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前回メンタルヘルスのイベントに行ってからずいぶん時間が経ちました。
最近何もしてないな~と思いながらいくつか購読してるそちら関係メルマガを見ながらTPOのTとPとOが見事に食い違ってて行けないイベントを残念に思ったり。
でも仕事が一段落したところでちょっと勇気を出して別にアクションを起こしてみようと思っています。それについてはまた後ほど。
病気の治療の進歩、というのは新しい治療の開発、今ある治療の改良もありますが、様々な治療法の組み合わせなどでの進歩もめざましいです。
身体の病気でもQoL=Quality of Lifeといって患者さんが人間らしく生活しながら治療を受けれるようにとか、慢性的な病気での心のケア、行動認知療法の導入もされています。
反面メンタルヘルスの分野での薬に頼りがちな傾向、逆に気合いで、または自分一人で乗り切ろうとしてしまうケース、「薬がいらないくらいなら病気じゃない」という認識など様々な治療法があって、個人個人の性格や状況、病状や長所・短所などの違いに合わせて組み合わせていくべき連携がうまくいっていない現状もあり。
とりあえずこの点に関する私が入院していた病院の治療、ならびに私の精神医の教訓を手っ取り早くまとめるとこうなります:
1) 薬を使う前に他の手を尽くしてみるが、投薬治療のオプションもちゃんと考慮
2) 単一の治療法にたよらず、必ず多方面から病気にタックル
3) 患者さんの性格や傾向、状況などを把握した上で治療法をいろいろ根気よく試してその人にあった治療法をtailorする
そもそも精神の病気の原因から始めて単一の側面から捉えることはできなくて。
まずは遺伝的に特定の病気にかかるポテンシャルみたいなものがあったりで、そこに環境的だったりその他のさまざまな種類のストレス(他の病気など)だったりが引き金となって心の一時的な不調が病気に発展する、というケース・・・を含みますがもちろんそれだけではありません。
症状の種類も多様で、気分の落ち込みや高揚の感情症状、自殺意図・妄想などの思考症状、不眠・活動低下などの行動症状などがあり、それがまた相互に連携していたり。さらに個人により症状の表れ方はまったく違います。
で、病気のメカニズムもまだ解明されていない部分がありますが、明確になっている部分としては生物学的に脳で化学物質がいろいろなったりしていることによって感情、思考、行動に症状が現れ、その感情、思考、行動(そしてそれにより引き起こされた外的イベントなど)がまた化学物質の以上を引き起こして・・・という悪循環がキラーなわけですね。
なので薬によって化学物質のアンバランスを正そうとしたとしても感情・思考・行動を正さないとアンバランスは食い止められられないわけですし、逆に感情・思考・行動が病気におかされている違う患者さんには薬を使って化学物質のバランスを助けてあげないと例えば認知行動療法などの治療法の実行が難しくなります。
例えばティーンセクションに入院したときは「家族療法」が頻繁に行われていました。
患者さんをとりまく環境を改善し、家族の理解を深め家族によりサポートが行えるようになるようにという目的があります。
統合失調症などは患者さんが人間らしく生活できるよう幻覚などの症状を薬で抑えるのも大事ですが、幻覚や妄想を経験したとき自分の力で対応できるようにする治療も大切ですしね。
「病は気から」ということわざがありますが、ちょっとざっくりしすぎだな・・・と私は思っていて。
精神疾患によって患者さんは症状に対する対応力、正常な思考能力、さらに気力・精神的エネルギーに多大な影響ができるので、気合いで乗り切る、なんてことはさらなる悪化、迷走を招きかねないです。
でも意識的に自分の思考や行動を変えて、それによって脳内の化学物質のアンバランスを(全部食い止められるわけではもちろんありませんが)少しでもストップすることはできると思います。
確信をもって言えることは例えば病気の初期(または病気の入り口の前あたり)の投薬以前の状態にそういった種類の対応を怠ると先ほど書きましたような悪循環でそれこそ治療が格段と難しくなる、ということです。
