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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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From One Stage to the Next
今日は1日のうちほとんど出かけてました。妹の卒業式がありまして・・・
私の卒業式は音楽科の人数が少ないんで他の学部との合同でしたが(なのでゲストスピーカーの話とか全般的でちょとふわっとしてたなあ・・・)、工学部は単独で、Doctorate/Masters/Bachelor学位の卒業者推定800人の卒業セレモニーが行われました。場所は世界遺産(そしてうちの大学の試験場所)であるRoyal Exhibition Building。
式は2時間ほどで済みましたし(前と後のいろいろが長かったなあ)、メルボルンの歴史と工学についてなかなか面白い話が聞けましたし、工学部は海外からの留学生が多いので(でも卒業者のうち日本人は妹を含めて3人のみ)いろいろな国の人、名前、そして後の軽食でいろんな国の食べ物も食べられました。
Turkish BreadとかFalafelとHommus、普段食べないけどもちょっと食べたいなあ。

妹もこれで卒業。永住権をとったりして社会人になるわけです。
妹だったり、友達の妹たち(もちょっと年下)だったりがあんなに小さかったのに12年生になって高校卒業、バイトだったり彼氏を作ったり、そして社会人になっていって・・・
時の流れって本当に速いなあ、と。

私自身の卒業式はECT治療で入院しているまっただ中で行われたので記憶がわりと飛んでます。
(場所は大学のホールでした、ちなみに)
でもきっとBachelor of Musicの卒業式が私にとって唯一の卒業式ではない、と思いますので。

メンタルヘルスの道に進みたい、ということを私の精神医につたえたら私の場合アカデミックなアプローチで進むと良い、と助言されたので・・・
いつかメルボルン大学に戻って、心理学でGraduate Diploma(Bachelorではなく他の学部で卒業した人達の方向転換のためのコース)かなんかをやって。
やっぱり自分の一番ストレートな思いだと臨床関係だけれど、今の仕事や勉強を始めてから(あと親友の卒論の話とかきいて)研究の方面にも心惹かれていて。
できたらそっち関係のボランティアとかも経験してみたいですし。
しっかりお金貯めて当面のことをしっかりベース固めて叶えられるようにしたいです。

メンタルヘルスのいろいろで昔患者さんだったけどケアの道に進んだ、という人を良く見るような気がします。
もちろん私もそう願う一人ですが、実際にかなり重症でどんどん内向きになって自分のことしか見えない状態から、治療のいろいろを経て、人(それも見知らぬ人)のことを本当に思って、苦しみを理解して共感したいと思えるようになって・・・本当に人って変われるものだし、広義のケアによって本当に患者さんも社会復帰&社会に貢献できるようになるんだし、なかなかみんなが与えられるものではない何かを与えられるようになるんだな、と思います。

精神疾患から回復した、といっても何らかのきっかけで状態がまた悪化することもあります。
特にケアの立場で他人の辛さを身近に扱うことは精神疾患の病歴がなくとも人にかなりの負担がかかります。
例えばうつの人には他人と自分の境目がちょっぴりあやふやな人もいますし、そういう人にとっては共感する、ということは本当にダメージになりかねません。あと自分の事をかえりみなかったり、思いつめたりという性格の特徴もうつによく見られる、と言われます。
だからそういう経験をしたり、そういう傾向がある人にとってケアの立場に立つことはある意味かなり難しいことではあります。

ただやっぱり病気の辛さを実際に体験した身としては他の人が同じような辛さを味わっていることを苦しく思いますし、正しいケアさえ根気よく続ければ良くなる可能性があるのにそれが見えなかったり、助けが与えられてないとやっぱりもどかしく感じたり・・・
そういうのが患者からケアの立場に人を突き動かす動機みたいです。

患者としての経験があるともちろん役立つこともたくさんあります。
自分が受けてきた治療からの知識だったり注意点だったりをアドバイスして治療に役立てることもできますし、単純に患者さんの辛さを本当の意味で理解し、共感することができる。
だからケアする側としての言葉が物凄く真実味をおびるというか患者さんが共感しやすく、さらに同じような経験・立場にあったことで患者さんにとって親しみやすく、信頼しやすい存在になり得る、ということもあります。
治療がどうとか、というよりは例えば自己モニタリングのコツだったり、自分自身をケアする方法だったり、というのは患者としての経験がものをいう分野ではないかな?と素人なりに思います。
病気の症状を経験していてどうしようもないことだったり、患者さんにとって無理なことを見極めたり(ネガティブを無理矢理ポジティブにすることなど)・・・そして何よりも患者として当時感じていて分からなかったことで、過去のものとして振り返ると分かるようになったたくさんのことを今分からないでいる患者さんに伝えてあげられる。

もちろん病気の表れ方だったり感じ方なども含めそれぞれの人にとって病気は違うものではありますが、実際に体験をしたことで得るもの、そして今苦しんでいる人に与えられるものはたくさんあるんじゃないかな、と思います。

私の精神医は精神医として、患者さんが死にたいと言ったらそれを「悪いことだから直さなきゃいけない」みたいな風には捉えない、と放していました。もちろん患者さんには生きてて欲しいけど、どうしてそう思っているのか、なにがそうさせているのか、など・・・患者さんの事,状態をそこから理解して何ができるか、何をしたらいいのか考えるそうです。
私もケアの立場に入りたいのは「治したい」よりも若干「理解したい・共感したい」のほうが強いですからね(まだその後の行動までともなってないのですが)。影響は受けてると思います。

いつのことになるやら、まだまだ未定な話ですが・・・「理解したい・共感したい」思いを忘れず続けたいと思います。


今日の一曲: エクトール・ベルリオーズ 「イタリアのハロルド」より「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」



こないだメル響のTwitter企画(フランス音楽関連トリビアクイズ)でベルリオーズのCDセット(5枚)を当てちゃいました♪
今日はやっと家の中の気温も下がったんで(夏にベルリオーズはちょっと暑い)さっそく知ってる曲から聞いてみました。

ベルリオーズは(幻想交響曲を昔から聞いて好きで親しんでるとはいえ)あんまり好きではなくて。
音楽が恐ろしく外向的で派手なところと、あと本人の性格がなんだか私が病状悪かった時を若干思い出すので・・・
そして音楽自体もなんだか・・・深みに欠けるというか、たまにしゃくに障るというか・・・良い曲はいいけど、つまらない曲はつまらない。

ただベルリオーズは指揮者として、オーケストレーションの天才として、オーケストラの中の人として、フランス音楽をぐっと持ち上げた人として、さらには楽器と性格分析、調の特徴など総して私が割と力を入れている分野の多くで本当に大きな貢献をした人なのです。

そんな彼が書いた「イタリアのハロルド」。フォーマットとしては「ビオラ付き交響曲」だそうです。協奏曲ではなく。
元々あのバイオリンの天才パガニーニが「良いビオラ手に入れたんだけどぱっとする曲がないんだよね、書いてよ」と言ったのが始まりだとか。
ベルリオーズは依頼を承諾して曲を書いたのですがベルリオーズのオケベースの楽器の使い方はパガニーニの得意なVirtuoso=華麗なソリストとしての楽器の使い方とは大分違ったため、二人はもめた後、ベルリオーズはこの曲を交響曲として仕上げたんだとか。
(協奏曲と違ってなぜか曲が進むごとにだんだんビオラソロのパートが少なくなっていく・・・)

私はこの第2楽章が一番好きです。
巡礼の行列が静かに心を穏やかにして通り過ぎていくのと、あとハーモニーがやっぱり聖歌風(どことなくモンティ・パイソンのHoly Grailを思い出す)で夕べのあの美しく変化する空の色のようなところ、それからこの全体的なテクスチャにビオラの暖かい音色がものすごくマッチするところ。
ベルリオーズの音楽らしく(そしてベルリオーズらしく)執拗な性格が強く表れて、この延々と続く繰り返しは本当に指揮者の解釈、奏者の演奏、そして聴き手の心持ちの一つでもちょっと外れたらつまらない曲になりかねない、地味ーに難しい曲です。

それにしてもベルリオーズって宗教風の曲だったり曲の一部を書くんですが、どう転んでもうさんくさいのでそれはやめてほしいです(死んでますが、もう)。

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