忍者ブログ
~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

芸術と心のメンテナンスと
前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
そしてちょっとご無沙汰しててすみません。無事新しいPCを買いました。
英語キーボードなので括弧のキーの位置が違うのがちと慣れませんが今日は仕事も新しいPCでやりましたしとりあえずOKぽいです。
あとはATOKかな・・・

ブログ更新がない間もなにを書こうか考えてました。ストックはあるにこしたことがない、というかいくつか書きたいトピックがあると安心しますので。
で、ハープシコードの話を少ししようか、と思ってたのですが今日また碓氷峠音楽堂本舗を聴いてて(ただいま第22回まで聴き終わり)ちょっと思ったことがあったので。

概要としては、同じ音楽を作る・音楽に携わる活動でもレコーディングなどでスタジオにいる時間とコンサートなどで人に向けて演奏する、人と触れ合う時間の違いだったりバランスだったり、そういう話をしてらしたのですね。ACEさんと海月がちらっと。
それを聴いて「あ、やっぱりそういうところの管理とかメンテナンスとかものすごくしっかりしてるしそういうことにおいての自分の心の中の欲求の移り変わりもちゃんと把握してるなあ」と。
(あらら、言葉に直すとうまくいかないものですなあ・・・もうちょっとこう、直感的ではありますがちゃんと考えてたんですが)
当たり前のことではあるのかもしれませんが自分はまだまだなので。

なんらかの形で芸術に携わる、なにかと創る人はプロでもそうでなくてもやっぱり「魂が一番の資本」だと私は常日頃思っていて。
たとえば今のACEさん海月さんの話にあったような「内外のバランス」についてはやっぱり芸術を「生業」としている方々にとってはものすごく重要な話だと思うんですよ。そうでない人にももちろん大事ですが、ひときわ。

芸術家は精神を病んでる、アンバランスな方がいいというかクリエイティブな、突飛なものが作れる、感性が独特なイメージが巷にはあるようにも思われますが、「形にする」プロセスにはやっぱり心が万全な状態であるほうがいい・・・はずだと思うんですよ。
あまりにも精神の状態が悪いと心にあるもの、溢れるものに振り回されたり飲まれたりして形にできなくなる、というのはこれまでに何度も経験してきたことですし。一旦アンバランスになったら転がり落ちるのにブレーキをかけるのは至難の業です。
あと精神のアンバランスが創造性を助け、そしてその後にコントロールを失い命まで失ったといえばシューマンが有名、かつ典型的な例ですね。

私は音楽など周りでのメンタルヘルスケアをドクター、そして病院のプログラムなどを通じて学びましたが、そういうものが確立していない時代に生きていた作曲家たちはどうだったかな、と先ほどの話を聴いて思いをはせてみたくなったのです。
先ほどのシューマンは外的要因(=病気)が不可抗力として働いていましたし、似たようにモーツァルトも外的要因(=妻の浪費などによる貧困、後の病気など)により自分の心のメンテナンスは比較的乏しかったと思われます。

ただ他の作曲家を考えてみるとメンテナンス的なことがエピソードとして残ってたりするんですよね。
メシアンだったら鳥類学者としてのフィールドワーク的な活動だったり、ショスタコーヴィチだったらおそらく心を共にする仲間たちと本音の音楽を披露することだったり。ベートーヴェンは散歩をしたと聞いていますし。

そのなかでちょっと特殊な内外のバランスの管理のしかたをした人が一人いるんですよね。
それがグスタフ・マーラー。
彼は夏以外の季節、つまりコンサートなどのシーズンの間は指揮者としてオーケストラで活動して、夏は別荘で作曲に専念する、という年間スケジュールだったそうです。
少なくとも自分には真似できない(ちょこちょこ切り替えなくちゃだめなんですよねー・・・気分のサイクルもありますが)、結構極端なサイクルだと思うんですが。もしかしたらマーラーも季節による心の動きのパターンがあったのかしら。