どこからどこまでが病気か、というのは本当に難しいところで。
いろんな分類や尺度でそれを測ることが治療上必要で、でも精神疾患は数値化するのが難しく、さらに客観的判断・主観的判断に絶対的な信頼がもてないことから尺度や分類を作るのが本当に難しくて色んな専門家がどんなに頭をひねっても本当に納得のいくものが作られていない状態なんですよ。
だからってなんでもかんでも病気としてくくってしまうのはいろんな意味で悪いことだと思いますし、でも逆に問題の深刻さを認識しないのもいけないことですし。
ただやっぱり「長期にわたって生活に支障が出る」というのは目安ではあると思います。
うつは症状の持続が2週間、という目安がありますが、例えば仕事、家事から趣味まで(趣味は実は病状を知るためには良い目安となるんですよね)という日常の生活を送ることが難しくなったら薬が必要であろうが必要でなかろうが病気とされるべきなのかな、と思います。
特に先ほどの「薬を飲む前に他の治療法を実行」の方針で行くなら薬は初期には投与されないということになります。薬は他の治療法でもその日常の生活を送るのがまだ難しい場合にはじめて用いられますから実際薬を飲み始めたのは中度~重症のとき、というケースもあります(なので薬がいらないなら病気じゃない、というのはかなりの深刻なケースを認識していないことになりますね)。
精神疾患のさまざまな治療法、というのはまた別の時にお話ししたいのですが、患者さんや周りの人、社会全体に知られていないことが多く、その効果や実態、実際にどういう風に行われているか、どういう風に感じる者か、その必要性と重要さについては特に健常者のかたにはぴんとこないかもしれませんが、何事も病気になってみないとわからないですし、それに日常を健康に生きている間にも役に立つことなので・・・それを知っていることが常識になって、治療のオプションが明確になって、個人にあった治療に患者さん自身も周りの人も巻きんでやっていける日がくるといいな、と願っています。
今日の一曲: ヨハネス・ブラームス ハンガリー舞曲第4番
ブラームスのハンガリー舞曲といったらまず第5番が有名でその次に第6番、第1番。
でもそれに並んで新しいスタンダードになって欲しいと強く願っているこの曲。
ブラームスのハンガリー舞曲は21つあるうちの全部においてそのエネルギッシュでsolidな調子の良さが売り。ブラームス自身はドイツ人ですが、ハンガリーのスピリットをうまく捉え、さらに自分のスタイルの長所を上手く忍び込ませています。
私のハンガリー音楽のイメージは騎馬民族、フン族。首を多く取ったら勝ち、的な・・・リズムに躍動感が強い、ものすごいエネルギーで前に進む音楽。土臭く、いかにも「民族」音楽的な・・・西洋から見れば野蛮なエレメントを備えかねていて。数ある東欧の音楽の中でも特に野性的なものだと思います。
(反面バルトークやリゲティはこの野性的な精神を妥協せず、パーフェクトな理数的計算も入れてくるのですが、その事についてはまた別の機会に・・・)
ブラームスはどっちかというと内向的な人で、エネルギーをため込むのが上手い作曲家ですが、同時にそれを発散するのも上手いです。ハンガリー舞曲ではスローな箇所で溜めて溜めて、それを一気に速い箇所でリリースする、前も書きましたがエネルギーのベクトルの魔術師で。
だからハンガリー音楽のその運動エネルギー、推進力を有意義に引き出すことができるわけです。
ちなみにこないだの24keysvirus企画でいうと第4番の調はヘ短調「血」。
まさにハンガリーの野性的精神の一番深いところと同調するような調であり、さらにブラームスがわりと得意としている調でもあります。
この調だからこそものすごく腹に来る、たまらなくしびれる情熱があるのです♪
私は実はこの曲を聴いては痺れ、惚れ、もう血に酔ったようになっていますが・・・
本当にいろんな意味でたまらない魅力をもった曲です。血とかその他いろいろ迸ります。
ぜひぜひ新しいハンガリー舞曲のスタンダードに!
最近何もしてないな~と思いながらいくつか購読してるそちら関係メルマガを見ながらTPOのTとPとOが見事に食い違ってて行けないイベントを残念に思ったり。
でも仕事が一段落したところでちょっと勇気を出して別にアクションを起こしてみようと思っています。それについてはまた後ほど。
病気の治療の進歩、というのは新しい治療の開発、今ある治療の改良もありますが、様々な治療法の組み合わせなどでの進歩もめざましいです。
身体の病気でもQoL=Quality of Lifeといって患者さんが人間らしく生活しながら治療を受けれるようにとか、慢性的な病気での心のケア、行動認知療法の導入もされています。
反面メンタルヘルスの分野での薬に頼りがちな傾向、逆に気合いで、または自分一人で乗り切ろうとしてしまうケース、「薬がいらないくらいなら病気じゃない」という認識など様々な治療法があって、個人個人の性格や状況、病状や長所・短所などの違いに合わせて組み合わせていくべき連携がうまくいっていない現状もあり。
とりあえずこの点に関する私が入院していた病院の治療、ならびに私の精神医の教訓を手っ取り早くまとめるとこうなります:
1) 薬を使う前に他の手を尽くしてみるが、投薬治療のオプションもちゃんと考慮
2) 単一の治療法にたよらず、必ず多方面から病気にタックル
3) 患者さんの性格や傾向、状況などを把握した上で治療法をいろいろ根気よく試してその人にあった治療法をtailorする
そもそも精神の病気の原因から始めて単一の側面から捉えることはできなくて。
まずは遺伝的に特定の病気にかかるポテンシャルみたいなものがあったりで、そこに環境的だったりその他のさまざまな種類のストレス(他の病気など)だったりが引き金となって心の一時的な不調が病気に発展する、というケース・・・を含みますがもちろんそれだけではありません。
症状の種類も多様で、気分の落ち込みや高揚の感情症状、自殺意図・妄想などの思考症状、不眠・活動低下などの行動症状などがあり、それがまた相互に連携していたり。さらに個人により症状の表れ方はまったく違います。
で、病気のメカニズムもまだ解明されていない部分がありますが、明確になっている部分としては生物学的に脳で化学物質がいろいろなったりしていることによって感情、思考、行動に症状が現れ、その感情、思考、行動(そしてそれにより引き起こされた外的イベントなど)がまた化学物質の以上を引き起こして・・・という悪循環がキラーなわけですね。
なので薬によって化学物質のアンバランスを正そうとしたとしても感情・思考・行動を正さないとアンバランスは食い止められられないわけですし、逆に感情・思考・行動が病気におかされている違う患者さんには薬を使って化学物質のバランスを助けてあげないと例えば認知行動療法などの治療法の実行が難しくなります。
例えばティーンセクションに入院したときは「家族療法」が頻繁に行われていました。
患者さんをとりまく環境を改善し、家族の理解を深め家族によりサポートが行えるようになるようにという目的があります。
統合失調症などは患者さんが人間らしく生活できるよう幻覚などの症状を薬で抑えるのも大事ですが、幻覚や妄想を経験したとき自分の力で対応できるようにする治療も大切ですしね。
「病は気から」ということわざがありますが、ちょっとざっくりしすぎだな・・・と私は思っていて。
精神疾患によって患者さんは症状に対する対応力、正常な思考能力、さらに気力・精神的エネルギーに多大な影響ができるので、気合いで乗り切る、なんてことはさらなる悪化、迷走を招きかねないです。
でも意識的に自分の思考や行動を変えて、それによって脳内の化学物質のアンバランスを(全部食い止められるわけではもちろんありませんが)少しでもストップすることはできると思います。
確信をもって言えることは例えば病気の初期(または病気の入り口の前あたり)の投薬以前の状態にそういった種類の対応を怠ると先ほど書きましたような悪循環でそれこそ治療が格段と難しくなる、ということです。
どこからどこまでが病気か、というのは本当に難しいところで。
