×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
コンサート行っておきながら感想書くのすっかり忘れてました。
あっぶなー。今週末もまたコンサートなのに(汗)
メル響がサー・アンドリュー・デイヴィスとこの数年間続けてきたマーラーサイクルも終盤。まだ予定が未定な8番「千人の交響曲」をのぞいてこれがラスト。(サー・デイヴィスは今年いっぱいで首席指揮者としてのお仕事終わりなのでいつかゲストとして来てやってくれるかなあ・・・)
今回はこれまでとはちょっと変わったフォーマットのコンサートでした。
Mahler 10: Letters and Readings
指揮者:Sir Andrew Davis
「Inside the Mind of Mahler」(俳優・脚本:Tama Matheson)
(休憩)
グスタフ・マーラー 交響曲第10番
今回のコンサートは違和感から始まりました。なんとステージにいるオケの団員がみんな私服。
そこにサー・デイヴィスが指揮台に立って「すまないけどまだリハーサルしなくちゃいけないところがあって」と話し始めたところでなるほどもう『何か』が始まってるんだなと。
リハーサルと称して交響曲の一部を弾き始めると「なんだこれは!これはマーラーの10番じゃないぞ!」と現れた人物。舞台に上がったその人は何かの間違いで蘇ったマーラー(Tama Matheson演じる)でした。
そこからこの作品の背景や作曲家の思いなどを作曲家自身と指揮者がマーラー自身の記録された言葉などを中心に話していく(そしてビオラのリーダー演じるフロイトも交えて)という舞台作品仕立てになっていました。
後からこのコンサートのレビューにあったとおり普通にプログラムにも書いてあることだし要らないっちゃあ要らない演出ではあるとは確かに思いますけど普通に面白かったですし楽しかったです。この10番はマーラーのパーソナルな部分がものすごく強く現れているのでそれを強調したフォーマットは面白いですし、あとたまにマーラーの交響曲って一人の人間が書いたことを忘れがちなすごさもありますし。それから何よりマーラーが生きてた時代と今の時代で諸々価値観が変わってることをちゃんと認識する必要があるという意味で大切かもと思います。特にマーラーの作品の重要な要素「死」は彼の時代と比べて医療などが進んだ今とではとらえ方がかなり違ったり。あと蘇ったマーラーが私たち聴衆のことを「underdressed」と言ったのですがクラシック音楽の演奏環境も変わってる。フロイトの治療だって当時は最先端だったのが今では時代遅れ扱い。クラシック音楽というジャンルに限っていえば100年ちょいなんて最近のことなのですがcontextと合わせることで、それを生身の人間を通して触れることで肌で感じる、というのは意義があるんじゃないかなあ。
さて本題マーラー10番。マーラーが最後に書いた作品であり、彼自身の思い(特に妻アルマに向けた思い)を音のみならず言葉としてスコアに溢れさせた未完の作品・・・を後からDaryl Cookeが完成させた作品。未完成、完成といってもラフスケッチは全部できてて後から肉付け&楽器に音を振り分けする部分があったということらしいです。ただ出版するにはアルマの壁(私が勝手にそう呼んでいる)が高く厚くそびえたらしいですが最終的にこのバージョンは認められれ今でも演奏されているとか。
スケールも長さもマーラーの交響曲として最大ではないですが色んな人の思いが相当ぎっしり詰まっている曲。
なので一回聞いただけじゃ全部は理解できないですし要スコア(汗)やっぱりマーラー節!ってとこもあれば「おおう?」みたいな違和感(多分Cookeさんのせいなくて元々のマーラーの仕業)があるところもあり。なにより形式だけで「うおーそうかー」と頭を色々巡らせる力があるって半端ない。
とにかく曲をなんとか頭のなかで処理しようと忙しくて演奏がどうだったかまでは頭が回らない部分もあったのですがメル響なんで聞いてて楽しい、エキサイティングな演奏だったながらびしっと統率のきびきびしたオケで一回聞いてみたいところです。その方が映えるところも数々あるはず。
(まだ8番聞いてませんが&9番は別のオケで聞きましたが)1番からずっと聞いてきて最後にこれが待ってるとか地味に大ボス感がすごくて面白かったです。しばらく間おいてからでいいんでまた1番から味わいたい気持ちもあります。懲りないなー&飽きないなー自分。もちろん8番やるんだったらコンプリートしに行きます。あれはまたあれで別のモンスターですし。楽しみなので是非やっていただきたい。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 第5楽章
