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前回のエントリーに拍手どうもです~
今はあれほどではないものの未だに調子の悪さは続いています。
休むことができないスケジュールは果たして吉になってるのか凶になってるのか。
そんななかで昨日は一日休みの日でした。暑い日は外に出ないとですよ。
友人と海の近く(久々のSt. Kilda!)でランチしてから新しい万年筆・文具関連の店とかなんか大幅に品数が増えてるダイソーとかでちょっと買い物を済ませたり。
そこから夕方は久しぶりのコンサートに行って来ました。例のPlexusです。
Plexus: Prophecy
Stefan Cassomenos(ピアノ)、Monica Curro(バイオリン)、Philip Arkinstall(クラリネット)
Christian O'Brien「Newid Gwyntoedd」
Christine McCombe「finding what's there」
Bright Sheng「Tibetan Dance」
(休憩)
Brenton Broadstock「This Everlasting Silence」
リヒャルト・シュトラウス「四つの最後の歌」(ソプラノ:Deborah Cheetham、チェロ:Michelle Wood、コントラバス:Damien Eckersley)
例によってバラエティに富んで複数世界初演ありの1時間ちょいでしたがシュトラウスが最後に来るとその前にどんな素晴らしい現代作品が来てもふっとんでしまう的なところがあるんですよねもう!ある程度そこは意識して注意して聞いてたんですが、それでも不可避だったようで(そして私だけじゃないようで)。
3曲目のチベットの踊り(not初演)は第3楽章が実際のチベットの踊りをベースに書かれてるらしく(なんでも作曲家のShengさんが若いとき住んでたとか)、そちらの方面の音楽に出会うのが面白かったです。三国志関連から「中国の文化とは」みたいなことを考えることがよくあるのですがなんとなく自分の中の「中国周りの文化」の絵にピースが1つ増えた気がします。この場合キーはリズムですね。
そしてBroadstockの作品は今回初演だったのですが、最近亡くなった元弟子の作曲家(前私も追悼行った人です)と息子さんに向けて書かれた哀歌だったそうで。Broadstockさん演奏終わりに泣いてました。それだけ渾身というか、逆に言えばその喪失がどれだけ作曲に重く影響を与えたか。そして改めてクラシック音楽が今の形になってから楽器ソロでも歌曲でもオケでもなく「室内楽」というジャンルが作曲家のパーソナルな側面と表現において重要な役割をずっと担っているなんだなということを実感。
ところでシュトラウスですが前のマーラー「亡き子を偲ぶ歌」と同じくオケ歌曲をピアノ友人が編曲してソプラノ・ピアノ・バイオリン・クラリネット・チェロ・コントラバスの編成でした。(風の便りに作曲とかも忙しそうなことを聞くけど編曲までやって大変だよなー)
室内楽ならではのこぢんまりした感じがあってよかったと思うのですが弾く方はかなり「密」かつ「多」だったようで。そりゃあシュトラウスのオケ曲の編曲だもんなあ。色んな意味で「マーラーの大地の歌も聴きたい」なんて口が裂けても言えませんわ。
もうお気づきかもしれませんがPlexusのMelbourne Recital CentreでのコンサートはPで始まる題が付いてるのですが、来年は(すでに来年のスケジュールが決まってるらしいです)6月と12月に2階あるコンサートのタイトルがそれぞれParallel(平行)とPerpendicular(垂直)でちょっとくすっと笑いました。でも2回しかないということをちょいと心配せにゃならぬところですよここは(今年は3回あったはず)。
来年は女性作曲家の割合もちょっと増えてるみたいでそこ含めてどんな音楽に会えるか楽しみです。
今日の一曲: リヒャルト・シュトラウス 「四つの最後の歌」より「夕映えの中で」
以前も書いたと思いますが私はクラシック音楽ではほぼどんな作曲家も「晩年の作品フェチ」みたいなところがありまして、それは意識しなくても晩年の音楽を好いてしまうということもあれば晩年の音楽を追い求めてしまうところもあり。
ただシュトラウスの晩年の曲ってなにかすごく特別なものがある気がします。昨日のコンサート終わりで「シュトラウスみたいに変調できる作曲家は他にいない!」って感嘆してた人がいました晩年のその成熟した色彩扱いは見事というしかない。
4つの歌全部が「死」を扱う歌詞なのですが、色んな作曲家が晩年において死をどう見てるかってのはじっくり触れて比べてみると面白いです。マーラーだったりショスタコだったりシューベルトだったり、みんな何かこうたどり着いているところがあって。
特にシュトラウスは戦後のメタモルフォーゼンの存在を考えると面白い。なんか今回このlast of lastである「夕映えの中で」を聞いて「国破れて山河あり」という言葉が頭をよぎりました。諸々あったけどこの曲のオケ(器楽)部分にこれまでの作品より何より山と自然に見守られているのを感じます。山に戻ってきて、ここにたどり着いて本当によかったなあという思いでいっぱいになる音楽ですね。
さて不勉強につきここらへんの歌曲って誰の演奏がいいのかちょっとわからなくてAmazonでリンクする録音を探してみたんですけどシュワルツコップさんの演奏が多いながら録音が古いのがちょっと自分には聞きにくいので新しめの録音にしてみました。
またオケ版も聞ける機会が来るといいなー
