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最近バドミントンやコンサートでサウスメルボルンに行ってばかりですが(いっそ住みたい!)、昨日もまた国立アカデミーにコンサートを聴きに行ってきました。
なんでもイギリス人作曲家トマス・アデズが来豪して彼の曲を始め指揮・演奏を担当とするとのことで結構わくわくしてこの日をまっていたのです。
アデズの音楽に出会ったのは大学の時。親しい友達を通じてピアノ音楽からオケ音楽や室内楽音楽を知り、その色彩の透明さと音の世界にたちまち惚れてしまいました。
調べてみるとイギリスの作曲家でいまも存命、それどころか1971年生まれというかなり若い作曲家だということにものすごく驚いてしまいました。音楽を聴いているとなんだか独特の世界がものすごく完成してて、ブレがなくて。
あと今まであまりアデズの音楽を生で聴いた事がなく、昨日はものすごくそういう意味でも楽しみでした。
コンサートしてはいろいろと異色とも言える部分がありました。
例えばプログラムの組み方。アデズ自身の曲も勿論入ってますが、それがフランスのバロック音楽と組み合わせられていて。特に前半はクープランのLes Baricades Mysterieusesをアデズのアンサンブル編曲版で、そしてオリジナルのハープシコード版で(アデズ演奏)、さらにアデズのクープランの音楽をモチーフとしたThree Studies from Couperinを演奏、と曲の組み合わせ以上の意味でスタイルがうまく融合されていました。
あとはやっぱりプログラムの組み合わせに凝った結果かステージのセットアップがころころ変わるコンサートでしたね。結果音楽的に興味深いプログラムで、ものすごく効果的だったのですが裏方で働いた経験からちょっぴり裏方の人達は大変だなーと思わずにはいられませんでした(笑)
コンサートの雰囲気(音楽により創られた雰囲気)はなんだか予想とちょっと違いました。
あまりEarly music(バロック以前の音楽)を生で聴いた事がなかったのですが、その優しい音(特にフランスのバロック音楽だからですかね)と親密な雰囲気になんだかほんわかしました。大きなホールではなく、近くで内輪で楽しむ音楽も乙なものです。
アデズのThree Studies from Couperinも楽器使いは彼のスタイルですがフランスバロックのスピリットというか雰囲気を自分のものとしたような音楽で心をやんわりと打たれましたね~♪
そして後半のラモーの「ダルダニュス」からの組曲やクープランのLa Parnasse, ou L'apotheose de Corelliとアデズの室内交響曲の対比も良かったです。
室内交響曲はなんとアデズ19歳の作品!19歳であの楽器使いのうまさは反則的に天才的だなあ・・・曲自体はたまに聞くのですが、生で聞いてそのすごさを改めて実感しました。それに39歳になって19歳の時の作品を指揮するという形で新たな高みに持って行ける、というのも素晴らしいことですね。
アデズの音楽で素晴らしい、と思うのがすでに何回か言及していますが楽器の使い方。
特にクラリネット族(バスクラ、そして昨日は使われませんでしたがコントラバスクラリネット)のサウンドが弦と共に彼の音楽の透明で芯の強い性質を支えていて、その独特な透明さが大好きなのですが・・・
フルートとバスフルートのあのほんわかした音が今回のコンサートでは「優しいバロックの音」にものすごくぴったりで印象が強かったですね。
楽器使いに関しては実際アンサンブルを前にして目で見てみると、わりと不合理、と言いますか・・・ある意味では合理的なんですよね。望む音を創り出すために必要な楽器を必要な時に使う、という。ただアデズのサウンドは透明で繊細なので結果的に一つ一つのパートが断片的になるのかな、という風にとりあえず今理解しています。こうやって音で聞くと同時にメカニックが見えるとなんだか音楽のことも作曲家のことももちょっと知れるみたいで嬉しいです(笑)
国立アカデミーの音楽家達も、普段はあんまりフランスバロックもアデズの音楽のような今現在の音楽も日常的には触れあわないスタイルなのにさすがしっかり素晴らしい演奏をしてくれますね♪
私と一緒に大学に行った先輩、同級生、後輩達が活躍しててなんだかちょっぴりおいてかれた感があったりしてまた「演奏したい欲」「もっと活動的に音楽家でいたい欲」がちょっぴりあおられていますが・・・(汗)
なにはともあれ、ちょっぴりほんわかした、優しい気持ちになったコンサートでした。
フランスバロック音楽は私の弾いている音楽(特にラヴェルの音楽)の源だったり、影響していたりしますし・・・もしかしたらドイツ系のバロック音楽より自分に合ってるかも?なのでいつかクープランやラモーとお近づきになりたいな、と思ってます。
今日の一曲: ジャン=フィリップ・ラモー 「ダルダニュス」からの組曲より「Bruit de guerre pour Entr'acte」と「Sommeil, rondeau tendre」
昨日が初めましてだったこの曲。中でも印象に強く残る、対照的な2曲を選びました。
「Bruit de guerre」の方はまあなんとエネルギッシュな曲!バロック音楽はロマン派・現代音楽に比べておとなしいなんて思っちゃいけませんね。弦のパワフルさと太鼓の連打にわくわくしっぱなし。
例えばシェークスピア関連の映画でよく見る劇場での戯曲の始まりだったり、様々な踊りだったりルネッサンスやバロックの音楽シーンが頭の中でぱっと浮かぶような生き生きとした音楽です。
「Sommeil」の方は(先ほどの曲のすぐあとに弾かれましたが)全く反対の曲調。Sommeil=眠り。(メシアンもよく使う言葉なので知っていたり)弦のパートと全体的なハーモニーや雰囲気が眠るとき独特の呼吸だったり、重さだったり、夜の空気だったりをシンプルながら見事に表しているようでなんだかきゅんと来た一曲でした。
バロック音楽はフランスに限らずバッハやヴィヴァルディなどもこう・・・特有の表現言語、というか描写言語があって。でも知らなくてもものすごくストレートなので今回の「Sommeil」のように聞いて「ああ、なるほど」という、苦労しないで直感的になんだか暗号解けちゃった見たいな、外国語を聞いてみたら案外自分の言語と同じだったみたいな・・・例えが若干変ですがそういった「わかるわかる」的な感覚があって、それもまた楽しいです。
フランスのバロックのタッチやスタイル、なんだか本編の方でも書きましたようにふんわりとしていて、優しくて、愛らしくて。いつかものにしたいですし、もうちょっとお知り合いになったり触れあいたいです♪
なんでもイギリス人作曲家トマス・アデズが来豪して彼の曲を始め指揮・演奏を担当とするとのことで結構わくわくしてこの日をまっていたのです。
アデズの音楽に出会ったのは大学の時。親しい友達を通じてピアノ音楽からオケ音楽や室内楽音楽を知り、その色彩の透明さと音の世界にたちまち惚れてしまいました。
調べてみるとイギリスの作曲家でいまも存命、それどころか1971年生まれというかなり若い作曲家だということにものすごく驚いてしまいました。音楽を聴いているとなんだか独特の世界がものすごく完成してて、ブレがなくて。
あと今まであまりアデズの音楽を生で聴いた事がなく、昨日はものすごくそういう意味でも楽しみでした。
コンサートしてはいろいろと異色とも言える部分がありました。
例えばプログラムの組み方。アデズ自身の曲も勿論入ってますが、それがフランスのバロック音楽と組み合わせられていて。特に前半はクープランのLes Baricades Mysterieusesをアデズのアンサンブル編曲版で、そしてオリジナルのハープシコード版で(アデズ演奏)、さらにアデズのクープランの音楽をモチーフとしたThree Studies from Couperinを演奏、と曲の組み合わせ以上の意味でスタイルがうまく融合されていました。
あとはやっぱりプログラムの組み合わせに凝った結果かステージのセットアップがころころ変わるコンサートでしたね。結果音楽的に興味深いプログラムで、ものすごく効果的だったのですが裏方で働いた経験からちょっぴり裏方の人達は大変だなーと思わずにはいられませんでした(笑)
コンサートの雰囲気(音楽により創られた雰囲気)はなんだか予想とちょっと違いました。
あまりEarly music(バロック以前の音楽)を生で聴いた事がなかったのですが、その優しい音(特にフランスのバロック音楽だからですかね)と親密な雰囲気になんだかほんわかしました。大きなホールではなく、近くで内輪で楽しむ音楽も乙なものです。
アデズのThree Studies from Couperinも楽器使いは彼のスタイルですがフランスバロックのスピリットというか雰囲気を自分のものとしたような音楽で心をやんわりと打たれましたね~♪
そして後半のラモーの「ダルダニュス」からの組曲やクープランのLa Parnasse, ou L'apotheose de Corelliとアデズの室内交響曲の対比も良かったです。
室内交響曲はなんとアデズ19歳の作品!19歳であの楽器使いのうまさは反則的に天才的だなあ・・・曲自体はたまに聞くのですが、生で聞いてそのすごさを改めて実感しました。それに39歳になって19歳の時の作品を指揮するという形で新たな高みに持って行ける、というのも素晴らしいことですね。
