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前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
昨日はちょっと夕方出かけてました。Northcoteの方でちょっと飲んだりなんだり。
おいしいカクテル飲みましたよ。なんかちょっとレモネードみたいな感じの。Lemon Myrtle味のウオッカとかDOM Benedictineとかが入ってて。DOM Benedictineは薬草系リキュールみたいですね。27種類のハーブが入ってるとか。今度はシャルトリューズとか飲みたいなあ。
さて、前回から言っていたハープシコードの話。
たいしたことは書けないのです(笑)なぜなら弾いたことはないので。
ちょっとだけちょろっと触る程度に弾いたことはあります。お気に入りのあのただでさえほかのよりも狭い練習室にピアノと一緒に入ってたので。ただ誰も使わないのかものすごーく音がずれてて気持ち悪く。
よく言われがちなことなのですが、ハープシコードはピアノの前駆楽器ではどうやらないようです。
ピアノの原型もハープシコードと同じ時期に存在していたらしいですし、あと他人のそら似、ではないですがメカニズムはにているけど音を出す方法が違ったり。ピアノはハンマーが弦を「打つ」楽器ですがハープシコードは弦を爪で「はじく」楽器ですし。
ただ時代の音楽や作曲家の需要、音楽のあり方、そしてピアノの改良とかでピアノが台頭した、という流れでしょうか。
なので今の認識としてはハープシコードは主にバロック時代以前に活躍した楽器(+20世紀におけるリバイバル)という感じになっています。
でも弾き方は同じなのでピアニストがハープシコードも弾くんです。
(トゥーランガリラの彼は去年は大学でハープシコードも専攻してました)
それでも違いは多々ありますよ。強弱の幅、そして強弱の変化のしかたが限られてたり、音の伸びはほとんどありませんし、あとオルガンのように鍵盤が連動できたり音色が変えられたりとかしますし。
あとキーのタッチはハープシコードの方が大幅に軽い!なのでスカルラッティとかの作曲家がハープシコードなどを対象にして書いた曲はものすごい速いパッセージとかあるんですよね。今のピアノだと本当に技巧と指がしっかりしてないとちょっと難しい。
(ちゃんと)弾いたことはないですが何回か大学のオケでハープシコードを使ったことがあって、マネージャーとして関わったことはあります。主に運ぶのとか、チューニングを見届けるのとか。
ハープシコードは本体と支える棒と、あと本体を乗せる部分が別になってて、それもねじとかで止めるようなものじゃないのでかなり繊細かつひやひやものなんです。(もちろん楽器自体も古いですし)
しかもチューニングもピアノ以上に時間と労力(プロの調律師の方の)を使いますし、ずれやすい、という印象もあり。(ピアノはずっと改良され続けてますがハープシコードはそうでもないんだろうなあ・・・)
少なくとも私にとっては壊れ物扱いというか、そういう印象があります。どのみちピアノみたいにがつがつ弾いてもそれが反映できない楽器でもありますし。
ハープシコードはチェンバロ、クラヴサンという呼び方もあります。(順に英語、ドイツ語、そしてフランス語での呼び名)
クラヴサンっていいですね、名前。言葉の響きもそうですが、私が好きなハープシコードの曲はバロック時代だとたいていフランスものなので(詳しくはないですがラモーとかクープランとか聞くと好きですね~)。
ピアノでもいつか弾きたいなあ。
前々から母がハープシコードを弾いたらどうか、というんですよ。(いろんな方面からこれはどうだ、あれはどうだと言われるのですがその中の一つです)
弾いてほしい、というよりはハープシコードの蓋に絵を描きたいそうです。
ハープシコードもグランドピアノのように蓋をこちらに向けて斜めに開けて棒で支えて音を聴衆に向かって響かせるのですが、聴衆に向く面(閉じたとき下になる面)に絵が描いてあることが多いんですね。
大学のMelba Hallにあるハープシコードは油絵の具でオーストラリアのoutbackの風景が描かれていて、それがまあ美しい!(オーストラリアの曲以外を弾いていて音楽にマッチするか、という問題は別として・・・)
そういうのが母もやりたいらしくて、私も母が描いたハープシコードで弾いてみたいとは思ってるのですがなかなか実現は難しい(笑)
あんまり古音楽には比較的興味が薄かったのもあって、ハープシコードの音はよく聴いていて親しく好きだったながらも特別な魅力を抱くことは長いことなかったのですがその認識を変えたのはこれまたジョージ・クラムでした。
Songs, Drones, Refrains of Deathという曲はピアノとハープシコードを1人の奏者が(確か)掛け持ちしているのですが、ピアノだけでなくハープシコードもアンプで制御するんです。それでハープシコードにアンプがかかったところに手のひらクラスターを弾く(たたく)、という音がすごい!電気ノイズですよ!(笑)(ただし録音により結構差はでるようです・・・楽器の違いかアンプの調節の違いか)ちなみに第2部の速いSong of the Ridersの部分で何回かやってるので是非お聞きください。おすすめの録音はSpeculum Musicaeの演奏。
とにかくこれで自分のハープシコードに対する認識が一新しまして。
(いや、もともと好きではあるのですが改めて注目するようになった、ということで)
20世紀は古音楽のリバイバル=新古典主義だったり、楽器の弾き方を広げたり(特殊奏法など)、そういう中でハープシコードも(あんまり楽器自体に改良が加えられてないにもかかわらず)新しく注目を浴びるようになって。
その中でも私が際立ってると思うのが去年からちょくちょく話がでているトマス・アデズだと思います。これも一昨年のコンサートで生で彼の新古典主義的な音楽を聴いてからずっと思ってることで。
バロック音楽に見られるIntimateでシンプルで透明な感じを今の言語で表現したみたいな、言葉で説明するのは難しいですが新しさと懐かしさが同居した感じがハープシコードの音にあったりするんですよね。
持ってる録音の中だと(コンサートで聴いたやつは持ってないのが多い・・・)おすすめはSonata da Cacciaですね。ハープシコードにホルン、オーボエというバロック~古典時代あたりで活躍していた楽器(さらに神話時代までさかのぼれる楽器でもありますね)を組み合わせたどこか古くて、でもちょっと現代的なひねくれや洗練がおもしろいです。
今回ちょっと縁がないようであるようで、思い立たないとなかなか扱うことのないエリアについて書けてなんだかほっとしています。
忙しい忙しいとはいうけれどあとはキーワードto音楽を近いうちにできればこのブログに関してはもっと安心するかな・・・とか思ってます。
ちょこちょこ考えためる癖つけないと。
今日の一曲: ヨハン・セバスチャン・バッハ 平均律第2巻 第24番
バッハの書いた音楽のうち今ピアノで弾かれているものは一般的にピアノのために、とかハープシコードのために、とかではなく「鍵盤楽器で弾くため」に書かれているそうで。
なのでもちろんハープシコードの演奏も多々巷にはあります。同じ曲をピアノで、そしてハープシコードで聞き比べてみるのもおもしろいですよ♪
さて、平均律第2巻第24番。2巻あってそれぞれ24曲ある、つまり「平均律クラヴィーア曲集」という名の曲集最後の曲です。ロ短調です。バッハはロ短調に名曲が多い、と一般的にいえると思いますがいかがでしょうか。
第1巻の24番は結構、なんというか・・・神聖な、特別なものという扱いですが(詳しい話はおいおいできれば、と思っています)、第2巻の24番はそんなにメジャーな扱いではないような気がします。生で聴いたことは一回もない。
ただうちに限ってはこの曲はメジャー中のメジャー曲で。
それはなぜかというと、Macintosh用のコンピュータゲーム、「Glimmer!」の冒頭BGMにこの第24番の前奏曲が使われていたから。あの紫と金で表裏を彩られた球が裏返り続けるグラフィックにこの曲はやられますよ。
このゲームは3Dめがねをかけて遊ぶパズルゲームで、シンプルながらもなかなかトリックがあったり幾何学的なデザインが素敵だったりで面白かったのですが、冒頭だけでなくすべてのBGMがバッハの平均律第2巻からとられているんです。(各レベルには一つずつフーガが、そして冒頭に24番の前奏曲、全クリアで1番の前奏曲)
このバッハの音楽のハープシコード演奏がゲームのグラフィックスの幾何学的なデザインとうまくマッチして、ゲームが面白いのに加えて音楽に対しても不思議な好感・共感が感じられます。
この第24番の前奏曲はなんというか「ああこれバッハだよな」という、どこか幾何学的に絡み合うようなデザインの音楽に、さすがはロ短調というような不思議な暗さと渋さがあり。
そしてフーガはどっちかというと組曲の最後に位置する「ジーグ」と呼ばれる踊りに似ていますね。はねたり回ったり(イギリスやスコットランドで見られるのと似てる踊りです)。
確かに第1巻の終わりと比べると荘厳な雰囲気があるわけでもないですが、でもなんだろうな、こういうエンディングも全然ありなんですよね。それは確実にいえるんですが。
とにかくフーガよりも前奏曲推しです。微妙にのめり込む魅力があります(笑)ハープシコードで弾くとなおさらに。響きがもう、なんか小宇宙というか。
いつか弾きたい♪
昨日はちょっと夕方出かけてました。Northcoteの方でちょっと飲んだりなんだり。
おいしいカクテル飲みましたよ。なんかちょっとレモネードみたいな感じの。Lemon Myrtle味のウオッカとかDOM Benedictineとかが入ってて。DOM Benedictineは薬草系リキュールみたいですね。27種類のハーブが入ってるとか。今度はシャルトリューズとか飲みたいなあ。
さて、前回から言っていたハープシコードの話。
たいしたことは書けないのです(笑)なぜなら弾いたことはないので。
ちょっとだけちょろっと触る程度に弾いたことはあります。お気に入りのあのただでさえほかのよりも狭い練習室にピアノと一緒に入ってたので。ただ誰も使わないのかものすごーく音がずれてて気持ち悪く。
よく言われがちなことなのですが、ハープシコードはピアノの前駆楽器ではどうやらないようです。
ピアノの原型もハープシコードと同じ時期に存在していたらしいですし、あと他人のそら似、ではないですがメカニズムはにているけど音を出す方法が違ったり。ピアノはハンマーが弦を「打つ」楽器ですがハープシコードは弦を爪で「はじく」楽器ですし。
ただ時代の音楽や作曲家の需要、音楽のあり方、そしてピアノの改良とかでピアノが台頭した、という流れでしょうか。
なので今の認識としてはハープシコードは主にバロック時代以前に活躍した楽器(+20世紀におけるリバイバル)という感じになっています。
でも弾き方は同じなのでピアニストがハープシコードも弾くんです。
(トゥーランガリラの彼は去年は大学でハープシコードも専攻してました)
それでも違いは多々ありますよ。強弱の幅、そして強弱の変化のしかたが限られてたり、音の伸びはほとんどありませんし、あとオルガンのように鍵盤が連動できたり音色が変えられたりとかしますし。
あとキーのタッチはハープシコードの方が大幅に軽い!なのでスカルラッティとかの作曲家がハープシコードなどを対象にして書いた曲はものすごい速いパッセージとかあるんですよね。今のピアノだと本当に技巧と指がしっかりしてないとちょっと難しい。
(ちゃんと)弾いたことはないですが何回か大学のオケでハープシコードを使ったことがあって、マネージャーとして関わったことはあります。主に運ぶのとか、チューニングを見届けるのとか。
ハープシコードは本体と支える棒と、あと本体を乗せる部分が別になってて、それもねじとかで止めるようなものじゃないのでかなり繊細かつひやひやものなんです。(もちろん楽器自体も古いですし)
しかもチューニングもピアノ以上に時間と労力(プロの調律師の方の)を使いますし、ずれやすい、という印象もあり。(ピアノはずっと改良され続けてますがハープシコードはそうでもないんだろうなあ・・・)
少なくとも私にとっては壊れ物扱いというか、そういう印象があります。どのみちピアノみたいにがつがつ弾いてもそれが反映できない楽器でもありますし。
ハープシコードはチェンバロ、クラヴサンという呼び方もあります。(順に英語、ドイツ語、そしてフランス語での呼び名)
クラヴサンっていいですね、名前。言葉の響きもそうですが、私が好きなハープシコードの曲はバロック時代だとたいていフランスものなので(詳しくはないですがラモーとかクープランとか聞くと好きですね~)。
ピアノでもいつか弾きたいなあ。
前々から母がハープシコードを弾いたらどうか、というんですよ。(いろんな方面からこれはどうだ、あれはどうだと言われるのですがその中の一つです)
弾いてほしい、というよりはハープシコードの蓋に絵を描きたいそうです。
ハープシコードもグランドピアノのように蓋をこちらに向けて斜めに開けて棒で支えて音を聴衆に向かって響かせるのですが、聴衆に向く面(閉じたとき下になる面)に絵が描いてあることが多いんですね。
大学のMelba Hallにあるハープシコードは油絵の具でオーストラリアのoutbackの風景が描かれていて、それがまあ美しい!(オーストラリアの曲以外を弾いていて音楽にマッチするか、という問題は別として・・・)
そういうのが母もやりたいらしくて、私も母が描いたハープシコードで弾いてみたいとは思ってるのですがなかなか実現は難しい(笑)
あんまり古音楽には比較的興味が薄かったのもあって、ハープシコードの音はよく聴いていて親しく好きだったながらも特別な魅力を抱くことは長いことなかったのですがその認識を変えたのはこれまたジョージ・クラムでした。
Songs, Drones, Refrains of Deathという曲はピアノとハープシコードを1人の奏者が(確か)掛け持ちしているのですが、ピアノだけでなくハープシコードもアンプで制御するんです。それでハープシコードにアンプがかかったところに手のひらクラスターを弾く(たたく)、という音がすごい!電気ノイズですよ!(笑)(ただし録音により結構差はでるようです・・・楽器の違いかアンプの調節の違いか)ちなみに第2部の速いSong of the Ridersの部分で何回かやってるので是非お聞きください。おすすめの録音はSpeculum Musicaeの演奏。
とにかくこれで自分のハープシコードに対する認識が一新しまして。
(いや、もともと好きではあるのですが改めて注目するようになった、ということで)
20世紀は古音楽のリバイバル=新古典主義だったり、楽器の弾き方を広げたり(特殊奏法など)、そういう中でハープシコードも(あんまり楽器自体に改良が加えられてないにもかかわらず)新しく注目を浴びるようになって。
その中でも私が際立ってると思うのが去年からちょくちょく話がでているトマス・アデズだと思います。これも一昨年のコンサートで生で彼の新古典主義的な音楽を聴いてからずっと思ってることで。
バロック音楽に見られるIntimateでシンプルで透明な感じを今の言語で表現したみたいな、言葉で説明するのは難しいですが新しさと懐かしさが同居した感じがハープシコードの音にあったりするんですよね。
持ってる録音の中だと(コンサートで聴いたやつは持ってないのが多い・・・)おすすめはSonata da Cacciaですね。ハープシコードにホルン、オーボエというバロック~古典時代あたりで活躍していた楽器(さらに神話時代までさかのぼれる楽器でもありますね)を組み合わせたどこか古くて、でもちょっと現代的なひねくれや洗練がおもしろいです。
今回ちょっと縁がないようであるようで、思い立たないとなかなか扱うことのないエリアについて書けてなんだかほっとしています。
忙しい忙しいとはいうけれどあとはキーワードto音楽を近いうちにできればこのブログに関してはもっと安心するかな・・・とか思ってます。
ちょこちょこ考えためる癖つけないと。
今日の一曲: ヨハン・セバスチャン・バッハ 平均律第2巻 第24番
バッハの書いた音楽のうち今ピアノで弾かれているものは一般的にピアノのために、とかハープシコードのために、とかではなく「鍵盤楽器で弾くため」に書かれているそうで。
なのでもちろんハープシコードの演奏も多々巷にはあります。同じ曲をピアノで、そしてハープシコードで聞き比べてみるのもおもしろいですよ♪
さて、平均律第2巻第24番。2巻あってそれぞれ24曲ある、つまり「平均律クラヴィーア曲集」という名の曲集最後の曲です。ロ短調です。バッハはロ短調に名曲が多い、と一般的にいえると思いますがいかがでしょうか。
第1巻の24番は結構、なんというか・・・神聖な、特別なものという扱いですが(詳しい話はおいおいできれば、と思っています)、第2巻の24番はそんなにメジャーな扱いではないような気がします。生で聴いたことは一回もない。
ただうちに限ってはこの曲はメジャー中のメジャー曲で。
それはなぜかというと、Macintosh用のコンピュータゲーム、「Glimmer!」の冒頭BGMにこの第24番の前奏曲が使われていたから。あの紫と金で表裏を彩られた球が裏返り続けるグラフィックにこの曲はやられますよ。
このゲームは3Dめがねをかけて遊ぶパズルゲームで、シンプルながらもなかなかトリックがあったり幾何学的なデザインが素敵だったりで面白かったのですが、冒頭だけでなくすべてのBGMがバッハの平均律第2巻からとられているんです。(各レベルには一つずつフーガが、そして冒頭に24番の前奏曲、全クリアで1番の前奏曲)
このバッハの音楽のハープシコード演奏がゲームのグラフィックスの幾何学的なデザインとうまくマッチして、ゲームが面白いのに加えて音楽に対しても不思議な好感・共感が感じられます。
この第24番の前奏曲はなんというか「ああこれバッハだよな」という、どこか幾何学的に絡み合うようなデザインの音楽に、さすがはロ短調というような不思議な暗さと渋さがあり。
そしてフーガはどっちかというと組曲の最後に位置する「ジーグ」と呼ばれる踊りに似ていますね。はねたり回ったり(イギリスやスコットランドで見られるのと似てる踊りです)。
確かに第1巻の終わりと比べると荘厳な雰囲気があるわけでもないですが、でもなんだろうな、こういうエンディングも全然ありなんですよね。それは確実にいえるんですが。
とにかくフーガよりも前奏曲推しです。微妙にのめり込む魅力があります(笑)ハープシコードで弾くとなおさらに。響きがもう、なんか小宇宙というか。
いつか弾きたい♪
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前回のエントリーに拍手ありがとうございます♪
相変わらずのろのろとしたPCにストレスを感じつつ仕事したり、間に練習もしたり。
練習もやっぱり新しい曲が多いとぐるぐるすることもありいろいろ壁を感じますが・・・
でも例えばプロコフィエフは「楽しんで弾けるほどの余裕がほしい」(果たしてできるのか・・・)というモチベーションのもとトリッキーな音さらいプロセスにがっつり取り組んでますし。
やっぱりですね、曲の全体的なビジョンだったり、この曲で何がしたいのかがわからなくて悩むより音が弾けなくて悩むほうが楽です。少なくとも精神的にはずっと楽。
「この曲で何がしたいのか」がちょっとまだわからないバルトークともうまく付き合っていきたいです。
バルトークも始めましたが今日は鳥のカタログの新しいのも始めましたよ~
第2楽章「ニシコウライウグイス」(「キガシラコウライウグイス」としている版もあるそうです)。
これで鳥カタは5曲目。全部で7巻、全部で13曲なのでまだまだ。
(モリヒバリ→ダイシャクシギ→モリフクロウ→ヒメコウテンシ→ニシコウライウグイス)
20のまなざしを弾き始めてから2年遅れで始めた、というのもありますし、20のまなざしよりも各曲の平均の長さが長いのもありますが、それをひっくるめても「まだまだだなー」と思います。
今まで弾いてきた曲は(ダイシャクシギを除くと)比較的短く、でてくる鳥の種類も少ないですが、最終的には全長27分超?の第7楽章も弾けなくちゃいけないですしね。曲集全体で3時間半?とかですし。先は長い。
以前から「冒頭で損する」とか「間違った初印象」とか、そういう話をちょくちょくしてますが、「鳥のカタログ」が昔私にとってまさにそれだったんですよね。第1楽章から聴いてこの曲集を好きになれる人はメシアンをちょっと知ってる人でも少ないんじゃないかなあ・・・と。
(でも聴いてても弾いてても音楽の性質は「20のまなざし」と「鳥のカタログ」ではだいぶ違いますねー)
そんな私が「鳥のカタログ」を好きになったきっかけが今弾いてる「ニシコウライウグイス」で。
最初の2つの和音で恋に落ちた、というか。あの黄金の色、不思議な音色、そして暖かな光。この主役の鳥の姿もまたすばらしいですよ。オスの黄金色のボディに映える黒のコントラスト、それがまたイラストとかだと周りの植物の濃緑色にまたマッチして。
曲の後半のスローな部分の光と色もまた美しいとしか表現しようがないです(というかそこはメシアン自身の前書きが一番かなー)。
「鳥のカタログ」を習得するにおいては他の曲とは違うところ、特殊なところがあるような気がします。
鳥の実際の声を聴いたり、姿や環境(季節や風景など)を知ったり、ピアノ以外でいろいろすることがあるのがまずあって。
あと鳥の音楽的常識は人間の音楽的常識と違うな、というのもあり。(他の曲から鳥カタに入ってくるとそういうとこのタッチだったり勘、感覚が失われた、と感じることが多いんですよね)
ピアノを弾く、というよりはいかに鳥の声を再現するか、いかに鳥に近づくか、という思考が多くなります。
そういう「普通ピアノですること」とはちょっと違うことをするのが好き、というのもありますが、「鳥のカタログ」で私が本当に楽しい、と思うのは「空間を創りあげる」ことで。
鳥の声をリアルに再現しながら、他の風景をも忠実に再現して、それから音楽における「間」もいろいろ試して駆使していつもすんでいる自分の家のリビングルームの中にフランスの野外を創りだす、というこれがなんといっても好きなプロセスなんです。
それは聴覚に限ったことでなく、温度や湿度など、五感に訴える世界を作らなくちゃいけない、というのがまた燃える。
例えば外の鳥の鳴き声に合わせて間を調節してみたり、そうやって外の世界とのつながりを作ったり。
限られた空間と時間の中で、その空間と時間よりもはるかに大きい世界を作り出すのが(音楽に限らず)自分がやろうとしていることの大事な一部だと思います。
そして「鳥のカタログ」はそういった意味でも「自分のしたいこと」の大事な一部で。
もちろん20のまなざしも好きですし(そして今でも30歳になるまでに全曲制覇、と思ってます。あと4つ)、あれはあれで素晴らしいんですが・・・
「鳥のカタログ」も自分の心の中にものすごく特別なポジションを築いています。こういう音楽って(メシアンの外では特に)存在しないので・・・
あともともと鳥好きだから、という理由もありますね(笑)少なくとも鳥のいる風景(視覚的・聴覚的)に親しんでるとそれだけで鳥カタの見方って変わると思いますし。
そもそも日本人は鳥や植物や温度や天候や、そういった季節の移り変わりや季節の風景に親しみが深いので「鳥のカタログ」は結構相性がいいというか親しみやすいと思います。ほぼガイジンの感覚としては例えば俳句や短歌にものすごく似てると思いますよ(ちょっと長いですが)。
ちなみに次弾く「鳥のカタログ」も決まってます。次は第3楽章の「イソヒヨドリ」。これも不思議な鳴き声と特徴的な外見を持った鳥で、海の情景とあってこれまた新鮮。ものすごく好きな曲で今からもう楽しみです。
そのあとはきっと冬の間に20のまなざしを1つ2つ?はさんで。そのあとは第9楽章の「ヨーロッパウグイス」で葦原の情景かな。
それから「鳥のカタログ」を聴くときに、という話を少し。
先ほど言いましたが第1楽章から聴くととっつきづらいです。最初は比較的短くて、鳥の鳴き声とそれ以外の「風景をあらわす部分」がはっきり分かれている(そして後者が特徴的&聴き易い)ものが良いかしら。
お勧めスターターは第2楽章「ニシコウライウグイス」、第6楽章「モリヒバリ」。第9楽章「ヨーロッパウグイス」、第13楽章「ダイシャクシギ」あたりもいけるかな。雰囲気なら第5楽章「モリフクロウ」もなかなか面白いです(不協和音的ですが、フクロウ3種の鳴き声はわかりやすいので一応リストに加えました)。
英語でいうところのいわゆるGreenieでは私はないのですが、メシアンが自然を愛するのを、音楽を通して私も愛していて。
人生のほとんどの時間を都会で育ってすごしている私ですが、そうでない時間をものすごく愛しく思っていますし、いつも自然と近くありたい、と思っていて。
自分の心の中にある自然の世界を自分の手で音楽を通じて作り上げるのもだからものすごく大切で。
もっと鳥に近く、もっと自然に近く、自分の手でもっといろいろなものを、もっと濃密で鮮やかで広い世界を創りたい。その1つの形として「鳥のカタログ」を弾き感じ創ることを大事にしていけたらなあ・・・と思います。
(もちろん「ピアノを弾く」ということとして「鳥のカタログを弾く」のもそうですが!)
