシックというジャンルでも色々あります。
色々ありすぎた結果、見えた風景とその元の音楽を創作に組み込みたくなって自分の創作文とそのアイディアの量とちらばりがものすごい大変なことになってますからね!(笑)
このコンセプトを言われてぱっと思い浮かぶ作曲家、といったらやっぱりヴォーン=ウィリアムスとか、レスピーギとか、ドビュッシーなんかもいいですね。

でも数日前それを考えててここでふと止まりました。
自分にとって強烈な印象を残した「風景の見える音楽」はそれとは全く別の方向にあるじゃないか、と。

高校生くらいのとき?ショスタコーヴィチのチェロソナタの存在を知って、ちょっと無謀ながらも(チェロで)弾き始めて。ショスタコを取り巻く時代背景にもだんだん詳しくなりつつあった時期。
そのころこの曲の第3楽章を改めて聴いてみて、本当にびっくりしたのを今でもはっきりと覚えています。
聴きながら、目の前に冬のはじめのロシア、というかソヴィエトの風景が見えたんですよね。行ったこともないですし、第一今とショスタコーヴィチの時代ではかなり変わってるでしょうし。
その時見えたのがちょうどこの絵にあるような。並木が並んで、空は灰白い雲と霧に覆われた道路。
同時にその寒さとか寂しさとか冷たさとか、その他あの地あの時代独特のものをいろいろ感じて。
それがものすごく衝撃だったんです。今でもあの曲を聴くたびに同じ風景とほぼ同じ衝撃を感じるのです。

でもショスタコに関してはそれだけじゃないんです。
チェロソナタの第3楽章と同じような風景はピアノ五重奏の第2,4楽章でもはっきり現れますし。
あと幼少の頃からずっと知っている交響曲第9番の第5楽章、第2主題・・・になるのかな?あれは。あそこを聴くたびに本当に小さい頃から「兵隊がやってくる」というイメージ、そしてそれに伴うある種の恐怖を感じていて。
それこそロシア(当時まだソヴィエト)のお国柄だったり、ショスタコが政府に追い詰められていたことも知らないのにそんな強烈なイメージが子供の想像力に働きかけるのはかなり特異なような気がします。

(そして先ほどの絵画の元サイトを一昨日?昨日?見つけて、ずっと見てたときはなんだか涙がちょちょぎれそうになりました。見たことのない景色なんですけど、どこか懐かしいというか・・・長い間親しんできたショスタコーヴィチの音楽から感じられるものと絵画にある空気が本当に一致するんですよね。胸がきゅっとなります。何度見ても。)

ショスタコーヴィチの音楽を「風景が見える音楽」と形容するのはなんだかでも意外な気もしますね。
ショスタコの音楽って結構強烈な感情の表現で、スターリンの圧政の中における苦しみ、やりきれなさ、怒りだったり、鬱屈した感情が爆発するような音楽ですし。
だから訴えかけるところの主となるのはやっぱり「風景」ではないな、というのもありますし。

あとは「風景が見える音楽」において表現される風景、というのは一般的にどちらかというとポジティブなフィーリングが伴うこともあると思います。
解放的な風景だったり、ノスタルジーを伴う風景だったり、美しい風景だったり。
でもショスタコーヴィチは住んでるところ、表現するものがああなので音楽に現れる風景もかなりネガティブなトーンがつきまといます。
先ほど言及しました寂しさ、冷たさだったり、ロシアの厳しい自然だったり急速に近代化しようとした共産主義の国の風景にみる無機質さだったり、容赦なさ、貧困、独裁政治における窮屈さ、静かな恐怖だったり・・・
そして見えるのがソヴィエトの風景でない場合も(交響曲第5番第3楽章、第9番第2楽章、ビオラソナタ第2楽章、バイオリン協奏曲第1番第2,3楽章など)ショスタコの音楽はとてつもない絶望や孤独を感じさせる風景を見せることが多いように思われます。
だから機能的に言えば「風景が見える音楽」、というのとはなかなか結びつきがたいところがあるのかな、と思います。

