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いろいろ思うことがあったのでちょっとつらつらと・・・これは「ぼやき」なのかな?
そんな感じで今夜は菊花茶(顆粒)をお供に書かせていただきます。
世の中にある百億千億の様々なものを名前を付けて、カテゴリーに分けて理解できるようにするのは人間だけではなくて生き物にとって自然なこと。
くくること=inclusion、つまりそのグループに入れること、というのはもちろんそうなのですが反面くくることは「そうでない」ものをexclusion、つまり除外や疎外する役割もあって。
かつて古代の「キリスト教徒」、割と現代の「イスラム教徒」「ユダヤ人」、あとは「外国人」「○○病患者」「障害者」「引きこもり」・・・
あの人は○○だ、ということが同時に「あの人は私たちとは違う」という疎外的な意味を含んでいる、と思うのは被害妄想ではないと思います。
似たような話なのですが、「うつのカミングアウト」でここ数年ものすごく疑問に思っていたことがあって。
日本の方と話してると「相手に気を遣わせるから知り合って早いうちに鬱だってカミングアウトしないほうがいい」
と言われたことがあって・・・
当時はまあそうなのか、と思ってたんですがだんだんだんだんとそれって違うなあ、と思って。
タイミングを見計らってるうちに病状が急に悪化したりしちゃうと周りの人が鬱だと知らない場合知ってる場合よりも戸惑ったり、適切な行動がとれなかったり、余計に気を遣わせてしまうと思うのですよ。
その人の病状がいい時(思考がはっきりしているとき)に言っておかないと、そういう非常事態になってからだと言いづらいですし、適切な言葉がでてこなくてうまく伝わらないですからね。
でも思い返してみるとオーストラリアで友達に・・・例えば実際ピアノデュオのリハーサルに支障が出るのでほとんど初対面だった友達に事前に「私、うつで具合が悪くなってリハーサルをドタキャンしたりとかもしかしたらするかもしれないけど驚かないでね」とか「あんまり心配しなくてもちゃんとお医者さんも通って薬も飲んでコントロールされてるからきっと回復するから」という事を話しますと、大体返ってくるのがこのリアクションです:
「そっか、鬱か・・・鬱に罹ったことはないからそこら辺は分からないけれど昔辛い経験をしたことはあるから辛いことは本当に分かるよ。何かできることがあったらいつでも言って」
あとは知ってる人に鬱の人がいるよ、とか。そういう経験が自身あった人は自分の経験を話してくれたり。
鬱に罹ってることは悪いことではないんだ、それで疎外されることはないんだ、という気持ちは勿論ありますし・・・
でも思ったのは日本でとられた反応は「自分とは違うから気を遣わなくちゃいけない」という負の特別扱いによってうつの人を疎外しようとしている動きなんだな、と(本人がそれを直接意図していないにしても)。
それに対してオーストラリアでの反応は自分も辛い思いをしたことがあるから理解できる、またはなんらかの形でそういう状態の人とつながりがある、または自分の経験を共有する、それらによって「あなたも私と同じ仲間」だ、と受け入れる態度なんだな、と。
疑問ついでなんですが、「ネガティブな人といると自分もネガティブになるから嫌」という態度も疑問に思ってまして。
これもまた疎外に繋がる態度なんじゃないかと思います。
いかにも論理的に正しいように思えてしまうから、こういう態度がはびこると助けが必要な人が助けを求めにくくなるのが最初の理由。
で、いかにも論理的に正しいように思えてしまうから、じゃあネガティブな人は避けた方が良い、といってそういう傾向が広まってしまう。
ネガティブな状態は本来の人間の状態じゃないわけで、つまり何らかの形でその人達は助けを求めているのに、ネガティブな人達同士じゃ自分もお互いも助けることができないのに・・・
そうやって「ネガティブな人」を疎外して、自分の周りから排除してしまう動きがものすごく怖く、同時に大きな疑問を抱いてしまうのです。
あとはやっぱりその「得ようとばかりして与えようとしない」姿勢、っていうのもこういう態度には表れているような気がして。
人って自分が思っているよりずっと与える力があると思うんですよ。
昨日twitterで似たような事を言っていたのですが、人に与えることで自分が与えられる事も多いと思うんです。