アデズの音楽で素晴らしい、と思うのがすでに何回か言及していますが楽器の使い方。
特にクラリネット族(バスクラ、そして昨日は使われませんでしたがコントラバスクラリネット)のサウンドが弦と共に彼の音楽の透明で芯の強い性質を支えていて、その独特な透明さが大好きなのですが・・・
フルートとバスフルートのあのほんわかした音が今回のコンサートでは「優しいバロックの音」にものすごくぴったりで印象が強かったですね。
楽器使いに関しては実際アンサンブルを前にして目で見てみると、わりと不合理、と言いますか・・・ある意味では合理的なんですよね。望む音を創り出すために必要な楽器を必要な時に使う、という。ただアデズのサウンドは透明で繊細なので結果的に一つ一つのパートが断片的になるのかな、という風にとりあえず今理解しています。こうやって音で聞くと同時にメカニックが見えるとなんだか音楽のことも作曲家のことももちょっと知れるみたいで嬉しいです(笑)
国立アカデミーの音楽家達も、普段はあんまりフランスバロックもアデズの音楽のような今現在の音楽も日常的には触れあわないスタイルなのにさすがしっかり素晴らしい演奏をしてくれますね♪
私と一緒に大学に行った先輩、同級生、後輩達が活躍しててなんだかちょっぴりおいてかれた感があったりしてまた「演奏したい欲」「もっと活動的に音楽家でいたい欲」がちょっぴりあおられていますが・・・(汗)
なにはともあれ、ちょっぴりほんわかした、優しい気持ちになったコンサートでした。
フランスバロック音楽は私の弾いている音楽(特にラヴェルの音楽)の源だったり、影響していたりしますし・・・もしかしたらドイツ系のバロック音楽より自分に合ってるかも?なのでいつかクープランやラモーとお近づきになりたいな、と思ってます。
今日の一曲: ジャン=フィリップ・ラモー 「ダルダニュス」からの組曲より「Bruit de guerre pour Entr'acte」と「Sommeil, rondeau tendre」
昨日が初めましてだったこの曲。中でも印象に強く残る、対照的な2曲を選びました。
「Bruit de guerre」の方はまあなんとエネルギッシュな曲!バロック音楽はロマン派・現代音楽に比べておとなしいなんて思っちゃいけませんね。弦のパワフルさと太鼓の連打にわくわくしっぱなし。
例えばシェークスピア関連の映画でよく見る劇場での戯曲の始まりだったり、様々な踊りだったりルネッサンスやバロックの音楽シーンが頭の中でぱっと浮かぶような生き生きとした音楽です。
「Sommeil」の方は(先ほどの曲のすぐあとに弾かれましたが)全く反対の曲調。Sommeil=眠り。(メシアンもよく使う言葉なので知っていたり)弦のパートと全体的なハーモニーや雰囲気が眠るとき独特の呼吸だったり、重さだったり、夜の空気だったりをシンプルながら見事に表しているようでなんだかきゅんと来た一曲でした。
バロック音楽はフランスに限らずバッハやヴィヴァルディなどもこう・・・特有の表現言語、というか描写言語があって。でも知らなくてもものすごくストレートなので今回の「Sommeil」のように聞いて「ああ、なるほど」という、苦労しないで直感的になんだか暗号解けちゃった見たいな、外国語を聞いてみたら案外自分の言語と同じだったみたいな・・・例えが若干変ですがそういった「わかるわかる」的な感覚があって、それもまた楽しいです。
フランスのバロックのタッチやスタイル、なんだか本編の方でも書きましたようにふんわりとしていて、優しくて、愛らしくて。いつかものにしたいですし、もうちょっとお知り合いになったり触れあいたいです♪
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自分のルーツを再確認する期間、メルボルン国際金管フェスティバル。
毎年一つはコンサートに行ってちょっとでも参加・貢献したい!と目標をもっているのですが今年もいってきました!
結構1週間前くらいまでお値段を考えて国内のアンサンブルにするかそれともちょっと奮発して海外アーティストのコンサートにするか迷ってたのですが・・・奮発して大正解でした!
金管フェスティバルは奏者として参加している人も聴きに来ている人もはたまた裏方でボランティアをやってる人も結構知り合いが多くて。
チケットをさばいてる人にも私を大学時代から覚えている人がいてびっくりしたと思ったら色々とお世話になったホルンの先生だったり、席に座ったらなんだか周りに大学時代の知り合いばっかりわらわら集まってミニ同窓会状態になってしまったり・・・
それだけでもなんだか楽しくなって、忘れていた感覚を久しぶりに取り戻せたようでくすぐったかったんですが・・・
もちろんコンサート自体も凄かった!そして楽しかった!
Empire Brassはアメリカの金管五重奏(トランペット×2、ホルン、トロンボーン、テューバ)。
クラシックを中心にジャズやミュージカルの音楽まで手がけるアンサンブル。
なんと自分たちでクラシックの名曲などを金管五重奏のためにアレンジして、アレンジした物は公式サイトから購入できるようになっています。
昨日のコンサートのプログラムは前半はクラシックの名曲選みたいな感じで、後半は主にクラシックとジャズをまたぐアメリカ生まれの名曲が色々入ってました。
本音を言えば(周りの金管奏者一同も言ってましたが)ファーストトランペットの方の音がちょっと・・・なんでも2日前にアメリカからこちらに着いたばかりでコンディションがあまり良くなかったとのこと。やっぱり金管楽器は身体の調子の変化が唇という繊細な筋肉に多大な影響を及ぼすのですね-。
ピアノ曲だったりオーケストラ曲だったりを金管五重奏のためにアレンジすると結構ホルン・トロンボーン辺りのパートがたまーに凄い恐ろしいことに(音域、音の細かさ等)なったりするんですよ。
全体的にはものすごく堅実なアレンジメントなのに例えばドボルザークのスラブ舞曲ハ長調のホルンの高音とか、モーツァルトのトルコ行進曲でのテューバのパートとか奏者の超絶技巧を自然と披露させる様なアレンジメントが本当に秀逸で。
そしてそれを弾きこなしちゃうメンバー達も凄い!特にトロンボーン弾きの方には音も技巧も惚れ惚れとしました。
そして金管奏者は常時笑顔が絶えなく、なんといってもトークが面白い!
ホルン弾きの方が子だくさんで、3人目の子供が生まれたときにこのグループで演奏旅行に出ていた後4人目が出来て妻の要望でグループをお休みして、その後「よっしゃ演奏に戻るぞ」と思ったら5人目が出来て・・・
という話に爆笑でした。ちなみに公式サイトの写真の女性はきっとその時に代わりに入ったホルン奏者なのですね。長いお休みだったそうですから(笑)
ルネッサンス系というかイギリス系の音楽はやっぱりアメリカ出身のアンサンブルなのでちょっといまいちかなーと思ったのですが・・・でもやっぱり金管でルネッサンス・バロックは素晴らしいですね!このコンサートだとシェークスピアの時代に爆発的に人気のあったAnthon Holborneの「Gigue」という、アンサンブルで即興を投げかけ合う曲が楽しくて。雰囲気がものすごく良かったです。
でもやっぱりアメリカ出身のアンサンブル、ガーシュインなどのアメリカ音楽はまさに本場のクオリティ。
有名なガーシュインの「ポーギーとベス」の「サマータイム」なんか聴いてて気持ちよかったです♪
あとお気に入りはMeredith Willsonの「The Music Man」というミュージカルからの「76 Trombones」。
聴衆に手拍子を促されたとこから楽しかったのですが、トロンボーン奏者のセンスと想像を超える超絶技巧には口があんぐり。顎が落ちました!
録音でそういったものは聴いたことがあるのですが目の前で見るとまた違いますね~。このトロンボーン奏者のスライドさばきの手つきがちょっと手話みたいな手つきで、手首をわりと使うあまり見たことのないスタイルでそれもまた興味深かったです。
コンサートをひとしきり楽しんだ後久しぶりの友達と打ち上げに行きました。
飲みはしなかったのですが、金管奏者のお酒の席の集まりの雰囲気を楽しんできました。
海軍のバンドの話とか、オーストラリアやアメリカ、ヨーロッパのバンド事情を聞いたり・・・
たとえばイギリスではブラスバンドが主流だけれど、アメリカでは吹奏楽(木管も入ってる)の方が主流だ、とか。
ヨーロッパではイギリススタイルが伝統も長く主流とされていて、スタンダードが高くても違うスタイルの他の国のバンドはちょっと壁にぶつかったりすることがあったり、とか・
(イギリススタイルは私も好きなんですが、でも新しい流派がその壁を越えてブレイクして欲しいな、と思ってます!)
久しぶりの人々、雰囲気・・・やっぱり色んな意味で楽しかったですし、色々振り返ることができて良かったな、と思います。
金管奏者の娘で、友でよかった!と心から思いました。
今年のフェスティバルはまだ始まったばかり。奏者・参加者・ボランティア共々楽しいフェスティバルになることを願っていますし、なんといってもBarry Tuckwell Prizeの決勝で演奏する奏者たちを応援しています。
来年もまた・・・来年は昨年聞き逃したMNOZIL Brassが戻ってきてくれるかな?
楽しみですね!
今日の一曲: アーロン・コープランド 「アパラチアの春」
昨日のコンサートでアンコール的な扱いで一部が演奏されたこの曲。
アレンジ版もオーケストラを聴いているような綿密さ。素敵なエンディングでした。
アメリカの有名な山脈と言えば西のロッキー山脈ですが、東のアパラチア山脈も忘れてはいけません。
アメリカに人が移住したのは西側からで、アパラチア山脈はそんな彼らの前にそびえ立っていたのです。
ちょうど昨日、ちょっと前から読み進めてる平凡社「世界史百科」でアメリカ独立のくだりにさしかかって・・・それで独立宣言をした後、アメリカは増加する人口を抱え西の方に入植を進めることになった、という話を読んでいたのです。
ナポレオンが売却したルイジアナを買い取って、アパラチア山脈の西側にどんどん領土を広げていって。ネイティブアメリカンの迫害などもありながら独立同時の13州から大陸を網羅するように大国となっていった、という・・・
実際この曲はアパラチア山脈とは(作曲家によると)なにもないそうなのですが、アメリカの春の祭り、結婚式みたいなあらすじがあるようで。アメリカというある意味自由の新天地での生活というか暮らし、というか・・・自然から人からいろんな風景がこの曲から伝わってきます。。
今のアメリカではなくまだ子供であったころの古き良きアメリカの素朴な姿。
その素朴さと希望と明るさが一番伝わるのが昨日のコンサートで演奏された最後の部分。
以前「Lord of the dance」をこの今日の一曲で紹介しましたときに言及しました「シンプル・ギフト」というメロディーの変奏になっているのですが、親しみやすいメロディーと明るく輝かしい音がものすごく心地良い曲です。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」、レスピーギの「ボッティチェリの3枚の絵」の「春」、ヴィヴァルディの「四季」の「春」・・・いろいろと春の喜びだったり独特のあのエネルギーを表す曲がありますが、そのラインアップのなかで決して忘れてはいけない曲だと思います。
春の晴れた朝、是非是非そっとかけてあげてください♪
毎年一つはコンサートに行ってちょっとでも参加・貢献したい!と目標をもっているのですが今年もいってきました!
結構1週間前くらいまでお値段を考えて国内のアンサンブルにするかそれともちょっと奮発して海外アーティストのコンサートにするか迷ってたのですが・・・奮発して大正解でした!
金管フェスティバルは奏者として参加している人も聴きに来ている人もはたまた裏方でボランティアをやってる人も結構知り合いが多くて。
チケットをさばいてる人にも私を大学時代から覚えている人がいてびっくりしたと思ったら色々とお世話になったホルンの先生だったり、席に座ったらなんだか周りに大学時代の知り合いばっかりわらわら集まってミニ同窓会状態になってしまったり・・・
それだけでもなんだか楽しくなって、忘れていた感覚を久しぶりに取り戻せたようでくすぐったかったんですが・・・
もちろんコンサート自体も凄かった!そして楽しかった!
Empire Brassはアメリカの金管五重奏(トランペット×2、ホルン、トロンボーン、テューバ)。
クラシックを中心にジャズやミュージカルの音楽まで手がけるアンサンブル。
なんと自分たちでクラシックの名曲などを金管五重奏のためにアレンジして、アレンジした物は公式サイトから購入できるようになっています。
昨日のコンサートのプログラムは前半はクラシックの名曲選みたいな感じで、後半は主にクラシックとジャズをまたぐアメリカ生まれの名曲が色々入ってました。
本音を言えば(周りの金管奏者一同も言ってましたが)ファーストトランペットの方の音がちょっと・・・なんでも2日前にアメリカからこちらに着いたばかりでコンディションがあまり良くなかったとのこと。やっぱり金管楽器は身体の調子の変化が唇という繊細な筋肉に多大な影響を及ぼすのですね-。
ピアノ曲だったりオーケストラ曲だったりを金管五重奏のためにアレンジすると結構ホルン・トロンボーン辺りのパートがたまーに凄い恐ろしいことに(音域、音の細かさ等)なったりするんですよ。
全体的にはものすごく堅実なアレンジメントなのに例えばドボルザークのスラブ舞曲ハ長調のホルンの高音とか、モーツァルトのトルコ行進曲でのテューバのパートとか奏者の超絶技巧を自然と披露させる様なアレンジメントが本当に秀逸で。
そしてそれを弾きこなしちゃうメンバー達も凄い!特にトロンボーン弾きの方には音も技巧も惚れ惚れとしました。
そして金管奏者は常時笑顔が絶えなく、なんといってもトークが面白い!
ホルン弾きの方が子だくさんで、3人目の子供が生まれたときにこのグループで演奏旅行に出ていた後4人目が出来て妻の要望でグループをお休みして、その後「よっしゃ演奏に戻るぞ」と思ったら5人目が出来て・・・
という話に爆笑でした。ちなみに公式サイトの写真の女性はきっとその時に代わりに入ったホルン奏者なのですね。長いお休みだったそうですから(笑)
ルネッサンス系というかイギリス系の音楽はやっぱりアメリカ出身のアンサンブルなのでちょっといまいちかなーと思ったのですが・・・でもやっぱり金管でルネッサンス・バロックは素晴らしいですね!このコンサートだとシェークスピアの時代に爆発的に人気のあったAnthon Holborneの「Gigue」という、アンサンブルで即興を投げかけ合う曲が楽しくて。雰囲気がものすごく良かったです。
でもやっぱりアメリカ出身のアンサンブル、ガーシュインなどのアメリカ音楽はまさに本場のクオリティ。
有名なガーシュインの「ポーギーとベス」の「サマータイム」なんか聴いてて気持ちよかったです♪
あとお気に入りはMeredith Willsonの「The Music Man」というミュージカルからの「76 Trombones」。
聴衆に手拍子を促されたとこから楽しかったのですが、トロンボーン奏者のセンスと想像を超える超絶技巧には口があんぐり。顎が落ちました!
録音でそういったものは聴いたことがあるのですが目の前で見るとまた違いますね~。このトロンボーン奏者のスライドさばきの手つきがちょっと手話みたいな手つきで、手首をわりと使うあまり見たことのないスタイルでそれもまた興味深かったです。
コンサートをひとしきり楽しんだ後久しぶりの友達と打ち上げに行きました。
飲みはしなかったのですが、金管奏者のお酒の席の集まりの雰囲気を楽しんできました。
海軍のバンドの話とか、オーストラリアやアメリカ、ヨーロッパのバンド事情を聞いたり・・・
たとえばイギリスではブラスバンドが主流だけれど、アメリカでは吹奏楽(木管も入ってる)の方が主流だ、とか。
ヨーロッパではイギリススタイルが伝統も長く主流とされていて、スタンダードが高くても違うスタイルの他の国のバンドはちょっと壁にぶつかったりすることがあったり、とか・
(イギリススタイルは私も好きなんですが、でも新しい流派がその壁を越えてブレイクして欲しいな、と思ってます!)
久しぶりの人々、雰囲気・・・やっぱり色んな意味で楽しかったですし、色々振り返ることができて良かったな、と思います。
金管奏者の娘で、友でよかった!と心から思いました。
今年のフェスティバルはまだ始まったばかり。奏者・参加者・ボランティア共々楽しいフェスティバルになることを願っていますし、なんといってもBarry Tuckwell Prizeの決勝で演奏する奏者たちを応援しています。
来年もまた・・・来年は昨年聞き逃したMNOZIL Brassが戻ってきてくれるかな?
楽しみですね!
今日の一曲: アーロン・コープランド 「アパラチアの春」
昨日のコンサートでアンコール的な扱いで一部が演奏されたこの曲。
アレンジ版もオーケストラを聴いているような綿密さ。素敵なエンディングでした。
アメリカの有名な山脈と言えば西のロッキー山脈ですが、東のアパラチア山脈も忘れてはいけません。
アメリカに人が移住したのは西側からで、アパラチア山脈はそんな彼らの前にそびえ立っていたのです。
ちょうど昨日、ちょっと前から読み進めてる平凡社「世界史百科」でアメリカ独立のくだりにさしかかって・・・それで独立宣言をした後、アメリカは増加する人口を抱え西の方に入植を進めることになった、という話を読んでいたのです。
ナポレオンが売却したルイジアナを買い取って、アパラチア山脈の西側にどんどん領土を広げていって。ネイティブアメリカンの迫害などもありながら独立同時の13州から大陸を網羅するように大国となっていった、という・・・
実際この曲はアパラチア山脈とは(作曲家によると)なにもないそうなのですが、アメリカの春の祭り、結婚式みたいなあらすじがあるようで。アメリカというある意味自由の新天地での生活というか暮らし、というか・・・自然から人からいろんな風景がこの曲から伝わってきます。。
今のアメリカではなくまだ子供であったころの古き良きアメリカの素朴な姿。
その素朴さと希望と明るさが一番伝わるのが昨日のコンサートで演奏された最後の部分。
以前「Lord of the dance」をこの今日の一曲で紹介しましたときに言及しました「シンプル・ギフト」というメロディーの変奏になっているのですが、親しみやすいメロディーと明るく輝かしい音がものすごく心地良い曲です。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」、レスピーギの「ボッティチェリの3枚の絵」の「春」、ヴィヴァルディの「四季」の「春」・・・いろいろと春の喜びだったり独特のあのエネルギーを表す曲がありますが、そのラインアップのなかで決して忘れてはいけない曲だと思います。
春の晴れた朝、是非是非そっとかけてあげてください♪
昨日はずーっと外にでてたような気がします。
昼過ぎにシティに繰り出して、Worn Wildというゴスなどのオルタナティブなファッションのマーケット(半年毎にあるそうです)をちょっと見て回って。興味があるのですが今回はとりあえず見るだけでした。どんなブランドがあって、どんなアイテムがあって相場はどれくらいとか。
よさげなブランドもみつけましたよ。Dusk Moth Designというブランドで。タータンチェックのスカートに心ひかれたのですが・・・とりあえず名刺だけもらってまたこんど。
そしてそこの近くにあるペットショップで蛇を山のように見て。小さい頃から好きなんですけどさすがに飼うことはできないですね・・・タランチュラもいたけれど同じく。
恨めしそうに見て心和んだあとは映画館へ。
もう10年も待った映画化、ジョン・マーズデン原作Stuart Beattie監督「Tomorrow, when the war began」!
オーストラリアのヤングアダルトフィクションの最高峰が今年9月2日にやっとオーストラリアとニュージーランドで初上映となったのです!祝!
生涯初ですよ、こんなに早い段階で映画見に行ったの・・・多少待ちきれない感が。
ちなみに原作についてこのエントリーで語っております。
あらすじ(さきほどのエントリーからコピペ)は:
エリーはオーストラリア南部の田舎に住む女の子。家は農場をやっていて、友達もだいたいそういう家が多く。
ある日友達を集めてキャンプをしようと企みます。(中略)
キャンプから帰ってくるとどこの家にも誰もいない。家で管理してる動物は無残な状態になっている。テレビもつかないし、周りにも人っ子一人いない。
これはおかしい、ということで不安な気持ちをぬぐえないまま町の様子を見に出たとき、7人は驚愕の真実を知ることとなる。
・・・この国は侵略を受け、彼らの家族をはじめとする人々は捕らえられている、と。
そしてエリーたちは自分の身を守るため、生き延びるためときには逃げ、ときには戦いながらサバイバルの道を歩むことを決意する・・・という話。
100分強と思ったよりも短い映画で(原作は全7巻、映画は予定では3部作の予定なのでどうなるのかちょっと心配)、結構原作から切り取られた部分もあったのですが、なかなか小説に忠実な作品で、原作のファンとしてもものすごく満足のいく作品でした♪
映画だとアクションシーンにスピード感がありますね。芝刈り機事件のときとか特にそうですけど、主人公達の息の付けない感がものすごく伝わります。サバイバルのめまぐるしさが緊張感をあおります。
欲を言えばHellでのシーンをもうちょっと長く(もうちょっと原作から使って)Hellでの安全と町のめまぐるしさとコントラストしてほしかったかなあ。
全体的に若い人向けかなーっていう感じはしましたね。原作もそうなんだけれどエリーとリーのロマンスとか、橋事件の一連のサスペンスとかの演出は目立ってそうだったと思います。ただ後者についてはあれはあれで結構面白かったかも。
(ちなみに映画館にいる人ほとんど私と同じぐらいの年代。きっと原作をリアルタイムで読んだ人達なんですね!)
あ、あと原作は1990年代に書かれたのですが携帯電話に関するシーンとか今の時代に合わせて調整してる部分もあります。
映画化において多くの人が気になっていたのが「敵国」がどこなのか、という話なのですが・・・(小説では完全に不明になってました)
ほとんどのシーンではうまいところぼかされてましたが、シーンによっては明らかにアジア人とわかる顔が映ってたり。現実的に言うならなかなか他の人種ではしっくりいかないのかもしれないと思うのでそこは特に問題は私としてはありません。
原作でのキャラクターの魅力は映画にもしっかり受け継がれていました。
特にホーマーは登場から観衆の笑いと注目をかっさらっていきました!あの登場シーンは傑作(笑)
エリーも主人公としてリアルさがちゃんとあって。
なんといっても小説でも心を鷲づかみにしたロビンがさらに映画で魅力がアップしていた!あのあどけない顔と良い、色んな意味で「いかにも」な子なのですが、その成長ぶりが映画では原作とはまた違う意味で明らかになっていて・・・涙をこらえながら見ていたシーンも。
それにしても戦争中のタフさはもちろん、その前のキャンプでの主人公達(17歳あたり)のタフさには脱帽。キャンプでウサギを撃って捕まえて丸焼きにするなんて同じオーストラリアでも都会っ子にはできやしません。あと乗り回す乗り物もまた戦争前・中ともに豪快すぎます。
その行動力、計画力、団結力が産んだ彼らの行動や作戦には戦争とはいえどもどこかすがすがしさがあります。
地理的要因もなかなか重要な役割で。
オーストラリアの大自然が映ると本当に主人公達はこの自然に守られているんだな、という感じがして。
景色の壮大さもそうですが、彼らが住んでいるエリアの地図や景色でオーストラリアの田舎のどでかいスケールを実感できます。
あと、特筆すべきは小説ではなかった些細なシーン。Hellでコリーが本を読んでいてエリーが「その本、どう?」と問い、コリーが「映画よりは良いわよ」と答えるシーン。これはきっと制作サイドのこの映画に対する本音なんだと思います。小説にはやっぱり勝てないよ、っていう。
だからこそ映画で初めてこの作品を知った人には小説のほうも是非読んでもらいたいです、一ファンとして。
ファンとして主に楽しんじゃったのですが、原作を知らない人も楽しめる作品ではないかと思います。
世界での上映はまずバイヤー向けにトロント国際映画祭で来週あって、その先はまだ何も情報がでていません。
オーストラリア人だからこそ共感している部分もあるような気もするので、例えば日本の人がどこまで共感できるのかわかりませんが・・・でも主人公達のキャンプのシーンのあのきらきらしているのはまぎれもなくいろんな文化に共通の青春だと思いますし、彼らの行動や友情、強さと勇気には国文化問わず心を動かされるものがあると思います。是非是非若い人には観て欲しいですね♪
小説のスピリットをうまく捕まえて、魅力的な登場人物と強いメッセージを抱き・・・
こういう形で映画になって本当に嬉しいですし、これからまた何回か観たいと思います。
日本や海外で上映されることを、そしてこれをきっかけに原作の小説も広まることを指をクロスして願っています。
映画の公式ページはこちら。
サイトのメインページが主人公達の暮らす町の鳥瞰図になっていて、オーストラリアの田舎の距離感にちょっとびっくりします(笑)
今日の一曲・・・は今日はお休み。いまいちなんだかまとまりません。
たくさん曲はたまってるのですが心の動きと文にする能力が全くおいつかない・・・
なのでまた次回の機会に。
昼過ぎにシティに繰り出して、Worn Wildというゴスなどのオルタナティブなファッションのマーケット(半年毎にあるそうです)をちょっと見て回って。興味があるのですが今回はとりあえず見るだけでした。どんなブランドがあって、どんなアイテムがあって相場はどれくらいとか。
よさげなブランドもみつけましたよ。Dusk Moth Designというブランドで。タータンチェックのスカートに心ひかれたのですが・・・とりあえず名刺だけもらってまたこんど。
そしてそこの近くにあるペットショップで蛇を山のように見て。小さい頃から好きなんですけどさすがに飼うことはできないですね・・・タランチュラもいたけれど同じく。
恨めしそうに見て心和んだあとは映画館へ。
もう10年も待った映画化、ジョン・マーズデン原作Stuart Beattie監督「Tomorrow, when the war began」!
オーストラリアのヤングアダルトフィクションの最高峰が今年9月2日にやっとオーストラリアとニュージーランドで初上映となったのです!祝!
生涯初ですよ、こんなに早い段階で映画見に行ったの・・・多少待ちきれない感が。
ちなみに原作についてこのエントリーで語っております。
あらすじ(さきほどのエントリーからコピペ)は:
エリーはオーストラリア南部の田舎に住む女の子。家は農場をやっていて、友達もだいたいそういう家が多く。
ある日友達を集めてキャンプをしようと企みます。(中略)
キャンプから帰ってくるとどこの家にも誰もいない。家で管理してる動物は無残な状態になっている。テレビもつかないし、周りにも人っ子一人いない。
これはおかしい、ということで不安な気持ちをぬぐえないまま町の様子を見に出たとき、7人は驚愕の真実を知ることとなる。
・・・この国は侵略を受け、彼らの家族をはじめとする人々は捕らえられている、と。
そしてエリーたちは自分の身を守るため、生き延びるためときには逃げ、ときには戦いながらサバイバルの道を歩むことを決意する・・・という話。
100分強と思ったよりも短い映画で(原作は全7巻、映画は予定では3部作の予定なのでどうなるのかちょっと心配)、結構原作から切り取られた部分もあったのですが、なかなか小説に忠実な作品で、原作のファンとしてもものすごく満足のいく作品でした♪
映画だとアクションシーンにスピード感がありますね。芝刈り機事件のときとか特にそうですけど、主人公達の息の付けない感がものすごく伝わります。サバイバルのめまぐるしさが緊張感をあおります。
欲を言えばHellでのシーンをもうちょっと長く(もうちょっと原作から使って)Hellでの安全と町のめまぐるしさとコントラストしてほしかったかなあ。
全体的に若い人向けかなーっていう感じはしましたね。原作もそうなんだけれどエリーとリーのロマンスとか、橋事件の一連のサスペンスとかの演出は目立ってそうだったと思います。ただ後者についてはあれはあれで結構面白かったかも。
(ちなみに映画館にいる人ほとんど私と同じぐらいの年代。きっと原作をリアルタイムで読んだ人達なんですね!)
