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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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Performances...
先生にこないだメールをしたけれど自動返信で留守にしているというメールが来ただけで全然音沙汰がありません。
最近は仕事に他のことに忙しくて練習ができてないのである意味では時間はちょっぴりありがたいのですが、でもなんか淋しいです。
私にとって先生はスティーブンただ一人ですから。
もちろんマイケルも尊敬していますし、またピアノが軌道にのって聴いて欲しいものがあればレッスンして欲しいなあ、とも思ってるのですが・・・
マイケルは大学時代も毎週レッスンはできない人なのですがマイケルに師事していたらきっとマイケルの色に染まってしまったかもしれないなあ、と思うんですよ。あんなにパワフルに表現をする人ですし。Pだってある程度影響を受けていましたし。その影響はもちろんマイケルが素晴らしい音楽家なのでいいこともあるのですが・・・

スティーブンはもともと口数の少ない人ですが、それを考慮してもレッスンのときに私の曲の解釈にとやかく言ったことは全くといってないです。(もちろん技巧的なこと、音楽的な表現、そして曲のチョイスについては言いますが)
音楽をどう解釈するかについては私は全く自由で、先生はその解釈、つまり私が曲を通してしたいことを表現するためにピアノでするべきことを全面的にサポートしてくれました。
そんなスティーブンとまたレッスンがしたいなあ、ちょっと自分だけじゃあ心細いなあ、なんて思うんですけど・・・
最悪8月下旬のPiano Landmarksで会えるのでそのときでも・・・?
レッスンしてくれるといいです。

大学時代はそんな先生の元授業でいっぱい演奏しました。
ピアノクラス(ピアノ生徒全体のクラス。演奏だったり、ゲストのマスタークラスだったり、その他ピアノの一番偉い先生がピアノに関連するいろんなことについて話したり)はちょっと、その・・・ピアノの一番偉い先生が現代音楽嫌いなのでちょっとアウェーな感じは多少あって。(でもピアノ弾きの一部の側面では私を認めてくれてたみたいです。私の事は別に嫌いとかじゃなくて、私が弾く曲が嫌いだったのです)

でもコンサートクラスは一ヶ月に一回は演奏してました。
コンサートクラスは事前に書類を出して演奏したい旨を伝えて、音楽科の生徒のみんな(または一部学年)が聴衆となってる前で弾くというもの。あとで監督の先生からコメントももらえますし後に生徒もコメントしなくちゃいけない制度ができて。この制度は出席率の問題からできたのですが他の人にコメントするより自分で弾く方が楽なのでこの制度ができてからは余計に頻繁に演奏するようになりました(笑)

ちなみにこんな曲なんかを弾いてました:(コメントなどがとってある分だけ)
1年生:ファリャ「三角帽子」から、ラフマニノフ練習曲op.39-4
2年生:ドビュッシー前奏曲集第1巻5,7番、ベートーベンピアノソナタop.31-3第2楽章、ショスタコ前奏曲とフーガ第16番、ブラームスop.118-2,6、ラヴェル「鏡」より「道化師の朝の歌」「鐘の谷」
3年生:メシアンまなざし第4、9番、上記ショスタコ、メシアンまなざし第11、12番、ヒンデミットピアノソナタ第3番第3楽章、岡本加奈子さんの「La Nuit」
4年生:メシアンまなざし第17,18,19番、ラフマニノフ練習曲op.39-8、メシアン練習曲「火の島I」
4年生(次の年):モンポウ「歌と踊り」第5番、メシアン鳥のカタログ「モリヒバリ」、ドビュッシー前奏曲「沈める寺」、クラム「マクロコスモス」第2巻1,3,12番、レスピーギ前奏曲変ロ短調、プロコフィエフ「悪魔的暗示」、スクリャービン練習曲op.42-5、上記ショスタコ。
(伴奏はまたこれとは別にリストがあります)

これを見るといつ私が「目覚めた」か一目瞭然ですね(笑)
このうち岡本加奈子さんの作品以外は暗譜でやってる・・・はず。そしてコンサートクラス等は高いスタインウェイを弾くのでクラムは特殊奏法抜きバージョン。
これは2年生のピアノクラスでピアノ音楽の現代の作曲家にはどんな人がいるか、とピアノの一番偉い先生がいうもんですから「ジョージ・クラム」と答えたらその先生「え、クラム弾くの?(汗)」といったので「あ、今は弾きませんがいつかと思ってます♪(嬉々)」と答えた経緯があり、特殊奏法なしでもこのホールで弾いてやる!という公約を果たしたかったのです(笑)

今はだれかの前で演奏するために弾いてるわけではありません・・・それはそれでいいんですが、私は何を弾こうか、どんな曲を組み合わせてレパートリーにしようか・・・あとはリサイタル妄想なんかも大学時代からやってます。
妄想、というか・・・どういう曲を組み合わせて、どんなテーマでリサイタル(に限らず演奏)をやりたいか、どんな曲を組み合わせると面白いか、どんな隠れテーマで一見共通点のない曲を繋げるか・・・
そういった事を考えるのが実際に演奏と同じくらい、あるいはそれよりも大好きで。自分の能力に限りはありますが曲の組み合わせは(組み合わせるだけなら)無限です。

作曲家に創られた曲が芸術なのと同じようにリサイタル、またはそれに相当する複数の曲の一連の演奏もまた芸術だと思います。
もともとちょっとこだわっちゃいたい人な自分なのですが、ここらへんのこともまた他から影響を受けています。
Pがメルボルンでリサイタルをやるときでのこだわりがまずあって、そして彼の師であるマイケルの演奏形態に関してものすごくいいな~と思ったのもまた大きな影響です(この師弟はなにかと私のいろんな面に影響がありますな!)。
マイケルが数年前タスマニアでPeter Cundallの語りを交えて演奏時間なんと3時間30分を超えるメシアンの「鳥のカタログ」を一日3つのコンサートにわけて、自然保護のイベントで演奏したこと。そしてこないだの48 fugues for Frankのコンサートのプレゼンテーション。
これらなどを受けてコンサートも全体で一つの芸術形態なんだな、そして曲の組み合わせやプレゼンテーションなどで音楽によって表現できる、伝えられるメッセージも変わるんだなーと真摯に思いました。

実際私が2回リサイタルをやったのではどちらも弾きたい曲が多く詰め込んだ結果そこまではこだわれていないのが現実ですが、現実がそうだからこそやりたいなあと妄想するのが自然なわけで・・・(苦笑)
例えば自分の創作のキャラクターに関する・イメージした曲を集めてみたり。
いつかキャンセルしなくちゃいけなかったリサイタルは数字の「3」をテーマにしたリサイタルプログラムを組んだことも実際あります。
あと考えてみたのはちょっと変わり種の「宗教関係音楽」特集。バッハの短めの曲で初めてそこから首をひねってもらうという。

Pみたいにちょっと目立たない共通点とかやってみたいんですけどね~。これは相当なプランニングが必要。一見かなりばらばらなスタイルや性格の曲を目立たない糸で繋いで・・・なんてできればかなりパワフルなリサイタルになりますからね♪

コントラストと共通点のバランスだけではなく、リサイタルのいろんな要素がバランスしてなくちゃいけませんしね。
バランスはでも自然ととれるものなんですよね。バランスが悪いと自分が弾いてて・聴いててしんどいことこの上ないですから。

曲を弾いていて「これでリサイタルを始め・終わりたいな~」なんて思うことはたくさんあります。ただ後者のほうが多いのがちょっと困りもの。
これで終わりたい!という曲にこだわりたくなるためどうもアンコールの類はやらない、というかやりたくないことが多いです。

