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仕事にピアノに励んでいる毎日です。
クラムの音楽を改めて勉強するために楽譜をコピーして、A3のスケッチブック(というかArt diaryというものらしいです。めちゃくちゃページが多いから自分の目的には大変useful)にコピーした楽譜を切って貼って。
なんとなくイマイチ踏み切れてないのですが(失敗するのが怖い)、がっつり向き合うのが楽しみです♪
前回自分は水に惹かれる、affinityがあるというをしましたが・・・
もう一つ自分が特に近く感じるエレメントがあります。なんとなくいろいろな所から推測できると思いますが、それは「闇」です。
もしかしたらすでに似たようなエントリーを書いてるかも知れません。すみません(汗)
闇属性の曲は基本好きです。
ショスタコーヴィチやマーラーで幼少、さらに思春期を過ごしたのもありますし。
ラフマニノフに出会ってから闇の属性を弾く事、内なる闇をそっちにつぎ込む、表現することに快感を覚え・・・
それがちょうど鬱にかかった時期なので快感と共にやっぱり需要もあり。
表現に関しては闇は昔も今も自分を突き動かす動力の主なものの一つだと思います。
以前も言及しましたマイケルの受け売りですが、誰にでもあるのかもしれない内なる闇を適切な形で表現することの大切さ、というのも大きいです。
鬱になっていろいろあって、やっぱり表現する方法があるのならなるべくそっちに向けないと本当に危ない方向に向いてしまう、というのも痛いどころじゃすまないほど思い知ってますし、自分の中にそれがたまりたまってしまうとどうなるか、というのもたくさん経験しています。闇を音楽により表現する必要性をひしひしと。
なりたくてなったわけではありませんが、鬱状態(とくに重症)に数年なっているとやっぱり調子がいい状態だったり、光的なものが怖いとはいかなくともあまり・・・心地良くなく感じて。
病気の傾向としても調子が悪いと逆に安堵する、ということはよくあるようです(私も今でも、ときどき)。
だからやっぱり闇の音楽に惹かれ、心地良く感じ、どっぷりはまって自分の一部のように感じ、その独特の美をがっつり味わってきたという経緯が私にもあります。
鬱にとってその病気という自分の中にある闇は自分を辛くする、そしてついには自分を殺すかも知れない力で、それとどれだけ戦おうとも勝てる気はせず、自分よりも巨大な力。
同時に強く惹かれ、どうしようもなく自分の一部で、物凄く近しく感じる力。
でもだからこそそれを否定せず乗り越えて、自分の手の中で自由に操り、その力をコントロールできるようになりたい、という気持ちが強いんだと思います。闇が自分におよぼす力を知っているから、その同じ力を自分も使ってみたい、表現・音楽に使いたい欲が強いです。
毒と薬は紙一重、というのはこの病気を患うと痛烈に感じることですしね(汗)
闇と言ってもいろいろありますが、割と自分の中に住んでるのとは毛色が違う闇も取り入れちゃいたい傾向はあります。貪欲、というのでしょうか(笑)闇に惹かれるのは調子が大分回復した今でも一緒ですし、元気があるからこそ表現したいと冷静に思えますし、ちゃんと行動にも移せますし、欲もでるのですね。(調子が悪いと欲はあるけどまとまらない)
自分の闇と違う闇も知りたいし、理解したいし、共感したい。優しさではなく闇に惹かれていたりそういう欲があって他の人の心と触れあいたい、と思うのかも。
芸術は光だけのものじゃない、と思うんです。
音楽や絵画などでの創り手のことを思うと(私の知っている範囲でもゴッホ、ピカソ、マーラー、アポリネール、etc etc...)芸術だからこそ闇を表現できるということがあると思います。
そして芸術だからこそ受け取る(=見る、聞く)側も比較的容易にそういった闇を受け入れる・共有することができる、ということもあって。
心がけとして闇の音楽を弾きたい、心の闇をはき出して力に、形にしたい、と思った時になにか弾けるものがあるということはなんとなく安心します。
私の場合だとブラームスのト短調の狂詩曲、プロコフィエフのアルマンド、スクリャービンの練習曲op.42-5がぱっと浮かびます。好きな曲だったらレパートリーは広いに超したことはないですし、もっといろんな闇を表現、弾けるようになりたいですし、単純に闇に対して貪欲なので。もっとこの力を手にしたい。
必要だから、表現したいから・・・いろいろ理由はありますが、闇を自分の力として、さらに共有することができるように、闇の音楽の世界をしっかり歩きたいです。
今日の一曲: セルゲイ・プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番 第1楽章
ピアノで表現する闇の極み、といったらきっとこの曲でしょう。
以前「精神破壊系」として破壊的な音楽のエントリーで紹介しました。
そしてこの曲についてはシュミットホフの自殺とプロコフィエフについてのエントリーで詳しく語ってます。是非ご参照ください。
もちろんピアノ協奏曲なのでオケもその果てしない暗さそしてパワーにかなり貢献していますが・・・
この曲はプロコフィエフらしい曲です。
ひねくれていて、クールに振る舞い毒舌をふるうかとおもったらロックオンして深い闇にどっぷり沈んだり、巨大な内破を起こしたり。
協奏曲としては4つの楽章合わせて40分超と巨大ですが、この楽章のすごいところはピアノのソロがオケなしで披露するカデンツァ。楽章の後半をほとんど占める、時間にして5分近くにわたって演奏されるのですが・・・
実際5分というのはピアノ協奏曲のカデンツァとしてはそこまで長くないのかもわかりませんが(あんまりそこは詳しくないです)、長さではなく中身の巨大さ、濃さ、難しさとしてはこのカデンツァに敵うものはない、と思います!
オープニングのメインメロディーの再現から始まって(カデンツァには多いことですね)、だんだん重くなってきて、ほんとうに一人っきりの舞台の上で激しい狂気と苦しみにのたうち回り・・・ここから先の描写は諸事情により割愛しますが。
やりきれない、聴いてても苦しいなかでやっぱりどこか弾くと快感があるのがはっきりありますし。
一音一音がゲリラ豪雨の雨粒のように重く、痛く。
そしてエンディングでオケが入ってくるところがまた格好いいんだ!
この第1楽章を聴く10分強、人生の中でかなり濃い時間になること請け合いです。
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クラムの音楽を改めて勉強するために楽譜をコピーして、A3のスケッチブック(というかArt diaryというものらしいです。めちゃくちゃページが多いから自分の目的には大変useful)にコピーした楽譜を切って貼って。
なんとなくイマイチ踏み切れてないのですが(失敗するのが怖い)、がっつり向き合うのが楽しみです♪
前回自分は水に惹かれる、affinityがあるというをしましたが・・・
もう一つ自分が特に近く感じるエレメントがあります。なんとなくいろいろな所から推測できると思いますが、それは「闇」です。
もしかしたらすでに似たようなエントリーを書いてるかも知れません。すみません(汗)
闇属性の曲は基本好きです。
ショスタコーヴィチやマーラーで幼少、さらに思春期を過ごしたのもありますし。
ラフマニノフに出会ってから闇の属性を弾く事、内なる闇をそっちにつぎ込む、表現することに快感を覚え・・・
それがちょうど鬱にかかった時期なので快感と共にやっぱり需要もあり。
表現に関しては闇は昔も今も自分を突き動かす動力の主なものの一つだと思います。
以前も言及しましたマイケルの受け売りですが、誰にでもあるのかもしれない内なる闇を適切な形で表現することの大切さ、というのも大きいです。
鬱になっていろいろあって、やっぱり表現する方法があるのならなるべくそっちに向けないと本当に危ない方向に向いてしまう、というのも痛いどころじゃすまないほど思い知ってますし、自分の中にそれがたまりたまってしまうとどうなるか、というのもたくさん経験しています。闇を音楽により表現する必要性をひしひしと。
なりたくてなったわけではありませんが、鬱状態(とくに重症)に数年なっているとやっぱり調子がいい状態だったり、光的なものが怖いとはいかなくともあまり・・・心地良くなく感じて。
病気の傾向としても調子が悪いと逆に安堵する、ということはよくあるようです(私も今でも、ときどき)。
だからやっぱり闇の音楽に惹かれ、心地良く感じ、どっぷりはまって自分の一部のように感じ、その独特の美をがっつり味わってきたという経緯が私にもあります。
鬱にとってその病気という自分の中にある闇は自分を辛くする、そしてついには自分を殺すかも知れない力で、それとどれだけ戦おうとも勝てる気はせず、自分よりも巨大な力。
同時に強く惹かれ、どうしようもなく自分の一部で、物凄く近しく感じる力。
でもだからこそそれを否定せず乗り越えて、自分の手の中で自由に操り、その力をコントロールできるようになりたい、という気持ちが強いんだと思います。闇が自分におよぼす力を知っているから、その同じ力を自分も使ってみたい、表現・音楽に使いたい欲が強いです。
毒と薬は紙一重、というのはこの病気を患うと痛烈に感じることですしね(汗)
闇と言ってもいろいろありますが、割と自分の中に住んでるのとは毛色が違う闇も取り入れちゃいたい傾向はあります。貪欲、というのでしょうか(笑)闇に惹かれるのは調子が大分回復した今でも一緒ですし、元気があるからこそ表現したいと冷静に思えますし、ちゃんと行動にも移せますし、欲もでるのですね。(調子が悪いと欲はあるけどまとまらない)
自分の闇と違う闇も知りたいし、理解したいし、共感したい。優しさではなく闇に惹かれていたりそういう欲があって他の人の心と触れあいたい、と思うのかも。
芸術は光だけのものじゃない、と思うんです。
音楽や絵画などでの創り手のことを思うと(私の知っている範囲でもゴッホ、ピカソ、マーラー、アポリネール、etc etc...)芸術だからこそ闇を表現できるということがあると思います。
そして芸術だからこそ受け取る(=見る、聞く)側も比較的容易にそういった闇を受け入れる・共有することができる、ということもあって。
心がけとして闇の音楽を弾きたい、心の闇をはき出して力に、形にしたい、と思った時になにか弾けるものがあるということはなんとなく安心します。
私の場合だとブラームスのト短調の狂詩曲、プロコフィエフのアルマンド、スクリャービンの練習曲op.42-5がぱっと浮かびます。好きな曲だったらレパートリーは広いに超したことはないですし、もっといろんな闇を表現、弾けるようになりたいですし、単純に闇に対して貪欲なので。もっとこの力を手にしたい。
必要だから、表現したいから・・・いろいろ理由はありますが、闇を自分の力として、さらに共有することができるように、闇の音楽の世界をしっかり歩きたいです。
今日の一曲: セルゲイ・プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番 第1楽章
ピアノで表現する闇の極み、といったらきっとこの曲でしょう。
以前「精神破壊系」として破壊的な音楽のエントリーで紹介しました。
そしてこの曲についてはシュミットホフの自殺とプロコフィエフについてのエントリーで詳しく語ってます。是非ご参照ください。
もちろんピアノ協奏曲なのでオケもその果てしない暗さそしてパワーにかなり貢献していますが・・・
この曲はプロコフィエフらしい曲です。
ひねくれていて、クールに振る舞い毒舌をふるうかとおもったらロックオンして深い闇にどっぷり沈んだり、巨大な内破を起こしたり。
協奏曲としては4つの楽章合わせて40分超と巨大ですが、この楽章のすごいところはピアノのソロがオケなしで披露するカデンツァ。楽章の後半をほとんど占める、時間にして5分近くにわたって演奏されるのですが・・・
実際5分というのはピアノ協奏曲のカデンツァとしてはそこまで長くないのかもわかりませんが(あんまりそこは詳しくないです)、長さではなく中身の巨大さ、濃さ、難しさとしてはこのカデンツァに敵うものはない、と思います!
オープニングのメインメロディーの再現から始まって(カデンツァには多いことですね)、だんだん重くなってきて、ほんとうに一人っきりの舞台の上で激しい狂気と苦しみにのたうち回り・・・ここから先の描写は諸事情により割愛しますが。
やりきれない、聴いてても苦しいなかでやっぱりどこか弾くと快感があるのがはっきりありますし。
一音一音がゲリラ豪雨の雨粒のように重く、痛く。
そしてエンディングでオケが入ってくるところがまた格好いいんだ!
この第1楽章を聴く10分強、人生の中でかなり濃い時間になること請け合いです。