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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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シュミットホフに捧ぐ・・・
今日は少しメンタルヘルスを交えて音楽のことを話したいと思います。
特に今日触れるエリア、自殺についてはいろいろ思うこともありながらものすごく繊細なエリアでもあり、まだまだ未熟な私は勉強することもたくさんあり、表現の仕方も考えなくちゃいけないので・・・
なのでとりあえずワンクッション、というほどでもありませんが自殺が悪いとか間違っているとかそうでないとかそういうのを一度取っ払ってもらってそれに関連した音楽の話を、というのが今日の試みです。

ロシア、いえソヴィエトの有名な音楽家、セルゲイ・プロコフィエフ。
若いころはモダニズムの新生児としてぶいぶいいわせてたらしいです(笑)
そんな中彼を襲った悲劇が・・・親友の死。
その親友の名はMaximilian Schmidthof。(発音がわからないので英語発音カタカナで表記させてもらいます)
1913年4月、彼はこんな手紙をプロコフィエフに遺してピストルで自身を撃ち殺しました。
「セリョージャ(「セルゲイ」の愛称形)へ 僕は最新のニュースを伝えるためにこの手紙を書いている・・・僕は自分を撃ち殺した。そんなに取り乱すことなく、むしろ無関心で受け止めてくれ。実際それ以上の価値はないんだから。さよなら。マックス 理由は重要ではない。」
まあ私の訳の下手なこと・・・ではなくてシュミットホフがどういう人物で、プロコフィエフとどういった関係で、どういった経緯で自殺にいたったのかはわかりません。
ただ自殺した理由は彼の言うように重要ではないとは思えませんがね。重要じゃない理由で生という本能を乗り越えることは不可能に近いような気がします。
一見そっけない遺書の中にはプロコフィエフを彼なりに気遣う様子が見られるような。「理由は重要ではない」とあとで足したところもきっとプロコフィエフのことを思ってなのかも?
遺書についてはいろいろまだ勉強しなくちゃいけないことばかりなので詳しいことはえらそうにいえませんが。

プロコフィエフがどう彼の死を受け止めたかは伝えられていませんが、彼はシュミットホフのために4つの曲を捧げています。
それまでに書き終えてあったピアノソナタ第2番と第4番(第4番はまだ聴いたことがありません!聴きたいです!)、書いている途中であっただろうピアノ協奏曲第2番、そして作品番号12「10の小品」から「アルマンド」の4曲です。
このうち第2番と第4番はすでに書きあがってたので別として、協奏曲とアルマンドに軽く焦点を当ててみたいと思います。

プロコフィエフがシュミットホフの死をどう受け止めたか、というのは個人的にものすごく気になるところで。ただ文ではヒントは残されていないためそれなら音楽で探ろうじゃないかと大学在学中に思ったわけで・・・

まずはすでに知っていた協奏曲のほう。
何回か自分は「死臭のする音楽」が好きだ、そういうものに惹かれるといいましたがこれも死に関わっていると知らずに好きになった曲の一つ。
この協奏曲は一度火事で原稿が燃えて、後に書き直されたというのできっとプロコフィエフも思い入れが深いんでしょう。(でもだから最初に書いた当時の気持ちが表現されている、というわけではないんですよね)
数あるピアノ協奏曲の中で際立って難しく、暗く、重く、痛々しい曲。ほかのいろいろな協奏曲となにか別世界にあるような・・・技巧の難しさもそれを見せびらかすというよりは表現したいものを表現するのに必要(そしてまだまだ足りない)、みたいな・・・ピアノ協奏曲だけれど焦点はピアノでもオーケストラでもなくどこか得体の知れない別のところみたいな気もします。

第一楽章の長い長いカデンツァはまるで死ぬほどの苦しみにのたうちまわるモノローグのよう。そして第三楽章は本当に生身の人間にこんなものが書けるのか、という何かをひどく逸したような作風。
苦しみの表現がストレートで、本当にプロコフィエフはすごい表現力だなあ・・・と思いながらこれは「何の苦しみ」なのか、といつも思いをめぐらせます。
若くして親友を自殺によりなくした苦しみか、それとも自殺した友人の身になって表現した苦しみか・・・後者はやっぱり当事者としてはそんな余裕もないし実際難しそうですが、でもこの曲を聴いて直感的に「死の淵」みたいなものを感じるので(個人的な直感的な感覚ですが)・・・

この演奏時間50分ほどもする協奏曲のどこを書いているときにその事件が起こったかというのはもちろんわかりません。
そしてアルマンドについても1913年作曲となっているのでシュミットホフの自殺を受けて書いたか、というのはもちろんわかるはずもなく(ただ「10の小品」は一曲一曲が彼の友人に捧げられているので自殺がなくとももともとシュミットホフに一曲捧げられるはずだったとは思います)

ただ協奏曲の第3楽章とアルマンドはどうも似通っていて。
深読みしすぎかもしれませんが第3楽章の「間奏曲」というフォーマットも引っかかっていて。
そっちは難しいんでとりあえずアルマンドを弾いてみようと大学在学中に初めて、最近またはじめましたが・・・
アルマンドもちなみに古の舞曲とは似てもつかず、というところもまた引っかかり。
重い歩みのリズムと暗い曲風、似たようなパッセージもいくつかありますし、クライマックスあたりもどことなーく似てるような。

弾いてるとアルマンドはシュミットホフの死後に書かれたような気がひしひしします。第1楽章のカデンツァの苦しみとはちょっと違うような、どこか変なところが麻痺してるような・・・
そうなると第3楽章も?ということなんですが。
うーん。
ただショスタコーヴィチの場合特にそうですけど小編成のintimateな曲ほど個人的な感情が表現される傾向があったりなのでアルマンドは大きなヒントになるかも?

今アルマンドを弾いていて本当にどう弾くべきか迷ってるんです。
重い歩みにはどこか機械的なところがあって・・・こめられている苦しみという感情と理論的に構成された機械的な性格の間で今のところ煮え切らない中途半端な感じで。
やっぱり自殺により友を亡くした苦しみと、彼が遺した「無関心で受け止め」るようにその苦しみを心のそこに無理やり押しやって心を機械にするはざまの迷い・・・みたいなところがあるんでしょうか。
そのバランスをセクションによって変えたりしていって感情の盛り上げを作ったりするのでしょうか。

アルマンドは決して技巧的にも音楽的にも難しい曲ではないけれど、私にとっては自殺する人と遺された人の思いになにかヒントを与えてくれるような曲でもありますし。いくら問いかけてもはっきりした答えはくれないけれど、苦しみの感情がものすごく訴えかけてきて。なにかそういう知恵の輪のような感じがして。
協奏曲に手が届くかはわかりませんが、私が「シュミットホフ曲集」と勝手に呼んでるこの曲たちには音楽としても、メンタルヘルス関係としてもずっと取り組んでいけたらな、と思います。


今日の一曲: セルゲイ・プロコフィエフ 10の小品 op.12より「アルマンド」



Naxosはあんまり好きではないんですが、この曲はこのCDが一番でした。
まあそれはあくまで「自分がしっくりくる解釈の演奏」なので玄人さんは好みが分かれてもおかしくはないですが。

プロコフィエフは結構破天荒なことをしたり、カオスだったり、激情を表現したりしますがそれでもベースはかなりロジカル。
全部全部計算済み、でもそれをあんまり感じさせないところがすごいです。
(ただ練習していると実際音を理論的に捕らえますけどね)

そんな理路整然としたところがアルマンドにもあり。
苦しみは存分に表現されているのに、さきほども言ったように機械的で。
そんな二面性が強烈な印象を与えます。

その二面性を私も操れるようになりたいですわー。

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