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いきなり聖飢魔IIの歌のタイトルのパロディみたいなタイトルのエントリーですみません(笑)
(念のために元の聖飢魔IIの歌のタイトルは「Save your soul ~美しきクリシェに背を向けて~」です)
といってもトピック自体はこないだ親友としてた話、そして前回のエントリーの「今日の一曲」からふくらんだ話です。
クリシェ=clichéとは常套文句や使い古された言い回しなど、最初はちょっと粋なものだったけど使われすぎて陳腐になったものを指します。
クラシック音楽もその歴史はざっと300年以上ありますので国・時代・スタイルなどが変われども、新しいものを常に求め動き、フレッシュなものをいくら創り出してもどうしても使い古されるものが出てくるわけです。
例えばベートーヴェンは当時の音楽にあった決まりというかクリシェを徹底的にぶちこわそうとした人で。ハーモニーや形式などで当時としてはかなり破天荒といえることをやったのですが(良い例がピアノソナタ第3番 op.2-3ですね、ぶちこわそうという意図まで透けて見えます)、それがもうベートーヴェンが有名になっておおよそ200年経った今の時代では当たり前になってしまっています。(ここんとこ親友と話してた部分です)
ストラヴィンスキーの「春の祭典」もそうですよね。1912年の初演では騒ぎが起こるほど斬新な音楽ですが今では斬新さはまだあるながらも「20世紀の音楽ってこういう感じ」という当たり前感が漂いつつもあります。
こないだちょっと読んだ記事であったのですが、音楽を聞いている間脳はある程度先を予測しようとする、というか常に先を「期待する」(anticipate)そうで、音楽はその期待に望むものを与えるか、またはその予想を裏切ることで聴き手の心を動かす働きがあるそうです(大分おおざっぱな説明だ!)。
だから作曲家側としては期待に望むものを与える方法、そして予想を裏切る方法どちらもマスターしなければならなくて、その中でも予想を裏切るのはやっぱり奇抜なこと、今までなかった斬新なことをやらなくちゃならないわけで。
それでまあ今日下に紹介するようなテクニックを使うのですが、それも何度も使われると聴き手もある程度予想できるようになって、結果クリシェになってしまう、というわけで。
ちょっと偏屈気味でスノッブである、音楽において割と「変わった」ものを好む、いわゆるポピュラーな感じのクラシックを疎む私ですが、意外とクラシック音楽にあるクリシェ的なテクニックに弱かったりもするんです。
英語でいうと「soft spot」というか、どうしてもその使い古されたフレーズなどに意図された反応をしてしまう、そんなクリシェを許してしまう、そういうところがありまして。
今日はそんな「背を向けられない美しいクリシェ」をいくつか紹介していきたいと思います。
1) ピカルディの三度
短調の曲が最後の終止和音だけ長調になることをこういうそうです。バッハがよく使ったテクニックで、私はこれをキリスト教で苦痛から最終的には解き放たれる、救いがあるみたいな意味合いがあるんじゃないかと解釈しています。
音響の物理からしても短和音というのは緊張が生じる、「不自然」な響きで、それが倍音の関係で「自然」である長和音に移行するのは本当に開放感というか、resolveした感覚が強いです。なんというか、いくら使い古されてもいくらたくさん聴いてきてもその根底の感覚は変わらないみたいですね。
先ほど書いた通りこの曲はバッハの音楽で多用されていて、短調の曲もほとんどピカルディの三度で長調になって終わるのですが、例を挙げると以前弾いた平均律第1巻第22番(変ロ短調)は前奏曲もフーガもはっきりとピカルディの三度で終わります。ちょっと変わった使い方としては同じく変ロ短調のショスタコーヴィチの前奏曲とフーガ(第16番)のフーガで、最後のセクションまるまる1分ほどが長調になっているというとっても長いピカルディの三度となっています。効果はものすごいですよー。
2) ナポリの6度
