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さっそくお知らせから。
Zelman Symphony Orchestra
「End Games」
12月1日(土)午後8時開演
Performing Arts Centre, Camberwell Grammar School
指揮者:Rick Prakhoff
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 交響曲第104番「ロンドン」
リヒャルト・シュトラウス 四つの最後の歌(メゾ・ソプラノ:Miriam Gordon-Stewart)
ヨハネス・ブラームス 交響曲第4番
昨日はリハーサルでした。今週末本番ですが明日もリハーサルがあります。今年弾いた他の諸々よりは難易度は低いかなと思われるプログラムですが必要な木曜リハーサル。
特に私が弾いてるシュトラウスはソリストとのリハーサルが昨日と明日だけ。どんなに歌手がうまくてもオケ側もものすごく細やかに対応しなきゃいけない曲なのでバランスとかブレス調整とかしっかり確立しておく必要があります。
それとは全く別に色々歌曲に使われてる詩を調べてて、漢詩って(マーラーの大地の歌以外で)どんな風に使われてるかなーと思ったら出会ってしまったAlec Rothの「Songs in Times of War」。しかもマーラーで使われてない杜甫の詩。しかも前Plexusが弾いた曲で題材になってたやつ以外で結構好きな詩が使われてる。さらにさらに試聴してみたら古き良き、ではないですがイギリスの歌曲のスタイルをベースにした感じでツボなだけでなく(西洋音楽の中では)杜甫の詩と比較的相性がいい。(たとえば李白はマーラーとかシュトラウスが楽しそうですけどね)
それとシュトラウスとこないだのハムレットと総合して思うのはすでに完成している詩や戯曲という言葉の作品が音楽と組み合わせることでまた違う地平線が広がってくることの不思議。
もともと自分があんまり歌を聴いてて歌詞が聞こえにくいってのもあるのですがどんなに詩を読み込んでも感覚的に入ってこないことが楽器パートまで含めて聴いてすっと通じることがどれだけ多いことか。
それは言葉だけじゃ足りない、ということではなく別の入り口から入って違った角度で見れるってことのはずで。何はともあれ同じ作品でも複数回新鮮に楽しめるのはお得な感じです。
逆に楽器パートから歌とか歌詞の役割を見る、という角度だともっともっと複雑な話になってきます。たとえばリストによるシューベルトの歌曲のピアノ編曲だったりワーグナーのオペラのオケのみ版とかで言葉がなくて完成度に欠けるところがあるとは思えないし、そもそも言葉がないというのと声がないというのの違いがどうとか、あとヴォカリーズだったりクラムの作品みたいな「言葉でない楽器的な声の使い方」なんてのもあるし、かなり交絡因子が複雑で自分の頭では分けて考えられないなあ。
でも歌曲って必然的に「出会い」の数が単純に増えるから面白いですね。
まずは作曲家が詩とかの文学作品に出会って、そこから例えばあんまり文学に明るくない私みたいな音楽畑の人が音楽を通してそういう作品に出会って、そこからまた他の歌や詩とかに興味が広がっていく、作品だけでなくて出会うプロセスそれぞれも面白い。
(ただ未だに文学方面の興味が音楽を通した出会いに頼りっきりで例えばスペイン文学なんかはほぼロルカしか知らないことにこないだ気づきました。ちょいと反省です)
今回のコンサートで弾く「眠りにつくとき」(チェレスタ唯一の出番の第3楽章)もヘッセの詩なんですがヘッセは短編小説はあんまりはまらなかったんですよね。でもこの詩は好き。ほんと何があるかわからない。ついでに言えばラヴェルの「夜のガスパール」の元ネタの詩を作ったベルトランは他にどんな作品があるんだろうとか思って調べたら見事に音楽関連・夜ガス関連の話ばっかり出てくるんですよね。何がきっかけで作品や詩人が有名になるかもわからない。
シュトラウスの四つの最後の歌は(チェレスタパートは小さいながらも)ずっと弾きたかった曲で、今週で終わりなのがちょっと名残惜しいです。でも弾く機会があってよかった。来年も良い曲が弾けるといいんだけどこればかりは指をクロスするしかない。
今日の一曲: リヒャルト・シュトラウス 「四つの最後の歌」より最終楽章「夕映えの中で」
Twitterの方でもつぶやいたのですが第3楽章だけ弾いて詩もいいし音楽も美しいしで相当あの楽章に愛着があるんですけど、やっぱりソリスト付きで全部聴くと最終楽章は他と違う何かがある。格別な作品です。
そもそもこれだけ詩の作者がヘッセじゃなくて(アイヒェンドルフの詩)一番最初にこの楽章が書かれたけど最後に配置される(それに作曲家がどれくらい噛んでるかはちょっと不明なのかな?)思い入れとか、先ほどの「出会い」の話の続きですがそういう経緯も含めてこの曲に特別なものを感じます。
オケの使い方もちょっと歌曲の伴奏という表現の範囲を超えてる感があるんですよね。例えばマーラーの歌曲の(ソリストがマイクなしで一人で歌ってるのに)がっつり交響曲並に世界観を書き込むのとはまたちょっと違う、人物がいなくてもしっかりメインとして成り立つ風景画みたいなさりげないけど鮮やかなオケ使い。
この楽章の自分のイメージというか思い入れはもういろんなところで書いたり話したりしてるような気もするので今回はぐっと我慢して割愛。
そういえば前うちのピアノの先生がシュトラウスの最後の4つじゃない別のオケ伴奏の歌曲のピアノ編曲版をアンコールで弾いてたのですがそういうのってどれくらい数&質があるんだろうな。そのうち探したり弾いたりしてみた方がいいのかもしれない。
手持ちの録音はエリザベス・シュワルツコップが歌ってるのですが録音の古さもあってちょっと古い感じに聞こえてしまうのがおすすめする上で悩み。人の声って美しさそのものは時代を超えても不変なところはあるけどやっぱりちょっと昔と今では(楽器以上に)好まれやすい声って変わるのかなあ、と思いつつルネ・フレミングにしてしました。手持ちにするにも今の録音プラスもっと最近の録音が欲しい気持ちがあります。将来的に検討したいところ。
特に私が弾いてるシュトラウスはソリストとのリハーサルが昨日と明日だけ。どんなに歌手がうまくてもオケ側もものすごく細やかに対応しなきゃいけない曲なのでバランスとかブレス調整とかしっかり確立しておく必要があります。
それとは全く別に色々歌曲に使われてる詩を調べてて、漢詩って(マーラーの大地の歌以外で)どんな風に使われてるかなーと思ったら出会ってしまったAlec Rothの「Songs in Times of War」。しかもマーラーで使われてない杜甫の詩。しかも前Plexusが弾いた曲で題材になってたやつ以外で結構好きな詩が使われてる。さらにさらに試聴してみたら古き良き、ではないですがイギリスの歌曲のスタイルをベースにした感じでツボなだけでなく(西洋音楽の中では)杜甫の詩と比較的相性がいい。(たとえば李白はマーラーとかシュトラウスが楽しそうですけどね)
それとシュトラウスとこないだのハムレットと総合して思うのはすでに完成している詩や戯曲という言葉の作品が音楽と組み合わせることでまた違う地平線が広がってくることの不思議。
もともと自分があんまり歌を聴いてて歌詞が聞こえにくいってのもあるのですがどんなに詩を読み込んでも感覚的に入ってこないことが楽器パートまで含めて聴いてすっと通じることがどれだけ多いことか。
それは言葉だけじゃ足りない、ということではなく別の入り口から入って違った角度で見れるってことのはずで。何はともあれ同じ作品でも複数回新鮮に楽しめるのはお得な感じです。
