忍者ブログ
~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

メシアン、音楽、心、etc.
前回のエントリーに拍手ありがとうございます~

メルボルンは冬真っ盛り、つまりコンサートのシーズンも真っ盛り。
ここ数年、大学に入って現代音楽にはまり始めたときと比べるとメルボルンでも心なしか20世紀以降の音楽が演奏される機会が増えたような印象があります。前はメル響のMetropolisシリーズで聴くだけだったあたりの音楽も、 Melbourne Recital Centreで室内楽規模の小さめのコンサートが増えてからぐんと聴くのが増えたような。
クラムの演奏もここで紹介したように何回かコンサートでやってますし、メシアンあたりなんかすでにスタンダードレパートリー扱いなんじゃないですか?メシアンイヤーとそう変わらない頻度っぽいですよ。
(今度メルボルンの主要コンサート場所の一ヶ月のプログラムを分析してみたいですね、Hamer Hallも再開しますし)

来月の後半にはMelbourne Recital CentreでAustralian Chamber Orchestraがメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」(とシューベルトの「ます」五重奏曲)を演奏するそうで、それに先駆けてMelbourne Reviewでメシアンのオーストラリアとのコネクション(1988年の来豪と「彼方の閃光」)と、それからこの四重奏曲の作曲の経緯についての記事が出ていました。英語ですが本文はこちら
今日昼Twitterの方でも紹介したのですが、この記事の最後のエピソードがとにかく凄かったので今回紹介しようと思います。

以前もこのブログで説明したと思いますが、この「時の終わりのための四重奏曲」は1941年、第2次世界大戦のまっただ中にメシアンが強制収容所に捕らえられている間に書かれたものです。
さっきの記事によると元はその場に楽器があって奏者が居たバイオリン・チェロ・クラリネットのトリオとして書かれるはずだったそうですが、看守の方の好意でピアノを収容所に運び入れてくれたらしく。
真冬の強制収容所という寒く厳しい環境の中で、収容所に囚われていた500人を聴衆にこの曲の初演は行われました。
(それにちなんで去年メル響のSecret Symphonyではメルボルン監獄でこの曲が演奏されたそうです)

肝心のエピソードは時変わって1970年代のワルシャワでの出来事。とあるピアニストがこの「時の終わりのための四重奏曲」の演奏に向けて練習していたところ、老人が「この曲は聴いたことがある、何という曲なんだ」と尋ねてきたそうです。なんとこの方、前述1941年の強制収容所での初演でこの曲を聴いた方だと判明。
初演では楽器もリハーサルも演奏環境も満足ではなく、初めての演奏を一回聴いたっきりにも関わらず30年もの間この曲がその方の記憶に残っていた、というのがまず凄いです。

そしてもうひとつ凄いと思ったこと。
音楽というのは良くも悪くも人の心を揺さぶるもので、記憶に強く結びつくことが経験や研究などで分かっています。
だから例えば先ほどの方もメシアンの曲の記憶が戦争や強制収容所での体験の記憶と結びついて苦しみに繋がった可能性も十分あり得るわけです。でも先ほどの記事から読める限りそういうことはなかった。

メシアンの四重奏曲が強制収容所で作曲された同じ頃、同じヨーロッパでもユダヤ人が送還された強制収容所ではワーグナーの音楽が鳴らされていたそうです。(ガス室に向かう間、とも聞いています)
ワーグナー自身反ユダヤ思想を持っていただけでなく(ヒトラーがそれに影響された、という形だったかな)、ワーグナーとヒトラーも親交があったみたいですし、ナチスがゲルマン民族の優越性に関するイメージ戦略としてワーグナーの音楽を多用していて。
今でもイスラエルでワーグナーの音楽がほとんどといって演奏されなく、ここ周りでまだまだ大きな確執が残っています。周りの若い音楽家でもワーグナーがそういう理由で不人気だったりするんですよね。

私は音楽が絶対的な善だという考えははっきりいって幻想だと思っています。先ほども書きましたが音楽は良くも悪くも人の心の繊細なところを内側からゆさぶることができるもので、だから書き手・弾き手・使い手・聴き手によっては人に癒やし(という言葉を使うのが好きではないですが)を与えることもできますし、同じくらい容易に、そして深く人を傷つけることもできる。
ファンタジー作品の「魔法」にそこらへん近いと思います。魔法使いが魔法を使う際にものすごく気をつけなくちゃいけないのと同じことが音楽を扱う人にもまた言えることで。

それを考えると30年越しにメシアンの四重奏に再会した方が辛い記憶に苦しむことなく曲の印象を覚えていたのはなんか、良かったなあ、と思うんです。
メシアンはあの強制収容所に音楽を持って光と色彩をもたらしたのだろうか、もしそうなら音楽家の真髄というか最高の目的というか、そういうものにあの時点でたどり着いていたんではないか、と思います。
そもそもメシアンは自分が音楽で何がしたいか、ということについてこういう言葉を残しています:
「私の目的は都市に住み鳥の歌を知らない人に鳥の歌を届け、軍隊のマーチやジャズしか知らない人にリズムを作り、色彩が見えない人に色を塗って見せることである。」
(ぎこちない訳すいません)

やっぱり音楽は使う人の心と意図に大きく影響されるんだな、と実感させられます。
メシアンにもう何度目か知りませんが惚れ直しました(笑)


今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「時の終わりのための四重奏曲」 第5楽章 「イエスの永遠性への賛歌」



この曲もステンドグラス以来ちょっとケチって出し渋ってるのでこれを機に久しぶりに一つ紹介。
先ほど書いた事情でピアノ、バイオリン、チェロ、クラリネットという変わった編成のカルテットですが、クラリネットだけの楽章もあり、ピアノ抜きの楽章もあり、バイオリンとピアノ、それからチェロとピアノの楽章もあります。なので単一楽章でソロレパートリーとして演奏する場合もあるんです。

この第5楽章もそんな一つ。タイトルと曲調が第8楽章と似てて紛らわしいですがこちらはチェロとピアノのための楽章。
チェロといえばやっぱりロマン派辺りのレパートリーがメジャーですが、そのくくりに劣らずまた別の美しさがある一曲です。20世紀から強力なスターですよ(違)

なんといってもこのメシアンのお得意な無限にゆっくりに弾く永遠の天国的なメロディー。
チェロの一番歌う中高音域で、胸が締め付けられるような優しい光と色の世界へ。
(でも本当は弾いてる人めっちゃ大変なんですよ!これだけフレーズが長いと弓のコントロールが難しい!途中で弓がなくならないように、かつ音が途切れたり震えたりしないように。それにはピアニストが伴奏を遅く弾きすぎないことがとっても大事だったりします)

スローで長い曲ってどんなに美しくても全員退屈させないのは難しいので「退屈しません」とは言いませんが(少なくともうちの先生は最後まで聞いてくれないタイプの曲です)、永遠に続いていくようながら終わるときが本当に勿体ない、終わって欲しくない、本当に永遠に続いて欲しいと思わせるのがメシアンのスローな曲の素晴らしいところだと私は思います。だからメシアンはやめられない。
ずっとずっとこの安全で優しさと光に満ちた世界に居たい、そう思う曲です。

今回ちょっと面白い録音を見つけたので試聴無し・新品が高いながらもちょっとリンク貼ってみました。
なんとカップリング曲がショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番。
なぜこれが面白いかというと、このショスタコのトリオの第4楽章にのユダヤ風の旋律に関して「ユダヤ人が強制収容所で自分の墓を掘らされ、その前で踊らされていた」という話が伝えられているため。
なかなかこの2曲(というかこの2人の作曲家)を一緒のCDに組み入れる事はないので珍しかったのと、ちょっと今日の話に通じるものを見つけてリンクしました。
(ちなみに私のおすすめはバレンボイムがピアノを弾いている録音です)

拍手[1回]

PR
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Comment:
Pass:
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック