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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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雨のせいにはしたくないけど・・・
プロコフィエフとシュミットホフのエントリーに拍手ありがとうございます!
ずいぶん前になりますねーあのエントリーも(時期的に、というよりはその後に自殺関係でこのブログでカバーしてきたことを思うと)。

QLD州、特にブリスベンは洪水でひどい被害に遭っているそうです(水は引き始めているらしいですがこれから課題はいっぱい)。ブリスベンは昔家族で行ったこともありますし、私の創作でのとあるキャラクターの出身地でもあります。自然も、産業などかなり大規模なダメージらしいので、何よりも被災地の皆さんができるだけ安全にこれから過ごして、できるだけ早く(できるならば!)普通の生活に戻れることを願っています。

メルボルンは・・・夏といったら乾いて暑いのが通常なのですが、ここのところどうも高湿・雨続き。
冬の雨ほどこたえないもの若干影響を感じます。
だからということではないですがちょっとぼやきまじりのエントリーを今日は一つ。

ここ数日で親友の卒論を読みました。おおまかにいえば統合失調的な傾向とノイズの中に意味ある図形を見いだしてしまう現象・・・についてです。
親友は大学で心理学を専攻して、それと在学中からの障害者と関わるようなボランティアや仕事の延長線上にもあるといえる、精神医学関連の看護のコースを今は受けているそうです。
数年前思ったよりも自分の目指しているところと親友の目指しているところが重なってて、嬉しいやら信じられないやら。
(実は今やってる医薬関係のお仕事も父の仕事や妹の目指してるところにちょっとかすってたりするんですよね。これもびっくり。)

親友は私の病気の様々に(特に初期は)かなり深く関わっていた人物で。
私が自分が鬱にならなければメンタルヘルスの道を目指そうと思いもしなかっただろう、というの同様、親友も私のメンタルヘルスのいろいろと深く関わらなければその道を目指していたかどうかわからないという気がします。(ただあの子の場合どっちにしてもケアだったり障害者と触れあう仕事だったり、広い範囲でそっちのエリアを目指してたと思いますが)

私は彼女にほんとうに感謝しています。きっと私の家族と同じくらい、またはそれ以上に苦しんだことでしょうから。そして彼女が私との経験を受けてそれでも(またはだからこそ)その道に進んでいることを嬉しく思って、応援して、私の一歩先にいることを羨ましく思います。

で、そうやって考えてたところからちょっと道は逸れて・・・
オーストラリアにいて日本を見るとどうも「感動」という言葉を過度に聞く様な気がします。
私自身はあんまりその使われ方が好きじゃなかったりしますし、自分の気持ちをなるべくはっきり表そうと心がけてるのでなるべくその言葉はこのブログでもどこでも避けるようにしています。
まあなんというかステレオタイプとしての日本人を考えると「らしい」気はします。一つは自分個人の気持ちを認識・表現することに長けていない民族性、それからもう一つは個人の気持ちを表現するよりも他人と同じ言葉を使って他の人と同じものを感じている気分になる、という傾向。

で、この「感動」ってやつが私のブログのメインのトピックである精神関係、音楽それぞれで別々の問題をかもしだして、別々の理由でもやもやしているわけです。
今日は精神関係にフォーカス。そして以下はあくまでも私のわりとひねくれた見方です。

障害から立ち直ったり、乗り越えたりしたなどの「いい話」を読んだり聞いたりして「感動した」という場合のもやもやはまずその話が過去のことで直接知らない他人の話ということがキーかも。
つまり時間的・空間的に自分とその人の間に距離を置いて、他人事というか自分には関わりないこととして見ているような気がして。
英語でのsympathyとempathyの違い、という話にも繋がる気がします。Sympathyは他人の事としての「同情」、Empathyは人の気持ちを自分のもののように感じる「共感」にニュアンスが近いでしょうか。
使い分けることはもちろん大切ですが、他人事として「感動」する、容易なほうに傾いていて本当に人の苦しみと喜びを共感できていないんじゃないか、と思います。
(ちなみに自分自身のことで感動ということばはなかなか使いませんね)

もう一つがその「感動」が評価していることがその人の苦しみ・道のりよりも「乗り越えた」ことに重きを置いているような気がして。よかったね、乗り越えたよ、だからもう普通なんだ、正常なんだと・・・その時点で過去を置き去りにして、糧になる、そして再度来るかも知れない苦しみを切り捨てる。
まるで乗り越えて、感動してそれで終わりのように。その人の旅はまだまだ続いているのに、その未来までも切り捨てかねないその言葉。

ちなみにうつやその他の精神疾患でこの手の「いい話」が作りにくいのは理由があります。
まずどこまでが病気でどこまで回復すると「回復」となるかが曖昧。それから再発の危険が高く、そうでなくとも調子がアップダウンしながら回復らしい回復を見せずずっと続いていくケースが多いこと。
「いい話」も認識を広めるには有用なんですよね。そういう話が作れないからか、うつを初めとする精神疾患での症状や再発、人間関係などの苦しみについての実体験の話が広く知られないのかも?

心の病の苦しみはずっと続く道。終わりの見えないようなトンネルのように現れる場合もあれば、天国でも地獄でもないゆるやかな闇のなかをそれなりにずっと生きて行く場合もありますし、回復したかな?とおもっても再発のリスクが否めなかったり。
感動のラストなんてものとは(全くとはいえないのですが)なかなか無縁です。

だからこの道を目指す・進む人たちは(少なくとも自分の周りには)人を「救う」ことが目的じゃない人が多く見られます。「救う」こと、その感動のラストまで連れて行くことはきっとできないし、しようとすることがある意味おこがましいと思われる面もあるので・・・
少なくとも私、親友、それから私の精神医を突き動かすものに共通するものはどこか好奇心に近いものがあると思います。目の前の人の苦しみを理解して、共感したい。その苦しみを引き起こすものを知り、病気を知り、その人が苦しみがあってもなるべく普通に生きていけるために自分にできることをして、必要な治療を受けられるようにして。その人の苦しみを自分のものとして、その人の身になって一緒に地獄を歩いてその道を通るための助けの手をさしのべたい。
最後だんだん自分自身の思いになってきましたが(汗)

いまブログを書いてるときに親友に電話したんですが、なんと1時間もほとんどメンタルヘルスの話で盛り上がってしまいました(!)。彼女が私と一緒に苦しんでくれたから私はここにいて(苦しんでいる方にとっては他人事のsympathyほど冷たいものはなかなかないです)、私も彼女もその共感した苦しみを糧にして進んでいて。苦しみが分かる、感じるからこそ勉強したり、手をさしのべたくなる。
親友だけじゃなくて、私がうつだと公表したときに「自分も辛かった時期があって・・・」と言ってくれた人が周りにはたくさんいて。

英語では人の身になって、他人の立場からものをみることを「put yourself in one's shes」という風に表すのですが・・・決して簡単じゃないことですがもっと広がるといいな、と思っています、Empathy。


今日の一曲: ジョージ・クラム 「Songs, drones and rerains of death」よりRefrain Three~Cancion de Jinete



こないだスコアを借りてきたので読みながら聴いたらまあ驚き!
久しぶりにこんなに音楽でびっくりしました!

この曲を通じてバリトンの歌う歌詞にはロルカの詩が使われていますが、その他の「意味のない音節」がとってもパーカッション的で印象強いです。TとかKの音が多いので鋭い息の音が。

編成は実はバリトン歌手、そしてアンプ付きのエレキギター、コントラバス、ピアノ,ハープシコード、それから打楽器。これがみんな良い味出してるんですよね。そして案外どの楽器も浮かない。

Death Drone IIのコントラバスの長く続く音の不思議な音程とか、Cancion de Jineteで力強く原始的でひたすら前に進む手打ちドラムとか、そしてなんといっても超自然的な(?)エレキギターの響き、さらにはアンプで増幅されたハープシコードの音のこの世ではないような音に衝撃を受けました。Death Drone IIの不思議な4度のドローン、聴いたことがあるようでない突然のアルペジオ、そして電気ノイズみたいなクラスター和音。
斬新すぎて戸惑います(ただこの曲自体わりととっつきにくいほうではあると思います)。
でも慣れるとその奇怪さも不気味さもめちゃくちゃ快感に(笑)

ロルカの詩そのものもそうですが、クラムのこの音楽もなんだか乾いた砂と熱い風の匂いがして。
・・・ああ、メルボルンも普段の夏にならないかしら。
もっとクラムの夏を体感したいよ!

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