ナポリの6度は毎度おなじみ完全終止(「ちゃんちゃん♪」の和音進行)の前にメインの調の半音上のコードが入る、というハーモニー進行です。音楽理論を抜きにして説明するのは難しいのですが、「メインの調の半音上のコード」というのは普段メインの調で音楽を進めているとまず出てこない、メインの調と関係ないまさに「青天の霹靂」的なコードで。
さらにナポリの6度に当たる和音は♯のつく調なら♭メインのコード、♭のつく調なら♯メインのコードとして現れることも多いので理論が分からなくともかなり色彩や印象ががらりと変わるため聞き分けることが比較的容易です。
今書いたようにかなりインパクトの強いコード進行ですが、ロマン派の時代にに移行するにつれてハーモニーの変化がもっと自由になり、ナポリの6度の使用頻度だけでなくもっと奇抜なハーモニーの変化も使われ、さらに20世紀になってハーモニーの動きは本当にいろんなところに行ってしまったのでクリシェと化した・・・という経緯でしょうか。
ナポリの6度はポップミュージックも含め様々なところで使われていますが私にとって印象が強いのはチャイコフスキーの作品、特にワルツ曲ですね。最後の方で複数回使われることも(ちょっとくどい使い方ですが)。さりげない使い方としてはショパンの前奏曲第20番かな。割とジャズっぽい和音進行の曲の中に深みをさらに出すナポリの6度(第2フレーズ、そしてその繰り返しの最終フレーズそれぞれの終わりにみられます)。
3) ペンタトニック
ペンタトニックとは五音音階のこと。日本では「四七抜き音階」といって、ハ長調だったらファとシを抜いたド・レ・ミ・ソ・ラでなる音階のことを言います日本では(伝統音楽でもポップでも)よく使われる音階で、よくある「黒鍵だけで弾ける曲」はペンタトニックで成り立ってますし、日本人に馴染みやすい外国のメロディーもまたペンタトニックから成り立ってることが多かったり。
ペンタトニックは日本だけでなく東洋全体で基本となっている音階のため、西洋ではエキゾチック・オリエンタル風味を出したいならペンタトニック!と安易に使われる事が多かったり(特にパリ万博以降乏しい知識とイメージから漠然と東洋へのあこがれを抱いた作曲家達)。安易なんだけど確かにすぐ分かるし、やっぱりちょっとエキゾチックな感じとなじみやすさを感じてしまうのですよね(苦笑)
前回の「今日の一曲」のクラムの「A little suite for Christmas」の「東方の三博士の礼拝」が分かりやすい例ですかね(このエントリーのきっかけでした)、すぐ「あっ!」て思うと言う点では(笑)でもペンタトニックを乱用してるといえばドビュッシーでしょう、ダントツで(笑)割とベタな使い方をする中で、ピアノのための前奏曲集から第2番「Voiles」はなかなか粋な使い方をしています。この曲はほとんどが全音階(音階の一つの音から次の音がかならず全音)で成り立っていて、調がものすごく曖昧になってる中にペンタトニックというまるで違う毛色の音階が使われる事でさあっと違う色の風が吹くようなエフェクトになっています。
4) ヘミオーラ
ヘミオーラとは3拍子の曲で(1は常に強い拍→)1 2 3 |1 2 3 とリズムがなってるところが突然1 2 1 |2 1 2と、なんというか小節をまたぐようにリズムが「ずれる」ことを指します。
一番有名な例はバーンスタインの「ウエスト・サイド物語」の「アメリカ」ですかね。あの曲は6拍子ですが、1 2 3 1 2 3 |1 2 1 2 1 2と2種類の区切りが交互に現れるので私の説明よりかはあるいは分かりやすいかもしれないです(ただネットでこの違いを聞いてる例を見てるとそんな簡単にはいかないのかな、と思ったりも・・・)
リズムは明らかにずれますが、変拍子を伴わないですし音楽の流れを大きく妨げたり変えたりはしないのでリズムに変化を与える、聴き手の感覚をゆさぶるのにはかなり容易なリズムテクニックで。
これもまたチャイコフスキーのワルツによく出てくるやつですね!(笑)実際に踊っててヘミオーラが出てきたら貴族の方たちはどれだけ気にするか、そこまではわかりませんが(バレエで使うとき振り付けはヘミオーラ意識してるのかな・・・)それでもやっぱり「おっ」と耳をひくものがあります。耳をひく、以上に「これは凄いな」と思ったヘミオーラの使い方はドヴォルザークの交響曲第7番第3楽章でしょうか。ヘミオーラは珍しいほどの高頻度で出てきますが、1 2 1 2 1 2にスイッチするときの力強さがリズムのアンバランスさを強調してものすごいキャラクターを打ち出してます。
