×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
人生80年・・・と格好つけても始まりませんね。
それに今から話すことのほとんどは人の寿命がもっと短かった時代のこと。
人が生涯を通して変わるように、作曲家によって創られた音楽も変わっていきます。
短命と思われるモーツァルトだって初期(といっても彼の場合はスタートがずいぶん早かったですが)と晩年(といっても享年は35歳)を比べるとそこそこ変化は聞き取れます。
もしかしたらクラシックをまったく知らない人でも最早期と最晩期の作品を聞き比べてもらったらどっちがどっちかわかるのでは?と思ってます。
音楽から感じ取れる「感じ」は必ずしも音楽的なものとは限らないので。
若いころの音楽が魅力的なのは作曲家がいろんなところで冒険や実験してるなーってのが伝わってくるときですね。スケールがでかかったり、自分で弾くのを想定して技巧を凝らしてみたり、楽器や音の限界を追求してみたり、内に有り余るパワーを表現してみたくなったり。そして自分のスタイルというかを追求し稀に迷走するのもこの時期ならでは。
バルトークの初期の粗暴さとかパワーとかいいですね。あとプロコフィエフなんかものすごーく不協和音をたくさん使ってすごい前衛的な曲とか書いてました。ストラヴィンスキーも初期は巨大なオーケストラを用いてて。彼らは後に新古典主義に傾いてもっと洗練された、いろいろそぎ落とした音楽を書いたんですけど、この若気の至り、っていうのがものすごく魅力的です。
反対にシェーンベルクとかシュトラウスとか前衛的な音楽を書いたドイツの作曲家たちのあまり知られてない若いころの作品を見てみると驚くほどブラームス的(ばりばりドイツロマン派)だったりしますね。あー若いころは傾倒してたんだなーでもみんな旅立ってったんだなーと思うとなんかほほえましかったり残念だったり。
フランスでもドビュッシーが同じような経緯をたどってます。
あとショパンが8歳のときに作曲したポロネーズを弾いたことがありますが、あれは8歳にしてはものすごく成熟してる、しっかりしてる曲でびっくりしました。よっぽど(笑)しっかりしてある意味ませてた子供だったんでしょうね。
私はでもどっちかというと晩年の音楽に惹かれます。
なんかものすごく悟った、道を究めた、余計なものをそぎおとした感があって若いころの曲が聞いててエキサイティングなら晩年の曲はエキサイティングな曲でも落ち着く何かがあるようで。
16歳で書いたピアノ四重奏曲からその暗さの片鱗を存分に見せていた闇に取り付かれた作曲家・マーラーの最後のいくつかの交響曲は光を見据えてるようなところがありますし、若いころからソヴィエト政府に反発していたショスタコーヴィチも晩年の作品ではどこかそれを含めて(まあ政府も多少はスターリンの死で変わってましたが)いろいろ受け入れているような、悟っているような感じで。
クラシック音楽史で一番豹変したのはおそらくスクリャービンではないでしょうか。ロシアの作曲家だった彼は最初はショパンにも似たピアノのロマン主義の象徴みたいな曲を書いたけれどどっかで神秘主義に傾倒してまったくわけのわからない音楽(といっても過言ではない)を書くようになってしまったという。あまりにも表現が個人的過ぎてついてける人が晩年にもなるとほとんどいなくて、むしろどんなスタイルでもない自分の道を行ってしまったという。
私が好きなのは最最晩年の曲たち。作曲家が死にどう向き合うか、そして死の訪れを感じ取っているのがどう音楽に現れるかは私の好奇心の一大テーマです。こないだ語ったとおり死臭のする音楽に惹かれるもので。
マーラーの交響曲第9番の最終楽章、ショスタコーヴィチのビオラソナタや弦楽四重奏第15番、メシアンの四重協奏曲、そしてモーツァルトのレクイエム・・・最後の曲(やそれに近いもの)はものすごく特別な何かがあります。
そうそう、作曲家は晩年にビオラ曲を書くことが多いですね。ショスタコーヴィチ、バルトーク、シューマン、ブラームス・・・これはビオラになにかあるのか、それともただ単にそこでやっとビオラに手が回ったからなのか・・・
作曲家によっては短命なため40代、50代の作品というものが存在しない人もいます(モーツァルト、シューベルトなど)。こういう人たちは長生きしたらどんな「晩年の音楽」をかいたんだろうと思うとすこし残念なような気もします。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 四重協奏曲(コンセール・ア・キャトル) 第2楽章
ある人が最後に書いた曲を「白鳥の歌」と言うそうですがこれはまさにメシアンの白鳥の歌。
その中でも第2楽章は現代音楽が苦手という人でも楽しめる美しい曲です。
メシアンは敬虔なカトリック信者で、生涯パリのサン・トリニテ教会でオルガニストを務めました。
彼の音楽はすべて神のため、そして無神論者の私でもメシアンの音楽には天国があると思います。
この楽章にもそんなある一種の天国があるような気がします。ピアノ、フルート、オーボエ、チェロといったソロ楽器たちの掛け合いが本当にこの世のものではないようで。
ちなみにこの曲、メシアン自身は最終楽章である第4楽章の途中で亡くなってしまって、奥さんのロリオ夫人が彼の愛弟子であったジョージ・ベンジャミンの手を借りて完成させたものです。(つまりメシアン自身は実際の演奏を聞いていません)
なんかものすごくほほえましい話なんですが、第4楽章を聴いてるとある時点から「おや?これはメシアンと違う?」というところになるのがやっぱりメシアンの音楽の存在の特別さを感じますね。
