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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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ピアノを弾くことだったり音楽の表現だったり自分の練習だったり、独り言のような話
前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
なんか自分でも最初予期しなかった話の発展しように今でもちょっと戸惑ってます。

今日は一応仕事&練習納めでした。なんといっても休まなきゃいけないので!
気道の過敏もまだ治らないですし、きっとストレスが関連してると思うので・・・
来年の仕事始めをどうしようかとちょっと悩みながらとりあえず今年はおしまい、と自分で決めた次第です。
(練習は明日休んでまたすぐ始めたいですが。新しい曲が待ってますし)

で、仕事おしまい!と喜ぶ暇もなくヤドカリさんが一匹脱皮しているのを見つけ。正確には皮があるだけなのでもしかしたら元の殻に戻ってこもってるのかもしれないのですが、もう2匹脱皮で亡くなってるのでやっぱり気が気でないです。とりあえず水槽を暗くしてそっとしておきながらやきもき。

今日の話はどこかほんのり昨日の続きの話?ともいえるかもしれないですが。
音楽を新しく作ることと、新しい音楽を弾くことと、すでにスタンダードなレパートリーとなってる曲を弾くのにはそれぞれ違うスキルだったり思考回路が要るんですよね。
私は比較的新しい音楽を弾くのが好きですが、実際「録音が存在しない」ほど新しい曲を弾いたのは1回あるかないかくらいで、さっきの3つの中だと2番目と3番目の間の割と広い間を専門としている、みたいな感覚です。
つまりは、すでに少人数そのレパートリーを専門として素晴らしい演奏・録音を残しているながらも、まだまだ弾く人・録音の絶対数が少ないから「この曲はこう」という無言のイメージ、いわば「イデア」のようなものが固まっていない、様々な解釈や弾き方が点在している状態のレパートリーが得意、ということで。
そうするといろいろ解釈や演奏を自分で探索するのにある種の気の楽なのがあるんですよね。

基本的には私が弾く曲を選ぶとき、曲を弾きたくなる思いの底にある基盤は「その曲に自分だけの意味を見つけられるか」というのが一番の基準だと思います。
(別の言葉でいうと「自分色に染められるか」っていうのもありますかね)
すでにイメージがある程度固まってきている音楽から新しい意味を見いだすのはとても難しい。必ずしも新しい意味を見いだす必要を感じずに弾ける人もきっとたくさんいるのだろうけど、そういうレパートリーだったら他の人の演奏を聴いてるだけで十分だ、と思ってしまう気質なのです。
だから作曲されてからの歴史が浅い現代音楽だったり、マイナーな曲に走りがちなところはあります。

他人の目だったり弾き方・解釈に関してはあんまり気にはしないほうではあるのですが、でも周りにそういうものがあふれているのとないのではどうしても心持ちが違うような気がします(自分に影響を及ぼし得る要因の量は完全にコントロールが効かない、というところもあるのでしょうか)。周りの影響が少ないほうがやっぱりのびのびできる。別に誰に急かされているわけでも指示されているわけでもないけど、影響が少ないほうが時間的にも空間的にもいろいろ探索できるような気がするんですよね(せっかちな性格ではありますが)。
特に大学なんかだと課題であるないに関わらず結構みんな曲が大々的にかぶることが多くて、そういう環境だとなかなかスタンダードなレパートリーで自分だけの味が出せるとは思えないんですよね。だからなのか、バッハの平均律第1巻の変ロ短調もプロコフィエフのピアノソナタ第2番も卒業してから初めて手をつけることになった、というか。そういう意味では一人で音楽をやるのはものすごく自由です。

もちろんこの「自分だけの意味を見つけられるか」というのには自分の心境だったり諸々インスピレーションだったり、他の要因によって時が経つ毎に変わってくると思います。今まで意味を見いだしてた曲に意味を失うこともあれば、逆に今まで新しい意味を見いだすことができなかった曲に新しい意味を見つけたり。
意味を見つけるのは音楽だけじゃなくいろんなきっかけがあって、もちろんいろいろ見聞を広げたり想像を広げたり知識を深めることできっかけに出会える機会は増えるけど、ちょっと運任せなところ、というか向こうから来るのを待たなくちゃいけないのもある。そこは確かにもどかしいけど、自分が今生きてる中で創作や音楽に関してトリガーが来ることは最高の楽しみの一つだと思います。

あらゆる表現形態において自分の表現のスキル、というのはかなり拙いもので、自分がイメージしてることが例えばピアノでどれくらいできてるか、というのは本当のところ微々たるものだと思います。
自分の今の練習の仕方もどっちかといえば「レパートリーを広げる」中心で、つまりは「弾けるようになる」プラス「解釈やイメージを固める」はあるんだけれどその2つを合わせた「音楽の解釈やイメージの表現を極める」ところは比較的弱い気がします。
原因としては人前で演奏する予定がないことだったり、そういうエレメントはプログラム組みによっても左右されることがある、というのもあり。
でも何よりも今の自分にとってはやっぱり「レパートリーを広げる」こと、そしてそれによって日常の色々から蓄積される「表現したいこと」をどんどん形にしていく術を広げていく、ということであり。
とどのつまりある曲の音が弾けて、曲の解釈とイメージを固めておけば後ほどもっと大きい形式で形にしたとき(コンサートとか)、そうやって広げたレパートリーのストックから曲を選んで「弾けるようになる」プラス「解釈やイメージを固める」プロセスに専念できる、という思惑が一応あるのです。

