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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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The Muse, the Goddess, the Anima
今日のトピックはちょっと好みが分かれるかな・・・

前回のブログにちょろっと書きましたがフェデリコ・ガルシア・ロルカの詩集の2冊目が届きました!
昨日読み終えた1冊目とは違って分厚い!重い!いま量ったら1300gだそうで(汗)
でもどうも全集ではない感じです。クラムが歌詞として使った詩でこの2冊のどっちにも入ってない物も少数ありますし。
なにはともあれとりあえずポーとボードレールを先に読んでゆっくりこの分厚い本を攻略していきたいとおもいます。

いろいろぱらぱらとめくってみたり、ランダムに開いてどんな詩があるか見てみたり。
序章にもちょっとだけ目を通してみました。ちょっと目を引いたくだりがあって。
ロルカとその詩を知る人の中では知られていることらしいのですがロルカは同性愛者だったと言われていて。
まだ見つけられてない映画Little Ashesでは若き頃のロルカとダリの同性愛関係が描かれているそう。(どこまで事実なのかは不明確らしいですが)

この詩集の序章によると、思春期あたりからロルカは肉体の愛に対してためらいというか嫌悪というか、そういう気持ちを抱いていたらしく。
同時に彼の心と欲を満たせる女性はいないだろう、と自覚していたらしいです。
女性が嫌いで男性が好き、なのではなかった。彼の詩を読んでもそれは分かります。
この序章によると彼が心に抱く理想、「女性像」というのは「不可能」だったり「遠くの女性」だったり「白い光」、「美の権化」で・・・
つまり彼は現実の女性が愛せないのだと。彼が憧れるのはまるで神話のような、神格化されたともいえる女性像ということらしいです。
彼の詩の女性ってものすごく神秘的な雰囲気で、どこか非現実的な空気があって。でも本当に彼の女性観を表しています。

この本を読む前、偶然にも自分に関して似たような事を考えていました。
基本男性も女性も恋愛対象として見れる、というか男性にも女性にもそれぞれ違う魅力があって、男という生き物も女という生き物も好きですし、どちらとも付き合ってもいいな、と思います。
好きになった人が女性でも(相手のことを考えて悩むことはあっても)少なくともそれを自分の中で否定したりすることはないとはっきり言えます。
ただ実際に特定の女性を好きになったことはないんですよね。「この人は?」「この人は?」と自問して確かに魅力は感じてもなんだかなんか・・・違う気がして。
それでもやはり「女性」にもそういう見方というか感じ方はするし、なんでだろう・・・と思ってたのですが。
つまりは自分の「理想の女性」というのが例えば女性ならではの強さとしたたかさ、賢さと優しさ、少女のような無垢さとか母性とかを持ち合わせている、まるで女神のような女性なんですよね。
(これに気づいたきっかけがTVでミロのヴィーナスみてて体格的に「あれくらいがいいよなあ」と思ったことでした。そういえばこういう健康的な体型の女性って減ってるな―と。拒食症の社会文化的な面を考えて自分の好みを考えてたら上記結論にたどり着きました)

創作でも私は女性メインキャラクターをなんというか神話化?する傾向があります。
そのキャラクターを創り上げる過程での思い入れの強さは勿論、やはり自分の中の「女性」を形にしている感覚はあるのかもしれない、と今では思います。
ひっくるめてロルカの世界に惹かれるのもまたそういう共通点があるのかなーとか。

ここまでの話だけだったらまあブログに書くほどでもないな、と思ってたのですが昨日何時間かしてからもう一人同じ傾向を持つ人を思い出しました。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。有名なロシアの作曲家で同性愛者だったことも今は広く知られています。
彼もまた女性が嫌いなのではなく、実際好きだったのですが恋愛となると別の話だったそうで。
彼が女性を神格化していた、という証言は覚えてる限りないのですが(美の対象ではあった、という話は聞いています)、でも彼のバレエ作品には本当にそれが表れています。
まず女性の美と繊細さを主に表現するバレエのための音楽を多く書いた、ということ。
そして彼の三大バレエ「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」に出てくる女性の描写。
もともとバレエってどこでも女性が美しく繊細で強くて、男性はわりと甲斐性無しのキャラクターが多く。
でもチャイコフスキーが音楽を書いたバレエのヒロインってやっぱり輝きますよね。くるみ割りのクララや金平糖の精、眠れる森の美女での王女や妖精達、そしてなんといっても白鳥の湖のオデット!
バレエも音楽といっしょで振り付け・踊りをする人によって解釈が変わりますがオデットって衣装でもわかると思いますがずーっとどこでもイメージが一緒なんですよね。不変の存在。
とても繊細で儚く、神秘的で美しく。純潔の白、そして極めて精神的な存在。なんというか「究極の存在」な気がします。女性としてのみではなく。

テレビとかで「男は女に夢を持ちたい」というようなことを聞いたことがあります。
まあ異性に幻想を抱くのは男性も女性も一緒と思いますが、でも女性は意外と現実的なものの見方をするステレオタイプみたいなものがありますしね。
この男性が(男に限らず、私を含む)女性にたいして抱く幻想、理想の女性像だけでなく「女性というのはこういうもの」というイメージはフロイトに言わせると子供のころの「母親のイメージ」なんだ、ということなんでしょうかね。いわゆる「アニマ」というコンセプトで。男性の中に住んでいる「女性の存在」。必ずしも「理想」ではなく女性というものはこういうもの、というイメージ。
つまりはそういう各々の「イメージ」がその人にとって「現実」であり、イメージに一致する女性は自分の中の現実と一致して安心をもたらす。
ロルカのようにあまり神格化されたアニマ=女性像をもっていると実在している女性が「違う」と感じる。こういうことですかね。
(ちなみに今のフロイトのくだりは心の謎を探る会編「犯罪心理が面白いほど分かる本」を参考にしています。)

あまりここらへんの事情には詳しくないのですが例えば「二次元の女性」を好きになることもこれに関わってるんじゃないのかな、と思います。
先ほどの私の例をもてくると創作物の女性キャラクターっていうのは創り手のアニマの反映なので様々な程度で神格化された存在である、と。
そういう存在を理想としたりアニマとし、女性とはこういうものだというイメージを抱いてしまうと現実の世界の女性を「違う」と感じてしまう・・・・という事ですね。フロイトのコンセプトを現代に応用編。もちろん素人考えですが。

少なくとも自分にとっては面白いな、と思ったトピックなのでまとめてみました。
実際「女性も好きっていうけど実際どうして女性に恋をしたことがないのだろう?」とこないだまで迷ってたので出口が見つかって私はちょっと安心しました。安心して余裕ができたことでこう話が広がったのですが(笑)

2冊目のロルカ詩集を読むときは「女性」の存在も強く感じたいですね。共感。
そしてロルカの作品についてはまた別の機会に。


今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 「白鳥の湖」第2幕よりPas d'Action



持ってるCDにはPas d'Actionとありますが私はこの曲を「グランド・パ・ドゥ・ドゥ」だと思ってました。調べたら「グランド・アダージョ」という名も見つかります。
バレエは結構曲の順番入れ替えたりとか多いのでそういうものなのかな・・・

とにかく第2幕の一番の見せ場です。(一番有名なのは幕の最初の有名な「情景」とこのちょっと前の「小さな白鳥の踊り」ですが)
王子が白鳥狩りに出かけたところなんと白鳥が人間に変わるじゃないか!それもその一羽(一人)が来て撃たないでくださいと懇願、王子たち人間と白鳥たち(悪い魔法使いに白鳥に姿を変えられた娘達)が団らんする・・・という下りなのですが、余興のように白鳥たち、小さな白鳥たちが踊る(いわゆる浦島太郎の鯛・ヒラメですね)中、王子と先ほど懇願したリーダー白鳥オデットが恋に落ち二人でロマンチックな踊りを踊る、それがこの曲です。

本当に美しい曲です。前半には長い長いバイオリンのソロがあるのですが、なぜか後半で繰り返しとして表れる(同じメロディ-)チェロソロの方が有名な気が(正確にはバイオリンとのデュエットなんですけどね)。
まあ難易度で言ったらチェロの方が難しいですよ。でもどっちも甲乙つけがたい良いソロです~
センチメンタルでロマンチックなチャイコフスキーのいちばん良いとこ超凝縮♪

「白鳥の湖」はバレエとして2回+コンサートで抜粋1回弾いてるのですがくるみ割りやプロコフィエフのロミジュリと違ってチェロなので踊りはあんまり見てる暇はないので振り付けについてはコメントできません(汗)でもまあ王子とオデットが愛を存分ゆっくり表現し合うのって思ってみればここだけなので(第3幕はオデットほとんど出ませんし第4幕はいろいろ忙しいので)これがある意味二人の愛のクライマックスとも言えますが。

先ほどオデットは究極の存在、と言いました。
面白いのが、第3幕でオデットの存在を知らない(そしておそらく信じない)王子の父母が様々な国からお嫁さん候補を呼び寄せるのですが(こっちの今日の一曲参照)、飛び入りゲストとして悪い魔法使いが王子を惑わすためにオデットに似せた娘オディール(黒鳥)を連れてくるのです。
言うまでもなくだまされるのですが(この件に関して王子は大変馬鹿だと思います。ちなみに有名な32回転がオディールと王子のくだりにあります)・・・

オデットとオディールはトップのバレエダンサーが一人二役として演じることが多いそうです。
(第3幕でトップのダンサーがオディールを演じている間「それは私じゃないわ!」と必死に訴えにくるけど魔法使いに退けられるオデットの部分は替え玉が演じますが)
純潔で儚いオデットと悪の魅力と強さに溢れたオディール、それぞれの表現と技巧、さらに2人(2羽)の演じ分けも相当難しいものとされています。
ただこのオデットとオディールの「同じ顔をした二面性」というのが「女には複数の顔がある」的なところを反映しているようでまた面白いですね。

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