今回紹介した「クリシェ的テクニック」のそれぞれに対してちょっとベタな使い方をしている曲と粋な使い方をしている曲と両方挙げてみましたが、いくら使い古されたものでも使い方と表現者の腕によっては新鮮な魅力を出すことができる、ということで・・・
良い例としてはパロディ的な用法ですかね。クリシェを自虐的に、皮肉的に使ってユーモアと魅力を出す、でもそういうことをうまくやるにはスキルが伴う。
今の時代、クラシック音楽では300年の歴史が積み重なり、他のジャンルでも様々な国の音楽にアクセスできるようになり、音楽が量産化できる時代になり、とにかく「既存の音楽データ」が膨大なものになってきている中、音楽におけるクリシェもまた急速に増え、今現在も音楽界にはクリシェがそこここらにあふれている状態になっているとも言えます。
これは話すと長くなるんで別の機会にとっておきますがポップミュージックでの不協和音の使われなさだったりその他「不快」なものを避けることによって「予想を裏切る」ようなことをしない傾向だったり、とにかく耳の肥えた現代人の耳をひくようなことをしない、クリシェの海に溺れている音楽的な懸念がたくさんあって。(これもまた別の機会用ですが、私にとって良い作曲家の判断基準の一つは「不協和音の使い方が上手い」です)
以前読んだ論文で「音楽によって表現されるネガティブな感情は聴き手にとってネガティブな影響を与えない」というのもあり、それから先ほどベートーヴェンと春の祭典の例を挙げたように「予想を裏切る」ことは聴き手の注意をひき、インパクトを与え記憶に残り、そしてそれが一時的に不快なものだとしてもやがて親しみ慣れていく、ということもあり。(長期的な展望が欠けている、ということなのかな)
そして先ほども書いたようにクリシェを使わないことだけが「予想を裏切る」ことじゃなく、クリシェもまた使いようで。それもさっきのも全部ひっくるめて表現者の「意図」が問題なのかもしれないな、という思いはあります。
ちなみに書く側だけではないですよ。「音楽を選ぶ側」もそうですから。(例えば日本において弾かれている・弾かれていない音楽のおおまかな分布への懸念)
こんなに語るつもりは当初なかったんですが熱くなってしまいました。普段からジョージ・クラムの言葉でいうところの「大量の無関心な音楽にあふれているこの世界で「良い」音楽未満のものを創ることは良いことだとは思わない」、という思いを抱えてて。
・・・皮肉にも元ネタの歌のタイトルに戻ってきましたね。「Save your soul~美しきクリシェに背を向けて」。
このエントリーの内容に沿わせてみると耳ざわりの良い、予想に叶ったものばかり与える音楽のクリシェに背を向けて、予想を裏切られること(それは不快感だったり、別の意味で快感だったり)で魂を救え、と。
予想以上にまとまってしまって困惑しながら今回は結び。
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 「白鳥の湖」 第1幕より「ワルツ」
タイトル元ネタ曲も、粋な使い方もいいんですけどね、他の機会で余裕で紹介できると思ったので、ヘミオーラとナポリの6度がクリシェ的な感じで聴けるこの曲を。(あと説明短くてすむ)
そもそもチャイコフスキーのワルツ自体がクリシェなんですよね。バレエでも幾度となく使いますし、交響曲でも使いますし(交響曲のはでもクリシェじゃない使い方が多いかも、比較的に)、あと小品でもワルツと名のつくもの、つかないものいろいろ。
そのなかでも何となく典型的、というか「チャイコフスキーのワルツといったら」みたいなところがあるクリシェのなかのクリシェ(笑)
単純に華やかで、優雅で、短調に変わるセクションがあって、最後の方にヘミオーラ+ナポリの6度で盛り上げて・・・というお決まりのコース。でも分かっていても魅力があって、クリシェじゃないところもたくさんあったり。
実際に弾いてるとチェロのパートってそこそこ悪くなかったりしますからね~
とにかくクリシェといえば・・・でなくチャイコフスキーのワルツといえばまずこれを聞いて欲しい、と。バレエのストーリーの流れには直接的には関係ないですし単品でもそれなりに成り立つしっかりした曲でもありますので。