鳥のカタログで新しい楽章を始めたときに恒例なんですが鳥の鳴き声とか動画をとあるサイトで調べたりするのですが、このPCではブックマークされてない!(汗)
「可愛い!」とか言って結構時間かけちゃうんですが私が鳥カタを弾くときには欠かせないプロセスなのでなるべく早く対応したいですね~
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「鳥のカタログ」 第6楽章「モリヒバリ」
ニシコウライウグイスはちょっと待ってください!必ずやります!(メモメモ)
スターターとして挙げたもう1つの曲を。こっちのほうがわかりやすく解説できる自信が大きいので(汗)
鳥のカタログでは夜を舞台にした(そう、鳥は夜にも鳴くらしいです)曲がいくつかあります。
第7,8楽章は夜から始まりますし、第5,6楽章は短いですが完全に夜の世界。
そんな中の第6楽章、モリヒバリ。
この曲を初めましてに選んだ理由としては:
(1)でてくる鳥が2種類のみ(モリヒバリとサヨナキドリ(ナイチンゲール))
(2)モリヒバリの鳴き声が大変メロディックで特徴的
(3)曲が短め
(4)夜の闇の描写がわかりやすく(最初にも見られる和音の連続)、鳥の鳴き声からも識別しやすい
(5)全体的に聴きやすい(比較的)
同じ「夜」の風景でもモリフクロウとモリヒバリではちょっと情景が違います。モリフクロウはひたすら闇の暗さ、恐怖を、そしてモリヒバリは夜の神秘さ、静かさ、月の光など。
(隣同士の曲でもありますので比較して聞いてみるのもいいかも)
とにかくこのモリヒバリの流れるような歌声。ちょっとバリエーション形式にも通じるような、それからちょっと即興的なところがあって。
この鳴き声が夜更けに聞こえたら思わず耳をすませてしまうような美しい歌です。
そしてサヨナキドリはそれとまた対照的で。断片的な、まったく違った性質の鳴き声をころころ変える即興性。どっかぶっきらぼうなときもあったり、繊細さを見せたり。ちょっとピアノでは普段使わないような強弱とかを使うのがちょっと弾き手にとってはトリッキーだったり。
できたら月のきれいな夜にそっとかけてみてほしい曲です。
(そしてサヨナキドリの鳴き声がちょっと不協和音的でもめげずに最後まで聞いてみてくださいね)
今回リンクしたのはマイケルの録音以外で持ってるもう一つの録音、ムラロの演奏にしてみました。
相変わらずのろのろとしたPCにストレスを感じつつ仕事したり、間に練習もしたり。
練習もやっぱり新しい曲が多いとぐるぐるすることもありいろいろ壁を感じますが・・・
でも例えばプロコフィエフは「楽しんで弾けるほどの余裕がほしい」(果たしてできるのか・・・)というモチベーションのもとトリッキーな音さらいプロセスにがっつり取り組んでますし。
やっぱりですね、曲の全体的なビジョンだったり、この曲で何がしたいのかがわからなくて悩むより音が弾けなくて悩むほうが楽です。少なくとも精神的にはずっと楽。
「この曲で何がしたいのか」がちょっとまだわからないバルトークともうまく付き合っていきたいです。
バルトークも始めましたが今日は鳥のカタログの新しいのも始めましたよ~
第2楽章「ニシコウライウグイス」(「キガシラコウライウグイス」としている版もあるそうです)。
これで鳥カタは5曲目。全部で7巻、全部で13曲なのでまだまだ。
(モリヒバリ→ダイシャクシギ→モリフクロウ→ヒメコウテンシ→ニシコウライウグイス)
20のまなざしを弾き始めてから2年遅れで始めた、というのもありますし、20のまなざしよりも各曲の平均の長さが長いのもありますが、それをひっくるめても「まだまだだなー」と思います。
今まで弾いてきた曲は(ダイシャクシギを除くと)比較的短く、でてくる鳥の種類も少ないですが、最終的には全長27分超?の第7楽章も弾けなくちゃいけないですしね。曲集全体で3時間半?とかですし。先は長い。
以前から「冒頭で損する」とか「間違った初印象」とか、そういう話をちょくちょくしてますが、「鳥のカタログ」が昔私にとってまさにそれだったんですよね。第1楽章から聴いてこの曲集を好きになれる人はメシアンをちょっと知ってる人でも少ないんじゃないかなあ・・・と。
(でも聴いてても弾いてても音楽の性質は「20のまなざし」と「鳥のカタログ」ではだいぶ違いますねー)
そんな私が「鳥のカタログ」を好きになったきっかけが今弾いてる「ニシコウライウグイス」で。
最初の2つの和音で恋に落ちた、というか。あの黄金の色、不思議な音色、そして暖かな光。この主役の鳥の姿もまたすばらしいですよ。オスの黄金色のボディに映える黒のコントラスト、それがまたイラストとかだと周りの植物の濃緑色にまたマッチして。
曲の後半のスローな部分の光と色もまた美しいとしか表現しようがないです(というかそこはメシアン自身の前書きが一番かなー)。
「鳥のカタログ」を習得するにおいては他の曲とは違うところ、特殊なところがあるような気がします。
鳥の実際の声を聴いたり、姿や環境(季節や風景など)を知ったり、ピアノ以外でいろいろすることがあるのがまずあって。
あと鳥の音楽的常識は人間の音楽的常識と違うな、というのもあり。(他の曲から鳥カタに入ってくるとそういうとこのタッチだったり勘、感覚が失われた、と感じることが多いんですよね)
ピアノを弾く、というよりはいかに鳥の声を再現するか、いかに鳥に近づくか、という思考が多くなります。
そういう「普通ピアノですること」とはちょっと違うことをするのが好き、というのもありますが、「鳥のカタログ」で私が本当に楽しい、と思うのは「空間を創りあげる」ことで。
鳥の声をリアルに再現しながら、他の風景をも忠実に再現して、それから音楽における「間」もいろいろ試して駆使していつもすんでいる自分の家のリビングルームの中にフランスの野外を創りだす、というこれがなんといっても好きなプロセスなんです。
それは聴覚に限ったことでなく、温度や湿度など、五感に訴える世界を作らなくちゃいけない、というのがまた燃える。
例えば外の鳥の鳴き声に合わせて間を調節してみたり、そうやって外の世界とのつながりを作ったり。
限られた空間と時間の中で、その空間と時間よりもはるかに大きい世界を作り出すのが(音楽に限らず)自分がやろうとしていることの大事な一部だと思います。
そして「鳥のカタログ」はそういった意味でも「自分のしたいこと」の大事な一部で。
もちろん20のまなざしも好きですし(そして今でも30歳になるまでに全曲制覇、と思ってます。あと4つ)、あれはあれで素晴らしいんですが・・・
「鳥のカタログ」も自分の心の中にものすごく特別なポジションを築いています。こういう音楽って(メシアンの外では特に)存在しないので・・・
あともともと鳥好きだから、という理由もありますね(笑)少なくとも鳥のいる風景(視覚的・聴覚的)に親しんでるとそれだけで鳥カタの見方って変わると思いますし。
そもそも日本人は鳥や植物や温度や天候や、そういった季節の移り変わりや季節の風景に親しみが深いので「鳥のカタログ」は結構相性がいいというか親しみやすいと思います。ほぼガイジンの感覚としては例えば俳句や短歌にものすごく似てると思いますよ(ちょっと長いですが)。
ちなみに次弾く「鳥のカタログ」も決まってます。次は第3楽章の「イソヒヨドリ」。これも不思議な鳴き声と特徴的な外見を持った鳥で、海の情景とあってこれまた新鮮。ものすごく好きな曲で今からもう楽しみです。
そのあとはきっと冬の間に20のまなざしを1つ2つ?はさんで。そのあとは第9楽章の「ヨーロッパウグイス」で葦原の情景かな。
それから「鳥のカタログ」を聴くときに、という話を少し。
先ほど言いましたが第1楽章から聴くととっつきづらいです。最初は比較的短くて、鳥の鳴き声とそれ以外の「風景をあらわす部分」がはっきり分かれている(そして後者が特徴的&聴き易い)ものが良いかしら。
お勧めスターターは第2楽章「ニシコウライウグイス」、第6楽章「モリヒバリ」。第9楽章「ヨーロッパウグイス」、第13楽章「ダイシャクシギ」あたりもいけるかな。雰囲気なら第5楽章「モリフクロウ」もなかなか面白いです(不協和音的ですが、フクロウ3種の鳴き声はわかりやすいので一応リストに加えました)。
英語でいうところのいわゆるGreenieでは私はないのですが、メシアンが自然を愛するのを、音楽を通して私も愛していて。
人生のほとんどの時間を都会で育ってすごしている私ですが、そうでない時間をものすごく愛しく思っていますし、いつも自然と近くありたい、と思っていて。
自分の心の中にある自然の世界を自分の手で音楽を通じて作り上げるのもだからものすごく大切で。
もっと鳥に近く、もっと自然に近く、自分の手でもっといろいろなものを、もっと濃密で鮮やかで広い世界を創りたい。その1つの形として「鳥のカタログ」を弾き感じ創ることを大事にしていけたらなあ・・・と思います。
(もちろん「ピアノを弾く」ということとして「鳥のカタログを弾く」のもそうですが!)
