×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
このブログで書きたいトピックをメモ帳に書き留めてるんですが、時間が経つとどうも勢いがなくなる感じで、そんんなこんなでなんとなーく枯渇してしまい。(後で書きたくなるかもしれないので消しませんが・・・)
で、新しく考えて追加したらなんか「AL」で始まるトピックが3つそろったので書いてみようかな、と思い・・・
メンタルヘルス関連も久しぶりなので今日はこのトピックでいきたいと思います。
アレキシサイミア=Alexithymia。
日本語では失感情症というのですが、ちょっとミスリードですねこの訳は。
感情(の起伏)を失うということではなく、感情の認識・表現が難しくなるorできなくなることをさす言葉です。
(ギリシャ語でA=非、lexi=言葉、thymia=感情なのでAlexithymiaという言葉はわりと正確ですね)
1970年代、とかなり最近(医学的にはそんなに最近ということじゃないかな)提唱されたコンセプトというか現象で・・・
アレキシサイミア自体は病気とはみなされていません。
精神医学において病気とそうでないものの線引きって大分曖昧で議論の的なのですが・・・
アレキシサイミア自体は例えば(もちろん人にもよるでしょうが)日常生活に支障がでる、とか大きな苦痛を伴う、とかそういうことではないので・・・
ただアレキシサイミアの性質を持っているということは他の精神疾患の発見を遅らせたり(感情症状があっても自覚しにくい、などで)精神疾患の治療に支障がでたり(精神医やカウンセラーなどに自分の状態を伝えられないなど)、などという問題は起こる可能性があります。
そしてアレキシサイミアは心身症とも関連しているといわれています。
心身症は精神的な問題が心でなく身体の不調として現れることをさすのですが、アレキシサイミアで感情を認知、表現しづらいことから身体的な症状として表れる、ということらしく。
先ほどAlexithymiaのLexiの部分は「言葉」を指すと書きましたが、感情の表現、つまりアレキシサイミアで影響を受けるのは言葉による感情表現だけではありません。
私も大学卒業したころ(ECT受けに入院して退院してしばらくしたあと)しばらくアレキシサイミアと思われる状態になったことがあります。(自分もドクターも把握しづらい状態なんで推測なんですがね)
そのころは創作文もわりとゆっくりになったり、ピアノからもしばらく離れていた時期でもあり。
当時仕事もなかったですし、社会的にもあまり活動的でもなかったためあんまりこれといって思い出になるようなことをしてないのもありますが、記憶って感情と強く結びついてるんで後から振り返ってみてもアレキシサイミア(らしい状態)の時期って覚えてること本当に少ないです。
同じ時期「解離」(dissociation)みたいな、自分が自分と離れているような状態だったのもアレキシサイミアに関係してるのかな。この頃調子が悪くてせめて大学はちゃんと終わらせてリサイタルやって入院もちゃんとして・・・と意気込んで各分野で無理を通したので所謂「燃え尽き」状態になってたのがこの一連のぼんやりとした不調に繋がったのではないか、と思われます。
アレキシサイミアが一般的には日常生活に支障をきたさない、と先ほど書きましたが表現関連の仕事していると支障が出るというか、わりとしんどいのではないか、と思います。(それを本人がしんどいと感じることができるのかは別の話ですが)
実際例えば芸術畑の人とかがアレキシサイミア(そして心身症)になったケースについての研究とか報告とかされてるのかな、とものすごく気になりますね。アレキシサイミアの影響が客観的に目に見える可能性が高くなりますし、あと脳科学的にも感情や芸術表現・アレキシサイミア両面においてのメカニズムを解明するヒントになるんじゃないかと思います。
不思議な現象なんですよね、アレキシサイミアって。
本人は自覚できないけどなんだか普通じゃないことはわかる。でもそれが何なのかを伝えることはできない。
そして治療を行う側も(自覚症状の報告が乏しいことから)その状態を把握する事はとても難しく、できることは本当に少なく。
周りの人から見れば問題はないようにもとれますし、その状態にある人自身も問題はあるようなないような曖昧な感じで。苦痛を伴うわけでもなく、生活が難しくなるわけでもなく。
だから実質的には「無い」ようなとっても曖昧で実体のない現象なんだけど確かに異常として「存在している」わけで・・・
説明が難しいですが、精神を医学的に扱うことの難しさの一つの象徴だと思います。
「感情」というものについても改めて考えさせられますね。
感情はまずそれを引き起こす「きっかけ」があって、それに対する反応としての感情を「感じて」、そしてその感じた感情を「認識」して、そしてそれを例えば顔の表情だったり、言葉だったり、音楽だったり行動だったりで「表現」する、というプロセスをたどるもので・・・