ずーっと考えてる理想のプログラムは:
1)5分くらいの曲で始める
2)メシアン「鳥のカタログ」からニシコウライウグイス(8分)
3)ソナタかなんか長めの曲を挟む
4)もうちょっと弾く
5)メシアン「鳥のカタログ」からダイシャクシギで締める(10分)
・・・というプログラム。(1時間~1時間半?長さによっては3)と4)間に休憩)
実は創作で似たようなプログラムをキャラに弾かせてるので逆輸入なのですが。
「鳥のカタログ」のうちニシコウライウグイスは2曲目なのですがダイシャクシギとどうも個人的な印象としては相性が良く、この2曲でリサイタルを包むみたいな形にしたいなあ・・・なんて。
ただニシコウライウグイスはリサイタルの最初よりは次鋒のほうが印象が強いかも、ということでこんな形に。
あとはテーマを決めてそれにそって他の曲を決めていくだけ。

音楽を「弾く」のも音楽家の仕事ですが、コンサート・リサイタルを「演出」するのもまた一つの仕事。
なんらかの思想、アイディア、コンセプトなどでつないだリサイタルはまた音楽に限られない表現を可能にし、聴衆にとって音楽に限られない経験を創ることができます。
なので例えばメンタルヘルスをテーマにしたリサイタルだと一石二鳥というか相乗効果になる可能性もある、ということで・・・そちらもなんとかしたいのですが(プランするだけでも)。
この「演出」の部分がかなり楽しいプロセスなので、いつか本当に小さい規模でもリサイタルとして実行に移せたらな~と強く願っています♪


今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より第4番「聖母のまなざし」



先ほどのコンサートクラスで弾いた曲の中にもあった、私が初めて人前で演奏したメシアンの曲です。(最初に弾いたのは別のまなざし)

聖母のまなざし。聖母とはもちろん絵画でもおなじみ聖母マリア。
ゆりかごがゆれるようなリズムは穏やかでもあり、同時にこの曲全体を支配する不思議な不安があります。
それはまた曲の途中で表れるパッセージでも明らかになることなのですが・・・

許嫁ヨセフとベッドも共にしないのにいきなり天使が(深く信仰する神の元から!)やってきて、神の子をお腹に授かってると言われ・・・
それは絵画では良く喜ばしいことのように扱われています(実際に喜ばしいことではあるのです)が、本人にしてみれば恐れ多いことであり、ものすごいプレッシャーであり・・・自分はある意味結婚前に妊娠してしまったことでヨセフになんといっていいわけしたらいいかわからないですし、世間様もなにやら言うでしょうし・・・さらにこの子供が愛するヨセフと自分の子供だったらまだいいのにそうではない、しかも神の子供というこれまた尋常ではない、特別にも特別すぎる存在、とてつもなく大きな力が働いている存在だと・・・
一人で悩み、同時にお腹の子供を愛しく思い、神を敬い、同時に神の子を大事に思う・・・そしてその未来を心配し。

祝福するような?鳥の声とは対照的に結構この楽章の至る所には第7番の「十字架のまなざし」を思わせる音型が表れます。
「十字架」はキリストの死を表すシンボル。もちろん「十字架のまなざし」の曲も同じ事を表現しています。
聖母マリアはこの子供が神の子として人を救うであろうことを予想しながらも・・・心のどこかで彼のその十字架の上での死を予感している、そんな曲です。

誕生と死を同時に扱う、そして不安と悲しみがどうしてもぬぐえないこの優しき子守歌。(「嘆きの聖母」的性格ですね)
ものすごく女性的な音楽で、自分が弾いたとき(そして今後弾く時も)その女性的な面を重視して演奏したいと思っています。

これと対になるのが第11番「聖母の聖体拝受」で、これはマリアが天使に神の子を授かったお告げを受けた喜びが描かれていて、こちらはメシアンお得意の喜びに満ちた音楽。まるで宗教絵画を見ているように(ちょっとだけ説明を受ければ)ものすごくわかりやすいイメージの音楽ですが、またそれは後ほど!

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