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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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芸術は心の鏡・・・?
ピアノを弾いたり、音楽を聴いたり、絵画を見たりしていつも思うのは芸術には一種の正直さみたいなものがあるなー・・・ということで。
一番わかりやすい例がショスタコーヴィチの音楽ですかね。
前ピアノを教えていたときに成人の生徒さんから聞いた話なんですが、一昔前はショスタコーヴィチはソヴィエト共産党の為に音楽を作曲した、と思われていたらしく。
実際に彼の音楽を聴くと(交響曲ではなく、弦楽四重奏などもっと小さな編成の音楽)そんなことはないってことがクラシックに詳しくない人も分かると思います。
彼の音楽にこめられた辛さ、皮肉、怒りなどは・・・またあとで少し話したいですし、それはそれで一つのエントリーになるのですが、そういった感情の複雑な組み合わせが理論的にどう音符表れているかは分からないのですがはっきりと心に響いてきて、彼や他の人間の言葉以上に雄弁に真実を語るのです。

やはりどんな言語を持ってしても言葉の範囲やボキャブラリーには限りがあって、絵、動き、音楽などのほうが人間の無限に複雑な内面をよりフレキシブルに、豊かに表現出来る、ということなのかしらん。

精神疾患の症状も、治療のためにはもちろん言葉にすることが必要ですが、言葉では語れない多くのことが人の心には渦巻きます。
それを芸術で表現した人はたくさんいます。
例えば心理学の教科書に載っていたルイス・ウェインの猫の絵。統合失調症を煩った彼の精神と脳の状態の変化は彼の書く猫の絵に顕著に表れています。きっとネットでも探すとあると思うので・・・ものすごくドラマチックで面白いです。

人間主に視覚を通してものを理解する生き物なので絵画ほど顕著ではありませんが音楽にもそういった症状・精神状態は現れます。

例えばベルリオーズ。彼の「幻想交響曲」はアヘンを大量に(しかし致死量には足りなく)服用して死のうとした主人公が見た幻覚と夢の混ざり合いを第1楽章で描きます。次々に移り変わるシーンのなかに様々なイメージや色彩、それに混じって愛しい人のテーマが表れたり。
少ないながらも精神疾患の知識をかじった身として興味深いのはこの一見明るい音楽の中に表れる「恐怖」のイメージ。
「幻覚」といっても実はいろいろで、聴覚・視覚に訴える幻覚は健常者でも経験することは珍しくないです(詳しくはOliver Sacks著Musicophiliaに、そして親友の心理学の卒論もこのトピックを扱っています♪)。
精神疾患の症状として経験する幻覚は強い恐怖感を伴うことが多いそうです。(統合失調症、精神病症状を伴う鬱、ドラッグなどの薬物の中毒症状など)
そういった意味ではものすごくリアルに、言葉にならない内面を表現する音楽であるといえます。

実際理論的にこの和音がこういったものを表す、というのは本当に全く分からないのですが同じ調で同じ明るさ、そして同じ恐怖をもった曲が実はあるんです。
それが少し前に今日の一曲で紹介したセルゲイ・プロコフィエフの「悪魔的暗示」。
同じハ長調で似たような和音の連続は先ほどのベルリオーズと同じ「恐怖を伴う幻覚」を直感的に連想させます。
それが元となって私はこの曲の「悪魔的暗示」というのは精神症状としての幻覚・妄想による悪魔だという解釈をしています。
他人はみんな敵だ、みんなが自分を害しようとしていると告げる悪魔・・・その悪魔が常に見張っていて、地獄のような幻覚を見せて、そして恐怖に陥る自分をあざ笑う悪魔の高笑い・・・
そういったイメージで弾いているつもりです。

数いる著明な作曲家のうち精神疾患を患ったことで一番有名なのはローベルト・シューマンでしょう。
少し前まで彼は統合失調症を患っていた、という話を聞いていたのですが大学在学中に聞いたことによるとどうやら彼の持病は双極性障害(I型)だったという説が有力?らしいです。
DSM(精神障害の診断と統計の手引き)によると前者は精神病性障害に分類され、後者は気分障害に分類されるかなり異なるメカニズムといいましょうか性質の病気なのですが、実はこの2つかなり鑑別するのが難しいとのこと。
統合失調症には2つ状態があります。陽性の症状には幻覚、妄想、思考の障害などがあり、陰性の症状には感情鈍麻、思考の低下などがあります。
陽性の妄想には誇大妄想などもあり、思考の障害の表れ方にもよりますがこの状態は躁状態の誇大妄想、支離滅裂さと客観的には大変似て映ります。
そして陰性の症状の意欲低下、感情鈍麻などは鬱の症状と酷似しています。

シューマンの話に戻りますが、シューマンは作曲のとき二つのペンネームを使い分けていて、それはペンネームというレベルではなくある種のペルソナであったといわれています。
この二つのペルソナは彼の大型ピアノ作品「謝肉祭」に出演しています。
「フロレスタン」は英雄的で活発、外向的でドラマチックな性格。
「オイゼビウス」はシャイでロマンチスト、詩人で内向的、瞑想というか空想気味。
この二つのペルソナは統合失調症の陽性と陰性の状態を表すようでもあり、または双極性障害の躁と鬱を表すようであり・・・
二つの異なった状態を明確に表していながら、やっぱり鑑別は難しいものです。

先ほどショスタコーヴィチの話をしましたが。
前紹介しているはずなのですが、彼にとって弦楽四重奏曲というのは最もプライベートで正直な気持ちを吐露するための媒体・形式であり、そのうちでも第8番は彼が自殺を考えていて、遺書として書かれたという一連のエピソードから(もちろん曲の優れたこともありますが)有名です。
多少のバイアスが起こるのは覚悟の上で、例えばこの曲が彼にとっての遺書だと仮定した上で分析してみるとたくさんの面白い特徴が見えてきます。

1)曲の最初から何度も何度も繰り返されるレミドシ(DSCH)は彼の名前(独:Dmitri SCHostakovich)を表すことで有名
2)曲を構成するエレメントのほとんどが彼自身の作曲した作品からの引用、しかも政府にこっぴどく批判を受けたり、日の目を見なかったりしなかった曲をチョイス
3)第3楽章のメインセクションのリズムと和音進行がサン=サーンスの「死の舞踏」そのまま
4)この曲のスタイル、友人への初演のエピソード、そして自作を多数一つの曲に引用するという行動を深く掘り下げるとどうも自殺をほのめかすサインの一つ「身辺整理」に繋がるような気がしてたまらない

他にも探すとあると思うんですがここらで。
もちろん精神疾患の症状が作曲の完全ストップという形で現れたり(ラフマニノフ)、精神疾患でないながらもなにか通常とはどうも違う精神状態を表現していたり(スクリャービン)、こういったくくりに当てはめられないけれど特殊な精神の経験を表現している音楽、他芸術は色々あると思います。

ただやっぱり言いたいのは言葉での表現には限りがあって、もっと感覚的で嘘をつけない音楽で生の感情と触れあい、言葉で表現し難い精神症状などにまた違うレベルで共感できるようになりたいなあ、と思う・・・ということです!


今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第9番 第1楽章



精神疾患ではなく「正直さ」の話に戻りまして。

ショスタコーヴィチの交響曲は第2番「メーデー」、政府からの批判への答辞とされた第5番、1905年の血の日曜日事件について書いた第11番など共産党&革命がらみが多いです。
それはやっぱり政府お抱え(っていっちゃなんですが)の作曲家としてのショスタコーヴィチにとって交響曲は政府の為の音楽。公的な表現の場だったからで、そこではあんまり政府批判を音楽によってもしてはいけない(彼の、そして彼の家族や知人の命に関わる)わけで・・・

ただこの交響曲だけは例外、と言われています。
書かれたのは第二次大戦がまさにヨーロッパ側では終わる時。ロシアは戦勝国ということでショスタコーヴィチはもちろん政府から戦勝を祝うような壮大な交響曲を作曲することを期待されていたことでしょう。

が!
彼が書いたのはたった25分の交響曲。編成も例えば5番や7番などと比べるとちょっと控えめ。
しかも第1楽章はなんだか軽くておちょくってるみたいだし、第2楽章は暗くて淋しくて不気味で、第3楽章もまたあっという間に過ぎていくし第4楽章なんか悪役の登場音楽みたいだし、第5楽章もまた華やかさもなくおちょくられているようで・・・
政府にはもちろん不評です(当たり前!)

ショスタコとしては戦争に勝ったって負けたって人はたくさんむごいやり方で死んでいったんだし、ソヴィエトという国が変わることなく政府が調子に乗るだけで、まったく無意味なことだったという心境だったらしく、それをなんだかちょっと出来心で?シンフォニーの方でついつい表現してしまった・・・ということらしいです。
(表現のしかたに多少私の感情移入が入ってしまいましたことをお詫びします)

第1楽章にはショスタコのそんな皮肉と厭世とでもいいましょうか、反戦の気持ちがあくまでも軽いミリタリーマーチ(ショスタコのミリタリーマーチは大抵大げさに使われて皮肉の味が強いです)にのって歌われます。
ピッコロとトロンボーンの対比はまるでカリカチュア、デフォルメした人物像のよう。
どこかこう、meanといいますか、卑しさと意地の悪さが見え隠れする音楽。
軽快かつ辛辣、痛烈なこの音楽を聞けばショスタコーヴィチが共産党の犬だなんて言えないことうけあいです。

ショスタコーヴィチの音楽についてはそれだけで一つエントリーを書けますが、こういった反体制というか権力に逆らう精神、特に権力ばっかりで実体が悪いものに逆らう反骨精神はやはり若者にウケがいいようです。
こうやって暴力などに頼らず粋な?方法でそれを表現できることは何よりも良いと思いますし(暴力を避ける、という意味でもより正直に伝える、という意味でも)・・・なんといっても私にとってショスタコのこういった皮肉なユーモアセンスはものすごく憎めない、といいますかむしろ愛しい、というべきですか。

ロマンチックだったり、感動的だったりの正直な音楽も良いですが、こういった正直さもたまにはどうですか?

※ショスタコーヴィチを愛称として私はショスタコ、またはタコと呼んでいるのですが、そうするとこの曲はタコの9番=タコの吸盤、またはもっと短縮してタコキューと呼んでやって下さい♪
以上要らない追記でした♪


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