忍者ブログ
~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Sur ma tombe sans croix...(自殺について その2)
昨日の続きです。
今日はなんだか朝からメンタルヘルス関連で(きっかけはほとんどないのですが)いろんな憤りを感じていたりするのでなるべく抑えめに・・・(あんまり怒るとあとで気分が沈むんですよ、それでも怒っていつもあとで後悔するんです、まったくもう)

前回のエントリーでは自殺は(もちろん全部全部そうとは言えませんが)病気の思考・行動症状の影響下にいて判断・論理力が弱まり歪んだ患者さんの、本人の意志とは別の思考回路から生じた行動ではないかという見解を書きました。
なので自殺した人が無責任だとか自分勝手だというのは違うんじゃないかということ、ついでに病気になったらそうならない保証は誰にもないのだからそんな批判は誰にもできないんじゃないか、ということも書きました。

自殺についてスティグマの壁、もとい鉄槌を感じたことは多くあります。(主に日本で)
先ほどの「無責任」「自分勝手」という最もストレートな言葉も堪えますが、直接的な非難でない無理解の言葉もまた辛く・・・
「自殺をしてはいけない」だったり「自殺をしても無駄」「死んでもなんにもならない」的なアプローチがその良い例です。まずそういった問題ではない、ということが1つですし、自分がひねくれてるからかも知れませんが気持ちの持ちようだみたいな精神論的なことに自殺に至る過程だったり病気の辛さに対する無理解を感じてしまいます。
実際そういったアプローチで自殺を止めようとしても正常な思考回路を有していない、そして自分の周りのことが見えない患者さんには意味を成しませんし、通じません。
効かないことには詳しいですよ、(詳しいことはここでは言いませんが)経験者ですし、入院の際にそういった経験をした人ともたくさん出会いましたし。

自殺は無責任、自分勝手という見方は遺された人をも辛くするものだと思います。
「遺された」感がより一層強まりますし、亡くなった人を責めても辛いだけ。
そして病気と戦ってきた末のそういった転帰なら先ほどのような見方は患者さん自身、お医者さん、そして周りの人ががんばって戦ってきたことを否定するようにもとれて。

そして自殺した人の思いにも無責任・自分勝手でない痕跡があります。
うつなどの疾患を抱えて亡くなった人たちは自分が逃げたい思いよりも別の理由でその道を選ぶケースが数々あるそうで。
それは自分がこうやって病気でいること、迷惑をかけていること、重荷になっていることがたまらなく苦しくて、自分がいなくなることで周りの人を解放したいという気持ち。
論理的に間違っているところはもちろんあるのですが、それでもねじれどんどん内向きになって周りが見えなくなる思考との中でねじれたなりに周りの人を気遣っているというケースが確かにあり得るのです。

前回も言いましたように自殺は正しい、間違っているの次元で論議しても不毛だと思います。
が、それでも親しい人に死んだり、死にたくなるほど苦しんだりして欲しくないと誰もが思うことで。
どうして自殺してはいけないのか、というのは難しい問題です。
さきほどの「自殺をしてはいけない」だったり「自殺をしても無駄」「死んでもなんにもならない」といったアプローチはそこまで苦しんでいる人(全員が全員がそうとは限りませんが)に対してはどうでもいいことで。
自分には価値があるんだから、といってもその価値が見えませんし。
あと先のことが見えないことが難しいですね。ちゃんと治療を続ければ良くなるよ、というのがそういった状態ではなかなか実感できないものですから。
効くのはやっぱりその人に生きていて欲しい、という気持ちを心から伝えるのが一番いいのかなあ、とぼんやりは思いますが・・・

自殺防止も難しいですが、万が一起こってしまったあとの遺された人のケアもまた難しいですよね。
専門家による(独特の)ケアが必要なケースも多いですし。
ただやっぱり一般の人の自殺に対しての認識が遺された人を辛くするという部分もあるみたいですし(前のConferenceの前のトークで少し聴きましたが)・・・

認識、防止、ケアなども含めて本当に難しいトピック。かなりブログに書くには慎重で重くて大きな話ですが・・・
本当に大事なことで、本当になんとかしなきゃという思いがあって、無謀にも家にある本を再読しないうちにまとめてしまいました。
ある程度我慢しなきゃ、とは一応思ったんですが・・・
でもこうやって書いてみると、例えば自殺に向かい歩んでいる人の思考だったり思いだったり心理だったりをまとめてみたりしたいなあ、とか思います。
自分の思いや経験を心に刻んだままもっと勉強して正しい知識と適切な表現を学んでいきたいです。(例の本も再読しないと!)
長々とありがとうございました。


今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第14番 第4楽章「自殺」



これもまた今日のエントリーのタイトルにしました。
大好きなこの交響曲のなかで一番詩も音楽も好きな楽章です。
そもそもこれに惚れたのが始まりだったといっても過言ではないです。

この曲の詩の魅力を語るとブログの使用規定的にちょっと抵触する恐れがあるので音楽的な方に主に今回は言及します。詩は昨日と同じくギヨーム・アポリネール作の「自殺」という詩です。
ただ言えるのは元の詩はフランス語で、冒頭が「3本の百合、3本の百合」=「Trois grand lys, Trois grand lys」となっているのですが、曲にはロシア語に訳された版が使われていて、「Tri Lilii, Tri Lilii」という言葉の響きがたまらない!こっちの方が歌にするには(特にこの子守歌のようなメロディーには)美しく感じます。訳のほうが原語よりもすごい良い例ですね。

この楽章ではなんといってもチェロのソロが一番活躍します。(そしてチェレスタも居るよ♪)
ショスタコーヴィチはなんといってもチェロを本当に愛してくれてましたから(と、チェリストからの視点での憶測)。そして孤高とか孤独が割と似合う楽器なので。
ソプラノのソロと同じくらいの音域で、負けず劣らずの存在感。

寂しさと、恐ろしさと、禍々しさと・・・
安らぎのような、そうでない不思議な感じ。
ショスタコーヴィチの最晩期の音楽って本当に死の香りがぷんぷんしていて、でもそれを冷静に両目で見ているような音楽ですが、この音楽もまたそんな感じです。
なんだか許されないないような禁断の魅力があるのもまた最晩期ショスタコの特徴ですが、この曲は一段とそれが強いですね。はまっちゃうと(私がまずそうですが)救いがないぐらいどっぷりはまります。

最後に詩の方に戻りますが、タイトルに使ったフレーズは「十字架のない私の墓の上に」と訳されます。
自殺者の墓には十字架が立てられなかったのはいつの時代のことなのか(下手すりゃ今でも、なんていう地域があってもおかしくなさそう)分かりませんが、自分が読んだ全ての物もの中で自殺に対するスティグマを分かりやすく、ビビッドに表した表現だと思います。

私はもう虜になって10年、色んなレベルでこの曲は自分の心にすっかり寄生していますが・・・
本当は紹介したくなかったくらい好きな曲です。でも今日はこれじゃなくちゃいけなかったので・・・
この交響曲全般についてはまたの機会に!

拍手[0回]

PR
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Comment:
Pass:
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック