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前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
今日は少し調子が上向きというか、慣れてきたというか。少しエネルギーが使える感じです。
仕事が今ちょっと静かなのが心配ですがやはりフリーランスだとこういうこともある、ということで・・・
何はともあれ明日はユースオケでトゥーランガリラ交響曲の初リハーサル。今日もじっくりCDに合わせてパート練習しました。仕事がないので(汗)朝ちょっと早めに出てシティでブランチするかな・・・
さて、昨日はレクチャーに行ってきました。いろいろ書きたいことはあるのですが、今回はレクチャーの内容について、に限ります。それ以外のことは別エントリーで。
こないだまとめられなかった前回のレクチャーとトピックが似てるな、と思ったら前回のレクチャーの人のPhDのSupervisorとして同席してた方で、実際にプレゼンされた研究が今回のレクチャーで使われてたり。
今回のレクチャーを行ったそのAssociate Professor Neil McLachlanという方、なんとBirrarung MarrにあるFederation Bellを設計した人でもあるそうです(何の事やらでごめんなさい、これがその別エントリーの内容の一つなのでまた後日・・・)
レクチャーのイントロの部分で以前ここで紹介した音楽と脳、可塑性についての2冊の本「Musicophilia」、そして「Brain that Changes Itself」について言及がありました。まだまだ研究のエリアとして発展途上だからスタンダードな本というとやっぱり限られてくるんでしょうかね。
(言及がなかった「This is your brain on music」、今度読みたいです)
音楽に関して神経可塑性のコンセプトは個人の音楽修得、そして音楽文化の発達においてもとても重要なものだ、という話もあり。
まずは音楽理論の歴史について話がありました。
私もあんまり得意なエリアじゃなくて(一応音楽科卒業で音楽やる人ですが(汗))、始めると長くなるので手短に・・・(説明も下手なので詳しくは別のところで読んでください(汗))
西洋音楽における音程の歴史はやはりピタゴラスまで遡るようで。(レクチャーで言及がありましたが、その前に中国でもピタゴラスと同じようなやり方で「音を決める」ことは行われてました。歴史の古さから需要も早かったということですね)
ピタゴラスの音程、その音の基準を決めるプロセスは幾何学的で。その当時は音楽は宗教、数学、幾何学と深い結びつきがあり。さらにそのギリシャ音楽は単旋律だったためハーモニーを考慮しない音程の決め方だったそうです。
同時に複数の音を奏でることを考慮した音の決め方は8世紀のアラビアで開発され、ヨーロッパの宗教声楽で応用され。Roughness Theoryといって複数の音を弾いた時に聞こえることのある「beating」を最小限にとどめること、そして完全五度の音程をベースにして音程を決めるシステムでした。
そして鍵盤楽器という複雑な旋律、ハーモニーなどを扱う、容易に音程を調節できない楽器が台頭したことで(Roughness theoryを元にしたシステムは弾くキーによって音程を微妙に調節しないとbeatingが生じるので)1オクターブを12等分した(12という数字は先ほど省きましたがもともとピタゴラスの理論に基づいてます)平均律のシステムを開発し、用い、標準化して今に至る・・・ということです。
ここで、前回のレクチャーでもあった「協和音」のコンセプトの歴史の話に。
耳に心地良いのが協和音、そうでないのが不協和音という簡単な話でもなく・・・
先ほどのRoughness theoryに基づいた、周波数が近い音に生じる「beating」の有無で協和音・不協和音を分ける説、そうではなく複数の音に共通する周波数すうの共鳴により分ける説、などありますが・・・
今回注目されていたのは「協和音・不協和音は聞く人がその和音を聞くことに慣れてるかそうでないか、ということで決まる」という説。
(あと協和音・不協和音はその和音がおかれる環境に左右される、という説も面白いですね)
つまりは音の認識は音の物理的特徴でなく脳の働きに頼るところが多い、ということで。
音を脳が認識する際、聴覚を司る神経の場所で認識しているのか(ただしそれにしては認識に必要とされる情報が複雑すぎる)音の周波数などを経時的に分析しているのか(ただし本能的な「戦うか逃げるか」の判断をするには必ずしも速くはない)、という説がある中で、今有力とされているのは「脳の長期記憶のなかに音の種類の情報がテンプレートとして保存してあり、それと照合することで音を認識する」という説です。
このレクチャーを行った方はそれをさらに展開して既に聞いたことのある音はテンプレート照合、聞いたことが無いと判断した場合は周波数などを分析して認識(そして保存)する、という脳内プロセスのモデルを提唱していました。
これらの協和音、そして音の認識についての説で分かることは音楽、そして音の認識は人間の音と音楽に関する経験の積み重ねにより蓄積、発展していくものだということが分かります。
そしてこのテンプレートはとても特異的、正確なものなので特定のテンプレートがよく使われるとそれに対する感度というか認識の正確さがアップしますが、使われないテンプレートは発達しない、または衰えてしまいます。
なので西洋音楽を聴いている私たちは他の文化の音楽テンプレート、例えばガムラン音楽での音程の聞きわけに関しては弱い、ということが起こり。
特定の音楽テンプレートに対して親しみが高いほど音程の認識も正確になり、和音を「不協和音」だと感じるの度合いも低くなる。
つまり耳慣れない音楽ほど不快だと感じる度合いが高い、ということになります。
音楽理論、音楽の認識に関する研究はこれまで西洋音楽を中心に回っていたのですがこのテンプレートの説により西洋音楽と他の音楽が対等に扱われるようになった、といってもいいと思います。
西洋音楽においての音楽理論でのフォーカス分野は幾何学→数学→神経心理学→神経科学と移り変わってきましたが、例えば別の文化の民族音楽を数学的に分析することは(西洋音楽と違って必ずしも数学をルーツとしていないため)非合理的ということになり。心理学、神経科学という「音側」でなく「人間側」の要素を取り込んだことで多文化に対応するようなシステムになってきてるんですね。
そしてここでもうひとつ大事なこと。
音と音楽の認識は経験の積み重ねによるもの、ということは「音楽の脳」は先天的なものでなく訓練によって身につくもの、ということになります。
特定の文化において積極的に音楽に参加することにより脳は音楽に対して発達する。(そして参加しないことは退化に繋がる)親しみが高まれば音楽に対する感度も良くなる。
そして音楽はその複雑な性質から聴覚をフルに使い、さらにその認識をサポートするために長期記憶内のテンプレートも動員し。つまり聴覚に挑戦する活動であるわけです。
音楽のテンプレートを広げ、様々な音楽を楽しめるようにするためには様々なテンプレート(西洋音楽に限らず!)に触れて、最初は不快に感じても脳が慣れるようにすることが大切、ということで。
(あとテンプレートを広げることは音程の認識の正確さを高めることにもなる、という話も出ました。手作りの、音色、音程がいろいろあるガムランを弾く奏者は西洋音楽の音楽家よりも音程認識のスコアが高かったそうです)
(あとも一つ。そんな複雑な刺激である音楽に対するexposureが多いとそれに飽きたらずさらに新しい刺激を求め、新しいテンプレートを探すようになるとか。耳が肥える、というやつでしょうか。それで複雑な現代音楽が生まれた、とも言われています)
親しみと音楽の聞こえ方に感しての話は「現代音楽を親しみが低い人に勧める」ことに関する考えに本当にhelpfulだと思いました。
そして持論の「子どもには(そして年齢問わず)ジャンル構わず色んな音楽を聴かせるべき」というのの裏付けがまた一つ増えて。
どんな音楽でも本当に「慣れ」なのでとっつきづらくとも、音の洪水に圧倒されるようでも(これが複雑な.特にオケ音楽が敬遠されやすい理由だとか)一回であきらめないで相手を知ってみることが大切だと改めて思います。
私も最初はメシアン嫌いでしたし。
メシアンを弾き始めて2回ほど、そしてクラムの音楽と向き合い始めてまた2回ほど自分の「聞こえ方」が変わった、そう感じた時期がありました。
それでテンプレートが広がったのか、いつのまにかいろんな現代音楽、民族音楽などに心を許しやすくなって、とっつきやすくなって。
かならずしもすぐできるものではないですが、その変化が起こると本当に世界が変わります。
メシアンの色彩が見えるようになった時、クラムの宇宙が感じられるようになったとき・・・その感覚は言葉ではとても言い表すことができません。
だから私はこれからも「聴いて下さい」と言い続けます。老若男女、いろんな人に向けていろんな音楽を(主に自分の守備範囲になりますが・・・)、お勧めスキルを磨き勉強しながらお勧めしていきたいとおもいます。
なんだか所々わかりにくい説明ですみません。結局大事なのは最後の1/4くらいでしたね・・・(汗)
