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前回のエントリーに拍手ありがとうございます~
別所でお返事済みなのですが件のリズムなどいろいろリズムを文字で表したクイズ形式エントリーをこんどまとめてみたいですね。いつか。
まだまだ8月なんで当たり前なのですが調子悪いです。(こないだの暖かさでぬか喜び・・・)
珍しく?純粋に、それこそ教科書のお手本例みたいな鬱です。
珍しいかも、というのは一口に鬱状態といっても不安症状が入ったり、軽躁が入ったり、いろんな人のいろんなときにいろんな影響があるものなので・・・こんな典型例は冷静に見て久しぶりだな、と思います。
一応そうやって冷静に見ることができますし、今日も(仕事はなかったので)ピアノの練習だけはしましたし。
鬱やそのほかの精神的な病気・不調はいろんな形で日常生活に影響を及ぼします。
それはもちろん音楽活動も例外ではありません。
芸術家は少し精神を病んでたほうがクリエイティブになる、と思われがちですが適切に自分の病状をコントロールしないと病気に飲み込まれて破滅します。
創造的な側面を殺さず、ちゃんと人間としての自分の生活を毎日送れるようになんとかしなくちゃいけない。
特に病気に飲み込まれて創造的な活動ができなくなるのが一番怖いです。
たとえば今日はかなり調子悪いな、起き上がるのもおっくうだな、と一日過ごして練習しないと練習しなかったことで自分を責める。そうやって次の日も調子が悪いまま昨日もピアノできなかったから今日もできないな、となってどんどん間が開いていく。そうやっていつしか「もうこんなに弾いてないなら復帰は無理だ」と思うようになってしまう。
自分の状態をちゃんと判断できない認知のゆがみももちろんかかわってきます。そして鬱だと「以前楽しかったことが楽しめなくなる」症状も創造活動には大きく影響します。(自分にとっては書き物が今そうなのかもしれない・・・)
起き上がってピアノを弾くことが楽しみでも楽しくもなくただただ苦痛になり、ネガティブスパイラルの中でだんだん諦めてしまい、生きがいを失ってしまう・・・というのは珍しくもなんともないことです。
普段音楽をやってる人にとって練習・演奏など「奏でる」行為、またそれで自分を音楽的に(&他にも)高める行為は楽しく、fulfillingで、でも同時に大変なものでもあります。
心をこめて弾くのは練習であれ演奏であれ大変な量の身体的・精神的(感情・頭脳)エネルギーを使います。
精神的に調子が悪い、というときは疲労など体力に影響がでたり、集中力や記憶力など認知方面に影響がでたり、また感情を感じること、表現することに影響がでたりします。
だから調子が悪いときは上記のようなことを防ぐためにもなるべく練習は続けたほうがいい、でも普段の練習と同じ練習じゃいけない、無理すると逆に音楽・精神ともに悪影響が出る・・・ということをここの数年で学んできました。
今日はそんな自分の経験+今日改めて自分で練習してて思ったことを交えて音楽のため、自分の精神的健康のためになる練習についてちょっと書いてみたいと思います。
(ピアノだけでなく、いろんな形で音楽をやる人に向けて書いています。そしてもちろんこれが絶対、というわけではなく自分もまだ(こんな状態ですから)観察できてないこと、認識が間違ってるところいろいろあると思いますが病気と音楽を抱える限り勉強していこうと思ってます。)
1) あまり細かいところに固執しない
このことには2つの側面があります。ひとつは弾く側への影響。脳・体とともに調子が悪いとうまく機能しなくなる面もあるので、たとえばピアノだったらミスタッチも多くなります。そしてもうひとつはそういう状態に頭と心があるとどうしてもネガティブなものに注意がいってしまう、ということ。
こういうときに弾き手をいらいらさせるようなミスは大抵調子が上向きになると自然と解決するものだったりします。もしそうじゃなくてもそれらを解決するのにはできるだけ調子が上向きになるのを待ったほうがいい、ということです。
普段の練習でもそうですが練習の効率・体力・精神力・自己評価のためにも「繰り返し現れる問題」と「突然表れて突然消える問題」を見極めるのは大切だと思います。
2) とにかくトライしてみる
