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前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
今日は無事仕事案件その1も終わり、次のにも手つけながらピアノも練習し、洗濯機も回して(笑)夜ご飯は昨日の残りの親子丼(乗せる前の状態で保存)、と引き続き何の変哲もない忙しい日常を送っていました。
が、明日はクリスマス、ということでまずはこちら。
ちょっと早めですがメリークリスマス、というかHappy Holidays!
やっとFaber-Castellの色鉛筆を真面目に使った(笑)
上にいるのは鳥のカタログにもでてくる(楽章の題名にもなってる)イソヒヨドリ。鳴き声の美しさ(一応一つパッセージを鳥カタから再現)もありますが、どうしてもクリスマスモチーフは色が偏るので、頭の中で絵をプランしてたらこの鳥の色がぴったり来た、ということです。
でかく描きすぎてスキャナで読み込めなかった結果、携帯で撮ってアップという形に。一応補正したんですが、どうも暗い。編集が単にうまくないだけか。
(後ほどtwitter, pixiv, facebookにも上げますがサイトには上げないかも・・・)
幼稚園の頃は(キリスト教系の幼稚園だったので)ページェントで天使ガブリエルを演じたりもしましたが、20年たってすっかり無神論者としての価値観がかたまり(もちろんそれでもメシアンとかバッハは心から引きますが)、なんというか「商業的な」「現代文化的な」クリスマスにも割と反発する思いがあったりで。
そんな私のクリスマスは今年もセカンドファミリー、つまり親友の家族と過ごすクリスマス。
親友も家を出て職に就いたこともあり、昔(学校にいたころ)のようにはお互いの家に行ったりする機会が減ったり、妹の双子達とも会う機会も減ったり、ジンジャーブレッドハウスを作る習慣も途絶えがちで。(ちなみに双子の上の子はいま北欧の方で留学中なので今回欠席。でももうすぐ帰ってくるはず)
遊びに行ってお世話にいって特別に何をする、というのがなくても一緒に居れること、昔のようにゆっくり時間を過ごせることがなによりも楽しみです。
しかも今回次の日に友達で集まるかもしれないので泊まりかも・・・ということで今回フライング気味にクリスマスの話をしているという事情です(笑)
今日ちょっと思ってたのは西洋の暦がB.C.からA.D.に変わる頃、中東の方でもきっと新生児の死亡率って低くなかったと思うし、ましてや助産婦さんとかお医者さんのいない、衛生的に問題のある厩の中でイエス・キリストが無事生まれて聖母マリアも無事で、というのは神の子云々無視してもなんだかすごいことだったんだな、と。(すっかり職業病です!)
でも約2000年たった今の世で、医学的な進歩だったりその周りの進歩だったりで新生児の死亡率が(少なくとも先進国では)大分下がったにもかかわらず、赤ちゃんが生まれるっていうのは関係者全員にとってものすごく大変なことで、安全性が上がったとしても一つの命が生まれるというのはものすごい奇跡なんですよね。
・・・と、今年出産した友達と生まれた赤ちゃんの事を思い出してちょっと考えにふけってました(笑)
あとは毎年気になる「ベツレヘムの星」の話をちょっと調べてたり。
今ではあれは超新星爆発ではないか、といわれてるみたいですね。確かに木星や土星みたいな明るい惑星だけじゃなくて全天で一番明るい恒星であるシリウスや、それを含めた冬の大三角、オリオン座とかが見えるなかで「きわだって明るい星」が突然現れる、または存在する、というのも難しいですしねー。
(でも方角によっては星がまばらなところがあって、そうすると他の星に囲まれてる場合よりも明るく見える場合もありますからね、アルファードみたいに)
でもあの時代だと夜方角とかを知るのにはきっと星を見るのが主流だったと思いますし、おそらくそういう知識があるであろう三博士が今までのナビゲーション法をほっぽっていきなり現れた星を容易に代わりにしてそれだけを便りに進んでしまう、というのは大分リスキーではないかな、とも思います(笑)・・・・というかキリスト教をはじめとした宗教ってそういうとこありますが(苦笑)
小さい頃からたまーに「三博士の旅の情景」というのを想像することがたびたびあるんですよね。
考えてみると例えば巡礼とかで似たような旅の風景、というのは(キリスト教限らず)いろいろあるんですが、私の創作にもそういう感じの情景は少なからずあって。天竺への旅もそうですもんね(今こっちのテレビ(SBS)で西遊記(新)がやってるんですよ)
想像してるところはなんか砂漠だったり森だったり、そういう周りに人の生活がないところを星で方向を見ながら目的地に向かって進んでいく、みたいなイメージで。