長くなってしまったので今日の一曲は今回お休みです。
今日は少し調子が上向きというか、慣れてきたというか。少しエネルギーが使える感じです。
仕事が今ちょっと静かなのが心配ですがやはりフリーランスだとこういうこともある、ということで・・・
何はともあれ明日はユースオケでトゥーランガリラ交響曲の初リハーサル。今日もじっくりCDに合わせてパート練習しました。仕事がないので(汗)朝ちょっと早めに出てシティでブランチするかな・・・
さて、昨日はレクチャーに行ってきました。いろいろ書きたいことはあるのですが、今回はレクチャーの内容について、に限ります。それ以外のことは別エントリーで。
こないだまとめられなかった前回のレクチャーとトピックが似てるな、と思ったら前回のレクチャーの人のPhDのSupervisorとして同席してた方で、実際にプレゼンされた研究が今回のレクチャーで使われてたり。
今回のレクチャーを行ったそのAssociate Professor Neil McLachlanという方、なんとBirrarung MarrにあるFederation Bellを設計した人でもあるそうです(何の事やらでごめんなさい、これがその別エントリーの内容の一つなのでまた後日・・・)
レクチャーのイントロの部分で以前ここで紹介した音楽と脳、可塑性についての2冊の本「Musicophilia」、そして「Brain that Changes Itself」について言及がありました。まだまだ研究のエリアとして発展途上だからスタンダードな本というとやっぱり限られてくるんでしょうかね。
(言及がなかった「This is your brain on music」、今度読みたいです)
音楽に関して神経可塑性のコンセプトは個人の音楽修得、そして音楽文化の発達においてもとても重要なものだ、という話もあり。
まずは音楽理論の歴史について話がありました。
私もあんまり得意なエリアじゃなくて(一応音楽科卒業で音楽やる人ですが(汗))、始めると長くなるので手短に・・・(説明も下手なので詳しくは別のところで読んでください(汗))
西洋音楽における音程の歴史はやはりピタゴラスまで遡るようで。(レクチャーで言及がありましたが、その前に中国でもピタゴラスと同じようなやり方で「音を決める」ことは行われてました。歴史の古さから需要も早かったということですね)
ピタゴラスの音程、その音の基準を決めるプロセスは幾何学的で。その当時は音楽は宗教、数学、幾何学と深い結びつきがあり。さらにそのギリシャ音楽は単旋律だったためハーモニーを考慮しない音程の決め方だったそうです。
同時に複数の音を奏でることを考慮した音の決め方は8世紀のアラビアで開発され、ヨーロッパの宗教声楽で応用され。Roughness Theoryといって複数の音を弾いた時に聞こえることのある「beating」を最小限にとどめること、そして完全五度の音程をベースにして音程を決めるシステムでした。
そして鍵盤楽器という複雑な旋律、ハーモニーなどを扱う、容易に音程を調節できない楽器が台頭したことで(Roughness theoryを元にしたシステムは弾くキーによって音程を微妙に調節しないとbeatingが生じるので)1オクターブを12等分した(12という数字は先ほど省きましたがもともとピタゴラスの理論に基づいてます)平均律のシステムを開発し、用い、標準化して今に至る・・・ということです。
ここで、前回のレクチャーでもあった「協和音」のコンセプトの歴史の話に。
耳に心地良いのが協和音、そうでないのが不協和音という簡単な話でもなく・・・
先ほどのRoughness theoryに基づいた、周波数が近い音に生じる「beating」の有無で協和音・不協和音を分ける説、そうではなく複数の音に共通する周波数すうの共鳴により分ける説、などありますが・・・
今回注目されていたのは「協和音・不協和音は聞く人がその和音を聞くことに慣れてるかそうでないか、ということで決まる」という説。
(あと協和音・不協和音はその和音がおかれる環境に左右される、という説も面白いですね)
つまりは音の認識は音の物理的特徴でなく脳の働きに頼るところが多い、ということで。
音を脳が認識する際、聴覚を司る神経の場所で認識しているのか(ただしそれにしては認識に必要とされる情報が複雑すぎる)音の周波数などを経時的に分析しているのか(ただし本能的な「戦うか逃げるか」の判断をするには必ずしも速くはない)、という説がある中で、今有力とされているのは「脳の長期記憶のなかに音の種類の情報がテンプレートとして保存してあり、それと照合することで音を認識する」という説です。