「今日は練習できない」と思ってもまずはピアノの前に座って一度弾いてみること。(できるなら「今日一日だけ休む」も使わないほうがいいですが、その場合は思考が悲観的なのを利用して「次の日どんなに調子が悪くても練習だからな!」と釘を刺すと「明日良くなる気がしないから今日やっとこう」と思えます。)
普段何時間練習しているかにもかかわらず、どんなに短くてもいいから、どんなに間に休憩を挟んでもいいから、通すだけでもいいからとにかくできるだけ練習することは大事だと思います。
そしてそうやってトライした結果1時間、30分とかしかできなくても普段と比べて自分を責めないこと。
休憩は普段以上に必要になる、と断言します(体力的にも、集中力を考慮しても)。
一日練習しないだけでやっぱり変化って出てきますものね。だから逆に少しでも(最悪通すだけでも)やっとくとその変化を抑えられる。
3) ゆっくり練習
音が細かい楽器(ピアノ、バイオリンなど)には特にこれは大事だと思います。
たとえば鬱状態にあると通常は自分で気づかなくとも思考自体が遅くなっていて、それが「音楽に追いつかない」という形で練習の困難として現れることがよくあります。
そして不安状態の場合、(人前で演奏するときになるように)自分で気づかなくても普段より速く弾いている、ということが多々あります。
もちろん普段もゆっくりの練習は大事ですがパニクらないためにも、頭と心両方でしっかり音を感じるためにも、そして体力の減少も考慮しても調子が悪いときはなるべくゆっくり練習に切り替えちゃったほうが楽ですし有意義ではないかと思います。
4) もしも弾いてて途中でぼーっとしたり集中してなくて後で「あ、あそこちゃんと弾けてたっけ」と心配になった場合は心配しなくていいと思います。通り過ぎたということはおそらく弾けてたのでは、というのがひとつ。そして「間違い」(特に強弱とか、音楽的なことで)を意識せず通り過ぎてしまった場合それはすでに癖になってるため今それを探し出して直そうとするよりはより集中力が高まってるときにちゃんと注意しておいたほうが良いのでは、と思います。どのみち躍起になって不安になるのはこういう精神状態において害だと思うので。
5) もしも精神的に不調なときに音楽的なこと、つまり表現だったり音楽の解釈について悩んでしまったらあんまり悩まないほうがいいと思います。先ほど書きましたがうつ状態であれば感情の表現自体に問題が表れますし、判断をつけるのが難しい(ながらも普段に増して白黒つけたくなる)精神状態にあると思うので。
精神を病んでいる状態だからこそ思いつく表現や解釈などもたくさんあります。が、それらはそういう状態において自然に湧き出てくるものであって、わざと探そうとすると優柔不断、不安、感情に飲み込まれるなどの「症状の影響」に絡まってしまうので・・・
最後に。
できるだけ練習してみてどんなに短い間しか練習できなくとも、どんなに弾けないように感じようとも、以前より進まない、むしろ下手になったように感じようとも自分を責めないこと。
自分を責めると自分はできない、という気持ちから弾ける気持ちにならなくなり、弾きたくなくなり、生きがいがなくなるという最初のほうで書いたような悪循環に陥る可能性があります。これはその状態の自分にとって無理な練習を強いたときも同じです。
自分が見えなくとも(認知のゆがみで!)その日練習をしたことにより自分の演奏に何かが生まれているのかもしれないし、それに今日練習したことは明日への自信につながります。
弾くことを苦痛に感じるかもしれませんが、それは病気の症状がそうさせていることで、(適切な治療を受けていれば)良くなったときにまた弾くことを楽しめるように、なるべく弾きつづけることが大事です。
(少し状態が持ち直したときはちょっとしたことで再発の危険があるため、そういうステージで「あ、ピアノが弾けなくなってる」という状態になったら再発のリスクになりうると私は思います)
昨日のエントリーに書きましたトイレの落書きで若い人、しかも芸術畑の若い人(VCAですので必然的に)で鬱をわずらっている人が結構いる、ということを改めて実感して。
やっぱりそういう人たちのことは他人事とは思えなくて・・・
私も(適度に)がんばらなきゃ、ですが他にどこかで苦しんでいる若い芸術家たちに心のなかで応援の思いを送ります。
今日の一曲: ヨハン・セバスチャン・バッハ 「Komm, Suesser Tod(来たれ、甘き死よ)」 ビオラ+オルガン版