それがこないだアルヴォ・ペルトのLamentateについて読んでたときに出てきた「心の砂漠」となんかつながるところがあったんです。またフォローアップしなくちゃいけないトピックなのですが、確かペルトが言ってたのは、人間は心と向き合う時(だったかな?)には本当に外の世界のいろいろを断って、「心の砂漠」で一人きりになることが必要だ、というようなことだったような覚えがあるんですよ。(Lamentateに関してはエントリー一つ割けますし、あと自分でももっとじっくり向き合ってみたいと思ってるのでまた後ほど)
その「心の砂漠」を作ってその中を旅して真理(としておく)を見つける、という過程がが例えば巡礼の旅だったり、三博士が幼子キリストを見つける旅に直接的・象徴的に現れてるような気がするんですよね。
(で、ここで「それなら無神論者にとっての心の砂漠と旅はどうなるのか」という思考に至るのですがそれもまた別の日に)
だから結局のところ私が言いたいのは、直接的にも象徴的にも、方向を示してくれる星を見るためには人工的なイルミネーションを消して小さな光を信じながら闇の中を進まなくちゃいけない、みたいなところなのかな。
まあこうやってちょっとちくちく苦言が入るわけですが、そんな私がクリスマスを祝う音楽は聖飢魔IIの「悪魔のメリークリスマス」だったり、以前紹介しましたCoventry Carolとそれを引用しているクラムの「A Little Suite for Christmas」だったり、そういうちょっと冷静に物事を見るというか否定的な、闇の部分のクリスマスに加えて、「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」でキリスト教がなかったらメシアンもこういう音楽書かなかったもんな、と少しばかりありがたく思ってみたり、「Away in a Manger」みたいな賛美歌を思って学生時代を思い出したり。
いろいろあるけど、複雑に絡み合って全部ひっくるめてクリスマスしております。
ということで明日から明後日までゆっくり楽しんできます~
(イコール明日は更新お休みです)
今日の一曲: ジョージ・クラム 「A Little Suite for Christmas」 第4楽章「Adoration of the Magi」
Adoration of the Magi=東方三博士の礼拝はダヴィンチ、ボッティチェッリ(+それをモチーフにしたレスピーギ)、メシアンなどがクリスマスのストーリーの重要なエレメントとして芸術作品で扱っています。
そもそもキリストの誕生には聖家族・天使達・羊飼い・三博士という様々な「エレメント」を代表するキャラクターが用いられていて、東方の三博士にとってはキリストは「預言者が待ち望んでいた主」である、という側面を司っている、というか・・・嗚呼説明下手。
「東方」というのはどこなのか、というのは聞いたことないんですよね。
絵画では肌の色が変えてあったりするのも見たことがありますし、この曲だとペンタトニック=五音音階を使うことでオリエンタルな雰囲気を出しています。(そこまで東ではないとは思いますが・・・(笑))
どこか呪文を唱えるようなメロディーだったり、特殊奏法とピアノの響きが厳かな、神秘的な雰囲気を作りだします。
よく「打楽器の音は他の種類の楽器で再現しがたい」とは言われますが、まるで銅鑼の響きがピアノから聞こえたり。
あとは同じクラムの「夏の夜の音楽」の「Wanderer-Fantasy」を思わせるようなパッセージで「旅してきた」ことを表したり。(典型的クラムですねー)
最初にこの曲集を好きになったのもこの曲がきっかけだったりします。
雰囲気が直感的に気に入ったのですねー。ドビュッシーとかでみるこういう「もろオリエンタル」なクリシェに案外弱いのもありますし、あとこの曲では特殊奏法がものすごくわかりやすく的確に使われてるなーと。
表現したい世界観があるのが分かる、というか。うん、必要だな、というか。
こんなに小さな曲だけれど、クラム独特の、題材独特の世界観とキャラクターがあって、それを愛せずにはいられないのです。
拙い説明になってしまいましたが、A Little Suite for Christmasは手のひらサイズの愛らしい組曲で、クリスマスにまつわる闇も忘れないで元の慎ましい(けれど喜ばしい)クリスマスも表現する素敵な曲です。
(そしてこのリンクしたCDにはApparitionとSongs, Drones and Refrains of Deathもカップリングされてる、というなんだか最高の組み合わせです!メルボルンの夏の夜には特に良い!)