ショスタコーヴィチは彼が生きた時代と土地と状況、そしてその中における彼の強い思いを強烈に、リアルに表現した音楽で。必ずしもすべてがソヴィエト政府だったりスターリンだったりのしたことを告発するものではなかったのかもしれませんが、彼がそうやって表現することに精一杯心血を注いだ結果、彼がいた時や場所の風景や温度、雰囲気などもまたリアルに伝わる結果になったのかな、と思います。
このブログで何度も書いてますが、そんなショスタコーヴィチの音楽は情報が閉鎖されていたあの国のあの時代を語る大事な歴史的記録だと私は強く思っています。(もちろん一人の作曲家が書いた、個人の思いが強い音楽なのである程度のバイアスはもちろんありますが)

ショスタコーヴィチの時代とは色々変わったことたくさんありますが、いずれロシアという国を自分の目で見たいと思っています。
そして改めてショスタコーヴィチの音楽を「他のどこでも味わうことのできない風景が見える音楽」としておすすめしたいです。ぜひぜひ聴いてみてくださいな。


今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」 第1楽章「宮殿前広場」



最近小編成の曲が続いたので今日こそはオケ曲を!と選びましたがあんまりどっかんどっかんはしないですよー(笑)
私にとってとても思い入れの深いこのショスタコ11番。なかなか第1楽章だけで聴くことはないですし、話すにもきっかけがないとこの楽章はしまいっぱなしになるかな、と思ったので今日のトピックを機に紹介してみます。

この交響曲はショスタコが生まれる1年前、1905年にロシアで起こった「血の日曜日」事件を題材としています。単純化した見方だとこの事件はロマノフ王朝の本格的な没落のきっかけであると同時に1917年のロシア革命に向けた最初の大きな動き、ともいえる事件です(ちと大げさかしら)。
貧困に悩んでいた国民たちが集まり、ツァーリであるニコライ2世に向けてなんとかしてくれ、と嘆願のために宮殿に出向いた(デモ、というほどではないんですよね確か。)のに対して軍隊が発砲し千人単位で人が亡くなった、という経緯です。詳しくはwikipediaをご覧ください。

実際の虐殺は第2楽章で起こります。第1楽章はその前の前奏曲といったところでしょうか。
この交響曲を通してたくさん使われる革命歌だったり物語を進める上でのテーマだったりがこの楽章で初めて紹介されます。

「宮殿前広場」は1月のロシア(旧暦でも1月のはず)。
まだ人々が集まり始める前の静けさ。がらんと広がっていて、雪が積もっていて。空は雲に覆われていて。
空気は冷たく、どこか張り詰めている。
この時点でもう何年も民は苦しんできているんです。格差だったり、貧困だったり、それが溜まりに溜まった状態。それが空気に濃く現れているのだけどでもまだ誰も動いていない。まだ「小さな父」であるツァーリへの不満を表したり、怒りが爆発したりはしない。あくまでも請願に向かうだけ、そう思っている。

そんな中でティンパニの音色が近い未来の不吉な予感を奏でるんですが、このティンパニ、交響曲を通じてソリストに値するほど大活躍なんですよ。ぜひ常に聞き耳たててくださいね。不吉な弱音から爆発するffまでめちゃくちゃかっこいい!
そういえば第1楽章はわりと個々の楽器に耳が向けやすいかも。

あと第2楽章の最後、虐殺の後の風景でこの第1楽章の一部がまた現れるのですが、そのときに弦がみんなトリルしてて、チェレスタが入るというのもまた絶妙。トリルはもちろん恐怖の緊張の震え、ということで。ベタそうな表現だけどものすごく効果的。
(交響曲全部がちょっと長いな、と思ったら1+2楽章(虐殺の経緯)、3+4楽章(弔いと警告)と分けてもいいですね)

この第1楽章を聴いて風景もそうですし、雰囲気もそうですが、何よりも「温度」を味わってほしいと思います。それは本当に(行ったことないですけど)ロシアの冬そのもので。

