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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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演奏、解釈、エトセトラ
先ほどTwitterのフォロー先さんと以前話していた楽器の特性にまつわる話でいろいろ調べてみたら以前くりひろげてしまった「24keysvirus」みたいなアルベール・ラヴィニャックによる調の特性の記載があったのでリンクしてみますね。
Wikipedia(日本語版):アルベール・ラヴィニャック
なんだか楽器や時代や音楽やらで変わってる部分もあり、共通点も多くありで嬉しいです。
この記事にはベルリオーズも楽器や調の特性について記述を残していると言うことなのですが、あの天才がなんと言ったのか、気になりますね。

今日は夕飯にハンバーグを作る時に今弾いているメシアンの「モリフクロウ」をいつものマイケルの録音でなくロジェール・ムラーロの録音で聴いてました・・・ところ、以前Twitterでつぶやいていた演奏と解釈の話が脳内で蘇ってきてしまいました。

作曲家が変わればスタイルも変わるように、演奏家が変われば同じ曲でも印象が全然かわる、これ基本ですね。
自分で購入したもの、大学の図書館で借りたもの合わせてメシアンの「20のまなざし」は録音を4つ(マダム・ロリオ、マイケル、ムラーロ、ベロフ)、ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」は3つ(キース・ジャレット、アシュケナージ、ニコラーエヴァ)持ってますし、他にも解釈や印象が偏らないように、そして視野を広げるために、さらに単なる楽しみのためになるべく複数録音を持つようにしています。

演奏する人、というのは不思議なポジションにいて。
他人の創った曲を、その作曲家の思いをくみ取りながら、自分の思いを表現する。
作曲家は全くの他人なので100%くみ取り思いを反映することもできず、だからといって他人の曲なので100%自分の表現でもなく・・・
なんでしょう、二次創作の創作者に似たポジションなんじゃないかなーといつも思っているのですが。

曲をかくぐらいですから作曲家側にも相当主張したいことはあるわけです。
なのでもちろん作曲側にとって奏者にあんまり自分の意図しないことはして欲しくない、というのが本音。
ラヴェルの初期の作品「古風なメヌエット」には過剰とも言えるくらいのクレッシェンドやフレージングの記号が書き入れられてたり。(あまり周りに納得のいくような奏者がいなかったのでしょうか・・・)
メシアンは信仰だったり共感覚だったりあまり多くの人と分かち合えないイメージが音楽の大黒柱になっていることが多いのを懸念してか、タイトルの下や前書きにたくさん文で説明を書いてます。音楽的にはなんだかなー、と思う反面やっぱりそういう記述があると彼の思っていること感じることをより深く・身近に感じられる、というのは思います。

大学でピアノの一番偉い先生は「新しく曲を習い始めるときは録音を聴かないように」という信条の持ち主で。
やっぱり耳で聞いてしまうと意識的にも無意識にもその録音の印象や解釈の影響を(賛同にも否定にも)受けてしまう、という理屈はよくわかるのですが・・・
自分は聴覚から(特に現代音楽の曲は)学ぶところが多いのもありますし、そもそも曲を習い始める前に曲を聞いて知っている場合があるわけですし(だから好きだってわかって弾くんですよ)。あとやっぱり聴いてみて初めて「こういう解釈もあるんだ」とか「これは確かにそうだよな」「これは違うな」という判断ができる、という理由もあって結構習い始めは録音を聴きます。

ただ自分の解釈がある程度固まると弾いている曲をぴたっと聴かなくなりますね。
ほかの解釈が許せなくなるわけでも、ぶれるのがいやなわけでもなくなんとなく・・・
私自身は結構奏者としてはかなり自分の主張が強い方、自分の道を行っちゃうほうではないかと思います。
もちろん作曲家の思いに曲を通じて共感し、それを演奏に反映させる行為も好きなのですが、自分が感じることを特定の曲を演奏するということを通じて表現したい!曲に触発されて表現したいことがたくさんある!という感じです。

自分は自分、と音楽である程度吹っ切れたのはメシアンとクラムに出会ってからでしょうか。
一見二者とも楽譜に細々と記述を残すので解釈の幅は狭まるかと思いきや、前の様々な時代の音楽よりも遙かにバラエティに富んだ解釈・演奏がある、半端なく自由な音楽で(特にクラム)。
クラムに関しては自分の中のイメージや世界、色彩と特に自然に結びつく傾向があるのですが、それでも「足りないかな?」「もっと自分(の想像力)を出しても良いのかな?」「もっと遊んで、冒険して、実験していいのかな?」と感じることもしばしば。

音楽を演奏・解釈するに当たって影響しているのは音楽に直接的に関わることばかりではありません。
ラヴェルの作曲に影響したの要因は彼のお母さんがバスク系でスペイン文化圏だったことがありますし、同時にお父さんがスイス人でメカいじりをする人だったこともあります。メシアンの作曲にはサン・トリニテ大聖堂のステンドグラスの色彩がイメージに影響があったと本人も言ってますしね。

私の場合小さいから好きな虫、恐竜、宇宙だったり、日本やオーストラリアの風土、気候、風景、色彩。ビーズの編み方、うつ・双極性障害を通しての経験。人のぬくもり、食べ物や飲み物の味・・・
そういったものの積み重ねで自分が成り立ってるのと同じくらいそういったものが意識的に、そして無意識に私の表現に(音楽もそうですが、他のものも)影響しているんだなあ、と思うと・・・なんだかピアノが弾きたくなってしまいました(注:メルボルン時間真夜中前です)。

自分で作曲する、ということではなく他の人の作った音楽に共感してそれを通して作曲家と自分、両方の思いや感情や時代、世界や色彩を表現する・・・という表現形態を私は音楽では進んでいるわけなのですが。
でもそれは今現在進行中のステンドグラスでも同じかな。このことについては詳しくは後ほどなんですけど・・・

毎日色々感じること、思うこと、学ぶことがあって、だからいつだって表現したくなって。
その「触発」というプロセスが本当に(演奏に限らず)快感でたまらないです。
もっともっと、現代音楽(特にクラム!)を弾きたい!

(PS. プロフィールとタイトル下の一文、変えてみました。ついでにTwitterのプロフィールも変えました。)


今日の一曲: ジョージ・クラム マクロコスモス第2巻 第4楽章「Twin Suns」



"Twin Suns (Doppelgaenger aus Ewigkeit)"=「双子の太陽(永遠からのドッペルゲンガー)」というタイトルのこの曲。
タイトルもミステリアスですが、楽譜面もまた「双子の太陽」の様にくるくるっと2つの円になってミステリアス。
第2巻フォーカスでやっていますが(今はちょっとアップライトなのでお休みですが)、この楽章は弾いててものすごくイメージ的に直感的で満足のいく「十八番」の一つです。

左の円(最初のセクション)と右の円(最後のセクション)はまるで正反対の双子のように性格が対照的。
爆発的に光り輝く左の円に、ピアノの中の弦を直接つま弾く暗い色彩の右の円。
私のこの曲のイメージに影響しているのが子供の頃宇宙の本でみた皆既日食の瞬間の太陽のコロナ。
(残念ながら実物はまだ見たことがないです!部分はありますが・・・)
左の円がコロナで、右の円が月によって隠された黒い部分、ということですね。

例えばこれが普通に真っ直ぐに表記されていたらどうなんだろう、ということを良く尋ねられるんですが・・・
楽譜の形がフレーズの長さに直接影響がある(そしてそれをよりストレートに可視化する)ということはありますし、何よりも直感的な印象、さらには無意識的なイメージにもかなりの影響があるんじゃないか、と思います。私は。

クラムの「マクロコスモス」=巨大な宇宙。そんななか「双子の太陽」は特に「宇宙」的な性格が強くて、短いながらも壮大なスケールのイメージを扱う素晴らしい曲です。
聴く方にとってはピアノでこれほど宇宙の壮大さだったり闇だったり言葉では表せない感覚が聴けてしまうのか、というのもありますし、弾く方にとってはピアノでその同じ物がこれだけストレートに、直感的に表現できるのか、というのもあります。
この曲を弾きたいのはもっともっと宇宙を感じたいとき。その果てなく思える闇と無の広がり、寂しさ、壮大さ・・・そしてそのなかで起こる巨大なイベント。自分の小さな両手とピアノでもっともっと突き詰めたい感覚です。

一回聴いただけではわりと「奇妙な」和音や音質の出てくる曲ではありますが、触発されやすい、音楽外のイメージを連想しやすい曲という意味ではクラムを知らない人に真っ先にお奨めできる曲です。

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