このレクチャーを行った方はそれをさらに展開して既に聞いたことのある音はテンプレート照合、聞いたことが無いと判断した場合は周波数などを分析して認識(そして保存)する、という脳内プロセスのモデルを提唱していました。
これらの協和音、そして音の認識についての説で分かることは音楽、そして音の認識は人間の音と音楽に関する経験の積み重ねにより蓄積、発展していくものだということが分かります。
そしてこのテンプレートはとても特異的、正確なものなので特定のテンプレートがよく使われるとそれに対する感度というか認識の正確さがアップしますが、使われないテンプレートは発達しない、または衰えてしまいます。
なので西洋音楽を聴いている私たちは他の文化の音楽テンプレート、例えばガムラン音楽での音程の聞きわけに関しては弱い、ということが起こり。
特定の音楽テンプレートに対して親しみが高いほど音程の認識も正確になり、和音を「不協和音」だと感じるの度合いも低くなる。
つまり耳慣れない音楽ほど不快だと感じる度合いが高い、ということになります。
音楽理論、音楽の認識に関する研究はこれまで西洋音楽を中心に回っていたのですがこのテンプレートの説により西洋音楽と他の音楽が対等に扱われるようになった、といってもいいと思います。
西洋音楽においての音楽理論でのフォーカス分野は幾何学→数学→神経心理学→神経科学と移り変わってきましたが、例えば別の文化の民族音楽を数学的に分析することは(西洋音楽と違って必ずしも数学をルーツとしていないため)非合理的ということになり。心理学、神経科学という「音側」でなく「人間側」の要素を取り込んだことで多文化に対応するようなシステムになってきてるんですね。
そしてここでもうひとつ大事なこと。
音と音楽の認識は経験の積み重ねによるもの、ということは「音楽の脳」は先天的なものでなく訓練によって身につくもの、ということになります。
特定の文化において積極的に音楽に参加することにより脳は音楽に対して発達する。(そして参加しないことは退化に繋がる)親しみが高まれば音楽に対する感度も良くなる。
そして音楽はその複雑な性質から聴覚をフルに使い、さらにその認識をサポートするために長期記憶内のテンプレートも動員し。つまり聴覚に挑戦する活動であるわけです。
音楽のテンプレートを広げ、様々な音楽を楽しめるようにするためには様々なテンプレート(西洋音楽に限らず!)に触れて、最初は不快に感じても脳が慣れるようにすることが大切、ということで。
(あとテンプレートを広げることは音程の認識の正確さを高めることにもなる、という話も出ました。手作りの、音色、音程がいろいろあるガムランを弾く奏者は西洋音楽の音楽家よりも音程認識のスコアが高かったそうです)
(あとも一つ。そんな複雑な刺激である音楽に対するexposureが多いとそれに飽きたらずさらに新しい刺激を求め、新しいテンプレートを探すようになるとか。耳が肥える、というやつでしょうか。それで複雑な現代音楽が生まれた、とも言われています)
親しみと音楽の聞こえ方に感しての話は「現代音楽を親しみが低い人に勧める」ことに関する考えに本当にhelpfulだと思いました。
そして持論の「子どもには(そして年齢問わず)ジャンル構わず色んな音楽を聴かせるべき」というのの裏付けがまた一つ増えて。
どんな音楽でも本当に「慣れ」なのでとっつきづらくとも、音の洪水に圧倒されるようでも(これが複雑な.特にオケ音楽が敬遠されやすい理由だとか)一回であきらめないで相手を知ってみることが大切だと改めて思います。
私も最初はメシアン嫌いでしたし。
メシアンを弾き始めて2回ほど、そしてクラムの音楽と向き合い始めてまた2回ほど自分の「聞こえ方」が変わった、そう感じた時期がありました。
それでテンプレートが広がったのか、いつのまにかいろんな現代音楽、民族音楽などに心を許しやすくなって、とっつきやすくなって。
かならずしもすぐできるものではないですが、その変化が起こると本当に世界が変わります。
メシアンの色彩が見えるようになった時、クラムの宇宙が感じられるようになったとき・・・その感覚は言葉ではとても言い表すことができません。
だから私はこれからも「聴いて下さい」と言い続けます。老若男女、いろんな人に向けていろんな音楽を(主に自分の守備範囲になりますが・・・)、お勧めスキルを磨き勉強しながらお勧めしていきたいとおもいます。
なんだか所々わかりにくい説明ですみません。結局大事なのは最後の1/4くらいでしたね・・・(汗)
長くなってしまったので今日の一曲は今回お休みです。
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