最後の最後のマーラー。愛だったり絶望だったり死だったり最後の作品なのに、そして未完成のまま亡くなっているのに最後の最後まで(=死後まで)しっかり生命力が詰まっているすごい作品です。
マーラーでいうと一番有名な曲が5番のアダージェット(アルマへのラブレターみたいなもん)なのかな、巷では。でもやっぱりある程度マーラーの作品を知ると一番強く感じるのが彼の作品を支配する「死」の影だと思います。交響曲も歌曲も至る所に死がいる。
ただ10番まで来てさらにまた斬新な死との出会い、死の表現が出てくるのがまたすごい。
マーラーはそのころニューヨークに渡っていてホテルからたまたま葬送の太鼓を聞いたのがこの楽章の冒頭から繰り返されるバスドラム(箱入り)のモチーフになってるらしいです。
外国に行って普段と違う文化に出会う新鮮さが新しい表現をもたらしたわけですね。
でも実際「異文化」+「生死にまつわる何か」のコンボってものすごくパワフルですよね。私も個人的に最近そこで思うことあったのですが、特に予期しない形でその2つの要素の組み合わせにエンカウントするとすごい衝撃を受けるんだろうな。
ただ現代人としてはマーラーの曲を聴くだけでもその異文化+死に関する価値観に真っ向にぶつかるのを体験するんですよね。曲をよく知ってても、例えばマーラーが死と親しみをもって遊び始めるのにぞっとしたり違和感を感じたりとか、そういうのは薄れない部分もあって。「死」が非日常になっていってる今の時代には(そして未来はもっと)マーラーの異質をもっと感じられる、楽しめるようになってるのかも。
さて余談なのですが先ほども書きました葬送の太鼓、今回のコンサートでは布にくるまれた箱の中に(おそらくスタンダードなものより小さい?)バスドラムが入っているというセットアップだったのですが他の演奏だとどうなってるかちょっと気になります。10番は他の交響曲とくらべて打楽器控えめな分こういう特殊な楽器の存在感が強いですね。(6番のハンマーほどインパクトはないにしても)
マーラーが完成させた最初の楽章だけ収録してる録音もありますがもちろん今回は「Cookeによる完全版」で。なぜかストリーミング版が多めなのはなんでだろう。
あっぶなー。今週末もまたコンサートなのに(汗)
メル響がサー・アンドリュー・デイヴィスとこの数年間続けてきたマーラーサイクルも終盤。まだ予定が未定な8番「千人の交響曲」をのぞいてこれがラスト。(サー・デイヴィスは今年いっぱいで首席指揮者としてのお仕事終わりなのでいつかゲストとして来てやってくれるかなあ・・・)
今回はこれまでとはちょっと変わったフォーマットのコンサートでした。
Mahler 10: Letters and Readings
指揮者:Sir Andrew Davis
「Inside the Mind of Mahler」(俳優・脚本:Tama Matheson)
(休憩)
グスタフ・マーラー 交響曲第10番
今回のコンサートは違和感から始まりました。なんとステージにいるオケの団員がみんな私服。
そこにサー・デイヴィスが指揮台に立って「すまないけどまだリハーサルしなくちゃいけないところがあって」と話し始めたところでなるほどもう『何か』が始まってるんだなと。
リハーサルと称して交響曲の一部を弾き始めると「なんだこれは!これはマーラーの10番じゃないぞ!」と現れた人物。舞台に上がったその人は何かの間違いで蘇ったマーラー(Tama Matheson演じる)でした。
そこからこの作品の背景や作曲家の思いなどを作曲家自身と指揮者がマーラー自身の記録された言葉などを中心に話していく(そしてビオラのリーダー演じるフロイトも交えて)という舞台作品仕立てになっていました。
後からこのコンサートのレビューにあったとおり普通にプログラムにも書いてあることだし要らないっちゃあ要らない演出ではあるとは確かに思いますけど普通に面白かったですし楽しかったです。この10番はマーラーのパーソナルな部分がものすごく強く現れているのでそれを強調したフォーマットは面白いですし、あとたまにマーラーの交響曲って一人の人間が書いたことを忘れがちなすごさもありますし。それから何よりマーラーが生きてた時代と今の時代で諸々価値観が変わってることをちゃんと認識する必要があるという意味で大切かもと思います。特にマーラーの作品の重要な要素「死」は彼の時代と比べて医療などが進んだ今とではとらえ方がかなり違ったり。あと蘇ったマーラーが私たち聴衆のことを「underdressed」と言ったのですがクラシック音楽の演奏環境も変わってる。フロイトの治療だって当時は最先端だったのが今では時代遅れ扱い。クラシック音楽というジャンルに限っていえば100年ちょいなんて最近のことなのですがcontextと合わせることで、それを生身の人間を通して触れることで肌で感じる、というのは意義があるんじゃないかなあ。
