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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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子どもを巡ってぐるぐると
前回のエントリーに拍手ありがとうございます!

こどもの日に向けて、とかそういうことじゃ全然ないのですが、ここ数週間暖めてぐるぐるしてて結局発展しなかった話を。ちょっと散漫となってしまったらごめんなさい。

まずこの話で参照している参考資料から:
1) メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より第4楽章「聖母のまなざし」
2) クラム 「Ancient Voices of Children」より第3楽章「¿De Dónde vienes, amor, mi niño?」 (歌詞:ロルカ「Yerma」より)
3) カリール・ジブラン 「預言者」より「子どもについて」(詩)
4) ワーグナー 「ニーベルングの指環」より「ジークフリート」(大まかにちょこちょこと)

「¿De Dónde vienes, amor, mi niño?」
「あなたはどこから来るの、愛しい我が子よ?」と訳される、このクラムの音楽に使われているロルカの劇の一節。
円のように描かれているこの曲をぐるぐると巡り、ソプラノとボーイソプラノの対話を(スペイン語は単語いくつかしか知らないのですが)聴いているとなにか感じる物があって。

もともとこの歌詞の元のYermaという劇は子供が欲しいのに産めない女性を中心とする(が引き起こす)悲劇なのですが、この部分は主人公の女性とまだ彼女に宿らない彼女の子どもとの対話なんですね。
彼女にとって子どもはとてもとても遠い存在で・・・

先ほどこの楽譜は円のように描かれていると言いましたが、その円の部分が「Dance of the Sacred Life-Cycle」(聖なる生命サイクルの踊り)と記してあって。
例えば子どもを包む(聖なるものとしての)子宮の丸さ、親から子へ、またその子へと巡っていく命のつながり、生と死の繰り返しだったり。
そのぐるぐるとした繋がりからまた色々考えがふくらみ・・・

「あなたはどこから来るの、愛しい我が子よ?」
子どもはどこから来るの、というのは色んなところで聞いたりネタにされたりしますが(笑)
「子どもはどうやって出来るの」という質問がわりと生物的な方向に向いてるのに対して「どこから来るの」というとなんとなくこう、神秘的なフレーバーを帯びるというか。
この曲のボーイソプラノのパート(そもそもどこでこの子どもは話しているんだろう、という話ですが)を聴くとまるで子どもは大自然の中に何らかの形、生命そのものとして存在しているような印象を受けます。
「自然の生命」がぎゅっと凝縮されて人の形になって生まれてくるみたいな。
(少なくとも子どもの生命力と行動はそれで納得いきますね(笑))

そしてふとなんかで繋がったのがメシアンの「聖母のまなざし」。
この曲は聖母マリアが神の子を授かった後の話で。時と共にお腹の中で大きくなっていく、自分の子どもではない、ましてやただの人間の子どもではない胎児。その子どもの存在(もしかしたらまだヨセフに言ってない?)、正体、そして未来に対する不安を表す子守歌なのです。
この子は神から授かった使命を持って、どのような人生を歩むのか。もちろん苦しみも反感も伴うし、神の思いなんてひとっつも知らされてないし・・・というようなあくまでも私の解釈ですが。

で、先ほどのクラムとこの曲がだんだん繋がってくると子どもが神の子じゃなくてもみんなそうだよな~、と。
(注:もちろん自分は子ども居ません)
子どもがどんな人生を歩むか、どんな道を進んでどんな苦難にあって、どういう風に成長して旅立って行くのか親はみんな心配で不安ですし。
神の子じゃなくても子どもは(親から生まれても)親とは別の人間で、別の道を歩んでいくもので・・・

そこまで考えがたどり着いたとき、学校の英語(国語)の授業で親子についての詩をいろいろ読んだとき先生のコレクションにあったカリール・ジブランの「預言者」から「子どもについて」という詩を思い出しました。
全文は「ジブラン 預言者 子ども」で検索すると日本語版がいくつも見つかりますが、大まかに。

ジブランがこの詩で言いたいことは、子どもは親自身ではないこと、そして親は子どもを所有しているわけではないということ。
親は子どもが羽ばたけるよう助けるのが役目であること。

(ちょっと話が逸れて、先ほどの「子どもはどこから来るの」という質問の気の利いた答えとして「未来から来るんだよ」という答えをこないだどこかで観たのですが、そう考えると親の役割というのは子どもの故郷を作ること、とも言えますね。)

で、(この時点で再びDance of the Sacred Life-Cycleが頭の中でぐるぐるしてるんですけど)ここまで来て子どもっていうのは親の手を離れるだけじゃなくて親を超えていくもんなんだな、と改めて。
親が子どもが成長する過程で不安を感じたり不条理な行動(束縛など)をとってしまうのはいつか子どもが自分の手を離れていくだけでなく、自分を超えて、もしかしたらいずれ自分に刃向かい自分を滅ぼすかもしれないかもしれないからなのかもしれない、と。
(なぜなら子どもは親の子どもではなく、未来の担い手、「未来の子ども」だから。「神の子」も同義?)

そこで思い出したのが「ニーベルングの指環」のジークフリート。
兄妹の間に生まれ、父母をどちらもかなり早くに亡くし、別の人に育てられたジークフリート。
彼は自然の中で自然に馴染んで育ち、好奇心いっぱい、本能と生命力に満ちあふれ。
そして彼は「恐れを知らない者」でもあり。
さらにジークフリートは自分では知らないながらも多大な期待と運命を(勝手に自分の子どもみたいに思ってるヴォータンにより)おわされていて、さらに神々の世界の運命も背負っている。
これは英雄としてのステレオタイプではあるのですが、同時に「子ども」を代表している像でもあるんじゃないかな、と思います。

以上、独身子どもなしの私による「子ども」を巡る神話的な考察でした。


今日の一曲: ジョージ・クラム 「Ancient Voices of Children」 第3楽章「¿De Dónde vienes, amor, mi niño?」



うーん、出し惜しみたい、でもこの曲しかない!

先ほどこの楽譜は円のように書いてある、と言いましたがちょっと捕捉。
短いフレーズ(音楽・歌詞のみ)がいくつも円のように配置してあって、そこを2周半ほどするんですが、1周目・2周目・3周目とちょっとずつ変えてあります。
で、その下にボレロのリズムを打楽器軍団が繰り返し。
これが本当に生命のリズムみたいで!

でも自分の中ではこのサイクルの中で精一杯ソプラノと対等に演じ歌うボーイソプラノ、そしてオーボエが特に格好いいと思います。
ソプラノの語りと歌にもまた生命の躍動、そして母性みたいなのものを感じて。

これは手に入るならばスコアを見ながら聴くとやはり不思議な感覚が生まれます。
歌詞のスペイン語が分からなくても(もちろんそれも訳を見つけることを強く勧めますが)この構造というものを見るだけで特別に伝わるものがあるような気がします。

なお、クラムの声楽曲全般そうですが、是非録音はJan DeGaetaniが歌っているものを。
(リンクしたやつがそうです)表現力、そしてこの曲においてはボーイソプラノの力強さも最高で。
あと大学の図書館で借りたクラムについての本にその録音当時のこと(苦労など)が書いてあったりして、とても面白いですよ。

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