あ、あと原作は1990年代に書かれたのですが携帯電話に関するシーンとか今の時代に合わせて調整してる部分もあります。
映画化において多くの人が気になっていたのが「敵国」がどこなのか、という話なのですが・・・(小説では完全に不明になってました)
ほとんどのシーンではうまいところぼかされてましたが、シーンによっては明らかにアジア人とわかる顔が映ってたり。現実的に言うならなかなか他の人種ではしっくりいかないのかもしれないと思うのでそこは特に問題は私としてはありません。
原作でのキャラクターの魅力は映画にもしっかり受け継がれていました。
特にホーマーは登場から観衆の笑いと注目をかっさらっていきました!あの登場シーンは傑作(笑)
エリーも主人公としてリアルさがちゃんとあって。
なんといっても小説でも心を鷲づかみにしたロビンがさらに映画で魅力がアップしていた!あのあどけない顔と良い、色んな意味で「いかにも」な子なのですが、その成長ぶりが映画では原作とはまた違う意味で明らかになっていて・・・涙をこらえながら見ていたシーンも。
それにしても戦争中のタフさはもちろん、その前のキャンプでの主人公達(17歳あたり)のタフさには脱帽。キャンプでウサギを撃って捕まえて丸焼きにするなんて同じオーストラリアでも都会っ子にはできやしません。あと乗り回す乗り物もまた戦争前・中ともに豪快すぎます。
その行動力、計画力、団結力が産んだ彼らの行動や作戦には戦争とはいえどもどこかすがすがしさがあります。
地理的要因もなかなか重要な役割で。
オーストラリアの大自然が映ると本当に主人公達はこの自然に守られているんだな、という感じがして。
景色の壮大さもそうですが、彼らが住んでいるエリアの地図や景色でオーストラリアの田舎のどでかいスケールを実感できます。
あと、特筆すべきは小説ではなかった些細なシーン。Hellでコリーが本を読んでいてエリーが「その本、どう?」と問い、コリーが「映画よりは良いわよ」と答えるシーン。これはきっと制作サイドのこの映画に対する本音なんだと思います。小説にはやっぱり勝てないよ、っていう。
だからこそ映画で初めてこの作品を知った人には小説のほうも是非読んでもらいたいです、一ファンとして。
ファンとして主に楽しんじゃったのですが、原作を知らない人も楽しめる作品ではないかと思います。
世界での上映はまずバイヤー向けにトロント国際映画祭で来週あって、その先はまだ何も情報がでていません。
オーストラリア人だからこそ共感している部分もあるような気もするので、例えば日本の人がどこまで共感できるのかわかりませんが・・・でも主人公達のキャンプのシーンのあのきらきらしているのはまぎれもなくいろんな文化に共通の青春だと思いますし、彼らの行動や友情、強さと勇気には国文化問わず心を動かされるものがあると思います。是非是非若い人には観て欲しいですね♪
小説のスピリットをうまく捕まえて、魅力的な登場人物と強いメッセージを抱き・・・
こういう形で映画になって本当に嬉しいですし、これからまた何回か観たいと思います。
日本や海外で上映されることを、そしてこれをきっかけに原作の小説も広まることを指をクロスして願っています。
映画の公式ページはこちら。
サイトのメインページが主人公達の暮らす町の鳥瞰図になっていて、オーストラリアの田舎の距離感にちょっとびっくりします(笑)
今日の一曲・・・は今日はお休み。いまいちなんだかまとまりません。
たくさん曲はたまってるのですが心の動きと文にする能力が全くおいつかない・・・
なのでまた次回の機会に。
本題に入る前に。
今日は久しぶりにブラームスを弾きました♪ラプソディーの1番。
やっぱり久しぶりだったのもありますが心に求めてたものの少なくとも一部はこれなんだな、という満足感を味わえました。
ブラームスは血・肉・骨・内臓そろってる、人間の身体と同じ暖かさと手応えがある・・・刃で刺したら血は流れるし、皮膚と肉を突き破って骨を折って内臓が脈打つのを貫く感触がある、というくらい「リアル」な音楽。
そして今日つぶやいてもいたのですがブラームスの音楽というのは重厚さという下向きのベクトルと推進力という前向きのベクトル、さらにたまに後ろ向きのベクトルも折り合いを付けながらものすごい牽引力で引っ張っていかなければいけないものみたいで。
夏になるとブラームス他ドイツ系音楽はぱったり聴いたり弾いたりしなくなるので、今のうちに全身全霊で感じ表現を身につけていきたいです。
Alain de Botton "The Architecture of Happiness"
「幸せの建築」という題のこの本。
幸せ、建築はもちろん、それを通じた幅広い概念やアイディアを探索するエッセイ本(?)です。
家だったり、信仰を捧げる場所だったり、仕事をする場所だったり・・・人間は「建物」というものの中で多くの時間を過ごしています。本来家などの建造物は外気や環境の厳しさから逃れて安全に快適に過ごす、という目的があるのですが、そんな建築物は芸術作品と同じようにそれ自身では何を与えてくれないのに人間は建築物にただのシェルターとしてではなく、色んな意味を見いだし、大切にしたり・・・逆にその建築物の作り出す空間に多大な影響を受け、心の状態などを左右されるか、というのが趣旨で。
古代ギリシャに始まる建築の歴史を踏まえ、様々なスタイルを考察し、住居としての家から信仰の場所、ビルなどの様々な目的の様々な建築物についてそれらにこめられた思いや、人間が何を考えて建築したのか、ということを考察していて・・・
いろんな時代の美意識にまつわる心理的背景みたいなものや、時代の移り変わりにともなう価値観の変化などだったり、美と実用性、デザインと工学、需要と遊び心などの人間なりの折り合いというか悩みと解決の話もありまして。
建築物、というのはただ純粋にその目的を果たすために存在する物ではなく。
人間は個人的な目的や夢をもって建築物を創るということから、建築物を抽象的な表現としてそれらが語るメッセージをひもとき、意味を見つけ、心理を分析し、それによって人間にとって幸せとは何か、人間にとって何が大切なのかということを探っていく本なのです。
建築物には理想と現実のギャップを和解させようとする力がある、という説や、建築する上で「人間」を考慮、考察、理解することがどんなに大切か、ということや・・・
ケーススタディ的な感じで著者が日本を訪れた経験のなかでの過去、現在、未来の建築、文化のなかでの人間の価値観などについても言及しています。
ちなみに写真もモノクロですが多数掲載されていますよ♪
私がこの本で本当に心を掴まれた部分は、同時にこの本を建築に関心がない人でも幅広くの人に読んでもらいたい理由でもあります。
この本が扱う、分析そして考察することは建築に限ったことではなく、芸術全般に当てはまることだと思います。
芸術は全て人の思いの表現であり、それをどう表現するのか、そしてこめられた意味をどうくみ取るのか・・・何を持って美とするのか、そういった事に対する答えのような物がこの本に凝縮されています。
特に建築を抽象芸術として扱う、のセクションは抽象的芸術作品に何を見いだすのか、どうアプローチすれば良いかと言うことに対して分かりやすく、納得のガイダンスとなっています。
そして過去、現在、未来に渡って芸術作品が(創った人の命よりも長い時間で)表現しつづけること、しつづける物を理解し、より深く感じるためには建築という形態を通じてアプローチするのも断然ありだな、と思わせる本です。
この本は私の周りの至る所にある建築物をもっと身近に、もっと親しみを持って感じその建物にこめられた創り手などの人間の思いを理解する助けにもなりますが、同時にこの本が追求するで分析されている美のエレメントや建築にこめられた思い、哲学の分析は建築だけではなくファッションや美術、音楽など広義で表現する、美を追究する、思いをこめる色んな分野での活動、より深い理解に大切なことな物だと思います。
今回この本を読むのは久しぶりの2回目なのですが、今回読んで例えばビルの窓のパターンなどの視覚的な情報を聴覚、音楽のリズムでも感じられることが分かったり。音楽はあらゆるところ、あらゆる物に存在して、いろんな物がそうやって(自分にとっては)音楽というかたちで語りかけてるんだ、と。結構な開眼です。
建物だけではなく、人間の創造物全ての物を見る目がちょっと変わる、そして人間の考えや思いがもうちょっと分かる1冊です。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より第11番「聖母の最初の聖体拝受」
公約、ということでメシアンお初の方にお奨めの一曲を。
簡単に言えばこの曲は聖書の物語の中で比較的よく知られている、クリスマスの劇でもよくある「天使が聖母マリアに彼女が神の子を身ごもってることを伝えに来る」シーンです。
私も幼稚園の時やりましたー♪(日本で、キリスト教の幼稚園だったので)年長の時にそれまで憧れていた(でも誰もやりたくなかったらしい)使者である天使ガブリエルの役だったので、特にこの曲はなんだか親しみが湧きました。
最初に左手に聞こえる和音はこの曲集を通して表れる「神の主題」、そしてきらきらした和音。
祈りのような、神々しい、慎ましく。どこか鳥の声にも似た、ちょっと高いところでくるくるしている柔らかいきらきらした光。
そして躍動感と喜びに満ちた、神の主題の変形版が天使の出現を表します。
メシアンの天使の形容は喜び、そして鳥の鳴き声のような素早いパッセージが特徴的。(余談ですが天使の羽根は飛翔目的ではなく、彼らの思考と動きの素早さのシンボルだ、という話もあります)
そして力強い和音の連続の後にメシアンは面白いことをやってくれます。
聖霊がマリアの胎内に宿ったのを形容する左手の低音のパッセージは胎児の鼓動のスピードちょうど、と設定されています。
この間紹介しました「聖母のまなざし」はこの子供の宿命と存在の大きさに迷いと不安のぬぐえない聖母マリアの画でしたが、この「聖体拝受」はいわゆる聖書に忠実な、クラシックな聖体拝受の画です。
どちらも全体的に女性的な雰囲気で、ハーモニーもわりとモダンじゃなく聞きやすいものです。
先ほどの本のなかで抽象的芸術の中でのシンボリズムの役割、というものがありましたが、メシアンの音楽は本当にたくさんのシンボリズムが使われています。
この曲では「神の主題」だったり、鳥の声だったり、胎児の鼓動だったり、喜びのリズムだったり・・・題材のストーリーが広く知られている親しみのあるものだということもありますが、曲の流れが結構正確にそのストーリーに沿っていることと、なによりも曲の中のシンボリズムが比較的に明確で分かりやすいことも今日この曲を選んだ理由です。
先ほども少しだけ言及しましたが、「20のまなざし」の中の複数の曲の中で共通のシンボリズムが使われていてるので、この曲をきっかけに他のまなざし、さらにほかのメシアンの音楽に広げていく第一歩になるといいな、などと勝手に思っています。
弾くにも聴くにもあまり気負わず、この曲を通じて楽な気持ちでメシアンの音楽に接して虜になる人が増えることを願っています。
今日は久しぶりにブラームスを弾きました♪ラプソディーの1番。
やっぱり久しぶりだったのもありますが心に求めてたものの少なくとも一部はこれなんだな、という満足感を味わえました。
ブラームスは血・肉・骨・内臓そろってる、人間の身体と同じ暖かさと手応えがある・・・刃で刺したら血は流れるし、皮膚と肉を突き破って骨を折って内臓が脈打つのを貫く感触がある、というくらい「リアル」な音楽。
そして今日つぶやいてもいたのですがブラームスの音楽というのは重厚さという下向きのベクトルと推進力という前向きのベクトル、さらにたまに後ろ向きのベクトルも折り合いを付けながらものすごい牽引力で引っ張っていかなければいけないものみたいで。
夏になるとブラームス他ドイツ系音楽はぱったり聴いたり弾いたりしなくなるので、今のうちに全身全霊で感じ表現を身につけていきたいです。
Alain de Botton "The Architecture of Happiness"
「幸せの建築」という題のこの本。
幸せ、建築はもちろん、それを通じた幅広い概念やアイディアを探索するエッセイ本(?)です。
家だったり、信仰を捧げる場所だったり、仕事をする場所だったり・・・人間は「建物」というものの中で多くの時間を過ごしています。本来家などの建造物は外気や環境の厳しさから逃れて安全に快適に過ごす、という目的があるのですが、そんな建築物は芸術作品と同じようにそれ自身では何を与えてくれないのに人間は建築物にただのシェルターとしてではなく、色んな意味を見いだし、大切にしたり・・・逆にその建築物の作り出す空間に多大な影響を受け、心の状態などを左右されるか、というのが趣旨で。
古代ギリシャに始まる建築の歴史を踏まえ、様々なスタイルを考察し、住居としての家から信仰の場所、ビルなどの様々な目的の様々な建築物についてそれらにこめられた思いや、人間が何を考えて建築したのか、ということを考察していて・・・
いろんな時代の美意識にまつわる心理的背景みたいなものや、時代の移り変わりにともなう価値観の変化などだったり、美と実用性、デザインと工学、需要と遊び心などの人間なりの折り合いというか悩みと解決の話もありまして。
建築物、というのはただ純粋にその目的を果たすために存在する物ではなく。
人間は個人的な目的や夢をもって建築物を創るということから、建築物を抽象的な表現としてそれらが語るメッセージをひもとき、意味を見つけ、心理を分析し、それによって人間にとって幸せとは何か、人間にとって何が大切なのかということを探っていく本なのです。
建築物には理想と現実のギャップを和解させようとする力がある、という説や、建築する上で「人間」を考慮、考察、理解することがどんなに大切か、ということや・・・
ケーススタディ的な感じで著者が日本を訪れた経験のなかでの過去、現在、未来の建築、文化のなかでの人間の価値観などについても言及しています。
ちなみに写真もモノクロですが多数掲載されていますよ♪
私がこの本で本当に心を掴まれた部分は、同時にこの本を建築に関心がない人でも幅広くの人に読んでもらいたい理由でもあります。
この本が扱う、分析そして考察することは建築に限ったことではなく、芸術全般に当てはまることだと思います。
芸術は全て人の思いの表現であり、それをどう表現するのか、そしてこめられた意味をどうくみ取るのか・・・何を持って美とするのか、そういった事に対する答えのような物がこの本に凝縮されています。
特に建築を抽象芸術として扱う、のセクションは抽象的芸術作品に何を見いだすのか、どうアプローチすれば良いかと言うことに対して分かりやすく、納得のガイダンスとなっています。
そして過去、現在、未来に渡って芸術作品が(創った人の命よりも長い時間で)表現しつづけること、しつづける物を理解し、より深く感じるためには建築という形態を通じてアプローチするのも断然ありだな、と思わせる本です。
この本は私の周りの至る所にある建築物をもっと身近に、もっと親しみを持って感じその建物にこめられた創り手などの人間の思いを理解する助けにもなりますが、同時にこの本が追求するで分析されている美のエレメントや建築にこめられた思い、哲学の分析は建築だけではなくファッションや美術、音楽など広義で表現する、美を追究する、思いをこめる色んな分野での活動、より深い理解に大切なことな物だと思います。
今回この本を読むのは久しぶりの2回目なのですが、今回読んで例えばビルの窓のパターンなどの視覚的な情報を聴覚、音楽のリズムでも感じられることが分かったり。音楽はあらゆるところ、あらゆる物に存在して、いろんな物がそうやって(自分にとっては)音楽というかたちで語りかけてるんだ、と。結構な開眼です。
建物だけではなく、人間の創造物全ての物を見る目がちょっと変わる、そして人間の考えや思いがもうちょっと分かる1冊です。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より第11番「聖母の最初の聖体拝受」
公約、ということでメシアンお初の方にお奨めの一曲を。
簡単に言えばこの曲は聖書の物語の中で比較的よく知られている、クリスマスの劇でもよくある「天使が聖母マリアに彼女が神の子を身ごもってることを伝えに来る」シーンです。
私も幼稚園の時やりましたー♪(日本で、キリスト教の幼稚園だったので)年長の時にそれまで憧れていた(でも誰もやりたくなかったらしい)使者である天使ガブリエルの役だったので、特にこの曲はなんだか親しみが湧きました。
最初に左手に聞こえる和音はこの曲集を通して表れる「神の主題」、そしてきらきらした和音。
祈りのような、神々しい、慎ましく。どこか鳥の声にも似た、ちょっと高いところでくるくるしている柔らかいきらきらした光。
そして躍動感と喜びに満ちた、神の主題の変形版が天使の出現を表します。
メシアンの天使の形容は喜び、そして鳥の鳴き声のような素早いパッセージが特徴的。(余談ですが天使の羽根は飛翔目的ではなく、彼らの思考と動きの素早さのシンボルだ、という話もあります)
そして力強い和音の連続の後にメシアンは面白いことをやってくれます。
聖霊がマリアの胎内に宿ったのを形容する左手の低音のパッセージは胎児の鼓動のスピードちょうど、と設定されています。
この間紹介しました「聖母のまなざし」はこの子供の宿命と存在の大きさに迷いと不安のぬぐえない聖母マリアの画でしたが、この「聖体拝受」はいわゆる聖書に忠実な、クラシックな聖体拝受の画です。
どちらも全体的に女性的な雰囲気で、ハーモニーもわりとモダンじゃなく聞きやすいものです。
先ほどの本のなかで抽象的芸術の中でのシンボリズムの役割、というものがありましたが、メシアンの音楽は本当にたくさんのシンボリズムが使われています。
この曲では「神の主題」だったり、鳥の声だったり、胎児の鼓動だったり、喜びのリズムだったり・・・題材のストーリーが広く知られている親しみのあるものだということもありますが、曲の流れが結構正確にそのストーリーに沿っていることと、なによりも曲の中のシンボリズムが比較的に明確で分かりやすいことも今日この曲を選んだ理由です。
先ほども少しだけ言及しましたが、「20のまなざし」の中の複数の曲の中で共通のシンボリズムが使われていてるので、この曲をきっかけに他のまなざし、さらにほかのメシアンの音楽に広げていく第一歩になるといいな、などと勝手に思っています。
弾くにも聴くにもあまり気負わず、この曲を通じて楽な気持ちでメシアンの音楽に接して虜になる人が増えることを願っています。
久しぶりの感想です。
オーストラリアの作家、Bryce Courtenayの作品には「Potato Factory」のシリーズを始めいろいろと有名な本がありますが、「April Fool's Day」以外実は読んだことがなく(これは後にまた再読して感想を書きたいのですが「小説」とはちょっと違う本です)、読みたいな~でもどうしようかな~と思ってたところに出た新刊で。
「子供十字軍」を扱う本と聞いて大変興味をもち購入したところ・・・相当のアタリでした♪
Bryce Courtenay "Sylvia"
12世紀のドイツを舞台にしたこの物語は主人公シルビア自身によって語られる彼女の伝記です。
ドイツの片田舎で母親を早くに亡くし、第1次十字軍から負傷のため帰ってきた父親に虐待を受けたシルビア。
もちろん田舎の村なのでそういった事の噂はすぐ伝わり、口うるさいおばさん連中からは汚れた子供として扱われるようになります。
シルビアには生粋の美しい歌声、歌や言葉を聞いただけで覚えられる素晴らしい耳、モノマネの才能があり、ある日ひょんな事で村人に聴かれた歌声、そして彼女の背中に生まれたときからある魚の形のあざ(魚はキリストのシンボルでもあります)を注目され、「奇跡の子供」と呼ばれるように・・・
が、それを確認しにきた神父の前で歌うことが出来ず、結果的に彼女は村から追放されることに。
そして彼女にとって紆余曲折の旅が始まることとなるのです。
この小説にとって最も重要なエレメントは「聖と俗の対比」でしょうか。
シルビア自身のアイデンティティがまさに聖と俗のぶつかりあいで。
「汚れた子供」とつばを吐かれまでした彼女が民衆の中で聖女のように崇められるようになること。
そしてボンの町でそうやって(農民出身としては例外的に)聖女として修道院に招かれるまでにもなりながら、夜はお世話になっているユダヤ人の夫婦の知り合いが経営する売春宿で歌手として働き。
強い信仰心と修道院で神学などを勉強する探求心の反面、必ずしもキリスト教徒ではない人々や売春宿のスタッフと触れあい、一緒に音楽を奏でたりしながら楽しくやりたい気持ちも強く。
教会の見解、民衆の見解やうわさ、身の回りで起こる偶然や説明の付かないことの多くに巻き込まれ、弄ばれるようにして生きて行くシルビア。
彼女の視点から見たこういった出来事は奇跡と思われるものがいかに大げさで誤解を招くものか、同時にたまには説明のつかないことも確かに起きるんだ、ということを表しています。
十字軍の時代は本当に価値観・宗教などが迷走していた時代だということもあってそういったことが人々と信仰を本当に引っかき回したんですね。
教会の教えや権威、信仰の形などが本当に理不尽だった時代で弱い立場として生きて行く辛さとしたたかさが物語に表れています。
ただ主人公の性格上シルビアは引っ張り回されるばかりで生きてはいません。
農民出身、しかも親を早くに亡くした若い女性というステータスは当時としてはかなり!不利なものですが。
彼女はその美貌、歌声、そして頭脳を武器として様々な逆境に立ち向かっていきます。
とくに「学ぶこと」ということがどれだけ人、特に弱者の力になるか、というかがこの物語では強く訴えられています。
ユダヤ人のMaster Israelに学んだ言語やチェス、修道院でBrother Dominicに学んだ理論的思考と立ち回り、Frau Sarahに学んだ植物の扱いなど・・・
シルビアの学びたいと強く思う思い、学ぶことで力がつくこと、そして視点が広がること・・・そして身につけた知識を実際に使う力・・・こういったテーマを扱う本は意外と少なく、そういった意味でこの小説は大変強く訴えるものがあると思いました。
この小説でもう一つちょっと特殊なのが「性」関連のテーマ。
主人公が女性で一人称で書かれてることもあり、女性にとっての性的ないろいろ(性への目覚めや、あと売春宿の女の子たちの話など)を扱うことが多いのですが・・・男性作家だとは思えないほどの女性的な視点と共感に心底驚きました!
女性として個人的に性的なエレメントにいろいろときめく箇所が正直結構ありました(笑)
シルビアが歌手として働いた売春宿Ali Babaは描写のうまさもありますがなんというか外の世界とは別世界で。(そういった意味ではまた優秀な売春宿ですよね)ロマンチックなんですよ。
そして性といえば当時の信仰などに関する文化の他にもちろん俗文化もあり。そういった民謡などでよく性が扱われ、子供の性教育などにも使われていた事情も描かれていてそれもまた興味深いです。
ちなみにもう一つ。私の知ってる本のうちで男×女、男×男、女×女全てのそういったことを扱っているのはこの本だけ。そういった意味でもまた特殊な物語です。
さて、シルビアの主人公としての性格ですがいろいろあれども私は本当に気に入っていて。
この物語を無事生き延びたことでわかるようにかなりタフでしたたかで。
最初はでも男性不信が強かったこと、そしてそれとは反面に信仰に対していかにピュアでナイーブだったかが目立ちました。
そのナイーブさ、タフとナイーブの奇妙な組み合わせもまた私の心をしっかり掴みました。
美貌も、「聖なるあざ」も、聖女としてのステータスも、うらやむ人は多いのだろうけど彼女にしてみればありがた迷惑というか「なりたくてなったんじゃない」的なところがあって、そういったところにも共感が強かったです。
彼女の歌声、そして頭脳と立ち回りは本当にいろんな人を、信仰を、大衆を、ビジネスを動かして・・・
彼女には奇跡を起こす力、というか多くのものを動かす力があったことは事実です。(その形態が音楽だというのもまた嬉しいですね!夢があります)小説の主人公としては本当にパワフルな分類に入って、なんか・・・爪の垢を煎じて飲みたい気分になります。物書きとしては。
読む方としても本当に魅力的。
シルビアは生まれた村をあとにしてから本当にいろんな幸福な出会いをしました。
彼女の最高の相方であり親友で後にハーメルンの笛吹きとなるネズミ取りのReinhardt、彼女に女性としての立ち回り、弱い性として精一杯生きる方法を教えたFrau Johanna、Frau Sarah、そして売春宿Ali Babaの女の子達・・・先ほども言及しました彼女を学びで導いた師たち・・・
その出会いを読んでいるだけで本当に良い本を読んでるなあ、という気持ちになります。
あと当時(に限らず)悪者とされやすいユダヤ人の描写が気に入りました。本当にこの小説の彼らの生活や思想からは本当に学ぶことが多いです。
あと読んでみてエンディングに疑問を持つ人は多いと思うのですが、あえてこの物語をオープンエンドとしておくことでここからまた新しい物語が始まるんだ、ということ、そしてReinhardtと彼女の新しい旅に対して読者が希望と想像を持つことという目的ではある意味ありかな~と思います。
最後の最後のReinhardtの台詞の茶化した感じはある意味ではここまで読み進めて良かったな~という気持ちも持てますし(あくまでも脱力のなかのどこかにその気持ちはある、ということですが)。
ときめいたり、学んだり、共感したり、たまには不安になったり・・・小説としても、それ以上としてもこの本は魅力的で。いろんな意味で私の本棚の中で特別な位置にあります。
言及しませんでしたが「子供十字軍」も確かに重要なエレメントです。価値観、宗教を含めてこの時代は本当に面白いので、そういった意味でもまたお奨めの一冊です♪
今日の一曲: カール・オルフ 「カルミナ・ブラーナ」より「Stetit Puella」
カルミナ・ブラーナ。この曲はドイツで20世紀に書かれたものですが、もとの歌詞などはまさにシルビアが生きた時代に彼女の言語(たくさんあるうちラテン語・中高ドイツ語)で書かれています。
つまりこの作品に出てくる民謡的なものはシルビアの物語とも通じているのです♪
ちなみに本のこともありオケはドイツのものをセレクトさせてもらいました♪
カルミナ・ブラーナは大きく分けて3部から成り立っています。
第1部は田舎の風景、第2部は酒場の風景(そのため合唱は男声のみ)、そして第3部は「愛の誘い」と名付けられています。
このStetit Puellaは第3部からの曲です。
第3部は恋に落ちてから身も心も結ばれるまでのいろいろをあんなことやこんなことを交えて描いています。
ドイツの田舎の風景もシルビアのルーツなのですがこのStetit Puella(若い娘が立っていた)がなんか・・・シルビアのPetticoat Angelというアイデンティティを少し思わせるようで。
幼くもどこか妖艶で、聖なるピュアなものでもものすごくセクシーな何かがある、という・・・?
そんな若い女性をどうこうしたくなる男心をさりげなく表してるかと思いきやかすかにそんなバカな男を誘う女心も見え隠れしたり・・・?