この最後の「認識」と「表現」に問題があって機能しないこと(=アレキシサイミア)で感情自体が「存在しない」ことになってしまうんですよね。
でも実際その「きっかけ」に対する反応は存在して、その結果としての感情も存在するんですよ。それが適切に認識されない、表現されないことで別の方向(=身体)に回ってくる、というメカニズムも存在していて。
心と身体の繋がりに関してアレキシサイミアがどういうことを教えてくれるのか・・・
ついでに音楽とか芸術がアレキシサイミアにおける認識・表現になにかできることがないか、というのも興味深いですね。なんらかないものか、と。(例えば根拠無いですが無意識で選んだ曲とか絵でその人自身が認識・表現できなくて困ってる感情のヒント探しにつながらないか、とか・・・)
まるで霧を掴むようなことではありますが、でも本当に興味深いと思っています。
心や精神は分からない状態でも神秘ですが、メカニズムが分かるともっと神秘を感じる気がしますね。
心、精神、感情、そして身体・・・全てやっぱり面白いです。今日書いてあらためてもっと勉強したいと思いました。
(でも当分忙しいですのでいつになることやら・・・)
今日の一曲: Simon & Garfunkel 「Benedictus」
クラシックでもイギリステノールが好きで、器楽でもイギリス音楽って好きで。
透明感がある楽器使いや声の音色、ノスタルジックながらオーバーに感情的じゃない性質が心地良く、色んな状態で素直に美しいと思えます。
そしてそれはクラシックに限らず、それ以外のジャンル(ロック、ポップ、フォークなど・・・)でもイギリス系を好む傾向にあります。
ビートルズほどではないのですが、Simon & Garfunkelも小さい頃から両親が聴いたりで親しんできた・・・のですが、実は真面目に聞くようになったのはここ1年ほどかな。
好きな歌や切なさにちょっと涙しそうな歌、いろいろたくさんありますが今回は一番「美しい!」と思ったBenedictusをチョイス。
二人の声の美しさとその絶妙なハーモニー、バランスに加えてギターの分散和音、そしてなにげに後ろでしっかり優しく支えてるコントラバスの音色が全て!ツボなんです!
Benedictusの歌詞はもともとキリスト教(カトリック)のミサの賛歌ですが、なんというか宗教画の聖母マリアの表情ににているような穏やかさがあって。そういうところも好きです。
本当にシンプルで、余計なものなんにもなくて、ただただ爽やかで透明で。
全部そぎ落とした大切なものを探しているとき、心がちょっと殺伐としているときとか自分で何を求めているのかわからないときにぴたっと隙間に入るような歌です。
で、新しく考えて追加したらなんか「AL」で始まるトピックが3つそろったので書いてみようかな、と思い・・・
メンタルヘルス関連も久しぶりなので今日はこのトピックでいきたいと思います。
アレキシサイミア=Alexithymia。
日本語では失感情症というのですが、ちょっとミスリードですねこの訳は。
感情(の起伏)を失うということではなく、感情の認識・表現が難しくなるorできなくなることをさす言葉です。
(ギリシャ語でA=非、lexi=言葉、thymia=感情なのでAlexithymiaという言葉はわりと正確ですね)
1970年代、とかなり最近(医学的にはそんなに最近ということじゃないかな)提唱されたコンセプトというか現象で・・・
アレキシサイミア自体は病気とはみなされていません。
精神医学において病気とそうでないものの線引きって大分曖昧で議論の的なのですが・・・
アレキシサイミア自体は例えば(もちろん人にもよるでしょうが)日常生活に支障がでる、とか大きな苦痛を伴う、とかそういうことではないので・・・
ただアレキシサイミアの性質を持っているということは他の精神疾患の発見を遅らせたり(感情症状があっても自覚しにくい、などで)精神疾患の治療に支障がでたり(精神医やカウンセラーなどに自分の状態を伝えられないなど)、などという問題は起こる可能性があります。
そしてアレキシサイミアは心身症とも関連しているといわれています。
心身症は精神的な問題が心でなく身体の不調として現れることをさすのですが、アレキシサイミアで感情を認知、表現しづらいことから身体的な症状として表れる、ということらしく。
先ほどAlexithymiaのLexiの部分は「言葉」を指すと書きましたが、感情の表現、つまりアレキシサイミアで影響を受けるのは言葉による感情表現だけではありません。
私も大学卒業したころ(ECT受けに入院して退院してしばらくしたあと)しばらくアレキシサイミアと思われる状態になったことがあります。(自分もドクターも把握しづらい状態なんで推測なんですがね)
そのころは創作文もわりとゆっくりになったり、ピアノからもしばらく離れていた時期でもあり。
当時仕事もなかったですし、社会的にもあまり活動的でもなかったためあんまりこれといって思い出になるようなことをしてないのもありますが、記憶って感情と強く結びついてるんで後から振り返ってみてもアレキシサイミア(らしい状態)の時期って覚えてること本当に少ないです。
同じ時期「解離」(dissociation)みたいな、自分が自分と離れているような状態だったのもアレキシサイミアに関係してるのかな。この頃調子が悪くてせめて大学はちゃんと終わらせてリサイタルやって入院もちゃんとして・・・と意気込んで各分野で無理を通したので所謂「燃え尽き」状態になってたのがこの一連のぼんやりとした不調に繋がったのではないか、と思われます。
アレキシサイミアが一般的には日常生活に支障をきたさない、と先ほど書きましたが表現関連の仕事していると支障が出るというか、わりとしんどいのではないか、と思います。(それを本人がしんどいと感じることができるのかは別の話ですが)
実際例えば芸術畑の人とかがアレキシサイミア(そして心身症)になったケースについての研究とか報告とかされてるのかな、とものすごく気になりますね。アレキシサイミアの影響が客観的に目に見える可能性が高くなりますし、あと脳科学的にも感情や芸術表現・アレキシサイミア両面においてのメカニズムを解明するヒントになるんじゃないかと思います。
不思議な現象なんですよね、アレキシサイミアって。
本人は自覚できないけどなんだか普通じゃないことはわかる。でもそれが何なのかを伝えることはできない。
そして治療を行う側も(自覚症状の報告が乏しいことから)その状態を把握する事はとても難しく、できることは本当に少なく。
周りの人から見れば問題はないようにもとれますし、その状態にある人自身も問題はあるようなないような曖昧な感じで。苦痛を伴うわけでもなく、生活が難しくなるわけでもなく。
だから実質的には「無い」ようなとっても曖昧で実体のない現象なんだけど確かに異常として「存在している」わけで・・・
説明が難しいですが、精神を医学的に扱うことの難しさの一つの象徴だと思います。
「感情」というものについても改めて考えさせられますね。
感情はまずそれを引き起こす「きっかけ」があって、それに対する反応としての感情を「感じて」、そしてその感じた感情を「認識」して、そしてそれを例えば顔の表情だったり、言葉だったり、音楽だったり行動だったりで「表現」する、というプロセスをたどるもので・・・
この最後の「認識」と「表現」に問題があって機能しないこと(=アレキシサイミア)で感情自体が「存在しない」ことになってしまうんですよね。
でも実際その「きっかけ」に対する反応は存在して、その結果としての感情も存在するんですよ。それが適切に認識されない、表現されないことで別の方向(=身体)に回ってくる、というメカニズムも存在していて。
心と身体の繋がりに関してアレキシサイミアがどういうことを教えてくれるのか・・・
ついでに音楽とか芸術がアレキシサイミアにおける認識・表現になにかできることがないか、というのも興味深いですね。なんらかないものか、と。(例えば根拠無いですが無意識で選んだ曲とか絵でその人自身が認識・表現できなくて困ってる感情のヒント探しにつながらないか、とか・・・)
まるで霧を掴むようなことではありますが、でも本当に興味深いと思っています。
心や精神は分からない状態でも神秘ですが、メカニズムが分かるともっと神秘を感じる気がしますね。
心、精神、感情、そして身体・・・全てやっぱり面白いです。今日書いてあらためてもっと勉強したいと思いました。
(でも当分忙しいですのでいつになることやら・・・)
今日の一曲: Simon & Garfunkel 「Benedictus」
クラシックでもイギリステノールが好きで、器楽でもイギリス音楽って好きで。
透明感がある楽器使いや声の音色、ノスタルジックながらオーバーに感情的じゃない性質が心地良く、色んな状態で素直に美しいと思えます。
そしてそれはクラシックに限らず、それ以外のジャンル(ロック、ポップ、フォークなど・・・)でもイギリス系を好む傾向にあります。
ビートルズほどではないのですが、Simon & Garfunkelも小さい頃から両親が聴いたりで親しんできた・・・のですが、実は真面目に聞くようになったのはここ1年ほどかな。
好きな歌や切なさにちょっと涙しそうな歌、いろいろたくさんありますが今回は一番「美しい!」と思ったBenedictusをチョイス。
二人の声の美しさとその絶妙なハーモニー、バランスに加えてギターの分散和音、そしてなにげに後ろでしっかり優しく支えてるコントラバスの音色が全て!ツボなんです!
Benedictusの歌詞はもともとキリスト教(カトリック)のミサの賛歌ですが、なんというか宗教画の聖母マリアの表情ににているような穏やかさがあって。そういうところも好きです。
本当にシンプルで、余計なものなんにもなくて、ただただ爽やかで透明で。
全部そぎ落とした大切なものを探しているとき、心がちょっと殺伐としているときとか自分で何を求めているのかわからないときにぴたっと隙間に入るような歌です。
PR