さて本題マーラー10番。マーラーが最後に書いた作品であり、彼自身の思い(特に妻アルマに向けた思い)を音のみならず言葉としてスコアに溢れさせた未完の作品・・・を後からDaryl Cookeが完成させた作品。未完成、完成といってもラフスケッチは全部できてて後から肉付け&楽器に音を振り分けする部分があったということらしいです。ただ出版するにはアルマの壁(私が勝手にそう呼んでいる)が高く厚くそびえたらしいですが最終的にこのバージョンは認められれ今でも演奏されているとか。
スケールも長さもマーラーの交響曲として最大ではないですが色んな人の思いが相当ぎっしり詰まっている曲。
なので一回聞いただけじゃ全部は理解できないですし要スコア(汗)やっぱりマーラー節!ってとこもあれば「おおう?」みたいな違和感(多分Cookeさんのせいなくて元々のマーラーの仕業)があるところもあり。なにより形式だけで「うおーそうかー」と頭を色々巡らせる力があるって半端ない。
とにかく曲をなんとか頭のなかで処理しようと忙しくて演奏がどうだったかまでは頭が回らない部分もあったのですがメル響なんで聞いてて楽しい、エキサイティングな演奏だったながらびしっと統率のきびきびしたオケで一回聞いてみたいところです。その方が映えるところも数々あるはず。
(まだ8番聞いてませんが&9番は別のオケで聞きましたが)1番からずっと聞いてきて最後にこれが待ってるとか地味に大ボス感がすごくて面白かったです。しばらく間おいてからでいいんでまた1番から味わいたい気持ちもあります。懲りないなー&飽きないなー自分。もちろん8番やるんだったらコンプリートしに行きます。あれはまたあれで別のモンスターですし。楽しみなので是非やっていただきたい。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 第5楽章
最後の最後のマーラー。愛だったり絶望だったり死だったり最後の作品なのに、そして未完成のまま亡くなっているのに最後の最後まで(=死後まで)しっかり生命力が詰まっているすごい作品です。
マーラーでいうと一番有名な曲が5番のアダージェット(アルマへのラブレターみたいなもん)なのかな、巷では。でもやっぱりある程度マーラーの作品を知ると一番強く感じるのが彼の作品を支配する「死」の影だと思います。交響曲も歌曲も至る所に死がいる。
ただ10番まで来てさらにまた斬新な死との出会い、死の表現が出てくるのがまたすごい。
マーラーはそのころニューヨークに渡っていてホテルからたまたま葬送の太鼓を聞いたのがこの楽章の冒頭から繰り返されるバスドラム(箱入り)のモチーフになってるらしいです。
外国に行って普段と違う文化に出会う新鮮さが新しい表現をもたらしたわけですね。
でも実際「異文化」+「生死にまつわる何か」のコンボってものすごくパワフルですよね。私も個人的に最近そこで思うことあったのですが、特に予期しない形でその2つの要素の組み合わせにエンカウントするとすごい衝撃を受けるんだろうな。
ただ現代人としてはマーラーの曲を聴くだけでもその異文化+死に関する価値観に真っ向にぶつかるのを体験するんですよね。曲をよく知ってても、例えばマーラーが死と親しみをもって遊び始めるのにぞっとしたり違和感を感じたりとか、そういうのは薄れない部分もあって。「死」が非日常になっていってる今の時代には(そして未来はもっと)マーラーの異質をもっと感じられる、楽しめるようになってるのかも。
さて余談なのですが先ほども書きました葬送の太鼓、今回のコンサートでは布にくるまれた箱の中に(おそらくスタンダードなものより小さい?)バスドラムが入っているというセットアップだったのですが他の演奏だとどうなってるかちょっと気になります。10番は他の交響曲とくらべて打楽器控えめな分こういう特殊な楽器の存在感が強いですね。(6番のハンマーほどインパクトはないにしても)
マーラーが完成させた最初の楽章だけ収録してる録音もありますがもちろん今回は「Cookeによる完全版」で。なぜかストリーミング版が多めなのはなんでだろう。
PR