×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
家事復帰と言いながら今日は一日仕事+夕飯は昨日の残りのインドカレー(デリバリー。私の住んでるところはインド人地区なのでおいしいインドカレーが手軽に食べれるのです)だったので結局した家事は皿洗いだけでした(笑)
それにしてもココナツ入り羊肉カレーおいしいですね(Lamb Madrasだったかな)。
今日は精神関係カテゴリでメモしてあるエントリーのうちでは最後になります。
これまでと同じく自分の中で強く思っていることですが、他のエントリーと比べて自分に言い聞かせる、自分を戒める・・・というかこうならないとな、と強く思う、自分に向けた部分が大きいエントリーです。
よく「うつの人に「頑張って」って言っちゃ行けないの?」という質問を色んなところで見かけます。
そしてそれに対していろんな答えがあって結局どういうことなんだろう、という反応も見かけますが・・・
精神疾患を患ったり、心の不調を抱えていたりする人に対しての接し方がマニュアルのようにあるということは全くありません。
そういったところでもう一つ言いたいのは、マニュアルがないからってそこまで人が思うほど難しくない、ということ。
やっぱりキーは他のエントリーでのトピックと同じく知識と共感ではないか、と思います。
身近な例なのでうつについて話を進めさせてもらいます。
うつの主な症状をざっと(ざっとです)挙げると例えばこういうものがあります。
感情: 気分の落ち込み、制御できない感情の変動、恐怖・疑心などネガティブな感情の増幅
思考: 悲観的思考、疑い深さ、論理的・常識的に考えられない
行動: 活動低下、おっくうさ、無力感
こういう症状(もちろん現れる症状、影響には個人差が多いですが)がうつにかかった人にどう影響するか、どう人を変えるか、ということを知ることによってその人がどういう事を感じているか、どういった状態になってるかが想像できて、感じられて、それにより「その人のため」(そして自分のため)に何をすることがいいのかが分かってくるのではないかと思います。
患者さんの行動には理不尽で周りを傷つけるものもありますし、普通の論理や常識を説いても分かってくれない場合もありますし、「普通とは違う」精神状態にある人を前に理解に苦しんだり、恐怖に感じることもあります。
ただ患者さんの行動には病気なりの、普通の状態での「常識」とは違う心理だったり仕組みだったりがあるのです。
どうしてもちゃんと論理的に考えられない、悲観的な思考にねじまがり逃げてしまい周りの人の話に耳を貸してくれなかったり、キレたり、治療に非協力的になったり・・・でもそれでもその人の健康のため、そして自身を守るために何をしなくちゃいけないのか、患者さんの状態と症状を理解し共感して考えることでお互いへのダメージも減ると思います。
そして決してそれは患者さんを腫れ物や壊れ物のように扱う、という意味ではありません。
そうすればするほど周りの人のストレスや負担も増えますし、患者さん自身で悪循環に入って出られなくなり状態がさらに悪化する、ということもあります(正しい対処をとらないことによって)。
その人の為に、自分を守るために周りの人は「正しいこと」をたまには無理にでもしなければならない・・・その理由は何よりも患者さんの言うこと・望むことがかならずしも患者さんのためになるとは限らない、ということに尽きると思います。
なぜなら患者さんの思考も病気に影響されている、ということがたびたびあるから。
病気ではないのですがちょっと自分のケーススタディで例を。
今はかなり病気がコントロールできてる私ですが、もともとの気質で何かと無茶をしたくなる性質があるのと、あとうつで動いて何かをしたくてもできない経験の辛さから動けるときは可能な限り動きたい、という行動&思考パターンからたまにばたんきゅーなんてこともあります。
何かをしたい意欲があることも良いことですし、がんばれる力があることもいいことなんですが、それでも無茶になって結果自分に不調をもたらすようなことは防がなきゃいけなくて。