今はあれほどではないものの未だに調子の悪さは続いています。
休むことができないスケジュールは果たして吉になってるのか凶になってるのか。
そんななかで昨日は一日休みの日でした。暑い日は外に出ないとですよ。
友人と海の近く(久々のSt. Kilda!)でランチしてから新しい万年筆・文具関連の店とかなんか大幅に品数が増えてるダイソーとかでちょっと買い物を済ませたり。
そこから夕方は久しぶりのコンサートに行って来ました。例のPlexusです。
Plexus: Prophecy
Stefan Cassomenos(ピアノ)、Monica Curro(バイオリン)、Philip Arkinstall(クラリネット)
Christian O'Brien「Newid Gwyntoedd」
Christine McCombe「finding what's there」
Bright Sheng「Tibetan Dance」
(休憩)
Brenton Broadstock「This Everlasting Silence」
リヒャルト・シュトラウス「四つの最後の歌」(ソプラノ:Deborah Cheetham、チェロ:Michelle Wood、コントラバス:Damien Eckersley)
例によってバラエティに富んで複数世界初演ありの1時間ちょいでしたがシュトラウスが最後に来るとその前にどんな素晴らしい現代作品が来てもふっとんでしまう的なところがあるんですよねもう!ある程度そこは意識して注意して聞いてたんですが、それでも不可避だったようで(そして私だけじゃないようで)。
3曲目のチベットの踊り(not初演)は第3楽章が実際のチベットの踊りをベースに書かれてるらしく(なんでも作曲家のShengさんが若いとき住んでたとか)、そちらの方面の音楽に出会うのが面白かったです。三国志関連から「中国の文化とは」みたいなことを考えることがよくあるのですがなんとなく自分の中の「中国周りの文化」の絵にピースが1つ増えた気がします。この場合キーはリズムですね。
そしてBroadstockの作品は今回初演だったのですが、最近亡くなった元弟子の作曲家(前私も追悼行った人です)と息子さんに向けて書かれた哀歌だったそうで。Broadstockさん演奏終わりに泣いてました。それだけ渾身というか、逆に言えばその喪失がどれだけ作曲に重く影響を与えたか。そして改めてクラシック音楽が今の形になってから楽器ソロでも歌曲でもオケでもなく「室内楽」というジャンルが作曲家のパーソナルな側面と表現において重要な役割をずっと担っているなんだなということを実感。
ところでシュトラウスですが前のマーラー「亡き子を偲ぶ歌」と同じくオケ歌曲をピアノ友人が編曲してソプラノ・ピアノ・バイオリン・クラリネット・チェロ・コントラバスの編成でした。(風の便りに作曲とかも忙しそうなことを聞くけど編曲までやって大変だよなー)
室内楽ならではのこぢんまりした感じがあってよかったと思うのですが弾く方はかなり「密」かつ「多」だったようで。そりゃあシュトラウスのオケ曲の編曲だもんなあ。色んな意味で「マーラーの大地の歌も聴きたい」なんて口が裂けても言えませんわ。
もうお気づきかもしれませんがPlexusのMelbourne Recital CentreでのコンサートはPで始まる題が付いてるのですが、来年は(すでに来年のスケジュールが決まってるらしいです)6月と12月に2階あるコンサートのタイトルがそれぞれParallel(平行)とPerpendicular(垂直)でちょっとくすっと笑いました。でも2回しかないということをちょいと心配せにゃならぬところですよここは(今年は3回あったはず)。
来年は女性作曲家の割合もちょっと増えてるみたいでそこ含めてどんな音楽に会えるか楽しみです。
今日の一曲: リヒャルト・シュトラウス 「四つの最後の歌」より「夕映えの中で」
以前も書いたと思いますが私はクラシック音楽ではほぼどんな作曲家も「晩年の作品フェチ」みたいなところがありまして、それは意識しなくても晩年の音楽を好いてしまうということもあれば晩年の音楽を追い求めてしまうところもあり。
ただシュトラウスの晩年の曲ってなにかすごく特別なものがある気がします。昨日のコンサート終わりで「シュトラウスみたいに変調できる作曲家は他にいない!」って感嘆してた人がいました晩年のその成熟した色彩扱いは見事というしかない。
4つの歌全部が「死」を扱う歌詞なのですが、色んな作曲家が晩年において死をどう見てるかってのはじっくり触れて比べてみると面白いです。マーラーだったりショスタコだったりシューベルトだったり、みんな何かこうたどり着いているところがあって。
特にシュトラウスは戦後のメタモルフォーゼンの存在を考えると面白い。なんか今回このlast of lastである「夕映えの中で」を聞いて「国破れて山河あり」という言葉が頭をよぎりました。諸々あったけどこの曲のオケ(器楽)部分にこれまでの作品より何より山と自然に見守られているのを感じます。山に戻ってきて、ここにたどり着いて本当によかったなあという思いでいっぱいになる音楽ですね。
さて不勉強につきここらへんの歌曲って誰の演奏がいいのかちょっとわからなくてAmazonでリンクする録音を探してみたんですけどシュワルツコップさんの演奏が多いながら録音が古いのがちょっと自分には聞きにくいので新しめの録音にしてみました。
またオケ版も聞ける機会が来るといいなー
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