それに今から話すことのほとんどは人の寿命がもっと短かった時代のこと。
人が生涯を通して変わるように、作曲家によって創られた音楽も変わっていきます。
短命と思われるモーツァルトだって初期(といっても彼の場合はスタートがずいぶん早かったですが)と晩年(といっても享年は35歳)を比べるとそこそこ変化は聞き取れます。
もしかしたらクラシックをまったく知らない人でも最早期と最晩期の作品を聞き比べてもらったらどっちがどっちかわかるのでは?と思ってます。
音楽から感じ取れる「感じ」は必ずしも音楽的なものとは限らないので。
若いころの音楽が魅力的なのは作曲家がいろんなところで冒険や実験してるなーってのが伝わってくるときですね。スケールがでかかったり、自分で弾くのを想定して技巧を凝らしてみたり、楽器や音の限界を追求してみたり、内に有り余るパワーを表現してみたくなったり。そして自分のスタイルというかを追求し稀に迷走するのもこの時期ならでは。
バルトークの初期の粗暴さとかパワーとかいいですね。あとプロコフィエフなんかものすごーく不協和音をたくさん使ってすごい前衛的な曲とか書いてました。ストラヴィンスキーも初期は巨大なオーケストラを用いてて。彼らは後に新古典主義に傾いてもっと洗練された、いろいろそぎ落とした音楽を書いたんですけど、この若気の至り、っていうのがものすごく魅力的です。
反対にシェーンベルクとかシュトラウスとか前衛的な音楽を書いたドイツの作曲家たちのあまり知られてない若いころの作品を見てみると驚くほどブラームス的(ばりばりドイツロマン派)だったりしますね。あー若いころは傾倒してたんだなーでもみんな旅立ってったんだなーと思うとなんかほほえましかったり残念だったり。
フランスでもドビュッシーが同じような経緯をたどってます。
あとショパンが8歳のときに作曲したポロネーズを弾いたことがありますが、あれは8歳にしてはものすごく成熟してる、しっかりしてる曲でびっくりしました。よっぽど(笑)しっかりしてある意味ませてた子供だったんでしょうね。
私はでもどっちかというと晩年の音楽に惹かれます。
なんかものすごく悟った、道を究めた、余計なものをそぎおとした感があって若いころの曲が聞いててエキサイティングなら晩年の曲はエキサイティングな曲でも落ち着く何かがあるようで。
16歳で書いたピアノ四重奏曲からその暗さの片鱗を存分に見せていた闇に取り付かれた作曲家・マーラーの最後のいくつかの交響曲は光を見据えてるようなところがありますし、若いころからソヴィエト政府に反発していたショスタコーヴィチも晩年の作品ではどこかそれを含めて(まあ政府も多少はスターリンの死で変わってましたが)いろいろ受け入れているような、悟っているような感じで。
クラシック音楽史で一番豹変したのはおそらくスクリャービンではないでしょうか。ロシアの作曲家だった彼は最初はショパンにも似たピアノのロマン主義の象徴みたいな曲を書いたけれどどっかで神秘主義に傾倒してまったくわけのわからない音楽(といっても過言ではない)を書くようになってしまったという。あまりにも表現が個人的過ぎてついてける人が晩年にもなるとほとんどいなくて、むしろどんなスタイルでもない自分の道を行ってしまったという。
私が好きなのは最最晩年の曲たち。作曲家が死にどう向き合うか、そして死の訪れを感じ取っているのがどう音楽に現れるかは私の好奇心の一大テーマです。こないだ語ったとおり死臭のする音楽に惹かれるもので。
マーラーの交響曲第9番の最終楽章、ショスタコーヴィチのビオラソナタや弦楽四重奏第15番、メシアンの四重協奏曲、そしてモーツァルトのレクイエム・・・最後の曲(やそれに近いもの)はものすごく特別な何かがあります。
そうそう、作曲家は晩年にビオラ曲を書くことが多いですね。ショスタコーヴィチ、バルトーク、シューマン、ブラームス・・・これはビオラになにかあるのか、それともただ単にそこでやっとビオラに手が回ったからなのか・・・
作曲家によっては短命なため40代、50代の作品というものが存在しない人もいます(モーツァルト、シューベルトなど)。こういう人たちは長生きしたらどんな「晩年の音楽」をかいたんだろうと思うとすこし残念なような気もします。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 四重協奏曲(コンセール・ア・キャトル) 第2楽章
ある人が最後に書いた曲を「白鳥の歌」と言うそうですがこれはまさにメシアンの白鳥の歌。
その中でも第2楽章は現代音楽が苦手という人でも楽しめる美しい曲です。
メシアンは敬虔なカトリック信者で、生涯パリのサン・トリニテ教会でオルガニストを務めました。
彼の音楽はすべて神のため、そして無神論者の私でもメシアンの音楽には天国があると思います。
この楽章にもそんなある一種の天国があるような気がします。ピアノ、フルート、オーボエ、チェロといったソロ楽器たちの掛け合いが本当にこの世のものではないようで。
ちなみにこの曲、メシアン自身は最終楽章である第4楽章の途中で亡くなってしまって、奥さんのロリオ夫人が彼の愛弟子であったジョージ・ベンジャミンの手を借りて完成させたものです。(つまりメシアン自身は実際の演奏を聞いていません)
なんかものすごくほほえましい話なんですが、第4楽章を聴いてるとある時点から「おや?これはメシアンと違う?」というところになるのがやっぱりメシアンの音楽の存在の特別さを感じますね。
PR