自分も気づける範囲でなるべくブレーキをかけるようにしてますが、周りの人もそういうときは「ちゃんと休むんだよ」とか声をかけてくれます。
私の健康のために私の望みに逆らってでも正しいことをしてくれます。
こうやって私がここまで書いたことで一つも単純になったことはないような気がします。
ただもっとたくさんの人に知って欲しいのは、誰でも精神疾患や心の不調を抱える可能性はあり、つまりは誰でも感情や思考や行動がゆがみ、自分が見えず、苦しさのなかで自分の本当の意志や望みとは別のところで症状にむしばまれるそういった状態に陥る可能性があるのです。
うつだったり精神疾患になってから自分がそういった人を傷つけたり迷惑をかけないなんて保証はどこにもなくて。そういう病気にかかってからどんな症状が現れて、どういう風に自分に影響するかなんて分からないものなのです。
だからこそ知らない顔をせず精神疾患や心の不調の症状や経験、苦しみ、どんな状態になるか、どう人の心がひずむかを知り、自分の心に感じることが大切で。
また、それを心に留め「それなら苦しんでいる人のために自分の心をも守りながら何をするのが正しいのか」ということを考え、行動に移すことが大切なのかな、と思います。
最初にも言いましたがここまで書いていたことは自分に言い聞かせている部分も多いです。
自分のケアにももちろん大切なことですし、私の「メンタルヘルスでしたいこと」の大切な要素であり、そもそもの理由の一つなので・・・
とりあえずは知識から、というアプローチの方が(精神医の言うように)私には合ってるのですが「共感」の方もわすれず進んでいきたいな、と思います。
さてさて、これで一連のメンタルヘルステーマはとりあえず終わり。
次回は久しぶりに音楽エントリーにしたいです!
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー チェロと管弦楽のための「奇想的小品」
チャイコフスキーの音楽・・・というのは結構曲によって私は好き嫌いが細かかったり激しかったりで。
例えば今日のこの曲と同じくチェロと管弦楽のための「ロココの主題による変奏曲」だとなかなか神経に合わなかったり、でも交響曲第6番「悲愴」やくるみ割り人形は好きだったり。
そんななかこの「奇想的小品」、じわじわと最近心の片隅で上手くおさまっております。
とりあえず色々と平均以上にはそろってるんですよね。
チェロのロマンチックな音色と技巧だったり、チャイコフスキーの土臭いセンチメンタルな(注:私が言うとかなりのお世辞です)ロシアロマンの雰囲気だったり、ちょっとLightheartedなエレガントな女性的なエレメントだったり。
メインディッシュにはならないけれど、でもデザートにしたらなかなか贅沢で美味な曲、という印象が強いです。
(チャイコフスキーはスイーツ的音楽が得意ですね♪)
あくまで「小品」なのですが、もしかしたらもしかするとチェリスト的な演奏・性格に関する気質には「ロココ」よりもこっちが合うんじゃないかな?ロココは割と技巧があって華やかだけれど、音楽的な深さとかに欠けてて、なんといっても底抜けに明るいのがちょっぴり物足りないかなーと。
その分こっちはちょっと粋なメランコリーだったり、チャイコフスキーの内気な性格だったりロシア的な暗さだったりが味わい深いかなーなんて元チェリスト並みに思って見たり(もごもご)
私は軽快か重厚でいったらチャイコフスキーなどの音楽は重厚派で、昔サン=サーンスの協奏曲を途中で諦めた時に「あんまり軽いのは好きじゃないでしょ」と友人に理由をずばり当てられたというエピソードがあるほどの気質なのですが、この曲の軽さは不思議と心を持ってかれますね。
おそらくロ短調という重厚派の調がうまいとこ軽すぎないように調整してくれるのか。
実はあんまりこの曲を巷でも聴かないのですがチャイコフスキーの音楽としてもチェロの音楽としても上質なデザート・スイーツだと思いますし、案外結構ツボります。