いろんな分類や尺度でそれを測ることが治療上必要で、でも精神疾患は数値化するのが難しく、さらに客観的判断・主観的判断に絶対的な信頼がもてないことから尺度や分類を作るのが本当に難しくて色んな専門家がどんなに頭をひねっても本当に納得のいくものが作られていない状態なんですよ。
だからってなんでもかんでも病気としてくくってしまうのはいろんな意味で悪いことだと思いますし、でも逆に問題の深刻さを認識しないのもいけないことですし。
ただやっぱり「長期にわたって生活に支障が出る」というのは目安ではあると思います。
うつは症状の持続が2週間、という目安がありますが、例えば仕事、家事から趣味まで(趣味は実は病状を知るためには良い目安となるんですよね)という日常の生活を送ることが難しくなったら薬が必要であろうが必要でなかろうが病気とされるべきなのかな、と思います。
特に先ほどの「薬を飲む前に他の治療法を実行」の方針で行くなら薬は初期には投与されないということになります。薬は他の治療法でもその日常の生活を送るのがまだ難しい場合にはじめて用いられますから実際薬を飲み始めたのは中度~重症のとき、というケースもあります(なので薬がいらないなら病気じゃない、というのはかなりの深刻なケースを認識していないことになりますね)。
精神疾患のさまざまな治療法、というのはまた別の時にお話ししたいのですが、患者さんや周りの人、社会全体に知られていないことが多く、その効果や実態、実際にどういう風に行われているか、どういう風に感じる者か、その必要性と重要さについては特に健常者のかたにはぴんとこないかもしれませんが、何事も病気になってみないとわからないですし、それに日常を健康に生きている間にも役に立つことなので・・・それを知っていることが常識になって、治療のオプションが明確になって、個人にあった治療に患者さん自身も周りの人も巻きんでやっていける日がくるといいな、と願っています。
今日の一曲: ヨハネス・ブラームス ハンガリー舞曲第4番
ブラームスのハンガリー舞曲といったらまず第5番が有名でその次に第6番、第1番。
でもそれに並んで新しいスタンダードになって欲しいと強く願っているこの曲。
ブラームスのハンガリー舞曲は21つあるうちの全部においてそのエネルギッシュでsolidな調子の良さが売り。ブラームス自身はドイツ人ですが、ハンガリーのスピリットをうまく捉え、さらに自分のスタイルの長所を上手く忍び込ませています。
私のハンガリー音楽のイメージは騎馬民族、フン族。首を多く取ったら勝ち、的な・・・リズムに躍動感が強い、ものすごいエネルギーで前に進む音楽。土臭く、いかにも「民族」音楽的な・・・西洋から見れば野蛮なエレメントを備えかねていて。数ある東欧の音楽の中でも特に野性的なものだと思います。
(反面バルトークやリゲティはこの野性的な精神を妥協せず、パーフェクトな理数的計算も入れてくるのですが、その事についてはまた別の機会に・・・)
ブラームスはどっちかというと内向的な人で、エネルギーをため込むのが上手い作曲家ですが、同時にそれを発散するのも上手いです。ハンガリー舞曲ではスローな箇所で溜めて溜めて、それを一気に速い箇所でリリースする、前も書きましたがエネルギーのベクトルの魔術師で。
だからハンガリー音楽のその運動エネルギー、推進力を有意義に引き出すことができるわけです。
ちなみにこないだの24keysvirus企画でいうと第4番の調はヘ短調「血」。
まさにハンガリーの野性的精神の一番深いところと同調するような調であり、さらにブラームスがわりと得意としている調でもあります。
この調だからこそものすごく腹に来る、たまらなくしびれる情熱があるのです♪
私は実はこの曲を聴いては痺れ、惚れ、もう血に酔ったようになっていますが・・・
本当にいろんな意味でたまらない魅力をもった曲です。血とかその他いろいろ迸ります。
ぜひぜひ新しいハンガリー舞曲のスタンダードに!
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