人と自分のつながりってどう転んでどう効果がでるとか分からないものなので・・・
人の為にとおもってやったことがいつのまにか自分の欲がでていたり・・・自分のために、と思ってやっていることでも相手のことを思いやっていることには変わらないことがありますし。
だからなるべく人(特に弱者)を疎外することをせずに、もっとお互い与え合っていけたらと思うのです。
不安やPTSDの治療でもあるのですが、ネガティブな原因を避けることは何の解決にもならず、人を弱くして恐怖を増すだけだ、ということもありますし。
ネガティブに対して恐怖感が増せば疎外も進みます。言うまでもなく悪循環。
今回は健常者の方々にしてほしいこと(してほしくないこと)の話になりましたが、患者さん側のこともいつか書いていければ、と思っています。
このエントリーが私の思いだけでなく、どこかの誰かの一人でもの思いを代弁している事を願って・・・
今日の一曲: セザール・フランク バイオリン・ソナタ 第2楽章
フランスの作曲家の中でおおっぴらには取り上げられることのない、でも大切な作曲家、フランク。
彼の作品の中でもバイオリンソナタは様々な楽器(ビオラ、チェロ、サックス、フルートなど)のために編曲され、多くの人に愛されています。
ただソロの楽器のパートに比べて何でこんなに!?と思うほどピアノのパートが難しいことでも有名で(笑)
でも例えばこの第2楽章の冒頭のピアノ独擅場なんて弾けたら気持ちいいだろうなーと思いますよ!
第2楽章の熱情はなんというかものすごく心に近いです。
バイオリンのそのガッツのある低音域はビオラのホームグラウンドでもありますが、ビオラは実は私が「心臓・心に一番近い楽器」と思ってまして。
バイオリンのG線の強さ、熱さ、狂おしさが十分に生きるオープニング。
ブラームスの音楽とも多少似てる部分がありますが、ここはやっぱりフランスのなめらかさ、といいますか。ロマンチックでも重すぎない。
ドイツ音楽でどうしてもでてくる重力みたいのから解き放たれて飛翔するバイオリンの正直な音色が本当に魅力的な一曲です♪
ちなみにNHKでやってる「名曲探偵アマデウス」でこの曲をとりあげたエピソードもなかなかお奨めです♪
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そんな感じで今夜は菊花茶(顆粒)をお供に書かせていただきます。
世の中にある百億千億の様々なものを名前を付けて、カテゴリーに分けて理解できるようにするのは人間だけではなくて生き物にとって自然なこと。
くくること=inclusion、つまりそのグループに入れること、というのはもちろんそうなのですが反面くくることは「そうでない」ものをexclusion、つまり除外や疎外する役割もあって。
かつて古代の「キリスト教徒」、割と現代の「イスラム教徒」「ユダヤ人」、あとは「外国人」「○○病患者」「障害者」「引きこもり」・・・
あの人は○○だ、ということが同時に「あの人は私たちとは違う」という疎外的な意味を含んでいる、と思うのは被害妄想ではないと思います。
似たような話なのですが、「うつのカミングアウト」でここ数年ものすごく疑問に思っていたことがあって。
日本の方と話してると「相手に気を遣わせるから知り合って早いうちに鬱だってカミングアウトしないほうがいい」
と言われたことがあって・・・
当時はまあそうなのか、と思ってたんですがだんだんだんだんとそれって違うなあ、と思って。
タイミングを見計らってるうちに病状が急に悪化したりしちゃうと周りの人が鬱だと知らない場合知ってる場合よりも戸惑ったり、適切な行動がとれなかったり、余計に気を遣わせてしまうと思うのですよ。
その人の病状がいい時(思考がはっきりしているとき)に言っておかないと、そういう非常事態になってからだと言いづらいですし、適切な言葉がでてこなくてうまく伝わらないですからね。
でも思い返してみるとオーストラリアで友達に・・・例えば実際ピアノデュオのリハーサルに支障が出るのでほとんど初対面だった友達に事前に「私、うつで具合が悪くなってリハーサルをドタキャンしたりとかもしかしたらするかもしれないけど驚かないでね」とか「あんまり心配しなくてもちゃんとお医者さんも通って薬も飲んでコントロールされてるからきっと回復するから」という事を話しますと、大体返ってくるのがこのリアクションです:
