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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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楽器と性格に関する大事な話「ステレオタイプ化について」
楽器の奏者の性格傾向について話すとき、慎重になるのは・・・このステレオタイプというものの諸刃の剣的な性質に主な理由があると思います。
どんな集団(ユダヤ人、チェリスト、精神疾患患者等)をステレオタイプ化してジョークなどに仕立て上げるときに仕立てる本人はその集団に対して親しみや理 解と自分なりの観察があって愛を持って仕立てるんですが、特にこういう公共の場ではそういうものが全くない人が読んでる可能性も十分あるわけで。
そういう人がそういった多少誇張されたり全般化されたりした(特にネガティブな)特徴を鵜呑みにしてしまうと困るわけです。

ジョークなどは愛や親しみがあってこそ冗談・ネタととれて同じ愛や親しみを持つ人とそういった感情を笑いを通して共有できる、というのが味ですが・・・ただ しジョークなどに使われている同じ特徴が特定の集団に対して偏見・差別をもつことに繋がることも忘れてはいけないことだと思います。
集団の内の個人個人を知らないで全般的なイメージを押しつけるのはいけないことですしね。
特に集団がアイデンティティとなる(=区切りを付けたがる。くくることで疎外する傾向にある)、わりとまだ様々な集団に対して偏見が多い、メディアからの 情報などの比重が大きい日本(他アジア)文化ではステレオタイプは危険なものとなりかねなく。1について知ったことを10にそのまま調整もなく適用してし まう擬論理的な(完全に造語です)傾向はありますからね。

例えば最も私がインサイダー事情に詳しいチェリストについては良いことも一杯知ってますが、悪いこともたくさん知ってます。
プライドが高いとかひねくれてるとか口論すると泥沼になるからやめといた方がいい、とかそういうこともでもチェリスト達を愛しているからこそ言えることであり、愛しているからこそ「しょうがないなあ」とポジティブに見れることでもあり。
決して誹謗中傷を意図してはいなんですが、でもそういう親しみや理解が無い人が見たらただのいやなやつにしか見えない、ということがものすごくわかるので特にチェロについてはまだまだ言及を控えているのですが・・・

それにこれは主に私が見て経験した「自分なりの理解」に基づいている物ですからね。
全員が全員そういう性質ではもちろんないですし、全員が全員同じ見解を持っているとは限らない。
私の見解を不本意に思う人もいるであろうし、そもそもステレオタイプでくくられるのも自分がくくられたらちょっと不本意だな、とか思っちゃうところもあります。
でもみんなが私の経験したオケ生活を経験できるわけではないですし、それを未経験の人に表現形態で伝えよう、とおもったら確かに少しくらい Caricatureにしてしまうほうが分かりやすいですし(人間の思考の仕組み上)キャラクターとしても魅力ができます(一番良い例が「ヘタリア」だと 思います)。
愛するからこそ皮肉る、なんですけどそこをちゃんと上手く調整していくのが大変なのです。

なので毎回「これはネタでしかないですよ」とお断りするのは私が色んな楽器の奏者を好きだから、オケという場や音楽がものすごく好きだから、だからこそ私が愛と親しみをもって表現したことをその私が好きな人たちの攻撃に使われたくない、と強く思うからなんですよね。
今でも創作のオケストーリーでちょろちょろ性格傾向は使ったりしてますが、本当は例えば4コマ漫画的なフォーマットでオケ生活、楽器と奏者の性格傾向と音 楽が織りなす人間関係や音楽風景などをコミカルに、というかステレオタイプをどんどん取り入れて皮肉も愛も全部詰めてその自分が感じ取っているオーケスト ラ生活への愛や親しみ、出来事や心理などを分かち合いたい、と思っているんですが。絵の腕の話はとりあえず棚に置いておいて、そんな風な表現ができるのは まだまだハードルが高いのかな、という気はひしひしします。

マイノリティと呼ばれる人をはじめ、いろんな集団がそれぞれお互いの、そして自らの良いところ、悪いところも笑えるようになったらなあ、という気持ちはあります。実際それがある意味オーケストラの人間関係と音楽関係のバックボーンの一つだと信じてますし。
ただ笑いあって欲しい人達が(とくに精神疾患患者さん達の場合)笑えるような立場や状態に社会のなかでいられないも確かなことですね。そういう集団に属していることで辛い思いをされたり後ろ指をさされたり(それでなくても辛い場合もありますし)、なので。
でも同時にそれを達成するには集団の外の社会にステレオタイプ化されたイメージ以外でもその集団のことを知ってもらって偏見をなくすのはもちろん、社会全体がそういったジョーク他を愛と理解と親しみをもって受け止め、さらに笑いあえるよう他の方面の努力も必要だと思います。

私がこのブログでやっている楽器性格分析を「きっかけ」としてクラシックに興味を持ってくれたらいいなあ、という意図は全く持っていません。むしろクラシックに対して何も知らない人は読まない方がいい、と思います。
ステレオタイプ化されたイメージをとっかかりにするのは一種のギャンブルっぽいですし・・・
なんでもそうなんですけど、見解や視野を広げる意図の無い人がステレオタイプ化されたイメージや、または特定の1つの作品やコンセプトからジャンルに入ることに危険を感じることがあります。
まあここを広げると別の話(というか愚痴)になってしまうんですが・・・クラシック音楽の視野とかの話は別の機会に。

これから多少チキンながらも楽器奏者の性格について語っていくかと思いますが・・・
どうか本当にネタとしてだけ捉えてくれれば、と願います。


今日の一曲: スティーブ・ライヒ 「エレクトリック・カウンターポイント」



以前ミニマル・ミュージックにはヨーロッパスタイルとアメリカスタイルがあると書きましたが、ライヒはアメリカンのミニマル・ミュージックの流派に属する作曲家です。
実はこっちの流派は学校の授業で習った曲(ライリーのin Cとかアダムスの「中国のニクソン」とか。どっちも面白い曲ですよ♪)の断片しかしらなくて、正直あんまりヨーロッパ派ほどは魅力を感じないのですが・・・
ただ大学の授業のリスニングテスト(課題の曲があり、期末のテストで冒頭を聞いて曲を当てるというもの)のリストに入ってたのでずっとipodに入れてあるのですが・・・こう、じわじわと魅力を感じる曲ではあります。

この曲はエレキギターのために書かれていて、ミニマル・ミュージックの最大の特徴である「繰り返し」を中心にできています。
3楽章あるうち3つとも違うテクニックというか書き方をしていますが、なんといってもすごい!と思ったのが第1楽章。ギターたちは終始同じ音を弾いているのですが、強弱を変えることによりハーモニーが変わったように錯覚させるという、不思議な不思議な音楽です。
でも音の響きで一番好きなのは第2楽章。枝分かれしていくような音楽と、どこかでつながっているような、響くような・・・問い答えるような・・・不思議な心持ちになる音楽です。

基本ミニマル・ミュージックというものは驚きの要素が少なく、じわじわと自然に音楽が変化していく、というスタイルなのですが・・・それでも小さな驚きにはあふれています。
あとミニマル・ミュージックは「瞑想的」(特にヨーロッパ流派は)な性格があるとも言われています。繰り返される音楽を聴いていると心が落ち着いてなんだか無になってくる感じはものすごくわかりますね~。
なので会話などを妨げなくさりげなく背景に流せるBGMとしても有用らしいですね。

最後に、この曲はエレキギターの音の繊細さ、というものも味わうことが出来ます。ミニマル・ミュージックの繊細で自然な変化を表現するのにエレキギターでこんなにすごい世界が広がるんだ、というのもちょっとしたいい驚きです!

追記:このリンクしたCDにカップリングされてる「ディファレント・トレインズ」。題材のこともあってこちらも聞いてみたいです♪

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