ということで今はひたすらストックを増やすぞ、と自分に言い聞かせてます。どこかやっぱり詰めの甘い部分はでてくるけれど、大学の時の経験だと曲を詰めるにはプレッシャーがあった方がやりやすいような気がするので。
ある程度点を打ったら線で繋いで行くのもいいし、その線で繋ぐ過程もまた楽しみにしています。

線で繋ぐ過程、で理想なのは前Piano Landmarksで先生がやってたことかな。
このエントリーにちょっと書いてあるんですが、先生がその時ひいたプログラムは「前奏曲」と名のつく様々な曲(多くはハ長調)をバッハからショパンからリストからラヴェルからプロコフィエフから・・・とまるで脳内でアイディアが流れ翔るように続けて弾いてったもので。
そういう風に一つのアイディアを元にいろいろ展開していくようなプログラムを一つ持ちたいな、と思ってます。
そのために点を増やしてるわけなんですが(笑)
先生に「あれよかったですよね~」と話すことはできても繋ぐべき線が見えるのは私自身だから、これもまた気長に待っています。

さて、なんだか自分に言い聞かせるような話ばかり続けてしましましたが、明日は大晦日。
できれば一日外に出掛けたまま過ごす予定です。たまにはお金をかけることを躊躇わずいろいろ楽しんでみたいのでこれからラフに予定をたてようと思ってたり。
なんたって明日は天気も良いし32℃!一人でも遊ぶにはこんな良い日はない!夕方から夜もきっと暖かいですし!
できれば音楽も聴きたい物を心のままに、で新年を迎えたいですね。

ブログの更新は明日はかなわないと思うので早めのご挨拶を。

今年も一年このブログを訪れて、読んでくださりありがとうございました。
検索で来られる方がやはり多いですが、お探しのもの、そうでないけど心に残るもの、何かが見つかったことを願っています。
また来年も引き続きよろしくお願いいたします。
良いお年をお迎えください!
Thank you for a wonderful 2011, and hope to see you next year!


今日の一曲: クロード・ドビュッシー 前奏曲集第1巻 第2番「Voiles」



前回ベタなやつの方選んで楽したので今回はベタじゃない(ペンタトニックの)使い方の方を。

まずはタイトルに言及すべきですね。「Voiles」というのはフランス語の題のままなんですが、この言葉は定冠詞(aとかtheにあたる言葉)が女性形か男性形かによって意味が変わる、という。
男性形だと「帆」、女性形だと「ヴェール」。ドビュッシーはあえて明記しないことで両方のイメージを持たせているとか。

前回のエントリーに書きましたがこの曲の大部分は「全音階」で成っています。
半音はピアノで言うと直接隣り合った2つのキー。半音×2つ=全音。
全音階は半音ずつ上がっていく「半音階」の音を一つずつ飛ばした結果できる音階です。(ド、(ド#を飛ばして)レ、(レ#を飛ばして)ミ、(ファを飛ばして)ファ#・・・)
別の言葉で言うと一オクターブを6等分した、という・・・
・・・ピアノ教えるのやめてからこの手の説明下手になったな。日本語だからってのもあるけど。

まあとにかく全音階というのは20世紀ちょっと前まであまり使われなかった音階です。
それはなぜかというと「普通使われるどの調にも属さない、どの調も示さない」音階で、全音階でハーモニーを作ると不協和音になるだけでなく、ハーモニー進行の方向性を失うからというのもあって。

だからこの曲「Voiles」は最初っからかなり曖昧な方向性と色彩で始まります。
耳に良いとは言えないけれど悪いとも言えないちょうどいいくらい(笑)
それがしばらく続いたあと昨日紹介したペンタトニックのパッセージが入って来るわけです。
ペンタトニックの音階は全音階と真逆ではっきりと特定の調を示し、どの音をとっても不協和音らしい不協和音ができない、という性質があります。それが周りの曖昧な色彩の中をまったく違うはっきりした色で染めていくのです。

ドビュッシーの時代というのはこれまであったハーモニーや調のシステムから違うものを作ろうと色々実験している時代で、この曲も確かにそういう側面があって。
前の時代と同じく音楽においてハーモニーに緊張と解放を与えることで方向性ってでるものだけど、今までと違うルールと素材でいけないものか、という探索の結果の一つがこの曲です。(緊張=全音階、解放=ペンタトニック。ざっくり言っちゃいましたが)。

それにしても全音階が作り出すこの神秘的な雰囲気がものすごく好きです。先ほど書きましたように必然的に不協和音が多くなりますが、弾き手のタッチ(指だったりペダルだったり)がそれを不快ではなく神秘的にする、というのもまた良いです(そういうタッチの探索が弾き手として好きで楽しいです)。

前奏曲集第1巻は「亜麻色の髪の乙女」や「沈める寺」など有名な曲も含め、キャラクターの立った、お国巡り的な、魅力にあふれた曲が収録されています。耳に良いだけでなく時代との関連やドビュッシーの表現方法などから見ても興味深い曲たちで。
有名なものに限らず聴いてみてくださいな♪

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