鳥のカタログで新しい楽章を始めたときに恒例なんですが鳥の鳴き声とか動画をとあるサイトで調べたりするのですが、このPCではブックマークされてない!(汗)
「可愛い!」とか言って結構時間かけちゃうんですが私が鳥カタを弾くときには欠かせないプロセスなのでなるべく早く対応したいですね~
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「鳥のカタログ」 第6楽章「モリヒバリ」
ニシコウライウグイスはちょっと待ってください!必ずやります!(メモメモ)
スターターとして挙げたもう1つの曲を。こっちのほうがわかりやすく解説できる自信が大きいので(汗)
鳥のカタログでは夜を舞台にした(そう、鳥は夜にも鳴くらしいです)曲がいくつかあります。
第7,8楽章は夜から始まりますし、第5,6楽章は短いですが完全に夜の世界。
そんな中の第6楽章、モリヒバリ。
この曲を初めましてに選んだ理由としては:
(1)でてくる鳥が2種類のみ(モリヒバリとサヨナキドリ(ナイチンゲール))
(2)モリヒバリの鳴き声が大変メロディックで特徴的
(3)曲が短め
(4)夜の闇の描写がわかりやすく(最初にも見られる和音の連続)、鳥の鳴き声からも識別しやすい
(5)全体的に聴きやすい(比較的)
同じ「夜」の風景でもモリフクロウとモリヒバリではちょっと情景が違います。モリフクロウはひたすら闇の暗さ、恐怖を、そしてモリヒバリは夜の神秘さ、静かさ、月の光など。
(隣同士の曲でもありますので比較して聞いてみるのもいいかも)
とにかくこのモリヒバリの流れるような歌声。ちょっとバリエーション形式にも通じるような、それからちょっと即興的なところがあって。
この鳴き声が夜更けに聞こえたら思わず耳をすませてしまうような美しい歌です。
そしてサヨナキドリはそれとまた対照的で。断片的な、まったく違った性質の鳴き声をころころ変える即興性。どっかぶっきらぼうなときもあったり、繊細さを見せたり。ちょっとピアノでは普段使わないような強弱とかを使うのがちょっと弾き手にとってはトリッキーだったり。
できたら月のきれいな夜にそっとかけてみてほしい曲です。
(そしてサヨナキドリの鳴き声がちょっと不協和音的でもめげずに最後まで聞いてみてくださいね)
今回リンクしたのはマイケルの録音以外で持ってるもう一つの録音、ムラロの演奏にしてみました。
いきなり聖飢魔IIの歌のタイトルのパロディみたいなタイトルのエントリーですみません(笑)
(念のために元の聖飢魔IIの歌のタイトルは「Save your soul ~美しきクリシェに背を向けて~」です)
といってもトピック自体はこないだ親友としてた話、そして前回のエントリーの「今日の一曲」からふくらんだ話です。
クリシェ=clichéとは常套文句や使い古された言い回しなど、最初はちょっと粋なものだったけど使われすぎて陳腐になったものを指します。
クラシック音楽もその歴史はざっと300年以上ありますので国・時代・スタイルなどが変われども、新しいものを常に求め動き、フレッシュなものをいくら創り出してもどうしても使い古されるものが出てくるわけです。
例えばベートーヴェンは当時の音楽にあった決まりというかクリシェを徹底的にぶちこわそうとした人で。ハーモニーや形式などで当時としてはかなり破天荒といえることをやったのですが(良い例がピアノソナタ第3番 op.2-3ですね、ぶちこわそうという意図まで透けて見えます)、それがもうベートーヴェンが有名になっておおよそ200年経った今の時代では当たり前になってしまっています。(ここんとこ親友と話してた部分です)
ストラヴィンスキーの「春の祭典」もそうですよね。1912年の初演では騒ぎが起こるほど斬新な音楽ですが今では斬新さはまだあるながらも「20世紀の音楽ってこういう感じ」という当たり前感が漂いつつもあります。
こないだちょっと読んだ記事であったのですが、音楽を聞いている間脳はある程度先を予測しようとする、というか常に先を「期待する」(anticipate)そうで、音楽はその期待に望むものを与えるか、またはその予想を裏切ることで聴き手の心を動かす働きがあるそうです(大分おおざっぱな説明だ!)。
だから作曲家側としては期待に望むものを与える方法、そして予想を裏切る方法どちらもマスターしなければならなくて、その中でも予想を裏切るのはやっぱり奇抜なこと、今までなかった斬新なことをやらなくちゃならないわけで。
それでまあ今日下に紹介するようなテクニックを使うのですが、それも何度も使われると聴き手もある程度予想できるようになって、結果クリシェになってしまう、というわけで。
ちょっと偏屈気味でスノッブである、音楽において割と「変わった」ものを好む、いわゆるポピュラーな感じのクラシックを疎む私ですが、意外とクラシック音楽にあるクリシェ的なテクニックに弱かったりもするんです。
英語でいうと「soft spot」というか、どうしてもその使い古されたフレーズなどに意図された反応をしてしまう、そんなクリシェを許してしまう、そういうところがありまして。
今日はそんな「背を向けられない美しいクリシェ」をいくつか紹介していきたいと思います。
1) ピカルディの三度
短調の曲が最後の終止和音だけ長調になることをこういうそうです。バッハがよく使ったテクニックで、私はこれをキリスト教で苦痛から最終的には解き放たれる、救いがあるみたいな意味合いがあるんじゃないかと解釈しています。
音響の物理からしても短和音というのは緊張が生じる、「不自然」な響きで、それが倍音の関係で「自然」である長和音に移行するのは本当に開放感というか、resolveした感覚が強いです。なんというか、いくら使い古されてもいくらたくさん聴いてきてもその根底の感覚は変わらないみたいですね。
先ほど書いた通りこの曲はバッハの音楽で多用されていて、短調の曲もほとんどピカルディの三度で長調になって終わるのですが、例を挙げると以前弾いた平均律第1巻第22番(変ロ短調)は前奏曲もフーガもはっきりとピカルディの三度で終わります。ちょっと変わった使い方としては同じく変ロ短調のショスタコーヴィチの前奏曲とフーガ(第16番)のフーガで、最後のセクションまるまる1分ほどが長調になっているというとっても長いピカルディの三度となっています。効果はものすごいですよー。
2) ナポリの6度
ナポリの6度は毎度おなじみ完全終止(「ちゃんちゃん♪」の和音進行)の前にメインの調の半音上のコードが入る、というハーモニー進行です。音楽理論を抜きにして説明するのは難しいのですが、「メインの調の半音上のコード」というのは普段メインの調で音楽を進めているとまず出てこない、メインの調と関係ないまさに「青天の霹靂」的なコードで。
さらにナポリの6度に当たる和音は♯のつく調なら♭メインのコード、♭のつく調なら♯メインのコードとして現れることも多いので理論が分からなくともかなり色彩や印象ががらりと変わるため聞き分けることが比較的容易です。
今書いたようにかなりインパクトの強いコード進行ですが、ロマン派の時代にに移行するにつれてハーモニーの変化がもっと自由になり、ナポリの6度の使用頻度だけでなくもっと奇抜なハーモニーの変化も使われ、さらに20世紀になってハーモニーの動きは本当にいろんなところに行ってしまったのでクリシェと化した・・・という経緯でしょうか。
ナポリの6度はポップミュージックも含め様々なところで使われていますが私にとって印象が強いのはチャイコフスキーの作品、特にワルツ曲ですね。最後の方で複数回使われることも(ちょっとくどい使い方ですが)。さりげない使い方としてはショパンの前奏曲第20番かな。割とジャズっぽい和音進行の曲の中に深みをさらに出すナポリの6度(第2フレーズ、そしてその繰り返しの最終フレーズそれぞれの終わりにみられます)。
3) ペンタトニック
ペンタトニックとは五音音階のこと。日本では「四七抜き音階」といって、ハ長調だったらファとシを抜いたド・レ・ミ・ソ・ラでなる音階のことを言います日本では(伝統音楽でもポップでも)よく使われる音階で、よくある「黒鍵だけで弾ける曲」はペンタトニックで成り立ってますし、日本人に馴染みやすい外国のメロディーもまたペンタトニックから成り立ってることが多かったり。
ペンタトニックは日本だけでなく東洋全体で基本となっている音階のため、西洋ではエキゾチック・オリエンタル風味を出したいならペンタトニック!と安易に使われる事が多かったり(特にパリ万博以降乏しい知識とイメージから漠然と東洋へのあこがれを抱いた作曲家達)。安易なんだけど確かにすぐ分かるし、やっぱりちょっとエキゾチックな感じとなじみやすさを感じてしまうのですよね(苦笑)
前回の「今日の一曲」のクラムの「A little suite for Christmas」の「東方の三博士の礼拝」が分かりやすい例ですかね(このエントリーのきっかけでした)、すぐ「あっ!」て思うと言う点では(笑)でもペンタトニックを乱用してるといえばドビュッシーでしょう、ダントツで(笑)割とベタな使い方をする中で、ピアノのための前奏曲集から第2番「Voiles」はなかなか粋な使い方をしています。この曲はほとんどが全音階(音階の一つの音から次の音がかならず全音)で成り立っていて、調がものすごく曖昧になってる中にペンタトニックというまるで違う毛色の音階が使われる事でさあっと違う色の風が吹くようなエフェクトになっています。
4) ヘミオーラ
ヘミオーラとは3拍子の曲で(1は常に強い拍→)1 2 3 |1 2 3 とリズムがなってるところが突然1 2 1 |2 1 2と、なんというか小節をまたぐようにリズムが「ずれる」ことを指します。
一番有名な例はバーンスタインの「ウエスト・サイド物語」の「アメリカ」ですかね。あの曲は6拍子ですが、1 2 3 1 2 3 |1 2 1 2 1 2と2種類の区切りが交互に現れるので私の説明よりかはあるいは分かりやすいかもしれないです(ただネットでこの違いを聞いてる例を見てるとそんな簡単にはいかないのかな、と思ったりも・・・)
リズムは明らかにずれますが、変拍子を伴わないですし音楽の流れを大きく妨げたり変えたりはしないのでリズムに変化を与える、聴き手の感覚をゆさぶるのにはかなり容易なリズムテクニックで。
これもまたチャイコフスキーのワルツによく出てくるやつですね!(笑)実際に踊っててヘミオーラが出てきたら貴族の方たちはどれだけ気にするか、そこまではわかりませんが(バレエで使うとき振り付けはヘミオーラ意識してるのかな・・・)それでもやっぱり「おっ」と耳をひくものがあります。耳をひく、以上に「これは凄いな」と思ったヘミオーラの使い方はドヴォルザークの交響曲第7番第3楽章でしょうか。ヘミオーラは珍しいほどの高頻度で出てきますが、1 2 1 2 1 2にスイッチするときの力強さがリズムのアンバランスさを強調してものすごいキャラクターを打ち出してます。
今回紹介した「クリシェ的テクニック」のそれぞれに対してちょっとベタな使い方をしている曲と粋な使い方をしている曲と両方挙げてみましたが、いくら使い古されたものでも使い方と表現者の腕によっては新鮮な魅力を出すことができる、ということで・・・
良い例としてはパロディ的な用法ですかね。クリシェを自虐的に、皮肉的に使ってユーモアと魅力を出す、でもそういうことをうまくやるにはスキルが伴う。
今の時代、クラシック音楽では300年の歴史が積み重なり、他のジャンルでも様々な国の音楽にアクセスできるようになり、音楽が量産化できる時代になり、とにかく「既存の音楽データ」が膨大なものになってきている中、音楽におけるクリシェもまた急速に増え、今現在も音楽界にはクリシェがそこここらにあふれている状態になっているとも言えます。
これは話すと長くなるんで別の機会にとっておきますがポップミュージックでの不協和音の使われなさだったりその他「不快」なものを避けることによって「予想を裏切る」ようなことをしない傾向だったり、とにかく耳の肥えた現代人の耳をひくようなことをしない、クリシェの海に溺れている音楽的な懸念がたくさんあって。(これもまた別の機会用ですが、私にとって良い作曲家の判断基準の一つは「不協和音の使い方が上手い」です)
以前読んだ論文で「音楽によって表現されるネガティブな感情は聴き手にとってネガティブな影響を与えない」というのもあり、それから先ほどベートーヴェンと春の祭典の例を挙げたように「予想を裏切る」ことは聴き手の注意をひき、インパクトを与え記憶に残り、そしてそれが一時的に不快なものだとしてもやがて親しみ慣れていく、ということもあり。(長期的な展望が欠けている、ということなのかな)
そして先ほども書いたようにクリシェを使わないことだけが「予想を裏切る」ことじゃなく、クリシェもまた使いようで。それもさっきのも全部ひっくるめて表現者の「意図」が問題なのかもしれないな、という思いはあります。
ちなみに書く側だけではないですよ。「音楽を選ぶ側」もそうですから。(例えば日本において弾かれている・弾かれていない音楽のおおまかな分布への懸念)
こんなに語るつもりは当初なかったんですが熱くなってしまいました。普段からジョージ・クラムの言葉でいうところの「大量の無関心な音楽にあふれているこの世界で「良い」音楽未満のものを創ることは良いことだとは思わない」、という思いを抱えてて。
・・・皮肉にも元ネタの歌のタイトルに戻ってきましたね。「Save your soul~美しきクリシェに背を向けて」。
このエントリーの内容に沿わせてみると耳ざわりの良い、予想に叶ったものばかり与える音楽のクリシェに背を向けて、予想を裏切られること(それは不快感だったり、別の意味で快感だったり)で魂を救え、と。
予想以上にまとまってしまって困惑しながら今回は結び。
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 「白鳥の湖」 第1幕より「ワルツ」
タイトル元ネタ曲も、粋な使い方もいいんですけどね、他の機会で余裕で紹介できると思ったので、ヘミオーラとナポリの6度がクリシェ的な感じで聴けるこの曲を。(あと説明短くてすむ)
そもそもチャイコフスキーのワルツ自体がクリシェなんですよね。バレエでも幾度となく使いますし、交響曲でも使いますし(交響曲のはでもクリシェじゃない使い方が多いかも、比較的に)、あと小品でもワルツと名のつくもの、つかないものいろいろ。
そのなかでも何となく典型的、というか「チャイコフスキーのワルツといったら」みたいなところがあるクリシェのなかのクリシェ(笑)
単純に華やかで、優雅で、短調に変わるセクションがあって、最後の方にヘミオーラ+ナポリの6度で盛り上げて・・・というお決まりのコース。でも分かっていても魅力があって、クリシェじゃないところもたくさんあったり。
実際に弾いてるとチェロのパートってそこそこ悪くなかったりしますからね~
とにかくクリシェといえば・・・でなくチャイコフスキーのワルツといえばまずこれを聞いて欲しい、と。バレエのストーリーの流れには直接的には関係ないですし単品でもそれなりに成り立つしっかりした曲でもありますので。
(念のために元の聖飢魔IIの歌のタイトルは「Save your soul ~美しきクリシェに背を向けて~」です)
といってもトピック自体はこないだ親友としてた話、そして前回のエントリーの「今日の一曲」からふくらんだ話です。
クリシェ=clichéとは常套文句や使い古された言い回しなど、最初はちょっと粋なものだったけど使われすぎて陳腐になったものを指します。
クラシック音楽もその歴史はざっと300年以上ありますので国・時代・スタイルなどが変われども、新しいものを常に求め動き、フレッシュなものをいくら創り出してもどうしても使い古されるものが出てくるわけです。
例えばベートーヴェンは当時の音楽にあった決まりというかクリシェを徹底的にぶちこわそうとした人で。ハーモニーや形式などで当時としてはかなり破天荒といえることをやったのですが(良い例がピアノソナタ第3番 op.2-3ですね、ぶちこわそうという意図まで透けて見えます)、それがもうベートーヴェンが有名になっておおよそ200年経った今の時代では当たり前になってしまっています。(ここんとこ親友と話してた部分です)
ストラヴィンスキーの「春の祭典」もそうですよね。1912年の初演では騒ぎが起こるほど斬新な音楽ですが今では斬新さはまだあるながらも「20世紀の音楽ってこういう感じ」という当たり前感が漂いつつもあります。
こないだちょっと読んだ記事であったのですが、音楽を聞いている間脳はある程度先を予測しようとする、というか常に先を「期待する」(anticipate)そうで、音楽はその期待に望むものを与えるか、またはその予想を裏切ることで聴き手の心を動かす働きがあるそうです(大分おおざっぱな説明だ!)。
だから作曲家側としては期待に望むものを与える方法、そして予想を裏切る方法どちらもマスターしなければならなくて、その中でも予想を裏切るのはやっぱり奇抜なこと、今までなかった斬新なことをやらなくちゃならないわけで。
それでまあ今日下に紹介するようなテクニックを使うのですが、それも何度も使われると聴き手もある程度予想できるようになって、結果クリシェになってしまう、というわけで。
ちょっと偏屈気味でスノッブである、音楽において割と「変わった」ものを好む、いわゆるポピュラーな感じのクラシックを疎む私ですが、意外とクラシック音楽にあるクリシェ的なテクニックに弱かったりもするんです。
英語でいうと「soft spot」というか、どうしてもその使い古されたフレーズなどに意図された反応をしてしまう、そんなクリシェを許してしまう、そういうところがありまして。
今日はそんな「背を向けられない美しいクリシェ」をいくつか紹介していきたいと思います。
1) ピカルディの三度
短調の曲が最後の終止和音だけ長調になることをこういうそうです。バッハがよく使ったテクニックで、私はこれをキリスト教で苦痛から最終的には解き放たれる、救いがあるみたいな意味合いがあるんじゃないかと解釈しています。
音響の物理からしても短和音というのは緊張が生じる、「不自然」な響きで、それが倍音の関係で「自然」である長和音に移行するのは本当に開放感というか、resolveした感覚が強いです。なんというか、いくら使い古されてもいくらたくさん聴いてきてもその根底の感覚は変わらないみたいですね。
先ほど書いた通りこの曲はバッハの音楽で多用されていて、短調の曲もほとんどピカルディの三度で長調になって終わるのですが、例を挙げると以前弾いた平均律第1巻第22番(変ロ短調)は前奏曲もフーガもはっきりとピカルディの三度で終わります。ちょっと変わった使い方としては同じく変ロ短調のショスタコーヴィチの前奏曲とフーガ(第16番)のフーガで、最後のセクションまるまる1分ほどが長調になっているというとっても長いピカルディの三度となっています。効果はものすごいですよー。
2) ナポリの6度
ナポリの6度は毎度おなじみ完全終止(「ちゃんちゃん♪」の和音進行)の前にメインの調の半音上のコードが入る、というハーモニー進行です。音楽理論を抜きにして説明するのは難しいのですが、「メインの調の半音上のコード」というのは普段メインの調で音楽を進めているとまず出てこない、メインの調と関係ないまさに「青天の霹靂」的なコードで。
さらにナポリの6度に当たる和音は♯のつく調なら♭メインのコード、♭のつく調なら♯メインのコードとして現れることも多いので理論が分からなくともかなり色彩や印象ががらりと変わるため聞き分けることが比較的容易です。
今書いたようにかなりインパクトの強いコード進行ですが、ロマン派の時代にに移行するにつれてハーモニーの変化がもっと自由になり、ナポリの6度の使用頻度だけでなくもっと奇抜なハーモニーの変化も使われ、さらに20世紀になってハーモニーの動きは本当にいろんなところに行ってしまったのでクリシェと化した・・・という経緯でしょうか。
ナポリの6度はポップミュージックも含め様々なところで使われていますが私にとって印象が強いのはチャイコフスキーの作品、特にワルツ曲ですね。最後の方で複数回使われることも(ちょっとくどい使い方ですが)。さりげない使い方としてはショパンの前奏曲第20番かな。割とジャズっぽい和音進行の曲の中に深みをさらに出すナポリの6度(第2フレーズ、そしてその繰り返しの最終フレーズそれぞれの終わりにみられます)。
3) ペンタトニック
ペンタトニックとは五音音階のこと。日本では「四七抜き音階」といって、ハ長調だったらファとシを抜いたド・レ・ミ・ソ・ラでなる音階のことを言います日本では(伝統音楽でもポップでも)よく使われる音階で、よくある「黒鍵だけで弾ける曲」はペンタトニックで成り立ってますし、日本人に馴染みやすい外国のメロディーもまたペンタトニックから成り立ってることが多かったり。
ペンタトニックは日本だけでなく東洋全体で基本となっている音階のため、西洋ではエキゾチック・オリエンタル風味を出したいならペンタトニック!と安易に使われる事が多かったり(特にパリ万博以降乏しい知識とイメージから漠然と東洋へのあこがれを抱いた作曲家達)。安易なんだけど確かにすぐ分かるし、やっぱりちょっとエキゾチックな感じとなじみやすさを感じてしまうのですよね(苦笑)
前回の「今日の一曲」のクラムの「A little suite for Christmas」の「東方の三博士の礼拝」が分かりやすい例ですかね(このエントリーのきっかけでした)、すぐ「あっ!」て思うと言う点では(笑)でもペンタトニックを乱用してるといえばドビュッシーでしょう、ダントツで(笑)割とベタな使い方をする中で、ピアノのための前奏曲集から第2番「Voiles」はなかなか粋な使い方をしています。この曲はほとんどが全音階(音階の一つの音から次の音がかならず全音)で成り立っていて、調がものすごく曖昧になってる中にペンタトニックというまるで違う毛色の音階が使われる事でさあっと違う色の風が吹くようなエフェクトになっています。
4) ヘミオーラ
ヘミオーラとは3拍子の曲で(1は常に強い拍→)1 2 3 |1 2 3 とリズムがなってるところが突然1 2 1 |2 1 2と、なんというか小節をまたぐようにリズムが「ずれる」ことを指します。
一番有名な例はバーンスタインの「ウエスト・サイド物語」の「アメリカ」ですかね。あの曲は6拍子ですが、1 2 3 1 2 3 |1 2 1 2 1 2と2種類の区切りが交互に現れるので私の説明よりかはあるいは分かりやすいかもしれないです(ただネットでこの違いを聞いてる例を見てるとそんな簡単にはいかないのかな、と思ったりも・・・)
リズムは明らかにずれますが、変拍子を伴わないですし音楽の流れを大きく妨げたり変えたりはしないのでリズムに変化を与える、聴き手の感覚をゆさぶるのにはかなり容易なリズムテクニックで。
これもまたチャイコフスキーのワルツによく出てくるやつですね!(笑)実際に踊っててヘミオーラが出てきたら貴族の方たちはどれだけ気にするか、そこまではわかりませんが(バレエで使うとき振り付けはヘミオーラ意識してるのかな・・・)それでもやっぱり「おっ」と耳をひくものがあります。耳をひく、以上に「これは凄いな」と思ったヘミオーラの使い方はドヴォルザークの交響曲第7番第3楽章でしょうか。ヘミオーラは珍しいほどの高頻度で出てきますが、1 2 1 2 1 2にスイッチするときの力強さがリズムのアンバランスさを強調してものすごいキャラクターを打ち出してます。
今回紹介した「クリシェ的テクニック」のそれぞれに対してちょっとベタな使い方をしている曲と粋な使い方をしている曲と両方挙げてみましたが、いくら使い古されたものでも使い方と表現者の腕によっては新鮮な魅力を出すことができる、ということで・・・
良い例としてはパロディ的な用法ですかね。クリシェを自虐的に、皮肉的に使ってユーモアと魅力を出す、でもそういうことをうまくやるにはスキルが伴う。
今の時代、クラシック音楽では300年の歴史が積み重なり、他のジャンルでも様々な国の音楽にアクセスできるようになり、音楽が量産化できる時代になり、とにかく「既存の音楽データ」が膨大なものになってきている中、音楽におけるクリシェもまた急速に増え、今現在も音楽界にはクリシェがそこここらにあふれている状態になっているとも言えます。
これは話すと長くなるんで別の機会にとっておきますがポップミュージックでの不協和音の使われなさだったりその他「不快」なものを避けることによって「予想を裏切る」ようなことをしない傾向だったり、とにかく耳の肥えた現代人の耳をひくようなことをしない、クリシェの海に溺れている音楽的な懸念がたくさんあって。(これもまた別の機会用ですが、私にとって良い作曲家の判断基準の一つは「不協和音の使い方が上手い」です)
以前読んだ論文で「音楽によって表現されるネガティブな感情は聴き手にとってネガティブな影響を与えない」というのもあり、それから先ほどベートーヴェンと春の祭典の例を挙げたように「予想を裏切る」ことは聴き手の注意をひき、インパクトを与え記憶に残り、そしてそれが一時的に不快なものだとしてもやがて親しみ慣れていく、ということもあり。(長期的な展望が欠けている、ということなのかな)
そして先ほども書いたようにクリシェを使わないことだけが「予想を裏切る」ことじゃなく、クリシェもまた使いようで。それもさっきのも全部ひっくるめて表現者の「意図」が問題なのかもしれないな、という思いはあります。
ちなみに書く側だけではないですよ。「音楽を選ぶ側」もそうですから。(例えば日本において弾かれている・弾かれていない音楽のおおまかな分布への懸念)
こんなに語るつもりは当初なかったんですが熱くなってしまいました。普段からジョージ・クラムの言葉でいうところの「大量の無関心な音楽にあふれているこの世界で「良い」音楽未満のものを創ることは良いことだとは思わない」、という思いを抱えてて。
・・・皮肉にも元ネタの歌のタイトルに戻ってきましたね。「Save your soul~美しきクリシェに背を向けて」。
このエントリーの内容に沿わせてみると耳ざわりの良い、予想に叶ったものばかり与える音楽のクリシェに背を向けて、予想を裏切られること(それは不快感だったり、別の意味で快感だったり)で魂を救え、と。
予想以上にまとまってしまって困惑しながら今回は結び。
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 「白鳥の湖」 第1幕より「ワルツ」
タイトル元ネタ曲も、粋な使い方もいいんですけどね、他の機会で余裕で紹介できると思ったので、ヘミオーラとナポリの6度がクリシェ的な感じで聴けるこの曲を。(あと説明短くてすむ)
そもそもチャイコフスキーのワルツ自体がクリシェなんですよね。バレエでも幾度となく使いますし、交響曲でも使いますし(交響曲のはでもクリシェじゃない使い方が多いかも、比較的に)、あと小品でもワルツと名のつくもの、つかないものいろいろ。
そのなかでも何となく典型的、というか「チャイコフスキーのワルツといったら」みたいなところがあるクリシェのなかのクリシェ(笑)
単純に華やかで、優雅で、短調に変わるセクションがあって、最後の方にヘミオーラ+ナポリの6度で盛り上げて・・・というお決まりのコース。でも分かっていても魅力があって、クリシェじゃないところもたくさんあったり。
実際に弾いてるとチェロのパートってそこそこ悪くなかったりしますからね~
とにかくクリシェといえば・・・でなくチャイコフスキーのワルツといえばまずこれを聞いて欲しい、と。バレエのストーリーの流れには直接的には関係ないですし単品でもそれなりに成り立つしっかりした曲でもありますので。
前回のエントリーに拍手ありがとうございます♪続報に期待です!
今回はまた「いくつも曲を紹介していく系」のエントリーです~
心を落ち着けたり奮い立たせたり、音楽で心の動きをいろんな風に制御したり変えたりできる、という話はこのブログで何度もしてきましたし、実際に自分もそれを実践していましたし。(一番最近の例としてはここんところの疲労にやられながらも働かなくちゃいけないためがんがん聖飢魔II(テンポとかビートががつがつ前に行くやつを選んで)流しながら働いたり、というケースも)
他人のために、そして自分のために(主に後者ですね、機会の数は)いろんな目的で音楽を選ぶことは習慣であり、楽しみであり。そして自分のために選ぶときは自分の心のケアという役割もあったり、でもそこまで重大な感じじゃない目的もいろいろありますし、そういうときでも手抜き無しで曲を選んでます。
そのなかでも割と自分が大切にしている、という目的?というかシチュエーション?がありまして。
それは例えば一日働いて(ピアノもはさんで)夕方になってきたとき、もうひとがんばりだと自分を励ましたり一日の疲れをいたわり始めたりするときであったり。
または友達と飲みに行ったり(コンサートの後とか)した後に興奮が冷めないまま帰りの電車にのって、ちょっと寂しさを覚えながら「良い時間を過ごした」と回想する時であったり。
そういう、心と頭がアクティブな状態から穏やかになる、「winding down」のプロセスを助けるための音楽に関して大事にしているものがありまして。
Winding downは別に音楽がなくても容易にできるものではあるんです。アクティブになったあとは自然と心は落ち着いていくものですから、本来は。(もちろん周りからの刺激が激しいとうまくいかなかったりしますがね)
ただ、そのプロセスがもっと心地良くなるように、というか・・・仕事の終わりにかけて、の場合だったら一日働いた自分をいたわることだったり、友達と別れて帰宅中にはみんなと一緒にいた心地良い時間の余韻がより長く続いて、より深くその感覚に浸れるように、とにかくより自然に、より穏やかに(急な気分の変化をたくさん経験するとそれがどんなに大切なことか痛感します)・・・という目的でふさわしい音楽を聴く、体験を創る、ということなんです。
必需品ではなく贅沢品ではありますが、大切なことだと思います。
今回はクラシックに限らずジャンル様々から10曲選んでみました。それではどうぞ。
1) Andy Statman 「Flatbush Waltz」
いきなりクレズマーのCDから一曲。クレズマーっていうと一般的にバイオリンが暴れたりクラリネットが叫んだり、陽気と陰気が入り交じった踊りだったり歌だったり、独特の民族音楽風味が強かったりするのですが、これはわりと癖が弱い(でも良い感じであるんですね、これが!)、穏やかなナンバー。ピアノが入ってるのが特徴的だったり。盛り上がりもあるながらも、上に行くときも下におろすときも心地良くて。メロディーとハーモニーのシンプルさもまた優しいです。
2) レスピーギ 「リュートのための古風なアリアと舞曲」第2組曲より 「パリの鐘」
Wind downに使う曲はある程度長さがあるとうまく浸れる、穏やかな状態に導きやすいんですが、この曲は比較的短いながらもしっかり優しく心を着地させてくれます。チェレスタの音が効きますね!一日の終わりを告げる鐘のようで。ものすごーくやさしい、夢がすぐそこにあるような、眠りを思わせるような、まるで子供を優しく眠りにつかせるような音楽です。
3) The Beatles 「The Long and Winding Road」
この曲が仕事時間の終わりにくるとものすごく嬉しいです!もともとこの曲はCDの終わりに来ることに慣れてる、というのもありますが、踏みしめていくような、どこかに向かいながらもうすぐたどり着くような感覚があって好きです。曲が盛り上がるところの弦のパートが特に。あとエンディングがものすごく充実するのもいいですね~
4) ラヴェル 「2つのヘブライの歌曲」より「カディッシュ」(バイオリン版)
Wind downに使う音楽は一つ一つの音が美しい!大切!と思える曲が良いような気がします。だから自然とシンプルで、どちらかというとスローなテンポの音楽が好ましい、という傾向で。シンプルな美しさ、という意味では本当にこの曲は素晴らしいですね。少しユダヤ風の旋律だったり、ピアノの伴奏だったり、ノスタルジックな音楽は疲れを改めて感じ始めている心にしみいります。
5) たま 「満月小唄」
柳原さんが作曲した(&メインボーカル担当した)曲です。歌詞もメロディーもハーモニーも各々の楽器のパートも何もかもが美しくて、柳原さんの音楽にある独特な揺れる心地よさがまた気持ちよくて、ちょっと長めの歌ですが身と心を任せてずっと聴いていられるようで。弾き語りなツインギターの音色がやっぱり主なのですが、パーカッションも随所随所でいいアクセントになってたり。
6) ホルスト 「吹奏楽のための組曲」第1組曲より「シャコンヌ」
繰り返されるベースラインに輝く、穏やかな管楽器の音色。実は夕方にはこういう「穏やかな金管」系統の音楽にある包み込むような暖かさが本当にありがたかったり。面白いのは、この曲は(実はキーも一緒ですが)先ほどのビートルズみたいなものすごい充実した終わり方をする、これだけでお腹いっぱいというか満ち足りた感じになれるのに組曲では第1楽章だということ(笑)
7) メシアン 前奏曲第6番 「苦悩の鐘と別れの涙」
メシアンはなんといっても「永遠」の使い手ですからね。「この一瞬をずっと味わっていたい」という思いを実現させてくれる音楽を書く作曲家で。この曲の後半の下降してくる和音だったり、息の長い、終わりが見えないメロディーだったり、本当に幸せとそれに伴う切なさをくみ取ってくれて、じっくり感じさせてくれるのです。だから曲が終わった時は満足して手放せる、そんな感じ。
8) ヴォーン=ウィリアムス 「富める人とラザロ」の5つの異版
ヴォーン=ウィリアムスはたまに心をちょっとした旅に連れてってくれます。この曲もそうで、あのノスタルジックな、ちょっとセンチメンタルなスタイルの音楽であんなこともあった、こんなこともあった、と思い出の中を手を引いて回想散歩させてくれて。弦とハープの音の繊細さ、そして力強さでちょっとだけ、一時だけ感傷的に浸るのを、後ろを向いて思い出を大切にするのを許してくれるようです。
9) 聖飢魔II 「嵐の予感」
これもまたEpic、というか聴いてるだけで旅をするような曲で。全体的に穏やかな感じで耳も心も傾けたくなるのもあり、そして間奏での盛り上がりもあり。特に間奏の終わりの方のギターのソロのあの美しいのを聴くと「本当に良かった」とものすごく思えるんですよね。心が落ち着く準備に入れる、というか。そのまま閣下の歌が入るのに浸りながら・・・という。夜帰宅中の電車で聴くとどうしても弱い曲です(笑)
10) シューベルト 交響曲第7番「未完成」 第2楽章
この曲を夕方に聴くことは自分にとって最高の贅沢のうちの1つだと思います。これが自分へのご褒美というか、自分をいたわるのに使えるのは本当に特別な時ではないかと(笑)とにかく美しいですし、なにかとっても黄昏を思わせるような色彩で。途中のクラリネットのソロの息の長いのなんか素晴らしいですし。本当に良い仕事をしたら全体重と心重(?)を預けて味わいたくなる、そんな曲です。
Wind downに使う音楽、というのはただ穏やかなだけじゃだめな気がします。聞き流せる音楽よりは、ぐっと心を掴んで、身も心も任せたくなるくらいしっかりしていて。あと上記の曲ほとんどに共通しているのが「穏やかながらもしっかり盛り上がりがある」曲だということ、そして盛り上がったところから曲の終わりまでの音楽(そして心)を着地に導く方法がものすごく上手い、ということではないかと。
先ほども書きましたが決して自分はwind downするのが下手というわけでもないのですが、それでも仕事なり友達との経験なりで体験した良いことを音楽を通じてもっと味わうため(記憶は音楽と結びつきますしね)、そしてそういう体験したことを通じてより深く音楽を感じるため、色々こうやって試したり探ったりして大切なものを見つけようとしたりしています。
あと実際友達と遊びに行って体験する感情だとか、そういうものと同じくらいwinding downのプロセスで得られる感覚も好きだったりするので。
こういう体験だったりこうやって思考をめぐらすことが自分の糧になると信じているのもありますが、全部ひっくるめてwinding downのプロセスが好きで、本当に興味深いと思っています。
今日は「今日の一曲」はまたお休みですが、こないだと同じく今回紹介した曲から1つ選んで改めて次回の「今日の一曲」で取り扱おうと思ってます。
今回はまた「いくつも曲を紹介していく系」のエントリーです~
心を落ち着けたり奮い立たせたり、音楽で心の動きをいろんな風に制御したり変えたりできる、という話はこのブログで何度もしてきましたし、実際に自分もそれを実践していましたし。(一番最近の例としてはここんところの疲労にやられながらも働かなくちゃいけないためがんがん聖飢魔II(テンポとかビートががつがつ前に行くやつを選んで)流しながら働いたり、というケースも)
他人のために、そして自分のために(主に後者ですね、機会の数は)いろんな目的で音楽を選ぶことは習慣であり、楽しみであり。そして自分のために選ぶときは自分の心のケアという役割もあったり、でもそこまで重大な感じじゃない目的もいろいろありますし、そういうときでも手抜き無しで曲を選んでます。
そのなかでも割と自分が大切にしている、という目的?というかシチュエーション?がありまして。
それは例えば一日働いて(ピアノもはさんで)夕方になってきたとき、もうひとがんばりだと自分を励ましたり一日の疲れをいたわり始めたりするときであったり。
または友達と飲みに行ったり(コンサートの後とか)した後に興奮が冷めないまま帰りの電車にのって、ちょっと寂しさを覚えながら「良い時間を過ごした」と回想する時であったり。
そういう、心と頭がアクティブな状態から穏やかになる、「winding down」のプロセスを助けるための音楽に関して大事にしているものがありまして。
Winding downは別に音楽がなくても容易にできるものではあるんです。アクティブになったあとは自然と心は落ち着いていくものですから、本来は。(もちろん周りからの刺激が激しいとうまくいかなかったりしますがね)
ただ、そのプロセスがもっと心地良くなるように、というか・・・仕事の終わりにかけて、の場合だったら一日働いた自分をいたわることだったり、友達と別れて帰宅中にはみんなと一緒にいた心地良い時間の余韻がより長く続いて、より深くその感覚に浸れるように、とにかくより自然に、より穏やかに(急な気分の変化をたくさん経験するとそれがどんなに大切なことか痛感します)・・・という目的でふさわしい音楽を聴く、体験を創る、ということなんです。
必需品ではなく贅沢品ではありますが、大切なことだと思います。
今回はクラシックに限らずジャンル様々から10曲選んでみました。それではどうぞ。
1) Andy Statman 「Flatbush Waltz」
いきなりクレズマーのCDから一曲。クレズマーっていうと一般的にバイオリンが暴れたりクラリネットが叫んだり、陽気と陰気が入り交じった踊りだったり歌だったり、独特の民族音楽風味が強かったりするのですが、これはわりと癖が弱い(でも良い感じであるんですね、これが!)、穏やかなナンバー。ピアノが入ってるのが特徴的だったり。盛り上がりもあるながらも、上に行くときも下におろすときも心地良くて。メロディーとハーモニーのシンプルさもまた優しいです。
2) レスピーギ 「リュートのための古風なアリアと舞曲」第2組曲より 「パリの鐘」
Wind downに使う曲はある程度長さがあるとうまく浸れる、穏やかな状態に導きやすいんですが、この曲は比較的短いながらもしっかり優しく心を着地させてくれます。チェレスタの音が効きますね!一日の終わりを告げる鐘のようで。ものすごーくやさしい、夢がすぐそこにあるような、眠りを思わせるような、まるで子供を優しく眠りにつかせるような音楽です。
3) The Beatles 「The Long and Winding Road」
この曲が仕事時間の終わりにくるとものすごく嬉しいです!もともとこの曲はCDの終わりに来ることに慣れてる、というのもありますが、踏みしめていくような、どこかに向かいながらもうすぐたどり着くような感覚があって好きです。曲が盛り上がるところの弦のパートが特に。あとエンディングがものすごく充実するのもいいですね~
4) ラヴェル 「2つのヘブライの歌曲」より「カディッシュ」(バイオリン版)
Wind downに使う音楽は一つ一つの音が美しい!大切!と思える曲が良いような気がします。だから自然とシンプルで、どちらかというとスローなテンポの音楽が好ましい、という傾向で。シンプルな美しさ、という意味では本当にこの曲は素晴らしいですね。少しユダヤ風の旋律だったり、ピアノの伴奏だったり、ノスタルジックな音楽は疲れを改めて感じ始めている心にしみいります。
5) たま 「満月小唄」
柳原さんが作曲した(&メインボーカル担当した)曲です。歌詞もメロディーもハーモニーも各々の楽器のパートも何もかもが美しくて、柳原さんの音楽にある独特な揺れる心地よさがまた気持ちよくて、ちょっと長めの歌ですが身と心を任せてずっと聴いていられるようで。弾き語りなツインギターの音色がやっぱり主なのですが、パーカッションも随所随所でいいアクセントになってたり。
6) ホルスト 「吹奏楽のための組曲」第1組曲より「シャコンヌ」
繰り返されるベースラインに輝く、穏やかな管楽器の音色。実は夕方にはこういう「穏やかな金管」系統の音楽にある包み込むような暖かさが本当にありがたかったり。面白いのは、この曲は(実はキーも一緒ですが)先ほどのビートルズみたいなものすごい充実した終わり方をする、これだけでお腹いっぱいというか満ち足りた感じになれるのに組曲では第1楽章だということ(笑)
7) メシアン 前奏曲第6番 「苦悩の鐘と別れの涙」
メシアンはなんといっても「永遠」の使い手ですからね。「この一瞬をずっと味わっていたい」という思いを実現させてくれる音楽を書く作曲家で。この曲の後半の下降してくる和音だったり、息の長い、終わりが見えないメロディーだったり、本当に幸せとそれに伴う切なさをくみ取ってくれて、じっくり感じさせてくれるのです。だから曲が終わった時は満足して手放せる、そんな感じ。
8) ヴォーン=ウィリアムス 「富める人とラザロ」の5つの異版
ヴォーン=ウィリアムスはたまに心をちょっとした旅に連れてってくれます。この曲もそうで、あのノスタルジックな、ちょっとセンチメンタルなスタイルの音楽であんなこともあった、こんなこともあった、と思い出の中を手を引いて回想散歩させてくれて。弦とハープの音の繊細さ、そして力強さでちょっとだけ、一時だけ感傷的に浸るのを、後ろを向いて思い出を大切にするのを許してくれるようです。
9) 聖飢魔II 「嵐の予感」
これもまたEpic、というか聴いてるだけで旅をするような曲で。全体的に穏やかな感じで耳も心も傾けたくなるのもあり、そして間奏での盛り上がりもあり。特に間奏の終わりの方のギターのソロのあの美しいのを聴くと「本当に良かった」とものすごく思えるんですよね。心が落ち着く準備に入れる、というか。そのまま閣下の歌が入るのに浸りながら・・・という。夜帰宅中の電車で聴くとどうしても弱い曲です(笑)
10) シューベルト 交響曲第7番「未完成」 第2楽章
この曲を夕方に聴くことは自分にとって最高の贅沢のうちの1つだと思います。これが自分へのご褒美というか、自分をいたわるのに使えるのは本当に特別な時ではないかと(笑)とにかく美しいですし、なにかとっても黄昏を思わせるような色彩で。途中のクラリネットのソロの息の長いのなんか素晴らしいですし。本当に良い仕事をしたら全体重と心重(?)を預けて味わいたくなる、そんな曲です。
Wind downに使う音楽、というのはただ穏やかなだけじゃだめな気がします。聞き流せる音楽よりは、ぐっと心を掴んで、身も心も任せたくなるくらいしっかりしていて。あと上記の曲ほとんどに共通しているのが「穏やかながらもしっかり盛り上がりがある」曲だということ、そして盛り上がったところから曲の終わりまでの音楽(そして心)を着地に導く方法がものすごく上手い、ということではないかと。
先ほども書きましたが決して自分はwind downするのが下手というわけでもないのですが、それでも仕事なり友達との経験なりで体験した良いことを音楽を通じてもっと味わうため(記憶は音楽と結びつきますしね)、そしてそういう体験したことを通じてより深く音楽を感じるため、色々こうやって試したり探ったりして大切なものを見つけようとしたりしています。
あと実際友達と遊びに行って体験する感情だとか、そういうものと同じくらいwinding downのプロセスで得られる感覚も好きだったりするので。
こういう体験だったりこうやって思考をめぐらすことが自分の糧になると信じているのもありますが、全部ひっくるめてwinding downのプロセスが好きで、本当に興味深いと思っています。
今日は「今日の一曲」はまたお休みですが、こないだと同じく今回紹介した曲から1つ選んで改めて次回の「今日の一曲」で取り扱おうと思ってます。
前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
あれを書いてから舌の根(?)の乾かぬうちにすでにまた「曲をばんばん紹介する」タイプのエントリーのネタ詰めしてまして、今度もまた良い曲揃いになる予定なのでこうご期待♪
実はもう曲は上がってるのですが、ただ「曲をばんばん紹介する」タイプのエントリーはなるべく連続しないようにポリシーとして一応やってるので、その前に今回は・・・
オーケストラプロジェクトが帰ってきた!