この曲に、そしてショスタコの音楽に限ったことではないですが、必ずしもポジティブじゃない感覚、風景、感情を本当に素晴らしく、かつリアルに体感できる音楽は貴重で、本当にすごいと思います。
だからこれからもショスタコーヴィチの音楽を一生かけて愛していきたい、と私は心に深く刻みます。

(私が14の時から愛聴している録音はアシュケナージ指揮でサンクトペテルブルグ管弦楽団のなんですが、今チェックしたら手持ちがどっかいってしまった上に(あれ~?)amazon.co.jpでも見つからなかったので持ってるもう一つの録音をリンクします。ちょっと全体的にテンポが遅いようにも感じるのですが、一般的に遅い録音から速い録音になれるのよりも反対のほうが遙かに難しい気がします。どのみちこの曲に関しては少なくとももう一つはいい録音を持っておきたいのでまた次回紹介するときには探しときたいですね。)

拍手[1回]

メンタルヘルスに関するグレーゾーンケア
前回のエントリーに拍手ありがとうございます。
今日はめでたく練習再開。ちょっと短めですがやりました。まだまだ手腕の疲れがひどいです。
指の動きも鈍ってますし、目で楽譜を読むのもなんだかものすごく異質な感覚でしたし、なんといっても自分が弾いている音を聴くこと、さらにそれを受けて考える、調節するフィードバックシステムがすっかり機能を失ってました。不思議ですね、自分が音を出してそれを聴くってのは。(考えてみれば切羽詰まりすぎて鼻歌さえも消えてたここ数日)

ヴィラ=ロボスの「ブラジルのバッハ」第4番の第3楽章はじりじりと詰めつつある中、なんとなく新しいイメージが湧いてきて。なんだかちょっとベタ(そしてその他の問題もある)なんですが、この楽章は夜の町、ネオン街みたいな中で、常連さんが主にいる小さなバーとか、そんなバーの主人のママとか、夜も明るいその街の中で起こるギャングorマフィアの抗争とか、その後はちょっと察していただければ、と(笑)
第2楽章はものすごく自然の中の木漏れ日とか露とか、そういうものを感じるのですが第3楽章はものすごーくUrbanな雰囲気で。
自分で弾いてイメージしてちょっとだけ笑っちゃうくらいベタなんですが、結構気に入ってます。

さて、昨日ちょっと次のエントリーについてあおり気味で書いたのですが、今回ちょっとプラン変更。
メンタルヘルスの話がしたくなったら優先したいといつも思っていますので。

以前からメンタルヘルスの早期発見・早期介入について考えてきて、今日の話もまたそれに関することで。
オチとか結論とかそういうものはないんですがとりあえずいま考えてることを少し。

えーっと、わかりやすくするために「災害後のメンタルケア」という例で考えてました。
実際問題この例えにはちょっと問題があることを最初に言っておきたいです。
なにが問題かというと、災害後のケアはメンタルヘルス以外にも色々ありますし、人手を含むリソースも大変に不足することが分かってます。緊急にやることも山のようにありますし、理論・理想通りにはいかない、つまりこのモデルは過度に単純化した形になっている、ということがあり。
ただ説明にはちょっと色々単純化する必要があったためあくまでも例え、ということでお願いします。

たとえば災害のように多くの人に大きな影響を及ぼす出来事があったとします。
そうするとその影響の受け止め方、というのは人それぞれ違います。
それはその人がどういう影響・被害を受けた、というのにもよりますが、その人の心の性質にもよります(遺伝的体質だったり、性格だったり、ほかにもさまざまな要因があります)。