切ないエレガントさがやっぱりたまらない!のですがこの曲、今の日本の秋の陽気にぴったりなんじゃないか、と思いますね~
秋~冬はチャイコフスキーの音楽が特に心にしみる季節。是非是非この曲をデザートに♪
それにしてもココナツ入り羊肉カレーおいしいですね(Lamb Madrasだったかな)。
今日は精神関係カテゴリでメモしてあるエントリーのうちでは最後になります。
これまでと同じく自分の中で強く思っていることですが、他のエントリーと比べて自分に言い聞かせる、自分を戒める・・・というかこうならないとな、と強く思う、自分に向けた部分が大きいエントリーです。
よく「うつの人に「頑張って」って言っちゃ行けないの?」という質問を色んなところで見かけます。
そしてそれに対していろんな答えがあって結局どういうことなんだろう、という反応も見かけますが・・・
精神疾患を患ったり、心の不調を抱えていたりする人に対しての接し方がマニュアルのようにあるということは全くありません。
そういったところでもう一つ言いたいのは、マニュアルがないからってそこまで人が思うほど難しくない、ということ。
やっぱりキーは他のエントリーでのトピックと同じく知識と共感ではないか、と思います。
身近な例なのでうつについて話を進めさせてもらいます。
うつの主な症状をざっと(ざっとです)挙げると例えばこういうものがあります。
感情: 気分の落ち込み、制御できない感情の変動、恐怖・疑心などネガティブな感情の増幅
思考: 悲観的思考、疑い深さ、論理的・常識的に考えられない
行動: 活動低下、おっくうさ、無力感
こういう症状(もちろん現れる症状、影響には個人差が多いですが)がうつにかかった人にどう影響するか、どう人を変えるか、ということを知ることによってその人がどういう事を感じているか、どういった状態になってるかが想像できて、感じられて、それにより「その人のため」(そして自分のため)に何をすることがいいのかが分かってくるのではないかと思います。
患者さんの行動には理不尽で周りを傷つけるものもありますし、普通の論理や常識を説いても分かってくれない場合もありますし、「普通とは違う」精神状態にある人を前に理解に苦しんだり、恐怖に感じることもあります。
ただ患者さんの行動には病気なりの、普通の状態での「常識」とは違う心理だったり仕組みだったりがあるのです。
どうしてもちゃんと論理的に考えられない、悲観的な思考にねじまがり逃げてしまい周りの人の話に耳を貸してくれなかったり、キレたり、治療に非協力的になったり・・・でもそれでもその人の健康のため、そして自身を守るために何をしなくちゃいけないのか、患者さんの状態と症状を理解し共感して考えることでお互いへのダメージも減ると思います。
そして決してそれは患者さんを腫れ物や壊れ物のように扱う、という意味ではありません。
そうすればするほど周りの人のストレスや負担も増えますし、患者さん自身で悪循環に入って出られなくなり状態がさらに悪化する、ということもあります(正しい対処をとらないことによって)。
その人の為に、自分を守るために周りの人は「正しいこと」をたまには無理にでもしなければならない・・・その理由は何よりも患者さんの言うこと・望むことがかならずしも患者さんのためになるとは限らない、ということに尽きると思います。
なぜなら患者さんの思考も病気に影響されている、ということがたびたびあるから。
病気ではないのですがちょっと自分のケーススタディで例を。
今はかなり病気がコントロールできてる私ですが、もともとの気質で何かと無茶をしたくなる性質があるのと、あとうつで動いて何かをしたくてもできない経験の辛さから動けるときは可能な限り動きたい、という行動&思考パターンからたまにばたんきゅーなんてこともあります。
何かをしたい意欲があることも良いことですし、がんばれる力があることもいいことなんですが、それでも無茶になって結果自分に不調をもたらすようなことは防がなきゃいけなくて。
自分も気づける範囲でなるべくブレーキをかけるようにしてますが、周りの人もそういうときは「ちゃんと休むんだよ」とか声をかけてくれます。