・・・という話を。
The Orchestra Project(略称TOP)は数年前にメルボルンで活動していたオーケストラのプロジェクト。
ユースオーケストラとプロオケの間をつなぐようなオケを目指したTOPは若い人(主に大学世代)とプロの奏者から成り立つオーケストラで。ユースオケもかなりがっつりのレパートリーなのですがそれよりさらに上のレベルのレパートリーを集中型スケジュールでリハーサルして演奏する、というようなオケです。
しばらく活動していた後ちょうど3年前に一旦活動休止となり、今回また不死鳥のごとく(?)再開した、という経歴です。
TOPの主催をしているのはこのブログでもう何度も名前がでてきている指揮者さん、Fabian Russell。主催しながら今シーズンでもほとんどのコンサートで指揮者となっています。
とりあえず再開のミーティングみたいのが14日にあったみたいで、Facebookにお知らせが昨日載って。
弾きたい人はその旨を履歴書と共に送付、とあったのでシステムとしてはそういうことらしいです。最初の24時間で60通以上入隊(?)希望があったらしく。私もちょっと今日は慌ただしかったのですがメールを送りました。弾きたいですねえ(下記参照)。でも弾けなくても絶対聴きに行きたい。
で、とりあえずメディアリリース&通知が英語でfacebookに載ったのでまずはリンク。(permalinkだけど見れるかな)
でもキー情報が見つけにくいので自分のメモも兼ねてここにまとめます。
TOP 2012シーズンは国立音楽アカデミー(ANAM)で開催されます。
コンサートスケジュールは以下の通り:
3月4日: マーラー 交響曲第6番
Easter Sunday(日付は要確認): モーツァルト 大ミサ曲ハ短調 (Consort of Melbourneと共に)
9月2日: ブラームス 交響曲第3番、ブリテン「パイドラ(Phaedra)」、バルトーク「中国の不思議な役人」 (このコンサートは指揮者: Kristian Winther)
10月16日: プロコフィエフ ピアノ協奏曲第5番 (ピアノ: Daniel de Borah)、ショスタコーヴィチ 交響曲第8番
このうち私が弾けるパートがあるのはマーラー6番(チェレスタ)、そしてバルトーク「中国の不思議な役人」(ピアノ)です。ブリテンのパイドラはハープシコードパートがある様子。
モーツァルトの大ミサ曲は元々が未完成の曲で、いくつか補完版が書かれ演奏される中、来年は新しい補完版(誰のか、ということは書いてない)の世界初演になるそうです。
去年はユースオケとかで呼んでもらえて割と良い感じだったんですがTOPの場合(オケ全体で)ユース世代だけでなくプロ世代も対象になりますし、他の楽器でも結構こぞって応募している、色んな人が参加したがってるんで今までよりオケピアノ&チェレスタも競争が厳しくなるかなあ、とちょっとひやひやしています。
今のところ音楽を人前で弾く機会、というのがオケしかない、というのもありますがそうでなくともオーケストラで弾くのがめちゃめちゃ大好きで。
しかも今回このレパートリーときたらもう弾くしかない!という感が強いです。
マーラー6番はチェレスタが初めて交響曲に使われた曲で、割と大きいパートで、ちゃんと聞こえるパートもありますし、曲の中で本当にこの楽器が大事なんだ、というのが痛感されるようなパートでもあります。
バルトークの中国の不思議な役人はかなり難しい曲で、ピアノのパートもなかなかひやひやもんだと聞いてますがなんてったってバルトークですしものすごい好きな曲なんでひやひやしてみたい!というのもあり。
私にとってはどちらも一生の内に一度は弾いてみたい曲のリストの上位に入ってるのです。
ということで指揮者さんからのある程度の信頼はあることは分かってるのですが、その全体的な対象の広がりみたいなものと、あと曲とオケとあの人のバトンで弾くことに対する思いの強さでちょっと自信は少なめでいます。先ほど書きましたが履歴書と応募のメールはもう出したので、あとは願うだけですね。
あ、あとブリテンでハープシコードのパートがあるということで今大学ではハープシコードを専攻しているというトゥーランガリラの彼が弾いたらいいのにな、と人のことまで気にしてたり(笑)これとは別でもまた一緒のステージに立ちたいですよ、彼とは。
(ちなみに今日はあの子はコンサートだったんですが多忙で行けなくてものすごく申し訳ない・・・今度こそ聴きに行く!はもちろんですが早く会ってまた一緒に心地良い時間を過ごしたいものです)
ということで多少はやきもきしながらも来年何らかの形では楽しみにできるものができたので。
今後の続報を楽しみにしててくださいね~
今日の一曲: フェデリコ・モンポウ 「内なる印象」 第1楽章
TOPの曲はまた今度においといて、昨日のエントリーから「シンプルなピアノ」代表として選んだ曲です。
モンポウはいわゆる「ミニマル・ミュージック」とは違うけれどどちらかというとシンプルで、(あらゆる意味で)小規模な曲をたくさんピアノのために残している作曲家です。
一応スペイン生まれ、でも生まれ育ちはバルセロナのあるカタルーニャ地方なので(今でも独立願望があるように)割と主流と思われるスペイン文化・・・例えば闘牛とか、情熱とか、そういうものとは少し違う文化と感覚に基づいている音楽なんですね。
様々な曲集がある中で「内なる印象」はなんとなく「モンポウの表現したいものってこういうものなのかな」と思わせるような何かがありますね。タイトルがまずそう、というか。
ものすごく繊細で、心の中の片隅にあって、とっても小さくて柔らかくて大事なもの。
それをピアノという大きな楽器の繊細な響きで大切に大切に表現する感じ。
私がモンポウの音楽に出会ったのは「歌と踊り」の方を通じてでしたが、「弾きたい」と思ったのは正にこの「内なる印象」の第1楽章がきっかけだったと思います。
元からこういう小さい大切な、そっと両手に抱えたくなるような音楽が好き、というのもあって。
そしてこの「音はシンプルだけど表現するものはそうシンプルじゃない」奥深さも気に入りました。
まるでため息みたいな、何か心にあるものを言おうとしている、でもうまく言えないでためらっている、そういう息づかいだったり、その「ためらい」「迷い」の表現だったり。ものすごく愛しい。
音楽を通して心に触れられるのならこの曲はすごく素敵な、貴重な触れさせ方をさせてくれます。
あれを書いてから舌の根(?)の乾かぬうちにすでにまた「曲をばんばん紹介する」タイプのエントリーのネタ詰めしてまして、今度もまた良い曲揃いになる予定なのでこうご期待♪
実はもう曲は上がってるのですが、ただ「曲をばんばん紹介する」タイプのエントリーはなるべく連続しないようにポリシーとして一応やってるので、その前に今回は・・・
オーケストラプロジェクトが帰ってきた!
・・・という話を。
The Orchestra Project(略称TOP)は数年前にメルボルンで活動していたオーケストラのプロジェクト。
ユースオーケストラとプロオケの間をつなぐようなオケを目指したTOPは若い人(主に大学世代)とプロの奏者から成り立つオーケストラで。ユースオケもかなりがっつりのレパートリーなのですがそれよりさらに上のレベルのレパートリーを集中型スケジュールでリハーサルして演奏する、というようなオケです。
しばらく活動していた後ちょうど3年前に一旦活動休止となり、今回また不死鳥のごとく(?)再開した、という経歴です。
TOPの主催をしているのはこのブログでもう何度も名前がでてきている指揮者さん、Fabian Russell。主催しながら今シーズンでもほとんどのコンサートで指揮者となっています。
とりあえず再開のミーティングみたいのが14日にあったみたいで、Facebookにお知らせが昨日載って。
弾きたい人はその旨を履歴書と共に送付、とあったのでシステムとしてはそういうことらしいです。最初の24時間で60通以上入隊(?)希望があったらしく。私もちょっと今日は慌ただしかったのですがメールを送りました。弾きたいですねえ(下記参照)。でも弾けなくても絶対聴きに行きたい。
で、とりあえずメディアリリース&通知が英語でfacebookに載ったのでまずはリンク。(permalinkだけど見れるかな)
でもキー情報が見つけにくいので自分のメモも兼ねてここにまとめます。
TOP 2012シーズンは国立音楽アカデミー(ANAM)で開催されます。
コンサートスケジュールは以下の通り:
3月4日: マーラー 交響曲第6番
Easter Sunday(日付は要確認): モーツァルト 大ミサ曲ハ短調 (Consort of Melbourneと共に)
9月2日: ブラームス 交響曲第3番、ブリテン「パイドラ(Phaedra)」、バルトーク「中国の不思議な役人」 (このコンサートは指揮者: Kristian Winther)
10月16日: プロコフィエフ ピアノ協奏曲第5番 (ピアノ: Daniel de Borah)、ショスタコーヴィチ 交響曲第8番
このうち私が弾けるパートがあるのはマーラー6番(チェレスタ)、そしてバルトーク「中国の不思議な役人」(ピアノ)です。ブリテンのパイドラはハープシコードパートがある様子。
モーツァルトの大ミサ曲は元々が未完成の曲で、いくつか補完版が書かれ演奏される中、来年は新しい補完版(誰のか、ということは書いてない)の世界初演になるそうです。
去年はユースオケとかで呼んでもらえて割と良い感じだったんですがTOPの場合(オケ全体で)ユース世代だけでなくプロ世代も対象になりますし、他の楽器でも結構こぞって応募している、色んな人が参加したがってるんで今までよりオケピアノ&チェレスタも競争が厳しくなるかなあ、とちょっとひやひやしています。
今のところ音楽を人前で弾く機会、というのがオケしかない、というのもありますがそうでなくともオーケストラで弾くのがめちゃめちゃ大好きで。
しかも今回このレパートリーときたらもう弾くしかない!という感が強いです。
マーラー6番はチェレスタが初めて交響曲に使われた曲で、割と大きいパートで、ちゃんと聞こえるパートもありますし、曲の中で本当にこの楽器が大事なんだ、というのが痛感されるようなパートでもあります。
バルトークの中国の不思議な役人はかなり難しい曲で、ピアノのパートもなかなかひやひやもんだと聞いてますがなんてったってバルトークですしものすごい好きな曲なんでひやひやしてみたい!というのもあり。
私にとってはどちらも一生の内に一度は弾いてみたい曲のリストの上位に入ってるのです。
ということで指揮者さんからのある程度の信頼はあることは分かってるのですが、その全体的な対象の広がりみたいなものと、あと曲とオケとあの人のバトンで弾くことに対する思いの強さでちょっと自信は少なめでいます。先ほど書きましたが履歴書と応募のメールはもう出したので、あとは願うだけですね。
あ、あとブリテンでハープシコードのパートがあるということで今大学ではハープシコードを専攻しているというトゥーランガリラの彼が弾いたらいいのにな、と人のことまで気にしてたり(笑)これとは別でもまた一緒のステージに立ちたいですよ、彼とは。
(ちなみに今日はあの子はコンサートだったんですが多忙で行けなくてものすごく申し訳ない・・・今度こそ聴きに行く!はもちろんですが早く会ってまた一緒に心地良い時間を過ごしたいものです)
ということで多少はやきもきしながらも来年何らかの形では楽しみにできるものができたので。
今後の続報を楽しみにしててくださいね~
今日の一曲: フェデリコ・モンポウ 「内なる印象」 第1楽章
TOPの曲はまた今度においといて、昨日のエントリーから「シンプルなピアノ」代表として選んだ曲です。
モンポウはいわゆる「ミニマル・ミュージック」とは違うけれどどちらかというとシンプルで、(あらゆる意味で)小規模な曲をたくさんピアノのために残している作曲家です。
一応スペイン生まれ、でも生まれ育ちはバルセロナのあるカタルーニャ地方なので(今でも独立願望があるように)割と主流と思われるスペイン文化・・・例えば闘牛とか、情熱とか、そういうものとは少し違う文化と感覚に基づいている音楽なんですね。
様々な曲集がある中で「内なる印象」はなんとなく「モンポウの表現したいものってこういうものなのかな」と思わせるような何かがありますね。タイトルがまずそう、というか。
ものすごく繊細で、心の中の片隅にあって、とっても小さくて柔らかくて大事なもの。
それをピアノという大きな楽器の繊細な響きで大切に大切に表現する感じ。
私がモンポウの音楽に出会ったのは「歌と踊り」の方を通じてでしたが、「弾きたい」と思ったのは正にこの「内なる印象」の第1楽章がきっかけだったと思います。
元からこういう小さい大切な、そっと両手に抱えたくなるような音楽が好き、というのもあって。
そしてこの「音はシンプルだけど表現するものはそうシンプルじゃない」奥深さも気に入りました。
まるでため息みたいな、何か心にあるものを言おうとしている、でもうまく言えないでためらっている、そういう息づかいだったり、その「ためらい」「迷い」の表現だったり。ものすごく愛しい。
音楽を通して心に触れられるのならこの曲はすごく素敵な、貴重な触れさせ方をさせてくれます。