カルミナ・ブラーナ自体はものすごく大編成で、大編成のオケ+ピアノ2台+合唱+子供合唱+ソプラノ、テノール、バリトンのソリストが勢揃いなのですが。
このStetit Puellaに関してはものすごく小編成。少女のピュアさを思わせる純粋な音の楽器とソプラノのアンサンブルです。
弦のハーモニクスによる高音の透明さ、そしてソプラノの歌うメロディーの素朴な美しさが光ります♪
カルミナ・ブラーナは結構最後の方になってくると性に関する言及が結構露骨になってきて(笑)それを話すのもそれはそれで面白いのですが・・・
この曲はそんななか少ない音と少ない言葉でさりげなく視線が会ったり、ちょっとした誘うような表情、思わせぶりな微笑、このあとどうなるかの含蓄など・・・そういったものがみんなさりげなく表れて。
なんでしょ、やっぱりくすぐったいようなロマンチックさがあるんですよね。
カルミナはたくさん楽章があるのでさくさく今度も紹介していきたいです~(汗)
オーストラリアの作家、Bryce Courtenayの作品には「Potato Factory」のシリーズを始めいろいろと有名な本がありますが、「April Fool's Day」以外実は読んだことがなく(これは後にまた再読して感想を書きたいのですが「小説」とはちょっと違う本です)、読みたいな~でもどうしようかな~と思ってたところに出た新刊で。
「子供十字軍」を扱う本と聞いて大変興味をもち購入したところ・・・相当のアタリでした♪
Bryce Courtenay "Sylvia"
12世紀のドイツを舞台にしたこの物語は主人公シルビア自身によって語られる彼女の伝記です。
ドイツの片田舎で母親を早くに亡くし、第1次十字軍から負傷のため帰ってきた父親に虐待を受けたシルビア。
もちろん田舎の村なのでそういった事の噂はすぐ伝わり、口うるさいおばさん連中からは汚れた子供として扱われるようになります。
シルビアには生粋の美しい歌声、歌や言葉を聞いただけで覚えられる素晴らしい耳、モノマネの才能があり、ある日ひょんな事で村人に聴かれた歌声、そして彼女の背中に生まれたときからある魚の形のあざ(魚はキリストのシンボルでもあります)を注目され、「奇跡の子供」と呼ばれるように・・・
が、それを確認しにきた神父の前で歌うことが出来ず、結果的に彼女は村から追放されることに。
そして彼女にとって紆余曲折の旅が始まることとなるのです。
この小説にとって最も重要なエレメントは「聖と俗の対比」でしょうか。
シルビア自身のアイデンティティがまさに聖と俗のぶつかりあいで。
「汚れた子供」とつばを吐かれまでした彼女が民衆の中で聖女のように崇められるようになること。
そしてボンの町でそうやって(農民出身としては例外的に)聖女として修道院に招かれるまでにもなりながら、夜はお世話になっているユダヤ人の夫婦の知り合いが経営する売春宿で歌手として働き。
強い信仰心と修道院で神学などを勉強する探求心の反面、必ずしもキリスト教徒ではない人々や売春宿のスタッフと触れあい、一緒に音楽を奏でたりしながら楽しくやりたい気持ちも強く。
教会の見解、民衆の見解やうわさ、身の回りで起こる偶然や説明の付かないことの多くに巻き込まれ、弄ばれるようにして生きて行くシルビア。
彼女の視点から見たこういった出来事は奇跡と思われるものがいかに大げさで誤解を招くものか、同時にたまには説明のつかないことも確かに起きるんだ、ということを表しています。
十字軍の時代は本当に価値観・宗教などが迷走していた時代だということもあってそういったことが人々と信仰を本当に引っかき回したんですね。
教会の教えや権威、信仰の形などが本当に理不尽だった時代で弱い立場として生きて行く辛さとしたたかさが物語に表れています。
ただ主人公の性格上シルビアは引っ張り回されるばかりで生きてはいません。
農民出身、しかも親を早くに亡くした若い女性というステータスは当時としてはかなり!不利なものですが。
彼女はその美貌、歌声、そして頭脳を武器として様々な逆境に立ち向かっていきます。
とくに「学ぶこと」ということがどれだけ人、特に弱者の力になるか、というかがこの物語では強く訴えられています。
ユダヤ人のMaster Israelに学んだ言語やチェス、修道院でBrother Dominicに学んだ理論的思考と立ち回り、Frau Sarahに学んだ植物の扱いなど・・・
シルビアの学びたいと強く思う思い、学ぶことで力がつくこと、そして視点が広がること・・・そして身につけた知識を実際に使う力・・・こういったテーマを扱う本は意外と少なく、そういった意味でこの小説は大変強く訴えるものがあると思いました。
この小説でもう一つちょっと特殊なのが「性」関連のテーマ。
主人公が女性で一人称で書かれてることもあり、女性にとっての性的ないろいろ(性への目覚めや、あと売春宿の女の子たちの話など)を扱うことが多いのですが・・・男性作家だとは思えないほどの女性的な視点と共感に心底驚きました!
女性として個人的に性的なエレメントにいろいろときめく箇所が正直結構ありました(笑)
シルビアが歌手として働いた売春宿Ali Babaは描写のうまさもありますがなんというか外の世界とは別世界で。(そういった意味ではまた優秀な売春宿ですよね)ロマンチックなんですよ。
そして性といえば当時の信仰などに関する文化の他にもちろん俗文化もあり。そういった民謡などでよく性が扱われ、子供の性教育などにも使われていた事情も描かれていてそれもまた興味深いです。
ちなみにもう一つ。私の知ってる本のうちで男×女、男×男、女×女全てのそういったことを扱っているのはこの本だけ。そういった意味でもまた特殊な物語です。
さて、シルビアの主人公としての性格ですがいろいろあれども私は本当に気に入っていて。
この物語を無事生き延びたことでわかるようにかなりタフでしたたかで。
最初はでも男性不信が強かったこと、そしてそれとは反面に信仰に対していかにピュアでナイーブだったかが目立ちました。
そのナイーブさ、タフとナイーブの奇妙な組み合わせもまた私の心をしっかり掴みました。
美貌も、「聖なるあざ」も、聖女としてのステータスも、うらやむ人は多いのだろうけど彼女にしてみればありがた迷惑というか「なりたくてなったんじゃない」的なところがあって、そういったところにも共感が強かったです。
彼女の歌声、そして頭脳と立ち回りは本当にいろんな人を、信仰を、大衆を、ビジネスを動かして・・・
彼女には奇跡を起こす力、というか多くのものを動かす力があったことは事実です。(その形態が音楽だというのもまた嬉しいですね!夢があります)小説の主人公としては本当にパワフルな分類に入って、なんか・・・爪の垢を煎じて飲みたい気分になります。物書きとしては。
読む方としても本当に魅力的。
シルビアは生まれた村をあとにしてから本当にいろんな幸福な出会いをしました。
彼女の最高の相方であり親友で後にハーメルンの笛吹きとなるネズミ取りのReinhardt、彼女に女性としての立ち回り、弱い性として精一杯生きる方法を教えたFrau Johanna、Frau Sarah、そして売春宿Ali Babaの女の子達・・・先ほども言及しました彼女を学びで導いた師たち・・・
その出会いを読んでいるだけで本当に良い本を読んでるなあ、という気持ちになります。
あと当時(に限らず)悪者とされやすいユダヤ人の描写が気に入りました。本当にこの小説の彼らの生活や思想からは本当に学ぶことが多いです。
あと読んでみてエンディングに疑問を持つ人は多いと思うのですが、あえてこの物語をオープンエンドとしておくことでここからまた新しい物語が始まるんだ、ということ、そしてReinhardtと彼女の新しい旅に対して読者が希望と想像を持つことという目的ではある意味ありかな~と思います。
最後の最後のReinhardtの台詞の茶化した感じはある意味ではここまで読み進めて良かったな~という気持ちも持てますし(あくまでも脱力のなかのどこかにその気持ちはある、ということですが)。
ときめいたり、学んだり、共感したり、たまには不安になったり・・・小説としても、それ以上としてもこの本は魅力的で。いろんな意味で私の本棚の中で特別な位置にあります。
言及しませんでしたが「子供十字軍」も確かに重要なエレメントです。価値観、宗教を含めてこの時代は本当に面白いので、そういった意味でもまたお奨めの一冊です♪
今日の一曲: カール・オルフ 「カルミナ・ブラーナ」より「Stetit Puella」
カルミナ・ブラーナ。この曲はドイツで20世紀に書かれたものですが、もとの歌詞などはまさにシルビアが生きた時代に彼女の言語(たくさんあるうちラテン語・中高ドイツ語)で書かれています。
つまりこの作品に出てくる民謡的なものはシルビアの物語とも通じているのです♪
ちなみに本のこともありオケはドイツのものをセレクトさせてもらいました♪
カルミナ・ブラーナは大きく分けて3部から成り立っています。
第1部は田舎の風景、第2部は酒場の風景(そのため合唱は男声のみ)、そして第3部は「愛の誘い」と名付けられています。
このStetit Puellaは第3部からの曲です。
第3部は恋に落ちてから身も心も結ばれるまでのいろいろをあんなことやこんなことを交えて描いています。
ドイツの田舎の風景もシルビアのルーツなのですがこのStetit Puella(若い娘が立っていた)がなんか・・・シルビアのPetticoat Angelというアイデンティティを少し思わせるようで。
幼くもどこか妖艶で、聖なるピュアなものでもものすごくセクシーな何かがある、という・・・?
そんな若い女性をどうこうしたくなる男心をさりげなく表してるかと思いきやかすかにそんなバカな男を誘う女心も見え隠れしたり・・・?
カルミナ・ブラーナ自体はものすごく大編成で、大編成のオケ+ピアノ2台+合唱+子供合唱+ソプラノ、テノール、バリトンのソリストが勢揃いなのですが。
このStetit Puellaに関してはものすごく小編成。少女のピュアさを思わせる純粋な音の楽器とソプラノのアンサンブルです。
弦のハーモニクスによる高音の透明さ、そしてソプラノの歌うメロディーの素朴な美しさが光ります♪
カルミナ・ブラーナは結構最後の方になってくると性に関する言及が結構露骨になってきて(笑)それを話すのもそれはそれで面白いのですが・・・
この曲はそんななか少ない音と少ない言葉でさりげなく視線が会ったり、ちょっとした誘うような表情、思わせぶりな微笑、このあとどうなるかの含蓄など・・・そういったものがみんなさりげなく表れて。
なんでしょ、やっぱりくすぐったいようなロマンチックさがあるんですよね。
カルミナはたくさん楽章があるのでさくさく今度も紹介していきたいです~(汗)