私の健康のために私の望みに逆らってでも正しいことをしてくれます。
こうやって私がここまで書いたことで一つも単純になったことはないような気がします。
ただもっとたくさんの人に知って欲しいのは、誰でも精神疾患や心の不調を抱える可能性はあり、つまりは誰でも感情や思考や行動がゆがみ、自分が見えず、苦しさのなかで自分の本当の意志や望みとは別のところで症状にむしばまれるそういった状態に陥る可能性があるのです。
うつだったり精神疾患になってから自分がそういった人を傷つけたり迷惑をかけないなんて保証はどこにもなくて。そういう病気にかかってからどんな症状が現れて、どういう風に自分に影響するかなんて分からないものなのです。
だからこそ知らない顔をせず精神疾患や心の不調の症状や経験、苦しみ、どんな状態になるか、どう人の心がひずむかを知り、自分の心に感じることが大切で。
また、それを心に留め「それなら苦しんでいる人のために自分の心をも守りながら何をするのが正しいのか」ということを考え、行動に移すことが大切なのかな、と思います。
最初にも言いましたがここまで書いていたことは自分に言い聞かせている部分も多いです。
自分のケアにももちろん大切なことですし、私の「メンタルヘルスでしたいこと」の大切な要素であり、そもそもの理由の一つなので・・・
とりあえずは知識から、というアプローチの方が(精神医の言うように)私には合ってるのですが「共感」の方もわすれず進んでいきたいな、と思います。
さてさて、これで一連のメンタルヘルステーマはとりあえず終わり。
次回は久しぶりに音楽エントリーにしたいです!
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー チェロと管弦楽のための「奇想的小品」
チャイコフスキーの音楽・・・というのは結構曲によって私は好き嫌いが細かかったり激しかったりで。
例えば今日のこの曲と同じくチェロと管弦楽のための「ロココの主題による変奏曲」だとなかなか神経に合わなかったり、でも交響曲第6番「悲愴」やくるみ割り人形は好きだったり。
そんななかこの「奇想的小品」、じわじわと最近心の片隅で上手くおさまっております。
とりあえず色々と平均以上にはそろってるんですよね。
チェロのロマンチックな音色と技巧だったり、チャイコフスキーの土臭いセンチメンタルな(注:私が言うとかなりのお世辞です)ロシアロマンの雰囲気だったり、ちょっとLightheartedなエレガントな女性的なエレメントだったり。
メインディッシュにはならないけれど、でもデザートにしたらなかなか贅沢で美味な曲、という印象が強いです。
(チャイコフスキーはスイーツ的音楽が得意ですね♪)
あくまで「小品」なのですが、もしかしたらもしかするとチェリスト的な演奏・性格に関する気質には「ロココ」よりもこっちが合うんじゃないかな?ロココは割と技巧があって華やかだけれど、音楽的な深さとかに欠けてて、なんといっても底抜けに明るいのがちょっぴり物足りないかなーと。
その分こっちはちょっと粋なメランコリーだったり、チャイコフスキーの内気な性格だったりロシア的な暗さだったりが味わい深いかなーなんて元チェリスト並みに思って見たり(もごもご)
私は軽快か重厚でいったらチャイコフスキーなどの音楽は重厚派で、昔サン=サーンスの協奏曲を途中で諦めた時に「あんまり軽いのは好きじゃないでしょ」と友人に理由をずばり当てられたというエピソードがあるほどの気質なのですが、この曲の軽さは不思議と心を持ってかれますね。
おそらくロ短調という重厚派の調がうまいとこ軽すぎないように調整してくれるのか。
実はあんまりこの曲を巷でも聴かないのですがチャイコフスキーの音楽としてもチェロの音楽としても上質なデザート・スイーツだと思いますし、案外結構ツボります。
切ないエレガントさがやっぱりたまらない!のですがこの曲、今の日本の秋の陽気にぴったりなんじゃないか、と思いますね~
秋~冬はチャイコフスキーの音楽が特に心にしみる季節。是非是非この曲をデザートに♪
PR