今日は無事仕事案件その1も終わり、次のにも手つけながらピアノも練習し、洗濯機も回して(笑)夜ご飯は昨日の残りの親子丼(乗せる前の状態で保存)、と引き続き何の変哲もない忙しい日常を送っていました。
が、明日はクリスマス、ということでまずはこちら。
やっとFaber-Castellの色鉛筆を真面目に使った(笑)
上にいるのは鳥のカタログにもでてくる(楽章の題名にもなってる)イソヒヨドリ。鳴き声の美しさ(一応一つパッセージを鳥カタから再現)もありますが、どうしてもクリスマスモチーフは色が偏るので、頭の中で絵をプランしてたらこの鳥の色がぴったり来た、ということです。
でかく描きすぎてスキャナで読み込めなかった結果、携帯で撮ってアップという形に。一応補正したんですが、どうも暗い。編集が単にうまくないだけか。
(後ほどtwitter, pixiv, facebookにも上げますがサイトには上げないかも・・・)
幼稚園の頃は(キリスト教系の幼稚園だったので)ページェントで天使ガブリエルを演じたりもしましたが、20年たってすっかり無神論者としての価値観がかたまり(もちろんそれでもメシアンとかバッハは心から引きますが)、なんというか「商業的な」「現代文化的な」クリスマスにも割と反発する思いがあったりで。
そんな私のクリスマスは今年もセカンドファミリー、つまり親友の家族と過ごすクリスマス。
親友も家を出て職に就いたこともあり、昔(学校にいたころ)のようにはお互いの家に行ったりする機会が減ったり、妹の双子達とも会う機会も減ったり、ジンジャーブレッドハウスを作る習慣も途絶えがちで。(ちなみに双子の上の子はいま北欧の方で留学中なので今回欠席。でももうすぐ帰ってくるはず)
遊びに行ってお世話にいって特別に何をする、というのがなくても一緒に居れること、昔のようにゆっくり時間を過ごせることがなによりも楽しみです。
しかも今回次の日に友達で集まるかもしれないので泊まりかも・・・ということで今回フライング気味にクリスマスの話をしているという事情です(笑)
今日ちょっと思ってたのは西洋の暦がB.C.からA.D.に変わる頃、中東の方でもきっと新生児の死亡率って低くなかったと思うし、ましてや助産婦さんとかお医者さんのいない、衛生的に問題のある厩の中でイエス・キリストが無事生まれて聖母マリアも無事で、というのは神の子云々無視してもなんだかすごいことだったんだな、と。(すっかり職業病です!)
でも約2000年たった今の世で、医学的な進歩だったりその周りの進歩だったりで新生児の死亡率が(少なくとも先進国では)大分下がったにもかかわらず、赤ちゃんが生まれるっていうのは関係者全員にとってものすごく大変なことで、安全性が上がったとしても一つの命が生まれるというのはものすごい奇跡なんですよね。
・・・と、今年出産した友達と生まれた赤ちゃんの事を思い出してちょっと考えにふけってました(笑)
あとは毎年気になる「ベツレヘムの星」の話をちょっと調べてたり。
今ではあれは超新星爆発ではないか、といわれてるみたいですね。確かに木星や土星みたいな明るい惑星だけじゃなくて全天で一番明るい恒星であるシリウスや、それを含めた冬の大三角、オリオン座とかが見えるなかで「きわだって明るい星」が突然現れる、または存在する、というのも難しいですしねー。
(でも方角によっては星がまばらなところがあって、そうすると他の星に囲まれてる場合よりも明るく見える場合もありますからね、アルファードみたいに)
でもあの時代だと夜方角とかを知るのにはきっと星を見るのが主流だったと思いますし、おそらくそういう知識があるであろう三博士が今までのナビゲーション法をほっぽっていきなり現れた星を容易に代わりにしてそれだけを便りに進んでしまう、というのは大分リスキーではないかな、とも思います(笑)・・・・というかキリスト教をはじめとした宗教ってそういうとこありますが(苦笑)
小さい頃からたまーに「三博士の旅の情景」というのを想像することがたびたびあるんですよね。
考えてみると例えば巡礼とかで似たような旅の風景、というのは(キリスト教限らず)いろいろあるんですが、私の創作にもそういう感じの情景は少なからずあって。天竺への旅もそうですもんね(今こっちのテレビ(SBS)で西遊記(新)がやってるんですよ)
想像してるところはなんか砂漠だったり森だったり、そういう周りに人の生活がないところを星で方向を見ながら目的地に向かって進んでいく、みたいなイメージで。
それがこないだアルヴォ・ペルトのLamentateについて読んでたときに出てきた「心の砂漠」となんかつながるところがあったんです。またフォローアップしなくちゃいけないトピックなのですが、確かペルトが言ってたのは、人間は心と向き合う時(だったかな?)には本当に外の世界のいろいろを断って、「心の砂漠」で一人きりになることが必要だ、というようなことだったような覚えがあるんですよ。(Lamentateに関してはエントリー一つ割けますし、あと自分でももっとじっくり向き合ってみたいと思ってるのでまた後ほど)
その「心の砂漠」を作ってその中を旅して真理(としておく)を見つける、という過程がが例えば巡礼の旅だったり、三博士が幼子キリストを見つける旅に直接的・象徴的に現れてるような気がするんですよね。
(で、ここで「それなら無神論者にとっての心の砂漠と旅はどうなるのか」という思考に至るのですがそれもまた別の日に)
だから結局のところ私が言いたいのは、直接的にも象徴的にも、方向を示してくれる星を見るためには人工的なイルミネーションを消して小さな光を信じながら闇の中を進まなくちゃいけない、みたいなところなのかな。
まあこうやってちょっとちくちく苦言が入るわけですが、そんな私がクリスマスを祝う音楽は聖飢魔IIの「悪魔のメリークリスマス」だったり、以前紹介しましたCoventry Carolとそれを引用しているクラムの「A Little Suite for Christmas」だったり、そういうちょっと冷静に物事を見るというか否定的な、闇の部分のクリスマスに加えて、「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」でキリスト教がなかったらメシアンもこういう音楽書かなかったもんな、と少しばかりありがたく思ってみたり、「Away in a Manger」みたいな賛美歌を思って学生時代を思い出したり。
いろいろあるけど、複雑に絡み合って全部ひっくるめてクリスマスしております。
ということで明日から明後日までゆっくり楽しんできます~
(イコール明日は更新お休みです)
今日の一曲: ジョージ・クラム 「A Little Suite for Christmas」 第4楽章「Adoration of the Magi」
Adoration of the Magi=東方三博士の礼拝はダヴィンチ、ボッティチェッリ(+それをモチーフにしたレスピーギ)、メシアンなどがクリスマスのストーリーの重要なエレメントとして芸術作品で扱っています。
そもそもキリストの誕生には聖家族・天使達・羊飼い・三博士という様々な「エレメント」を代表するキャラクターが用いられていて、東方の三博士にとってはキリストは「預言者が待ち望んでいた主」である、という側面を司っている、というか・・・嗚呼説明下手。
「東方」というのはどこなのか、というのは聞いたことないんですよね。
絵画では肌の色が変えてあったりするのも見たことがありますし、この曲だとペンタトニック=五音音階を使うことでオリエンタルな雰囲気を出しています。(そこまで東ではないとは思いますが・・・(笑))
どこか呪文を唱えるようなメロディーだったり、特殊奏法とピアノの響きが厳かな、神秘的な雰囲気を作りだします。
よく「打楽器の音は他の種類の楽器で再現しがたい」とは言われますが、まるで銅鑼の響きがピアノから聞こえたり。
あとは同じクラムの「夏の夜の音楽」の「Wanderer-Fantasy」を思わせるようなパッセージで「旅してきた」ことを表したり。(典型的クラムですねー)
最初にこの曲集を好きになったのもこの曲がきっかけだったりします。
雰囲気が直感的に気に入ったのですねー。ドビュッシーとかでみるこういう「もろオリエンタル」なクリシェに案外弱いのもありますし、あとこの曲では特殊奏法がものすごくわかりやすく的確に使われてるなーと。
表現したい世界観があるのが分かる、というか。うん、必要だな、というか。
こんなに小さな曲だけれど、クラム独特の、題材独特の世界観とキャラクターがあって、それを愛せずにはいられないのです。
拙い説明になってしまいましたが、A Little Suite for Christmasは手のひらサイズの愛らしい組曲で、クリスマスにまつわる闇も忘れないで元の慎ましい(けれど喜ばしい)クリスマスも表現する素敵な曲です。
(そしてこのリンクしたCDにはApparitionとSongs, Drones and Refrains of Deathもカップリングされてる、というなんだか最高の組み合わせです!メルボルンの夏の夜には特に良い!)
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