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やっと読みました!母推薦で譲り受けましたこの本。
ピアノ弾きだったり、モノ書きとピアノの両立だったり、様々な作曲家(特にフランス)の音楽だったり、ピアニストだったりについてのエッセイが集められた本です。
音楽についてしょっちゅう文書いてはいるんですが、いざ音楽についての本を読むとなるとどうしてもあんまり気乗りがしない、要するにひねくれた私ですが読み始めるとさくさく楽しんで読めました。
著者の青柳いづみこさんはピアニストであり文筆家、両方の分野で活躍なさっています。
母もモノ書きが趣味で、ピアノと別の分野と成り立たせようとしている私との共通点、さらにフランス音楽専門という共通点から薦めてくれたんじゃないかなーと。
いろいろ共感するところはありましたね。演奏の際の心持ちとか、シューマンやサティの特殊性とか、フランス音楽のエスプリの話。ピアニストという生き物、の話。
ただ「ん~違うな」と思ったところも。例えば音楽や作曲家との向かい合い方だったり、自分の表現の曲への介入だったり(作曲家と音楽をパーフェクトなものとしてとらえるのではなく、私は不完全さも認めて愛して伝えたい方面です。そして音楽の「醜悪の美」も信じて愛してます)。
あとは(母もそうなのですが)ドビュッシーとラヴェルだとそもそもがラヴェル派なのでそれぞれの音楽に対する印象だったり、元々の考え方も違って当然かな、と。
なんといっても著者が専門(研究・演奏ともに)としているドビュッシーの音楽の魅力が伝わってきて。
やっぱり文がいいので愛が伝わってきますよ。「ペレアスとメリザンド」とか「アッシャー家の崩壊」とか知りたいことがたくさん。
フランス音楽を知るには時代や文学も合わせてもっともっと勉強しなきゃ、と思わせられました。
そして一通り勉強したら音楽や文学に現れる場所を訪れにフランスに行きたい!
ピアニストについての話だと自分と同じく手が小さいアリシア・デ・ラローチャの話だったり(手のストレッチは見習わなきゃ)、あと先生の先生にあたるミケランジェリの話だったり。ミケランジェリはドビュッシーよりもラヴェル、だとかドビュッシーだったら「前奏曲集」よりも「映像」だという話を読むと思わず「一緒だ―」と思って嬉しくなってしまったり。彼のちょっと?エキセントリックなピアニストとしての存在もなんだか読んでてすごいなあ、と素直に思っちゃいました。
日本の音楽文化(演奏、批評と演奏など)をちょっと斬ったりする部分も面白かったです。日本の音楽文化はわりと自分にとって「ガイコク」なもので。そういう感じなのかーと首をかしげたりも。
それに関した話でピアノを超えた音楽の表現だったり理解だったりの話がありましたが、私の友達(マイケルの生徒のいつもの彼です)がマイケルのことを「ピアニストというよりも音楽家」と評していたことを思い出しました。私も目指しているのは(まだまだぼんやりしていますが)そういうことなので・・・
音楽と別分野の「二刀流」もそうですが、ピアノだけでない幅広い視点を持って表現していくことに気が引き締まる思いです。
「二刀流」に関してはその棲み分けだったり苦労だったりについても語られていて、特にあとがきでぽろっと(?)出てきたようなお話がまた楽しかったです。
文の方もプロですからね、表現が伝わって共感しやすいですし。
特にああでもないこうでもないと軽くぐるぐるしているところが読んでいて楽しかったです。
さあ次に音楽について本を読むのはいつになるかしら(汗)
でもフランス音楽について共感できてよかったなあ、と思ったので・・・もっと読むべきですよね、気軽に。
なるべくそこはひねくれないようにしたいです。
今日の一曲: クロード・ドビュッシー 「映像」第2集より「廃寺にかかる月」
今私が弾いているドビュッシー。「映像」は第1集・第2集どっちも好きですがもしかしたらこの曲が全6曲で一番好きかも知れません。
「月」を音で表すのは不思議なものです。大抵4度ベースの和音をぽんとシンプルに置いてあるんですが、聴いたらすぐ月だと分かる。
この曲のオープニングがメシアンの「モリヒバリ」の月の部分ににているのも好きになった要因だったり・・・するのかな。
タイトルには「廃寺」とありますが、どこのどんなお寺かははっきりしていません。
ヨーロッパにアジアの文化が大々的に入って来たのは1888年のパリ万博で、外国好きのフランス人はやはりエキゾチックな東洋文化に飛びついた、という傾向も少なからずあって。
そんな中ドビュッシーも自身の音楽に東洋をよく取り入れました。彼のオケ曲「海」のスコアの表紙には北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」から「神奈川沖浪裏」が使われているそうです。
で、脱線しましたが彼らのあこがれの対象がぼんやりとした「エキゾチックなアジア」的なものなのでこの曲の「寺」は特にどこのどんな寺を意識しているわけではなさそうです。(その証拠となるかはわかりませんが、ガムラン的な音がこの曲では使われています・・・ガムランはインドネシアの音楽ですが、インドネシアはイスラム教の国なので寺でなくモスクですね)
お寺にもいろいろありますがね。日本にも、韓国にも、中国にも、タイにもお寺はありますがみんな違うもの。どれをイメージするかは弾き手の私はまだ決めていません(汗)
でも夜で「廃寺」ならタイのお寺でもいけないことはないんじゃないか・・・とも思いますよ。
「映像」全6曲の中でも長さ的には短い方で(第1集の「動き」を除く?)、音の数はおそらく一番少ないこの曲。
「水の反映」などのように単独で使われるほど強い曲でもありませんが・・・
でもそのシンプルさだったり、ドビュッシーが言うところの「音楽は音と音の間の空間だ」ということを表すような曲の性格が本当に愛しくて。
音と次の音との空間、右手の音と左手の音の間の空間・・・
その間にある響きだったり、間だったり、色彩だったり。そういうものが本当に好きです。
月がきれいな静かな夜にそっとかけてみればきっとその魅力が見える・・・でなくて聞こえると思います。
是非満月の夜に。
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