バッハはカンタータだったり単独だったり、さまざまなコラールを残しています。環境としてはおそらく教会で礼拝のときに合唱やそのほかの人々がオルガン伴奏で歌うもの・・・だったんでしょうね。
そういったコラールが今では器楽のみにアレンジされたりすることも多いです。ピアノ・オルガンの独奏だったり、メロディーを他の楽器が担当したり。アンコールなどでも使われますね(一番有名な、そしてさまざまなアレンジがされた例が「主よ人の望みの喜びよ」でしょうか)。
そんななかビオラとオルガンのために編曲されたこの曲。私がこの曲を知ったのはとあるビオラ友達(私が知ってる唯一バイオリンから入らなかったビオリスト)が貸してくれたウィリアム・プリムローズというビオリストのCDからで。
プリムローズは(その人の話によると)もともとバイオリニストだったのですが現代における独奏ビオリストの先駆者とも言える人だそうです。(むかーしだとベルリオーズの「イタリアのハロルド」の話で聞くようにパガニーニがソロとして弾いてたのもありますが・・・)
で、この曲なんですがそのプリムローズのCD以外で見つかってないんですよ。私が探した限りでは。
だからおそらく?プリムローズが編曲して小品として弾いたのではないか・・・と踏んでいます。
それにしてもビオラで聴くといいですよ、この曲。ビオラというのは音に暗さを帯びた深み、暖かさがあるのが特徴ですがプリムローズの音もこの曲もその魅力を存分に引き出していて。
そして先ほど書きましたように「コラール」のメロディーで、ごく普通の人も歌うようなメロディーなため技巧のいろいろとか、まったく飾らないままなのがまた良いです。
そのうち個別にエントリーにまとめたいな、と思ってるんのですがビオラは「死」と関係が深い楽器だと思います。題材だったり、作曲家の晩年にフィーチャーされることが多かったり。
詳しい話はそのときまでとっておきますが。
そういうところも含めて、この曲は独特の雰囲気・風景・宗教観(というのもまたちょっと正確でない気もしますが)があって本当に好きです。(ついでながら録音の古さもまた味があるというかいとしいですね~)
ビオラっていいな、と思えます。(プリムローズがしてきたことまさにそれですがね!)
別所でお返事済みなのですが件のリズムなどいろいろリズムを文字で表したクイズ形式エントリーをこんどまとめてみたいですね。いつか。
まだまだ8月なんで当たり前なのですが調子悪いです。(こないだの暖かさでぬか喜び・・・)
珍しく?純粋に、それこそ教科書のお手本例みたいな鬱です。
珍しいかも、というのは一口に鬱状態といっても不安症状が入ったり、軽躁が入ったり、いろんな人のいろんなときにいろんな影響があるものなので・・・こんな典型例は冷静に見て久しぶりだな、と思います。
一応そうやって冷静に見ることができますし、今日も(仕事はなかったので)ピアノの練習だけはしましたし。
鬱やそのほかの精神的な病気・不調はいろんな形で日常生活に影響を及ぼします。
それはもちろん音楽活動も例外ではありません。
芸術家は少し精神を病んでたほうがクリエイティブになる、と思われがちですが適切に自分の病状をコントロールしないと病気に飲み込まれて破滅します。
創造的な側面を殺さず、ちゃんと人間としての自分の生活を毎日送れるようになんとかしなくちゃいけない。
特に病気に飲み込まれて創造的な活動ができなくなるのが一番怖いです。
たとえば今日はかなり調子悪いな、起き上がるのもおっくうだな、と一日過ごして練習しないと練習しなかったことで自分を責める。そうやって次の日も調子が悪いまま昨日もピアノできなかったから今日もできないな、となってどんどん間が開いていく。そうやっていつしか「もうこんなに弾いてないなら復帰は無理だ」と思うようになってしまう。
自分の状態をちゃんと判断できない認知のゆがみももちろんかかわってきます。そして鬱だと「以前楽しかったことが楽しめなくなる」症状も創造活動には大きく影響します。(自分にとっては書き物が今そうなのかもしれない・・・)
起き上がってピアノを弾くことが楽しみでも楽しくもなくただただ苦痛になり、ネガティブスパイラルの中でだんだん諦めてしまい、生きがいを失ってしまう・・・というのは珍しくもなんともないことです。
普段音楽をやってる人にとって練習・演奏など「奏でる」行為、またそれで自分を音楽的に(&他にも)高める行為は楽しく、fulfillingで、でも同時に大変なものでもあります。
心をこめて弾くのは練習であれ演奏であれ大変な量の身体的・精神的(感情・頭脳)エネルギーを使います。
精神的に調子が悪い、というときは疲労など体力に影響がでたり、集中力や記憶力など認知方面に影響がでたり、また感情を感じること、表現することに影響がでたりします。
だから調子が悪いときは上記のようなことを防ぐためにもなるべく練習は続けたほうがいい、でも普段の練習と同じ練習じゃいけない、無理すると逆に音楽・精神ともに悪影響が出る・・・ということをここの数年で学んできました。
今日はそんな自分の経験+今日改めて自分で練習してて思ったことを交えて音楽のため、自分の精神的健康のためになる練習についてちょっと書いてみたいと思います。
(ピアノだけでなく、いろんな形で音楽をやる人に向けて書いています。そしてもちろんこれが絶対、というわけではなく自分もまだ(こんな状態ですから)観察できてないこと、認識が間違ってるところいろいろあると思いますが病気と音楽を抱える限り勉強していこうと思ってます。)
1) あまり細かいところに固執しない
このことには2つの側面があります。ひとつは弾く側への影響。脳・体とともに調子が悪いとうまく機能しなくなる面もあるので、たとえばピアノだったらミスタッチも多くなります。そしてもうひとつはそういう状態に頭と心があるとどうしてもネガティブなものに注意がいってしまう、ということ。
こういうときに弾き手をいらいらさせるようなミスは大抵調子が上向きになると自然と解決するものだったりします。もしそうじゃなくてもそれらを解決するのにはできるだけ調子が上向きになるのを待ったほうがいい、ということです。
普段の練習でもそうですが練習の効率・体力・精神力・自己評価のためにも「繰り返し現れる問題」と「突然表れて突然消える問題」を見極めるのは大切だと思います。
2) とにかくトライしてみる
「今日は練習できない」と思ってもまずはピアノの前に座って一度弾いてみること。(できるなら「今日一日だけ休む」も使わないほうがいいですが、その場合は思考が悲観的なのを利用して「次の日どんなに調子が悪くても練習だからな!」と釘を刺すと「明日良くなる気がしないから今日やっとこう」と思えます。)
普段何時間練習しているかにもかかわらず、どんなに短くてもいいから、どんなに間に休憩を挟んでもいいから、通すだけでもいいからとにかくできるだけ練習することは大事だと思います。
そしてそうやってトライした結果1時間、30分とかしかできなくても普段と比べて自分を責めないこと。
休憩は普段以上に必要になる、と断言します(体力的にも、集中力を考慮しても)。
一日練習しないだけでやっぱり変化って出てきますものね。だから逆に少しでも(最悪通すだけでも)やっとくとその変化を抑えられる。
3) ゆっくり練習
音が細かい楽器(ピアノ、バイオリンなど)には特にこれは大事だと思います。
たとえば鬱状態にあると通常は自分で気づかなくとも思考自体が遅くなっていて、それが「音楽に追いつかない」という形で練習の困難として現れることがよくあります。
そして不安状態の場合、(人前で演奏するときになるように)自分で気づかなくても普段より速く弾いている、ということが多々あります。
もちろん普段もゆっくりの練習は大事ですがパニクらないためにも、頭と心両方でしっかり音を感じるためにも、そして体力の減少も考慮しても調子が悪いときはなるべくゆっくり練習に切り替えちゃったほうが楽ですし有意義ではないかと思います。
4) もしも弾いてて途中でぼーっとしたり集中してなくて後で「あ、あそこちゃんと弾けてたっけ」と心配になった場合は心配しなくていいと思います。通り過ぎたということはおそらく弾けてたのでは、というのがひとつ。そして「間違い」(特に強弱とか、音楽的なことで)を意識せず通り過ぎてしまった場合それはすでに癖になってるため今それを探し出して直そうとするよりはより集中力が高まってるときにちゃんと注意しておいたほうが良いのでは、と思います。どのみち躍起になって不安になるのはこういう精神状態において害だと思うので。
5) もしも精神的に不調なときに音楽的なこと、つまり表現だったり音楽の解釈について悩んでしまったらあんまり悩まないほうがいいと思います。先ほど書きましたがうつ状態であれば感情の表現自体に問題が表れますし、判断をつけるのが難しい(ながらも普段に増して白黒つけたくなる)精神状態にあると思うので。
精神を病んでいる状態だからこそ思いつく表現や解釈などもたくさんあります。が、それらはそういう状態において自然に湧き出てくるものであって、わざと探そうとすると優柔不断、不安、感情に飲み込まれるなどの「症状の影響」に絡まってしまうので・・・
最後に。
できるだけ練習してみてどんなに短い間しか練習できなくとも、どんなに弾けないように感じようとも、以前より進まない、むしろ下手になったように感じようとも自分を責めないこと。
自分を責めると自分はできない、という気持ちから弾ける気持ちにならなくなり、弾きたくなくなり、生きがいがなくなるという最初のほうで書いたような悪循環に陥る可能性があります。これはその状態の自分にとって無理な練習を強いたときも同じです。
自分が見えなくとも(認知のゆがみで!)その日練習をしたことにより自分の演奏に何かが生まれているのかもしれないし、それに今日練習したことは明日への自信につながります。
弾くことを苦痛に感じるかもしれませんが、それは病気の症状がそうさせていることで、(適切な治療を受けていれば)良くなったときにまた弾くことを楽しめるように、なるべく弾きつづけることが大事です。
(少し状態が持ち直したときはちょっとしたことで再発の危険があるため、そういうステージで「あ、ピアノが弾けなくなってる」という状態になったら再発のリスクになりうると私は思います)
昨日のエントリーに書きましたトイレの落書きで若い人、しかも芸術畑の若い人(VCAですので必然的に)で鬱をわずらっている人が結構いる、ということを改めて実感して。
やっぱりそういう人たちのことは他人事とは思えなくて・・・
私も(適度に)がんばらなきゃ、ですが他にどこかで苦しんでいる若い芸術家たちに心のなかで応援の思いを送ります。
今日の一曲: ヨハン・セバスチャン・バッハ 「Komm, Suesser Tod(来たれ、甘き死よ)」 ビオラ+オルガン版
バッハはカンタータだったり単独だったり、さまざまなコラールを残しています。環境としてはおそらく教会で礼拝のときに合唱やそのほかの人々がオルガン伴奏で歌うもの・・・だったんでしょうね。
そういったコラールが今では器楽のみにアレンジされたりすることも多いです。ピアノ・オルガンの独奏だったり、メロディーを他の楽器が担当したり。アンコールなどでも使われますね(一番有名な、そしてさまざまなアレンジがされた例が「主よ人の望みの喜びよ」でしょうか)。
そんななかビオラとオルガンのために編曲されたこの曲。私がこの曲を知ったのはとあるビオラ友達(私が知ってる唯一バイオリンから入らなかったビオリスト)が貸してくれたウィリアム・プリムローズというビオリストのCDからで。
プリムローズは(その人の話によると)もともとバイオリニストだったのですが現代における独奏ビオリストの先駆者とも言える人だそうです。(むかーしだとベルリオーズの「イタリアのハロルド」の話で聞くようにパガニーニがソロとして弾いてたのもありますが・・・)
で、この曲なんですがそのプリムローズのCD以外で見つかってないんですよ。私が探した限りでは。
だからおそらく?プリムローズが編曲して小品として弾いたのではないか・・・と踏んでいます。
それにしてもビオラで聴くといいですよ、この曲。ビオラというのは音に暗さを帯びた深み、暖かさがあるのが特徴ですがプリムローズの音もこの曲もその魅力を存分に引き出していて。
そして先ほど書きましたように「コラール」のメロディーで、ごく普通の人も歌うようなメロディーなため技巧のいろいろとか、まったく飾らないままなのがまた良いです。
そのうち個別にエントリーにまとめたいな、と思ってるんのですがビオラは「死」と関係が深い楽器だと思います。題材だったり、作曲家の晩年にフィーチャーされることが多かったり。
詳しい話はそのときまでとっておきますが。
そういうところも含めて、この曲は独特の雰囲気・風景・宗教観(というのもまたちょっと正確でない気もしますが)があって本当に好きです。(ついでながら録音の古さもまた味があるというかいとしいですね~)
ビオラっていいな、と思えます。(プリムローズがしてきたことまさにそれですがね!)
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