何のケアを受けなくても大丈夫な人もいますし、受けた影響がトリガーとなって心の病気を発症する人もいます。
前者に対してもちゃんとチェックやフォローアップを行うことが大事ですし、後者に対して緊急にケアを行うことは言わずもがなです。
ただそのどちらにも入らない、グレーゾーンに入る人がやっぱり多数だと思います。
つまりは心の病気を発症するには至らなくとも強い不安を抱えたり、大変につらい思いをする、という。
グレーゾーンというくらいなのでその程度はいろいろありますが、ある時点で比較的大丈夫、と思ってもその後の生活を続けているうちにその状態が変わることはよくあります。そういう意味では「予備軍」という見方もできますね。

だから、心の病気をすでに発症している人のための緊急ケアに加えてグレーゾーンの方にフォローアップを行うことは本当に大事だと思います。
それが予防ケアであり、早期発見・早期介入にもつながることで。
たとえそのフォローアップが治療とかケアとかいうレベルでなくとも、「なにか状況・状態が変わったらここでケアを受けられる」という体制が整っていること、そしてそういう場所があることはそれだけでも少しだけ安心になると思います。

メンタルヘルスに関して助けやケアを求めるのには「きっかけ」が必要な場合が多いようなイメージがあるんです。
そのきっかけは実際病気が明確に発症することであったり(体の症状から心の病気が見つかる場合を含む)、先ほどのように災害の後にメンタルヘルスケアを受けることになったり、と「それでは遅い」タイミングであることが多いようなイメージもまたあり。

そういう意味ではBeyondblueは良い仕事してると思うんですがね。最近良くないことも言われてますが(確かに良いことではないことなのですが)。
テレビとかメディアとか広告とか、あと冷蔵庫のマグネットとかで、自分や親しい人に何か心当たりがあったら情報やケアにアクセスできるようなシステムを整えて来たんですから。
(あとはオーストラリアの場合以前から書いているようにGPがファーストコンタクトとなれるのももちろん大きいです)

だから最終的には、というか理想的にははっきりしたきっかけがなくてもケアにアクセスできるシステムがあるといいんだよな、と。みんなが言ってることですが。
特にさっきの例えでいうと災害時はケアの需要がぐんと増えリソースもぐんと減りますし、そういう非常時に初めて会ったお医者さんなどとコミュニケーションをとるのは本当に難しくなりますから普段から知っておくこと、つながりをもっておくことは本当に大事で。
先ほど書いたようにグレーゾーン+心の病気にかかる要素を持ってる人を合わせると割合としてはかなり高くなると思われますし、「大丈夫」カテゴリの人も絶対的なものではないので、体制側の問題もありながら、誰もがそういう心がけをしておくのが大切かなあ、と素人なりに思っています。

先ほど言ったようにオチも結論も何にもない、なんのまとまりのない話なのですが、そういうことを考えていたという訳です。
久しぶりのメンタルヘルスエントリー、ぐだぐだになってしまいました。仕事以外のことも考えられるようになったので色々手を伸ばしてまとめられるようになっていかないとですね。


今日の一曲: エイトル・ヴィラ=ロボス 「ショーロス」第5番 「ブラジルの魂」(チェロ&ピアノ版)



今夏ブラジル音楽が熱い!というのはもうこのブログでも恒例の話となって・・・いるかな?
弾いてるだけでなく聴くのも多いです。その中でもこのCDはいくつかきらきら光る宝石が入ってます。
ヨーヨー・マはやっぱりいろんな文化の音楽を自分のものにしてうまく表現しますね~

ボサノバ風とかジャズ寄りとか(あくまでも詳しくない私の見方ですが)いろいろなスタイルがあるように思える中、この曲は元はヴィラ=ロボスのピアノ曲で。
このアレンジがまた粋で愛しい!よくぞチェロで弾いてくれた!と思うアレンジです。

最初のセクションと最後のセクションのちょっと大人な暗さと艶だったり、中間部の柔らかな光と生き生きしたリズムだったり、ブラジルの独特なリズムに乗って歌ったり踊ったり。
チェロの存在がまたこういう雰囲気にぴったり。

このCDのほかの曲でもそうなのですが、チェロの高音が輝きますね。弾き手によるものだけでなく、アレンジもまたそれを引き立ててるような。
チェロは一応低音弦楽器ですがその音域はオケのなかでもトップクラス。高音でメロディーを弾かせたらバイオリンとはまた違った緊張と情熱を持って歌いますよ~

この曲、ちょっと前までは弾くのはどうかな・・・と思ってましたがそのうち弾きたいですね。今弾いてるブラジルのバッハよりもまた大人な雰囲気が自分に出せるかどうか、ちょっと難しくなりそうですがチャレンジしたいです。

そしてこのCDもまたおすすめ。良い雰囲気ですしかっこいいですよ♪ぜひ試聴してみてください。

拍手[2回]

キーワードto音楽: 炎にまつわるエトセトラ
前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
ちょっとスケジュールの立て方(というか仕事の受けよう)を間違えて納期がだいぶきつくなってしまいました。たぶん。
とりあえず明日はピアノなしで一日仕事+夜も働く、で様子見。もしかしたらピアノ時間をこれからちと削り気味になるかも。あーあ。
とりあえず音楽書けたり碓氷峠かけたりしてなんとか乗り切らないと。

ということでもしかしたらこちらもちょっとご無沙汰するかもしれないので心の荷を今日下ろしていこうと思います。
久しぶりのキーワードto音楽!「四大元素に関するイメージ」シリーズになります。一応去年の季語のと同じく季節ごとに一つ、というペースで続けたいシリーズ。できたら来年は季語に戻って、そしてその後は四大元素・・・とそこまで続くかわからないのですがある程度リサイクルできるようになってるかも。
とりあえず続くといいな。(そしてほかのキーワードto音楽もちょこちょこ)

それでは今回は夏ということで「炎」に関するイメージを。元のキーワードは英語で考えたので英語表記にします。

1) Passion: シューマン 「ウィーンの謝肉祭の道化芝居」 第4楽章「間奏曲」
日本語で言えば情熱、いわゆる心の炎ですね。シューマンは炎の中でもこれが得意分野ですよね~この曲は特に熱情が迸るような、理性の門を破って翔るものすごい勢いがあります。(ちなみにこないだランダム再生で聖飢魔IIの「アダムの林檎」→この曲と続けて流れて、なんか似たような炎を感じましたね。)

2) Beacon: スクリャービン 「炎に向かって」
日本語でどう言ったらいいかわからないんですが、要するに目印や導き手となる光や火のことを指す言葉。スクリャービンのこの曲の場合は物理的というよりは精神的なものですね。暗闇の中から炎を見つけ、それに向かい一体となり燃え上がるエクスタシー。神秘的なテイストでお送りします。

3) Progress: ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」 第4楽章「警鐘」
よく神話で人が神から何らかの手段で火を得てそこから文明が「進歩」した、という話がありますが、食べ物を調理保存すること(+それにまつわる文化)、鉄を鍛えること、夜に明かりを得ること、エネルギーを生み出すこと・・・そういった「進歩」をちょっと悪い意味に解釈して選んだのがこの曲。この曲にまつわる詳細はまた後日。とにかく20世紀を前へ前へ突っ走る鋼とコンクリートと炎の音楽に警鐘を鳴らす側面がある曲です。

4) Spark: Michael Kieran Harvey 「Addict」
ゲームSacrificeの炎の神Pyroが火の長所として「想像力のひらめきの火花」という表現をしたところから得たキーワード。火花は古には(そして今も)火をおこす最初のきっかけ。それは一瞬輝く、とらえなければまた消えてしまう。それがなんだかマイケルの思考回路を表すようだな、と思ってチョイス。たくさんの火花とニューロンの電気信号がピアノとシンセサイザーで駆け巡ります。

5) Rage: ヴェルディ 「レクイエム」より「Dies Irae」
意味は激怒、憤怒など。怒りはよく炎に例えられるということでチョイス。タイトルが「怒りの日」、ということもありますが数ある「怒りの日」の中でも特に炎属性が強い、荒れ狂うのがすさまじい!心の底が暴れ出すような曲調に(私の持ってる録音では)大砲のようなティンパニの音。これが怒りでなくて、炎でなくてなんなのか。

6) Destruction: クラム マクロコスモス第2巻 第7楽章「トラ!トラ!トラ!」&第8楽章「ノストラダムスの予言」
Destruction=破壊。神話において世界を滅ぼすことになってるのが多いエレメントは炎ですね。筆頭として新約聖書の「ヨハネの黙示録」。私がこの2曲を弾くときは(メシアンの20のまなざし第18番もそうですが)ヨハネの黙示録をイメージしています。空から炎が注ぎ地が燃え上がる、血と火が川となって流れる完膚無き無差別破壊。

7) Warfare: ワーグナー 「ニーベルンクの指環」 「ワルキューレ」より「ワルキューレの騎行」
先ほどの「進歩」「破壊」につながって「戦争」も昔の昔から炎と結びつけられます。ワルキューレは北欧の戦乙女で、戦死した英雄の魂を回収しに出向くのです。戦あるところに彼女たちあり、ということで。もちろんホルストの「火星」もにたイメージですが、こちらの方が実際に「炎」を感じる気がしてチョイスしました。

8) Warmth: チャイコフスキー 「四季」より「1月:炉端にて」
この場合のWarmthは暖かさとかぬくもりというより「暖(だん)」ですね。毛皮を持たない人間が冬の寒さをしのぐのに炎はとっても大切。日本の童謡「たきび」とも似たイメージですね。外の寒さと風と、火の暖かさと、そしてどこか寂しい気分とで成り立つ独特の風景、そして独特の心持ち。

9) Infernal: プロコフィエフ 交響曲第3番「炎の天使」 第1楽章
炎はキリスト教関連においては地獄にて燃えさかり、罪人を焼き、罰し苦しめるものともされています。そんな暗く激しい、独特の臭い(あくまでもイメージ)を放つ炎をこの曲の特に冒頭は思わせます。炎の天使、とはこの曲において悪魔のこと。交響曲全体(およびそのストーリー)に漂う救われない背徳の雰囲気がまあすばらしいですね!

10) Divine: メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」 第20楽章「愛の教会のまなざし」
先ほどと反対に、炎はキリスト教圏やゾロアスター教を始め様々な神話・宗教で「聖なるもの」としても捉えられています。メシアンにおけるそれは神の愛だったり、聖なる光であったり、ものすごい喜びと荘厳さを兼ね備えたイメージがありますね。そしてメシアンなので炎はきっと七色に光りますよ!

11) Wild: メシアン 練習曲「火の島I」
今回もメシアンかぶり。自然において火山や山火事など炎は「猛々しく」、激しく荒れ狂うイメージです(本能のイメージに通じるところもありますね)。とにかくこのパワーが伝えたい、と思ったらこの曲しかない。火山の中に潜んでいる熱と動きと爆発性をそのまま音楽にしたような躍動感と激しさ、パワーに満ちた音楽で、本能と生命に訴えかけます。

12) Determination: ブラームス 交響曲第1番 第1楽章
以前ツイッターで炎には速く激しく広がるような「外的な」「自由な」「明るい」炎と、その場でひたすら温度を上げ濃く燃える「内的な」「拘束された」「暗い」炎がある、というような話をしましたが(いつか広げたい!)、その後者をより強くカバーするためにこのキーワードとこの曲を選びました。意味は「断固した決意」が近いでしょうか。狙いを定め、動くタイミングを計りながら心の中で激しく燃やす炎です。


今年の抱負として炎というエレメントをもっと自分のものにしたいとありましたが今回のエントリーがその助けになるかは書いてみてちょっと自信ないです(汗)なんだろうなあ、いろいろカバーできてないこと、イメージを形にできてないこと、いろいろあって。こういうアプローチでまだできること、することたくさんあると思うんだけど。
とりあえず少しでも糧になって、第一歩となればいいなあ・・・さてどうなるか。要精進。


(今日の一曲はキーワードto音楽なのでお休みです)

拍手[1回]