逆に楽器パートから歌とか歌詞の役割を見る、という角度だともっともっと複雑な話になってきます。たとえばリストによるシューベルトの歌曲のピアノ編曲だったりワーグナーのオペラのオケのみ版とかで言葉がなくて完成度に欠けるところがあるとは思えないし、そもそも言葉がないというのと声がないというのの違いがどうとか、あとヴォカリーズだったりクラムの作品みたいな「言葉でない楽器的な声の使い方」なんてのもあるし、かなり交絡因子が複雑で自分の頭では分けて考えられないなあ。
でも歌曲って必然的に「出会い」の数が単純に増えるから面白いですね。
まずは作曲家が詩とかの文学作品に出会って、そこから例えばあんまり文学に明るくない私みたいな音楽畑の人が音楽を通してそういう作品に出会って、そこからまた他の歌や詩とかに興味が広がっていく、作品だけでなくて出会うプロセスそれぞれも面白い。
(ただ未だに文学方面の興味が音楽を通した出会いに頼りっきりで例えばスペイン文学なんかはほぼロルカしか知らないことにこないだ気づきました。ちょいと反省です)
今回のコンサートで弾く「眠りにつくとき」(チェレスタ唯一の出番の第3楽章)もヘッセの詩なんですがヘッセは短編小説はあんまりはまらなかったんですよね。でもこの詩は好き。ほんと何があるかわからない。ついでに言えばラヴェルの「夜のガスパール」の元ネタの詩を作ったベルトランは他にどんな作品があるんだろうとか思って調べたら見事に音楽関連・夜ガス関連の話ばっかり出てくるんですよね。何がきっかけで作品や詩人が有名になるかもわからない。
シュトラウスの四つの最後の歌は(チェレスタパートは小さいながらも)ずっと弾きたかった曲で、今週で終わりなのがちょっと名残惜しいです。でも弾く機会があってよかった。来年も良い曲が弾けるといいんだけどこればかりは指をクロスするしかない。
今日の一曲: リヒャルト・シュトラウス 「四つの最後の歌」より最終楽章「夕映えの中で」
Twitterの方でもつぶやいたのですが第3楽章だけ弾いて詩もいいし音楽も美しいしで相当あの楽章に愛着があるんですけど、やっぱりソリスト付きで全部聴くと最終楽章は他と違う何かがある。格別な作品です。
そもそもこれだけ詩の作者がヘッセじゃなくて(アイヒェンドルフの詩)一番最初にこの楽章が書かれたけど最後に配置される(それに作曲家がどれくらい噛んでるかはちょっと不明なのかな?)思い入れとか、先ほどの「出会い」の話の続きですがそういう経緯も含めてこの曲に特別なものを感じます。
オケの使い方もちょっと歌曲の伴奏という表現の範囲を超えてる感があるんですよね。例えばマーラーの歌曲の(ソリストがマイクなしで一人で歌ってるのに)がっつり交響曲並に世界観を書き込むのとはまたちょっと違う、人物がいなくてもしっかりメインとして成り立つ風景画みたいなさりげないけど鮮やかなオケ使い。
この楽章の自分のイメージというか思い入れはもういろんなところで書いたり話したりしてるような気もするので今回はぐっと我慢して割愛。
そういえば前うちのピアノの先生がシュトラウスの最後の4つじゃない別のオケ伴奏の歌曲のピアノ編曲版をアンコールで弾いてたのですがそういうのってどれくらい数&質があるんだろうな。そのうち探したり弾いたりしてみた方がいいのかもしれない。
手持ちの録音はエリザベス・シュワルツコップが歌ってるのですが録音の古さもあってちょっと古い感じに聞こえてしまうのがおすすめする上で悩み。人の声って美しさそのものは時代を超えても不変なところはあるけどやっぱりちょっと昔と今では(楽器以上に)好まれやすい声って変わるのかなあ、と思いつつルネ・フレミングにしてしました。手持ちにするにも今の録音プラスもっと最近の録音が欲しい気持ちがあります。将来的に検討したいところ。
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