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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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Elle se penche alors et tombe... (自殺について その1)
唐突なようですが、実はずっとまとめたく思って悩みあぐねていたトピック。
なんとか内容と気持ちがまとまったので是非お目を通していただければと思います。
まだまだ勉強不足で(自殺について自分がいいと思った本が家にあるのですが未再読)色々足りない部分もあるかと思いますがとりあえず今現在書きたいことをまとめました。

唐突なようで・・・というのが今日自殺について特に書きたいことです。
精神疾患や心の調子全般でもそうですが、「気づき」の難しさ、そして大切さがたくさんの人を悩ませています。
自殺はその周りの人にとっては突然起こるように思えますが、そこまで至る過程には実はたくさんのことがその人に起こっています。
「命を終える」という決断に至るのはそれなりに迷いがあるはずですし(特に精神疾患の症状により思考が遅くなっていたりぐるぐるなっている場合)、実際に事を起こすまでに身辺整理などをしていたり(自殺を計画しているサインとしてよくあげられていますね)遺書を残したりとさらに時間がかかったりもしているのです。

自殺が突然起こるように周りが感じる理由の一つとして、うつなどの疾患を抱える患者さんで自殺が起こりやすい病期の特徴があります。
うつの感情・行動・思考症状がいちばん強く表れているときは、患者さんには自殺という大きな行動を起こせるだけの思考と気力がない、とよく言われます。
逆に自殺が起こりやすいのは思考は歪んでいるけれど動いていて、その意図を隠しながら動くことができるエネルギーがある、一見良くなったと思われる状態なんだそう。
だからこそ「良くなったと思ったのに」と突然に感じる、ということで・・・良くなったと思って油断してはいけない、ということもありますし、だからといって一番症状が悪いときは自殺をしないと割り切ってもいけないということです(自殺願望を抱いていて、状態が変わったときに行動にうつすこともありえるので)。

そしてその「一見わりと普通に行動できている」と外から見られる状態で自殺が起こることも自殺は本人が意図して(=その行動を自分でコントロールして)行っているものだ、という認識が生まれる一つの要因だと思います。
全部のケースがそうとはもちろん言い切れないのですが、自殺は本人のコントロール外で起こっていることが多いと私は思います。例えば自殺という行動を起こす「自殺願望」の思考は精神疾患の思考症状の影響により思考がねじ曲がり、さらにそのねじ曲がりに本人が気づけなく、論理的にその思考を否定し正し、抜け出すこともできないことから行動に発展します。さらに思考以外の症状のつらさからも患者さんの心が弱っていてその思考と戦うことができず、辛さから楽になりたい気持ちと共にその曲がった思考に服従してしまうことにも繋がります。
精神疾患を抱えていなくとも自殺をオプションとしてある期間続けて(または繰り返し)考えている時点で思考・心のディフェンスに(生きる強い本能にそれだけ強く逆らえるだけの)なんらかの異常というか危機が生じていて、思考・行動が本人のコントロール外になっている、と解釈できると思いますが・・・・

最近思ったのですが日本は欧米とは全く違う自殺の文化的背景があって、独特の見解だったり認識だったり価値観があって独特の問題があるのですが・・・(ここはもっと勉強しなきゃなんとも言えないです。自分にはforeignな世界なので)
精神疾患を持つ患者さんの自殺については病死、というか病状の急転による最悪の転帰と私は全般的に認識しています。なので正しい、間違っているという次元の問題ではない、とも。
ちなみに国によっては自殺を特別な区分とせず、報道するときにただ「亡くなった」と区別しないで報道するところもあるそうです(自殺がタブーだということではなく、逆に特別扱いはやめよう、という方針だそうです)。

自殺は無責任だとか、逃げだとか、自分勝手な行為だと言う人がいることが居ますが(そしてそういう言い分にもう何年も苦しめられてきましたが)、それはあくまで自殺した人が自分の行動を制御できていた前提でしか言えないと思いますので・・・
病気によって人の思考や感情、行動が(本人がどう感じるか、外からどう見えるかにかかわらず)その人のコントロールを離れるということが実際あると言うこと、そして健康だったときどんなに強い人でも病気になったらどういう風に変わるかわからない、そしてどこまで病気が心をねじまげていくのに気づけ、戦えるかどうかはわからない・・・なので誰も自殺した人に対して上記のようなことを(もう一回は書けない)言える立場にはないんじゃないかと思います。

長々と書いてしまいましたがパート1はここまで。次回のパート2では自殺に対する認識を中心に広げていこうと思います。
こうやってまとめるまでに自分の中で色んな思いがあって・・・自己弁護も恥ずかしながらありますし、複数の意味でのリベンジもありますし、懺悔?みたいなものもあります。このブログの他の色々なエントリーと同じく「知って欲しい」という思いもありますし・・・書くと昨日決めて、昨日の夜は自殺を必死で止めた夢まで見ました。
未だに自信はないのですが、自分にとってもどこかの誰かにとっても「なにか」があれば、と思います。


今日の一曲: ショスタコーヴィチ 交響曲第14番 第3楽章「ローレライ」



今日のエントリーのタイトルはこの曲から来ています。
通称「死者の歌」と呼ばれる、歌のサイクルみたいなフォーマットのショスタコ晩期の交響曲。
それぞれの楽章に「死」にまつわる詩が使われていて、この楽章はギヨーム・アポリネールの「ローレライ」を詩としています。

ローレライは恋人を遠くの地で亡くした絶世の美女。彼女を見る者は恋に落ち、それによっていろいろごたごたが起こるので僧侶が彼女を魔女として逮捕しにやってくる。
ローレライは(想う恋人はもう帰ってこないので)未練はない、魔女として裁きを受けましょうと言うけれど、こんどは僧侶が彼女に惚れてしまい口説き始め、彼女の命が奪われるのが惜しいから修道院に入れるようにはからうとまで言い出す。
このままそんな形で生きながらえるなら、とローレライは川の向こうにある恋人と住んだ(?)城を最後に一目見たいと願い、そのままライン川に身を投げる・・・というお話。

唐突に見えるけれど、よくよく考えればそういう流れだったじゃないか、というつながりでタイトル(ローレライが身を投げたところ)と今日の一曲にチョイスしました。

他の曲が「歌曲」的なスタイルなのに対して、これはオペラでのレチタティーヴォ(話すように歌い、舞台で台詞を言うように話を進めていく)に近いスタイル。
そしてローレライが崖に立るシーンだけがアリア(歌曲)のようになっていて。ぐっと来ます。一気に感情移入。

あとこの交響曲通して木琴がかっこいいですね。
もともと乾いた骨っぽい音で「死」関連の音楽にはよく使われますが、ショスタコの使うハーモニーが木琴の音にうまくマッチ。
そしてチェレスタも大活躍!あらゆる意味で自分にとってはつくづくありがたい交響曲です。

そしてこの楽章、次の楽章にぐーっと続いていくのですが、それは次回のエントリーと共に。そっちも関わっています。

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