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前回のエントリーに拍手ありがとうございました。
なんだか前の前のエントリーの歌のタイトルのスペル間違ってたりちょっとだめだめですみません。
今日はちょっと休みました。といっても外に行ってきたのでくたくたではあります。
マッサージに行ったので体はだいぶ軽くなりました。施術中の息の楽なこと(笑)とくにうつぶせ中。
最近夜になると気道がぎゅっと縮まる、固くて広がらなくなるのでなんかできること学ぶことはないかなあ、と。
さて、今日はこないだから話してましたトピックです。
相も変わらず毎日仕事夕方の部(またはそれに相当する時間)には「碓氷峠音楽堂本舗」を聴いています。ただいま58/148回(今日更新があって増えました)。
未だに曲を覚えるスピードが曲を聴くペースに追いつかないのが悩みですがトーク、音楽ともに楽しんでいます。
当番組のパーソナリティでありますface to aceのお二人がユニットで創る音楽のコンセプトを「風景の見える音楽」と表現していまして。
それを聴いていつものことですがそれをクラシック音楽でいうとどうなのかな、と私は考えまして。(↑のほうは後ほどまたゆっくりもっと聴いてから・・・)
「風景の見える音楽」はクラシックというジャンルでも色々あります。
色々ありすぎた結果、見えた風景とその元の音楽を創作に組み込みたくなって自分の創作文とそのアイディアの量とちらばりがものすごい大変なことになってますからね!(笑)
このコンセプトを言われてぱっと思い浮かぶ作曲家、といったらやっぱりヴォーン=ウィリアムスとか、レスピーギとか、ドビュッシーなんかもいいですね。
でも数日前それを考えててここでふと止まりました。
自分にとって強烈な印象を残した「風景の見える音楽」はそれとは全く別の方向にあるじゃないか、と。
高校生くらいのとき?ショスタコーヴィチのチェロソナタの存在を知って、ちょっと無謀ながらも(チェロで)弾き始めて。ショスタコを取り巻く時代背景にもだんだん詳しくなりつつあった時期。
そのころこの曲の第3楽章を改めて聴いてみて、本当にびっくりしたのを今でもはっきりと覚えています。
聴きながら、目の前に冬のはじめのロシア、というかソヴィエトの風景が見えたんですよね。行ったこともないですし、第一今とショスタコーヴィチの時代ではかなり変わってるでしょうし。
その時見えたのがちょうどこの絵にあるような。並木が並んで、空は灰白い雲と霧に覆われた道路。
同時にその寒さとか寂しさとか冷たさとか、その他あの地あの時代独特のものをいろいろ感じて。
それがものすごく衝撃だったんです。今でもあの曲を聴くたびに同じ風景とほぼ同じ衝撃を感じるのです。
でもショスタコに関してはそれだけじゃないんです。
チェロソナタの第3楽章と同じような風景はピアノ五重奏の第2,4楽章でもはっきり現れますし。
あと幼少の頃からずっと知っている交響曲第9番の第5楽章、第2主題・・・になるのかな?あれは。あそこを聴くたびに本当に小さい頃から「兵隊がやってくる」というイメージ、そしてそれに伴うある種の恐怖を感じていて。
それこそロシア(当時まだソヴィエト)のお国柄だったり、ショスタコが政府に追い詰められていたことも知らないのにそんな強烈なイメージが子供の想像力に働きかけるのはかなり特異なような気がします。
(そして先ほどの絵画の元サイトを一昨日?昨日?見つけて、ずっと見てたときはなんだか涙がちょちょぎれそうになりました。見たことのない景色なんですけど、どこか懐かしいというか・・・長い間親しんできたショスタコーヴィチの音楽から感じられるものと絵画にある空気が本当に一致するんですよね。胸がきゅっとなります。何度見ても。)
ショスタコーヴィチの音楽を「風景が見える音楽」と形容するのはなんだかでも意外な気もしますね。
ショスタコの音楽って結構強烈な感情の表現で、スターリンの圧政の中における苦しみ、やりきれなさ、怒りだったり、鬱屈した感情が爆発するような音楽ですし。
だから訴えかけるところの主となるのはやっぱり「風景」ではないな、というのもありますし。
あとは「風景が見える音楽」において表現される風景、というのは一般的にどちらかというとポジティブなフィーリングが伴うこともあると思います。
解放的な風景だったり、ノスタルジーを伴う風景だったり、美しい風景だったり。
でもショスタコーヴィチは住んでるところ、表現するものがああなので音楽に現れる風景もかなりネガティブなトーンがつきまといます。
先ほど言及しました寂しさ、冷たさだったり、ロシアの厳しい自然だったり急速に近代化しようとした共産主義の国の風景にみる無機質さだったり、容赦なさ、貧困、独裁政治における窮屈さ、静かな恐怖だったり・・・
そして見えるのがソヴィエトの風景でない場合も(交響曲第5番第3楽章、第9番第2楽章、ビオラソナタ第2楽章、バイオリン協奏曲第1番第2,3楽章など)ショスタコの音楽はとてつもない絶望や孤独を感じさせる風景を見せることが多いように思われます。
だから機能的に言えば「風景が見える音楽」、というのとはなかなか結びつきがたいところがあるのかな、と思います。
ショスタコーヴィチは彼が生きた時代と土地と状況、そしてその中における彼の強い思いを強烈に、リアルに表現した音楽で。必ずしもすべてがソヴィエト政府だったりスターリンだったりのしたことを告発するものではなかったのかもしれませんが、彼がそうやって表現することに精一杯心血を注いだ結果、彼がいた時や場所の風景や温度、雰囲気などもまたリアルに伝わる結果になったのかな、と思います。
このブログで何度も書いてますが、そんなショスタコーヴィチの音楽は情報が閉鎖されていたあの国のあの時代を語る大事な歴史的記録だと私は強く思っています。(もちろん一人の作曲家が書いた、個人の思いが強い音楽なのである程度のバイアスはもちろんありますが)
ショスタコーヴィチの時代とは色々変わったことたくさんありますが、いずれロシアという国を自分の目で見たいと思っています。
そして改めてショスタコーヴィチの音楽を「他のどこでも味わうことのできない風景が見える音楽」としておすすめしたいです。ぜひぜひ聴いてみてくださいな。
今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」 第1楽章「宮殿前広場」
最近小編成の曲が続いたので今日こそはオケ曲を!と選びましたがあんまりどっかんどっかんはしないですよー(笑)
私にとってとても思い入れの深いこのショスタコ11番。なかなか第1楽章だけで聴くことはないですし、話すにもきっかけがないとこの楽章はしまいっぱなしになるかな、と思ったので今日のトピックを機に紹介してみます。
この交響曲はショスタコが生まれる1年前、1905年にロシアで起こった「血の日曜日」事件を題材としています。単純化した見方だとこの事件はロマノフ王朝の本格的な没落のきっかけであると同時に1917年のロシア革命に向けた最初の大きな動き、ともいえる事件です(ちと大げさかしら)。
貧困に悩んでいた国民たちが集まり、ツァーリであるニコライ2世に向けてなんとかしてくれ、と嘆願のために宮殿に出向いた(デモ、というほどではないんですよね確か。)のに対して軍隊が発砲し千人単位で人が亡くなった、という経緯です。詳しくはwikipediaをご覧ください。
実際の虐殺は第2楽章で起こります。第1楽章はその前の前奏曲といったところでしょうか。
この交響曲を通してたくさん使われる革命歌だったり物語を進める上でのテーマだったりがこの楽章で初めて紹介されます。
「宮殿前広場」は1月のロシア(旧暦でも1月のはず)。
まだ人々が集まり始める前の静けさ。がらんと広がっていて、雪が積もっていて。空は雲に覆われていて。
空気は冷たく、どこか張り詰めている。
この時点でもう何年も民は苦しんできているんです。格差だったり、貧困だったり、それが溜まりに溜まった状態。それが空気に濃く現れているのだけどでもまだ誰も動いていない。まだ「小さな父」であるツァーリへの不満を表したり、怒りが爆発したりはしない。あくまでも請願に向かうだけ、そう思っている。
そんな中でティンパニの音色が近い未来の不吉な予感を奏でるんですが、このティンパニ、交響曲を通じてソリストに値するほど大活躍なんですよ。ぜひ常に聞き耳たててくださいね。不吉な弱音から爆発するffまでめちゃくちゃかっこいい!
そういえば第1楽章はわりと個々の楽器に耳が向けやすいかも。
あと第2楽章の最後、虐殺の後の風景でこの第1楽章の一部がまた現れるのですが、そのときに弦がみんなトリルしてて、チェレスタが入るというのもまた絶妙。トリルはもちろん恐怖の緊張の震え、ということで。ベタそうな表現だけどものすごく効果的。
(交響曲全部がちょっと長いな、と思ったら1+2楽章(虐殺の経緯)、3+4楽章(弔いと警告)と分けてもいいですね)
この第1楽章を聴いて風景もそうですし、雰囲気もそうですが、何よりも「温度」を味わってほしいと思います。それは本当に(行ったことないですけど)ロシアの冬そのもので。
この曲に、そしてショスタコの音楽に限ったことではないですが、必ずしもポジティブじゃない感覚、風景、感情を本当に素晴らしく、かつリアルに体感できる音楽は貴重で、本当にすごいと思います。
だからこれからもショスタコーヴィチの音楽を一生かけて愛していきたい、と私は心に深く刻みます。
(私が14の時から愛聴している録音はアシュケナージ指揮でサンクトペテルブルグ管弦楽団のなんですが、今チェックしたら手持ちがどっかいってしまった上に(あれ~?)amazon.co.jpでも見つからなかったので持ってるもう一つの録音をリンクします。ちょっと全体的にテンポが遅いようにも感じるのですが、一般的に遅い録音から速い録音になれるのよりも反対のほうが遙かに難しい気がします。どのみちこの曲に関しては少なくとももう一つはいい録音を持っておきたいのでまた次回紹介するときには探しときたいですね。)
なんだか前の前のエントリーの歌のタイトルのスペル間違ってたりちょっとだめだめですみません。
今日はちょっと休みました。といっても外に行ってきたのでくたくたではあります。
マッサージに行ったので体はだいぶ軽くなりました。施術中の息の楽なこと(笑)とくにうつぶせ中。
最近夜になると気道がぎゅっと縮まる、固くて広がらなくなるのでなんかできること学ぶことはないかなあ、と。
さて、今日はこないだから話してましたトピックです。
相も変わらず毎日仕事夕方の部(またはそれに相当する時間)には「碓氷峠音楽堂本舗」を聴いています。ただいま58/148回(今日更新があって増えました)。
未だに曲を覚えるスピードが曲を聴くペースに追いつかないのが悩みですがトーク、音楽ともに楽しんでいます。
当番組のパーソナリティでありますface to aceのお二人がユニットで創る音楽のコンセプトを「風景の見える音楽」と表現していまして。
それを聴いていつものことですがそれをクラシック音楽でいうとどうなのかな、と私は考えまして。(↑のほうは後ほどまたゆっくりもっと聴いてから・・・)
「風景の見える音楽」はクラシックというジャンルでも色々あります。
色々ありすぎた結果、見えた風景とその元の音楽を創作に組み込みたくなって自分の創作文とそのアイディアの量とちらばりがものすごい大変なことになってますからね!(笑)
このコンセプトを言われてぱっと思い浮かぶ作曲家、といったらやっぱりヴォーン=ウィリアムスとか、レスピーギとか、ドビュッシーなんかもいいですね。
でも数日前それを考えててここでふと止まりました。
自分にとって強烈な印象を残した「風景の見える音楽」はそれとは全く別の方向にあるじゃないか、と。
高校生くらいのとき?ショスタコーヴィチのチェロソナタの存在を知って、ちょっと無謀ながらも(チェロで)弾き始めて。ショスタコを取り巻く時代背景にもだんだん詳しくなりつつあった時期。
そのころこの曲の第3楽章を改めて聴いてみて、本当にびっくりしたのを今でもはっきりと覚えています。
聴きながら、目の前に冬のはじめのロシア、というかソヴィエトの風景が見えたんですよね。行ったこともないですし、第一今とショスタコーヴィチの時代ではかなり変わってるでしょうし。
その時見えたのがちょうどこの絵にあるような。並木が並んで、空は灰白い雲と霧に覆われた道路。
同時にその寒さとか寂しさとか冷たさとか、その他あの地あの時代独特のものをいろいろ感じて。
それがものすごく衝撃だったんです。今でもあの曲を聴くたびに同じ風景とほぼ同じ衝撃を感じるのです。
でもショスタコに関してはそれだけじゃないんです。
チェロソナタの第3楽章と同じような風景はピアノ五重奏の第2,4楽章でもはっきり現れますし。
あと幼少の頃からずっと知っている交響曲第9番の第5楽章、第2主題・・・になるのかな?あれは。あそこを聴くたびに本当に小さい頃から「兵隊がやってくる」というイメージ、そしてそれに伴うある種の恐怖を感じていて。
それこそロシア(当時まだソヴィエト)のお国柄だったり、ショスタコが政府に追い詰められていたことも知らないのにそんな強烈なイメージが子供の想像力に働きかけるのはかなり特異なような気がします。
(そして先ほどの絵画の元サイトを一昨日?昨日?見つけて、ずっと見てたときはなんだか涙がちょちょぎれそうになりました。見たことのない景色なんですけど、どこか懐かしいというか・・・長い間親しんできたショスタコーヴィチの音楽から感じられるものと絵画にある空気が本当に一致するんですよね。胸がきゅっとなります。何度見ても。)
ショスタコーヴィチの音楽を「風景が見える音楽」と形容するのはなんだかでも意外な気もしますね。
ショスタコの音楽って結構強烈な感情の表現で、スターリンの圧政の中における苦しみ、やりきれなさ、怒りだったり、鬱屈した感情が爆発するような音楽ですし。
だから訴えかけるところの主となるのはやっぱり「風景」ではないな、というのもありますし。
あとは「風景が見える音楽」において表現される風景、というのは一般的にどちらかというとポジティブなフィーリングが伴うこともあると思います。
解放的な風景だったり、ノスタルジーを伴う風景だったり、美しい風景だったり。
でもショスタコーヴィチは住んでるところ、表現するものがああなので音楽に現れる風景もかなりネガティブなトーンがつきまといます。
先ほど言及しました寂しさ、冷たさだったり、ロシアの厳しい自然だったり急速に近代化しようとした共産主義の国の風景にみる無機質さだったり、容赦なさ、貧困、独裁政治における窮屈さ、静かな恐怖だったり・・・
そして見えるのがソヴィエトの風景でない場合も(交響曲第5番第3楽章、第9番第2楽章、ビオラソナタ第2楽章、バイオリン協奏曲第1番第2,3楽章など)ショスタコの音楽はとてつもない絶望や孤独を感じさせる風景を見せることが多いように思われます。
だから機能的に言えば「風景が見える音楽」、というのとはなかなか結びつきがたいところがあるのかな、と思います。
ショスタコーヴィチは彼が生きた時代と土地と状況、そしてその中における彼の強い思いを強烈に、リアルに表現した音楽で。必ずしもすべてがソヴィエト政府だったりスターリンだったりのしたことを告発するものではなかったのかもしれませんが、彼がそうやって表現することに精一杯心血を注いだ結果、彼がいた時や場所の風景や温度、雰囲気などもまたリアルに伝わる結果になったのかな、と思います。
このブログで何度も書いてますが、そんなショスタコーヴィチの音楽は情報が閉鎖されていたあの国のあの時代を語る大事な歴史的記録だと私は強く思っています。(もちろん一人の作曲家が書いた、個人の思いが強い音楽なのである程度のバイアスはもちろんありますが)
ショスタコーヴィチの時代とは色々変わったことたくさんありますが、いずれロシアという国を自分の目で見たいと思っています。
そして改めてショスタコーヴィチの音楽を「他のどこでも味わうことのできない風景が見える音楽」としておすすめしたいです。ぜひぜひ聴いてみてくださいな。
今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」 第1楽章「宮殿前広場」
最近小編成の曲が続いたので今日こそはオケ曲を!と選びましたがあんまりどっかんどっかんはしないですよー(笑)
私にとってとても思い入れの深いこのショスタコ11番。なかなか第1楽章だけで聴くことはないですし、話すにもきっかけがないとこの楽章はしまいっぱなしになるかな、と思ったので今日のトピックを機に紹介してみます。
この交響曲はショスタコが生まれる1年前、1905年にロシアで起こった「血の日曜日」事件を題材としています。単純化した見方だとこの事件はロマノフ王朝の本格的な没落のきっかけであると同時に1917年のロシア革命に向けた最初の大きな動き、ともいえる事件です(ちと大げさかしら)。
貧困に悩んでいた国民たちが集まり、ツァーリであるニコライ2世に向けてなんとかしてくれ、と嘆願のために宮殿に出向いた(デモ、というほどではないんですよね確か。)のに対して軍隊が発砲し千人単位で人が亡くなった、という経緯です。詳しくはwikipediaをご覧ください。
実際の虐殺は第2楽章で起こります。第1楽章はその前の前奏曲といったところでしょうか。
この交響曲を通してたくさん使われる革命歌だったり物語を進める上でのテーマだったりがこの楽章で初めて紹介されます。
「宮殿前広場」は1月のロシア(旧暦でも1月のはず)。
まだ人々が集まり始める前の静けさ。がらんと広がっていて、雪が積もっていて。空は雲に覆われていて。
空気は冷たく、どこか張り詰めている。
この時点でもう何年も民は苦しんできているんです。格差だったり、貧困だったり、それが溜まりに溜まった状態。それが空気に濃く現れているのだけどでもまだ誰も動いていない。まだ「小さな父」であるツァーリへの不満を表したり、怒りが爆発したりはしない。あくまでも請願に向かうだけ、そう思っている。
そんな中でティンパニの音色が近い未来の不吉な予感を奏でるんですが、このティンパニ、交響曲を通じてソリストに値するほど大活躍なんですよ。ぜひ常に聞き耳たててくださいね。不吉な弱音から爆発するffまでめちゃくちゃかっこいい!
そういえば第1楽章はわりと個々の楽器に耳が向けやすいかも。
あと第2楽章の最後、虐殺の後の風景でこの第1楽章の一部がまた現れるのですが、そのときに弦がみんなトリルしてて、チェレスタが入るというのもまた絶妙。トリルはもちろん恐怖の緊張の震え、ということで。ベタそうな表現だけどものすごく効果的。
(交響曲全部がちょっと長いな、と思ったら1+2楽章(虐殺の経緯)、3+4楽章(弔いと警告)と分けてもいいですね)
この第1楽章を聴いて風景もそうですし、雰囲気もそうですが、何よりも「温度」を味わってほしいと思います。それは本当に(行ったことないですけど)ロシアの冬そのもので。
この曲に、そしてショスタコの音楽に限ったことではないですが、必ずしもポジティブじゃない感覚、風景、感情を本当に素晴らしく、かつリアルに体感できる音楽は貴重で、本当にすごいと思います。
だからこれからもショスタコーヴィチの音楽を一生かけて愛していきたい、と私は心に深く刻みます。
(私が14の時から愛聴している録音はアシュケナージ指揮でサンクトペテルブルグ管弦楽団のなんですが、今チェックしたら手持ちがどっかいってしまった上に(あれ~?)amazon.co.jpでも見つからなかったので持ってるもう一つの録音をリンクします。ちょっと全体的にテンポが遅いようにも感じるのですが、一般的に遅い録音から速い録音になれるのよりも反対のほうが遙かに難しい気がします。どのみちこの曲に関しては少なくとももう一つはいい録音を持っておきたいのでまた次回紹介するときには探しときたいですね。)
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