芸術家を作るもの、支える外的要因(マーラーだったら妻アルマとか)って面白いなあ、と思いますし、芸術家が「創る」ために自分で自分の心の動きを把握したり調節したりしてよりよいものを作る心を保とうとしている(主目的が直接的にそれかどうかは別として)のを見るのは本当に興味深いです。

とはいえども現実においてはいつも自分の心の動きとともに行動できるわけではないんですよね。
物理的にそう行動できないならばそれを補う、代わりになるものを創ることができるのも芸術家、ということもありますね。
「外」に心はあるのだけれど、物理的にできないから「内」にいながら「外」で得たものを糧にして「外」に思いを馳せ、その状態に自分が一致できるまでの間心を支える・・・というような。
その「別の」場所や状態への欲求とか憧れがまた特別なものを創りだす動力になる・・・とか。
ちゃんと表現できなくてついつい言葉を濁してしまう(汗)

創る人と作品のつながりも興味深いですが、創る人と創るプロセスに関わる思考・行動・感覚、そしてそれによりできた作品とのつながりもまた興味深いですね。
私はプロではないですが何らかの「創る」活動は自分の心の多くを占めていますし、メンタルヘルスのケアとも関連深いのでそういうところを(創ること自体に加えて)生きながら探っていくのもまた楽しみですし、自分にとって大事だと思います。
少しずつ気にしながら少しずつうまくやっていけたらなあ。

ということで次回ハープシコードの話をなんとかまとめたいと思います。そんなに詳しくはない視点から、ということになりますのでそんなにたいした話ではないですがね(汗)


今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第5番第1楽章(ピアノ編曲)



今日の一曲はマーラーじゃなきゃ!と思いましたがはて何にしようかと思いちょっとぐるぐるしたところでこの曲を選びました。
マーラーは音楽に関する色々な側面においてすべてすごい、のですが先ほど書きましたように夏に作曲を集中してやるため(それ自体も驚きながら)、この交響曲第5番みたいな大曲を作曲しながら他の小規模でない曲も同時進行しちゃう、というのもまた超人的・・・(マーラーの曲はジャンル超えてお互いにつながりがあるのでそういう意味ではやりやすいところもあるのかもしれませんが)

マーラーの5番は有名ですが、彼自身が編曲したピアノ版はちょっとレアもの扱いです。なんと本人の演奏がピアノロール(紙による録音・再生装置のついたピアノ)の演奏として残ってるのです!これは貴重!
ピアノロールといえばラフマニノフも有名ですね。現存しているラフマニノフ演奏の録音はピアノロールが多いです。
もちろんピアノロールでどれくらい弾き手の演奏が正確に忠実に伝わるか、というのはいろいろ議論されていますが、歴史的・音楽的価値はそれでも結構高いと思います。

そもそもマーラーはあんまりピアノ曲、そしてピアノが入ってる曲を書いてないのでものすごく意外性があるというか。
マーラーの交響曲を聴いているとこれはピアノの前で考えたんじゃないだろうな、というようなオケ使いおよび音楽の複雑さですし。(そもそもピアノで弾けるんだ!と。マーラーは弾き手としてもしっかり弾いてますし(
でもこのピアノ版、予想以上にオケの各パートをカバーしてて面白いです。元の曲を知ってからピアノ版を聞く、というのが前提ですがとにかく「へえーなるほどー」と思っちゃう編曲です。

今ふと思ったのですがピアノ版を聞いてから元のオケ版、というのもありかな、と。なんせオケの複雑さもありますし、以前レクチャーで聞いたように耳が慣れてないとなかなか難しいところもあるかもしれないので・・・(ただ入手するのはやっぱりオケ版のほうがずーっと容易。と思ったらamazonにMP3アルバムとしてピアノ版もあった!)
どっちにしてもこの「作曲家が弾いている」という貴重でちょっと不思議な感覚(ぬくもり?)を体験してほしいな、と思いますし、マーラーの5番は聞きやすく、バランスもとれていて、どこをとっても魅力的なマーラーの音楽をある意味代表するすばらしい曲なのでひとつどうか聞いてほしいな、と思います。
(オケ版はCDとして持ってて損はない!と力説します!)

拍手[1回]

PR
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Comment:
Pass:
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック