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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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5, 6, 7 of the hospital
ふと思い出した今日この頃。
そんなことをちょっと今日は話します。

10年前のちょうど今、私はメルボルンにある私立の精神病院に入院してました。これが入院初めてで(といってもそこに行く直前は総合病院なども行きましたが)
理由はそう軽々しく言うものではないので割愛させていただきますが入院期間は5週間くらいかな。
シティに歩いていけるくらい近くにあって、メジャーな公園にも近く。オフィスビルがたちならぶ中オフィスビルを改造した精神病院です。(あれ、どこの病院か明らかかも)
成人のセクションだけではなく高齢者用のセクションや母子のためのセクション(主に産後うつなどですね)、ICU(重度ケアそしてECT用にも使われます)、そしてティーンエージャーセクションもあり、私は当時そのティーンセクションにいました。(あら、年齢も明らか?)

ティーンセクションは全部で患者さんは20人くらい?思春期あたりの子供たちが個室、2人部屋で住んでいて。毎日朝はミーティングがあって、みんないっしょにご飯を食べて、そしてさまざまなプログラムがあったり空き時間があったりでまた一日の終わりにミーティング、その中で個人の精神医とのアポがあったり。
病気の種類や病状、患者さんの背景によっては家族もいっしょの精神医のセッション(ファミリーセラピー)があったり食事などについてのアドバイスなどもあるらしいです。

ナースさんたちもみんないい人ばかりで。とくに週1か2回でみんなで一緒に外出のときに引率してくれたり、プログラムを仕切ってくれたり、いろいろです。

当時病状のわりに恐ろしいほど冷静な私にとってはものすごくいい経験でした。楽しかったし、ふだんの生活じゃ出会えないような人たちに出会えたし・・・
そしてなによりも同じ病気の人と歩めて、そして家族や周りの人の理解が得られないけれど、それでもお互いそのつらさも分かり合えて・・・
メンタルヘルスでいま考えてること、目指していることの原点なんです。なんで大人はわからないんだろう、なんでこんないい子たちがここにいてこんなに辛い思いをしているんだろう、という。
みんな本当にいい子なんですよ。毎週みんなでつくったマガジンや退院のときにみんながくれた手紙を見るたびに思います。

プログラムでは何をしたかというと病気のことを習ったり、いろいろ問題解決テクニックや病気の思考のメカニズム、自分の気持ちを表現するセッションなどがあったような気がします。
たとえばエリザベス・キューブラー=ロスの理論である「悲嘆の5段階」。人が死に代表される悲しみや苦しみに面したとき否認・怒り・取引・抑うつ・容認の5段階を通るということです。苦しみを容認することの大切さとそこまでどうたどりつくかを教えるプログラムだったような気がします。

そしてもっと記憶にはっきり残っているのがエドワード・デ・ボノ博士の「6つの帽子」の話。
この構想はこのサイトが簡潔かつ詳しいですが、黄色の帽子をかぶる、といわれたらポジティブにその問題や物事をみてみる、青色の帽子だったら感情を遠ざけて理論でそれを見てみる、といったもの。
いろんな視点から物を考えたり、病的な思考にまどわされないエクササイズでこれは結構みんな楽しそうだった覚えが。

そしておそらく私が入院する前にこれもプログラムでやったんでしょうね、プログラムをやる部屋には「7つの大罪」なる患者さん手作りポスターが計7枚(1つの大罪につき1枚)飾ってありました。といってもキリスト教のそれではなく精神の病気を抱えているときに病気により陥りやすい思考の枠組みとかそういうものをまとめてありました。でも実際にプログラムでやったわけじゃないので覚えてないんですよ!かろうじて覚えてるのは「Pollyanna(極端に楽観的すぎる思考)」と「Catastrophizing (極端に悲観的な思考)」だけです。
さすがにでもティーンセクションにはもう飾ってないだろうからもうこんど精神医のアポ(私の精神医がそこで外来の患者さんも見てるんです)に聞いてみるかなーと思うほどもどかしいです。・・・

患者さんはみんな子供で、まだ未熟だけれど本当に理解力はあるし、みんな一生懸命だし。それにオーストラリアだからか分かりませんがお互いの病気に理解がものすごくあるんですよ。
お互いが辛いこともわかりあって、それ故にとってしまう行動のことも辛い思い出があるからわかりあって・・・家族の理解が少ないこともわかっていて、そしてお互いの心に干渉し過ぎないレベルもわかっていて。
だからでしょうね、どうして大人は分からないんだろう、子供の私たちがこうやって分かり合ってるのに、どうして子供たちが苦しまなくちゃいけないか・・・そう思うようになりました。
そして病気によるつらさにさらなる負担を与える周りの(人間)環境についてよく考えるようになりました。

みんな今はどうしてるんだろうなあ・・・再発率は多い疾患が多いけれど、でもみんな根はいい子だし強い子だったから病気となんとか付き合いながらでもうまく生活を送ってるといいなあ、と思います。

(成人セクションでの経験についてはまた後日。)


今日の一曲: パウル・ヒンデミット 「葬送音楽」


悲嘆の5段階とちょっと似た感じの曲です。
ヒンデミットはちょっととっつきがたい、理屈詰めのよくわからない現代音楽というイメージを抱く方もいらっしゃるかと思いますがヒンデミットを「弾く」楽器の人はそうでないことはわかってるみたいです。

そもそもこの曲は当時イギリスにいた(そのせいかドイツ人ですが結構曲想はイギリスっぽい曲が多いです、ヒンデミットは)ヒンデミットに当時の君主ジョージ5世の追悼の曲の以来が来たんです。
ヒンデミットは一晩で弦のみのオーケストラ+ビオラソロの曲を完成させて自身がソリストとして(そうです、彼はビオリストなのです!)演奏をした、という話。

短く、メロディックでイギリス独特の懐かしさみたいなものがあって・・・喪失に対するさまざまな感情をビオラと弦が表現し・・・聞く人たちをやんわり「悲嘆の5段階」の中へ手を引いてあげるみたいに。

ヒンデミットはそして本当にビオラのことを分かってます。彼はもっとビオラにとって偉大で難関なソナタをたくさん書いていますがこの葬送音楽にとってはもうビオラじゃなくちゃ、というような印象があります。
私はビオラは心臓に、心に一番近い音をしている楽器だと思ってます。だからこういう心を親密に表現しいたわるのはビオラならではです。

最後のコラールの美しさの上に歌うビオラは容認と光の入り口なのかもしれませんね。

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