「そっか、鬱か・・・鬱に罹ったことはないからそこら辺は分からないけれど昔辛い経験をしたことはあるから辛いことは本当に分かるよ。何かできることがあったらいつでも言って」
あとは知ってる人に鬱の人がいるよ、とか。そういう経験が自身あった人は自分の経験を話してくれたり。
鬱に罹ってることは悪いことではないんだ、それで疎外されることはないんだ、という気持ちは勿論ありますし・・・
でも思ったのは日本でとられた反応は「自分とは違うから気を遣わなくちゃいけない」という負の特別扱いによってうつの人を疎外しようとしている動きなんだな、と(本人がそれを直接意図していないにしても)。
それに対してオーストラリアでの反応は自分も辛い思いをしたことがあるから理解できる、またはなんらかの形でそういう状態の人とつながりがある、または自分の経験を共有する、それらによって「あなたも私と同じ仲間」だ、と受け入れる態度なんだな、と。
疑問ついでなんですが、「ネガティブな人といると自分もネガティブになるから嫌」という態度も疑問に思ってまして。
これもまた疎外に繋がる態度なんじゃないかと思います。
いかにも論理的に正しいように思えてしまうから、こういう態度がはびこると助けが必要な人が助けを求めにくくなるのが最初の理由。
で、いかにも論理的に正しいように思えてしまうから、じゃあネガティブな人は避けた方が良い、といってそういう傾向が広まってしまう。
ネガティブな状態は本来の人間の状態じゃないわけで、つまり何らかの形でその人達は助けを求めているのに、ネガティブな人達同士じゃ自分もお互いも助けることができないのに・・・
そうやって「ネガティブな人」を疎外して、自分の周りから排除してしまう動きがものすごく怖く、同時に大きな疑問を抱いてしまうのです。
あとはやっぱりその「得ようとばかりして与えようとしない」姿勢、っていうのもこういう態度には表れているような気がして。
人って自分が思っているよりずっと与える力があると思うんですよ。
昨日twitterで似たような事を言っていたのですが、人に与えることで自分が与えられる事も多いと思うんです。
人と自分のつながりってどう転んでどう効果がでるとか分からないものなので・・・
人の為にとおもってやったことがいつのまにか自分の欲がでていたり・・・自分のために、と思ってやっていることでも相手のことを思いやっていることには変わらないことがありますし。
だからなるべく人(特に弱者)を疎外することをせずに、もっとお互い与え合っていけたらと思うのです。
不安やPTSDの治療でもあるのですが、ネガティブな原因を避けることは何の解決にもならず、人を弱くして恐怖を増すだけだ、ということもありますし。
ネガティブに対して恐怖感が増せば疎外も進みます。言うまでもなく悪循環。
今回は健常者の方々にしてほしいこと(してほしくないこと)の話になりましたが、患者さん側のこともいつか書いていければ、と思っています。
このエントリーが私の思いだけでなく、どこかの誰かの一人でもの思いを代弁している事を願って・・・
今日の一曲: セザール・フランク バイオリン・ソナタ 第2楽章
フランスの作曲家の中でおおっぴらには取り上げられることのない、でも大切な作曲家、フランク。
彼の作品の中でもバイオリンソナタは様々な楽器(ビオラ、チェロ、サックス、フルートなど)のために編曲され、多くの人に愛されています。
ただソロの楽器のパートに比べて何でこんなに!?と思うほどピアノのパートが難しいことでも有名で(笑)
でも例えばこの第2楽章の冒頭のピアノ独擅場なんて弾けたら気持ちいいだろうなーと思いますよ!
第2楽章の熱情はなんというかものすごく心に近いです。
バイオリンのそのガッツのある低音域はビオラのホームグラウンドでもありますが、ビオラは実は私が「心臓・心に一番近い楽器」と思ってまして。
バイオリンのG線の強さ、熱さ、狂おしさが十分に生きるオープニング。
ブラームスの音楽とも多少似てる部分がありますが、ここはやっぱりフランスのなめらかさ、といいますか。ロマンチックでも重すぎない。
ドイツ音楽でどうしてもでてくる重力みたいのから解き放たれて飛翔するバイオリンの正直な音色が本当に魅力的な一曲です♪
ちなみにNHKでやってる「名曲探偵アマデウス」でこの曲をとりあげたエピソードもなかなかお奨めです♪