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(念のために元の聖飢魔IIの歌のタイトルは「Save your soul ~美しきクリシェに背を向けて~」です)
といってもトピック自体はこないだ親友としてた話、そして前回のエントリーの「今日の一曲」からふくらんだ話です。
クリシェ=clichéとは常套文句や使い古された言い回しなど、最初はちょっと粋なものだったけど使われすぎて陳腐になったものを指します。
クラシック音楽もその歴史はざっと300年以上ありますので国・時代・スタイルなどが変われども、新しいものを常に求め動き、フレッシュなものをいくら創り出してもどうしても使い古されるものが出てくるわけです。
例えばベートーヴェンは当時の音楽にあった決まりというかクリシェを徹底的にぶちこわそうとした人で。ハーモニーや形式などで当時としてはかなり破天荒といえることをやったのですが(良い例がピアノソナタ第3番 op.2-3ですね、ぶちこわそうという意図まで透けて見えます)、それがもうベートーヴェンが有名になっておおよそ200年経った今の時代では当たり前になってしまっています。(ここんとこ親友と話してた部分です)
ストラヴィンスキーの「春の祭典」もそうですよね。1912年の初演では騒ぎが起こるほど斬新な音楽ですが今では斬新さはまだあるながらも「20世紀の音楽ってこういう感じ」という当たり前感が漂いつつもあります。
こないだちょっと読んだ記事であったのですが、音楽を聞いている間脳はある程度先を予測しようとする、というか常に先を「期待する」(anticipate)そうで、音楽はその期待に望むものを与えるか、またはその予想を裏切ることで聴き手の心を動かす働きがあるそうです(大分おおざっぱな説明だ!)。
だから作曲家側としては期待に望むものを与える方法、そして予想を裏切る方法どちらもマスターしなければならなくて、その中でも予想を裏切るのはやっぱり奇抜なこと、今までなかった斬新なことをやらなくちゃならないわけで。
それでまあ今日下に紹介するようなテクニックを使うのですが、それも何度も使われると聴き手もある程度予想できるようになって、結果クリシェになってしまう、というわけで。
ちょっと偏屈気味でスノッブである、音楽において割と「変わった」ものを好む、いわゆるポピュラーな感じのクラシックを疎む私ですが、意外とクラシック音楽にあるクリシェ的なテクニックに弱かったりもするんです。
英語でいうと「soft spot」というか、どうしてもその使い古されたフレーズなどに意図された反応をしてしまう、そんなクリシェを許してしまう、そういうところがありまして。
今日はそんな「背を向けられない美しいクリシェ」をいくつか紹介していきたいと思います。
1) ピカルディの三度
短調の曲が最後の終止和音だけ長調になることをこういうそうです。バッハがよく使ったテクニックで、私はこれをキリスト教で苦痛から最終的には解き放たれる、救いがあるみたいな意味合いがあるんじゃないかと解釈しています。
音響の物理からしても短和音というのは緊張が生じる、「不自然」な響きで、それが倍音の関係で「自然」である長和音に移行するのは本当に開放感というか、resolveした感覚が強いです。なんというか、いくら使い古されてもいくらたくさん聴いてきてもその根底の感覚は変わらないみたいですね。
先ほど書いた通りこの曲はバッハの音楽で多用されていて、短調の曲もほとんどピカルディの三度で長調になって終わるのですが、例を挙げると以前弾いた平均律第1巻第22番(変ロ短調)は前奏曲もフーガもはっきりとピカルディの三度で終わります。ちょっと変わった使い方としては同じく変ロ短調のショスタコーヴィチの前奏曲とフーガ(第16番)のフーガで、最後のセクションまるまる1分ほどが長調になっているというとっても長いピカルディの三度となっています。効果はものすごいですよー。
2) ナポリの6度
ナポリの6度は毎度おなじみ完全終止(「ちゃんちゃん♪」の和音進行)の前にメインの調の半音上のコードが入る、というハーモニー進行です。音楽理論を抜きにして説明するのは難しいのですが、「メインの調の半音上のコード」というのは普段メインの調で音楽を進めているとまず出てこない、メインの調と関係ないまさに「青天の霹靂」的なコードで。
さらにナポリの6度に当たる和音は♯のつく調なら♭メインのコード、♭のつく調なら♯メインのコードとして現れることも多いので理論が分からなくともかなり色彩や印象ががらりと変わるため聞き分けることが比較的容易です。
今書いたようにかなりインパクトの強いコード進行ですが、ロマン派の時代にに移行するにつれてハーモニーの変化がもっと自由になり、ナポリの6度の使用頻度だけでなくもっと奇抜なハーモニーの変化も使われ、さらに20世紀になってハーモニーの動きは本当にいろんなところに行ってしまったのでクリシェと化した・・・という経緯でしょうか。
ナポリの6度はポップミュージックも含め様々なところで使われていますが私にとって印象が強いのはチャイコフスキーの作品、特にワルツ曲ですね。最後の方で複数回使われることも(ちょっとくどい使い方ですが)。さりげない使い方としてはショパンの前奏曲第20番かな。割とジャズっぽい和音進行の曲の中に深みをさらに出すナポリの6度(第2フレーズ、そしてその繰り返しの最終フレーズそれぞれの終わりにみられます)。
3) ペンタトニック
ペンタトニックとは五音音階のこと。日本では「四七抜き音階」といって、ハ長調だったらファとシを抜いたド・レ・ミ・ソ・ラでなる音階のことを言います日本では(伝統音楽でもポップでも)よく使われる音階で、よくある「黒鍵だけで弾ける曲」はペンタトニックで成り立ってますし、日本人に馴染みやすい外国のメロディーもまたペンタトニックから成り立ってることが多かったり。
ペンタトニックは日本だけでなく東洋全体で基本となっている音階のため、西洋ではエキゾチック・オリエンタル風味を出したいならペンタトニック!と安易に使われる事が多かったり(特にパリ万博以降乏しい知識とイメージから漠然と東洋へのあこがれを抱いた作曲家達)。安易なんだけど確かにすぐ分かるし、やっぱりちょっとエキゾチックな感じとなじみやすさを感じてしまうのですよね(苦笑)
前回の「今日の一曲」のクラムの「A little suite for Christmas」の「東方の三博士の礼拝」が分かりやすい例ですかね(このエントリーのきっかけでした)、すぐ「あっ!」て思うと言う点では(笑)でもペンタトニックを乱用してるといえばドビュッシーでしょう、ダントツで(笑)割とベタな使い方をする中で、ピアノのための前奏曲集から第2番「Voiles」はなかなか粋な使い方をしています。この曲はほとんどが全音階(音階の一つの音から次の音がかならず全音)で成り立っていて、調がものすごく曖昧になってる中にペンタトニックというまるで違う毛色の音階が使われる事でさあっと違う色の風が吹くようなエフェクトになっています。
4) ヘミオーラ
ヘミオーラとは3拍子の曲で(1は常に強い拍→)1 2 3 |1 2 3 とリズムがなってるところが突然1 2 1 |2 1 2と、なんというか小節をまたぐようにリズムが「ずれる」ことを指します。
一番有名な例はバーンスタインの「ウエスト・サイド物語」の「アメリカ」ですかね。あの曲は6拍子ですが、1 2 3 1 2 3 |1 2 1 2 1 2と2種類の区切りが交互に現れるので私の説明よりかはあるいは分かりやすいかもしれないです(ただネットでこの違いを聞いてる例を見てるとそんな簡単にはいかないのかな、と思ったりも・・・)
リズムは明らかにずれますが、変拍子を伴わないですし音楽の流れを大きく妨げたり変えたりはしないのでリズムに変化を与える、聴き手の感覚をゆさぶるのにはかなり容易なリズムテクニックで。
これもまたチャイコフスキーのワルツによく出てくるやつですね!(笑)実際に踊っててヘミオーラが出てきたら貴族の方たちはどれだけ気にするか、そこまではわかりませんが(バレエで使うとき振り付けはヘミオーラ意識してるのかな・・・)それでもやっぱり「おっ」と耳をひくものがあります。耳をひく、以上に「これは凄いな」と思ったヘミオーラの使い方はドヴォルザークの交響曲第7番第3楽章でしょうか。ヘミオーラは珍しいほどの高頻度で出てきますが、1 2 1 2 1 2にスイッチするときの力強さがリズムのアンバランスさを強調してものすごいキャラクターを打ち出してます。
今回紹介した「クリシェ的テクニック」のそれぞれに対してちょっとベタな使い方をしている曲と粋な使い方をしている曲と両方挙げてみましたが、いくら使い古されたものでも使い方と表現者の腕によっては新鮮な魅力を出すことができる、ということで・・・
良い例としてはパロディ的な用法ですかね。クリシェを自虐的に、皮肉的に使ってユーモアと魅力を出す、でもそういうことをうまくやるにはスキルが伴う。
今の時代、クラシック音楽では300年の歴史が積み重なり、他のジャンルでも様々な国の音楽にアクセスできるようになり、音楽が量産化できる時代になり、とにかく「既存の音楽データ」が膨大なものになってきている中、音楽におけるクリシェもまた急速に増え、今現在も音楽界にはクリシェがそこここらにあふれている状態になっているとも言えます。
これは話すと長くなるんで別の機会にとっておきますがポップミュージックでの不協和音の使われなさだったりその他「不快」なものを避けることによって「予想を裏切る」ようなことをしない傾向だったり、とにかく耳の肥えた現代人の耳をひくようなことをしない、クリシェの海に溺れている音楽的な懸念がたくさんあって。(これもまた別の機会用ですが、私にとって良い作曲家の判断基準の一つは「不協和音の使い方が上手い」です)
以前読んだ論文で「音楽によって表現されるネガティブな感情は聴き手にとってネガティブな影響を与えない」というのもあり、それから先ほどベートーヴェンと春の祭典の例を挙げたように「予想を裏切る」ことは聴き手の注意をひき、インパクトを与え記憶に残り、そしてそれが一時的に不快なものだとしてもやがて親しみ慣れていく、ということもあり。(長期的な展望が欠けている、ということなのかな)
そして先ほども書いたようにクリシェを使わないことだけが「予想を裏切る」ことじゃなく、クリシェもまた使いようで。それもさっきのも全部ひっくるめて表現者の「意図」が問題なのかもしれないな、という思いはあります。
ちなみに書く側だけではないですよ。「音楽を選ぶ側」もそうですから。(例えば日本において弾かれている・弾かれていない音楽のおおまかな分布への懸念)
こんなに語るつもりは当初なかったんですが熱くなってしまいました。普段からジョージ・クラムの言葉でいうところの「大量の無関心な音楽にあふれているこの世界で「良い」音楽未満のものを創ることは良いことだとは思わない」、という思いを抱えてて。
・・・皮肉にも元ネタの歌のタイトルに戻ってきましたね。「Save your soul~美しきクリシェに背を向けて」。
このエントリーの内容に沿わせてみると耳ざわりの良い、予想に叶ったものばかり与える音楽のクリシェに背を向けて、予想を裏切られること(それは不快感だったり、別の意味で快感だったり)で魂を救え、と。
予想以上にまとまってしまって困惑しながら今回は結び。
今日の一曲: ピョートル・チャイコフスキー 「白鳥の湖」 第1幕より「ワルツ」
タイトル元ネタ曲も、粋な使い方もいいんですけどね、他の機会で余裕で紹介できると思ったので、ヘミオーラとナポリの6度がクリシェ的な感じで聴けるこの曲を。(あと説明短くてすむ)
そもそもチャイコフスキーのワルツ自体がクリシェなんですよね。バレエでも幾度となく使いますし、交響曲でも使いますし(交響曲のはでもクリシェじゃない使い方が多いかも、比較的に)、あと小品でもワルツと名のつくもの、つかないものいろいろ。
そのなかでも何となく典型的、というか「チャイコフスキーのワルツといったら」みたいなところがあるクリシェのなかのクリシェ(笑)
単純に華やかで、優雅で、短調に変わるセクションがあって、最後の方にヘミオーラ+ナポリの6度で盛り上げて・・・というお決まりのコース。でも分かっていても魅力があって、クリシェじゃないところもたくさんあったり。
実際に弾いてるとチェロのパートってそこそこ悪くなかったりしますからね~
とにかくクリシェといえば・・・でなくチャイコフスキーのワルツといえばまずこれを聞いて欲しい、と。バレエのストーリーの流れには直接的には関係ないですし単品でもそれなりに成り立つしっかりした曲でもありますので。